『科学的社会主義の哲学史』より

 

 

第五講 古代哲学④
    アテナイ期の哲学から
    ヘレニズム・ローマ時代の哲学へ

(五)アリストテレス(つづき)

⑥倫理学

 人間としてより善く生きることの真理を追究する倫理学はソクラテスに始まりましたが、アリストテレスにおいて初めて体系的に論じられることになります。彼は「人間に関わることの哲学」のうち、善い人間となる理論的研究を「ニコマコス倫理学」において、善い人間となる実践的方法を「政治学」で論じ、二冊ワンセットで倫理学を論じました。
 ソクラテスは、徳(道徳)の基礎を人間の自己意識という主観的なものに求めました。この考えは小ソクラテス派(キュニコス派、キュレネ派)に引きつがれています。しかし徳を主観的なものに求めるかぎり、その結論は人さまざまであって、そこに客観的な真理を見いだすことはできません。
 これに対してアリストテレスは、人間の本質という客観的なものに結びつけて徳を考えようとしました。すなわち彼は、人間は本質的に「ポリス的動物(ゾーン・ポリティコン)」(「政治学」アリストテレス全集⑮七ページ)であると考えました。ポリスという共同社会にあってこそ、人間は人間としてより善く生きうるというものであり、この考えはマルクスの人間とは何かという人間の本質論に影響を与えることになりました。
 マルクスは「人間は最も文字どおりの意味でゾーン・ポリティコン(共同体的動物、社会的動物)である」(「経済学批判への序説」全集⑬六一二ページ)ととらえ、『資本論』でも人間に協業のような集団力が生じるのは、「人間は生まれながらにして、アリストテレスが考えるように政治的動物ではないにしても、とにかく社会的動物であるということに由来している」(『資本論』③五六八ページ)とアリストテレスを引用しています。そのうえにたって「人間の本質は、人間が真に共同的な本質であることにある」(「ミル評注」全集㊵三六九ページ)と規定するに至っています。
 しかし問題はその先にあります。アリストテレスは、小ソクラテス派と同様に徳とは幸福であるとの考えにたち、理性をもって生きる「観想的生活」、すなわち哲学者の生活こそ最高善の幸福な生き方であり、これは共同体としてのポリスの生活においてのみ可能であると考えました。人間の本質を「ポリス的動物」ととらえながらも、徳をソクラテスと同様に主観的なものと考え、最良のポリスのもとにおいて個人も最高善を手にすることができるというにとどまりました。
 アリストテレスはせっかく人間の本質をゾーン・ポリティコンとしてとらえたにもかかわらず、それを徳をとらえる客観的基準としてとらえようとしませんでした。本来なら人間の本質をゾーン・ポリティコンとするのであれば、共同社会(ポリス)を維持、発展させる生き方こそ、人間としてより善く生きる徳のある生き方だとすべきだったのです。そのため最良の共同社会は個人の最高善を実現するために必要なたんなる環境にすぎないとして主観的な徳論にとどめてしまいました。このような限界があるとはいえ、アリストテレスがその倫理学において人間の本質の一つを共同社会性に求めた意義は大きく、その考えは科学的社会主義の倫理学に継承されていくことになります。

科学的社会主義の哲学がアリストテレス哲学から学ぶべきもの

 これまで学んできたように、アリストテレスは古代ギリシア哲学の頂点にたつ人物です。その業績はきわめて多岐にわたっていますが、アリストテレスの業績から学ぶべきものとして、イデア論、カテゴリー論を含む形式論理学、弁証法、倫理学を紹介してきました。
 それはいわばアリストテレスの一般的業績とされているものであって、では科学的社会主義の哲学がアリストテレス哲学から発展的に継承したもっとも重要なものとは何かと問われれば、さらなる検討を要することになるでしょう。というのも、アリストテレス哲学の継承・発展といいうるためにはアリストテレスの業績のなかのあれこれを恣意的に取り出すのではなくて、アリストテレスを古代ギリシャ哲学の頂点にたたせることになったその根本思想を発展的に継承するものでなければならないからです。
 第二講で学んだように、エンゲルスは古代ギリシア哲学の最大の遺産は弁証法にあると指摘しています。しかも「アリストテレスは、すでに弁証法的思考の最も根本的な諸形式を研究した」(『反デューリング論』全集⑳一九ページ)と述べていますので、アリストテレスから学ぶべきものが、この弁証法にあることは間違いないところでしょう。また第四講で学んだように、弁証法の公理は対立物の統一にありますので、問題はいかなる対立物の統一をアリストテレスの最大の遺産として学ぶのかにあるといっていいでしょう。
 アテナイ期の哲学は、世界全体を二分するノモスとピュシスのカテゴリーを生みだし、それは近代哲学において精神と自然、思考と存在というカテゴリーに発展していくことになります。精神と自然、思考と存在とは、世界の最も根本的な一対のカテゴリーであり、エンゲルスもいうように「思考と存在とはどういう関係にあるか」(『フォイエルバッハ論』全集㉑二七八ページ)の問題は、「すべての哲学の、とくに近世の哲学の、大きな根本問題」(同)となっています。
 アリストテレスは思考と存在、主観と客観というカテゴリーこそ使用しなかったものの、この近代哲学の根本問題を先取りして、思考と存在との統一、言いかえると理想と現実の統一の弁証法を展開することによって、革命の哲学である科学的社会主義の哲学に道をひらく先駆者となったのです。また理想と現実の統一の弁証法をとりあげ、アリストテレスと科学的社会主義をつなぐ役割を果たしたのがほかならぬヘーゲルでした。
 アリストテレスがこの問題を論じたのが『形而上学』(アリストテレス全集⑫)の第一二巻であり、訳者の出隆氏は「訳者解説」のなかで「簡単にはこの一巻だけでアリストテレスの哲学体系ないしはその世界観の大要がうかがわれる」(同七一一ページ)としています。
 ではそこで何が論じられているのかというと「全体としては、その後半に見える永遠不動の実体(結局は第一の不動の動者、神)の実在性を証明し主張することを主眼とした論文」(同六九三ページ)なのです。この絶対的実体について、アリストテレスは「思惟の思惟」という有名な句を展開しています。絶対的実体(神)が「その思惟対象に接触しこれを思惟しているとき、すでに自らその思惟対象そのものになっているからであり、こうしてそれゆえ、ここでは理性(思惟するもの)とその思惟対象(思惟されるもの)とは同じもの」(同四二〇ページ)であって、「言いかえれば、その思惟は思惟の思惟である」(同四二九ページ)というのです。
 この「神の思惟は思惟の思惟」をどのように解釈すべきかについては、歴史的に論議のあるところです。出氏は、この句について「新プラトン派のプロティノスからヘーゲルにおよぶ客観的観念論哲学の根本命題」(同六三五ページ)ととらえています。確かにこの句を、神の思惟がその対象となるものを思惟しているとき、その思惟は対象そのものとなっていると解すれば、神を万物の創造主としてとらえたものということになり、「客観的観念論哲学の根本命題」と解することもできるでしょう。むしろその方が自然な解釈といえるかもしれません。
 しかしヘーゲルはこの「思惟の思惟」について、出氏とは全く異なる解釈をしています。ヘーゲル哲学の集大成ともいうべき『エンチクロペディー』の末尾に、全く唐突に「思惟の思惟」を引用してここにアリストテレスとヘーゲルを結ぶカギがあるかのような暗示をしながら、そこに「思惟の思惟」を引用した理由については何の説明もしていません。ここにはある意味で古代哲学と近代哲学とを結ぶ大きな謎が隠されているのです。
 まずヘーゲルは『哲学史』において、アリストテレスの「思惟の思惟」を、主観と客観の同一を意味するものととらえ、絶対的実体は、主観と客観の同一性を実現する「実現の力」(『哲学史』中の二、四二ページ)であって、「死んだ同一性」(同)を意味するものではないとしています。
 ここまでは前講で紹介した「エネルゲイアとしてのイデア」のくり返しですが、ヘーゲルはさらに、「思惟の思惟」を「アリストテレスの哲学の主要点」(同四一ページ)であると同時に「このようにしてアリストテレスは最高の立場に立つ。それ以上に深いものを認識したいと望むことはできない」(同四四ページ)とし、『哲学史』の中で何度もそのことをくり返しています(同一一四、一八五、二〇六ページなど)。
 なぜヘーゲルは「思惟の思惟」を「アリストテレスの主要点」であり、それによって「アリストテレスは最高の立場に立つ」と考えたのでしょうか。それはヘーゲルが絶対的実体(神)による主観と客観の統一を意味する「思惟の思惟」を、人間主体による概念(真にあるべき姿)と存在との統一、つまり理想と現実の統一と理解したうえで、これこそ哲学の「最高の窮極目的」(『小論理学』上六九ページ)としての実践的真理であると考えたからにほかなりません。
 ヘーゲルはいいます。「普通われわれは、対象と表象との一致を真理と呼んでいる」(同一二四ページ)。しかしこれは「正しい表象」(同)ということはできても、哲学的な意味の真理ということはできない。例えばわるい国家をわるい国家として認識することは、正しい表象とはいえても真理ということはできない。哲学的真理とは、事物の存在が「事物の本性あるいは概念(真にあるべき姿――高村)」(同)に一致すること、言いかえると実践をつうじて客観的事物を真にあるべき姿に変革し、一致させることを意味する。つまり真理とは理想と現実との一致としての実践的真理である、というのです。
 実践的真理とは、まず思考のうえで「事実の真理」を認識し、ついでその認識をつうじてそれを揚棄する「当為の真理」(真にあるべき姿)を認識し、それを理想として掲げる人間の主体的実践をつうじて客観世界を真にあるべき姿に変革することにより真理を実現するというものです。「真理は必ず勝利する」といわれる場合の真理は、この実践的真理を意味しており、革命の立場にたつ科学的社会主義の哲学にとって、この実践的真理の問題はその中核的役割を担っています。
 一言つけ加えておきますと、唯物論的真理とは存在に一致する認識という「認識」の問題です。そこには存在をそのまま認識のうえに反映した「事実の真理」と、事実の真理をふまえそれを乗り越えて真にあるべき存在を認識する「当為の真理」とがあります。「当為の真理」は直接に存在に一致する認識ではありませんが、存在に一致する認識としての「事実の真理」を媒介し、それを揚棄した認識という意味において、これもまた「存在に一致する認識」ということができます。
 これに対して、ここにいう実践的真理とは、「当為の真理」という認識を目的に掲げた実践により、自然や社会を変革することを意味しています。したがって厳密な意味では「認識」としての唯物論的真理とは、「事実の真理」と「当為の真理」を意味するものであり、実践的真理まで含めることには問題があるといえるでしょう。しかしここでは理想と現実の統一という近代哲学史上の大問題を論じる便宜上、ヘーゲルのいう実践的真理の用語も使用したいと思います。
 ヘーゲルがなぜ「思惟の思惟」をもって「最高の立場」と評価したのかといえば、そこにヘーゲルのいう哲学的な意味の真理、実践的真理を見いだしたからであり、それこそ真理を探究する哲学の究極的課題であると考えたからにほかなりません。
 ヘーゲルは『小論理学』のなかで、「哲学の最高の窮極目的」(同六九ページ)は「自覚的な理性と存在する理性すなわち現実との調和を作り出すこと」(同)にあると述べています。「自覚的な理性」と「存在する理性」との「調和」とは、理想と現実との統一という実践的真理を意味しており、ヘーゲルはこの実践的真理をつくりだすところに「哲学の最高の窮極目的」があるとして革命の哲学をうち立てました。アリストテレスの「思惟の思惟」は、この実践的真理を意味するものだからこそ、ヘーゲルはアリストテレスを「最高の立場に立つ」ととらえ、「思惟の思惟」を自己の哲学大系の末尾に引用したのです。ヘーゲルが「アリストテレスが与えているような理念の形態」(同四九ページ)を取り入れることは「哲学そのものの進歩をも意味する」(同)と述べたのは、このことを指しているということができます。
 後にヘーゲルを学ぶときに詳しくお話ししますが、ヘーゲルは反動期における厳しい言論弾圧のもとで、自己の哲学の真髄が革命の哲学であることを覚られないために、さまざまの偽証工作を施しています。ヘーゲルが『エンチクロペディー』の末尾に「思惟の思惟」を引用しながらその理由の説明を省略したのも、ここに自己の哲学の真髄があることを暗に示すとともに、一種の偽装工作としてその説明を省略したものではないかと考えるものです。
 このヘーゲルの立場を継承しつつ、いかにして概念を認識するのかという、ヘーゲルが深く論じなかった問題にまで深く踏みこんだのが科学的社会主義の哲学ということができるでしょう。いずれにしても理想と現実の統一による実践的真理観は、アリストテレスからヘーゲルを経てマルクス、エンゲルスに継承的に発展させられていくことになるのです。それが先にもみたように「真理は必ず勝利する」との命題となっているのです。

 

四、ヘレニズム・ローマ時代の哲学

ヘレニズム・ローマ時代は帝国主義の時代

 以上でアテナイ期の哲学を終えることにし、続いてヘレニズム・ローマ時代の哲学に入っていきます。時代にして紀元前四世紀から紀元後六世紀までを指しており、それ以後が中世哲学となります。
 ヘレニズム時代とは、一般にアレクサンドロス大王の東征による大帝国の建設と東西文化交流の時代といわれていますが、本質的には帝国主義的支配による民族抑圧の時代の始まりということができるでしょう。アレクサンドロス大帝国に続いて、古代社会最大の帝国を築いたのがローマでした。ローマは紀元前八世紀にイタリアの一都市国家として誕生しましたが、前三世紀初めにはイタリア半島を統一し、前二七年にはエジプトのプトレマイオス王朝(クレオパトラ女王)を併合して地中海を統一し、ローマ帝国を建設します。紀元後二世紀の最盛時にはその領土は東は小アジア、西はポルトガル、南はアフリカの地中海沿岸、北はイギリスにまで及びます。
 しかし「三世紀のはじめに、ローマ人にたいするドイツ人(ゲルマン人――高村)の攻撃戦が開始され、二五〇年ごろには、攻撃の焰はドナウ河口からライン河デルタ地帯にいたる全線にひろがって」(エンゲルス「ドイツ人の古代史によせて」全集⑲四六六ページ)いきました。これがいわゆるゲルマン民族の大移動といわれるものであり、国境を越えて侵入するゲルマン人によって、次第にローマ帝国は衰微し、弱体化して、三九五年には東西に分裂、西ローマ帝国の実権はほとんどゲルマン諸部族の部将に握られ、ついに四七六年ゲルマン傭兵隊長オドアケルによって滅亡に追いやられます(東ローマ帝国は一五世紀半ばまで存続)。
 したがってヘレニズム・ローマ時代とは紀元前四世紀から紀元後六世紀に至る帝国主義的支配の時代ということができるでしょう。

過渡期の哲学

 ローマ帝国の世界支配は、古代ギリシアのポリス、氏族社会、土地共同体、氏族宗教など従来の伝統的組織をすべて解体し、新しい支配と民族抑圧の体制を確立していきます。いわゆる「パックス・ロマーナ(ローマ的平和)」とよばれるものです。こうした情勢のもとで真理の探究を目的としたギリシア哲学はヨーロッパから追放され、中世のスコラ哲学の時代に向けて大きく転換していくことになります。したがって、ヘレニズム・ローマ期の哲学は中世のスコラ哲学を準備する過渡期の哲学として、大きく前期、後期に分けてみることができます。
 前期は、ローマの帝国主義的支配と抑圧の体制のもとで、外面的には人間の自由と民主主義が否定されるところから、現実から逃避し人間の内面に救いを求めようとする「逃避の哲学」の登場となります。ストア派、エピクロス派、スケプシス派がそれであり、いずれも現実から逃避して、内心の平穏をもって生き方の真理とする道徳論を展開するという特徴をもっています。
 後期は、現実からの逃避を更に一歩観念論の方向に押しすすめ、キリスト教の支配が広がるなかで、キリスト教を理論化し、体系化しようとする哲学、宗教哲学が登場してきます。現世に無関心な前期の哲学に対し、後期の過渡期の哲学は、現世の苦しみを来世での救いに求めようとする「慰めの哲学」をその本質とする点において、中世のスコラ哲学につながるものとなっています。
 もっともキリスト教は最初から慰めの哲学だったわけではなく、最初はローマの支配に抵抗する運動として登場しました。エンゲルスは原始キリスト教に関していくつもの論文を書いていますが、「原始キリスト教史によせて」(全集㉒)のなかで、「キリスト教は発生期には被圧迫者の運動であった。それが最初に現われたのは、奴隷および被解放奴隷の、貧者および無権利者の、ローマによって征服または撃破された民族の宗教としてであった」(同四四五ページ)と述べています。彼は、新約聖書のうちで最も古い「ヨハネ福音書」(六八年頃)を分析し、そこにみられるのは「今日のキリスト教徒にはすっかり失われて、現在では社会の他の極、すなわち社会主義者たちのもとにのみ見いだされる闘争欲と必勝感」(同四五六ページ)とであったとして、当時のキリスト教の果たした役割を現代の社会主義運動に匹敵するものとしてとらえています。
 これに対してローマ帝国は激しい弾圧を加えます。皇帝ネロは六四年、自分でローマに大火を発生させながら、それをキリスト教徒の仕業にでっちあげ、大弾圧を加えました。これを皮切りに、ディオクレティアヌス帝に至るまで約二百五十年もの間、キリスト教への迫害が続きます。
 もともとキリスト教はユダヤ教を母体としながら大衆運動として誕生したものですから、統一した教義をもってはいませんでした。運動をつうじて次第に教義がまとまったものになっていきますが、こうしたうち続く弾圧のなかで、キリスト教を「被圧迫者の運動」から帝国主義的支配にとって無害な存在にかえたのが、後にみるアレクサンドリアのピロン(フィロン)とストア派のセネカでした。
 ピロンによって原始キリスト教には存在しなかった人間の原罪性、キリストは神の子であるとする神人説、贖罪による原罪からの救済などの教義が持ちこまれます。この原罪から救済されるには、自己の身を犠牲にしたキリスト教を信仰する以外にはないとして、慰めの宗教が提示されたのです。
 マルクスは「ヘーゲル法哲学批判 序説」のなかで「宗教は、なやめるもののため息であり、……民衆の阿片である」(全集①四一五ページ)という有名な命題を展開していますが、これは「ストア=フィロン学説」(エンゲルス「ブルーノ・バウアーと原始キリスト教」全集⑲二九二ページ)のもとでのキリスト教の本質を指摘したものということができるでしょう。
 こうしてキリスト教を信仰するものは、民族、階級の区別なく平等に救済されるとする教義によって、キリスト教はユダヤ人による一地域の民俗宗教から世界宗教に発展すると同時に、現世に救いを求めていた運動から来世に救いを求める運動に転化し、ローマ帝国にとってもはや無害な存在となっていくのです。
 しかしローマ帝国にとってみると、その帝国主義的侵略によってすべての民俗宗教を破壊したあと、それに取って代わる支配と抑圧のイデオロギーが求められていました。そこでローマ帝国は無害となったキリスト教をもって自らの世界帝国を支える世界宗教として積極的に位置づけることになってくるのであり、そのためにキリスト教哲学を誕生させていくことになるのです。
 まずディオクレティアヌス帝の跡継ぎとなったコンスタンティヌス帝は、三一三年「ミラノ勅令」により、キリスト教の信仰の自由を承認し、つづいて三二五年のニカイア公会議に全世界の教会代表者を集めて、全キリスト者を拘束する信仰箇条を決定します。この決議を承認しない者は、国家犯として処罰されることになり、国家とキリスト教の同盟、キリスト教のローマ帝国国教への転化がおこなわれることになります。これにより、国教としての統一された教義が求められることになり、ここに教父哲学が誕生することになるのです。
 こうしてギリシア哲学の人間哲学、真理探究の哲学は、現実逃避の哲学から慰めの哲学へ、さらには人間支配の哲学に転化することになり、この傾向は中世のスコラ哲学において完成することになります。これまで一般的にはヘレニズム・ローマ時代の哲学は、哲学の低迷期としてとらえられてきましたが、このとらえ方には疑問を感じざるをえません。ヘレニズム・ローマ時代の哲学は、帝国主義的支配の時代の哲学として、たんに低迷しているというにとどまらず、哲学が真理探究の学問から支配階級のイデオロギーに転化する契機となった転換期の哲学であり、スコラ哲学を準備する過渡期の哲学として重要な意義をもつものとして理解すべきだと思われます。以下その詳細をみていくことにしましょう。

(一)過渡期の哲学(前期)

 真理探究の学問としてのギリシア哲学は、自然哲学にはじまり、人間哲学へと転じ、アリストテレスにおいてその頂点に達し、かつ終わることになります。
 『ローマ法大全』の編纂で有名な東ローマ帝国のユスティニアヌス帝は、五二九年真理を探究するギリシア哲学は帝国の支配にとって有害であるとして異端と決めつけ、禁止します。その結果古代ギリシア哲学はヨーロッパでは命運を断たれ、わずかにイスラム諸国に逃れて生きのびることになります。それに代わって、帝国主義的支配に絶望し、人間の内面の世界に閉じこもる逃避の哲学がまず最初の過渡期の哲学として登場することになります。この主観性の哲学は、六世紀から一六世紀の宗教改革まで一千年にわたってヨーロッパの大半を支配するスコラ哲学(神学としての哲学)という観念論哲学へ踏み出す第一歩となる過渡期の哲学(前期)となります。
 この前期の哲学に共通なのは、小ソクラテス派の流れを引きつぎ、人間の生き方の真理を問題にしながらも、結局は現実から逃避し、何ものにも無関心、無感動な「アタラクシア(心の平穏)」をもって最高の生き方とするのです。

①ストア派
 ストア派の創始者はゼノン(BC三三六~二六四)(エレア派のゼノンとは別人)であり、彼は同時代の人々から広く尊敬されていました。彼は「柱廊(ストア・ポイキレー)」とよばれる会堂で講義したところからストア派とよばれるようになりました。
 ストア派の哲学は、小ソクラテス派のキュニコス派の流れを引きつぐものであり、普遍的な理性にしたがって生きることが徳であるという一般的原理をもっていました。
 理性的に生きるとは、自己のうちへ集中し、内面のうちに生きることであり、言いかえると外面的なもろもろの快楽、享楽、身分、地位、財産にこだわらない生き方をもって徳としたのです。これは「ストア的自由」とよばれるものであり、英語の「ストイック(禁欲主義者)」の語源になっています。
 しかし後代になるとストア派の哲学者の主張と実際の生活は矛盾し、セネカ(BC四~AD六五)の場合、一方で「徳行と節制を説教」(全集⑲二九五ページ)しながら、他方で権力者に「こびへつら」(同)い「ネロの宮廷の第一の策謀家であって、ネロから金銭、所領地、庭園、邸宅を贈られ」(同)る支配者として優雅な生活を送っていたのです。
 エンゲルスは「フィロンをキリスト教の教義上の父とよんでもよいとすれば、セネカはその伯父であった。新約聖書中の幾多の章句はほとんど文字どおりに彼の諸著作から写しとられたもの」(エンゲルス「黙示録」全集㉑一一ページ)であると指摘し、キリスト教がその慰めの宗教によって帝国主義的支配のイデオロギーとなっていったことを明らかにしています。
 またマルクス・アウレリウス帝(一二一~一八〇)は、ストア派の哲学者皇帝として、謙虚と禁欲を説きつつ、キリスト教徒を弾圧しました。

②エピクロス派
 エピクロス(BC三四一~二七〇)の哲学は、ローマにあってストア派の哲学と同等か、あるいはそれ以上に普及していました。彼は非常に多くの著作を書いており、自然哲学においてはデモクリトスの原子論を継承・発展させた「無神論的唯物論」(全集⑲二九二ページ)者でした。マルクスの学位論文が「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」であることは第一講でお話ししたところです。
 エピクロス派の道徳論は、キュレネ派の人間らしく満足に生きられることが快楽(ヘドネー)であるという原理を思想にまで高めたものです。ストア派がより善く生きることの真理の基準を理性という「普遍性」に求めたのに対し、エピクロス派は快楽という「個別性」に求めたのです。もっとも快楽といっても肉体的なものではなく、「恐怖や欲望から自由な精神の自分自身との同一的な心の平静の持続」(『哲学史』中の二、二四九~二五〇ページ)を求めたのであり、「隠れて生きよ」をそのスローガンとしていました。本質的には現実から逃避し、自己の内面に閉じこもる哲学にとどまったのです。

③スケプシス派
 スケプシス派は、一般に「懐疑派」と訳されていますが、ヘーゲルは彼らは「疑い深かったのではなく、非真理を確信していた」(同二九八ページ)として、この訳を使用すべきではないとしています。スケプシス派は、始祖となったピュロン(BC三六五~二七五)の名をとってピュロン主義ともよばれています。
 彼らは、道徳の真理の基準を普遍的な理性にもとめるストア派も、個別的な快楽に求めるエピクロス派も、いずれも一面的な独断論にすぎないとしてこれを批判し、独断論の批判のうえに真理を否定する態度を貫きました。すなわち、どちらの判断も真ともいえず、偽ともいえない、したがってすべての判断をさしひかえ(エポケー、判断停止)、いっさいの意見から等距離を保つことによって、「アタラクシア」を保つことが最高の道徳だというのです。その意味でスケプシス主義は「悟性が確実だとする一切のものにたいする完全な絶望であり、そこから生じる境地は、何事にも心を動かされぬ自己安住」(『小論理学』上二五〇ページ)というニヒリズムの立場ということができます。
しかしスケプシス派は、弁証法への接近を示すものとして重要な意義をもっていました。彼らはすべてのものは対立・矛盾を含んでいることを認めながらも、いかなる肯定も、いかなる否定もともに一面的であり、したがって真理は存在しないと考えました。この考えは「すべてのものは対立・矛盾を含んでいる」という点においては弁証法的といえますが、「したがって真理は存在しない」という点においては形式論理学の枠内にとどまったのです。
 「哲学は、懐疑的なものを一つのモメントとして、すなわち弁証法的なものとして、そのうちに含んでいるのである。しかし哲学は、懐疑論とはちがって、弁証法の単に消極的な成果に立ちどまってはいない。懐疑論はあくまでこの成果を単なる否定、すなわち抽象的な否定と考えるものであって、それはこのことによってこの成果を誤解している」(同二五一ページ)。
 すべてのものは、自己のうちに対立・矛盾を含んでいることを承認すると同時に、真理は対立・矛盾を揚棄する対立物の統一のうちにあることまで認めることによって弁証法の立場にたちきることになります。詳しくは後に学ぶことにしましょう。

まとめ

 哲学は真理探究の学問として出発しました。しかし過渡期の哲学に至って、哲学もイデオロギーの一種として階級性・党派性をもつことをはじめて明らかにしたのです。すなわち過渡期の哲学は、現実から逃避して内面的な「アタラクシア(心の平穏)」に逃げ込むことによって結局はローマの帝国主義的支配に貢献することになったのです。
 ヘーゲルは、この過渡期の哲学を次のように総括しています。
 「この哲学の盛期はローマ世界に属するが、精神はそこではこの外的な死んだ世界から、抽象的なローマ的原理(共和制と皇帝の専制)から自己のなかに逃げ返り、精神に何の満足も与えてくれない現実世界から知性のうちに逃走する。これは完全な不幸であり、世界の自己分裂である。……幸福は内的にのみ求められ、……おのれのなかで満足を求める。そのことに世の中のすべての目的が向けられ、……外的な現実のなかでは理性的世界は見いだされることがない」(『哲学史』中の二、三四七~三四八ページ)。
 哲学が「現実世界」から逃走することは、結局のところ真理探究の学問から転落することを意味するものです。それは哲学にとって「完全な不幸」であり、哲学の堕落でしかありません。ヘーゲルは革命の哲学の立場から逃避の哲学に対して的確なきびしい批判を加えたのであり、ここはヘーゲルの面目躍如というところです。

(二)過渡期の哲学(後期)

 現実からの逃避という共通点をもつストア派、エピクロス派、スケプシス派がスコラ哲学に至る過渡期の哲学の前期であるとすれば、過渡期の哲学の後期は、現世からの逃避を更に一歩押しすすめ、現世の苦しみからの救済を来世に求めようとする慰めの哲学、キリスト教哲学として登場することになります。
 それは大衆運動としてのキリスト教を理論化、体系化しようとする動きのなかで登場してきたものです。キリスト教は民俗宗教であるユダヤ教を母胎として誕生した世界宗教です。キリスト教は、ユダヤ教の教典である紀元前の旧約聖書のメシア(救世主)思想と、神から遣わされたメシアであるキリストへの信仰により原罪を悔い改めた者は階級、身分の差別なく天上において神に救済されるという紀元後の新約聖書を教義の基本としています。この二つの教典を中心とした教義により、キリスト教の哲学・スコラ哲学が確立していきますが、そこに至る過程が、過渡期の哲学の後期となるのです。

①ピロン(BC二五~AD四〇)
 アレクサンドリアのピロン(フィロン)は旧約聖書に示されたユダヤ人の民俗宗教をギリシア哲学と結合して、キリスト教を慰めの宗教にかえた人物です。彼は新約聖書中のヨハネ福音書の冒頭にある「はじめにロゴス(言葉)があり、ロゴスは神のところにあり、ロゴスは神であった」という箇所を利用して、絶対者としての神から出発し、キリストを神と人間のなかだちとしてのロゴスとして位置づけました。そしてキリストは原罪を負う人々のために自らは死んで罪をあがなったのであり、人々はロゴスであるキリストを信仰し、キリストと一体となることで贖罪され、救済されると説いたのです。
 原始キリスト教に欠けていたのは「人間になったロゴスの特定の人格への化現、罪ある人類を救済するためのこの人格の十字架上の贖罪」(全集⑲二九二ページ)であり、この原始キリスト教に欠けていた「かなめ石」(同)をつくり出したのがピロンでした。原罪と贖罪による救済説は、いわば現代における自己責任論ともいうべきものであり、ローマによる帝国主義的支配と抑圧から生じる現世的苦しみを免罪する役割を果たすものでした。
 「時世の困難と全般的な物質的、精神的困窮とについての嘆きにたいして、キリスト教の罪の意識が次のように答えた。そのとおりだ、そうしかなりえないのだ。世界の堕落にたいして罪のあるのはお前だ、お前たちみなだ、お前自身の、お前たち自身の内なる堕落だ!」(同二九七ページ)。
 こうしてピロンは慰めの宗教としての「キリスト教の真の父」(同二九一ページ)となり、ここにスコラ哲学に至る後期過渡期としてのキリスト教哲学の基礎が築かれることになるのです。

②プロティノス(AD二〇四~二六九)
 プロティノスは、プラトンのイデア論を神秘化することで階層的世界観をつくりだしたところから、「新プラトン派」の創始者といわれ、この後に紹介するアウグスティヌスにも影響を与えました。プラトンはイデア界と感覚界を一と多の関係としてとらえましたが、プロティノスはこの考えを利用し、一と多の相互媒介による世界観をうちたてました。
 すなわち、世界のすべての事物は、聖なる一者である神の無限の力が泉の水のように溢れでることによって生まれ(流出説)、まずロゴス(理性)が、次いで魂(人間)が、最後に自然が生まれると考えました。
 この「世界像の頂点に神が立ち、その底部に質料とそれにかかずらう人間が沈み、両者のあいだに仲介者としてのロゴスが介在するシェーマ」(岩崎・鰺坂『西洋哲学史概説』九六ページ)は、プロティノスがアレクサンドリアの人であったところから「アレクサンドレイアの世界図式」(同九七ページ)とよばれ、神に始まり、人間界、自然界という三段階の階層的世界観は中世の封建的位階制社会を合理化する論理の出発点となりました。

③アウグスティヌス(三五四~四三〇)
 ローマ帝国は、ニカイア公会議でキリスト教を国教と定め、公認の教義としてのカトリックを教えるためにローマ・カトリック教会を設立します。これにより、公認の教義に反すると認められたものは、「異端」として社会的に排除されることになったのです。こうしてローマ・カトリック教会の教皇(法皇)は、全世界のカトリック教会の頂点にたち、西ヨーロッパの国王、皇帝と肩を並べ、あるいはそれ以上の権力者として中世の封建社会に君臨することになるのです。
 もともと大衆運動から出発したキリスト教に統一的教義は存在しなかったのですから、聖書を基本にしながらもそのなかの思想を発展させ、カトリック教会の公認の教義を確立し、基礎づけるためのものとして、教父たちによる諸著作が生まれます。これらの諸著作の代表的なものが教父哲学とよばれたのです。
 その代表的人物がアウグスティヌスであり、彼はゲルマン民族の大移動と東西ローマの分裂の時代にキリスト教の教義を確立し、スコラ哲学にも大きな影響を与えました。彼は「教会のほかに救いはなし」との言葉で知られているように、世界は神の意志によって創造されたものであり、原罪を負って生きる人間の救済は神の恩寵を媒介する教会をつうじてのみなされると主張しました。アウグスティヌスは、アダムは神から意志の自由を与えられていたが、この自由を悪用して神に背いた原罪によって、その後継者のとしての人間は意志の自由を失い、罪を犯さざるをえなくなったとして、意志決定論の立場にたちました。
 またローマ帝国の支配する現実世界である「地の国」に対し、「神の国」を主張し、「神の国」は「地の国」との闘争をつうじて勝利するとして、「地の国」におけるたたかいをあきらめさせることによって、現世における慰めの宗教を基本的に完成させたのです。すなわち、彼は世界史を神による人間救済の歴史ととらえ、まず世界の創造と堕罪の「前歴史」、ついで「地の国」での人類の歴史、最後に、最後の審判による「神の国」の歴史という歴史観を唱えました。

まとめ

 以上で古代哲学を終わります。古代哲学は、哲学本来の課題である真理探究の学問として出発し、ギリシア哲学、とりわけアリストテレスによって頂点に達します。
 その後ヘレニズム・ローマ時代という帝国主義的支配の時代に突入するなかで、哲学は逃避の哲学から慰めの哲学を経て、帝国主義的な支配と抑圧を肯定する支配階級のイデオロギーにまで転落するという、堕落の道に踏み込みます。
 こうして過渡期の哲学は、封建制社会の精神的支柱となったスコラ哲学に道をひらくものであり、スコラ哲学において哲学の堕落は完成し、哲学は暗黒の時代を迎えることになるのです。