2012/06/23 講義

 

第3講 古代哲学②
    人間哲学に転換した「アテナイ期の哲学」

 

1.「アテナイ期の哲学」は
  自然哲学から人間哲学への転換

● アテナイにおけるポリスの発展

 ・ギリシア文化の中心地がアテナイ

 ・自由人であれば、家柄、財産に関わりなく社会的に活躍できることに

 ・そこから弁論術への関心が高まり、人間哲学に

 ・アテナイを中心としてギリシア哲学の最盛期を迎える

●「アテナイ期」の哲学

 ・ソフィスト(知者の意)たちから、ソクラテス、プラトン、アリストテレス
  までの哲学はアテナイを中心としたところから「アテナイ期の哲学」とよば
  れる

 ・世界の根本は自然にあるとする自然哲学への反省から、世界の根本は人間に
  あるとする人間哲学に

 ・世界の根本をノモス(人為)とピュシス(自然)の対立するカテゴリーでと
  らえる二元論の登場

 ・ノモスとピュシスの対立は、存在と当為の対立のカテゴリーにつながる

 ・人間の生き方の当為に真理はあるかの議論に

 ・人間の生き方の当為の探究をつうじて「イデア(理念)」論の発展

 ・同時に人間の精神活動の産物としての国家、社会の当為も問題に

 


2.ソフィストたち

● ソフィストによる人間哲学への転換

 ・ソフィストにとって自然は必然性をもっているのに、人間に関する事柄は何
  ら必然性のない、勝手に人間がつくり出した相対的なものにすぎない

 ・民主主義体制のもとで授業料をとって相手を言い負かす弁論の技術を教える
  ―哲学を論理の遊戯に変え「詭弁家」と称される

 ・ソフィストの立場は論争のための単なる「理由づけの立場」(『小論理学』
  ㊦ 40ページ)―主観的に重要と思われる理由を主張することで「当然の悪
  評を招いた」(同)

 ・理由というものは「まだ絶対的に規定された内容を持たない」(同38ペー
  ジ)からいかなる理由も十分ではない―「理屈と膏薬はどこにでもくっつ
  く」

 ・「今日のような反省と理由づけに満ちた時代には、あらゆるもの、最も悪く
  最も不合理なものにたいしてさえ、何かしかるべき理由を持ち出すことので
  きないような者は成功はおぼつかない」(同41~42ページ)

● ソフィストを代表するプロタゴラスとゴルギアス

 ・2人ともソクラテスとの論争相手として、プラトン全集第7巻、8巻の標題
  にその名をとどめている


① プロタゴラス(BC481〜411頃)

● ソフィストの筆頭格の名士

●「人間は万物の尺度である。存在するものについてはそれが存在するというこ
 との、存在しないものについてはそれが存在しないことについての」

 ・経験的な主観性を真理の基準とする

 ・あらゆることについて同じ権利をもって賛成することも反対することもでき
  る―「理由づけの立場」

● プロタゴラスは、そこから真理の相対性を主張する

 ・人間を万物の尺度とすることによって、はじめて人間と自然との関係、「認
  識論」を哲学上の重要課題として位置づける―真理とは何か、いかにして真
  理を認識するのかという「認識論」は近代哲学の最大の問題

 ・「真理は意識にとっての現象であり、何ものも絶対的な意味において或る1
  つのものであるのではなく、一切はただ相対的な真理性をもつだけである」
  (『哲学史』㊥の1 36ページ)

 ・「風がふく場合、冷える者もあれば、冷えない者もある。だからわれわれは
  この風のことを、それ自体つめたいともつめたくないとも言うことはできな
  い」(同36~37ページ)


② ゴルギアス(BC483〜375)

● 奴隷制下の民主主義の擁護者として、貴族政治のイデオローグであったソクラ
 テスに対抗

● ゴルギアスの懐疑論

 ・「何ものも存在しない」「たとい存在があると過程としても、それは認識さ
  れえない」「たとい認識しうるものであったにしても、認識したものを伝え
  ることは不可能」(同43ページ)

 ・認識論におけるプロタゴラスの相対主義を推し進め、懐疑論、不可知論の立
  場に

 ・自然にかんする認識が極めて限られていた古代社会において、認識論がまず
  懐疑論から始まったことはある意味で当然―長い哲学史を通じて無限に絶対
  的真理に接近しうるという唯物論的真理観が確立

 


3.ソクラテスと小ソクラテス派

① ソクラテス(BC469〜399)

● 喜劇作家アリストファネスの「雲」でソクラテスは嘲笑の対象に

 ・ソクラテスをソフィストの代表としてとらえる―ソクラテスの問答法は一見
  するとソフィストの論争の仕方と似ている

 ・「無益で閑つぶしで、青年を堕落させ美風を破壊するにせ智恵の代表者」
  (シュヴェーグラー『西洋哲学史』上105ページ)

 ・ソクラテスの「上向きに曲がった鼻、とびだした眼、はげた頭、太鼓腹」
  (同)の容貌も喜劇の素材に

● 最高の知者

 ・ある人物が「ソクラテス以上の知恵のある者がいるか」デルフォイの神にた
  ずねたところ、「誰もいない」との神託くだる

 ・自分は知者ではないと思っていたソクラテスは、知者とされているソフィス
  トと論争、その結果自分は、ソフィストと異なり知者ではないことを知って
  いるだけ知者なのだと納得(無知の知)

 ・街頭で誰彼の区別なく問答し、真の知を得ようとする

 ・古代の神々を礼拝せず、ソフィスト同様くだらない議論で青年を惑わすとし
  て、告訴され死刑に

 ・友人のクリトンが救出しようとしたが、ソクラテスは、自分がしたことは
  「たましいができるだけすぐれたよいものになるよう」(プラトン全集①
  84ページ)にしただけであり、何度殺されても「これ以外のことはしない
  だろう」(同85ページ)として死刑判決を受諾し、毒杯をのむ

● ソフィストからソクラテスへ

 ・ソフィストもソクラテスも人間が万物の尺度と考える

 ・しかしソフィストが真理は相対的なものであり、いかに論争に打ち勝つかが
  問題だとして弁論術を教えたのに対し、ソクラテスは「たましい(プシュ
  ケー)」を「よいもの」にする、つまり真理の絶対性を前提に普遍的真理を
  探究しようとした

 ・とくにソクラテスの関心は、デルポイの神殿にきざまれた「汝自身を知れ」
  にあり、人間が人間としてより善く生きるという生き方(当為)の真理に

 ・「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、よく
  生きるということなのだ」(同133ページ)

 ・「徳とは何か」の探究をつうじて「倫理学」の創始者となる

 ・自然科学万能の資本主義のもとで、事実の真理は肯定されても、いかに生き
  るべきかという当為の真理が軽視ないし無視されている状況のもとで、生き
  方の真理を探究したソクラテスの功績は大きい

● ソクラテスの真理探究の2つの方法

 ・1つは「ソクラテスのアイロニー(産婆術)」とよばれる問答法であり、も
  う1つは「徳とは何か」の問いをつうじて事物の真の姿、真にあるべき姿を
  とらえようとした

 ・しかし「徳とは何か」の結論は出ないまま―方法論に問題あり

 1)ソクラテスのアイロニー(産婆術)―ソクラテス的問答法(弁証法)

 ・プロタゴラスが徳には正義、節制(分別)、敬虔といったものがあるとした
  のを批判

 ・「徳は1つなのか、それとも正義、節制、敬虔という部分に分かれているの
  か」「そうだとしたらそれは互いに別のものか」「別のものだとすると、そ
  の部分の一つひとつは固有の部分を持っているのか」「そうだとすると、正
  義とは敬虔のものではなく、敬虔とは正しくないような性格のものというこ
  とになる」(「プロタゴラス」プラトン全集⑧ 153~158ページ)―こうし
  てプロタゴラスを回答不能に追いこむ

 ・「かれはその会話において常に、問題になっている事柄をもっとよく教えて
  ほしいようなふりをし、そしてその事柄について色々な質問をあびせること
  によって、相手をかれが最初正しいと思っていたものとは反対のものへ導い
  た」(『小論理学』㊤ 248ページ)

 ・この弁証法的否定をつうじて「徳とは何であるか」との問いを発して、徳の
  真理を探究しようとした

 ・そこからこの問答法は、真理を探究する手助けをするという意味で「ソクラ
  テスのアイロニー(産婆術)」とよばれる

 2)イデア論の創始者としてのソクラテス

 ・ソクラテスは、例えば「徳とは何か」の問いを発することによって、徳の
  「概念」「定義」「真の姿または真にあるべき姿」、つまりプラトンのいう
  イデアを探究しようとした

 ・ソクラテスは「単なる理由というものの無定見を弁証法的に指摘し、それに
  たいして正義や善、一般に普遍的なものあるいは意志の概念(意志の真にあ
  るべき姿―高村)を主張することによって、かれらと論争した」(同㊦ 41
  ページ)

 ・ソクラテスはソフィストとの論争をつうじて、ソフィストたちの正義や善と
  は何かの「理由づけ」ではなく、正義や善の絶対的に規定されたイデアを求
  めた

 ・このイデア論の探究がプラトン、アリストテレスを経て、ヘーゲルに引きつ
  がれることになる


② 小ソクラテス派

● ソクラテスの哲学は、倫理学と弁論術に分化してソクラテスの弟子(小ソクラ
 テス派)に受けつがれる

(1)キュニコス派

●「徳とは無欲である」

 ・徳が人を幸福にするものならば、それは一切の欲望を否定して心が乱されな
  いようにすること

 ・その立場からあらゆる知識や資産、社会的風習を蔑視―いわゆる「否定的自
  由」の立場。最も低次の自由

 ・「どんな内容もなにか制限であるとする。いっさいの内容からの逃避」
  (ヘーゲル『法の哲学』5節)こそ自由であり、徳であるとする

 ・シノペのディオゲネス(キュニコス派の代表人物)が樽のなかで無一文の生
  活を送るのをみて、アリストテレスが「犬のような(キュニコス)」生活と
  よんだところから、キュニコス派(犬儒派)とよばれる

(2)キュレネ派

● アフリカのキュレネ人、アリスティッポス(BC435〜355頃)によって創始

●「徳とは幸福であり、快楽である」

 ・幸福、快楽は人生の究極目的であり、最高善

 ・「おのれの満足をおぼえようとする主体の特殊性の権利」(同124節)を承
  認する近代的自我の先駆をなすもの。憲法13条は個人の尊重として幸福追求
  権を認める

 ・感覚的な快楽と同時に精神的快楽も

(3)メガラ派

● メガラの人、エウクレイデス(BC450〜380頃)によって創始

● ソクラテスの弁論術をうけつぐ

 ・「誰かが自分は嘘をついているのだと告白する場合、彼は嘘をついているの
  か、それとも本当のことを言っているのか」(『哲学史』㊥の1 143ペー
  ジ)という問いを提出

 ・もしそれが嘘だとすると、彼は嘘をついていない正直者なのに「嘘をついて
  いる」と嘘を言っていることになる

 ・もしそれが事実だとすると、彼は嘘つきなのに正直に「嘘をついている」と
  本当のことを言っていることになる

 ・どちらの場合も矛盾しているとして、真理の相対性を主張

● 一粒の穀物は「穀物の堆積」といえるか、一本の毛を抜くと「はげ頭」になる
 のかなどの問題を提起(量から質への転化の問題)

 ・量と質とは対立するカテゴリーであるから、どちらも一般的には否定される
  が、それが一定の量に達すると、量的変化は質的変化となり、量は質に転化
  する

 ・対立物の相互浸透の一例(量と質の相互浸透)

 


4.プラトン(BC427~347)

● プラトンはソクラテスの真の後継者として、哲学を学問的に仕上げる(プラト
 ン全集〔全15巻岩波書店〕はほとんどソクラテスの問答を紹介したもので、
 プラトン自身は登場しない)

 ・ソクラテスの問答を文章化して、仕上げる

 ・「哲学を学問として仕上げる仕事、さらにくわしくはソクラテス的立場を学
  問性へ仕上げる仕事はプラトンをもって始まり、アリストテレスによって全
  うされる。それゆえ、もし誰かがそうよばれるべきであるなら、彼らこそ人
  類の教師とよばれるべきである」(『哲学史』㊥の1 181ページ)

 ・プラトンとアリストテレスは古代哲学の二大巨人―バチカンにあるラファエ
  ロの「アテネの学校」の中央には2人の姿。プラトンは天(観念論)を指
  し、アリストテレスは地(唯物論)を指している

 ・ソクラテスは「そのものは何であるか」の問いに答える「定義」こそが真実
  在であるととらえたが、プラトンはそれを哲学的に「イデア論」に高め、イ
  デア論をもとに哲学を世界観にまで高め、体系化

 ・BC387にアテネ郊外に「アカデメイア」設立。AD525にローマ皇帝ユス
  チニアヌスによって異端の教えを説くものとして解散を命じられるまで約
  900年存続。哲学を中心に、数学、音楽、天文学などを教える(アカデミー
  の語源)―そのためプラトンの著作はほとんどすべて現存している

 ・「弁証法の創始者」(『小論理学』㊤ 247ページ)―プラトンはソクラテス
  以上に「より厳密に学問的な対話において、弁証法を用いてあらゆる固定し
  た悟性規定の有限性を示している」(同248ページ)

● プラトンのイデア論

 ・『洞窟の比喩」―人間は子供のときから洞窟の中に閉じこめられて、奥壁に
  向かって縛りつけられている。背後に火がともっていて火と囚人の間には衝
  立があり、囚人はその上を動く人間や器物の影を奥壁に見てそれが真実のも
  のと思っている。いま1人の囚人がその縛めを解かれて入口の方向にひっ
  ぱっていかれると、今まで見ていたものが火(イデア)の影にすぎないもの
  であり、火のさらに向こうには太陽があり、太陽(善のイデア、イデアのな
  かのイデア)こそが目に見える世界の一切を支配していることを知る

 ・一般には、プラトンの「イデア」とは、もろもろの感覚的存在を超越し、た
  だ思惟(理性)によってのみ把握される「真実在」として理解されている

 ・近代「合理論」(理性のよってのみ真理を認識しうるとする立場)の先駆者
  ―理性によってとらえたイデアこそ真理であるとした

 ・あれこれの美しい物は、「美そのもの」である美のイデアを分有することに
  よって美しい

 ・もろもろのイデアのうち最高のイデアが善のイデア(神)

 ・そこからプラトンは超越的存在者であるイデアを世界の根源とする客観的観
  念論者とされており、中世のスコラ哲学の源泉ともなっている

● ヘーゲルの「プラトン的イデアへの誤解」に対する
 唯物論的観点からの2つの批判

1)プラトンのイデアは「どこだか知らぬが何かこの世のものならぬ知性のうち
  に、われわれから遠くはなれたところに存在し」(『哲学史』㊥の1 216
  ページ)ている観念の産物であるかのように誤解されている。しかしそうで
  はなくてレウキッポスの原子論と同様に、イデアは確かに理性によってのみ
  とらえられたものではあるが、現実的世界そのもののなかに潜在的に存在す
  る「唯一の真実在として理解されるような普遍」(同214ページ)

 ・「人は感性的個物そのもののうちにただ普遍的なもののみを考察しなければ
  ならない。このものをプラトンは今、イデアとよんだのである」(同240
  ページ)

 ・「われわれの意識のうちにまず存在するのは直接に個的なもの、感性的に実
  在的なもの」(同)であるが、「外的実在性に対してはむしろ観念的なもの
  が最も実在的なものなのであって、それが唯一の実在」(同)としてのイデ
  アであるというのが「プラトンの洞察」(同)

2)イデアという「この理性の産物はいま現に実在性を有しもしなければ、また
  いつか実在性をもつにいたることもありえない」(同216ページ)と誤解さ
  れているが、「そのようなイデアは空想の産物にすぎまい」(同217ペー
  ジ)として「プラトンの真意ではない」(同)とする。イデアは現実のなか
  から理性の働きによってとらえられるものであるから、理想として必然的に
  現実になる

 ・イデアは感性的個物のなかに存在している「いま現に実在する」真実在とし
  ての普遍であるか、または「いつか実在性をもつにいたる」真実在としての
  普遍―プラトンはこの両者を区別しないで用いている

 ・ヘーゲルはこの2つを区別し、前者を「本質」(真の姿)とよび、後者を
  「概念」(真にあるべき姿)とよんだ―もっともヘーゲルは概念を事物の真
  の姿の意味でも用いている

 ・後者のイデアは、空想ではなく「理想」として「いつか実在性をもつにいた
  る」→イデアとは理想であり、その理想は現実のなかに潜在的に存在する真
  実在を理性によって取り出した理性の産物であり、だからこそ必然的に現実
  性に転化する

 ・ヘーゲルはこの見地から、プラトンのイデアに学んで「概念」のカテゴリー
  を生みだし、アリストテレスのイデア論をふまえて「理想と現実の統一」と
  いう革命の哲学の方向性を示した(後に詳述)

● プラトンの弁証法

 ・プラトンはイデアを認識する方法を弁証法とよんだ

 1)弁証法とは1つにはソクラテスの問答法を引きつぎ、対話をつうじて有限
   な認識を否定し、否定の否定をくり返すことによってイデアに到達する方
   法

 ・「それは、魂のうちなる最もすぐれた部分を導いて、実在するもののうちな
  る最もすぐれたものを観ることへと、上昇させて行くはたらきをするもの」
  (プラトン全集⑪537ページ)

 2)2つには、イデアを対立物の統一という規定されたイデアとしてとらえる
   「一段と高い規定における弁証法」(ヘーゲル『哲学史』㊥の1 243
   ページ)

 ・これが「本来のプラトン弁証法」(同)

 ・規定されたイデアは「諸矛盾を自己の内で解消するところの、また解消し終
  えたところのものとして、したがって内面的に具体的なものとして規定され
  ている。したがって矛盾のこの揚棄は肯定的なもの」(同)

 ・プラトンは「要するに絶対的なもの(イデア―高村)を、ヘラクレイトスの
  言うような生成における存在と非存在(有と無―高村))の一体性、一と
  多、等々の一体性と解したのである」(同244ページ)

 ・プラトンは「例えば『パルメニデス』において、かれは一から多を導き出し
  ながら、しかも多が一として自己を規定せざるをえないことを示している。
  プラトンはこのように偉大な仕方で弁証法を取扱ったのである」(『小論理
  学』㊤ 248ページ)

 ・「プラトンは哲学においてはじめて弁証法が自由な学問的な形(対立物の
  統一という形―高村)をとって、したがって客観的な形(真にあるべき形
  ―高村)をとってあらわれている」(同247ページ)

● プラトンの国家論

1)イデアを体現する真にあるべき国家

 ・真にあるべき国家は理性的なイデアを体現する普遍的なものだから、特殊と
  しての個人は国家の一員としてのみ存在する

 ・プラトンがその国家論で真にあるべき国家を論じた意義は大きい

 ・イデア国家のもとでは私有財産は否定され、結婚も国家によって定められ、
  子どもも国家の手で教育される―ある意味で共産主義思想の原型を示すもの

 ・ルソーの「社会契約国家」(人民の一般意志を統治の原理とする国家)の考
  えにつながるもの

 ・理想国家のもとにあっては、すべてを普遍的なイデアをかかげる国家に一任
  し、国家は個人の上に立つという考えは、生産手段の社会化に伴う「バオ・
  カップ(包給制)」(ベトナムの社会主義)という社会主義思想につながる

 ・しかし近代の特徴は、近代的自我の確立、個人の尊厳を認めるところにあ
  り、真にあるべき国家は主体的自由の権利のうえに治者と被治者の同一性を
  実現するところにある

2)哲人政治

 ・哲人政治の考えは、「余りにも人々の常識的な観念にさからったもの」
  (『哲学史』㊥の1 206ページ)として「最も有名であると同時に最も不
  評」(同)を買ったもの

 ・教育により善のイデアに到達した哲人が王となって国家の統治にあたらない
  かぎり、国家にとって禍のやむときはない(哲人政治)

 ・「哲学者とはつねに恒常不変のあり方を保つもの(イデア―高村)に触れる
  ことのできる人々であり、他方そうすることができずに、さまざまに変転す
  る雑多な事物のなかにさまようような人々は哲学者ではない、ということで
  あれば、いったいどちらの種類の人々が、国の指導者とならなければならぬ
  だろうか?」(プラトン全集⑪ 418ページ)

 ・国家はつねにあるべき政治(政治のイデア)を追求すべきものであり、した
  がって国家を担う人々は、イデアに触れることのできる哲学者でなくてはな
  らない

 ・この哲人政治の考えは、科学的社会主義の「プロレタリアート執権」論につ
  ながるもの

 ・「プロレタリアート執権」とは科学的社会主義の政党の主導性(哲人政治)
  のもとにおける人民主権(国民が主人公)の権力

 ・権力のお先棒をかつぐ巨大メディアのもとで、国民合意により真にあるべき
  政治を実現するには、人民の導き手としての哲人政治が不可欠

● プラトンをどう評価すべきか

 ・これまでの科学的社会主義の陣営では、プラトンを客観的観念論者(客観的
  な精神的なものを世界の根源とみる論者)と規定し、学ぶべきものは何もな
  いかのように扱ってきた

 ・「彼によれば、感覚される個物の世界は真の世界ではなく、理性によって認
  識されるイデア(理念)の世界が真の世界として別に存在する。……これが
  プラトンのイデア論とよばれるもので、彼はこれをひろく認識、道徳、国
  家、宇宙の問題に適用し、観念論の哲学体系をたてた」(「社会科学総合辞
  典」)

 ・「観念論」を意味するイデアリスムスは、理想主義とも訳されている

 ・理想には現実の分析から生じる唯物論的な理想と、単なる空想としての観念
  論的な理想がある。―「空想から科学へ」とは観念論的理想としての社会主
  義から、唯物論的理想としての社会主義への移行を意味する

 ・プラトンのイデア論は、空想ではなく、ヘーゲルのいうように唯物論的な理
  想として理解すべきであり、プラトン哲学の本質は観念論というよりも、理
  想主義にあるというべきもの

 ・ヘーゲルはプラトンの国家論はたんなる空想の産物という批判に対し、「或
  る理想がとにかくそれ自身のうちに概念を通じて真理性をもつとき、それは
  本当のものであるからこそ空想などではない。…したがってまたそのような
  理想は無益で無力なものではなく、むしろ現実的なものである」(『哲学
  史』㊥の1 296ページ)と反論している

 ・『法の哲学』の有名な命題である「理性的なものは現実的であり、現実的な
  ものは理性的である」は、真の唯物論的な理想は現実に転化する必然性を持
  つことを明らかにしたもの- 真の理想は現実的であるべきなのではなく、現
  実的なのであり、そしてそれのみが現実的なものである」(同)

 ・科学的社会主義の哲学は、革命の哲学として唯物論的な理想を掲げる

 ・この点でプラトン哲学は唯物論的な理想主義である科学的社会主義の源泉的
  役割をもっているといえるのではないかと思われる

 ・プラトンの理想主義を受けついだのがヘーゲルの「概念論」

 ・プラトンの客観的観念論者との評価をくつがえすことは、同じく客観的観念
  論者とされているヘーゲルの評価をもくつがえすことになる(後に詳述)

 ・プラトンもヘーゲルも哲学史上の巨人であり、「人類が生みだしたすべての
  価値ある知識」から除くことはできない