『21世紀の科学的社会主義を考える』より

 

 

第一六講 ユーゴの自主管理社会主義とその崩壊 ①

 

一、ユーゴの社会主義を論じる意義

 第一五講で東欧の社会主義とその崩壊を学びました。ユーゴスラビア(ユーゴ)も地理的には東欧諸国の一つですが、他の東欧諸国とは決定的な違いをもっています。
 というのも他の東欧諸国は、人民民主主義共和国という「ソ連型社会主義」とは異なる新しい社会主義への道を探究しながらも、結局「ソ連型社会主義」を押しつけられることによりその矛盾によって崩壊したのに対し、ユーゴは一九四八年六月コミンフォルムから破門されることによって、「自主管理社会主義」と非同盟外交という独自の社会主義の道を歩むことになったからです。
 それは結論的にいえば、日本共産党がめざしている対内的には「国民が主人公」の社会主義、対外的には平和・中立・非同盟の外交に極めて近似した社会主義への道だったということができるでしょう。それだけに他の東欧諸国と歩調を合わせるかのように、一九九一年六月ユーゴ社会主義連邦共和国を構成するスロベニア、クロアチア両共和国が独立し、連邦解体に至った理由の解明は、私たち日本国民にとってとりわけ重要な意味をもっており、重大な関心をよせざるをえません。
 そこで第一六、一七講の二講にわたってユーゴの社会主義とその崩壊の問題を検討してみたいと思います。なお一言するならば、ソ連・東欧の崩壊の原因については、日本共産党綱領でも解明されているように科学的社会主義の陣営での統一的見解が存在するということができますが、ユーゴ社会主義の建設と崩壊の問題については、さまざまな研究、議論はあるものの、科学的社会主義の陣営内でのまとまった研究は存在していないように思われます。
 しかし、私たちが日本における二一世紀の社会主義を展望するうえで、ユーゴ社会主義とは一体何だったのか、それは真にあるべき人間解放の社会主義だったのか、ユーゴ社会主義の崩壊の原因が一体どこにあったのか、それはユーゴの特殊性にもとづくものか、それとも「国民が主人公」をめざす社会主義に普遍的な問題だったのか、などの検討は避けて通ることのできない課題だと思われます。そこで手探りではあってもこの課題に挑戦して、筆者なりの問題提起をしてみたいと思います。

 

二、バルチザン戦争から誕生した自主管理

六つの共和国、五つの民族、一つの国家

 ユーゴは一九一八年王国として建国され(第一のユーゴ)、四一年四月ナチス・ドイツをはじめとする枢軸軍の侵攻により、占領・分割されて消滅します。しかし反ファシズムのパルチザン戦争によって、ソ連軍の力を借りることなく、自力で解放を勝ちとり、四五年一一月、人民民主主義共和国という連邦国家(第二のユーゴ)として再建されます。
 それは「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」(柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波新書)という特徴をもった複合国家でした。
 ここでユーゴの共和国・自治州の関係を概観しておきましょう。ユーゴは、アドリア海を挟んでイタリアの東側に位置している国です。北西から南東にかけてスロベニア共和国、クロアチア共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国、セルビア共和国(国内にボイボディナ自治州とコソボ自治州をもつ)、モンテネグロ共和国、マケドニア共和国となっていました。首都はセルビア共和国内にあるベオグラードです。北西に位置するスロベニア共和国は、イタリア、オーストラリアに接するもっとも豊かな共和国であり、南東のモンテネグロ共和国、コソボ自治州、マケドニア共和国は、アルバニアやギリシアに接する貧しい共和国または自治州となっています。スロベニア共和国の一人あたりの国民総生産は、コソボ自治州の八倍以上にも達していたといわれています。
 各共和国のうち、単一の民族国家に近いのはスロベニア共和国のみであり、その他の共和国は人口の過半数を占める主要民族と少数民族から構成され、各共和国の国名はその国の主要民族の名前をとってつけられています。ユーゴ国内の最大の民族はセルビア人であり、セルビア共和国内の主要民族であると同時に、その他の共和国内においても少数民族としてユーゴ連邦全域に居住していました。唯一過半数の主要民族が存在しないのがボスニア・ヘルツェゴビナ共和国であり、モスレム人が四割、セルビア人三割、クロアチア人二割となっていました。

バルチザン戦争から誕生した自主管理

 ユーゴが自主管理社会主義という独自の道を歩みはじめたきっかけは、パルチザン戦争(人民解放戦争)にありました。四一年六月ドイツのソ連進撃が始まると、それを機に占領下で唯一全国組織をもっていたユーゴ共産党は武装蜂起を決議し、チトーを最高司令官とするパルチザン部隊(後の人民解放軍)が結成されます。
 こうしてユーゴの全土で一斉蜂起がおこり、勝利した点在する解放区では、「人民解放委員会」という名の自主性の強い権力機関がつくられます。「それぞれの人民解放委員会は統一的に活動することができず、自らの判断によって決定し、行動しなければならなかった」(同九三ページ)ところに、自主管理の思想が芽ばえたとされています。
 「そこでは、なによりもまず民族的な意味で、完全な自主管理が現われた。すなわち、個々の国家=民族の自主管理が――将来の新ユーゴスラヴィアにかんする統一的理念や共通の軍事的・政治的最高機関によって相互に結びつけられてはいたが――おこなわれたのである。そのうえ、人民解放戦争の最中には、あらゆる公共の業務を指導する官僚制的な行政機関として権力を編成することは不可能だった。勤労者は、みずからさまざまな形態の人民解放委員会を組織して、領域内の秩序と最低生活条件の確保をはかったのであった。解放区の工場の管理は、労働者自身が引きうけた」(カルデリ『自主管理社会主義と非同盟』九ページ、大月書店)。
 四五年三月には、パルチザン部隊が全土を解放してチトーを首班とする臨時連立政府が誕生し、一一月の憲法制定議会選挙では、共産党を中心とする「人民戦線」勢力が多数派となり勝利をおさめます。四六年一月には、「ユーゴスラビア連邦人民共和国憲法」が発布され、「第二のユーゴ」は人民民主主義共和国という名の社会主義への道を歩みはじめることになります。
 「第二のユーゴ」の特徴は、人民解放委員会という統一戦線が民族や宗教のちがいをのりこえて結成されており、民族の自主管理、人民自治が実現されていたことから、「四つの平等」のうえに成立しているところにありました。
 「第一はユーゴに居住するすべての市民は民族や宗教を越えて平等であること、第二はユーゴ共産党や連邦による制限つきではあるが、『主権』をもつ六共和国の平等、第三はすべての民族・少数民族の平等、第四はパルチザン戦争への貢献の点ですべての民族、とくにセルビア人とクロアチア人との平等である」(柴前掲書一一〇ページ)。
 この点ではスターリンの専制主義や覇権主義を大きな特徴とする「ソ連型社会主義」とは出発点からして異なっていたということができます。ユーゴは、チトーのカリスマ性にパルチザン戦争の経験が加わって、「友愛と団結」のスローガンのもとに複雑な民族・共和国間の対立をのり越え、連邦中央が強大な権限をもつ統一国家として誕生したということができるでしょう。とくに「セルビア人とクロアチア人との平等」を強調したことは、その後のユーゴ解体の契機となった「クロアチア内戦」などの経緯からみると重要な意義をもっていたということができます。

 

三、自主管理社会主義

「ソ連型社会主義」のアンチテーゼとしての自主管理と非同盟

 四六年憲法は、政治的には人民民主主義的性格をもちながらも、経済的には生産手段をすべて国有化し、中央集権的指令経済のもとで価格統制と配給制度をとるという意味では「ソ連型社会主義」をモデルとする「行政管理型社会主義」とよばれる形態をとっていました。しかし四八年コミンフォルムからの追放を機に、「人民解放戦争のなかで生まれた自主管理の萌芽は、ひとつの統合的な社会的有機体へと成長しはじめた」(カルデリ前掲書九ページ)のです。
 自主管理というカテゴリーの生みの親は、チトーの右腕でありユーゴきっての理論的指導者といわれたカルデリでした。彼は主著『自主管理社会主義と非同盟』(大月書店)のなかでユーゴの政策的柱は、自主管理と非同盟にあり、この二本柱は相互媒介の関係にあるとしています。「自国においてみずから管理している国民は、他国民の同じ権利を尊重するかぎり、国際関係においても平等、相互尊重、独立の政策、すなわち非同盟政策をとるほかはない」(同六ページ)と述べています。
 ユーゴの自主管理と非同盟政策は、ソ連への反発と「ソ連型社会主義」のアンチテーゼとして誕生したということができるでしょう。ユーゴは、追放後ソ連とコミンフォルムから、はげしい軍事的・政治的圧力を受けるとともに、厳しい経済的制裁を受けることになります。第二次大戦後の冷戦構造のなかで、ソ連・コミンフォルムの圧力のもとで社会主義の道を守り続けるには、国内的には自主管理、国際的には非同盟の道を歩むしかなかったのです。ユーゴは非同盟諸国のリーダーとして六一年九月インドのネルー、エジプトのナセルとともに第一回非同盟諸国首脳会議を成功させ、現在では国連加盟国の三分の二が非同盟諸国会議に参加しています。非同盟運動は発足当初から核兵器廃絶、反軍事同盟、平和共存、反植民地主義、民族自決の旗をかかげて国連総会をリードし、七〇年代には新国際経済秩序樹立宣言の採択、国連軍縮特別総会の開催実現、核抑止力論批判、核兵器全面禁止協定の提起などの積極的役割を果たしました。二〇〇七年から二〇〇九年まではキューバが非同盟運動の議長国となり、アメリカの身勝手な単独行動主義を抑え、非同盟運動の活性化に貢献しました。
 二〇世紀の社会主義の実験は、レーニンの時代の社会権と民族自決権および国際紛争の平和的解決への道に加え、チトーの非同盟運動という点において人類の進歩・発展に大きな功績を残したのです。
 では自主管理社会主義とは何か。科学的社会主義の社会主義論には、生産手段の社会化、社会主義的な計画経済、プロレタリアートの執権(「プロ執権」)の三つの基準があることを第一二講で学びました。「ソ連型社会主義」もこの三つの基準にしたがって社会主義国を建設しようとしたのですが、そこに独自の解釈を持ちこむことになりました。すなわち、生産手段の社会化とは国有化にもとづく党官僚の支配であり、社会主義的な計画経済とは極度の中央集権的指令経済であり、「プロ執権」とは共産党の一党支配であるとしてとらえられたのです。
 ユーゴの自主管理社会主義は、この「ソ連型社会主義」のアンチテーゼとして生まれました。したがってソ連と同様社会主義の三つの基準にたちながらも三つの基準のいずれについても「ソ連型社会主義」の解釈に対立する解釈を持ちこんだのです。概括的にいうならば生産手段の社会化とは生産者が主役となることであり、社会主義的な計画経済とは計画経済と市場経済の統一であり、「プロ執権」とは共産党の主導性のもとに人民が主人公となる人民主権であるというものです。
 こうして自主管理社会主義は、結果的に社会主義の三つの基準のそれぞれについて対立する二つの側面があるという、社会主義的基準の弁証法を浮き彫りにすることになったのです。この三つの基準についてもう少し詳しくみていくことにしましょう。

経済的アソシエーションとしての自主管理

 まず生産手段の社会化の問題からみていきましょう。自主管理の萌芽は、パルチザン戦争のなかから生まれた「人民解放委員会」という人民の自治であり、その中心的思想は「人民の、人民による、人民のための政治」という人民主権にありました。しかし「ソ連型社会主義」をモデルとしたユーゴの「行政管理型社会主義」には、生産手段の国有化にともなう党官僚の支配という人民主権に矛盾する要素が含まれていたのです。カルデリは、ソ連に留学した経験をもっており、ソ連における生産手段の国有化がノーメンクラトゥーラという新しい階級を生みだしたことを知っていました。しかもその新しい階級の支配が「労働者階級を新しい形で疎外する道具」となっていたことを学んでおり、「行政管理型社会主義」のもつ矛盾にいち早く気がついたのです。
 すなわち「国家――資本の集団的所有者の『責務代行者』としての国家――は、……社会的所有にある生産手段から労働者階級を新しい形で疎外する道具ともなりうる」(同二五ページ)のであって、生産手段の社会化は「それ自体ではまだ社会的資本からの労働者の疎外のあらゆる形態の終焉を意味するものでもなく、また労働者階級と基礎的勤労者層一般を社会の一部分が操作するあらゆる条件と可能性を自動的に廃止するものでもない」(同二〇ページ)というのです。
 この矛盾は「わが国の社会主義革命が土着的で真に大衆的・人民的性格をもっていたことのために、非常に早くから社会経済的・政治的問題として気づかれていた。そしてまさにこの問題を克服する過程で、わが国の社会主義的自主管理の理念と実践が生まれた」(同二八ページ)のでした。
 ここにいうユーゴの社会主義革命の「土着的で真に大衆的・人民的性格」こそ、パルチザン戦争の産物としての「人民解放委員会」にほかなりません。人民解放委員会からユーゴの社会主義革命の始まったことが、「行政管理型社会主義」の問題点をいち早く明らかにし、自主管理社会主義に向かわせることになったのです。
 つまり自主管理とは、「生産手段の社会化」を「労働者の疎外のあらゆる形態の終焉を意味」するものとしてとらえ、労働者があらゆる疎外から解放されて生産者として生産・分配の主役になる経済的アソシエーションを実現するためのものとして誕生したのです。
 カルデリは、マルクスの『資本論』や「経済学批判要綱」を徹底的に研究し、そこから「自由な人々の連合体(アソシエーション)」(『資本論』①一三三ページ/九二ページ)という規定に注目しました。かれは「アソシエーション」というカテゴリーに人間解放を見いだした最初の人物ということができるでしょう。
 今でこそマルクスにとって「アソシエーション」というカテゴリーがいかに重要な意義をもっているかは明らかになっていますが、当時誰もそこに注目しなかったなかで、カルデリがここに社会主義の真髄を見いだしている功績は高く評価されるべきものだと思います。
 「自主管理は、同時に、『自由な生産者のアソシエーション』へとみちびく社会的過程が、相対的に少ない危機、障害、歪曲をともなって実現していくような、そうした社会主義的生産関係の民主的形態」(カルデリ前掲書四ページ)であり、社会主義・共産主義への移行が「相対的に最も自由に――しかもマルクスが言うように、労働者階級の『名において』支配する勢力ではなく、労働者階級自身の意志と活動によって――進行することを可能にするような、社会関係の民主的体系」(同)としてとらえています。
 カルデリは、「社会的所有を物にたいする人の静的関係として解釈し、人と人との関係、すなわち生産関係および社会経済関係」(同二一ページ)としてとらえないのは誤った理解であるとしています。つまり「ソ連型社会主義」では生産手段の社会化を「人と物との関係」、言いかえると誰が生産手段を所有するかという関係においてとらえられたため、国有化=ノーメンクラトゥーラの支配という結果を招いたのであって、本来の生産手段の社会化とは何よりも搾取と被搾取、階級的な支配と従属という「人と人との関係」を廃止し、生産者が主役となる生産関係をつくり出すことにあり、それがマルクスのいう「自由な生産者のアソシエーション」だととらえたのです。
 しかし生産手段の社会化を「人と人との関係」としてのみとらえたことは、第一七講で学ぶように生産手段の社会化を「ソ連型社会主義」とは逆の方向に一面化したものであり、生産手段の社会化の真理は「人と物との関係」と「人と人との関係」の統一でなければならなかったのです。

社会主義的な計画経済と市場経済の統一

 次に社会主義的な計画経済の問題ですが、この問題でも自主管理は「ソ連型社会主義」の極度に中央集権的な指令経済へのアンチテーゼとなりました。
 一九六三年の憲法改定で、労働者の自主管理は生産物の処分の分野にも拡大されます。これによって商品流通は活発となり、これまでの中央集権的計画経済に市場経済の要素が加わり、次第に拡大していきます。
 六五年、市場経済を全面的に導入する「経済改革」が実施され、ここに自主管理とは計画経済と市場経済の統一であることが明確にされることになります。
 「自主管理は、一方では物質的・経済的発展の客観的法則と、他方ではそうした経済発展、とくに勤労者間の経済関係、社会関係の意識的調整および誘導とにもとづいた平等を前提とするからである。したがって、市場経済、社会的計画化、勤労者の経済的・社会的連帯は、わが国の社会主義的自主管理体制の不可分の三構成要素をなしている」(同四三ページ)。
 いわば、市場原理をつうじて経済発展を実現しながら、計画経済によって人民の所得の均等化をはかろうというものでした。このユーゴの実験は経済発展という点では見事に成功して、六〇年代、七〇年代をつうじて年平均五、六パーセント前後の経済成長をとげていくことになります。しかし反面では所得の均等化は失敗し、所得間格差、失業者の増大、貿易収支の悪化などの市場経済の弊害も次第に表面化し、共和国間、民族間の格差拡大につながっていくのです。
 ここには、計画経済と市場経済との統一の課題が、実践的には市場経済による計画経済の無力化を意味しており、二一世紀に学ぶべき教訓を提起しているものと思われます。

本来の「プロ執権」としての自主管理

 最後に「プロ執権」の問題についてみてみましょう。
 自主管理を何よりも生産者が主役の「自由な生産者のアソシエーション」としてとらえることは、同時に生産手段の国有化が特権的な党官僚を生みだしつつあることに対して警告を発することになりました。それは共産党と人民との関係をどうとらえるかの問題であり、言いかえると「プロ執権」の理解にかかわる問題でした。
 「党の装置は、新しい社会主義国家(ソ連――高村)において国家や経済の管理装置と有機的に一体となっていた。……国有化された生産手段、すなわち社会的資本の管理が、一種の国有的独占、テクノクラート=管理者独占に転化し、党はこの独占を防衛する道具に変化してしまう危険をもたらした」(同二九~三〇ページ)。
 「ソ連型社会主義」のもとでは、党が国有化された生産手段の管理を独占することによってノーメンクラトゥーラという新しい階級の支配が誕生しました。一党支配の仮面をかぶった新しい階級による人民の支配は、党の主導性と人民主権の統一という「プロ執権」の概念を歪曲し、「プロレタリア執権の政治制度を国家の中央集権化された政治・官僚装置の政治的絶対主義と同一視しようとする傾向」(同三〇ページ)まで生みだすことになってしまいます。
 しかしユーゴの場合には、パルチザン戦争から生まれた人民自治の経験がありました。「人民解放委員会」という「指導的革命勢力のあいだでは、革命闘争と人民解放戦争のなかで生まれた人民大衆との結びつきの民主的伝統が発達していた」(同三一ページ)のであり、この「民主的伝統」がユーゴをして自主管理社会主義へと向かわせることになったのです。いわばそれは、人民大衆が政治的主人公となる「人民の、人民による、人民のための政治」という人民主権国家、つまり政治的アソシエーションをめざすものだったのです。
こうして自主管理社会主義は、本来の「プロ執権」に立ち戻ろうとします。それは一方では党官僚による支配を否定するものであると同時に、他方では党から自由になることでもないとしたのです。
 「スターリンとの衝突後にユーゴスラヴィア共産党の文書に定式化された、党と国家装置または経済管理装置との癒着の流れを断ち切るという要求の意義は、……国家権力や経済管理機能を共産党あるいは共産主義者同盟の影響から『自由にする』ことにあったのではな(く)、……党が国家権力と経済管理の装置のなかで生まれた官僚主義とテクノクラシーの圧力から解放されることにあった。すなわち、党が労働者階級の基礎的大衆との結びつきを強めることで大衆の利害を代弁する力と自由を身につけること、そして大衆の利害を代表して、とりわけ大衆そのものの民主的組織化によって国家装置と経済管理装置にたいして指導的、決定的な影響をおよぼすこと」(同三二~三三ページ)に、その意義があったのです。
 「大衆の利害を代弁する力」とは、人民の「一般意志」を形成することによる「人民のための」政治・経済を代弁する力を意味し、「大衆の利害を代表」する「大衆そのものの民主的組織」とは、人民自治による「人民による」政治を意味しています。
 すなわち「プロ執権」とは、党官僚が国家および国有企業を支配することでもなければ国家および国有企業を党から「自由にする」ことでもなく、党が「人民のための」政治・経済を「代弁する力と自由を身につけ」、「人民による」国家および国有企業の統治、運営に対して「指導的、決定的な影響をおよぼすこと」にある、ととらえたのです。これは大筋において「プロ執権」の本来の立場にたちかえり、「プロ執権」を科学的社会主義の政党の主導性と人民主権との統一としてとらえようとするものということができます。

自主管理社会主義の理念と現実

 長々とカルデリの文章を引用してきましたが、それは「自主管理」という「社会主義論」にかかわる新しい概念を生みだしたカルデリによってのみ、その真の意味を理解しうるからにほかなりません。
 自主管理社会主義とは、共産党に導かれながら人間疎外を克服した生産者が主人公となる経済的アソシエーションと、人民が主人公となる政治的アソシエーションということができるでしょう。ユーゴが社会主義の三つの基準のすべてについて、「ソ連型社会主義」を反面教師としながら、より深化・発展させ、真にあるべき社会主義論により接近した社会主義の理念を掲げたことは高く評価しうるものです。
 それだけではありません。カルデリは、自主管理とは「労働を解放し人間関係を人間的にする方向にむかって社会主義社会をいっそう進歩的に発展させる」(同三七ページ)ものであり、「これこそわれわれが労働と労働する人間の解放と呼んでいる過程の本質なのである」(同五五~五六ページ)と言い切っています。彼が「ソ連型社会主義」のもとではすっかり見失われていた、人間解放の真のヒューマニズムの社会という社会主義・共産主義の基本理念を明らかにし、その基本理念を実現するものとして社会主義の三つの基準をとらえていることは特記されるべきものでしょう。
 より正しい「理念」を掲げての実践は、真にあるべき社会主義により接近することになるはずです。これが第一一講で学んだ主観的弁証法としての「理想と現実の統一」の問題です。しかし実際には、一九八九年の東欧革命とほぼ期を一にし、またソ連の崩壊に先がけて九一年六月、ユーゴ社会主義連邦共和国は解体してしまいました。
 真にあるべき社会主義に接近する理念を掲げながら、なぜユーゴは崩壊するに至ったのか、それは理念の問題なのかそれとも実践の問題なのか、あるいは両者なのかなどの問題について、「理想と現実の統一」を実現しえなかった原因の究明が求められることになります。
 そこで以下において、まず自主管理社会主義の歴史を概観してみることにしましょう。

 

四、自主管理の歴史

人民が主人公

 最初の試みは、まず国営企業内の労働者の自主管理に始まります。一九五〇年の「自主管理法」は、「工場を労働者へ」のスローガンのもとに、企業内にすべての権限をもつ「労働者評議会」を設立しようとするものでした。労働者評議会は、企業の基本計画と損益決算書を承認し、生産計画の遂行と企業経営にかんする決定を下すとともに、経営会議のメンバーを選出します。企業を代表する企業長は、経営会議のメンバーから選出されます。国の経済統制によって各企業が自由に決定しうる事項はまだ制限されていましたが、それでも労働者が経済活動の主人公であるとの考え方が法律として定められたことは大きな意味をもっていました。
 五二年の共産党第六回大会で、党名が共産党から「共産主義者同盟」へと変更されたのも、ユーゴ共産党は党官僚の支配するソ連共産党とは異なることを明確にすると同時に、マルクスの党、すなわち『共産党宣言』を発した党に立ち戻る決意を表明するものでした。また党の役割は指令を出すことではなくて、説得とイニシアティヴを発揮することにあるとして党の理論的主導性が明確にされました。
 五二年の「人民委員会にかんする法」で、経済の場のみならず、政治の場でも人民が主人公であることが明確にされます。これを受けて改正された五三年憲法で政治、経済上の自主管理がユーゴの国是と定められ、チトーが大統領に選出されます。
 第一四講で紹介したジラスの『新しい階級』は五六年に著わされたものです。彼が批判した党官僚という「新しい階級」は、たんにソ連のみならずユーゴの党をも視野においたものです。彼はユーゴ連邦人民議会議長、副大統領の要職にありながら内部告発し、そのため逮捕、処罰されました。党の主導性が明確にされる中で、五六年当時早くもユーゴの党内に「新しい階級」としての党官僚が形成されていたとする指摘は記憶しておく必要があります。
 ジラスの原稿は密かにアメリカに送られて出版され、全世界にセンセーションをひきおこします。その影響もあったのか五八年共産主義者同盟第七回大会で採択された綱領では、人民が主人公の立場から党の積極的役割を否定し、社会主義を次のように規定します。「社会主義は、人間の個人的な幸福をいかなる高次の目標にも従属させることができない。なぜなら、社会主義の最高目標は、人間の個人的な幸福だからである」。人間解放の社会主義とは、人間の個人的幸福を最高目標とする社会だと規定したことは、人類史上はじめてのことであり、大きな意義をもつものでした。
 しかし、ここにはすでに理論問題での一定の偏向をみることができます。党の官僚化を否定する問題と党の主導性とは別個の問題であり、区別しなければなりません。先にもみたように「プロ執権」とは共産党の主導性のもとにおける人民主権の権力であり、言いかえると共産党の主導性と人民主権との対立物の統一であり、カルデリも当初はそのようにとらえていました。しかしこの段階では「あれか、これか」の形式論理学の立場にたって、人民主権の前に共産党の主導性を否定しないまでも、少なくとも後景に追いやるものとなっています。そうなれば、自主管理社会主義の理念も後退すると同時に人民は「定形のない塊り」(ヘーゲル)となってしまう危険性をはらむことになり、またそれが次第に現実化していくことになるのです。

自主管理社会主義の基本型の完成

六〇年代に入ると経済効率を高めるために市場経済を導入する方針が出されます。これによって「ソ連型社会主義」のアンチテーゼとしての自主管理社会主義の基本型が完成することになります。
 すなわち「ソ連型社会主義」の場合、生産手段の社会化=党官僚の支配、社会主義的計画経済=極度の中央集権的指令経済、「プロ執権」=共産党の一党支配(党官僚の専制支配)ととらえていたのに対して、自主管理社会主義の理念は、生産手段の社会化=生産者が主人公、社会主義的な計画経済=計画経済と市場経済の統一、「プロ執権」=党の主導性と人民主権との統一とされたのです。
 六〇年代の自主管理は、社会主義の三つの基準のすべてについて「ソ連型社会主義」に対立する基準を提起し、かつその全体を貫く基本理念として人間解放の真のヒューマニズムの社会という、「真にあるべき」社会主義・共産主義により接近した理念を掲げたのでした。問題はこの高い理念がどのように実現されたのかにあり、結果的に理念から大きくかけはなれた政治的・経済的実践によってユーゴは崩壊することになるのです。
 それはともかく、独自の社会主義としての「自主管理社会主義」に確信をもったユーゴは、六三年四月に三度目の憲法改正をつうじて国名を「ユーゴスラビア連邦人民共和国」から「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」に変更し、独自の社会主義への自信を示すものとなりました。

自主管理の総決算としての「七四年憲法体制」

 七四年、四度目の憲法改正と「連合労働法」の制定により「七四年憲法体制」とよばれる自主管理社会主義の総決算がおこなわれ、徹底した自由化・分権化が実施されました。
 経済活動においては、企業におけるテクノクラートの支配を排除し、労働者自主管理を徹底させるために、企業はさらに小さな「連合労働基礎組織」に分割されます。これを自主管理の単位として、協議と合意にもとづく「協議経済」という徹底した分権化が行われます。この「連合労働基礎組織」の協議から「連合労働組織」(企業体)の協議が形成され、さらに「連合労働組織」の協議から「連合労働複合組織」が形成されるというように、下から上へと協議が積み上げられていくのです。
 政治活動についても同様な分権化により、まず連合労働基礎組織と近隣共同体に属する構成員から代表団を選出します。この「近隣共同体代表団」を基礎単位として、コミューン――共和国(自治州)――連邦議会へと下から上への代表制が適用されることになります。
 それだけではありません。分権化の流れのなかで、共和国、自治州は連邦と完全に平等な立場におかれ、自ら憲法を有し、裁判権、警察権を有するのみならず、経済主権まで有し、連邦と共和国との間にも「協議経済」が適用されることになりました。特に問題なのは各共和国が経済主権を有することによって連邦としての統一的経済政策をとることが困難になったことであり、そのため次第に連邦という統一国家の自主管理社会主義の理念や連邦による計画経済は形骸化されていくことになります。
 政治的にも共和国の代表が連邦幹部会に参加して協議し決定するという「緩い連邦制」となり、チトーと共産主義者同盟、連邦軍がかろうじて連邦制を保つ絆の役割を果たすことになるのです。
 このように「七四年体制」の特徴の一つは、下からの自立的運動を前提とした「緩い連邦制」にあると同時に、もう一つの特徴は、その反面として再び党の「指導的役割」が強調されるとともに、軍の役割を強化することによって連邦制を維持しようという妥協の産物だったのです。
 では党の「指導的役割」のもとで社会主義的計画経済と市場経済の統一が進行したのかといえば、そうではありません。「緩い連邦制」のもとでの党の「指導的役割」とは、各共和国の利害の「調停者」としての役割にとどまり、自主管理の基本理念そのものを高くかかげて人民の導き手となるという、党の本来の主導性を発揮することは経済政策の面でも実現できませんでした。
 結局、六五年の無政府的な市場経済全面導入の「経済改革」のもとで、効果的な経済政策がとれないまま南北間の経済格差は拡大し、八〇年代にはいるとユーゴの「経済危機」は一気に表面化します。生産力の低い南部の共和国であるセルビア、モンテネグロ、マケドニアが「経済主権」にもとづき外国から借款したことのツケ、貿易収支の大幅赤字、恒常的なインフレなどによる経済危機です。

 

五、ユーゴの崩壊

「経済危機」による共和国間の対立

 チトーとカルデリによって生みだされた「七四年憲法体制」は、両名の死を契機に、連邦統合の絆が失われることによって次第に民族間、共和国間の対立を激化させていきます。
 七九年二月、自主管理の理論的な柱であったカルデリが死亡し、八〇年五月ユーゴ経済の悪化傾向のもとで、「友愛と団結」を旗印に民族・共和国間の絆となってきたチトーが死亡します。
 折しも八〇年代の「経済危機」が表面化し、有効な経済政策をとりえなかった共産主義者同盟や連邦政府に対して、鋭い批判の目が向けられていくことになります。それを受け、八八年「七四年憲法」の修正がおこなわれ、再び連邦への権限の集中や市場経済全面導入への反省のうえに根本的見直しなどがおこなわれますが、この流れをくいとめることはできませんでした。
 経済的に貧しいセルビア共和国は、連邦による共和国間の経済的格差を解消するための経済政策を求めて、連邦制の強化を求めるのに対し、経済的に豊かなスロベニア、クロアチア共和国は、連邦制の解体を要求します。
 こうした経済的格差を土台とした民族、共和国間の矛盾が、カルデリ、チトーの死ともあいまって次第に表面化し、東欧・ソ連の崩壊が引き金となって、一挙に民族主義が高まり、共和国間の連邦に対する姿勢の対立となってあらわれます。

自由選挙による民族政党の勝利

 一九九〇年、前年の東欧革命の影響を受けてユーゴの各共和国の国会選挙では戦後初めて複数政党制のもとでの自由選挙となり、ソ連覇権主義の脅威の消滅による諸民族の結束の弱まりもあって大半の共和国で民族政党が勝利します。それにともなって統一国家の絆であったユーゴ共産主義者同盟も、各共和国の組織が民族の代表の傾向を強めることにより、事実上六つの共和国の共産主義者同盟に分裂してしまうのです。
 この事実は、人民の一般意志形成の導き手を失ったことを意味しており、本来の意味の「プロ執権」が消滅したことになります。こうなれば各共和国を統一した自主管理の理念のもとに結合することは不可能となり、ユーゴ連邦共和国の解体はもはや時間の問題となってきたのです。
 連邦解体のきっかけとなったのはクロアチア共和国における民族主義的な政権の誕生でした。クロアチア共和国は、多数民族のクロアチア人と少数民族のセルビア人からなる国家であり、「第二のユーゴ」出発時に四つの平等」の一つとして「セルビア人とクロアチア人との平等」が確認されていたところから、クロアチア共和国の憲法には、共和国は「クロアチア人とセルビア人の国家」であることが明記されていました。
 ところが九〇年五月の選挙で誕生した民族主義的な「クロアチア民主同盟」の政権は、憲法を改正し、これまでの「クロアチア人とセルビア人の国家」とされていたものを「クロアチア人の民族国家」にあらためてしまいます。これに対しクロアチア国内のセルビア人は反発し、武装して対抗します。

ユーゴ連邦の解体

 まず最初に独立宣言したのはスロベニア共和国でした。九一年六月二七日の独立宣言に対し、連邦政府は連邦軍を出動させますが(「スロベニア戦争」)、スロベニアの抵抗に遭いEC(当時)の仲介で停戦。三ヵ月間の独立宣言凍結を経て、スロベニアは独立します。
 同じ頃、クロアチア共和国も連邦からの独立を宣言します。これに対してクロアチア国内では、連邦にとどまることを求めるセルビア人武装勢力と主としてセルビア人からなる連邦軍に対し、クロアチア共和国軍が敵対するという「クロアチア内戦」に発展します。国連の仲介で停戦合意が成立しますが、この内戦を経てクロアチア共和国のユーゴ連邦共和国からの分離独立は確定的なものとなっていきます。こうしてユーゴ社会主義連邦共和国の解体は決定的となるのです。
 「クロアチア内戦」は隣接するボスニア・ヘルツェゴビナ共和国に飛び火します。九〇年選挙で、モスレム人、セルビア人、クロアチア人の三民族代表の連立政権が誕生します。しかし独立に反対するセルビア人と独立支持のムスリム人、クロアチア人との対立は覆いがたく、九二年には多数派のムスリム、クロアチア人が独立を宣言します。これを機に民族間の衝突が激化し、ここに連邦軍がセルビア人保護の立場で介入することにより、「ボスニア内戦」へと拡大していったのです。
 ユーゴ崩壊をもたらした原因は、表面的にはユーゴが多数の民族が複雑に入り混じったモザイク国家であったところから、民族問題が激化したことによる連邦の崩壊ということができるでしょう。その直接的契機は、分離独立を求める「クロアチア民主同盟」の政権の誕生にありました。クロアチア内戦により、クロアチア共和国からセルビア共和国へ難民として逃れたセルビア人は、実に二十六万人にも達しました。
 しかしより本質的にみると、こうしたモザイク国家であったにもかかわらず、チトーの「友愛と団結」のスローガンにみられるように、科学的社会主義の政党・ユーゴ共産主義者同盟の主導性という絆のもとで、ユーゴは民族問題をのりこえ統一国家を保ち続けてきたのです。
 共産主義者同盟の主導性が確立された第二次大戦後の「第二のユーゴ」のもとにあって、七一年の「クロアチアの春」を除いて、四十五年の間、民族間の衝突は存在しませんでした。それがカルデリ、チトーの死後、民族間、共和国間の経済格差から次第に民族間の対立が顕在化し、九〇年の自由選挙を機に民族間の衝突は内戦にまで転化してしまったのです。それは共産主義者同盟の事実上の解体と歩調を一にするものでした。
 こうしてみるとユーゴ崩壊の原因は、共和国間の経済的格差拡大を物質的土台とする民族間の矛盾を政治的理念によって克服してきた民族統合の絆・科学的社会主義の政党の事実上の解体に求められるように思えます。