2011年7月24日 講義

 

 

第15講 「ソ連型社会主義」の建設と崩壊 ②

 

1.人民民主主義共和国の誕生

● 1944~45 にかけ、ソ連軍により東欧諸国はファシズム・ドイツの支配から
 解放

 ・1935 コミンテルン第7回大会で反ファッショ統一戦線のよびかけ

 ・解放を機に、47年から48年にかけて反ファッショ統一戦線は人民戦線政府
  を結成

 ・共産党、社会民主党を中心とする統一戦線政府は「人民民主主義共和国」を
  名乗る

● 東欧諸国の自主的社会主義探究の道が「人民民主主義」

 ・統一戦線を土台としてきたところから、人民主権、普通選挙制、議会制民主
  主義、複数政党制などの民主共和制を共通の課題に

 ・レーニン流「執権論」を否定して、本来の「プロ執権」の立場にたつもの

 ・「ソ連型社会主義」と区別する意味で、人民民主主義とよばれ、東欧諸国は
  包括的に「人民民主主義共和国」とよばれた

 ・ユーゴの「人民共和国憲法」―人民主権、普通選挙、自由と民主主義の保
  障、多民族の統一国家

 ・「ポーランドの道」「チェコスロバキアの道」など「民族的な道」の探究に

 ・人民民主主義の実験がそのまま続けば、20世紀の社会主義の歴史も異なった
  ものに

 

2.スターリンによる「ソ連型社会主義」の押しつけ

● ソ連の干渉の道具としてのコミンフォルム結成

 ・1943 コミンテルン解散―各国共産党は自主独立の立場に

 ・1947 ソ連の恣意的選択による東欧6ヵ国、西欧2ヵ国の党でコミンフォル
  ム結成―「ソ連型社会主義」押しつけの道具に

 ・大国主義的干渉のための秘密基金を設立して、各国にソ連の内通者を育成、
  干渉に利用

 ・日本の50年「問題」も、内通者を使ってのコミンフォルムの干渉

● 転機となったユーゴスラビアの「破門」

 ・1949. 6 自主的・民主的社会主義を探究していたユーゴを「破門」

 ・「殺人者とスパイの支配する党」「帝国主義の手先」「ファシストの党」と
  根拠なく非難

 ・これを機に、ソ連による東欧諸国への「粛清の嵐」

 ・ソ連の言いなりにならない東欧諸国の指導者は「チトー主義者」のレッテル
  をはられて、根こそぎ逮捕、処刑。それに代わってソ連言いなりの指導者を
  各国に押しつけ

 ・「ポーランドの道」をとなえてきたゴムルカは「チトー主義者」「極度の民
  族主義」として断罪、失脚。ソ連軍元帥ロコソフスキーをポーランドに派遣
  (不破『スターリンと大国主義』134ページ)―軍事・政治の要職に

 ・「チトー主義者」の口実で1949. 9 ハンガリーの「ライク裁判」、1949. 12
  ブルガリアの「コストフ裁判」、1952. 11 チェコスロバキアの「スランス
  キー裁判」(同 134,135ページ)
  ―(いずれも後日でっち上げとして名誉回復)

 ・「ソ連に無条件に従うかどうかが国際主義の試金石」(同 118ページ)と
  する

 ・人民民主主義を否定し、「ソ連型社会主義」を唯一の社会主義のモデルとし
  て押しつける

 ・「ここに、コミンフォルムは戦後の数年間に共産主義運動の中で提起されて
  いた『社会主義への道』の可能な変種についての仮説に終止符を打った。反
  ファシズム闘争の勝利後に現れている新しい社会、『人民民主主義』と名付
  けられた新しい社会への移行の独自の形態の性格についての、先の仮説に付
  随したあらゆる討論にも終止符が打たれたのである」(ボッファ「コミン
  フォルムの歴史的経験」『世界政治資料』513号 63ページ)

 ・ソ連国内の「粛清」のきっかけが「キーロフ暗殺」であったのに対し、東欧
  に「ソ連型社会主義」押しつけのきっかけとなったのがユーゴの「破門」

 

3.東欧諸国の抵抗とソ連による弾圧

① スターリン批判

● 1953 スターリン死去

● 1956.2 ソ連共産党第20回大会で、フルシチョフ「スターリン批判」を展開

 ・スターリンの大量弾圧などの批判はあっても、「ソ連型社会主義」そのもの
  への反省はなし

 ・コミンフォルム解散

●しかし、これが契機となり、東欧に「ソ連型社会主義」への批判高まる


② 「ポーランド十月革命」

● 1952 これまでの自主的な1947年憲法を改正し、ソ連型憲法制定

 ・事実上の一党支配体制に

● 1956. 6 「ポズナニ事件」と「ポーランドの十月革命」

 ・党=国家と国民との矛盾激化して、ポーランド西部のポズナニで反政府行動
  激化、軍隊出動の流血惨事に

 ・8年ぶりにゴムルカが第1書記に就復活、恐怖政治の廃止をかかげ、ソ連の
  干渉を排して自由化政策を打ち出す(「ポーランドの十月革命」)

 ・ソ連、十月革命阻止を図って強力な代表団を送るも、軍事介入に踏み切らず


③ 「ハンガリー十月革命」と「ハンガリー事件」

● ユーゴの破門以後、一党支配、極端な重工業偏重、強制的農業集団化などソ
 連型社会主義の押しつけ

● 1956. 10. 23 ポーランド十月革命に連帯してブタペストで20数万人のデモ。
 ソ連の覇権主義からの民族的自由(ソ連軍の撤退)、複数政党制、生活向上
 を求めて(「ハンガリーの十月革命」)

 ・10. 24 ソ連軍による武力弾圧(第1次介入)

 ・怒った国民はストライキで抵抗し、全都市で革命委員会と労働者評議会が権
  力掌握

 ・10. 25 ナジ政権誕生。複数政党制、自由選挙、ソ連軍撤退の方針

●「ハンガリー事件」

 ・10. 末 ソ連軍第2次武力介入

 ・11. 1 ナジ政権、ソ連の介入に抗議し、ワルシャワ条約からの撤退、中立を
  宣言

 ・ワルシャワ条約機構とは、1955. 5 西ドイツのNATO加盟を機に、ソ連、
  アルバニア、ブルガリア、ハンガリー、東ドイツ、ポーランド、ルーマニ
  ア、チェコスロバキアの8ヵ国で結成された軍事同盟―NATOに対抗

 ・ソ連はポーランドへの寛容な態度がハンガリーの強硬姿勢をうみだしたと判
  断、東欧全体への広がりを恐れ弾圧へ

 ・ソ連、内通者を使ってナジ政権を崩壊させる

 ・11. 22 ソ連、ナジを逮捕、処刑し、「ハンガリー十月革命」を武力で弾圧

● ハンガリー事件は、「平和愛好勢力ソ連」のイメージを一変させ、全世界の
 共産党・労働者党に衝撃を与える

 ・ソ連に盲従しないと武力弾圧の恐怖感

 ・ポーランドのゴムルカもその流れのなかに埋没


④ チェコ五ヵ国軍隊侵入事件

●「プラハの春」

 ・「ミニ・スターリン」ノボトニーによる「ソ連型社会主義」の押しつけ

 ・1968. 1 改革派のドプチェクがノボトニーをしりぞけ第1書記に就任、
  「人間の顔をした社会主義」(自由と民主主義の社会主義)をめざす「社会
  主義へのチェコの道」(党行動綱領)を発表―集会、結社の自由、言論の自
  由と検閲の禁止、西側諸国への旅行の自由を提唱

 ・「われわれは、……新しい社会主義モデルの建設をめざして戦いに乗り出そ
  うとするもの」

 ・ソ連、政治、経済的圧力に加えて直ちに国境沿いに大規模な軍事演習で圧力

 ・文化人は、「二千語宣言」で抵抗権を主張し、外国(ソ連)の介入に武力で
  抵抗を宣言

 ・1968. 7 ワルシャワ条約加盟5ヵ国(ソ連、東ドイツ、ポーランド、ハン
  ガリー、ブルガリア)の最後通告、ドプチェク拒否

● チェコ五カ国軍隊侵入事件

 ・1968. 8. 20 ワルシャワ条約加盟の5カ国軍隊によるチェコスロバキア侵
  入。チェコ指導部を逮捕、力ずくで不法な侵入・占領を合理化―内通者から
  の要請を装って合理化

 ・中央委員全員を逮捕し、ウクライナに収容。ドプチェクら指導部をモスクワ
  に連行し、ソ連に屈服させる

 ・ソ連指導部は、これを機に、ワルシャワ条約を根拠に「社会主義共同体」加
  盟諸国の主権は制限されているという悪名高き「制限主権論」をとなえ、覇
  権主義を合理化

 ・「人民民主主義」を否定したのみならず「ソ連型社会主義」から離脱した政
  権はいつでも武力で転覆を宣言


⑤  81年ポーランド事件

● 1980 自主管理労組「連帯」の結成

 ・1980. 7~8 食肉値上げを契機にストライキ広がる

 ・グダニスク造船所の労働者(ワレサ)を中心に、自主管理労組「連帯」を結
  成

 ・1980. 8 「連帯」と政府との間にスト権、団結権の保障、検閲の廃止など
  で合意(「政労合意」)

 ・ソ共機関誌「プラウダ」でポーランドの「政労合意」を批判―「ソ連型社会
  主義」の枠組みを超える改革とみなし、「12年前のチェコスロバキアの教
  訓を思い出せ」と恫喝

● 1981. 12

 ・「ソ連型社会主義」の枠内に閉じこめるために、ヤルゼルスキによる軍事
  クーデターと軍事独裁政権の樹立、戒厳令施行

 ・ポーランド統一労働者党(共産党)、違法なクーデターと戒厳令を追認

 ・ポーランド国会、ソ連に追随して「連帯」解体を可決

 

4.「ソ連型社会主義」の崩壊

① 東欧革命

● ポーランドの「連帯」主導の連立内閣誕生

 ・1989. 2 統一労働者党、非合法だった「連帯」と会談。再合法化と自由
  選挙での合意

 ・1989. 6 自由化された国会選挙で「連帯」圧勝

 ・1989. 8 「連帯」主導の連立内閣誕生し、共産党の一党支配体制崩壊
  ―東欧革命の契機となる

 ・1989. 11 統一労働者党(共産党)解散、新政党に―自由選挙と市場原理
  導入かかげる

 ・1989. 12 「共産党の指導的役割」条項削除。「ポーランド人民共和国」
  が「ポーランド共和国」に

● ハンガリーへの波及

 ・1989. 6 ハンガリーの対オーストラリア国境の鉄条網撤去

 ・1989. 10 社会主義労働党(共産党)、「プロ執権」と民主集中制を放棄
  して、「社会党」に名称変更―市場経済導入、個人所有認める

 ・ハンガリー国会、憲法から「党の指導的役割」規定削除

 ・「ハンガリー人民共和国」から「ハンガリー共和国」に―新生ハンガリーに

● 東ドイツの民主化

 ・東独は「ソ連学校の優等生」といわれた

 ・東ドイツ市民、ハンガリーを経て西ドイツに大量亡命

 ・1989. 10 「東ドイツ建国40周年」の祝賀デモは反政府デモに、各地に拡大

 ・18年続いたホーネッカー政権崩壊、内閣総解職

 ・1989. 11. 9 政府国境開放。「ベルリンの壁」の事実上の崩壊(実際の開
  通は12. 22)

 ・「共産党の指導的役割」を憲法から削除
  →もっとも社会主義といわれた東ドイツの崩壊は、「ソ連学校の優等生」の
   挫折であり、東欧諸国に激震を与えた

● チェコスロバキアの「心やさしき革命」

 ・1989. 11. 17 プラハで学生5万人のデモ。デモ弾圧。デモの拡大。「市
  民フォーラム」結成

 ・政府と「市民フォーラム」の会議で、憲法の「共産党の指導的役割」条項削
  除決定

 ・「プラハの春」以来20年にわたるソ連派指導者・フサーク大統領解任

 ・1989. 12. 10 チェコスロバキア民主化革命勝利記念集会に30万人

 ・ドプチェクも顔を出す

 ・「市民フォーラム」のハベル、大統領に

● ルーマニアの「流血革命」

 ・1989. 11. 17 ティミショアラでの反政府デモ。これに対しチャウシェスク
  市民を大虐殺し、非常事態宣言。国境封鎖

 ・11. 21 国民の動揺を押さえようと首都ブカレストでチャウシェスク支持
  集会。一転して反対政府集会に

 ・11. 22 デモに国民軍兵士が合流し、数十万人のデモ隊が共産党本部に突
  入。治安部隊と市街戦に。チャウシェスク夫妻ヘリコプターで逃亡。逮捕、
  処刑

 ・全土を制した救国戦線評議会は、自由選挙の実施、一党独裁の廃止、複数政
  党制を導入

 ・「ルーマニア社会主義共和国」から「ルーマニア」に


② 東欧革命の原因

● 1989. 8 から僅か4ヶ月余りで東欧諸国はすべて崩壊

 ・「ソ連型社会主義」と人民との矛盾の激しさを示すもの

 ・民主化要求の先頭に、憲法上の「共産党の指導的役割条項」の削除

 ・スターリン憲法のこの規定は、「プロ執権」の人民主権論を否定するもので
  あることを証明

● 東欧崩壊の真の原因は、生産力と生産関係の矛盾

 ・ノーメンクラトゥーラと人民との対立という生産関係が生産力の発展にとっ
  ての障害に

 ・東西ドイツは、どちらも生産力ゼロから出発し、戦後経済的にも体制的優位
  性を競い合う(東ドイツの中央集権的計画経済と西ドイツの社会的市場経
  済)

 ・社会的市場経済とは、市場経済の立場にたちながらも国民全体の福祉を実現
  することを目的とする―西ドイツに始まり、いまやEU27ヵ国全体の基本
  的 経済政策に。アメリカ中心の新自由主義型国家独占資本主義とは大きく異
  なる資本主義

 ・東ドイツの崩壊で蓋を開けてみると、その生産力は東西で大きな差
  ―「トラバント」と「フォルクスワーゲン」

● ソ連の崩壊

 ・「ソ連型社会主義」は「スターリン・ブレジネフ型の政治・経済体制」とよ
  ばれる

 ・1985 ゴルバチョフ書記長就任―「ペレストロイカ(立て直し)」と「グ
  ラスノスチ(情報公開)を唱える」も、「ソ連型社会主義」の根本的反省に
  つながらず

 ・一党支配体制、中央集権的指令経済、ノーメンクラトゥーラに変化なし

 ・ゴルバチョフ「新しい思考」で米ソ協調路線と覇権主義の合理化

 ・89の東欧革命で一定の弥縫策―時すでに遅し

 ・91. 8 ペレストロイカに反対する保守派のクーデターに、ソ連共産党の関
  与疑惑

 ・91. 12 ソ連共産党の解体でソ連崩壊

 ・「歴史的な巨悪の崩壊」