『21世紀の科学的社会主義を考える』より

 

 

第三講 日本における科学的社会主義の誕生

 

一、日本における社会主義思想の誕生

自由民権から社会主義へ

 第二講で、ヨーロッパにおける社会主義思想とその運動は、挫折したフランス革命の「第二幕」として、「自由・平等・友愛」の真の実現をめざすものとして登場してきたことをお話ししました。
 不思議なことにというべきか、当然にもというべきか、日本における社会主義の思想と運動も全く同じ経過をたどっています。以下にそれを検討していきましょう。
 日本におけるフランス革命の影響は、自由民権運動としてあらわれました。自由民権運動は、一八七四年(明治七年)板垣退助、副島種臣、後藤象二郎らの民選議院(国会)の開設を求める運動に始まり、約十年余、憲法制定と自由・民主主義の実現をめざした政治運動として全国的に展開されました。その運動を当初支えたのは、士族、豪農、豪商などのブルジョアジーでしたが、次第に中貧農の運動へと広がっていきます。ブルジョアジーは国会開設、帝国憲法が制定されると、フランス革命の場合と同様革命を裏切り、経済上も政治上も完全な自由・平等を要求する中貧農の自由民権運動を懐柔し、あるいは弾圧する側に回ります。
 こうして自由民権運動の担い手は中貧農に移っていきますが、そのときの理論的指導者が「東洋のルソー」とよばれた中江兆民(一八四七~一九〇一)でした。彼はパリ・コミューン崩壊一年後の一八七二年フランスに留学し、ルソーの影響を強く受けます。帰国後の一八八二年、ルソーの『社会契約論』第一篇を訳した『民約訳解』(通称『民訳論』)を出版し、当時のベスト・セラーになります。堺利彦は「自由民権論の盛んな時代には、皆が民訳論を一冊ずつ、はだ身を離さなかったものだ」(堺利彦全集⑥二二七ページ)と述懐しています。フランス革命における『社会契約論』と全く同じ役割を、『民訳論』は自由民権運動において果たしたのです。
 中江兆民の一番弟子が「明治社会主義の一等星」といわれる幸徳秋水(一八七一~一九一一)です。幸徳の『廿世紀之怪物帝国主義』は、レーニンの『帝国主義論』に先立つこと十五年、一九〇一年に出版され、帝国主義告発の先鞭をつけるものとなりました。一九〇三年の『社会主義神髄』はベスト・セラーとなり、幸徳は社会主義の第一人者に躍り出ることになります。こうして明治社会主義は大きく開花しようとしていました。そのとき当時の天皇制警察国家は、社会主義者を文字どおり抹殺するために「大逆事件」をでっち上げ、司法反動による国家的権力犯罪を犯したのです。その結果、幸徳以下十二名が死刑、十二名が無期懲役となり、社会主義の運動は一挙に「冬の時代」に突入します。今年(二〇一〇年)はその百年目にあたります。石川啄木の妹・三浦光子は、この事件を契機に石川啄木の「人生は大回転した。即ち、それまで社会主義的思想の持ち主に過ぎなかった者が、急激に革命家と変ったのである」(坂本武人『幸徳秋水』三ページ、清水新書)と述べています。
 では、なぜ自由民権の幸徳は社会主義者になったのでしょうか。幸徳と親交のあった堺は、次のように記しています。「日本におけるルソウの思想的継承者は兆民先生である。兆民先生の思想的継承者は幸徳秋水である。……しかし、秋水は兆民先生の思想をそのまま継承した者ではなかった。彼は先生の思想を発展させて、社会主義にまで到達させたのであった。しかしその発展は自然の道程であった。したがってなおそれを継承と目することができる」(堺前掲書二二九ページ)。
 幸徳の自由民権から社会主義への発展が、なぜ「自然の道程」といえるのでしょうか。堺は『空想から科学へ』のエンゲルスの文章――近代社会主義は「一八世紀のフランスの偉大な啓蒙思想家たちが立てた諸原則を受けついでさらに押しすすめ、見たところいっそう首尾一貫させたものとして現われる」(全集⑲一八六ページ)――を引用し、「ルソウ等の自由民権主義と社会主義との関係がこれで明白に分る」(堺前掲書二二九ページ)と述べています。日本の明治社会主義もヨーロッパと同様、真の自由、真の平等、真の民主主義を求めて誕生したのです。

「平民社」による社会主義運動の開始

 「日本社会主義運動の歴史は、自由党左翼の活動を前期となし、明治三四年の社会民主党前後を第一期、三六年の平民社から四三年の大逆事件までを第二期となすべきであるが、『厳密には』(荒畑寒村君の言葉を借りれば)『日本の社会主義運動は平民社に始まると言うもあえて過言ではない』」(同一八一ページ)。
 平民社は、一九〇三年一一月、幸徳、堺によって設立され、日本最初の週刊社会主義新聞「平民新聞」を発行し、社会主義者の全国的結集に大きな役割を果たしました。
 幸徳が自由民権を経て社会主義者となったことは既にみてきたところですが、堺もまた同様でした。彼は「予はいかにして社会主義者となりしか」(同一九一ページ)と題して「フランス革命の結果がその真の目的にそわなんだ次第と、したがって社会主義の起こりきたった理由とが、初めてよくのみ込めた。(だから)予の社会主義は、その根底においてヤハリ自由民権説」(同一九二ページ)だと述べています。
 自由民権から社会主義者となった幸徳、堺による「平民新聞」第一号は、「自由、平等、博愛は人生世にるの三大要義」(同一八三ページ)とフランス革命のスローガンをそのまま引用し、「吾人は人類をして平等の福利をけしめんが為めに社会主義を主張す」(同)と宣言して自由民権の継承・発展としての社会主義を明確に打ち出したのです。
 「平民新聞」第一号は、最初五千部印刷し、さらに三千部増刷するなど大きな成功をおさめ、ここに「純然たる社会主義の機関紙が、初めて社会一般の目に触れた」(同一八九ページ)のでした。
 翌年日露戦争が始まると、平民新聞は「今日の国際戦争が交戦国資本家階級の利害衝突の結果にすぎずして、勝敗にかかわらず労働者階級の犠牲に帰するにすぎざる」(同一九五ページ)として猛然と反対すると同時に、ロシア社会民主党に共同闘争をよびかけました。その結果オランダ・アムステルダムで、プレハーノフと片山潜とが握手するという有名なエピソードも生まれたのです。
 また平民社一周年を記念して幸徳、堺訳の『共産党宣言』が初の日本訳として出版されますが、平民社は天皇制政府の弾圧により二年間で解散を余儀なくされます。

 

二、自由民権運動の継承・発展としての日本共産党の創立

日本共産党の創立

 一九一〇年の大逆事件を機に、天皇制政府は社会主義の思想と運動を弾圧するため、特別高等警察(特高)を設置し、社会主義は「冬の時代」を迎えます。
 再び社会主義の気運が高まるのは、一九一七年のロシア革命を契機とするものでした。ロシア革命はブルジョア民主主義の枠を大きく打ち破る自由と民主主義の発展した姿を示し、本来の社会主義の優位性を誰の目にも明らかにしました。革命直後に「平和についての布告」を発表して、無併合・無賠償の即時講和というこれまでの帝国主義戦争の常識をくつがえす講和を提唱するとともに、すべての土地の国有化、世界初の八時間労働制、世界初の社会保障制度などで世界中の支配階級を震撼させました。ロシア革命の影響は瞬時にして世界に広がり、一九一八年のドイツ革命の成果としてワイマール憲法が制定されます。ワイマール憲法はソ連憲法に対抗するために、自由と民主主義の徹底、社会権の保障という内容を含む画期的意義をもつものであり、その後の国際人権規約の土台となりました。またロシア革命の影響のもとに労働者の生活と権利保障の国際機関として、政・労・使の三者構成によるILOが創立されることになりました。
 レーニンの指導のもとに一九一九年コミンテルン(第三インターナショナル、共産主義インターナショナル)が創設され、各国共産党はその支部として組織されることになります。コミンテルン第二回大会(一九二〇年)は、二一カ条の加入条件を定めますが、その一つが「プロレタリアート執権」の承認というものでした。
 マルクス、エンゲルスは、資本主義から社会主義への移行期には労働者階級の政治権力が必要であると考え、それを「プロレタリアート執権」とよびました。しかしレーニンはそれを一面的に解釈し、ロシア革命を生みだしたソビエト(評議会の意。工場のストライキ委員会が発展した、工場、兵営、農村単位の大衆的政治組織)こそプロレタリアート執権の唯一の形態ととらえました。そしてプロレタリアート執権を普通選挙制度やブルジョア議会制度の対極にあるものと位置づけ、「ブルジョア民主主義か、それともプロレタリアート執権か」の二者択一をよびかけることになります(第一三講参照)。
 コミンテルン第二回大会のあと、コミンテルンから日本の社会主義者への働きかけがあり、一九二二年七月一五日日本共産党が創立され、堺利彦が初代委員長となります。

「綱領草案」の審議

 一九二三年臨時党大会で「綱領草案」(二二年テーゼ)が審議されます。そこには「当面の要求」として君主制の廃止をはじめ、十八歳以上の男女の普通選挙権、団結の自由、出版・集会の自由などの民主主義的な要求が含まれていました。特に君主制の廃止は、これまでの明治社会主義運動の枠を越える画期的要求となるものでした。
 しかし一方で草案は、コミンテルンの影響を色濃く反映していました。すなわち、「プロレタリアートの執権のためにたたかうことをその目標とする日本共産党は、……ブルジョア民主主義の敵であるにもかかわらず、過渡的スローガンとして、天皇の政府の転覆と君主制の廃止というスローガンを採用し、また普通選挙権の実施を要求してたたかわなければならない。……したがって、民主主義的スローガンは、日本共産党にとっては、天皇の政府とたたかうための一時的な手段にすぎないのであって、この闘争の過程で当面直接の任務――現存の政治体制の廃止――が達成されるやいなや、無条件に放棄されるべきものである」(「日本共産党綱領問題文献集」二九~三〇ページ)というものでした。
 ここにはコミンテルンの「ブルジョア民主主義か、それともプロレタリアート執権か」の二者択一の方針が屈折してあらわれているのをみることができます。すなわち天皇制勢力の弾圧とたたかわざるをえない日本人民の要求を反映して君主制の廃止などの民主主義的要求をかかげながらも、それはプロレタリアート執権に矛盾するものとして、たんなる「一時的な手段」にすぎず、将来は「無条件に放棄されるべきもの」にされてしまっているのです。「二二年テーゼ」のもつプロレタリアート執権とブルジョア民主主義の併存というコミンテルン的矛盾は、後に三一年「政治テーゼ」で顕在化することになります。
 臨時党大会では「当面の要求」のみ確認し、「綱領草案」は継続審議になりました。しかし大逆事件を考慮し、弾圧を避けるために「君主制の廃止」の要求は公表されませんでした。

「二七年テーゼ」

 一九二三年六月、治安警察法を使って日本共産党への第一次弾圧、同年九月関東大震災の混乱に乗じた弾圧が加えられます。この弾圧を受け、党指導部にいた赤松克麿、山川均らは党の結成は誤りだったとし、二四年二月党大会も開かず一方的に解党してしまいます。
 二五年国民の強い要求と運動を反映してようやく普通選挙法が実施されますが、無産階級の議会進出を恐れた天皇制権力は、普選法と抱き合わせで治安維持法を制定します。二八年さらに天皇の緊急勅令で治安維持法は改悪され、天皇制廃止(「国体の変革」)を目的とするものは死刑または無期懲役とされます。これに対して社会主義(「私有財産制度の否認」)を目的とするものは十年以上の懲役または禁固と、より軽い刑にされました。これは日本共産党と社会主義運動一般とを区別したうえで文字どおり日本共産党をねらい打ちにするものであり、治安維持法は戦前の党弾圧に猛威をふるうことになります。
 片山潜やコミンテルンの解党反対もあって、渡辺政之輔を中心に再建準備がすすみ二五年一月党再建の方針を決定しますが、山川、堺はこれに反対します。特高の目を盗んだ周到な準備を経て、二六年一二月第三回党大会が山形県五色温泉で開かれ、党は再建されます。このとき会場のセッティングに尽力されたのが井上ひさしさんのご両親でした。
 二七年五月、渡辺らとコミンテルンとの間の協議により作成された「二七年テーゼ」が正式採択の最初の綱領的文書となりました。そこではじめて「君主制の廃止」が公然とかかげられ、天皇制と封建的地主制を打倒する民主主義革命から社会主義革命への二段階革命を展望することにより、社会主義を自由と民主主義の全面開花の社会としてとらえる基本的に正しいものとなりました。
 しかしこの「二七年テーゼ」はコミンテルンの社会民主主義批判の影響で「社会民主主義にたいする闘争」(同五〇ページ)を強調したり、「日本のプロレタリアートも農民も、なんら革命的伝統や闘争の経験を有していない」(同四一ページ)として自由民権運動を適切に評価しないなどの問題ももっていました。

民主主義革命をめぐる「講座派」と「労農派」との論争

 党再建に反対した堺、山川、荒畑らは、二七年一二月雑誌『労農』を発刊して「労農派」を結成し、反党活動をはじめます。彼らは、絶対主義的天皇制とのたたかいを避けてブルジョアジーとの闘争だけを問題とする「社会主義革命論」をかかげて「二七年テーゼ」の批判を展開します。
 これに対して「二七年テーゼ」と日本共産党を支持する「講座派」は、天皇制廃止、封建的土地制度の解体による民主主義革命から社会主義革命への発展・転化をとなえて、労農派と激しく論争しました。講座派とは、『日本資本主義発達史講座』全七冊の執筆者を中心とする理論集団を指しており、党の指導のもとに生まれた自主的・民主的な日本資本主義の分析や労働運動、民主運動の研究集団でした。
 中心になったのは、党の指導的幹部であり、三〇年に主著『日本資本主義発達史』を著して日本資本主義の自主的研究の出発点をつくり出した野呂栄太郎でした。『講座』は野呂をリーダーとして、それに平野義太郎、大塚金之助、山田盛太郎を加えた四人が編集委員となり、党の内外から数十名の学者、研究者を結集して執筆にあたりました。治安維持法弾圧の猛威のなか、『講座』は完全予約制で一万部印刷という快挙をなしとげ、日本の自主的な社会主義運動の理論的基礎をつくりました。
 とくに戦前の党綱領との関連で強調しておきたいことは、天皇制権力が自由民権運動の史実そのものを抹殺しようとしていたのに対し、『講座』はこの運動を発掘したのみならず、日本の社会主義運動が自由民権運動を継承・発展させたものであることを明らかにしたことでした。今では植木枝盛の「日本国国憲案」は自由民権を代表する著作として有名ですが、一九三二年当時はその作者すら不明とされていたのです。
 『講座』の一翼をになった平野義太郎の論文「ブルジョア民主主義運動史」は、単行本である『日本資本主義社会の機構』(岩波書店)に収録され、山田盛太郎の『日本資本主義分析』とともに講座派の二大ベスト・セラーとなりました。
 平野はそのなかで「自由民権運動の総決算で、極度の『未成品』として遺されたブルジョア民主主義革命を、労働者・農民のみが継承して発展せしめ、しかも、プロレタリアートのみが、農民・小市民など一切の諸層に影響し、事実上もまた、当初から、当時の『社会主義』運動のみがその先頭となって進ん」(前掲書一九八ページ)できたことを明らかにし、自由民権から社会主義への継承・発展、ひいては社会主義と自由・平等・民主主義との関係を明確にしたのです。
 また平野は、兆民と協力して自由民権運動を勤労大衆のものにした大井憲太郎を発掘して世に出しました。彼は「大井は自由民権から人民の民主主義あるいは社会主義への橋わたし、ないしは、それへの志向を示した人であり、さらにこれを引き継ぎ発展させていくのが片山潜である」(『自由民権運動とその発展』一一ページ、新日本出版)と規定しています。

三一年「政治テーゼ草案」

 一九二八年の三・一五、二九年の四・一六と二度にわたる大弾圧で党幹部のほとんどが逮捕されてしまいます。
 その折も折、三一年四月「コミンテルンの承認した事実上の決定」(『日本共産党の七十年』上八九ページ)として「政治テーゼ草案」が発表されます。それは「二七年テーゼ」の二段階革命論を事実上否定して、当面の革命を「プロレタリア革命」に一本化するというものであり、天皇制廃止や封建的土地所有を一掃するブルジョア民主主義革命を回避しようとするものでした。いわばコミンテルンの「ブルジョア民主主義か、それともプロレタリアート執権か」の二者択一路線にもとづいて、二二年テーゼのもつブルジョア民主主義とプロレタリアート執権の二つの側面のうち前者を否定し、後者に一本化しようというものでした。
 この「テーゼ」は、これまで天皇制と封建的土地所有とをめぐって労農派と対決してきた講座派や党員の間に大きな混乱を持ち込むことになりました。講座派のリーダー・野呂は「私はこれには賛成できない。これはコミンテルンで正式に決定されたものだと思えない」(蔵原惟人「野呂榮太郎との数ヶ月」『文化評論』一九六四年三月号)としてこの「テーゼ」に反対しました。当時のコミンテルンは世界の革命運動に絶対的な権威と絶大な権力を握っていましたので、コミンテルンの「事実上の決定」に反対することは、民主主義革命に対するよほどの確信と信念がなければできなかったことでしょう。しかし野呂は、平野の業績に加え労農派との論争と日本資本主義の自主的探究により、当面する革命は天皇制と封建的土地所有を一掃する民主主義革命でなければならないことをすでに自らの確信としていたのです。当時獄中にあった党幹部の市川正一の反対もあって、結局日本共産党はこの「政治テーゼ」をはね返してしまいます。
 自らの頭で真理を探究するという自主独立の立場から、日本の資本主義と社会主義運動の分析のうえに社会主義を自由民権の継承・発展としてとらえ、さらに野蛮な天皇制権力の数度にわたる弾圧の経験もふまえて民主主義革命の立場を握ってはなさず、ついにコミンテルンの絶大な権威に屈することなく「政治テーゼ」を押し返した事実は、講座派の活動なくしてありえなかったのであり、極めて高く評価されてよいものと思われます。またそれは戦後の日本共産党の自主独立路線への先駆的役割を果たすものでもありました。
 おそらくこうした事実は、コミンテルンの歴史においても希有なものだったのではないでしょうか。コミンテルンも一九三二年一一月、この「政治テーゼ」の押しつけに関し、さすがに自己の誤りを認めざるをえなくなり、「日本共産党中央委員会ないしはまた党全体にその責任を問うことはできない」(『日本共産党の七十年』上九〇ページ)という消極的な自己批判をして「三二年テーゼ」へと向かうことになるのです。

「三二年テーゼ」

 こうしたこともあったためか、三一年から三二年にかけてコミンテルンでは、片山、野坂、山本の党代表を加えて日本問題の深い検討を行います。
 その結果生まれた「三二年テーゼ」では「三一年政治テーゼ」の誤りをただし、「二七年テーゼ」を発展させた画期的なテーゼとなりました。そこでは、日本の支配体制を絶対主義的天皇制、地主的土地所有、独占資本主義の三つの要素の結合と特徴づけると同時に、当面の革命の性格を天皇制の打倒を「第一の任務」(『日本共産党の八十年』四三ページ)とする民主主義革命とするものでした。それは日本人民のたたかいの経験に合致するものであると同時に、講座派の自主的・民主的な研究の成果とも一致するものでした。
 その意味で「三二年テーゼ」は、コミンテルンのレーニン流「執権論」を押し返し、日本人民の手で勝ちとった綱領といえるものでした。それはまさに日本社会の科学的・具体的分析という唯物論の立場にたち、外部からの干渉を許さない自主独立の立場をつらぬくことによって勝ちとられた成果でした。この民主主義革命をつうじて社会主義へという二段階革命論は、フランス革命の「第二幕」として、「自由・平等・友愛」を貫徹し、徹底させるところに社会主義があるとする社会主義の原点を生かすものでした。
 他方コミンテルンは、第七回大会(一九三五年)ではじめて「プロレタリアート執権」の社会主義革命一本槍の方針から部分的に転換し、反ファシズム統一戦線の結成を呼びかけます。
 それを準備する過程で「発展した資本主義諸国のプロレタリアートの階級闘争の基本的任務の問題」(ソ連共産党付属マルクス=レーニン主義研究所編『コミンテルンの歴史』下五九ページ、大月書店)が取りあげられます。そこで「ソ連共産党(ボ)代表マヌイリスキーは、プロレタリアートの執権のための直接の闘争というスローガンが、当面の時期に多くの資本主義諸国に成立している諸条件に適合していないという考え」(同五九~六〇ページ)を述べて、次のように続けています。
 「われわれは、もっと具体的な闘争綱領をもたなければならない。すなわち、プロレタリア執権ではなく、社会主義ではなく、大衆をプロレタリア執権と社会主義のための闘争へみちびいてゆくような闘争綱領をもたなければならない」(同六〇ページ)。
 こうして反ファシズムの一般民主主義的な闘争に向けての人民戦線戦術が打ち出されてくることになります。この人民戦線戦術から一九三六年フランスとスペインで反ファシズムの人民戦線政府が誕生しただけでなく、東欧を含むヨーロッパ全土で反ファシズムの統一戦線が結成されることになるのです。しかし第一四講で学ぶように、三九年スターリンは「独ソ不可侵条約」を結ぶと一転して反ファシズムから方向転換し、民主主義的変革の意義に対する理解の浅さを露呈することになります。

まとめ

 コミンテルンが「二二年テーゼ」で示した「君主制の廃止」を「一時的な手段」とするところから、「三二年テーゼ」でそれを「第一の任務」とするところまでの間には、天地の開きがあるといっても過言ではありません。
 それは、レーニン流「執権論」の立場からブルジョア民主主義を軽視ないし否定するコミンテルンに対し、日本の科学的社会主義の政党である日本共産党が、社会主義とは自由と民主主義の全面的開花の社会であるとする社会主義論を対置してたたかった成果だったのです。
 ヨーロッパと同様、日本においてもブルジョア民主主義を貫徹させようとする運動のなかから社会主義の思想と運動が生まれてきたのであって、日本共産党の社会主義論は社会主義を真の自由、真の平等、真の民主主義とする社会主義の原点を正しく総括し継承するものでした。この経験をつうじて、真理をつかみ取るためには、事実を全面的に把握し、その分析のうえにたっていかなる権威によることもなく自らの頭で社会発展の真理を探究しなければならないという、自主独立の立場が不可欠であることを学びとるに至るのです。それはまた弁証法的唯物論を具体的に適用して真理に接近する道でもあったのです。そしてこの教訓は、第二次大戦後の日本共産党の六一年綱領にも引き継がれていくことになります。
 これに対してソ連共産党は、戦前の一時期「プロレタリアート執権」=社会主義革命一本槍論を引っ込めたものの、根本的反省のないまま戦後を迎え、ヨーロッパ諸国の共産党に対し、発達した資本主義諸国における革命は社会主義革命のみという硬直した方針を押しつけました。そのためフランス、イタリアなどの共産党は混迷と困難の道を歩むことになり、ソ連の崩壊とともに実質的に瓦解することになりますが、それはあらためて第一九講でお話ししたいと思います。