『科学的社会主義の哲学史』より

 

 

第三講 古代哲学②
    アテナイ期の哲学(その一)

三、アテナイ期の哲学

自然哲学から人間哲学への転換

 古代ギリシア文化の中心地となったのはアテナイでした。アテナイにおける哲学は、紀元前五世紀後半において隆盛となります。それはこれまで世界の根源を自然のうちに求めようとする自然哲学にかわって、世界の根源は人間にあるとする人間哲学を特徴とするものでした。
 世界は大きく自然と人間に分けられ、人間こそが世界の根源をなすと考えたのです。そこからノモス(人為、人工物)とピュシス(自然物)という対立するカテゴリーが生まれてきます。ノモスとは、法律や習俗などの人間の力でつくり出されたものを意味し、ピュシスとは、人為によっては動かされない自然必然的なものを意味しています。ここには、まだ未分化ながら、世界全体を大きく二分してとらえようとする見地がみられ、その後の哲学の歴史をつうじて次のような対立するカテゴリーを生みだすことにつながっていくことになります。
 一つは、「精神と自然」「思考と存在」のカテゴリーです。近代哲学において、世界を大きく精神と自然、思考と存在というカテゴリーでとらえる二元論が確立します。そのうえで、どちらがより根源的なものであるかという「哲学全体のこの最高の問題」(『フォイエルバッハ論』全集㉑二七九ページ)が提起され、「この問いにどう答えたかに応じて、哲学者たちは二つの大きな陣営に分裂」(同)し、「自然に対する精神の根源性を主張」(同)した人々は「観念論の陣営」(同)をつくり、他方「自然を根源的なものと見なした他の人々」(同)は、唯物論の陣営を構成することになったのです。
 二つは、「当為と存在」のカテゴリーです。ノモスというカテゴリーは、人間の本質を「為すこと」にあるととらえ、「在ること」にとどまるピュシスに対立させたのです。ここから、後に当為(まさになすべきこと、まさにあるべきこと)と存在(在ること、在らざるをえないこと)という対立するカテゴリーが生まれてくることになります。当為のカテゴリーは、まさにかくあることに価値があるとすることにつながりますので、当為と存在の対立するカテゴリーは、「価値と事実」のカテゴリーと重ねあわせて用いられます。
 三つには、「偶然と必然」のカテゴリーです。人間の「為すこと」は、為す人の主観性によって異なるところから、いわば人さまざまであって、人為には偶然性が支配するのみにすぎないのに対し、自然は自然の法則という必然性によって貫かれているとの考えが生まれます。すなわちノモスは偶然であって、そこでは真理といわれるものも単に相対的なものにすぎないのに対し、ピュシスにおいては自然必然性という絶対的真理が存在すると考えたのです。そこからノモスとピュシスは、偶然と必然のカテゴリーを媒介して、「真理の相対性と絶対性」の問題にまで発展してくることになります。
 このように、アテナイ期の哲学が提起したノモスとピュシスのカテゴリーは、その後の哲学史の方向を決定づけるような重要な意義をもっていたのです。「ギリシア哲学の多様な諸形態のなかには後代のほとんどすべての見方が胚種の形で、発生しかけた姿で見いだされる」(『自然の弁証法』全集⑳三六四ページ)とのエンゲルスの指摘は、ノモスとピュシスのカテゴリーについても当てはまるということができます。

アテナイ期の哲学

 アテナイ期の人間哲学をもたらしたのは、ソフィスト(知者の意)たちと、それに続くソクラテス、プラトン、アリストテレスでした。人間哲学を生みだす契機となったのは、ポリスにおける独特の直接民主主義の政治体制でした。ポリスの重要な政治は、アゴラとよばれる中央広場で開かれる民会で決せられ、数百数千の市民の前でポリスの諸政策を提案し市民の支持をうるには、弁論の心得が必要でした。また当時の裁判は一種の民衆裁判であり、弁論の能力だけが自分の生命や財産を守る唯一の手段でした。
 ポリスの民主主義のもとでは、家柄や財産は政治的特権を保障するものではなくなり、すべての人間が市民としての資格だけで平等に政治参加の権利をもっていたのですから、頭角をあらわし、立身出世するには弁論に秀でることが不可欠の要件とされました。
 そこから、授業料をとって青年たちに国家、社会のための弁論術を教える「ソフィスト」たちが登場することになります。今日では「ソフィスト的論法と言えば、正しいものや真実なものをねじまげて、一般に事物を誤った光のうちに表現するのを目的とする考察法にすぎない」(『小論理学』下四〇ページ)と考えられています。なぜそのような悪評を招くことになったのかといえば、彼らが権威や伝統に挑戦するために、さまざまの理由を考え出す「理由づけの立場」(同)にたっていたからです。
 しかし理由というものは、まだ絶対的に規定された内容をもたないので、「理屈と膏薬はどこにでもくっつく」という諺にも示されているように、どんな理由でも見つけだすことができるのです。ヘーゲルは、「今日のような反省と理由づけにみちた時代には、あらゆるもの、最も悪く最も不合理なものにたいしてさえ、何かしかるべき理由を持ち出すことのできないような者は成功はおぼつかない」(同四一~四二ページ)と皮肉たっぷりに述べています。したがってどの理由をとりあげるかは、「各人の個人的な心術および意図の問題」(同四一ページ)となり、この理由の否定的な側面によってソフィストは「詭弁家」とされてしまったのです。
 こういうソフィストたちとの論争をつうじて彼らの「理由づけの立場」を乗り越え、人間がより善く生きるための絶対的に規定された真理を探究しようとしたのがほかならぬソクラテスでした。ソクラテスの議論は「単なる理由というものの無定見を弁証法的に指摘し、それにたいして正義や善、一般に普遍的なものあるいは意志の概念を主張することによって、かれら(ソフィストたち――高村)と論争した」(同四一ページ)のです。
 ヘーゲルのいう「意志の概念」とは「意志の真にあるべき姿」、「いかに生きるべきかの真理」を意味しています。ソクラテスにはじまった、人間としていかに生きるべきかという「当為の真理」は、プラトンの「イデア」論を経て、アリストテレスの「エネルゲイアとしてのイデア」論へと展開し、発展することになります。このイデア論こそ古代哲学の最高の知的遺産ということができます。
 それでは以下に「アテナイ期」の人間哲学を順次みていくことにしましょう。

(一)ソフィストたち

 ソフィストを代表する人物として、プロタゴラスとゴルギアスとを紹介しておきましょう。二人ともソクラテスの論争相手として、『プラトン全集』にその名を標題とする著作が収録されています。
 プロタゴラス(BC四八一~四一一年頃)はソフィストの筆頭格の名士であり、その名声は死後においても少しも消えることがなかったといわれています。彼の命題として最も有名なのは「あらゆるものについて尺度は人間である。存在するものについては、それが存在するということ、存在しないものについては、それが存在しないということ」(『哲学史』中の一、三四ページ)というものです。人間を万物の尺度ととらえることによって、人間を基準として人間と自然、思考と存在との関係にはじめて光をあてることになりました。つまり人間は自然をあますところなく認識し、真理に到達することができるのかという認識論を哲学史上はじめて俎上にのせることになったのです。
 ではプロタゴラス自身は真理の認識についてどう考えていたかというと、彼は「風がふく場合、冷える者もあれば、冷えない者もある。だからわれわれはこの風のことを、それ自体つめたいともつめたくないとも言うことはできない」(同三六~三七ページ)として真理の認識に懐疑的な態度をとりました。
 ゴルギアス(BC四八三~三七五頃)は、弁論術に秀でていたのみならず、奴隷制下の民主主義の擁護者として、貴族政治のイデオローグであったソクラテスに対抗し、世間からも高い尊敬と広い名声を与えられていました。プロタゴラスの懐疑論は「ゴルギアスを通じてずっと深いところに達し」(同四一ページ)ました。
 彼は「何ものも存在しないことを証明し、……たとい存在があると仮定しても、それは認識されえないこと、……たといそれが存在していて認識しうるものであったにしても、認識したものを伝えることは不可能であることを証明」(同四三ページ)しようとしたのです。まだ自然にかんする認識が極めてかぎられたものにすぎなかった古代社会において、認識論がまず懐疑論から始まったことは、ある意味で当然だったのかもしれません。長い哲学の歴史をつうじて、人間は無限に絶対的真理に接近しうるとする唯物論的真理観が確立されていくことになるのです。

(二)ソクラテス(BC四六九~三九九)

 ソクラテスはプラトン、アリストテレスとともに古代哲学を代表する人物です。彼は街頭で誰彼の区別なく問答し、相手の考えを批判します。そのため多くの者ににくまれ、古代の神々を礼拝せずくだらない議論で青年を惑わすとして告訴され、死刑の判決を受けます。友人のクリトンが救出しようとするのに対し、ソクラテスは、「たましいができるだけすぐれたよいものになるよう」(「ソクラテスの弁明」プラトン全集①八四ページ)にしただけであり、「たとえ何度殺されねばならないようなことになっても、これ以外のことはしないだろう」(同八五ページ)として、毒杯を飲んで死ぬのです。
 このようにドラマチックな人生を送ったソクラテスですが、彼の第一の功績は、正面から人間の生き方の真理を探究したところにあります。人間哲学の最大の課題は、人間としてより善く生きるための「徳」とは何かを探究する道徳論、倫理論にありますが、それに最初に立ち向かったのがソクラテスでした。彼は「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、よく生きるということなのだ」(「クリトン」同一三三ページ)として、そのために「たましいのよさ(徳)」(「ソクラテスの弁明」同八五ページ)、つまり道徳を追求したのです。ソクラテスがソフィストのプロタゴラスに論争を挑んだのも、プロタゴラスが「国家社会の一員として持つべき徳性」を一種の技術ととらえ、したがってそれを身につけた知者は徳を教授することができるとしたのに対し、真実の徳はけっしてソフィストのようなやり方では教えられないことを強調したいためでした。
 利潤第一主義の資本主義のもとで利潤を生みだすことにつながる自然科学は尊重されても、人間としていかに生きるべきかという道徳ないし倫理の問題は意図的に排除され、無視されています。それだけにより善く生きるとは何かを終生追求しつづけたソクラテスの功績は現代においてこそ高く評価されなければなりません。
 ソクラテスの第二の功績は、ソクラテス的問答法という弁論術(弁証法)にあります。例えばプロタゴラスが、徳には正義、節制(分別)、敬虔といったものがあると説明したのに対し、ソクラテスは次のように問いつめていくのです。
 「徳は一つなのか、それともそれを構成する正義、節制、敬虔という部分に分かれているのか」「分かれているとしたら、それらは互いに別のものか」「別のものだとしたら、その部分のひとつひとつは、それぞれに固有の部分を持っているのか」「もしそうだとすると正義とは敬虔な性格のものではなく、敬虔とは正しくないような性格のものということになる」(「プロタゴラス」プラトン全集⑧一五三~一五八ページ)。
 こうしてプロタゴラスのいう「徳」とは「敬虔な性格のもの」ではなく、「正しくないような性格のもの」という結論に導き、プロタゴラスを回答不能に追いこむのです。
 「かれはその会話において常に、問題になっている事柄をもっとよく教えてほしいようなふりをし、そしてその事柄について色々な質問をあびせることによって、相手をかれが最初正しいと思っていたものとは反対のものへ導いた」(『小論理学』上二四八ページ)。
 しかしこの問答法は、けっして相手をやっつけるための手段として用いられたのではなくて、問答における弁証法的否定を積み重ねることによって、「徳とは何か」という真理を探究していったのです。そこからこの問答法は、真理を生みだす手助けの方法という意味で、「ソクラテスのアイロニー(産婆術)」とよばれています。彼の母親が助産師だったことに引っかけてそうよんだのです。
 「ソクラテスにおいては弁証法は、かれの哲学的思索の一般的な性格と一致して、なお主として主観的な形態、すなわちエイロネイア(アイロニー――高村)の形態を持っている」(同二四七ページ)。
 三つめの功績は、この「ソクラテスのアイロニー」によって、彼は事物の「概念」、事物の「定義」、事物の「真の姿または真にあるべき姿」、つまりプラトンのいうイデアを探究しようとしたのです。つまり「徳とは何か」の問いを発することは、徳の概念、定義を定めることを意味していますが、それはつまり事物の真の姿、または真にあるべき姿を規定しようとするものにほかならないのであって、それがプラトンのいうイデアなのです。ソクラテスはその意味でイデア論に道をひらいた哲学者ということができるでしょう。
 
(三)小ソクラテス派

 ソクラテスの弟子たちは、ソクラテス哲学を継承しているところから、「小ソクラテス派」とよばれています。彼らのうち、ソクラテスの道徳論を引きつぐものとしてキュニコス派とキュレネ派があり、弁論術を引きつぐものとしてメガラ派があります。

①キュニコス派
 「キュニコス」とは「犬のような」という意味です。彼らは「徳とは無欲である」ととらえ、その立場からあらゆる知識や資産、社会的風習を蔑視して、例えばその代表的人物シノペのディオゲネス(BC四〇〇頃)は樽のなかで無一文の生活をしていました。それを見たアリストテレスが「犬のような生活」とよんだところから、「キュニコス派」(犬儒派)とよばれるようになりました。
 彼らは、徳とは人を幸福にすることであり、そのためには一切の欲望を否定して心の平穏を保ち、心が乱されないようにしなければならないと考えたのです。これは、後に学ぶヘーゲルのいう四段階の自由のうち、もっとも低い段階の自由、「否定的自由」の立場にたつものです。否定的自由とは、「どんな内容もなにか制限であるとする、いっさいの内容からの逃避」(ヘーゲル『法の哲学』世界の名著一九三ページ中央公論社)にこそ自由があるとするものです。いわゆる引きこもりの自由の立場といっていいでしょう。
 確かにすべてのものから逃避すれば、心の平穏を乱されることもないでしょうし、心のなかに矛盾、葛藤を抱えていなければ平穏無事な日々を送ることもできるでしょう。しかし人間は生きている限り、他人や社会との関わりぬきに生活することはできないのであり、それはすなわち不断に矛盾、葛藤をかかえながら生きていかざるをえないことを意味しています。心の平穏は、矛盾、葛藤を解決することによって得られるのであって、そこからの逃避は何ら真の平穏をもたらすものではないのです。

②キュレネ派
 キュレネ派は、アフリカのキュレネ人、アリスティッポス(BC四三五~三五五頃)によって創始されました。キュニコス派と同様に、徳とは人を幸福にするものととらえましたが、キュニコス派とは対照的に幸福とは快楽であると考えました。快楽というと刹那的な肉体的満足と考えがちですが、そうではなく、彼らは人間が人間らしく満足に生きられることが快楽であり、幸福であると考えたのです。
 この考えは、近代的自我の先駆をなすものです。近代的自我とは、個人の尊厳ともいわれていますが、「おのれの満足をおぼえようとする主体の特殊性の権利」(同三二六~三二七ページ)であり、憲法一三条にも、「個人の尊重」として幸福追求権が規定されています。ブータンという国では、国民総生産(GNP)という基準にかえて、国民総幸福(GNH)という基準を使っています。幸福は物質的豊かさとは別のものであるとの考えにたつものであり、消極的な資本主義批判となっています。キュレネ派の幸福論の現代的探究が求められているのではないかと思われます。

③メガラ派 
 メガラ派は、メガラの人、エウクレイデス(BC四五〇~三八〇頃)によって創始されました。彼らは「ソクラテスのアイロニー」を引きつぎ、弁証法を発展させる役割を果たしました。例えば「誰かが自分は嘘をついているのだと告白する場合、彼は嘘をついているのか、それとも本当のことを言っているのか」(『哲学史』中の一、一四三ページ)との問いを発しました。もし彼のいう「自分は嘘をついている」というのが嘘だとすれば、彼は本当は正直者なのに「嘘をついている」ことになりますし、もし「嘘をついている」というのが本当だとすると、彼は嘘つきなのに正直に本当のことを話していることになる。したがってどちらの場合にも答えは矛盾したものにならざるをえないではないかとして、真理の相対性を主張したのです。
 また彼らは「一粒の穀物は穀物の堆積と言えるか」「一本の毛を抜くとはげ頭になるのか」などの問題を提起しました。もちろん一般的にはいずれの場合にも否定されることになりますが、穀物の堆積や毛抜きがつみ重なってある段階に達しますと、一粒の穀物が穀物の堆積を生みだし、一本の毛抜きがはげ頭をつくり出すことになります。量と質とは対立するカテゴリーでありながら、ある段階に達すると量的蓄積は質的変化をもたらす「量から質への移行」という弁証法を原理的に示してみせたのです。

(四)プラトン(BC四二七~三四七)

 しかしソクラテスの真の後継者は何といってもプラトンです。ソクラテスはもっぱら口頭によって問答する哲学者ですから、自らの著作は存在しません。それにもかかわらずソクラテス哲学が今日まで伝えられているのは、すべてプラトンの著作のなかにソクラテスの問答が残されているからです。
 「哲学を学問として仕上げる仕事、さらにくわしくはソクラテス的立場を学問性へ仕上げる仕事はプラトンをもって始まり、アリストテレスによって全うされる。それゆえ、もし誰かがそうよばれるべきであるなら、彼らこそ人類の教師とよばれるべきである」(同一八一ページ)。
 バチカン宮殿に、ラファエロの最大傑作の一つである「アテネの学堂」と題するフレスコ画があります。ここには「アテナイ期の哲学」者たちの群像が画かれていますが、その中央には、プラトンとアリストテレスが描かれ、プラトンは天を指し、アリストテレスは地を指しています。これはこの二人がアテナイ期を代表する哲学者であると同時に、プラトンが観念論者であり、アリストテレスが唯物論者であることを示すものだとされています。
 そのような理解が、ラファエロの生きた一五、一六世紀の常識だったのかもしれませんが、ここで問題にすべきは果たしてプラトンを観念論者、そのなかでも客観的観念論者として理解するのが正しいのか、の点にあります。その点を検討することは本講座の重要な課題の一つであることをまず指摘しておきたいと思います。
 ではプラトンは、いかなる意味で「ソクラテス的立場を学問性へ仕上げる仕事」を始めたのかといえば、それは「イデア論」です。ソクラテスは「徳とは何か」の問いのもとに、事物の概念を規定し、その定義を定めることこそ事物の真の姿、真にあるべき姿をとらえるものと考えましたが、プラトンはそれを哲学的に「イデア論」にまで高め、イデア論をもとにして世界観としての哲学をつくりあげたのです。
 プラトンは、紀元前三八七年アテナイの郊外に「アカデメイア」を設立して、哲学を中心に数学、音楽、天文学などを教えました。アカデメイアは「アカデミー(学園)」の語源となっています。それは紀元後五二五年にローマ皇帝ユスティニアヌスによって異端の教えを説くものとして解教を命じられるまで、約九百年間存続しました。そのためプラトンの著作は『プラトン全集』(岩波書店、全十五巻)として、ほとんど現存しています。ユスティニアヌスが解教を命じたのは、プラトンのイデア論に理想を掲げた変革のにおいを感じたからかもしれません。

イデア論

 プラトンのいうイデアとは何かについて、主著『国家』(プラトン全集⑪四九二ページ以下)で比喩的に論じられた「洞窟の比喩」を紹介しておきましょう。
 人間は子どものときから地下の暗闇の洞窟の中に閉じこめられ、奥壁に向かって縛りつけられています。背後には火が灯っていて、火と囚人の間には衝立があり、囚人は衝立の上を動く人間や動物や器の影が奥壁に映るのを見て、それを真実のものと思っています。囚人の一人が束縛から解放され、入口の方に連れていかれると、今まで真実だと思っていたものが火(イデア)の影にすぎないことにはじめて気がつきます。さらに引っぱり出され洞窟の外にでると、火のさらに向こうに太陽(善のイデア)があり、太陽こそ目にみえる世界の一切を支配していることを知る、というのです。
 つまりイデアとは、感覚的世界を超越した真にあるべき世界であり、感覚世界の個々の事物はその影にすぎないとするのです。すべての事物はそのイデアをもっているのであり、イデアは感覚的存在を超越するものですから、ただ理性によってのみ把握される真実在なのです。個々の事物のイデアのうえに存在するイデア中のイデアが善のイデアとされます。その意味では、プラトンは理性によってのみ真理をとらえうるとする近代哲学の合理論(合理主義)の先駆者ということができます。同時に合理論は、理性が真理とするものは、仮にそれが観念の所産であっても真理にほかならないとする観念論的傾向をもっています。そのためプラトンのイデア論は、観念の所産であるイデアこそ真理だとする客観的観念論を代表する学説だと一般に解されています。これに異論を唱えたのが、他ならぬプラトンと同様の客観的観念論者とされたヘーゲルであり、「プラトン的イデアの誤解」(『哲学史』中の一、二一五ページ)と称して、唯物論的観点から二つの正しい批判を加えています。
 第一の誤解は、プラトンのイデアを「われわれの外に在ってそれ自体において存在するもの」(同二一六ページ)と解し、「これらの超越的存在者は、どこだか知らぬが何かこの世のものならぬ知性のうちに、われわれから遠くはなれたところに存在」(同)していると考えるものです。
 しかしヘーゲルは、レウキッポスの原子が観念の所産ではあっても個々の事物そのもののなかに存在するとされたように、イデアも「絶対的客観的に存在する……唯一の真実在として理解されるような普遍」(同二一四ページ)であって、「現実の彼岸に、天空のうちに、どこか別のところにあるのではなくて、現実的世界そのもの」(同二一五ページ)のうちに存在しているのだ、というのです。この場合のイデアとは現実に存在する個々の事物のなかに存在する事物の真の姿であり、現代の概念でいえば、事物の本質に該当するものということができます。
 第二の誤解は、「イデアがわれわれの意識の外に移されないでわれわれの理性にとってなるほど必然的な理想という意味をもたせられてもこの理性の産物はいま現に実在性を有しもしなければ、またいつか実在性をもつにいたることもありえないと考えられる」(同二一六ページ)とするものです。
 これに対してヘーゲルは、「そのようなイデアは空想の産物」(同二一七ページ)にすぎないのであって、「そんなのはプラトンの真意ではないし、真実の在り方にも反する。イデアは直接に意識のうちに在るのではなくて認識のうちに在るのであり、そしてそれは総括の成果として単一化された認識」(同)だというのです。つまり、プラトンのいうイデアとは「空想の産物」ではなくて、客観的実在を認識することから生まれた理想という「総括の成果」だというのです。したがってイデアは現実のなかに潜在しているものを理性の力によって取り出した事物の真にあるべき姿(ヘーゲルのいう概念)であって、現実の中から取りだした理想だからこそ「必然的な理想」として「いつか実在性をもつにいたる」というものです。
 これこそ空想から区別された唯物論的理想というものでしょう。人間は動物と違って自由な意識をもち、自然や社会をその理想にしたがって変革する存在です。人間は理想をもつことによって人間なのであり、プラトンはその人間の本質をイデア論としてとらえたのです。
 このようにプラトンのいうイデアとは一つには事物の真の姿としての本質であり、二つには事物の真にあるべき姿としての唯物論的理想を意味していると解するべきものなのです。

弁証法

 プラトンは「弁証法の創始者」(『小論理学』上二四七ページ)とよばれています。というのもプラトンにとって弁証法とはイデアを認識するための方法とされたからです。
 彼の弁証法は、ソクラテスの問答法にならって「哲学的問答法(ディアレクティケー)」(『国家』プラトン全集⑪五三七ページ)にはじまります。それは一つには「魂のうちなる最もすぐれた部分を導いて、実在するもののうちなる最もすぐれたものを観ることへと、上昇させて行くはたらきをするもの」(同)、つまり事物の真の姿としての本質を認識する「はたらきをするもの」なのです。
 二つには、事物の本質の認識からさらに進んで、「普遍的なものを内容的に更に規定」(『哲学史』中の一、二四二ページ)することにより、事物の真にあるべき姿をとらえる「一段と高い規定における弁証法が本来のプラトンの弁証法」(同二四三ページ)なのです。それは事物のもつ矛盾を揚棄することによって「規定されたイデア」(同)つまり事物の真にあるべき姿をとらえる弁証法なのです。
 こうして「プラトン弁証法のもっとも有名な傑作」(同二四八ページ)といわれる「パルメニデス」(プラトン全集④)においては、有と非有、一と多、部分と全体、同と異、類似と非類似、運動と静止、連続性と非連続性などのカテゴリーが対立物の統一として論じられています。プラトンが「弁証法の創始者」とよばれているのは、「プラトン哲学においてはじめて弁証法が自由な学問的な形(対立物の統一という形――高村)をとって、したがって客観的な形をとってあらわれている」(『小論理学』上二四七ページ)からにほかなりません。

国家論と哲人政治

 プラトンの「国家論」は、そのイデア論を国家に適用したものであり、真にあるべき国家はイデアを体現した国家とされています。したがってそれは、特殊的な意志をもつ個人のうえに存在する普遍的理念を体現するものであって、そのため個人の私有財産も否定され、結婚も国家によって定められ、子どもも国家の手によって養育されることになります。教育の目的は、国民の特殊的意志を国家の理念(イデア)という普遍的意志に方向転換させることにあるとされます。
 これは後のルソーの真にあるべき国家としての社会契約国家、人民の一般意志(真にあるべき意志)を統治原理とする国家の考えにつながるものです。理想国家のもとにあっては、すべては国家に一任すべきであって、国家を個人のうえにたつ存在だとする考えには一理あり、ある意味で生産手段の社会化を認める社会主義思想の原型を示すものということもできます。しかしいくら理想的国家とはいえ、国家を個人の上におく国家観は一面的なものといわざるをえないでしょう。
 近代哲学の大きな功績の一つは、近代的自我を確立したところにあります。それは個人の尊厳を認め、自由な意志をもつ主体としての自我を尊重すべきとするものです。ヘーゲルは「主体的自由の権利、これが古代と近代との区別における転回点かつ中心点をなす」(『法の哲学』三二七ページ)と言い現わしています。近代的自我の観点からすると、国家を個人のうえにおき、個人の主体的自由の権利を認めない国家観は、治者と被治者の同一性を主張する人民主権国家に道をゆずらざるをえないでしょう。しかしそれにもかかわらず、真にあるべき政治を実現するものとしてのプラトンの国家観の功績もまた否定することはできないのです。
 プラトンの国家論から学ぶべきさらに重要な問題は、いわゆる「哲人政治」の問題です。プラトンは「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」(『国家』プラトン全集⑪三九四ページ)「国々にとって不幸のやむときはない」(同)と考えました。というのも「哲学者とは、つねに恒常不変のあり方を保つものに触れることのできる人々のことであり、他方、そうすることができずに、さまざまに変転する雑多な事物のなかにさまようような人々は哲学者ではない」(同四一八ページ)からです。
 国家というものは、常に真にあるべき政治を追求していくべきものであり、したがって国家を担う人々は、政治の真にあるべき姿(イデア)に触れることのできる哲学者でなければならないというのです。
 科学的社会主義の学説にとって、欠くことのできないカテゴリーとして「プロレタリアート執権」があります。また後に詳しくお話ししますが、一言でいうと、真にあるべき政治を実現するには、人民の導き手としての労働者階級の政党の主導性にもとづく人民の権力が必要だというものです。科学的社会主義の政党が真理認識の武器としての科学的社会主義の哲学を使って、政治の真にあるべき姿を人民の前に提起することによって、世論を動かし「国民が主人公」の政治を実現することができるのです。その意味ではプラトンの「哲人政治」は「プロレタリアート執権」の先駆的役割を果たしているということができるでしょう。

プラトンの評価

 これまで科学的社会主義の陣営では、プラトンはそのイデア論によって客観的観念論の創始者として位置づけられ、そこから学ぶべきものは何もないかのように扱われてきました。
 「客観的観念論」とは「主観としての人間の意識からは別個の、客観的に存在すると考える精神をもとにして、世界の成立を考える観念論」(『社会科学総合辞典』)とされています。プラトンのイデアとは「客観的に存在すると考える精神」の一種だから、プラトンは客観的観念論者だというわけです。観念論とは「イデアリスムス」の訳ですが、イデアリスムスは理想主義と訳すこともできます。
 先にヘーゲルの見解で紹介したように、プラトンのイデア論とは唯物論的な理想を論じたイデアリスムスと解すべきものと思われます。理想というものが観念の所産であり、客観的実在でないことは否定することができません。では理想を掲げることは直ちに観念論かといえばそうではありません。科学的社会主義も理想の一種ですが、それを掲げる科学的社会主義の学説が観念論かといえばそうではありません。
 理想には、現実に立脚し現実の分析から生じる唯物論的な理想と、現実に立脚しない観念論的な空想があります。「空想から科学へ」との標題は観念論としての空想的社会主義から、唯物論的理想としての科学的社会主義への転換を訴えているのです。
 ヘーゲルは、『法の哲学』において「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」(一六九ページ)という有名な命題を展開しています。エンゲルスは『フォイエルバッハ論』の冒頭でこの命題を紹介し、この命題ほど「頭のわるい諸政府の感謝と、同じように頭のわるい自由主義者たちの怒りとをまねいたものはなかった」(全集㉑二六九ページ)としています。どちらもこの命題を現実肯定の命題として理解し、一方は感謝し、他方は怒ったというわけです。
 エンゲルスは、ヘーゲルのいう「現実は、それが自己を展開するとき、必然性としてあらわれる」(『小論理学』下八八ページ)との説明をふまえ、「人間の頭脳のなかで合理的であるものは、どんなに現存する見かけだけの現実性と矛盾していようと、すべて現実的になるようにさだめられているのである」(『フォイエルバッハ論』全集㉑二七一ページ)ととらえます。そのうえにたってヘーゲルのこの命題の真に意味するところは、唯物論的な合理的な理想は必然的に展開して現実性となるとするところにあり、ここにヘーゲル哲学の「真の意義と革命的性格」(同)があるととらえたのです。これに関連してヘーゲルは、プラトンのイデア論的国家論はたんなる空想の産物ではないかとの批判に対し、「或る理想がとにかくそれ自身のうちに概念をつうじて真理性をもつとき、それは本当のものであるからこそ、空想などではない。けだし真理はいかなる空想でもないからである。したがってまたそのような理想は無益で無力なものではなく、むしろ現実的なものである。……真の理想は現実的であるべきなのではなくて、現実的なのであり、そしてそれのみが現実的なものである」(『哲学史』中の一、二九六ページ)と回答しています。私たちとしては、プラトンのイデア論は理想主義としてのイデアリスムスであり、しかもそれは唯物論的な理想を論じたものとして理解すべきではないかと思います。
 いずれにしても、プラトンの哲学が後代に及ぼした影響の大きさからしても「人類が生みだしたすべての価値ある知識」の一つであることは否定できません。私たちがそこから何を学びとるかといえば、唯物論的な理想主義ということになるのだろうと思います。
 科学的社会主義の哲学の最大の特徴は、後にみるように変革の哲学、正確には、革命の哲学であるところにあります。革命の哲学として絶対的に欠くことのできない課題が唯物論的理想です。これなくして革命の哲学ということはできません。プラトンのイデア論を唯物論的な理想主義ととらえ、それを人類の価値ある知的遺産として発展的に継承したのが科学的社会主義の哲学であるとして理解すべきものでしょう。哲学史上の巨人であるプラトンを客観的観念論者として切って捨てることは、科学的社会主義を「人類が生みだしたすべての価値ある知識の発展的な継承者」としてとらえることを、自ら否定するものにほかならないのです。