『21世紀の科学的社会主義を考える』より

 

 

第一四講 「ソ連型社会主義」の建設と崩壊 ①

 

一、スターリンによる「ソ連型社会主義」の建設

 スターリン(一八七八~一九五三)は、一九二二年書記長に選任されて、レーニンの後継者となり、一九二〇年代後半から三〇年代にかけて、いわゆる「ソ連型社会主義」の原型をつくり出します。
 それは、極度の中央集権的指令経済、新しい階級への権力の集中と一党支配体制による専制主義、「警察支配(デルジモルダ)」による自由と民主主義の抑圧、他民族への抑圧、侵略などを特徴としており、社会主義の三つの基準にてらしてみると「名ばかり社会主義」であり、その実態は人民抑圧の独特の階級社会だったということができます。一九九一年のソ連の崩壊まで、基本的にこの「ソ連型社会主義」は継続し、その矛盾によってソ連は崩壊したのです。
 日本共産党綱領はこの「ソ連型社会主義」について「レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進」んだ結果、「社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた」として、ソ連の崩壊を「歴史的な巨悪の崩壊」であり、「大局的な視野で見れば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった」と規定しています。
 ソ連が社会主義をめざして出発し、社会主義の三つの基準とされた生産手段の社会化、社会主義的な計画経済、「プロ執権」を実践しながら、なぜ「社会主義とは無縁な」存在にまで転落してしまったのか、ソ連の崩壊は、社会主義の基準そのものが誤っていたことを示すのか、それともその運用を誤っただけなのか、あるいはその両方なのか、二一世紀の社会主義論は、こうした疑問に答えることが求められているように思います。
 また「ソ連型社会主義」の原型をつくり出したスターリンについて、病床にあったレーニンは「スターリンは粗暴すぎる。そして、この欠点は、われわれ共産主義者のあいだや彼らの相互の交際では十分がまんできるものであるが、書記長の職務にあってはがまんできないものとなる」(レーニン全集㊱七〇四ページ)として、解任を求める「大会への手紙」を託しますが、スターリンはそれを握りつぶしてしまいます。
 確かにスターリンの粗暴な性格も「ソ連型社会主義」を生みだした一因になったと思いますが、それを過大に評価することは、科学的でも唯物論的でもないでしょう。というのも「ソ連型社会主義」はスターリンの時代のみならず、それ以後の歴代指導部のもとでもソ連の崩壊に至るまで約六十年以上にわたって基本的に維持されていたからです。そこで以下においては、第一三講で論じたように、社会主義の三つの基準にしたがって「ソ連型社会主義」を検討していきたいと思いますが、その前に、革命直後のソ連がおかれていた経済的、政治的状況も「ソ連型社会主義」の建設に無関係ではないのでみておくことにしましょう。
 レーニンは、ロシア革命に続いてヨーロッパ革命が成功し、それが力となってソ連の建設が可能となると考えていましたが、実際には、ソ連はヨーロッパや日本の帝国主義諸国の包囲網のもとで、遅れた資本主義国でありながら一国で社会主義建設に踏み出さざるをえませんでした。
 第一次大戦という帝国主義戦争の中で誕生したソ連は、帝国主義列強の軍事干渉はようやくしりぞけたものの、列強との工業力、軍事力の差を思い知らされ、また三三年にはドイツ・ナチス政権の台頭もあって、あらたな戦争の危険性も高まっていました。
 しかし、革命当時のロシアは、八〇パーセントが農民の農業国であったところから、列強の再度の軍事干渉にそなえて、先進資本主義諸国の工業生産力に「追いつき、追いこす」ことがソ連経済の最重要任務となっていました。スターリンは、この立ち遅れを急速に回復しないかぎり、一国社会主義は押しつぶされてしまうと考えていたのです。
 こうした歴史的背景が「ソ連型社会主義」の物質的背景になっていたことは否定できないと思います。

 

二、スターリンの生産手段の社会化

強制的農業集団化

 生産手段の社会化とは、巨大化して社会的となった生産と分配を形式・内容ともに社会全体のものにするためのものですから、当然に小農民の私的経営をも社会化することを意味するものではありません。
 エンゲルスは、「小農にたいするわれわれの任務は、なによりも、力づくではなく、実例とそのための社会的援助の提供とによって、小農の私的経営と私的所有を協同組合的なものに移行させることである」(全集㉒四九四ページ)として、小農民の社会化については農民の自発性を尊重すべきことを明らかにしています。
 革命直後のソ連は、圧倒的多数が封建的農奴制から解放された小農民でしたから、農民の支持をえながら社会主義を建設していくうえで、小農民の私的経営を集団化、社会化する生産手段の社会化は慎重のうえにも慎重を期さなければならない課題だったのです。ですからレーニンは工業については主な生産手段はすべて国有化したものの、小農民については自発性の原則を守り、けっして集団化を急ごうとしませんでした。
 スターリンは、先進資本主義国に「追いつき、追いこす」ために一九二八年から始まった第一次五ヵ年計画で重工業化を推進しはじめました。それは一言でいうと、農民からの強制的搾取を前提とし、その資金により重工業化をおしすすめようというものでした。ネップのもとで農民は抵抗し、もっと高い価格で売れるときまで穀物を手元におこうとしたため、一九二七、二八年と穀物調達はすすまず穀物危機が生じます。
 これに対しスターリンは二九年末突如これまでの自発性の原則を投げすて、農民を説得するのではなく、命令によって強制的に農業の全面的集団化(社会化)を強行し、再び国家が余剰農産物を直接管理しようとします。
これは、ネップのもとで、ようやく余剰農産物を商品化する自由を得て、再びソビエト政権の支持に回ろうとしていた農民全体を敵に回し、労農同盟を破壊する暴挙でした。一九三〇年一月には、農家はわずか二ヵ月でそれまで二パーセントにすぎなかったものが六〇パーセントまでコルホーズ(集団農場)化されてしまいます。
 レーニンが戦時共産主義からネップへの歴史的転換をはかったのは、そうしないかぎり国民の大多数を占める農民の支持がえられず、したがって労農同盟を維持できないと判断したためでした。労働者と農民という対立する二つの被抑圧階級の統一のみが、社会主義政権を維持するソビエトとなるのであって、その統一を自ら破壊し、農民を抑圧することは、人民の権力としてのソビエト政権を変質させる行為の第一歩となりました。
 スターリン批判にかんする唯一の原典とされるメドヴェージェフの大著『共産主義とは何か』(三一書房)はこの強制集団化を次のように描いています。
 多くの農民は、コルホーズに提供するより殺して食べた方がいいとして「わずか二ヵ月のあいだに、およそ一四〇〇万頭の牛が、それからすべての豚の三分の一、すべての羊と山羊の四分の一がころされ」(前掲書㊤一四八ページ)、農業は大打撃を受けることになります。
 しかもスターリンは「集団農場に加入しない者は、誰だろうとソヴエト制度の敵」(同)と規定し、「階級としての富農の絶滅」(同一六一ページ)をスローガンとしたため、九百万人近い農民が銃殺されたりシベリア送りにされてしまったのです。集団農場に加入するか否かの問題と、階級としての富農にあたるか否かの問題は全く別の問題であるにもかかわらず、集団農場に加入しない者を「富農」または「亜富農」と規定するという暴論によって、彼らを絶滅の対象とし、農業集団化を上からごり押しにしていったのです。

生産手段の社会化が人民抑圧の手段に

 この強制的農業集団化によって余剰農産物は再びすべて国家が管理することになり、ネップは事実上の終焉を迎えます。しかしここにはそれ以上に大きな問題が含まれていました。社会主義的変革の中心課題が生産手段の社会化におかれたのは、何よりもそれによって搾取と抑圧を廃止するとともに、生産者が主役のアソシエーションを実現することにありました。
 ところがこの農業集団化は、農業における生産者が主役の立場を否定するにとどまらず、人民の権力であるはずのソビエト政府を人民の大多数である農民を支配・抑圧・弾圧する存在に転化することになったのです。いわば生産手段の社会化が人民抑圧の手段となったところにその本質があり、これによってソ連社会は、人民が主人公の社会から人民抑圧の社会に向かって大きく転換することになりました。しかもそれは次第に農民のみならず労働者、国民をも抑圧する方向へと一路進んでいったのです。
 レーニンの時代には戦時共産主義のときも、ネップの時代も、ストライキの自由をふくむ労働者の権利は当然のこととして保障されていました。しかしスターリンの時代になると、これまで保障されていた「ストライキの権利も経営参加の権利もうばわれ、三〇年代末から四〇年代はじめにかけて、『労働手帳の施行に関する規定』(一九三八年)、『任意退職の禁止に関する規定』(四〇年)、他企業への『義務的移動手続きに関する規定』(四〇年)など、転職の自由、移動の自由も完全に奪」(聴濤弘『ソ連はどういう社会だったのか』四九~五〇ページ)われ、「一五歳、一六歳の子供までもが遅刻のかどで裁判にかけられるという、ものすごい出勤・欠勤の管理」(同五〇ページ)までおこなわれたのです。

「警察支配」による自由と民主主義の抑圧

 この集団農業化による「重大な誤謬は、労働者の生活水準を低め、食品と工業製品の供給を瓦解させ、都市と農村の同盟を弱めることになった。厳重な配給が都市でふたたび実施されなければならなかった。不満が増大した。これらすべての欠陥を富農と『亜富農』のせいにすることは困難であった。スターリンの身代りの贖罪の山羊を見つけなければならなかった」(メドヴェージェフ前掲書一八三ページ)。
 こうして国内に生じていた一切の政治・経済上の困難は、デッチあげられた「人民の敵」に転化されます。当局によっていったん「人民の敵」と規定されると、どんな弁明も許されず逮捕・処刑される恐怖政治が支配することになります。一九二八年から一九三二年には、社会的発言に影響力をもつ革命前のインテリゲンチャがまず処刑されます。次いで三四年の「キーロフ暗殺事件」を契機として一九三七年から一九三八年にかけて、スターリンに反対する党と国家の幹部が、次々とその犠牲者となり、労働者、農民の犠牲者とともに、数千万人の「粛清」が行われることになります。
 「一九三九年のはじめに、人民の敵の幇助、破壊行為、スパイ行為、テロル行動の準備等々という、あらゆる種類の誹謗的な告発によって、第十七回党大会(一九三四年――高村)で選出された中央委員と同候補一三九名のうち一一〇名、すなわち中央委員総数の約八〇%が逮捕された。これにより、何十名というわが党のすぐれた活動家、レーニンの戦友がほろんだ」(同三一四ページ)。
 この犠牲者のなかには、ジノヴィエフ、カーメネフ、ピャタコフ、ブハーリンなどの十月革命に貢献したソ連共産党の古参幹部をはじめ、日本の山本懸蔵、岡崎定洞を含む外国人コミュニストも多数含まれており、文字どおりソ連は「収容所列島」となったのです。
 レーニンはツァーリズムの野蛮な「警察支配」の代名詞として、ゴーゴリの『検察官』のなかの一人物である「デルジモルダ」を使っていました。スターリンらが民族問題について大ロシア人的排外主義をとったとき、レーニンは彼らを「粗暴な大ロシア人的デルジモルダ」(レーニン全集㊱七一九ページ)とよびました。
 スターリンは、レーニンが危惧したように秘密警察と密告によって人民を監視し、いつ人知れず夜間に逮捕され拷問、処刑されるかも分からない恐怖下に追い込む「警察支配(デルジモルダ)」国家をつくり出したのです。それは自由と民主主義のひとかけらまで奪う人民抑圧の社会を完成させることを意味していました。
 この大量弾圧により数千万人が闇から闇へと葬られましたが、幸にも銃殺をまぬがれた一千万人ともいわれる囚人もまた、労働収容所で、十人の定員に四十~五十人が押し込まれ、不眠、空腹、ボロ服のまま零下六〇度のもとで無休憩の長時間労働に従事させられ、緩慢に虐殺されていったのです。社会主義建設の成果とされた白海=バルト海運河をはじめ、数々の水力発電所、工場もこうした囚人労働の産物でした。これはもはや生産手段の社会化による人間解放どころか、人間疎外の極といわなければなりません。
 こうして生産手段の強権的社会化の過程は、スターリンの専制支配とそれを批判する勢力の存在を許さない自由と民主主義の抑圧に結びついていくことになります。

 

三、スターリンの計画経済

極度の中央集権的指令経済

 ソ連では、一九三〇年代に工業も農業も国有化されることにより、経済活動のすべてを国家が管理し、極度に中央集権的な指令経済が実施されることになります。
 「こうした計画経済のシステムのもっとも特徴的なことは、上から物量の生産を中心指標とする計画目標がおろされ、その遂行が法的に義務づけられること、また、資源の配分も中央の資材・機械補給局が直接分配すること」(聴濤弘『二一世紀と社会主義』二〇九ページ)にありました。
 このような指令経済が、遅れていたソ連の工業化を急速に押しすすめ、雇用を拡大していくことにもなったことは否定できません。一九二八年の第一次五ヵ年計画のもとで、二八年には一二四・三パーセント、三〇年には一三二・〇パーセントと急成長し、三〇年には失業者一掃を宣言するに至ります。一九二九年の世界大恐慌のもとで、アメリカの対前年工業生産比は、マイナス四四パーセントと約半減したのに対し、逆にソ連の工業生産が年々増大していったことは、全世界に社会主義的な計画経済の体制的優位性を示すものともなりました。
 しかし反面からすると、すべて上からの指令によって運営される上命下達の指令経済は、国家官僚の手に強大な権力を集中させることにより、官僚主義の温床となったのです。しかも生産手段はすべて国有化され、その管理者は国家官僚によって独占されたところから、国家機関としての官僚と国有企業、国営農場の管理者とは一体化して膨大な官僚層として人民の上に君臨する存在となりました。
 本来の社会主義国家は、人民が主人公、人民主権の権力ですが、レーニン流「執権論」のもとで人民民主主義と権力に対する人民的監視と統制が軽視され、その上にスターリン流の「警察支配」が形成されたのですから、官僚主義はその限度を越えて、専制主義にまで転化する可能性をはらんでいました。

官僚主義防止の手段

 エンゲルスは、官僚主義を防ぐためにパリ・コミューンが二つの手段を用いたことを指摘しています。
 「第一に、行政、司法、教育上のいっさいの地位に、関係者の普通選挙によって人員を配置し、しかもその関係者がこれをいつでも解任できることにした。また第二に、その高いと低いとにかかわらず、あらゆる職務にたいしてほかの労働者なみの賃金しか払わなかった。……これによって、地位争いや出世主義をしめだすかんぬきがしっかりとかけられた」(全集⑰五九五ページ)。
 ここで問題なのは、レーニン流「執権論」は、ソビエト=「プロ執権」とするものであり、普通選挙を否定するものですから、人民投票によるリコールを制度的に否定するものとなっています。そのうえ「警察支配」によって人民の権力への監視と統制を不可能とするのですから、ある意味で、官僚層に対する労働者なみの賃金は官僚主義を防ぐ残された唯一の手段だったかもしれません。
 レーニンの時代には、「最低の労働者賃金と、最高職務給(レーニンの人民委員会議長の給与――高村)の割合は一対五」(メドヴェージェフ前掲書下五三一ページ)と決められていました。
 しかし、スターリンの手で「一九三二年二月に、党員最高給月額が正式に廃止され、それがまた指導的活動家(いわゆる「管理者層」――高村)の実質賃金を引き上げることに」(同五三六ページ)なり、さらに責任活動家(「上級管理者層」――高村)の場合は「それぞれの活動家の定額月給をいちじるしく越える」(同五三七ページ)金額が秘密裏に「紙包(パケート)」(同)として渡され、しかも無課税であったとされています。その結果「多くの活動家の場合、一対四〇、一対五〇、若干のものは一対一〇〇になった」(同)とされています。
 これにより官僚主義を防止する最後の手段まで奪われてしまうことになりました。何ら歯止めのない官僚主義は、もはや専制主義にまで突き進むしかなかったのです。

「新しい階級」の形成

 ユーゴスラビアの副大統領の経験があり、チトーの三羽烏(カルデリ、ランコビッチ、ジラス)の一人といわれたミロバン・ジラスは、『新しい階級』(時事通信社)のなかで次のように述べています。
 「一九三六年に新しい憲法(いわゆる「スターリン憲法」――高村)が発布されたとき、スターリンは『搾取者階級』がなくなったと発表した。たしかに起原の古い資本家その他の階級は廃絶されたが、いまだかって歴史にしられていない新しい階級が誕生したのである。……この新しい階級――つまり官僚、もっと正確にいえば政治官僚は、これまでの諸階級の特徴を全部もっていると同時に、独自の新しい特徴をも身につけている」(前掲書四九~五〇ページ)。
 「管理者層」は、生産手段を「所有」していないという意味では、資本家階級とは明らかに異なる存在ですが、生産手段を管理・運営して労働者を支配し、かつ生産物を所有し、分配するというかぎりにおいて「新しい階級」とよぶことができるでしょう。
 この「管理者層」はソ連国内では「カードル(中核メンバー)」と呼ばれ、一般には「ノーメンクラトゥーラ(共産貴族)」とよばれています。「ノーメンクラトゥーラ」とは、ラテン語の「名簿」を意味しています。なぜ「名簿」が「共産貴族」かといえば、ソ連共産党内で重要党員の序列(リスト・アップ)がつくられ、その序列にしたがって、国家や国有企業などの「管理者層」の候補者序列リストがつくられました。そのリストに記載されることは、重要人物として党の承認を受けたことを意味しており、党官僚としての特権的地位が約束されることになります。このリストに従って上から順番に重要な部門からより重要でない部門へと「管理者層」が任命されていくことになります。その意味では、後にみるスターリンの「プロ執権」論にも関連して、ソ連共産党そのものが「新しい階級」を生みだしたということができるでしょう。
 また官僚主義と専制主義は関連性はあるものの区別しなければなりません。官僚主義は、官僚制から芽ばえてくるものではあっても、人民の監視と統制によって防ぐことができますが、専制主義は人民の監視と統制を否定し、逆に人民を監視し統制するものですから、打倒する以外に是正の道はないのです。
 スターリンは、ノーメンクラトゥーラという新たな支配階級を生みだすことにより、たんなる官僚主義の枠を越え、被支配階級への大量弾圧と被支配民族への抑圧という専制主義の道へと進んでいったのです。

 

四、スターリンの「プロ執権」

スターリンによるレーニン流「執権論」の誤りの拡大

 レーニン流「執権」論は、ソビエト=「プロ執権」というものでした。全権力を掌握したソビエトは国家機関のすべてを掌握することになり、政府人民委員会が国家の最高の機関となります。
 ソビエトは一方では「なにものにも制限されない」絶対的な権力であるとされると同時に、「プロ執権」は階級敵を抑圧することを肯定する理論という問題点をはらんでいました。言いかえると、本来の「プロ執権」論が科学的社会主義の政党の主導性と人民主権という対立物の統一であったのに対し、前者のみを一面的に強調することにより、人民が主人公という視点を見失う危険性をはらんでいたのです。それは科学的社会主義の社会主義論の根幹ともいうべき、社会主義・共産主義とは人間を「最高の存在」とする人間解放の真のヒューマニズムの社会という立場に背を向けることにもつながるものでした。現にスターリンにより、レーニン流「執権論」は人民抑圧の理論にまで転化することになるのです。
 すべての国家権力をソビエトが掌握することにより、革命直後の農村での国家機関は、農村ソビエトとなりましたが、革命の中心勢力は、労働者・兵士ソビエトだったところから農村ソビエトはまだ弱体な存在にすぎませんでした。一九二九年の農業の集団化は、農村ソビエトの意向によるものではなく、スターリンの方針転換と党の決定により、ソ連共産党の「突撃隊」が農村に送りこまれ、農村ソビエトをとびこえて農業の集団化を強行したのです。
 人口の八〇パーセントが農民の国で、「こういう集団化がおこなわれ、そのうえ人民が選んだ国家機関(農村ソビエト――高村)が事実上、破壊されてしまうわけですから、ソ連社会は完全に変質」(聴濤弘『ソ連はどういう社会だったのか』一七〇ページ)してしまい、ソビエトという「国家機関の上に党がある社会」(同)へと決定的に転換してしまいます。こうしてソビエト=「プロ執権」は、ソ連共産党=「プロ執権」に転化し、党と国家は完全に一体化するに至ったのです。
 しかもレーニン流「執権」論が階級敵の抑圧を肯定するものだったところから、スターリンはその誤りを拡大し、「プロ執権」を人民抑圧を肯定する論理に変えてしまい、「人民抑圧型の社会」を肯定する理論的基礎を築いたのです。それだけではありません。一九二二年のレーニン生存中に設けられた党書記長の地位は、最初は中央委員会政治局に従属する諸機関の一つにすぎないものでしたが、スターリンのもとで、次第に強大な権力をその手に集中していきます。
 農業集団化をつうじて、国家の上に党がおかれるようになると、書記長は党中央委員会と政府の人民委員会とを結ぶ最も重要な職務となり、書記長の独裁的地位が高まるのに反比例して、党自体も国家機関としてのソビエトもその役割が低下していくことになります。
 官僚制は、それだけでも「権威の偶像化」を本来的にもたらすものです。
 「官僚制の普遍的精神は官僚制そのものの内部では位階制により、外にたいしては閉鎖的団体として守られるところの秘密、秘事である。……権威はそれゆえにその知の原理なのであって、権威の偶像化は官僚制の意向である」(全集①二八三ページ)。
 官僚制それ自体が「権威の偶像化」をもたらすのに加え、スターリンは党官僚の「位階制」をノーメンクラトゥーラのリストによって作りあげ、そのリスト作成の権限を一手に掌握したのですから、その頂点にたつスターリンの個人崇拝と偶像化が「神格化」にまで進んだのもある意味で当然の結果だったといえるでしょう。

一党支配の形式のもとでの「新しい階級」の支配

 したがって、位階制そのものを秘密裏につくり出すノーメンクラトゥーラのリスト作成権限をもつ書記長の偶像化は、ノーメンクラトゥーラの必然的産物でしかなかったのです。
 スターリンを頂点とするノーメンクラトゥーラという新しい支配階級の支配に反比例して、ソビエトも党自体も形骸化していきます。まずソビエトの形骸化の問題ですが、ソビエトの代議員は労働者、兵士、農民から選出されますが、日常的には労働者、兵士、農民として活動しながら、ソビエト大会の期間中のみの代議員ですから、党官僚が独占する情報をチェックするだけの機能を果たしえません。しかも最高ソビエト大会は年に二度招集されるものの、一回二、三日の会期であり、しかも一日に何十件も処理するため、実質的な審議をするだけの時間もなく、提出された議案を承認するのみの形式的審議にとどまらざるをえませんでした。
 次に党組織の形骸化の問題をみてみましょう。一九二四年レーニンが死亡することにより、第一四回党大会(一九二六年)からスターリンの指導がはじまります。第一四回党大会で毎年の大会開催を決定しながら、党大会は実際には二七年(第一五回)、三〇年(第一六回)、三四年(第一七回)と八年間に三回開催されたのみでした。第一七回党大会で大会開催は三年に一回以上に改めたものの、実際には第一八回党大会は五年後の三九年でした。しかも先にもみたように一七回大会で選出された中央委員、同候補の百三十九名のうち百十名が逮捕され、うち九十七名が処刑されたのですから、第一八回党大会の有効性自体が問題になるものでした。さらに第一九回党大会が開かれたのは、第一八回党大会から十三年後の一九五二年だったのです。
 また中央委員会総会の開催についても第一四回党大会で二ヵ月に一回以上の開催が決められながら、二七年五回、二八、二九年三回、三〇、三一、三二年各二回、三三年一回のみとなっています。しかも三四年の第一七回党大会で四ヵ月に一回以上に改められ、それ以後五二年の第一九回党大会までの十八年間は一度も中央委員会総会の開かれない年が八回もありました(聴濤弘『二一世紀と社会主義』一三〇~一三一ページ)。こうして党の存在自体もソビエトと同様形骸化していったのです。
 「戦時中、連合国側のクレムリン訪問者の中には、スターリンが軍事、政治、外交のさまざまな問題を大きな問題から小さな問題にいたるまで、最終的判断を自分で下しているのを見て、びっくりした人が多かった。彼は事実上の総司令官、防衛長官、兵站・補給長官、外務大臣、儀典長でさえあった」(ウォルター・ラガー『スターリンとは何だったのか』三三~三四ページ、草思社)。
 このようにスターリンとノーメンクラトゥーラは、新しい階級としてソビエトも党も形骸化させ、自らの手に権力を集中しながらその事実を押し隠し、ソ連共産党=「プロ執権」の外観を保ち続けようとします。レーニン流「執権論」のもとで、ソビエトと一般大衆とは指導・被指導の関係としてとらえられかねない危うさを伴っていましたが、スターリンは一九三六年の「スターリン憲法」においてソ連共産党を「すべての社会的ならびに国家的組織の指導的中核」として位置づけ、ソ連共産党と国民との関係を指導・被指導の関係として固定化し、形式的な共産党の一党支配体制と、内容上の新しい階級の支配を確立するに至ったのです。
 ここにおいて「ソ連型社会主義」は完成することになります。それは、一党支配体制の仮面をかぶったノーメンクラトゥーラという新しい階級が、「警察支配」によって人民を支配し、抑圧するという独特の階級支配の完成を意味していたのです。
 科学的社会主義の政党・共産党が、その理論的先見性と不屈性によって、人民の導き手となり、人民のなかで支持と信頼を獲得する問題と、その指導的役割を憲法によって規定する問題とは全く別個の問題です。前者の場合、共産党が誤まりをおかせば、人民からの厳しい批判を受けることによってその誤りは是正されますが、後者の場合、いくら誤りをおかしてもその指導的地位にかわりはないばかりか、共産党の批判をすることは国家反逆罪に該当するおそれすらあるからです。いわば党の指導的役割を憲法上の規定とすることは、党と人民との関係を指導と被指導の関係として固定化することによって、党と国家に対する人民の批判の一切を封じる専制主義につながっていくことになりました。
 この「指導的役割」条項は、スターリンによる東欧諸国への「ソ連型社会主義」の押しつけにより、東欧諸国の憲法に共通する条項となり、一党支配体制と専制主義を象徴するものとなりました。したがって次講で学ぶ東欧革命のなかでまっ先に槍玉にあげられたのがこの条項だったのです。

 

五、スターリンの覇権主義

国内的専制主義と対外的覇権主義

 スターリンとノーメンクラトゥーラによる専制主義は、スターリンによる生来の覇権主義、大ロシア人的排外主義と結びついて、対外的には「ソ連圏」の拡大をめざすと同時に「ソ連型社会主義」の押しつけをめざす覇権主義となってあらわれます。
 スターリンの専制主義は、国内においては「国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する」(日本共産党綱領)体系をつくりあげ、対外的には、「他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道」(同)へと進むことになりました。いわばスターリンの覇権主義とは国内における「ソ連型社会主義」を諸外国に輸出し、他民族をソ連に従属させ、支配するものであり、一言でいえば人民抑圧型社会を他民族に押しつけることにあったということができるでしょう。
 スターリンの覇権主義は、レーニンの生存中から問題視されていました。彼はグルジア人という少数民族の出身でありながら、ソ連邦結成時に、五つの小さな共和国を最大の共和国であるロシア共和国に吸収・合併しようとする大ロシア人的排外主義の連邦案を持ち出しました。
 それを知った闘病中のレーニンは、「大ロシア人的排外主義にたいして、私は生死をかけたたたかいを宣言する」(レーニン全集㉝三八五ページ)として、六つの共和国がすべて同列にならんで、新しい同盟、新しい連邦となる案を対置し、ようやくスターリン案をくいとめることができたのでした。
 スターリンの覇権主義的野望は、第二次世界大戦中にコミンテルンを利用しておこなわれました。一九三五年コミンテルン第七回大会は、ナチス・ドイツの侵略戦争とファシズムに反対して反ファシズム統一戦線(共産党と社会民主党を中心とする統一戦線)を提唱し、世界の平和・民主勢力を励まし、三六年にはフランスとスペインで人民戦線政府が樹立されます。
 ところがスターリンは、三九年突如「独ソ不可侵条約」を結び、それを機にナチス・ドイツを平和勢力として美化したばかりか、コミンテルンをつうじてその大国的押しつけをはかり、ヨーロッパ各国の反ファッショのたたかいを困難にし、混乱を与えたのです。
 この条約の真のねらいは、第二次大戦後東ヨーロッパにおいてソ連とドイツがいかに領土を分け合うかという「勢力範囲」を定める「附属秘密議定書」にありました。この秘密議定書は、ソ連が帝国主義国家との間で勝手に「勢力圏」をきめる覇権主義の歴史的契約になり、これによりソ連は東部ポーランド(一九三九年)、バルト三国(一九四〇年)、ルーマニアの一部(同年)をソ連に併合したのです。

第二次大戦中の覇権主義

 第二次大戦で、反ファッショ連合軍の勝利が確実な段階に入ると、戦後世界の構築が米英ソ三大国の交渉の主題となってきますが、ここでもスターリンの覇権主義が表面化します。
 一九四四年一〇月、英ソ首脳会談の際、チャーチルは「英国とソ連に関する限り、貴国がルーマニアで九〇パーセントの優位を保ち、たとえばギリシアについてはわれわれが九〇パーセントの優位を保ち、ユーゴスラビアでは五分五分で行くとしたら、どんなものだろう」(不破哲三『スターリンと大国主義』一〇〇ページ)と述べ、その分割案を書いて差し出すと、スターリンはそれに同意したとされています。
 一九四五年二月、ソ連の対日参戦の条件を話し合う「ヤルタ会談」が開かれます。このときスターリンは、日本固有の領土であった千島列島全部と北海道の一部であった歯舞、色丹、さらには釧路から留萌を結ぶ北海道本島の北半分まで要求しました。もしこれが実現していれば、日本も東西に分断されたドイツと同じ運命をたどっていたことでしょう。さすがに米英の反対でそのすべては実現されませんでしたが、北海道本島以外の要求は全て実現されることになりました。このヤルタ協定は、一九四三年一一月の米・英・華(中国)三国による「カイロ宣言」の領土不拡大の原則に明白に違反するものであり、ここに現在も続く北方領土問題の根源があるのです。
 第一三講で学んだように、レーニンは民族自決権の承認により誕生したばかりのソ連の権威をおおいに高めました。彼はマルクス、エンゲルスの民族問題に関する論文を徹底的に研究し、一九一四年「民族自決権について」と題する論文を発表します。そのなかで「民族の自決とは、ある民族が他民族の集合体から国家的に分離することを意味し、独立の民族国家を形成することを意味している」(レーニン全集⑳四二三ページ)と規定し、それまでヨーロッパの諸民族の範囲内にとどめられていた民族自決権を世界のあらゆる民族の問題に広げると同時に、それを植民地解放の理論に仕上げていきました。
 レーニンは、十月革命直後に「ロシア諸民族の権利宣言」を発表して、ポーランド、フィンランドの独立を認めました。これにより民族自決権は歴史上はじめて国際法上の権利にまで高められたのです。十月社会主義革命が人類史上はじめて「社会権」と「民族自決権」という新しい二つの権利概念を生みだした功績はけっして色あせることはないでしょう。この民族自決権の宣言は、全世界の植民地、従属国における被抑圧民族をかぎりなく激励するものとなり、その後の植民地解放運動の理論的主柱となりました。
 帝国主義戦争としての第一次大戦の講和条件として、レーニンは「あらゆる民族にたいする自決権の承認といっさいの『領土併合』――すなわち右の自決権の蹂躙――の放棄とが、無条件にふくめられていなければならない」(同二九六ページ)ことを強調しました。そして帝国主義の時代において民族自決権のスローガンは、帝国主義による植民地・従属国の民族解放運動に結びつけなければならないと訴えたのです。これにより『共産党宣言』の「万国のプロレタリア団結せよ!」のスローガンは「万国のプロレタリア、被抑圧民族団結せよ!」に発展させられることになりました。
 レーニンの主張した民族自決権は、いまや国際人権規約(A規約)の第一条に「すべての人民は、自決の権利を有する」と規定されるまでに至っていることは先にみたところです。
 それだけにスターリンの対内的専制主義は、対外的専制主義としての民族自決権の侵害の誤りとなり、覇権主義となってあらわれていることへの批判は、社会主義の理念を擁護するためにも不可欠となっているということができるのです。

 

六、「ソ連型社会主義」の源流はレーニン流「執権論」

 スターリンによって確立された「ソ連型社会主義」は、ソ連のみならず東欧にも押しつけられ、基本的にソ連・東欧の崩壊に至るまで存続しました。それは「社会主義」と名乗ってはいたものの実態は「名ばかり社会主義」であり、社会主義とは無縁の人民抑圧の社会でした。
 真にあるべき社会主義とは、何よりも経済的搾取と政治的抑圧という二重の人間疎外から解放された人間解放の社会であり、人間を「最高の存在」とする真のヒューマニズムの社会です。しかし「ソ連型社会主義」のもとにあって、ノーメンクラトゥーラという新しい階級による経済的搾取と階級支配、さらにはスターリンの個人独裁による「警察支配」は、資本主義のもとでの人間疎外以上の恐怖政治をもたらし、真のヒューマニズムのかけらもみられない「粛清」という名の大量虐殺とソルジェニーツィンのいう全土「収容所列島」化をもたらしたのです。
 世界最初の社会主義をめざしたソ連が、マルクス、エンゲルスの「社会主義論」に導かれて建国初期にはめざましい成果をあげて全世界の労働者・人民から熱狂的歓迎を受けながら、このように社会主義の対極に位置する人民抑圧型の社会にまで転落した源流は、やはりレーニン流「執権論」にあり、その誤りがスターリンのもとで極限にまで拡大されていったことにあると思います。
 その意味で「ソ連型社会主義」の失敗は、科学的社会主義の学説の破綻を示すものでないのはもちろんのこと、かえって真理探究の立場にたつ科学的社会主義の学説にたたないかぎり、プラトンのいう「哲人政治」は実現しえないことを証明したものということができるでしょう。