『21世紀の科学的社会主義を考える』より

 

 

第十講 科学的社会主義の哲学 ③
     ──弁証法的唯物論の定式化

 

一、弁証法の基本法則

ヘーゲル『小論理学』に学ぶ

 本講では、第九講でお話しした唯物論的な弁証法の定式化に関する集団的な作業を前進させる契機となることを期待し、かねてより要望のあった「一時間で分かる弁証法」をめざして弁証法の定式化にかかわる私案を提起してみたいと思います。
 第八講、九講をつうじて弁証法の基本法則とは対立物の統一であることを学んできました。ではなぜ対立物の統一が真理認識の唯一の思惟形式あるいは思惟法則といえるのか、また対立物の統一とは何を意味し、どのような形式をもっており、またどのように展開されるのか、その内的連関をあきらかにすることが本講の課題となります。
 その場合の基本になるのが、ヘーゲル『小論理学』の「予備概念」における「論理学のより立入った概念」(『小論理学』㊤二四〇~二五六ページ)です。ここでヘーゲルは弁証法の基本法則を整理して述べており、マルクスも認めているように「弁証法の正しい諸法則はすでにヘーゲルにちゃんと出て」(全集㉜四五〇ページ)いるからです。
 「論理的なものは形式上三つの側面を持っている。 抽象的側面あるいは悟性的側面、 弁証法的側面あるいは否定的理性の側面、 思弁的側面あるいは肯定的理性の側面がそれである。これら三つの側面は、論理学の三つの部分をなすのではない。それらはあらゆる論理的存在の、すなわち、あらゆる概念あるいは真理のモメントである」(同二四〇ページ)とされています。
 ヘーゲルは「論理学」を世界の根本原理となる真理としてとらえていますので、ここにいう「論理的なもの」とは「真理認識の方法としての弁証法」と考えればいいでしょう。真理認識の方法としての弁証法の基本法則はこの三つの側面から構成されているのであり、それを一言で要約すると「対立物の統一」となるのです。ヘーゲルは『小論理学』の全体をつうじて弁証法を論じているのですが、その総まとめとしての弁証法の基本法則を「先廻り的」(同)に「予備概念」で紹介しているのです。
 ちなみに「論理学」の最後は「絶対的理念」でしめくくられています。「絶対的理念」とは絶対的真理のことであり、そこで取り扱われているのは、絶対的真理の「方法」としての弁証法です。しかし「絶対的真理」における弁証法は「予備概念」の弁証法と比べるとはるかに簡単であり、「これまでの論理学をつうじてもう弁証法の基本法則は理解してもらえたと思うけど、念のために一言すれば、端初(直接的なもの)、進展(対立が定立され、媒介されたもの)、終結(媒介を揚棄した直接的なもの)となる」という程度にとどめられています。
 「絶対的真理」において弁証法の三つの側面を論じていることは、『大論理学』も『小論理学』も同じですが、「論理学のより立入った概念」は『小論理学』にしかありません。ここにも『小論理学』を『大論理学』よりも、より発展したものとする根拠があります。
 悟性的側面、否定的理性の側面、肯定的理性の側面という弁証法の三つの側面を、ヘーゲルは即自(アン・ジッヒ、直接的な統一)、対自(フュア・ジッヒ、対立の定立)、即自かつ対自(アン・ウント・フュアジッヒ、対立を揚棄した統一)という言い方をしたり、肯定――否定――肯定と否定の統一といったりしています。一般的には正――反――合といわれることもあります。ヘーゲルは、この三つの側面が「あらゆる論理的存在」、つまりすべての事物の真理であると同時に「あらゆる概念」、つまりすべての認識の真理であり、しかも「正」「反」「合」の一つひとつが「真理のモメント」であるといっています。言いかえると「正」「反」「合」の一つひとつが真理の一片であると同時に、「正」から「反」へ、「反」から「合」へと前進することでより高い、より普遍的な真理に前進するととらえているのです。弁証法とは、この「正」「反」「合」をくり返すことによって無限に客観的真理に向かって前進する思惟法則をとらえたものとして、真理認識の唯一の思惟法則ということができるのです。
 以下において、弁証法の基本法則となる三つの側面がなぜ真理に向かって認識を前進させていく過程となるのか、その内的連関も含めて詳しく検討していくことにしましょう。
 
客観的弁証法と主観的弁証法の同一と区別

 その前に客観的弁証法と主観的弁証法との関係について一言しておきます。
 第八講で真理とは客観に一致する認識ないし主観であることを学びました。真理認識の唯一の形式である弁証法は大きく客観的弁証法と主観的弁証法に分けることができるとされており、エンゲルスは『自然の弁証法』で次のように述べています。
 「弁証法、いわゆる客観的弁証法は、自然全体を支配するものであり、またいわゆる主観的弁証法、弁証法的な思考は、自然のいたるところでその真価を現わしているところの、もろもろの対立における運動の反映にすぎない」(全集⑳五一九ページ)。
 この反映論の見地からするかぎり、客観的弁証法と主観的弁証法とは基本的に同一であり、両者を区別して論じる必要はないと言えそうです。つまり客観的事物はすべて対立物の統一として存在しているとしてとらえるのが客観的弁証法であり、それをそのまま認識のうえに反映した真理が主観的弁証法ですから、主観的弁証法は客観に一致する主観として真理を認識する唯一の思惟形式だということになります。
 しかし第八講でも論じたように、真理には事実の真理のみならず、当為の真理が存在します。それは「世界はどうあるべきか」に関する真理であり、変革の立場にたった真理です。人間の意識は客観的事物を反映するにとどまらず、それを変革する機能をもつのであり、この後者の部分こそ客観的弁証法から区別された主観的弁証法の独自の分野ということができるのです。
 この点に注目したのがヘーゲルであり、彼は「主観的論理学は概念の論理学」(武市健人訳『大論理学』㊤の一、五三ページ)であるととらえています。ヘーゲル「論理学」第三部「概念論」は、事物の真にあるべき姿(概念)を主観のうちにとらえ、実践を媒介して客観を真にあるべき姿に変革するという当為の真理を論じているのです。こういう客観世界の当為の真理が主観的弁証法の構成部分となることは間違いないところですが、第八講で学んだように当為の真理には人間に関する当為の真理、つまり生き方の当為の真理も含まれるのであり、これもまた主観的弁証法の構成部分になるということができます。ヘーゲルの「概念論」ではこの問題にふれていませんが、ソクラテスが「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、よく生きるということなのだ」(プラトン全集①一三三ページ)と述べているように、哲学の課題の一つが人間としてより善く生きることの探求にあることからすれば、生き方の当為の真理は主観的弁証法の重要な課題の一つということができます。
 さらにいえば、事実の真理を認識するにいたる思惟の諸手続きの弁証法も主観的弁証法の対象ということができます。ヘーゲルの「概念論」にはこういう思惟発展の諸手続きに関する弁証法も含まれており、判断と推理、分析と総合、帰納と演繹などの弁証法的カテゴリーが論じられています。
 事実の真理をとらえるうえで、これらの主観的弁証法の諸カテゴリーが求められることはそのとおりですが、本書では弁証法の基本法則とその展開の叙述を目的としていますので、これらの諸カテゴリーは論じないことに致します(詳細は拙著『ヘーゲル「小論理学」を読む』〔第二版〕参照)。
 こうしたことを前提としながら、まず客観的弁証法の三つの側面を検討してみることにしましょう。結論的にいうならば、客観的弁証法とは、自然、社会、人間を問わず客観的に存在する事物はすべて対立物の統一として存在しており、それを対立物の統一として認識することによって主・客一致の真理を認識する方法ということができるでしょう。

 

二、客観的弁証法

真理認識の第一歩は悟性的認識

 悟性的認識とは、「これは犬である」とか「これは犬ではない」というように、対象となる事物を他のものから区別して確固としてとらえ、「あれかこれか」のいずれかを真理としてとらえる形式論理学の立場であり、ヘーゲルのいう「抽象的側面あるいは悟性的側面」です。ヘーゲルが悟性的認識を「抽象的側面」とよんでいるのは、すべての具体的な存在は対立物の統一としてのみ存在しているのであって、対立する二つの側面の一方のみを取りあげるのは、具体的な存在を抽象化するものにほかならないからです。
 形式論理学にとっては、「ある物は存在するか存在しないかのどちらかである。同様に、物はそれ自体であると同時に他のものであることはできない。積極的なものと消極的なものとは、絶対的に排除しあう。原因と結果も、同様にたがいに不動の対立をなしている」(全集⑳二一ページ)のであり、いわば「あれか、これか」のいずれか一つが真理であり、他方は誤謬であるとするのです。
 ヘーゲルは、この形式論理学の立場を「一般に教養の本質的なモメント」(『小論理学』㊤二四三ページ)として次のように述べています。
 「教養ある人は漠然としたものや曖昧なものに満足せず、対象をその確固とした性格において把握するが、教養のないものはこれに反して不確かで動揺しているから、こういう人と話をする場合は、何が問題になっているかについて理解しあい、その人をして当の問題をしっかり注視させるのに非常に骨のおれることが多い」(同)。 国会論争や裁判闘争では、この形式論理学にもとづく真理が問題にされ、「賄賂をもらったのかどうか」「人を殺したのかどうか」、イエスかノーかはっきりしろとなるのです。
 悟性的認識は、真理認識の第一歩です。というのも、人間は対象となる事物の真の姿を認識しようとする場合、まず対象を特定することに始まるのであり、特定するとは、対象を他のものから区別することであり、他のものと一線を画す確固不動のものとしてとらえることを意味しているからです。言いかえると、確固不動のものとしてとらえるということは、対象を自立し、固定し、静止したものとして認識することを意味しています。この論理を形式論理学では同一律とよんでいます。AはつねにAであって、BやCではないという、A=Aの論理だからです。
 悟性的認識とはまず何よりも「同一性の認識」であり、同一性のうちに区別をみないのです。また区別をみるときも同一は同一、区別は区別として絶対的に切りはなし、同一と区別の相互媒介の関係をみようとしません。悟性的認識としての同一律は、初歩的なものではあっても真理を認識する一つの側面として肯定されなければならないのであり、したがって弁証法は形式論理学を排斥するのではなく、真理の認識が形式論理学にはじまることを肯定し、形式論理学を自己のうちに包摂しているのです。

真理認識の第二歩は悟性的認識の否定
  
 ヘーゲルは、真理認識の第二歩を「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」とよんでいます。というのも第二段階は悟性的認識の否定ですが、それは、すべてのものを弁証法の一契機としての対立しているものとしてとらえるという意味で「弁証法的側面」であり、また対立はとらえても、対立物の相互媒介による対立物の統一という「理性」(真理)にまでいたらない悟性的認識の否定という意味で「否定的理性の側面」とよんでいるのです。
 悟性的認識は対象を認識する初歩的真理であり、したがって常識的なものの見方として広い範囲に妥当する認識といえます。しかしそれは初歩的な真理にすぎないため、直ちにその真理性には限界のあることが明らかになり、悟性的認識は否定されることになります。いわば悟性的認識の一面性を否定することによって、認識は真理に向かって更に一歩前進することになるのです。
 こういう悟性的認識の否定は偶然的なものではなく、必然的なより前進した真理への道です。というのも悟性的認識は、事物を特定するために、事物を自立し、固定し、静止したものとしてとらえる一面的真理にすぎないからです。しかし第八講で学んだように、すべての事物は自立と連関の統一、静止と運動の統一として存在しているのですから、自立と静止をとらえる悟性的認識が、連関と運動の見地からその一面性を否定されるのは当然といわなければなりません。
悟性的認識が「あれか、これか」のどちらかが真理であって、他方は誤謬とするのに対し、悟性的認識の否定は「あれもこれも」どちらも真理だと考えます。つまり静止もその否定としての運動もいずれも真理だと考えるのです。対話というものは、悟性的認識に対して、それを否定する認識を対置し、「なるほどそういう見方もあるな」として「あれもこれも」肯定することで終わることが多いことをみなさんも日常的に経験しておられることでしょう。
 悟性的認識の否定は、一般に「弁証法的否定」といわれています。そこから弁証法とは常識的なものの見方を否定するものであって、「明確な概念のうちに、恣意によって、混乱と外見上の矛盾をひきおこす外面的な技術」(同二四五ページ)と誤解されることがあります。しかし、弁証法的否定は、こうした混乱をもたらすための「外面的な技術」ではなく、「あらゆる悟性的規定、事物、および有限なもの自身の本性」(同)からくる悟性の一面性の否定なのです。
 また同じ悟性的認識の否定であっても詭弁の否定や懐疑論の否定と弁証法的否定とは区別しなければなりません。かつて小泉首相(当時)は、自衛隊のイラクへの派兵に関連してイラクが非戦闘地域か否かが議論になった際に、「自衛隊のいるところが非戦闘地域である」と答弁しました。これは詭弁の最たるものです。非戦闘地域とは、戦闘地域を否定するものですが、このように自己に都合のいい身勝手な理屈で否定するのが詭弁の否定なのです。また懐疑論の否定は、すべてを疑うことで真理を否定するものであり、何ら積極的なものを生みださない消極的否定にすぎません。これに対し、弁証法的な否定は、これらの否定とは異なり、「一面的な悟性規定の有限性を明かにすること」(同二四七ページ)による真理への前進のための否定なのです。言いかえると弁証法的否定は、形式論理学の根本原則である同一律を否定し、同一性のうちに「区別」を見いだすことによって真理を認識しようとするのです。

差異と対立

 ヘーゲルは、「区別」には「差異」「対立」の二種類があることを明らかにしました。差異とは、一つの事物から区別された、その事物でないものであり、その事物の「他者一般」です。したがって一つの事物と差異する事物との間の関係は、自己と自己の「他者一般」との偶然的な関係にとどまります。差異とは、自己以外のものであれば何でもいいのですから、「自己同一なもの」とそれから区別された「差異するもの」との関係は、何も関係がないという偶然的な関係にすぎません。
 これに対して対立とは、たんなる差異と異なり、上・下、左・右というように一つの事物とその対極に位置する他のものとの関係です。自己の対極に位置する他のものは、一つしかありませんから、それは自己の「固有の他者」です。自己とその「固有の他者」との関係は、それであってそれ以外ではありえないという必然的な関係です。差異における二つのものは、自己と「他者一般」という偶然的関係であったのに対し、対立における二つのものは、自己とその「固有の他者」という必然的関係に入るのです。「哲学の目的は……無関係を排して諸事物の必然性を認識することにあり、他者をそれに固有の他者に対立するものとしてみることにある」(『小論理学』㊦三二ページ)のです。というのも偶然性のうちに存在する必然性こそ事物の真理にほかならないからです。
 同一性という悟性的認識は、その弁証法的否定によって真理に向かって一歩前進しますが、その同一性の否定も単なる差異としての否定から、対立という否定に前進することによって、更に真理に向かってもう一歩前進することになります。結局弁証法的否定とは、同一性のうちに区別を見いだし、その区別のうちにさらにすすんで対立を見いだす認識ということができます。カントのアンチノミーは、その対立を見いだした一つの例となるものです。
 第八講で学んだように、すべての事物は自立と連関の統一、静止と運動の統一として存在しており、したがって「すべてのものは対立」(同三三ページ)しています。
 「悟性が主張するような抽象的な『あれか、これか』は実際どこにも、天にも地にも、精神界にも自然界にも存在しない。あるものはすべて具体的なもの、したがって自分自身のうちに区別および対立を含むものである」(同)。
 真理を認識するとは、認識の目的にしたがってすべてのものを対立物としてとらえることにあり、その事物はいかなる事物と対立する関係にあるのかをとらえる眼力が求められることになります。言いかえると、ある事物を考察する場合に、その一面性を指摘するだけでは不十分なのであって、さらにすすんでその事物の「固有の他者」とは何なのかをとらえることによって、その事物をその「固有の他者」との関係においてとらえることが求められるのです。
 特に政治の世界で求められるのは、当面の課題となっている問題が何と何をめぐる対立であるかを明らかにしてどこに問題があるのかを鮮明にすることです。例えば東日本大震災復興のたたかいは「財界主導の上からの復興の押しつけか、それとも住民合意を尊重した下からの復興か」の対立と闘争になっているのです。
 ヘーゲル「論理学」は、すべてのカテゴリーを対立物としてとらえ、真理認識のための弁証法的カテゴリーをとり出してみせました。例えば、有と無、質と量、質における即自有と向他有、限界における定有の実在性と否定性、量における連続性と非連続性、有と本質、本質と現象、同一と区別、根拠と根拠づけられたもの、物における物自体と性質、質料と形式、内容と形式、全体と部分、力とその発現、内的なものと外的なもの、可能性と現実性、偶然性と必然性、実体と偶有、原因と結果、自由と必然、特殊(個)と普遍、判断と推理、分析と総合、機械的関係と目的的関係、内的目的と外的目的、種と類、概念と理念、主観と客観などのカテゴリーがあげられています(拙著『ヘーゲル「小論理学」を読む』参照)。
 弁証法を身につけて現実の当面する諸問題と切り結び、その真理を認識するためには、このような多様な弁証法的カテゴリーのうちから認識すべき目的にしたがって適切な対立するカテゴリーを取りだし、かつ適用する能力が求められることになるのです。
 弁証法の基本法則を学ぶことは大切ですが、そのことと弁証法を自在に駆使して真理に接近する力量を身につける問題とは全く別の問題です。ところがこれまでの教科書では、弁証法的カテゴリーとしては、量と質、本質と現象、可能性と現実性ぐらいのものが示されるにとどまっていたため、学習してもあらゆる問題について弁証法を実践的に活用し、それを力にして真理に接近するところまではなかなか行けなかったのではないかと思われます。今回『ヘーゲル「小論理学」を読む』第二版を出版したのも、ヘーゲルの弁証法的諸カテゴリーの総体を学ばずして、弁証法的思考を実践的に身につけることはできないとの思いからにほかなりません。

真理認識の第三歩は対立物の統一

 ヘーゲルは、第三段階の真理の認識を「思弁的側面」あるいは「肯定的理性の側面」とよんでいます。「思弁的側面」とは対立物の統一という弁証法的真理の側面の意味であり、「肯定的理性の側面」とは、対立を揚棄した対立物の統一という肯定的成果をもつ弁証法の側面という意味でしょう。
 真理認識の第一歩が「あれか、これか」の真理だったのに対し、第二歩は「あれもこれも」という真理でした。これに対し、真理認識の第三歩は「あれとこれの統一」にこそ、より高度の真理があるとするものです。
 悟性的認識としての形式論理学も対立を認めることはあります。しかし対立は認めても、すべてのものが対立していることまでは認めず、さらには対立は認めても対立する二つの極を絶対化して、それを媒介された統一のうちにとらえようとしないのです。
 「悟性は区別された二つのものを独立的なものとみると同時に、またその相関性を定立し、しかも、この独立性と相関性とを並列的あるいは継起的に『また』によって結合するにすぎず、これら二つの思想を綜合し、概念に統一することをしないのである」(同一七~一八ページ)。
 つまり「あれか、これか」という悟性的認識を否定したのが第二段階の弁証法的否定であり、この弁証法的否定は「あれもこれも」の認識となるのですが、この「あれもこれも」とする認識とは、対立する「あれ」と「これ」とを「ここにこれ、あそこにあれ」と空間的に「並列的」にとらえたり、「あれの後にこれ」と時間的に「継起的」にとらえるにすぎません。ヘーゲルはこういう対立する二つのものを「並列的あるいは継起的に」とらえるのみで、媒介的にとらえない第二段階の真理の認識を「あれもこれも」「あれとまたこれ」の認識、つまり「もまた」の結合とよんで、これも広義の悟性的認識としてとらえているのです。
 したがって「あれ」も「これ」もいずれも一面的な真理にすぎないのであり、その一面的な真理性を揚棄した「あれであると同時にこれ」という「あれとこれの統一」によって高い真理性、全面的な真理性が認められることになるのです。すなわち重要なことは、対立する二つのものを「概念に統一」することであり、言いかえると対立する二つのものをその媒介をつうじてより普遍的で全面的な真の姿(概念)としての対立物の統一に揚棄し、対立する二つのものを真の姿の一モメントに落とすことによって、より高い真理に接近することなのです。

対立物の自立的統一と媒介的統一

 対立物の統一とは、すべてのものには対立する二つの側面があり、その対立する二つの側面は、相互に自立しつつ媒介されているという自立と媒介の統一にあることを意味しています。
 対立する二つの側面が自立的関係にあるとき、その事物は相対的に静止した状態にあり、対立物は「自立的統一」あるいは「均衡的統一」のうちにあります。例えば、「主観と客観」という対立するカテゴリーは、人間の認識や実践に媒介されないかぎり、主観は主観、客観は客観として相互に別個のものとして併存していて両者は「自立的統一」をなしています。
 区別には、「差異」と「対立」があることをお話ししましたが、差異する二つのものは、自己と「他者一般」という偶然的な関係ですから、二つのものの間に相互媒介の関係は生じません。これに対し、対立する二つのものは、ある事物とその「固有の他者」という切っても切れない必然的な「関係」にありますので、相互に媒介しあう「関係」が生じることとなります。この対立する二つのものの相互媒介の関係こそ「対立物の統一」とよばれるものです。これに対して形式論理学は、対立を絶対的な動かしがたい区別、「もっぱら媒介のない対立」(全集⑳二一ページ)、つまり「もまた」の関係としてとらえるところに、その非真理性があります。
 対立する二つの側面が相互に自立している関係から媒介しあう関係に移行するとき、その事物は静止から運動へと進むのであり、それを言いかえると「自立的統一」から「媒介的統一」への移行となります。人間の実践は自立的統一を媒介的統一に移行させる最も大きな要因となります。例えば人間の認識は客観的実在を反映すると同時に、創造的認識により実践を媒介して客観的実在を変革し、主観と客観の「媒介的統一」を実現するのです。
 すべてのものは対立しており、したがってすべてのものは自立と媒介の統一、静止と運動の統一として存在しています。「対立物の統一」は、「自立的統一」と「媒介的統一」との統一として展開されることにより、自立と媒介の統一、静止と運動の統一をとらえるものとして、真理認識の唯一の形式となっているのです。
 形式論理学は、対立する二つのものを「もまた」(時間的継起、空間的併存)の関係としてのみとらえることによって、運動、変化、発展(媒介的統一)をみようとしないのです。

対立とは矛盾である

 「媒介的統一」は、さらに展開して「対立物の相互浸透」と「対立物の相互排斥」とになります。なぜこの二種類に展開するのかといえば、そもそも対立とは「相手があるから自分がある」という相互依存の側面と、「相手でないから自分がある」「相手を排斥することで自分がある」という相互排斥の側面という相反し、矛盾する二つの側面をもつものだからです。
 この関係をとらえてヘーゲルは、対立とは「両者の各々は、それが他者でない程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する」(『小論理学』下二八ページ)と述べています。言いかえると、対立する二つのものは、相手があるから自分があると同時に相手でないから自分があるという関係、非独立と同時に独立という関係、つまり矛盾した関係のうちにあるのです。すなわち「対立とは矛盾」なのです。
 ヘーゲルは『大論理学』では、区別には差異、対立、矛盾の三つがあるとしていましたが、『小論理学』では、区別を差異と対立の二つとしてとらえ、対立のうちに矛盾を含めているのも、対立に関するヘーゲルの理解の深まりを示すものといっていいでしょう。
こうして対立のもつ非独立性、つまり相互依存の側面からは「対立物の相互浸透」が生まれ、独立性、つまり相互排斥の側面からは「対立物の相互排斥」が生まれることになります。対立物の相互浸透と相互排斥はどちらも運動をもたらすものですが、運動の方向性を異にしています。対立物の相互浸透は対立する二つの極が相互に向き合って浸透しあい同一になるような運動です。これに対して対立物の相互排斥は対立する二つの極が相互に背を向けあって排斥しあい、排斥しあう関係を揚棄してより高度の統一を実現しようとする運動です。

対立物の相互浸透と対立物の相互排斥

 すなわち対立物の相互浸透とは、自立的統一のもとにあった対立物が相互に向きあって浸透しあい、移行しあうことによって運動が生じ、運動の結果ふたたび自立的統一を回復することを意味しています。エンゲルスによって三法則の一つとされた「量から質への転化」(全集⑳三七九ページ)の法則は、その一例を示す弁証法的カテゴリーということができます。
 すべての事物は、一定の質と一定の量をもつ質と量の「自立的統一」としてあります。質とは、或るものがそれを失えば現にそれがあるところのものでなくなるものです。これに対して量とは或るものにとって「外的な、無関係な規定性」(『小論理学』㊤二六〇ページ)であり、質に無関係なものです。質と量とはこのように自立的統一の関係にあります。したがって量が少々かわっても、或るものはその質を保ち続けます。
 しかし物には「限度」があり、その事物が本来もっている一定の量がその限度を越えるときは、量と質とは自立する関係にあったにもかかわらず、相互に移行しあい、浸透しあって量と質とは同一となります。つまり量的変化がすなわち質的変化となるのです。これが量から質への転化といわれるものです。水を加熱して(温度という「量」を増大させて)沸点という限度に達したとき、液体という質をもっていた水は、気体という質をもつ水蒸気に転化し、そこで再び自立的統一を回復することになります。
 これに対して対立物の相互排斥とは、自立的統一のもとにあった二つの極が相互に背を向けあって排斥しあい、闘いあうというゆれ動く関係に転化することを意味しています。そこから対立物の相互排斥は、「対立物の闘争」とか「矛盾」とよばれています。

矛盾の揚棄

 対立物の相互排斥は、その排斥しあう関係が解決されないかぎり、つまり矛盾が解決されないかぎりゆれ動く状況はなくなりません。矛盾の解決は、「矛盾の揚棄(止揚)」ともよばれています。揚棄(止揚)とはドイツ語のアウフヘーベンの訳語ですが、アウフヘーベンには、「除去する、否定する」と同時に「保存する」という意味があります。矛盾の揚棄とは、より高い質をもつ他のものに発展することによる自立的統一への復帰であり、そこにおいては、相互に排斥しあっていた二つの極は揚棄されて、より高い新たな質をもつ統一物の一モメントに落とされて保存されているのです。つまり矛盾の揚棄によってより高い質への自立的統一が回復するのです。その意味で、矛盾の揚棄による発展は外見上最初のものに復帰するらせん型の発展となります。
 例えば人間論でお話ししたように、原始共同体の社会は人間の類本質をそのまま現象として示す、本質と現象の自立的統一の社会でした。しかし階級社会に入ると、人間の類本質は疎外されたものとして現象します。ここに本質と現象という対立物の相互排斥が生じることになり、そこから類本質の回復を求める階級闘争という対立物の闘争が生まれます。その結果、疎外から類本質を回復する社会主義・共産主義の社会が実現すると、本質と現象の自立的統一が、より発展した生産力のもとで再現されることになります。
 しかし矛盾の揚棄には、もっと卑俗な揚棄もあります。それは対立する二つの極の中間点をもって解決するという方法であり、一般に調停的解決とか、足して二で割る解決などとよばれています。これは矛盾の根本的解決ではなくて一時的な解決にすぎず、したがって再び矛盾が顕在化することもありますが、これもまた矛盾の解決の一形態であり、実際にも調停にかぎらず、政治の場面でも多く用いられる妥協の産物としての矛盾の解決ということができるでしょう。
 このように対立物の統一は、すべての事物を自立と媒介の統一、静止と運動の統一という真理においてとらえるものとして、より高い真理認識の方法となるのです。悟性的認識も、またその弁証法的な否定の認識(広義の悟性的認識)もそれぞれ真理認識の一モメントではあっても、どちらもまだ一面的な真理にとどまるのであって、対立物の統一こそ、その一面性を揚棄したより高い真理ということができます。
 しかし言うまでもないことですが、悟性的認識からその否定へ、ついで悟性的認識とその否定の認識との統一の作業は、一回かぎりの作業ではなく、それを無限に繰り返すことによって人間の認識は無限に客観的真理に向かって前進していくのです。

矛盾の揚棄と否定の否定

 ここで、矛盾の揚棄としての発展と「否定の否定」による発展との関係をみておきましょう。
 エンゲルスは『自然の弁証法』における「全体的計画の草案」において、「矛盾による発展または否定の否定」(全集⑳三三九ページ)と述べ、また『反デューリング論』のための準備労作のなかの「否定の否定」の項目においても同様に「真の、自然的、歴史的、弁証法的な否定こそが、あらゆる発展の推進者(形式の面からみて)なのである。――すなわち、対立物への分裂、それらの闘争と解決」(同六二八ページ)とあり、両者を同一のものとしてとらえています。
 もともと「否定の否定」とは、ヘーゲルが使った用語です。彼は、スピノザの「あらゆる規定は否定である」(或るものを或るものとして規定することは、他のものでは「ない」として「否定」すること)を受け、ある事物を規定し、その限界を画することは否定だから、その事物のもつ限界を否定することによる事物の発展をもって「否定の否定」ととらえたのです。ヘーゲルはその例として、一個の人格としての同一性を保ちつつ自己の限界を否定して無限に真にあるべき姿に向かって発展し続ける人格をあげています。つまり「否定の否定」とは自己同一性を貫きつつ、同じ質のもとでの「萌芽からの発展」をとらえたものであり、矛盾の揚棄としてのより高い別の質への発展とは区別しています。
 ヘーゲルは「一般に、世界を動かすものは矛盾である」(『小論理学』㊦三三ページ)として、矛盾の揚棄による発展を発展の一般的形態としてとらえています。というのもすべてのものは対立しており、対立とは矛盾ですから、矛盾こそ「世界を動かすもの」として、矛盾の揚棄による発展を発展の中心的地位を占めるものとしてとらえたのです。
 矛盾の揚棄による発展がより高い質への変化としての発展の中心をなすものであることからすると、矛盾の揚棄と否定の否定とは区別してとらえ、「否定の否定」とは自己同一性を保ちつつ自己の限界を否定して自己発展する「萌芽からの発展」としてとらえるべきではないかと思われます(拙著『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』参照)。
 このように「萌芽からの発展」と「矛盾の揚棄としての発展」とは区別して考えるべきではないかと思われますが、どちらも外見上は最初のものに復帰しながらも、より高い段階のものとして復帰するという意味で、「らせん型の発展」という共通点をもっています。「萌芽からの発展」の場合は、例えば一粒の麦を蒔くと多数の麦が実ることになりますし、「矛盾の揚棄としての発展」としての社会主義社会の場合、人間疎外からの解放として原始共同体という搾取も階級もない社会への外見上の復帰をもたらすことになります。
 なお事物の発展から区別される認識の発展の場合には、ソクラテスの産婆術にみられるように、またヘーゲルが哲学の歴史を「その哲学の制限を踏み越えて、その哲学の特殊の原理を観念的(理念的な――高村)な契機へひきさげる」(『小論理学』上二六五ページ)ものととらえているように、「否定の否定」による発展が一般的になっているように思われます。

弁証法は分析と総合の統一

 ヘーゲルは「哲学的方法」(『小論理学』㊦二四二ページ)、つまり弁証法という真理認識の方法は「分析的でもあればまた綜合的でもある」(同)として、分析と総合の統一としてとらえています。真理認識の第一歩としての悟性的認識は、対象となるものの直接的認識であり、第二歩は直接的認識のうちに区別を見いだす「分析」といえます。しかもその「分析」は対立という「本質的な区別」(同二八ページ)を見いだす分析なのです。第三歩は第二歩の「分析」によって見いだされた対立を統一するという「総合」です。
 形式論理学では、いずれも一面的な認識である分析的方法と総合的方法を「単に並置するとか、交互に用いる」(同二四二ページ)という「もまた」の関係としてとらえるにすぎないのに対し、弁証法は「両者を揚棄されたものとしてその内に含む」(同)対立物の統一としてとらえます。
 一般に分析と総合はいずれも真理に接近する方法とされていますが、弁証法は分析と総合を「揚棄されたものとしてその内に含む」分析と総合の統一のみを真理認識の方法ととらえるのです。

 

三、主観的弁証法

主観的弁証法は当為の弁証法

 主観的弁証法とは、一般的に客観的弁証法を意識のうえに反映したものということができます。そのかぎりでは主観的弁証法を独自に論じる意義はありません。
 しかし人間の認識は、第八講で学んだように世界を認識の対象と考え、「世界はどのようにあるのか」という事実の真理をとらえるのみならず、世界を変革の対象と考え、「世界はどのようにあるべきか」「どのような世界に価値があるのか」という当為または価値の真理をも問題とします。存在、事実は意識の反映的機能の問題であるのに対し、当為、価値は意識の創造的・変革的機能の問題です。これに応じて真理の問題にも反映論的真理としての事実の真理と同時に、創造的真理としての当為の真理が存在するのであり、この当為の真理をとらえる弁証法が主観的弁証法の固有の分野ということができます。当為の真理は、事実の真理を前提とし、事実の弁証法的発展をつうじてとらえられるものですから、この固有の分野の主観的弁証法は、存在と当為という対立物の統一としてとらえられることになります。
 変革の対象となるのは世界のすべてです。世界は大きく主観と客観に二分されますので、変革の対象も客観世界(自然・社会)と主観世界(人間)とに分かれます。後者は「人間としていかに生きるべきか」という当為の問題ですので、さらに「人間としていかなる世界観をもって生きるべきか」という世界観の問題と、「いかなる生き方に価値を求めるべきか」という価値観の問題に二分されることになります。 
 こうして主観的弁証法には、次の三つの分野が存在することになります。一つは客観世界を変革の対象とする「客観変革の弁証法」であり、二つは自己の生き方、世界観を対象とする「世界観の弁証法」であり、三つはより善い生き方、言いかえると、どのような生き方に価値を求めるのかを対象とする「価値観の弁証法」です。
 客観変革の弁証法とは、目的とその実現の統一、理想と現実の統一という弁証法であり、それは「思考と存在の同一性」のより発展した形態ということができます。世界観の弁証法は、いかに生きるべきかという世界観を模索する弁証法です。価値観の弁証法は、一定の世界観のもとにあっても、どのような生き方に価値を見いだすべきかという弁証法です。人間に関する弁証法は、生き方における存在と当為の統一という弁証法ということができるでしょう。
 以下において、この三つの観点から主観的弁証法をみていくことにしましょう。

客観変革の弁証法

 客観変革の弁証法は、目的とその実現の統一、理想と現実の統一の弁証法であり、言いかえると主観と客観の弁証法として展開されます。
 客観変革の弁証法の第一段階は、「世界はどうあるか」の真理認識のための主観と客観の相互作用です。人間の意識は客観的実在を反映したものとして形成されますが、一挙に無限の豊かさをもつ「世界がどうあるか」という事実の真理をとらえることはできません。分析と総合、判断と推理という対立物の統一をつうじて真理と思われる仮説をたて、それを実験、実践して確かめ、それが正しければ客観的実在と一致し、間違っていれば客観的実在からはね返されるという作業を反覆するという主観と客観の相互作用をつうじて、客観的実在の表面的真理から内面的真理へ、部分的真理から全体的真理へ、特殊的真理から普遍的真理へと一歩ずつ前進し、「客観に一致する主観」という真理を獲得していくのです。この場合、実践は認識の真理性を検証する基準となります。
 第二段階は、第一段階の真理の認識をふまえて、「世界はどうあるべきか」という当為の真理(世界の真にあるべき姿)を認識する主観と客観の相互作用です。人間の意識はたんに客観的実在を反映するのみならず、それ以上に創造性をもっています。意識の創造性にもとづき客観的実在をつくりかえるためには、事実の真理、つまり客観的実在の法則性(必然性)を認識し、その法則性にそって働きかけなければ、客観的実在によってはね返されるか客観的実在を破壊するだけであって、合法則的に発展させることはできません。
 「世界がどうあるか」の事実の真理を「どうあるべきか」の当為の真理に発展させるためには、客観的実在を対立物の統一としてとらえ、その対立物の自立的統一はどうすれば矛盾にまで発展するのか、さらには矛盾の揚棄としての「真にあるべき姿」(ヘーゲルのいう「概念」)とは何かを意識のうえに顕在化させることが求められるのです。
 主観のうちにとらえられた「概念」は、客観的実在を否定し、「真にあるべき姿」に変革しようとする「目的」となります。「目的とは、直接的な客観性の否定によって自由な現存在へはいった、向自的に存在する概念」(『小論理学』下一九六ページ)なのです。つまり目的とは、現に存在している客観的実在を「否定」し、意識のうえに客観から自立した(「向自的に存在する」)真にあるべき姿をとらえたものなのです。概念、目的が社会の変革に向けられたとき、それは「理想」とよばれます。目的、理想は、潜在的に客観的実在のうちに含まれているものですが、人間の意識の創造性によってはじめてそれをとり出し、顕在化させることができるのです。
 科学的社会主義の学説は、客観的実在である資本主義の基本矛盾の解明をつうじて、人類史上はじめて「真にあるべき社会主義」という社会主義の「概念」を取り出すことに成功しました。
 理想と空想は区別しなければなりません。理想は客観的実在に立脚した「世界はどうあるべきか」の当為の真理であるのに対し、空想は観念論的な「世界はどうあるべきか」を論じているからです。
 第三段階は、当為の真理である主観的な概念を目的、理想としてかかげ、この目的、理想を実現しようとする実践をつうじて客観的実在を「真にあるべき姿」に変革するのです。ここでも主観的「概念」が当為の真理をとらえていない場合には、それにそった実践は客観的実在にはね返されてしまうことになります。逆に目的、理想が当為の真理をとらえていたとしても、その実現をめざす実践が、目的、理想から逸脱する場合にも、同様に客観的実在を「真にあるべき姿」に変革することはできません。
 実践はたんに反映論的認識の真理性を検証する基準となるのみならず、創造的認識およびその実践の真理性を検証する基準にもなっているのです。
 こうして実践を媒介に、客観から主観へ、主観から客観への往復運動を反覆することをつうじて、人間は「目的とその実現の統一」、ひいては「理念」という「理想と現実の統一」を実現することができるのです。この意味で目的とその実現の統一、理想と現実の統一は、主観と客観の統一という弁証法なのです。
 しかしその理想と現実の統一としての「理念」もまた客観的事物の発展の一段階を画するものにすぎず、そこからまた新たな「概念」が生まれ、実践をつうじて新たな「理念」を生みだすという作業を反覆することにより、人間はより高い、より普遍的な理想とより良い現実へと前進し続けていくことになるのです。

世界観の弁証法

 次に、いかに生きるべきかを模索する自己意識の弁証法を考えてみましょう。自己意識とは、自己を認識の対象とする意識です。意識はまず自己の外に存在する客観的実在を意識し、それを認識することに始まりますが、意識が成長・発展する過程をつうじて、客観のみならず自己そのものをも意識し、認識しようとするにいたります。客観意識から自己意識への転化が生じるのです。
 自己意識はまず「いかに生きるべきか」を模索する、いわゆる自我の目覚めに始まります。少年期とは、まだ自己を客観化してみることのできない即自態(対立の未分化の状態)です。それが青年期に入ると自我に目覚めて自己分裂を起こし、対自態(対立の顕在化した状態)に突入します。現にある自己(存在する自己)と真にあるべき自己(当為としての自己)という対立物への分裂と闘争であり、ここから青年期特有の苦悩、不調和、不安定が生じると同時に、この矛盾をつうじて人間的成長、人格の陶冶がおこなわれます。いわば『若きウェルテルの悩み』(ゲーテ)が始まるのです。こうして青年期は、いかに生きるべきかの問題を中心に世界観を模索する特有の時期となります。それは生き方に関する「存在と当為の統一」の問題であり、私たちの労働者学習協議会が青年を対象に大衆的学習運動を展開しているのも、世界観を模索し、成長しようとする青年の青年期特有の要求に応えたものにほかなりません。
 人間は労働をつうじて人間になりましたから、「いかに生きるべきか」の問題は、いかなる種類の労働を選択すべきかという職業選択の問題を含んでいます。いわば世界観の模索のなかに、どんな職業に従事して生きるのかの模索も含まれているのです。青年期に向かう少年に対し「大人になったら何になりたい?」と質問することは、どんな職業を選択したいのかを問いかけるものとなっています。職業選択の問題も含め、青年期から壮年期に入ると自分なりの世界観と職業を見いだし、この分裂状態を克服して、現にある自己と真にあるべき自己との統一を一時的には回復することになります。
 マルクスが十七歳のとき「職業の選択にさいしての一青年の考察」(全集㊵五一五ページ以下)を著しているのも職業の選択を「いかに生きるべきか」の問題に関連させて論じているのです。マルクスは「歴史は、普遍的なもののために働くことによって自己自身を高貴なものとした人々を偉人と呼ぶ」(同五一九ページ)とし、この働き方をするとき「われわれの遺体の灰は、高貴な人々の熱い涙によって濡らされるであろう」(同)と結んでいます。弱冠十七歳にしてマルクスが個と普遍の統一という世界観の真理に接近していることには、驚くほかはありません。
 また青年期をのりこえ社会の一員として働き出した場合に生じる現にある自己と真にあるべき自己との矛盾は、第五講で学んだように疎外された意識をもつ自己と人間らしい意識をもつ真にあるべき自己との葛藤としてあらわれます。そして人間らしく生きたいという意識が、疎外された意識に打ち勝ったとき、人間は階級闘争に向かって足を踏み出していくことになり、新たな世界観の模索にもつながることになります。
すべての人は、「いかに生きるべきか」を中心とする何らかの世界観をもつに至りますが、そこには科学的な世界観もあれば、非科学的な世界観もありますし、自己のうちで矛盾する世界観もあれば、統一的な世界観もあります。科学的社会主義は世界全体の真理を統一的、科学的に認識しうる「全一的な世界観」(レーニン)として、世界観の真理をなすものです。
 自分なりの世界観を確立することによって一時的に自己統一を実現することになっても、その選択した世界観が真理でなければ、さまざまの社会的経験を経るなかで社会的矛盾に直面し、自己の世界観への反省を余儀なくされ、再び自己分裂におちいります。
 こうした模索をくり返しながら、世界観の真理、さらにいえば価値観の真理である科学的社会主義の学説に接近していくことになるのです。科学的社会主義の学説に接した者が、社会的苦難のうちにあっても生涯その立場を貫くことができるのも、それが価値観の真理であるからにほかなりません。
 「いかに生きるべきか」の問題は、一定の世界観のもとで「いかにしてより善く生きるべきか」という価値観の問題を内包しており、価値観の弁証法へ移行する契機をはらんでいるのです。

価値観の弁証法

 価値観とは、一個の人間としていかなる生き方に価値を見いだすのか、いかなる生き方をもってより善い生き方と考えるのかに関わる一定の考えを意味しています。言いかえるとそれは生きがいを何に求めて生きるのかという問題です。
 どんな価値観であろうと、その人の価値観を尊重することが「個人の尊厳」とよばれるものです。憲法一三条は「すべて国民は、個人として尊重される」として、「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利」を定めていますが、この幸福追求権こそ、生きがいを求める権利にほかなりません。したがって生きがいとは、自由な意志によって行動し、「おのれの満足をおぼえようとする主体の特殊性の権利」(『法の哲学』一二四節注解)であり、こういう「個人の尊厳」を認めることを「近代的な自我の目覚め」とよんでいるのです。
 いかなる生き方を選択するかは、個人の価値観の問題ですが、すべての価値観が等しい価値をもつわけではありません。そこから「真にあるべき」生き方という生き方の「概念」、当為の真理が問題になってくるのです。
 人間一人ひとりは、個人という特殊性であると同時に人類という普遍性の一員という「個と普遍の統一」です。生きがいは「主体の特殊性の権利」ですから、囲碁、将棋の世界からパチンコの世界まで、どんな特殊的世界においても生きがいを見いだすことはできます。逆にいえば、生きがいを人間としてより善く生きるという普遍的人間の生き方に見いだすこともできるのです。人間としてより善く生きるとは、価値観を人間的価値の実現に求めることを意味します。
 こうして価値観の弁証法は、個人の特殊的価値をもって生きがいとする価値観(個人の尊厳を求める価値観)と「人間的価値」をもって生きがいとする価値観(人間の尊厳を求める価値観)という対立する二つの価値観の間の闘争として展開されることになります。
 この意味で価値観の真理は、個人の生きがいを「人間的価値」の実現に求める価値観にあるということができます。言いかえると生きがいを「個人の尊厳と人間の尊厳の統一」「個人的価値と人間的価値の統一」に求めるところに最も価値ある生き方があるのです。したがって個人の生きがいを「人間的価値」の実現をめざす人間解放に求める生き方こそが価値観の真理となるのです。
 自由と平等のために生涯をかけたルソーは「真理のために命をささげる」を自らのモットーにしました。自由と平等という人間的価値を探究し、実現することを最高の生きがいと感じていたからこそ、そのために「命をささげる」ことをいとわなかったものということができるでしょう。
 科学的社会主義の学説は、人間的価値を人間の類本質としてとらえ、自由と民主主義という普遍的かつ本質的人間的価値が全面開花する人間解放の社会、社会主義・共産主義の社会の実現をめざし、人間解放のための階級闘争が歴史の原動力であるととらえる学説です。いわばそれは、世界観の真理と同時に価値観の真理を探究する学説であって、「個人の尊厳と人間の尊厳の統一」「個人的価値と人間的価値の統一」を求めるものであり、科学的社会主義のいう「生きがいを社会進歩に重ねる」との命題にそれが表現されているのです。

 

四、エンゲルスとレーニンの弁証法の検討

 第九講でマルクス、エンゲルス、レーニンの弁証法を検討しましたが、実際に弁証法の定式化に取り組んだのはエンゲルスとレーニンでした。そこでこの両者の弁証法の定式化の試みをどう評価すべきかについて、第九講でも若干論じはしましたが、総括的私見を述べておこうと思います。
 まずエンゲルスは「自然の弁証法」のなかで、弁証法は「だいたいにおいて三つの法則に帰着する」(全集⑳三七九ページ)として次のように論じています。これは第九講でお話しした「自然の弁証法」の「全体的計画の草案」のなかの「三法則」を整理したものといえます。
 「量から質への転化、またその逆の転化の法則。対立物の相互浸透の法則。否定の否定の法則」(同)。
 まずここでは、対立物の統一という弁証法の基本構造が示されていないのが気になるところです。また対立物の相互浸透と対立物の相互排斥は「対立物の媒介的統一」の二つの形態として一対のものであるのに、前者のみしか取りあげられていません。また量と質の弁証法は、対立物の相互浸透の一事例にすぎないといえるでしょう。最も問題なのは、矛盾の揚棄としての発展が、正面から論じられておらず、しかも否定の否定という萌芽からの発展と矛盾の揚棄としての発展とが混同されているように思われます(詳しくは拙著『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』参照)。
 次にレーニンの弁証法ですが、第九講でお話ししたように、「カール・マルクス」で四つの要素を指摘し、『哲学ノート』では、「弁証法は簡単に対立物の統一の学説と規定することができる」(レーニン全集㊳一九一ページ)としながらも、「これは説明と展開とを要する」(同)として、十六の要素を指摘しています。しかし、十六の要素のうち、対立物の統一として規定されているのは、「対立物の、矛盾した諸動向、等々の、闘争あるいは展開」「分析と綜合との結合」「たんに対立物の統一ばかりでなく……(その対立物への?)移行」「現象から本質へ」「内容の形式との闘争およびその逆の闘争」「量の質への移行およびその逆の移行」(同一九〇~一九一ページ)などであり、対立物の統一が十六の要素の全体にわたって展開されているわけではありません。また十六要素相互の内的連関も明らかにされておらず、思いつきを「もまた」の関係で列挙したにとどまっています。
 結局レーニンの弁証法も、せっかく弁証法を「対立物の統一の学説」としてその基本法則をおさえながらも、なぜそれが真理認識の唯一の形式なのかはもとより、対立物の統一の展開とは自立的統一と媒介的統一の統一であること、媒介的統一とは対立物の相互浸透と対立物の相互排斥の統一であることなどが解明されていません。そのため十六の要素の内的関連が明らかにされず、弁証法的諸カテゴリーのあれこれを思いつくままに「もまた」の関係として羅列したにとどまる未整理のものとなっています。「カール・マルクス」の四つの要素も重要なものは含みながらも同様の問題をもっています。したがってレーニンの弁証法も参考程度にとどめておけば足りるのではないかと考えるものです。
 エンゲルスもレーニンも唯物論的な弁証法の仕上げをするだけの時間的余裕をもちえないという歴史的制約のうちにあったのですから、こうした総括的私見になるのもやむをえないのではないかと思われるところであり、むしろ彼らの草案として残された弁証法の諸法則を絶対化してとらえることは、かえって彼らの意に反することになるでしょう。