『21世紀の科学的社会主義を考える』より

 

 

第一八講 「社会主義をめざす」諸国の社会主義

 

一、「社会主義をめざす」諸国とは何か

 ソ連や東欧の崩壊で、二〇世紀の社会主義の実験がすべて失敗に終わったわけではありません。中国、ベトナム、キューバの三国は、いずれも独自の民族解放闘争をつうじて、自力で社会主義への道を歩みはじめた国です。また帝国主義の支配に反対する民主主義革命をつうじて社会主義革命の道に進んだという共通点をもっています。
 「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、『市場経済をつうじて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、人口が一三億を超える大きな地域での発展として、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである」(日本共産党綱領)。
 ここにいう「資本主義から離脱したいくつかの国ぐに」とは、具体的には、中国、ベトナム、キューバの三国をさしています。これらの国ぐには「社会主義をめざす」国ととらえられていますが、それはその国の政府や政権党が社会主義を自称しているからではなく、その国の社会を実証的に探究し、社会主義に向かって歩んでいるという社会主義への方向性を示していると判断しうるからです。
 ソ連・東欧も「社会主義」を自称していましたが、「社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会」(同)でした。その教訓から、実証的探究をつうじて「社会主義をめざす」国と規定するようになったものであり、したがってそのなかにソ連・東欧以上の「人間抑圧型の社会」である北朝鮮を含めることはできません。この「社会主義をめざす」国というのは、方向性についての認識・判断ですから、現在はそのように規定されるとしても、方向性が転じたとみなされる場合には、当然対象からはずれることにもなります。
 では何をもって社会主義への方向性を示していると判断するのかといえば、第七講で学んだように社会主義とは人間解放の真のヒューマニズムの社会であることを基本にしながら、社会主義の三つの基準である生産手段の社会化、社会主義的な計画経済、「プロ執権」の要件を備えているか否かで判断することになるでしょう。こうした社会主義への方向性を問題にするとき、現時点での「社会主義をめざす」国は、三国にとどまっていますが、現在中南米で「二一世紀の社会主義」を唱えているベネズエラ、エクアドル、ボリビアなどの諸国も、現在進められている社会変革の道を歩み続けるかぎり、今後これに加わる可能性は大きいといえるでしょう。
 中国、ベトナム、キューバの三国は、いわゆる「社会主義陣営」の一員として、「ソ連型社会主義」の色彩を一定もっていたところから、ソ連・東欧の崩壊による否定的影響を受けながらも、それを乗り越えて引き続き「社会主義をめざす」国として存在してきたという点でも共通性をもっています。これらの諸国と「ソ連型社会主義」との関係、またソ連・東欧崩壊後もなぜ存続することができたのか、これらの諸国の社会主義への方向性の問題などを以下に検討してみることにしましょう。
 なお、ソ連・東欧の崩壊は、過去の歴史的出来事として何の制限もなく研究対象となしうるものですが、これらの諸国は現存する国ですから、それぞれの国がどういう道を歩むのかは、その国の人民の決すべき問題であり、内政不干渉という国際法上の原則からしても、公然とした批判的発言には限度があり、社会主義の理念にかかわる問題に限っての論評とならざるをえないことをご理解ください。

 

二、中国の「社会主義」

 中国では、第二次世界大戦中、日本帝国主義の侵略に反対して中国共産党と国民党が手を結んで抗日民族統一戦線を結成。日本の敗戦後、アメリカ帝国主義に支援された国民党の蒋介石政権が中国共産党が中心となって解放した農村の解放区に攻めこみ、内戦を開始します。毛沢東に率いられた中国共産党はこれに反撃してついに内戦に勝利し、一九四九年一〇月「中華人民共和国」を設立します。 
 中国共産党はそれ以後本格的に国家改造に着手し、力点をこれまでの農村から都市に移します。都市における生産手段の国有化と同時に農村での土地改革を進め、「ソ連型社会主義」をモデルにしながら、社会主義への道を歩みはじめるのです。五六年からの十年間は社会主義建設に取り組んだものの、生産力発展の具体策のないまま「生産目標」のみを拡大し、大きな成果をあげることはできませんでした。
 一九六六年、毛沢東は自己の専制支配体制を築くために「文化大革命」を組織し、指導的幹部を根こそぎにする大混乱を引き起こします。さらに毛沢東思想を日本に押しつけ、大国主義的干渉をしたばかりではなく、日本共産党を転覆しようとさえしました。七六年毛沢東死去、「文革」は破綻し、中国共産党も「文革」を「内乱」だったと総括します。八八年、日中会談で中国側は「文革」時の干渉・介入を謝罪したため、日中両党間の関係は正常化し、これまで三回の理論会談が行われています。
 中国に大きな転機がおとずれたのは、七九年、鄧小平の「改革・開放」路線でした。これは、これまでの「ソ連型社会主義」の国有化された生産手段(国有企業)のもとでは生産力を発展させることはできないし、貧困国から抜け出すことはできないとして、外資導入と企業自主権の拡大、市場経済の導入によって経済成長をめざす「社会主義市場経済」へ転換することによって生産力を発展させようとするものでした。言いかえるとソ連型指令経済から本来の社会主義的計画経済に立ち戻って、計画経済と市場経済の統一を実現しようとしたものといえるでしょう。「社会主義市場経済」というカテゴリーは、第一五講で学んだ「社会的市場経済」とよく似た用語ですが、内容は大きく異なっています。「社会的市場経済」は資本主義的市場原理にたちながらもすべての人々の福祉をも考慮するというのに対し、「社会主義市場経済」は社会主義的な計画経済をマクロ経済の基本にしながらも、ミクロ経済において市場経済のもつ調節機能のメカニズムを活用しようというものです。
 この社会主義市場経済の路線により、中国では以後三十年にわたって年平均九・八パーセントの高度経済成長が続き、二〇一〇年には日本を追い抜き、GNP世界第二位の経済大国になりました。この経済的発展は、ソ連・東欧の崩壊にもかかわらず中国が存続し続けた大きな原因だったとみることができます。しかしその反面で、貧富の格差、都市と農村の所得格差は拡大し、社会的矛盾が深まってきました。そこで二〇〇四年これまでの経済成長最優先から「調和社会」(「和諧社会」)への転換が打ち出され、雇用の拡大、社会保障の充実、所得分配、医療・健康の改善などが強調されるに至っています。
 このように中国は経済面では「ソ連型社会主義」を脱却しながらも、政治的にはソ連と同様共産党の一党支配体制が続いています。党が国家機構を支配するという状況のなかで、党官僚の特権的地位とその裏面である汚職・腐敗も社会問題となっており、一九八九年の天安門事件につながります。政治の民主化、報道の自由化、汚職・腐敗反対、物価値上げ反対で連日百万人規模のデモが展開されますが、これに対し中国政府は天安門広場に軍隊を導入して、血の弾圧を加えました。日本共産党は、ただちに「社会主義的民主主義をふみにじる中国党・政府指導部の暴挙を糾弾する」(『日本共産党の八十年』二四一ページ)との声明を発表し、「武力による血の弾圧はただちに停止するとともに、中国の憲法自身も保障している公民の権利の尊重、社会主義的民主主義の精神にもとづいて事態の解決に着手すべきである」(同)とつよく要求しました。
 しかし中国政府はいまだにこの事件への反省がないばかりか、逆に天安門事件を機に体制批判のあらゆる動きを封じ込め、報道統制を強めています。天安門事件の指導者の一人、劉暁波(リュウ・シャオボー)は、弾圧を受けながらも国内にとどまります。彼は二〇〇八年一二月、多数の民主活動家と共に「〇八憲章」を発表し、一党支配体制を批判すると同時に民主的政治体制を根底におく、自由、人権、平等、共和、民主の憲政を訴えました。このためまたもや弾圧を受けることになりましたが、こうした功績が国際的に評価され、二〇一〇年一〇月ノーベル平和賞を授与されました。しかし中国政府は、本人はもとより家族ですら授与式への出席を認めませんでした。
 また二〇一一年七月、売りモノの高速鉄道(新幹線)の追突、五両が脱線転落するという事故の際、多数の被害者の救命を後回しにして事故車両の運転席を解体して土中に埋め、翌日には早くも運行を再開させました。これは人命を軽視し、しかも原因究明に蓋をするものとして世論の厳しい批判を受けるところとなりました。原因究明のないままの運行再開は、事故の再発をも招きかねないものであり、乗客の生命、安全よりも国家の威信を優先させたとの批判もおきています。
 中国は、自国をすでに「過渡期」を卒業して「社会主義の初期段階」にあると位置づけています。中国は計画経済と市場経済の統一により、貧困の削減、経済危機の克服など、「社会主義をめざす」国ならではの成果をあげています。二〇〇四年五月世界銀行と中国政府の主催で「世界貧国削減会議」が開かれましたが、その席で世界銀行総裁は次のように発言して中国を絶賛しました。
 「一日一ドル以下で生活する中国人は、一九八一年には四億九千万人いたが、それが現在では八千八百万人になった、つまり四億人減った、そして減った数は、同じ時期に世界全体で極貧状態から抜け出した人の総数の四分の三を占めている」(不破哲三『世紀の世界と社会主義』六六ページ)。
 また二〇〇八年世界経済危機によって、資本主義国は軒並みマイナス成長となったなかで、IMFは二〇〇九年の中国の経済成長率をプラス七・二パーセントと予測しました。その理由について、アメリカの言いなりになることなく金融を自由化しなかったことと、「国全体が政府の役割と市場の原理を結合させた中国式社会主義市場経済メカニズムが効果的に機能している」(凌星光『世界金融危機と中国への影響』季論五号一九〇ページ)ことが指摘されています。
 しかし中国が今後も社会主義をめざす国としての道を歩み続けることになるか否かについては、今後の検討課題ということになるでしょう。というのも中国の経済発展が、資本主義的多国籍企業の導入によるものであることは否定しがたいものがあり、市場経済の導入のなかで、「中国が社会主義をめざしているから実現したのか、市場経済の導入で資本主義に近づいたから実現したのか」(不破前掲書一七四ページ)、その方向性については検討を要する課題となっているからです。
 また、人民が主人公となる人間解放の社会の実現という社会主義の理念からみると、「ソ連型社会主義」と同様の問題をかかえていることも否定できません。ソ連を崩壊させた国内的要因として、「国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ」(日本共産党綱領)ことがあげられていますが、中国の現状もこの問題にどう答えるかが問われています。

 

三、ベトナムの「社会主義」

 ベトナムはかつてフランスの植民地でしたが、第二次大戦中日本の占領下におかれます。日本の敗戦で独立を勝ちとったベトナムは、一九四五年九月「ベトナム民主共和国」としての独立宣言をし、ホー・チミンが「独立、自由、幸福」を掲げ、初代大統領となります。しかし直ちに旧宗主国フランスが軍事介入したため第一次独立戦争となり、五四年ディエンビエンフーの戦いに勝利したものの、ジュネーブ協定で南北に分断されてしまいます。
 一九六二年アメリカの北爆による軍事介入で第二次独立戦争に突入。七六年四月、サイゴン(現ホー・チミン市)のかいらい政権を打倒して南北統一を実現し、国名を「ベトナム社会主義共和国」に変更します。国土を破壊しつくされたベトナムは、極貧の社会主義をめざす国として再出発します。それは「バオ・カップ」(包給制)とよばれる国家丸抱えの計画経済であり、「貧しさを平等に分かち合う社会主義」でした。
 一九八六年一二月、ソ連でペレストロイカによる「ソ連型社会主義」の見直しがいわれ始め、中ソの経済政策を比較検討した結果、生産力を発展させるために中国に八年遅れて市場経済を導入する「ドイモイ(刷新)政策」がとられます。こうして「社会主義市場経済」の時代に入り、経済成長がはじまります。一九八六年から二〇〇六年で、一人あたりのGDPは二〇〇ドルから六〇〇ドルへと三倍化し、経済成長率は年六パーセントから八パーセントを維持します。経済成長を牽引したものは、石油、コメ、コーヒーなどの一次産品の輸出と外資導入によるものです。外資はすべての原・材料を持ち込み、ベトナムの安い労働力を使って工業製品を組み立てるのみであり、二〇〇七年の時点でベトナムでは自国民の愛用するバイクも自力で製造できないという脆弱な工業力となっています。こうした経済成長で、ベトナムは「極貧国」から「貧困国」へと脱却します。しかも一九九三年から二〇一〇年の十七年間に貧困世帯は五七パーセントから一〇パーセントに減少するという、社会主義をめざす国としての体制的優位性を示しています。
 政治面では、中国と同様「ソ連型社会主義」を継承し、ベトナム共産党の一党支配体制が続いています。党が国家機構を支配し、党の書記長が国家主席や首相よりも上位に位置しています。党官僚は、許認可権限を一手に掌握することで特権的地位を得ると同時に、それがまた汚職・腐敗の横行をもたらし、党幹部の近辺にまで及んでいます。しかし、政治への批判や不満は厳しく取り締まられている様子です。県労学協として二〇〇七年ベトナム学習交流旅行をしました。現地のガイドに政治のことを尋ねると、一様に口をつむいでしまう状況でした。「国民は経済に集中すればよくて、政治のことは共産党に任せておけばよいのであって、変に口出しをすると痛い目にあうぞ、というのが現政権の態度だ」(坪井善明著『ヴェトナム新時代』九六~九七ページ、岩波新書)との見解も、さほど的はずれではないように思われます。
 ベトナム共産党は、二〇一一年一月第一一回党大会を五年ぶりに開催しました。改正された綱領では、「社会主義の過渡期にある」と位置づけ、「社会主義志向の市場経済」を発展させて「二一世紀の半ばまでに社会主義志向の近代工業国を築く」との目標が掲げられました。しかし、ベトナムも中国と同様に、社会主義の方向性をもった経済発展といえるのか、人民が主人公の人間解放の社会に向かって進んでいるのか、という問題の検討を必要としているのではないかと思われます。

 

四、キューバの「社会主義」

中南米に広がるキューバの影響

 中南米はかつて「アメリカの裏庭」とよばれ、アメリカ帝国主義による新植民地主義の支配する地域でした。アメリカは抵抗する政権が誕生すれば、直ちにことごとく軍事介入によってつぶしていました。一九世紀以来キューバは「アメリカの、アメリカによる、アメリカのための砂糖の島」(伊藤千尋『反米大陸』一六八ページ、集英社新書)であり、「キューバで最も偉いのは、大統領ではなくアメリカ大使だ」(同)といわれるほどでした。
 一九五三年七月カストロら百六十五人は、対米従属、大企業・大地主優先のバチスタ軍事政権を打倒すべく「モンカダ兵営」を襲撃しますが、失敗。カストロはこの経験をふまえ、山中で武装革命闘争を開始し、五九年一月社会正義と民主主義、対米従属からの自立をめざす民主主義革命に勝利します。
 直ちに農地改革法を施行して、アメリカ企業の所有する大農園を労働者や農民に分配。アメリカは、政権転覆、反革命の組織化、カストロ暗殺計画を何百回となくくり返しますが、ことごとく失敗。六一年四月アメリカのハバナ空爆を機に、カストロはキューバ革命を社会主義革命と宣言します。それ以来キューバはアメリカの経済封鎖をはじめとするあらゆる妨害、干渉、介入に抗しながら、中南米でただひとつの社会主義をめざす国として歩みはじめて半世紀を迎えました。
 「革命の三〇年間で、キューバは中南米一の教育、福祉先進国になった。革命前は国民の三分の二が字が読めなかったのに、この時点では一・五%のみだ。授業料は、幼稚園から大学まで完全に無料。病院も治療費を払う必要はない。しかも医療技術は最高水準に達し、心臓移植をこの時点で、すでに五六件成功させていた。平均寿命は、革命前の五〇歳から七四歳に上がった。中南米のほとんどの国は、不平等がひどく、都市の周辺にはスラムが広がるが、キューバは平等でスラムがない。治安の良さと清潔さは、中南米一である」(伊藤前掲書一八一~一八二ページ)。これは二十年前の状況ですが、現在のキューバは、国内での教育、医療を無料としたのみならず、中南米諸国をはじめ世界の九十七ヵ国に医師、教師を派遣しています。「革命政府が、国内建設においては、社会主義の理念を掲げながら、国民の中に基本的な平等性を追求し、医療、教育、文化、スポーツなどにおける重要な社会変革の成果をあげてきたことは、誰しも否定できない」(新藤通弘「革命勝利五〇周年を迎えたキューバ」季論五号二二七ページ)のです。
 このようなキューバの社会改革の成果は、社会主義の体制的優位性を中南米全体に示すものとなっており、二〇世紀末から二一世紀にかけて、中南米の革新的流れを生みだす原動力になっています。ブラジルのルラ大統領の政治顧問、マルコ・ガルシアは、キューバ革命の歴史的意義を次のように語っています。「いくつもの世代のブラジル人は、キューバのモデルを参考にして政治活動に入った。そのモデルとは、主権を守りぬくことと、社会改革の成果である」(新藤前掲論文二一〇ページ)。これはひとりブラジルだけではなく、中南米全体の声ではないかと思われます。中国やベトナムの社会主義が経済成長の面では評価されながらも、全体として社会主義の体制的優位性を示すものになっておらず、近隣諸国へ好影響を及ぼしていないのとは大きな違いがあります。
 キューバでは、アメリカと対決しつつ自国の主権を守り、社会主義を建設するために、中小零細業者まですべて国有化するなどの「総動員体制」がとられました。そのため「過度の平等性が刻印され、市場の要素が抑制され、経済体制は歪んでしまい、さらに政治体制においても、選挙制度、政党制度、集会・結社・出版の自由などが独特のもの」(同)となりました。二〇〇七年七月、ラウル議長(現)は、キューバ社会の諸問題を解決するためには「構造改革」が必要だと提起しました。革命五十年を経て、これまでの成果の上にたって新たな段階の社会主義の建設に向かおうとしています。
 二〇一一年四月のキューバ共産党大会では新しい経済モデルの方向を示した新路線文書「経済社会政策路線」を採択しました。それは社会主義的な計画経済を基本としながらも、中国やベトナムの経済成長に学んで「市場」の機能も活用しつつ、参加型社会主義をめざそうというものです。しかし改革案は基本的な公共サービスを全国民に保障する方針は堅持するものであって、ラウル議長は「社会主義を擁護・維持し、完成させる。けっして資本主義体制には戻らせない」との決意を表明しています。

キューバ社会主義の体制的優位性はどこにあるか

 では、キューバではどうしてこのような成果を生みだすことができたのでしょうか。キューバでもソ連・東欧と同様に共産党の事実上の一党支配体制が続いています。一九八九年、民主化の流れのなかで、東欧諸国では複数政党のもとでの自由選挙が実施されると、政権党であった共産党は一挙に支持を失い、東欧「社会主義」は崩壊するに至りました。キューバでも、こうした流れを受けて一九九三年、憲法を改正して、直接・無記名の普通選挙が実施されました。キューバはソ連からその対外援助総額の半分にあたる援助を受けていましたので、ソ連の崩壊で今すぐにも崩壊すると思われていました。パパ・ブッシュは「カストロ政権の存命はあとわずか」とうそぶいたといわれています。
 こうした状況での普通選挙であったにもかかわらず、カストロ政権は圧倒的支持を獲得して政権を維持することができたのです。その秘密は、キューバにはノーメンクラトゥーラが存在しなかったことにあるといっていいでしょう。党指導部は清廉潔白であり、労働者なみの給与によって労働者と同様の普通の生活を営んでいます。汚職・腐敗とも無縁です。カストロ兄弟も普通の住宅に生活し、党指導部も自転車で役所に出勤し、一般人と同じ場所で買い物をするという生活です。
 キューバにおいては、ソ連・東欧はもとより、中国、ベトナムにもみられるノーメンクラトゥーラと人民という「新しい階級」対立は存在しないのです。その意味では、搾取と階級を廃止する社会主義の原点にたっているということができます。民族主権と社会改革、医師、教師の海外派遣などによる社会主義キューバの体制的優位性は、かつて「アメリカの裏庭」とされた中南米を今や逆にアメリカを包囲する包囲網に変えてしまいました。
 アメリカの新自由主義の押しつけによる貧困化への抗議として登場した、一九九九年のベネズエラにはじまる左派政権は、今や中南米全体への広がりをみせています。一九六二年米州機構(OAS)外相会議で採択されたキューバ排除決議は、二〇〇九年六月の第三九回米州機構総会で三十五ヵ国中アメリカを含む三十四ヵ国の賛成(キューバ出席せず)で無効であることが満場一致で確認されました。これはアメリカのキューバ敵視政策の誤りをアメリカ自身が認めた画期的なものでした。
 〇九年一二月、中南米、カリブ海の三十三ヵ国すべてが参加して第一回「ラテンアメリカ・カリブ海統合と開発」首脳会議が開催されました。これは「アメリカの裏庭」とされた地域のすべての国が、アメリカ、カナダ抜き、また旧宗主国のスペイン、ポルトガル抜きで会議をおこなう歴史的なものとなりました。こうして今やキューバは中南米統合の象徴的存在となりつつあります。
 キューバ社会主義を参考にしつつ、ベネズエラ、エクアドル、ボリビアでは「二一世紀の社会主義」を展望しつつあります。それは「ソ連型社会主義」を否定し、国民参加型の多数者の意志にもとづく自由と民主主義の社会主義をめざそうというものです。
 ベネズエラのチャベス大統領は、九八年からの十年間に十六回の国民投票を実施して、十五回勝利し、国民の合意を得ながら多数の支持のもとに社会主義を建設しようとしています。南米最大の国ブラジルでは、二〇〇三年にルラ大統領が当選して以来、貧困と格差の解消のために、貧困層に「ボルサ・ファミリア」とよばれる現金を支給したり、生活基盤整備の公共投資で雇用を拡大するなどして、ブラジルを世界で最も元気な国の一つに変えてしまいました。国民の八割の支持を得ていたルラ大統領の政策は、いまルセフ大統領に引き継がれています。これらの諸国は、いずれもキューバ政府と頻繁な交流をおこない、二一世紀を中南米の世紀に変えようとしています。しかしキューバが市場原理を導入することによってこれまでの「平等性」が損なわれ、キューバのもつ社会主義的優位性を失うことにならないかの懸念があることは否定することができません。

 

五、社会主義の実現に科学的社会主義の政党は不可欠か

 以上、中国、ベトナム、キューバ三ヵ国の「社会主義をめざす」国を概観してきました。共通していえることは、「政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも」(日本共産党綱領)、資本主義国では実現しえないような社会改革が実践されているということです。中国やベトナムの貧困対策をその例としてあげることができるでしょう。とりわけキューバの社会改革は、「社会主義」の体制的優位性を示すものとして、中南米の流れを変える原動力となっていることは特筆されるべきものでしょう。
 それと同時に、人間解放を実現する社会主義・共産主義に到達するまでには長期の過程を必要とすることを実感させるものとなっています。現段階の社会主義を中国が「社会主義の初期段階」、ベトナムが「社会主義への過渡期」と位置づけているところにもそれがあらわれています。長期の過程の問題に関連して、キューバは別として中南米の左派諸政権の「主力をなしているのが、科学的社会主義・マルクス主義の立場にたたない勢力だということは、共通」(不破哲三『激動の世界はどこに向かうか』一五二ページ)しており、「このことを、科学的社会主義の党として、どう見るか」(同)という問題があることが指摘されています。
 中南米各国の科学的社会主義の党の諸事情についての詳しい知識はありませんが、ソ連の覇権主義の影響を受けていたということもあるかもしれませんし、また、中南米では、ゲバラの武力革命論の影響は根強いものがあったでしょう。つまり科学的社会主義とは何か、その革命論の中心は何かに関して、まだ二〇世紀は定説をもたなかったところから、これらの諸国の党も路線上のいくつかの誤りがあって人民の信頼を獲得することのできないまま今日に至っているのではないかと思われます。
 これまでに学んできたように、科学的社会主義の政党は弁証法的唯物論という真理認識の唯一の方法を身につけ、それを活用して当為の真理を認識し、当為の真理を人民の前に提示することによって人民の導き手となることができるのです。次講でお話しする日本共産党の綱領路線は日本における政治的当為の真理を探究し続けてきた産物ということができます。
 しかし中南米の科学的社会主義の政党は、さまざまな事情により、この真理探究の立場にたつことができなかったのではないでしょうか。逆に左派政権の担い手たちの方が、科学的社会主義の立場にこそたたなかったものの政治革新の基本方向において真理探究の真剣な試みを積み重ねてきたために、いまや人民の圧倒的な支持を獲得するに至ったということができるでしょう。これらの左派政権は、真理探究の一点で日本共産党と共通の立場にたっているところから、自国の科学的社会主義の政党への評価はともかくとして、日本共産党との間に深い信頼関係を築きあげてきたのです。
 いずれにしても国民の切実な要求から出発したこれらの左派政権が、社会変革の基本方向のみならず複雑な社会変革の長い過程をくぐり抜けて、人間解放の社会主義・共産主義にたどりつくまでには、真理探究を求める科学的社会主義の政党を必要とする時期が遅かれ早かれ到来するものと思われます。というのも反人民的政権を打倒する困難さに比べると、社会主義・共産主義を建設する事業ははるかに複雑かつ困難な課題だからです。対米従属と大企業の利益優先の政治に反対するという当為の真理を探究することは科学的社会主義の政党でなくても可能でしょうが、その民主主義的変革をつうじて社会主義・共産主義に至る長くて複雑な変革の過程において大きな誤りなく人民の一般意志を時々の政治的局面において示し続けることは、科学的社会主義の政党を抜きに考えることはできません。キューバでも革命を成功させたのは反バチスタの統一戦線でしたが、六一年に社会主義革命を宣言するなかで、六五年一〇月キューバ共産党が設立されるに至ったのです。
 その意味では科学的社会主義の政党は社会主義の建設にとって不可欠ということができるでしょう。ただしその場合の科学的社会主義の政党とは、名ばかりの科学的社会主義の政党ではなくて、真理探究の武器である弁証法的唯物論を身につけ、当為の真理をあらゆる歴史的過程で人民の前に提起するという理論的主導性を発揮しうる政党でなければなりません。
 中南米の左派政権のもとでも、これらの諸国の科学的社会主義の政党が本来の科学的社会主義の立場にたち戻り、あるいは政権党が科学的社会主義の党へと発展することによって、それぞれの諸国人民にとって科学的社会主義の政党が不可欠の存在となることを期待したいと思います。
 その意味からしても、二一世紀は、科学的社会主義の学説に着せられた偽りの衣をはぎ取り、科学的社会主義とは弁証法的唯物論を手にして真理を探究する学説であり、社会主義という当為の真理は従来の三つの基準をもつ社会というにとどまらず、人間解放をめざす真のヒューマニズムの理論であることを鮮明にしていかなければならない世紀ということができるでしょう。そのためにも日本共産党の果たすべき役割には大きいものがあるように思えます。