『21世紀の科学的社会主義を考える』より

 

 

第一五講 「ソ連型社会主義」の建設と崩壊 ②

 

一、人民民主主義共和国の誕生

 第一四講で、第二次大戦終了時までにスターリンが築きあげた「ソ連型社会主義」の実態を検討してきました。
 本講では、第二次大戦後「ソ連型社会主義」がソ連のみならず東欧全体に拡大し、またその内部の矛盾の激化によってソ連・東欧が崩壊していった過程を学んでいきたいと思います。
 ヒトラーは、一方で一九三九年「独ソ不可侵条約」を結びながら、他方で四〇年九月、コミンテルンを敵目標とする「日、独、伊三ヵ国防共枢軸同盟」を結び、ハンガリー、ルーマニア、スロバキア、クロアチアなどの東欧諸国を枢軸同盟に参加させます。四一年六月ドイツはソ連に宣戦布告し、次々侵攻を拡大していきますが、四三年一月のスターリングラードにおけるソ連の勝利は流れを決定的に逆転させ、ソ連軍は敗退するドイツを追って東欧諸国に進軍し、各地で解放軍として迎えられます。
 コミンテルン第七回大会(一九三五年)の決定を受けて、共産党と社会民主党を中心とする反ファシズム統一戦線を結成し、祖国解放のためにたたかっていた東欧各国の民主勢力は、ファシズムから解放されたのを機に、四七年から四八年にかけてソ連の支援のもとに人民戦線政府を結成します。四五年二月米英ソ三国によるヤルタ会談で、第二次大戦後の東ヨーロッパの政治体制を反ファシズムを戦った人民戦線によるとの原則を承認します。
 こうして第二次大戦のあと、東欧諸国には、普通選挙により議会の多数獲得をつうじて統一戦線政府が誕生します。これらの諸国は「人民民主主義共和国」とよばれますが、それは「事実上、三五年の共産主義インタナショナル(コミンテルン――高村)第七回大会がうちだした反ファッショ戦線政策を、さらにおしすすめて適用したもの」(フォスター『三つのインタナショナルの歴史』五〇五ページ)でした。
 人民民主主義共和国に共通しているのは、いずれも統一戦線を土台に人民戦線政府が誕生したところから、人民主権、普通選挙、複数政党制、議会制民主主義など、民主共和制を共通の課題としながら社会主義を建設しようとするものでした。それはいわば「ソ連型社会主義」とレーニン流「執権論」を否定して、本来の「プロ執権」の立場にたって自由と民主主義の全面開花する社会主義を建設しようとしたのです。
 一例として、ソ連邦の援助によらず、唯一独力で自国解放をなしとげた「ユーゴスラビア連邦人民共和国憲法」(一九四六年)をみてみましょう。
 そこでは「すべての権力は人民から発し、人民に属する」(宮沢俊義他編『人権宣言集』三〇〇ページ)ことが明記され、続けて「人民は自由に選挙された国家権力の代表機関、すなわちファシズムと反動に対する民族解放闘争の中で発生および発展」(同)した、各段階の「各人民委員会を通して自分の権力を行使する」(同)と規定され、共和国が反ファッショ人民戦線の延長線上にある人民主権国家であることが明らかにされています。
 「国家権力のすべての代表機関は、普通、平等および直接の選挙権にもとづいて、秘密投票により、市民によって選挙される」(同)として、ソビエト型の代表選出が否定されています。それと同時に、男女同権、良心の自由、言論、出版、集会、結社、示威行進の自由などの自由権に加え、社会権、国家の健康配慮義務、教育権も保障されています。
 ユーゴスラビアは多民族、多宗教国家であるところから、「民族的、人種的もしくは宗教的な憎悪および敵意のあらゆる宣伝は、違憲であり、処罰せられる」(同三〇三ページ)として、民族問題、宗教問題も政治的民主主義を貫くことによって解決され、統一国家を実現しうることを示す先駆的規定ももっていました。
 社会主義への移行のための「生産手段の社会化」についても、「共和国における生産手段は、全人民的財産すなわち国家の手中にある所有か、または人民協同組合の所有か、または私的な自然人および法人の所有である」(同三〇一ページ)という柔軟な姿勢を示しています。
 他の人民民主主義共和国も同様の共和国憲法をもっていました。それを一言でいえば、「ソ連型社会主義」を反面教師としながら、本来の社会主義の理念を自主的に探究しようとする新たな試みだったといえるでしょう。こうして東欧諸国は、「ユーゴの道」「ポーランドの道」「チェコスロバキアの道」など各国の実情にあった「民族的な道」である人民民主主義をつうじて社会主義をめざすことになります。
 この人民民主主義の実験がそのまま進行すれば二〇世紀の社会主義の歴史も大きく異なると同時に、社会主義の権威もまた高まっていたことでしょう。しかしソ連の介入により、無惨にもこの夢はうちくだかれることになるのです。

 

二、スターリンによる「ソ連型社会主義」の押しつけ

ソ連の覇権主義の道具としてのコミンテルン

 一九四三年、各国の共産党が質量ともに発展してきたことを受けて、統一的国際組織や国際指導部の存在が各国の党や革命運動の前進にとっての妨げにさえなっていることなどの確認にもとづき、コミンテルンは解散されます。もともと共産党を各国の事情を省みることなく単一の国際組織とすること自体に無理があったのであり、ここにきてスターリンも各国共産党の自主独立の立場を認めざるをえなくなったのです。
 しかしスターリンの覇権主義の野望はそれで終わったわけではありません。四七年九月、スターリンによって恣意的に選択されたソ連と東欧六ヵ国(ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ユーゴスラビア)、西欧二ヵ国(フランス、イタリア)の九ヵ国でコミンフォルムが結成されます、名目は情報連絡機関ということでしたが、実際にはスターリンの覇権主義的干渉と「ソ連型社会主義」を各国に押しつける覇権主義の道具とされたのです。
 スターリンは覇権主義的干渉のために、コミンフォルム加盟国のみならず、それ以外の諸国にも金づるを使って内通者をつくりあげていきます。そのために「左翼労働者組織援助国際労働組合基金」という名の秘密基金を、これまた恣意的に選択されたソ連、中国、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ルーマニア、ハンガリーの七ヵ国の党の分担でつくっていました(不破哲三『干渉と内通の記録』下一二二ページ以下)。ここにいう「左翼労働者組織」とは、ソ連に盲従するソ連への内通者を意味しています。日本共産党内では、野坂、袴田、志賀、神山などがこの「基金」の援助を受けており、いわゆる「五〇年問題」でのソ連の内政干渉のとき一役かうことになるのです。
 ヨーロッパの共産党は、フランス、イタリアをはじめ、すべてこの「基金」の援助を受け、ソ連に盲従していったところから、ソ連・東欧の崩壊とともに資金的援助もなくなり消滅するか、それに近い状態になってしまいます。
 この「基金」はスターリンからゴルバチョフの時代まで実に四十年以上も続き、ソ連の覇権主義を各国に押しつける物質的基盤となったのです。

ユーゴスラビアの「破門」と人民民主主義の抹殺

 コミンフォルムがその加盟国のみならずそれ以外の諸国への覇権主義的干渉の道具としての本質を明らかにした最初の事件が、ユーゴスラビアの「破門」でした。
 一九四九年六月、コミンフォルムは「ソ連型社会主義」と一線を画し、自主的・民主的に社会主義への道を探究していたチトーを先頭とするユーゴスラビア共産党を「破門」し、ユーゴスラビア共産党を「殺人者とスパイの支配する党」「帝国主義の手先」「ファシストの党」などとするでっちあげの非難を加えます。
 それと同時に、スターリンは自主的・民主的に社会主義への道を探究していた東欧諸国の指導者たちに対し、「チトー主義者」のレッテルをはって根こそぎ逮捕、処刑し、それに代わってソ連いいなりの内通者を指導者として押しつけます。そのなかにあっても露骨な「ソ連型社会主義」の押しつけを示したのがポーランドでした。まず「ポーランドの道」を唱えてきたゴムルカを「チトー主義者」「極度の民族主義」として断罪し、失脚させたことに始まり、スターリンはソ連軍の現職の元帥ロコソフスキーをポーランドに派遣し、ポーランドの国防相、副首相、ポーランド統一労働者党の政治局員という軍事・政治の要職につけてポーランドを支配したのです。
 またスターリンは、ハンガリーでは「ライク裁判」(一九四九年九月)、ブルガリアでは「コストフ裁判」(四九年一二月)、チェコスロバキアでは「スランスキー裁判」(五二年一一月)などのでっちあげ裁判で、「チトー主義者」を一掃する「粛清の嵐」を吹かせます(今日では彼らはすべて名誉回復しています)。
 これは文字どおり、スターリン指導下にソ連国内で行われた「粛清」の手口をそのまま利用したものでした。その口実として用いられたのが、「ソ連に無条件に従うかどうかが国際主義の試金石であり、自主性とか『独自の道』とかをもちだすのは、チトー流の裏切りのかくれみのにすぎない」(不破哲三著『スターリンと大国主義』一一八ページ)というものでした。
 こうして東ヨーロッパの「人民民主主義共和国」は一掃され、ソ連の内通者がソ連の援助のもとに各国の指導者となり、東欧諸国に「ソ連型社会主義」が押しつけられることになるのです。
 「ここに、コミンフォルムは戦後の数年間に共産主義運動の中で提起されていた『社会主義への道』の可能な変種についての仮説に終止符を打った。反ファシズム闘争の勝利後に現れている新しい社会、『人民民主主義』と名付けられた新しい社会への移行の独自の形態の性格についての、先の仮説に付随したあらゆる討論にも終止符が打たれたのである」(ボッファ「コミンフォルムの歴史的経験」『世界政治資料』五一三号六三ページ)。
 ソ連国内で、スターリンの「粛清」と個人独裁を生みだしたきっかけが「キーロフ暗殺」であったとすれば、東欧の人民民主主義を抹殺し、「ソ連型社会主義」押しつけを生みだしたきっかけが、ユーゴスラビアの「破門」だったのです。

 

三、東欧諸国の抵抗とソ連による弾圧

「ポーランドの十月革命」

 しかし東欧諸国の人々は、けっして「ソ連型社会主義」の押しつけを安んじて受け入れたわけではなく、各国で抵抗運動を起こしますが、スターリンの流れをつぐフルシチョフ、ブレジネフは、そのすべてに介入・干渉し、自主的・民主的な社会主義の道への復活を許さなかったのです。その動きをみていくことにしましょう。
 一九五三年スターリンは死去し、五六年ソ連共産党二〇回大会で、フルシチョフは、これまで神格化されていた「スターリン批判」を展開し、スターリンの覇権主義的干渉の道具であったコミンフォルムも解散されます。しかしそこには大量弾圧などの批判はあっても「ソ連型社会主義」そのもの、とりわけスターリンの覇権主義への根本的反省はありませんでした。
 この「スターリン批判」を機に、東欧でそれまで押さえられていた「ソ連型社会主義」への批判が高まります。
 「ポーランドの道」を閉ざされたポーランドでは、五二年ソ連型憲法に改悪し、事実上の共産党一党支配体制を確立していました。しかし五六年六月、党=国家と国民との矛盾が激化し、ポーランド西部のポズナニで反政府行動が展開され、軍隊が出動する流血の惨事となります。いわゆる「ポズナニ事件」であり、その結果民主化を要求する国民の前に、八年ぶりにゴムルカが第一書記として復活します(「ポーランドの十月革命」)。
 ソ連はフルシチョフを先頭に強力な代表団をポーランドに送り、軍事的圧力もかけつつ、十月革命を阻止しようとしますが、ゴムルカを支える国民の力の前に、一〇月二〇日朝、ソ連代表団は帰国を余儀なくされます。

「ハンガリー十月革命」とハンガリー事件

 このとき同時進行していたのが、「ハンガリーの十月革命」でした。ハンガリーでは、ユーゴスラビアの「破門」以後、一党支配体制、極端な重工業偏重、強制的農業集団化など「ソ連型社会主義」の押しつけが続いていましたが、それへの反発が強まり、五六年一〇月二三日、首都ブタペストでポーランドに連帯して二十数万人のデモが発生します。その要求は、ソ連軍の撤退、複数政党制、生活向上というものでした。それは、ソ連代表団がポーランドから帰国したわずか三日後のことでした。
 翌二四日、突如ソ連軍による武力弾圧が始まります。怒った国民は、全国的なストライキで抵抗し、全都市で革命委員会と労働者評議会が権力を握ります。こうしてナジ政権が誕生し、ソ連軍の撤退、複数政党制、自由選挙を打ち出します。これに対して一〇月末、ソ連軍は第二次武力介入をおこない、ナジ政権は、ソ連の介入に抗議し、ワルシャワ条約機構からの脱退と非同盟・中立を宣言します。
 ワルシャワ条約機構とは、五五年五月西ドイツが北大西洋条約機構に加入したのを契機として、ソ連、アルバニア、ブルガリア、ハンガリー、東ドイツ、ポーランド、ルーマニア、チェコスロバキアの八ヵ国によって結成された軍事同盟であり、これによって東西軍事ブロックの対立という冷戦の構図がつくられたのです。
 ソ連はポーランドへの寛容な態度がハンガリーのこうしたソ連への強硬姿勢を生みだしたと判断し、これを許せば東欧全体に連鎖反応を引き起こすと考え、カーダール第一書記をソ連に連行し、カーダールを首班とする「革命労農政府」というかいらい政権をでっちあげます。これによってナジ合法政権を崩壊させると同時に、ソ連はブタペスト内のユーゴスラビア大使館に避難したナジを身の安全を保障すると欺して連れ出し、逮捕、処刑してしまいます。これにより「ハンガリー十月革命」は完全に軍事的に制圧されてしまうのです。
 これがいわゆる「ハンガリー事件」です。それまでソ連は、第二次世界大戦で連合軍が勝利する転機をつくり出したところから、反ファッショの「平和愛好勢力」であるとみなされていましたが、この事件はそのイメージを一変させ、全世界の共産党・労働者党に大きな衝撃を与えました。それと同時に、ソ連に盲従しないと武力弾圧によって合法的政権も転覆されるかもしれない恐怖感を東欧全体に広げ、民主化の流れのなかで一度は復活したポーランドのゴムルカもその流れのなかに埋没することになってしまいます。

チェコ五ヵ国軍隊侵入事件

 再び東欧で民主化の動きが表面化するのは、一九六八年一月の「プラハの春」でした。当時のチェコスロバキアの指導者は、「ミニ・スターリン」とよばれていたノボトニーでしたが、それをしりぞけ非スターリン化の延長線上に改革派のドプチェクが第一書記に就任し、「人間の顔をした社会主義」を訴えます。もともとチェコスロバキアはヨーロッパ中央部に位置し、西ヨーロッパの影響が強く、工業力、知識、高い水準の技術、民主主義の伝統をもっていたところから、ノボトニーの官僚主義的な「ソ連型社会主義」の押しつけは、強い違和感をもって受けとめられていたのです。
 ドプチェクは、第一書記に指名されると、「党は労働者人民のために存在しているのだから、人民の上や、社会の外に立ったりせず、社会の完全な一員として生きなければならない。民主主義とは意見を表明する権利と可能性を意味するのみならず、政治権力がこれらの意見を考慮にいれるということであり、それぞれの人びとがほんとうに決定に参加する可能性である」(フェイト『スターリン以後の東欧』二七四~二七五ページ)とラジオで演説し、人々は自由に、報復を恐れることなく政治を語りはじめました。
 四月六日に採択された「チェコスロヴァキアにおける社会主義への道」と題する「党行動綱領」では、「共産党は社会に圧迫をくわえて指導的な役割を行使する意図をもたないし、社会の自由な、進歩的、社会主義的発展をめざして献身的にこれに奉仕するものである。……党の政策は、共産党員以外の市民の権利と自由が党によって侵害されているという感情を発生させることであってはならない」(同二八一~二八二ページ)として、検閲制度の廃止と言論の自由を約束していました。さらに「われわれは、深く民主的であり、チェコスロヴァキアの諸条件に適合した、新しい社会主義モデルの建設をめざして戦いにのりだそうとするものである」(同二八三ページ)と宣言しています。
 こうした動きに対して、ソ連は警戒心を強め、政治、経済、軍事のあらゆる分野で圧力をかけます。これに対し、六月に発表された文化人・知識人による「二千語宣言」は、外国からの干渉の可能性の問題にはじめて公然とふれて、「政府がその国民から委任された任務をおこなうかぎりにおいて、われわれは武器をとってでも政府を支持する」(同二八九~二九〇ページ)ことを誓約し、世論に大きな影響を及ぼします。知識人と労働者の連帯は高まり、党と国民による国家主権防衛の決意は高まります。
 七月一五日、ワルシャワ条約加盟五ヵ国(ソ連、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア)は最後通告を突きつけますが、ドプチェクはこれを拒否します。その返書には、「党のあたらしい民主的政策の権威は広範な労働者大衆と絶対多数の市民層のなかで高められ」(同二九一ページ)、「すべての階級、階層の市民の大多数が……検閲の廃止、言論の自由に賛成」(同)していると記載されていましたが、それはけっして誇張ではなかったのです。ソ連に対する敵意もないし、ワルシャワ条約機構から脱退したり、社会主義体制を変えようとする意図もないところから、やがてはソ連も理解してくれるだろうとの強い期待を、チェコスロバキアの全体が抱いていました。
 しかしこの期待は見事に裏切られ、八月二〇日ワルシャワ条約五ヵ国軍隊によるチェコスロバキア侵入事件が発生します。ワルシャワ条約は加盟国全員一致の決議を必要としていたにもかかわらず、ソ連の軍事介入に反対していたルーマニアには何の相談もないまま、加盟国全員の決議による侵入と偽るでたらめぶりでした。
 彼らは内通者を利用して「チェコスロバキア社会主義共和国の党と政府の指導者たち」(タス通信)の要請を受けたとの口実のもとにチェコに侵入し、首都プラハ内でチェコ共産党中央委員全員を逮捕すると同時に、チェコ全土を軍事占領しました。逮捕した中央委員はチェコから隣国のウクライナの収容所に連行した後、さらにドプチェクら指導部をモスクワへ連行し、ソ連に屈服させる条約に力ずくで捺印させ、やっと帰国させたのです。
 この「チェコ五ヵ国軍隊侵入事件」は、五ヵ国とはいうものの、いうまでもなくソ連の主導下に強行されたものであり、一国の主権を完全に侵害する国際法違反の事件でした。すべての独立国は、自らの国内・国際問題を独立して決定しうる国家主権をもっています。この国家主権にもとづいてワルシャワ条約という名の条約を締結しているのです。しかしソ連のブレジネフ書記長は、ワルシャワ条約を根拠にして、「社会主義共同体」に加盟する諸国の主権は制限されているという、悪名高き「制限主権論」を唱えて、その覇権主義的侵略を合理化しようとしました。国家主権をもっているから条約を締結しているのに、逆にワルシャワ条約という条約が存在するから国家主権は制限されるという議論は、国際法をまったく無視した暴論でしかありません。
 それはともかくこの「制限主権論」によって、「ソ連型社会主義」から離脱しようとする政権があれば、ソ連はいつでも武力で転覆することを公然と国際的に宣言するに至ったのです。
 こうしてスターリン以降のソ連指導者は、たんに「人民民主主義」を否定したにとどまらず、「ソ連型社会主義」から一歩もはみ出すことを許さないという、民族自決権と一国の主権そのものを否定するところまで行きついたのです。

八一年のポーランド事件

 この「チェコ五ヵ国軍隊侵入事件」を最大限に利用して「ソ連型社会主義」を押しつけたのが、八〇年のポーランド問題でした。
 八〇年七月から八月にかけて食肉の大幅値上げを契機に、広範な労働者のストライキが起き、グダニスク造船所の労働者によって自主管理労組「連帯」が結成されます。「自主管理労組」と名乗ったのは、官製の労組ではないことを示すとともに、次講で学ぶユーゴスラビアの「自主管理」社会主義に学んだものと思われます。八月三一日、「連帯」(ワレサ委員長)と政府との間で、経済的要求に加え、スト権、団結権の保障、検閲の廃止などについて「政労合意文書」が調印され、「連帯」は全国組織に発展します。
 これに対しソ連共産党機関誌「プラウダ」は、この「政労合意」を批判し、「十二年前のチェコスロバキアの教訓を思い出せ」と恫喝しながら、内通者を組織して統一労働者党指導部への攻撃をはじめます。
 八一年一二月、ソ連はポーランドを「ソ連型社会主義」の枠内にとじ込めるために、ヤルゼルスキーを使って軍事クーデターを強行させます。ヤルゼルスキーは直ちに軍事独裁政権を樹立し、戒厳令を敷きます。本来なら政権党であるポーランド統一労働者党はこの違法な軍事クーデターを批判し、国民とともに抵抗運動を起こさなければならないにもかかわらず、ソ連の恫喝に屈し、ヤルゼルスキー軍事政権を承認し、戒厳令も認めてしまいます。これに追随してポーランド国会も「連帯」解体を含む新労組法を可決し、ここに「政労合意」は破棄されてしまうことになります。

 

四、「ソ連型社会主義」の崩壊

東欧革命

 「人民民主主義共和国」への道がソ連覇権主義によって閉ざされ、「ソ連型社会主義」を押しつけられて以来、東欧諸国人民の抵抗は、抑えられても、弾圧されても、くり返し頭をもたげ、ついに一九八九年の東欧革命によって、東欧諸国の「ソ連型社会主義」は崩壊するに至ります。しかしそれは「ソ連型社会主義」とはいっても、社会主義とは無縁の人民抑圧国家であり、人間の類本質を疎外する国家であったところから、人間の類本質である自由と民主主義の回復を求める人間解放のたたかいの前に崩壊したにすぎません。
 そのきっかけとなったのがポーランドでした。ヤルゼルスキーのクーデターとそれを追認した統一労働者党の姿勢は、「連帯」解体後も国民のなかに強い不満を残していました。そのため統一労働者党は、世論の動きに押され、八九年二月いったんは非合法化した自主管理労組「連帯」と会談し、「連帯」の再合法化と自由選挙の実施で合意します。
 六月に施行された自由選挙で「連帯」は圧勝し、八月、四十年間続いた統一労働者党の政権に変わって「連帯」主導の連立政権が誕生します。一一月、国民から見放された統一労働者党は、自ら解散して新政党に生まれ変わり、自由選挙と市場原理導入をかかげます。一二月、新政権は、憲法を改正してスターリン憲法のキーワードであった「共産党の指導的役割」条項を廃止し、国名も「ポーランド人民共和国」から「ポーランド共和国」に変更し、無血革命を成功させます。
 ポーランド革命の影響は、直ちにハンガリーへ波及します。一〇月、社会主義労働者党(共産党)は、「プロ執権」論と党の民主集中制を放棄して党名も社会党に変えます。社会党は憲法から「共産党の指導的役割」条項を削除するとともに、市場経済の導入、個人所有を認め、国名も「ハンガリー人民共和国」から「ハンガリー共和国」に変更して新生ハンガリーへと脱皮します。
 東欧諸国のなかで、もっとも強力な「社会主義国」であるとされ、「ソ連学校の優等生」といわれたのが東ドイツでした。六月にハンガリーがオーストリアの国境にあった鉄条網を撤去したのを知った東ドイツ市民は、チェコ、ハンガリー、オーストリアを経て、西ドイツに大量に亡命しはじめます。一〇月、ホーネッカーは「東ドイツ建国四十周年」を記念する祝賀デモを組織し、揺るみかけた土台を立て直そうとしますが、逆にこのデモが反政府デモに転化し、各地に拡大することになります。こうして十八年間続いたホーネッカー政権は崩壊し、内閣は総辞職します。一一月、政府は西ドイツとの国境を開放し、ここに東西両陣営の対立を象徴する「ベルリンの壁」は事実上崩壊するに至ります。また一二月、憲法改正により「共産党の指導的役割」条項は削除されます。
 東欧を代表する「ソ連型社会主義」の国家、東ドイツの崩壊は、その他の東欧諸国にも激震を与えることになり、東欧全体に東欧革命を実現する契機となりました。
 チェコスロバキアの革命は「心やさしき革命」とよばれました。一一月一七日首都プラハで学生五万人の大規模なデモが行われ、政府がそれを弾圧したのが契機となりました。逆に市民のデモは拡大し、市民は「市民フォーラム」を結成して、民主化を要求します。政府と「市民フォーラム」の間で交渉が行われ、憲法における「共産党の指導的役割」条項の削除が決定されます。こうした流れのなかで「プラハの春」以来、二十年にわたって「ソ連型社会主義」を押しつけてきたフサーク大統領は解任されます。一二月一〇日チェコスロバキア民主化革命勝利記念集会にはチューリップの花をかかげた三十万人の人々が集まり、ドプチェクも顔を出します。そして「市民フォーラム」の代表者・ハベルが新たに大統領に就任するのです。
 これに対しルーマニア革命は「流血革命」となりました。一一月一七日ルーマニア東部のティミショアラで大規模な反政府デモが行われます。チャウシェスク政権は大弾圧をもって応え、市民を大量に虐殺するとともに、非常事態宣言を発し国境を封鎖します。チャウシェスクは、二一日巻き返しのために首都ブカレストでチャウシェスク支持集会を開催します。チャウシェスクの演説中に「人殺し!」の声があったのが引き金となり、一転して反チャウシェスク集会になります。翌二二日、首都での反政府デモに国民軍が合流し、数十万人のデモ隊が共産党本部に突入し、迎え撃つ治安部隊と国民軍、デモ隊の間で市街戦が展開されます。チャウシェスク夫妻はヘリコプターで逃亡をはかりますが、逮捕され、処刑されてしまいます。全土を制した救国国民戦線評議会は、自由選挙の実施、一党支配の廃止、複数政党制の導入をかかげ、国名を「ルーマニア社会主義共和国」から「ルーマニア共和国」に変更します。
 こうして、八月のポーランドの新政権誕生からわずか四ヵ月余りで、東欧の「社会主義国」はすべて崩壊してしまったのです。「ソ連型社会主義」と人民との矛盾がどれだけ激しいものであったのかを示す出来事だったということができるでしょう。

東欧革命の真の原因

 東欧の民主化要求で真っ先にかかげられたのは、憲法上の「共産党の指導的役割」条項の削除の要求でした。スターリン憲法によって定式化されたこの規定は、党と人民の関係を指導するものとされるもの、指導と被指導の関係としてとらえることにより、はからずも「プロ執権」論の一つの側面である「人民の、人民による、人民のための政治」という人民主権論の対極に位置する概念であったことを証明することになったのです。
 確かに、東欧革命の契機となったのは、現象的には自由と民主主義という政治的課題にありましたが、より本質的な要素となったのは、生産手段の国有化によるノーメンクラトゥーラ対労働者という生産関係が生産力の発展にとっての桎梏になったということではないかと思います。
 それを象徴するのが、東西ドイツの生産力の差でした。第二次大戦で、ナチスの拠点であったドイツ国内はすべて戦場となり廃墟と化しました。すべての工場は破壊され、生産力はゼロに近いところまで低下したのです。
 その同じゼロ地点から出発しながら、東西ドイツに分断され、両国は経済的にも体制的優位性を競い合うことになります。東ドイツの中央集権的計画経済に対抗し、西ドイツでは「社会的市場経済」が採用されます。それを推進した西ドイツ経済相(後の首相)エアハルトは『社会的市場経済の勝利』(時事通信社)において、社会的市場経済とは「自由競争の維持を確保することは、自由な社会秩序に基礎をおく国家の最も重要な使命の一つ」(前掲書五ページ)としながらも、それは「すべての人々の福祉」(同)を実現するものでなくてはならず、国家は全国民に対して責任をもつのであって資本家階級の「利益代表者ではない」(同一五六ページ)との立場を明確にしています。この社会的市場経済は、東ドイツの社会主義的な計画経済に対抗して資本主義的市場原理の立場を基本にしながらも、社会主義的な「すべての人々の福祉」をも考慮したものであり、その意味では東ドイツと対立しながらその体制的優位性を競い合っていた西ドイツならではの対立物の相互浸透の経済政策だったといえるでしょう。
 社会的市場経済のもとで西ドイツはめざましい経済発展をとげ、いまや社会的市場経済はEU二十七ヵ国全体の基本的経済政策となっています。この社会的市場経済は同じ資本主義ではあっても、アメリカ中心の新自由主義型国家独占資本主義とは大きく理念を異にするところから、アメリカ型資本主義に対して、ヨーロッパ型資本主義とよばれることもあります。
 他方東ドイツも計画経済の体制的優位を誇示し、その生産力は東欧随一と評価されるに至ります。ところがベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの統一が実現されてみると、両国間の生産力のちがいは歴然としていました。東ドイツには「トラバント」と呼ばれる国民車があり、西ドイツには「フォルクスワーゲン」という国民車がありましたが、両者を比較してみると「トラバント」はおもちゃ同然でしかなく、直ちに市場経済の荒波のなかで生産停止に追い込まれてしまいました。こういう生産力の低さに加えて、重工業化優先、国民生活犠牲の経済政策が、ノーメンクラトゥーラと労働者・国民との間の階級闘争を激化させ、それが政治的要求に反映されていったということができます。
 「ソ連型社会主義」をモデルとした東欧諸国がこの状態ですから、本家本元のソ連においても同様の事情のもとにあったことは当然でした。「スターリン・ブレジネフ型の政治・経済体制」とよばれる体制のもとで、一九八五年ゴルバチョフ書記長が登場し、「ペレストロイカ(立て直し)」と「グラスノスチ(情報公開)」を打ち出します。
 これは、七〇~八〇年代はじめにおけるソ連の経済・政治体制の停滞状態の打破を目的とし、スターリン時代にまでさかのぼって見直しをしようというものでした。グラスノスチにより、スターリンに「粛清」された何人かの党幹部の名誉は回復されましたが、「ソ連型社会主義」そのものの根本的反省には至りませんでした。一党支配体制も、中央集権的指令経済も、ノーメンクラトゥーラも何ら解決されることはなかったのです。
 ゴルバチョフは「新しい思考」という名のもとに、無原則的な米ソ協調主義を唱え、階級的観点を見失った「全人類的価値優先」論を打ち出します。他方で、ハンガリー事件、チェコスロバキア事件、ポーランド事件への反省はなく、一九七九年以来のアフガニスタンへの侵略をも合理化する覇権主義を貫くものでした。
 八九年七月ワルシャワ条約機構は「制限主権論」を公式に否定します。またソ連など五ヵ国首脳がチェコ事件は「内政問題への干渉であり、非難されるべき」との声明を出すなどの策を講じますが、時すでに遅しでした。
 九一年八月ペレストロイカに反対する保守派のクーデターが発生します。三日で失敗しますが、このクーデターにソ連共産党関与の疑惑が強まるなかで、ゴルバチョフ書記長は辞任し、党は解体を余儀なくされます。
 こうして九一年一二月ついに「ソビエト社会主義共和国連邦」も解体され、崩壊に至るのです。それはまさに「歴史的な巨悪の崩壊」(日本共産党綱領)とよぶにふさわしいものでした。