『科学的社会主義の哲学史』より

 

 

第六講 中世哲学スコラ哲学
    (人間と自然の哲学から神の哲学へ)

一、中世・封建制社会のスコラ哲学

封建制社会の構造

 前講で古代哲学を終わり、今回は中世哲学、すなわちスコラ哲学を学びます。時代としては、おおむね六世紀から一五世紀までとなります。
 地域的にみると古代社会は地中海沿岸社会であるのに対し、中世社会はヨーロッパ社会です。古代社会ではヨーロッパは蛮族の住む遅れた社会とみなされていたのに対し、中世になるとヨーロッパは世界の中心を占めるに至ります。社会構成体としてみると、古代社会は奴隷制社会であったのに対し、中世社会は封建的土地所有を基礎とし、封建領主と農奴を基本的階級関係とする封建制社会ということができます。
 ゲルマン民族の大移動により、西ヨーロッパにはゲルマン諸民族の諸国家(フランク王国、ブルグント王国、ロンバルド王国、東ゴート王国、西ゴート王国、アングロ・サクソン王国など)が誕生しますが、やがていずれもこれまでの民俗宗教からキリスト教に改宗し、キリスト教国家となります。
 なかでもフランク王国はいち早く改宗してローマ・カトリック教会の教皇の支持を得たにとどまらず、カール大帝は、ローマ教皇によって西ローマ帝国の帝冠を与えられます。彼はキリスト教を国家組織に取り入れて、ゲルマン・キリスト教国家を誕生させ、西ヨーロッパ全体をその支配下におさめて封建制社会の基礎が築かれることになります。「キリスト教的=ゲルマン的国家では、宗教の支配は、支配の宗教」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」全集①三九七ページ)であり、国家とキリスト教の一体支配が確立されていたのです。
 古代のギリシア、ローマ社会がポリスから出発したのに対し、中世のヨーロッパ社会は、農村から出発します。中世において西ヨーロッパ全体を支配していた農村の土地制度は「マルク共同体」とよばれるものでした。それは中世末期まで農村の全生活の基礎になったものであり、自由民による土地共同使用を特徴とするものでした。マルク共同体では農民による土地の共同使用と共同作業を前提として「三圃農法が支配的」(エンゲルス「マルク」全集⑲三一六ページ)でした。
 「村の畑地の全体が三つの同じ大きさの畑に分けられ、そのおのおのが交替に、一年目は冬穀作付に、第二年目は夏穀作付に、第三年目には休閑地にあてられた。……土地の分配にあたっては、各共同体員の持分が三つの畑のそれぞれに均等に配分されるように配慮がはらわれ、こうして、だれも不利をこうむらずに共同体の耕作強制に従うことができるようにされた」(同)。
 フランク王国により次々とヨーロッパ各地への侵略がくり返され、「国の内外でのたえまない戦争は、きまって土地の没収に終わり、膨大な数の農民を零落」(同三一九ページ)させることになり、マルク共同体は崩壊していきます。
 いわばマルク共同体は、共同体としての外形と三圃農法は残しながらも、共同体の土地は丸ごと支配者である封建領主のものとされます。これまでのマルク共同体では何者にも支配されることのなかった自由民としての農民は、領主の支配下の農奴に化してしまい、マルク共同体はその内実を失っていくことになるのです。
 「フランク王たちは、全人民に属する広大な土地、とくに森林を自分のものとし、それを彼らの廷臣や部将、司教や大修道院長に贈与してばらまいてしまった。彼らはこうして貴族や教会の将来の大領地の基礎をつくったのである。教会は、すでにカール大帝よりはるか以前から、フランク王国の全土地のたっぷり三分の一を保有していた。……農民は、自由な土地保有者から、賃祖を払い賦役に服する隷農に、それどころか農奴にさえ、変えられてしまった。西フランク王国、一般にライン河の西側の地域では、これが通則であった」(同三一九~三二〇ページ)。
 こうして、国王と教会は二大土地所有者としてその間の一定の緊張関係のもとに封建制社会の二大権力となり、土地の配分をつうじてピラミッド型の構造をもつ封建的身分制度が確立していくことになります。国王は確かに自国内では最大の土地所有者ではありましたが、カトリック教会は西ヨーロッパの諸国のそれぞれで三分の一の土地所有者だったのですから、どの国王とも比較にならない大土地所有者であり、最高の権力者でした。
 カトリック教会の全盛期である一三世紀には、教皇イノケンティウス三世は「教皇は太陽であり、皇帝は月である」と公言し、教皇のいいなりにならないフランス王フィリップ二世、イギリス王ジョンを見せしめのため破門するほどの権勢をふるったのです。
 「中世においてはキリスト教は、封建制が発達するのとちょうど同じ歩調で封建制に照応した宗教となり、この制度に照応した封建的位階制度をもっていた」(『フォイエルバッハ論』全集㉑三〇九ページ)。こうしてカトリック教会は、国王をしのぐ封建制社会における最大、最強の権力者であると同時に、キリスト教という封建的イデオロギー(カトリシズム)における支配者となったのです。

カトリシズムの哲学としてのスコラ哲学

 民族大移動も終わり、一一世紀ごろから西ヨーロッパ社会は安定期を迎えます。しかし生まれて間もない西ヨーロッパは、ゲルマンの民族諸国家として民族ごとに自立した存在であって、全体を統一する絆は存在しませんでした。それをもたらしたのが、ローマ教皇の指示で始まった十字軍だったのであり、それを組織するイデオロギーとなったのが、イスラム勢力(サラセン)からキリスト教を守れというカトリシズムだったのです。
 「ヨーロッパ的世界の統一は、内部的には事実上存在していなかったのだが、そとにたいしては、つまりサラセンという共通の敵にたいしては、キリスト教によってつくりだされていた。たえず相互関係をとりむすびながら発展する一群の諸民族からなっていた西ヨーロッパ世界の統一は、カトリシズムのなかでとりまとめられていた」(エンゲルス「法曹社会主義」同四九四~四九五ページ)。いわばカトリック教会は、十字軍をつうじて西ヨーロッパの世界をカトリシズムのイデオロギーをもって統一したのです。
 「十字軍に当っては法王が世俗的権力を掌握した。皇帝には他の諸侯と同様に従属的な地位しか認められず、遠征軍の目に見える現世の首領であるところの法王に皇帝は一切の言動を委ねなければならなかった」(『歴史哲学』下、二四三ページ)。こうしてカトリック教会の西ヨーロッパ全体におけるイデオロギー的支配のもとで、中世の世界観は実質上神学的なものとなっていったのです。すべての学問、すなわち「法学も、自然科学も、哲学も、およそすべての内容が教会の教えと一致しているかどうかを基準にしてかたづけられた」(全集㉑四九五ページ)のです。
 このカトリシズムの哲学がスコラ哲学でした。それは、人間や自然という「現実をば取るに足らぬものとして全く等閑に付し、之に対して何の興味も持たなかった」(『哲学史』下の一、一四四ページ)のであり、ここに哲学は、人間哲学、自然哲学から、「神学の侍女」としてのスコラ哲学に移行することになるのです。
 「スコラ」とは「学校(スクール)」の意味であり、カトリック教会付属の学校で教える公認の教義哲学がスコラ哲学とよばれたのです。それは前講で紹介したキリスト教哲学の萌芽としての教父哲学から出発してきたものであり、真理は公認の教義のうちにのみ存在し、この公認の教義を理論的に基礎づけるところにスコラ哲学の役割があるとされました。したがってスコラ哲学とは、「第八世紀、否第六世紀から始まって殆ど第一六世紀」(同一三九ページ)にまで至る「一千年間に渉るキリスト教のなした哲学的努力を概念的に包括する極めて漠然たる名前」(同)にすぎません。しかしそのなかにあっても、世界のすべての事物は神によって創造され、神の意志によって秩序づけられているという目的論的自然観をもつ観念論哲学という本質は貫かれているのです。

信と知

 前講で哲学の根本問題は思考と存在とはどういう関係にあるかの問題であることをお話ししましたが、世界における根源的なものは思考にあると考える立場は観念論とよばれ、存在にあると考える立場は唯物論とよばれます。唯物論では、人間の認識が世界の根源性である存在と一致することをもって真理としますが、これに対し観念論では世界の根源性とされる思考の産物に一致する認識が真理とされます。いわゆる唯物論的真理と観念論的真理の対立です。近代における自然科学の発展は、実験により検証しうる唯物論と唯物論的真理のみが真理の名に値することを証明していき、唯物論の勝利をもたらします。
 スコラ哲学では、世界の根源は神にあるとする観念論の立場から、神の言葉としての聖書に一致する認識、つまり聖書への盲目的信仰こそ真理であるとするのです。もともと哲学は真理探究の学問としてはじまったにもかかわらず、真理の探究に背を向けるスコラ哲学は、生まれながらに自身の内部に「信仰かそれとも科学的知見か」という信と知の解決しがたい矛盾をはらんでいたのです。
 すなわち、スコラ哲学は神と聖書を信じることが真理を知ることであるとして、「信と知の統一」を主張し、真理探究の学は神学と哲学の統一にあると考えました。しかし聖書のなかには、唯一神による天地創造の話をはじめとし、処女懐胎、キリストの奇跡、死後の復活、三位一体論の問題など、真理とすることには誰がみても無理のある多数の出来事が存在します。したがって「信と知の統一」の問題もまた大きな矛盾を含んでいました。
 こうしてスコラ哲学は、それ自身のもつ矛盾により、その内部において観念論と唯物論、神学と哲学、信と知の対立を激化させ、ついにルネッサンスと宗教改革の近代へと突入していくことになるのです。
 本講座ではスコラ哲学を、大きく六世紀から一三世紀までの生成期、一三世紀の最盛期、一四世紀から一五世紀前半までの衰退期に分けて論じることにします。以下にその詳細をみていくことにしましょう。

(一)生成期のスコラ哲学

①アンセルムス(一〇三三~一一〇九)
 生成期のスコラ哲学を代表するのは、「スコラ哲学の父」と称されたアンセルムスです。彼は聖書にもとづく教会の教義は絶対的な真理であることを前提として、それを知識、理論によって根拠づけることは可能であると考えました。彼は「われわれが信仰を得た後、もう一歩進んで思惟によってこの信仰の内容を確証しようとしないのは怠慢である」(ヘーゲル『歴史哲学』下二四七ページ)として信仰のための知識を強調しました。
 ここにスコラ哲学における信と知、神学と哲学との統一という基本的立場が確立されるのであり、それ以後この問題をめぐっての論争がおこなわれることになります。また彼はこの立場から信仰内容はすべて理性的に証明しうると考え、神の存在を理性的に証明しようとしました。これがいわゆるアンセルムスの「神の存在論的証明」とよばれるものです。それは神の概念から神の存在を証明しようとするものであり、ヘーゲルの実践的真理観に影響を与えました。
 「もっとも偉大なものは、知力のうちにのみ存在することはできない。何故なら知力のうちにのみならず、事物のうちにも存在することの方が偉大だからである。よって最も偉大なものとしての神は存在する」(『小論理学』下一八〇~一八一ページ参照)。
 一見詭弁のようにみえるこの「神の存在論的証明」のなかに、ヘーゲルは、絶対的な概念は、完全なものであるがゆえに概念と存在の統一であるという思想を見いだし、「神のみが概念と実在との真の一致」(同上一二四ページ)であるとして、実践的真理観を導き出したのです。
 ヘーゲルは、まず「有限な事物とは、その客観性がその思想、すなわちその普遍的規定、その類、およびその目的に一致していないもの」(同下一八一ページ)であるとします。言いかえると、有限なものはその概念(真にあるべき姿)に一致しないがゆえに有限なのであり、逆に完全な事物とは概念と一致する存在であって、アンセルムスの証明はそれを意味しているととらえたのです。つまりアンセルムスは一般的には「思想それ自身と存在との対立」(『哲学史』下の一、一六六ページ)をとらえたうえで、最も普遍的にして完全なるものは、「思考と存在との同一性」(全集㉑二八〇ページ)という最高の立場にたつと考えたのです。
 ここにはアリストテレスの「思惟の思惟」を一歩おしすすめた考えがみられます。アリストテレスが主観と客観との統一を最高の立場と考えたのに対し、アンセルムスではたんなる主観にとどまらず、最高の主観としての概念と客観との統一が問題にされているからです。「だからこそアンセルムスは正当にも、有限な事物にみられるような結合を無視して、単に主観的にだけでなく同時に客観的にも存在するものをのみ完全なものと言ったのである。いわゆる本体論的証明や完全なものについてのこうしたアンセルムス的規定をどんなに軽蔑しても、それは無益である」(『小論理学』下一八二ページ)。
 こうしてアンセルムスは、最高の普遍である神は概念であるがゆえに存在するという「神の存在論的証明」をつうじて、後のいわゆる「普遍論争」の契機をつくり出しました。スコラ哲学において最大の論争点となった普遍論争とは、普遍は存在するのか、それとも普遍とは個物に対する一般的な名称にすぎないのかをめぐる論争です。普遍は実在するという立場が「実在論」または「実念論」とよばれ、名前のみにすぎないとする立場が「唯名論」とよばれています。実質的には普遍の名で神の存在そのものを論じたものですから、普遍論争は観念論と唯物論との間の論争ということができるでしょう。
 アンセルムスの立場が「実在論」であることはいうまでもありません。こうした論争の本質に着目して、マルクスは「唯名論はイギリスの唯物論者のあいだでは一つの主要な要素となっており、また一般に唯物論の最初の表現である」(マルクス「聖家族」全集②一三三ページ)と述べています。

②ロスケリヌス(一〇五〇~一一二〇頃)
 アンセルムスの実在論に対し、唯名論を代表したのがロスケリヌスでした。彼は実在するのは個物のみであって、普遍は音声にすぎないと主張し、その立場から普遍は個物から離れそれに先だって存在するとしたアンセルムスの実在論を批判しました。
 また彼は、唯名論の立場から父(普遍)と子(個別)と聖霊(普遍)の一体を主張する三位一体説をも批判するに至ったところから、教会の権威や教義を否定するものとして異端を宣告されました。

③アベラルドゥス(一〇七九~一一四二)
 アンセルムスとロスケリヌスの普遍論争に対し、調停的立場をとったのが、アベラルドゥスでした。彼は普遍を個物に先立つ実在とする実在論にも、また普遍を単なる抽象物であるとする唯名論にも反対し、普遍は個物のうちに存在すると考えたのです。
 また彼は、信仰と知とは対立することがあるとして、「多くのものが哲学では真であっても、神学では偽であり得る」(『哲学史』下の一、一七二ページ)と主張しました。そのため信と知の統一を教義とするカトリック教会から異端とされる結果となりました。アベラルドゥスの問題提起は、スコラ哲学の崩壊につながる第一歩となりました。

④アヴェロエス(一一二六~一一九八)
 最盛期のスコラ哲学は、トマスの『神学大全』にみられるようにアリストテレス哲学を基調としていますが、その基礎を築いたのがアラビア人のアヴェロエスでした。
 ヨーロッパにおいては、五二九年東ローマ帝国のユスティニアヌス帝によって、ギリシア哲学はキリスト教の教義に反する異端として禁止されてしまいました。そのためギリシア哲学は、ヨーロッパを逃れてイスラム世界に流れこみ、アリストテレス哲学はイスラム教の教義を基礎づけるものとして利用されることになります。
 ところが一一世紀から一三世紀にわたる計九回の、十字軍の名によるイスラム諸国への侵略をつうじてアラビア人の哲学がヨーロッパに輸入され、それとともにアリストテレス哲学もイスラム的解釈をともなって逆輸入され、ヨーロッパで広く知られることになりました。
 そのなかにあってアラビア人であったアヴェロエスのアリストテレス註釈は最も権威あるものとして高い評価を受け、アリストテレス哲学をヨーロッパに普及させると同時に、トマス・アクィナスによるスコラ哲学を完成させるうえで大きな力を発揮しました。その結果一三世紀のヨーロッパでは、「哲学者」といえばアリストテレスを、「註釈家」といえばアヴェロエスを指すほどになったのです。彼のアリストテレス解釈をめぐって、一三世紀の最盛期のスコラ哲学における最大の論争が生じます。一方は正当スコラ哲学のトマス・アクィナス派であり、他方はアヴェロエスの考えを受けついだ「ラテン・アヴェロエス派」でした。
 それは信と知、神学と哲学との間に矛盾が生じることを認めたうえで、どちらを優先させるかをめぐる論争でした。アヴェロエスは、哲学と神学の関係について両者に矛盾が生じる場合、哲学を優先させるという立場をとることによって、正統スコラ哲学に異を唱えたのです。彼の考えがヨーロッパに持ち込まれることでラテン・アヴェロエス派の「二重真理説」――神学の真理と哲学の真理は異なるとする――は、スコラ哲学を崩壊に導く契機となるのです。

(二)最盛期のスコラ哲学

①トマス・アクィナス(一二二五~一二七四)
 このヨーロッパに再輸入されたアリストテレス哲学を神学に取り入れ、『神学大全』という大著によってスコラ哲学を体系化し、完成させたのがパリ大学神学部のトマス・アクィナスでした。この『神学大全』はこれまでの神学=哲学的諸問題に回答を与え、集大成したものです。 
 彼は、実体とは質料と形相の統一であり、また実体には質料と形相の比率の違いによって、低次のものから高次のものまで存在するというアリストテレスの考えを取り入れて、神を頂点とするキリスト教的ヒエラルヒーの世界像を展開し、封建制の位階制社会を合理化することで、スコラ哲学を封建制社会を支える中心的イデオロギーに育て上げました。すなわち、世界は形相のみから成る絶対的実体としての神を頂点とし、神による世界創造を形相と質料の比率の違いという目的の違いとしてとらえ、天使、人間、動物、植物、無機物とするヒエラルヒー的自然観を樹立したのです。同時にこの自然観は、自然を神の目的をもつ意志のあらわれとして必然的に決定されたものとしてとらえ、自然はそのうちに目的をもつとする決定論、目的論的自然観となったのです。
 彼の神学がスコラ哲学の支配的教義になりえた最大の理由は、信と知、神学と哲学との統一を主張しながらも、その間に対立・矛盾の生じることを肯定したうえで、信仰の優位性を主張するという折衷説にありました。すなわち彼は、神が創造した世界は最も良い理性的な世界であり、したがって理性をとおして諸事物を考察する哲学と、諸事物を神の理性的創造物とする神学とは基本的に一致する。しかし神の存在は理性的に証明しうるが、三位一体とか最後の審判などの神学上の問題は理性を超えているから、哲学によって理性的に証明することはできないのであって、ただ信仰によってのみその真理は把握されると考え、信仰の優位性を主張しました。
 こうして基本的には信と知との統一を主張しながらも、部分的には対立・矛盾の生じることもあり、その場合は信仰が優先するという調停的見解によってスコラ哲学の完成者となったのです。例えば、アリストテレスの自然学の基本原理は「無からは何も生じない」というものであるのに対し、キリスト教では神による天地創造、すなわち「無からの創造」を主張しています。トマスは「無からの創造」の問題は、哲学的に証明できるものではないが信仰によってとらえられるとして、「無からの創造」を肯定したのです。
 しかし信と知、神学と哲学の矛盾の調停的解決は、スコラ哲学自身のもつ内部矛盾の真の解決ではなく、たんに矛盾を表面的に覆いかくすものにすぎなかったところから、信と知との統一をめぐる論争はトマス以降に引きつがれ、やがてはスコラ哲学の崩壊につながっていくことになります。

②シゲルス・デ・ブラバンティア(一二三五~一二八二)
 同じパリ大学に所属しながら、人文科学のシゲルス・デ・ブラバンティアは、トマスの正統的スコラ哲学に反対し、アリストテレス哲学に依拠しながら、自然学にかんして哲学の神学に対する優位性を主張しました。
 シゲルスを中心とする学派は、アヴェロエスの哲学の優位性にしたがったところから、ラテン・アヴェロエス派とよばれました。正統スコラ学とラテン・アヴェロエス派との論争は、信と知、神学と哲学の矛盾をめぐるスコラ哲学の根本問題にかかわる論争として、一三世紀における最大の論争となりました。
 ラテン・アヴェロエス派は、無からは何も生じない、世界は永遠であって神によって創造されたのではない、魂は不滅ではない、世界はそれ自身のうちに法則性、必然性をもつのであって、神の摂理は認められない、などの唯物論的自然観を示しました。
 エンゲルスが『フォイエルバッハ論』で指摘した思考と存在とのいずれが根源的なものかの「問題は、尖鋭化して、教会にたいしては、神が世界を創造したのか、それとも世界は永遠の昔から存在しているのか、というところまでいきついた」(全集㉑二七九ページ)と指摘しているのは、トマス派とラテン・アヴェロエス派との対立を念頭においたものでしょう。
 このためカトリック教会は、彼らを異端とみなし、破門を宣告しましたが、彼らはその節を曲げようとしませんでした。彼らは聖書の真理性や教会の権威は認めながらも、自然を対象とするかぎり自己の主張を貫いて、神学と哲学の二つの真理の併存を主張する二重真理説の立場にたったのです。
 イタリア・フィレンツェの詩人ダンテ(一二六五~一三二一)は、その代表作『神曲』によって、ルネッサンスの先駆者となった人物です。そのなかでローマ・カトリック教会の腐敗堕落を厳しく批判し、「ローマ教会は〔世俗と宗教の〕二権力を掌中に握ろうとしたから、泥沼に落ち、自分も汚し、積荷も汚してしまったのだ」(『神曲』世界文学全集②一八五ページ、河出書房)として、一三世紀から一四世紀にかけてのローマ教皇の大半を地獄に堕としてしまうか、あるいはそのうちに堕ちるかのいずれかとしています。そのなかにあって、天国篇第十歌のなかに、トマス・アクィナスと並んでシゲルス・デ・ブラバンティアの名をあげ、彼の「魂の光」(同二八四ページ)は「永遠の光」だとしてシゲルスを天国の住人にあげています。カトリック教会に批判的なダンテは、トマスと立場こそ違え、同じ天国界に属すべきスコラ哲学の一方の旗頭として、シゲルスを評価したものということができるでしょう。

(三)衰退期のスコラ哲学

①ドゥンス・スコトゥス(一二六六~一三〇八)
 カトリック教会の神学研究の中心となったパリ大学神学部に対し、数学的方法と実験とを結合する独自の唯物論は、イギリスのオックスフォード大学における自然科学の探究をつうじて進行したところから、オックスフォード学派とよばれます。近代哲学の始祖、フランシスコ・ベーコンはこのオックスフォード学派の流れをくむものです。
 ドゥンス・スコトゥスは、オックスフォード学派の学風を受けつぎ、正統スコラ哲学を批判し、信と知、神学と哲学の厳密な区分を主張することによって、神学と哲学との分離の方向へ一歩大きく踏み出すのです。彼は、神の意志は何ものにも規制されない絶対の自由であって、人間の理性以上のものであるから、信仰はけっして理性的に基礎づけることはできない、したがって合理的な神学は存在せず、神学はただ信仰の対象となるのみ、と考えました。こうした考えをとらえて、マルクスは「彼は神学そのものに唯物論を説教させた」(全集②一三三ページ)と述べています。他方哲学は理性により論証可能なものを対象とするのであって、理性によって明らかに証明される確実なものだけを対象にしなければならないとして、スコトゥスは信と知、神学と哲学の分離を説いたのです。
 また彼は、トマスのように神の世界創造の意志は最善のものだから、世界のすべては必然的に決定されているという決定論に反対し、神の意志は知としての善の観念に規定されることのない絶対的に自由なものであるとして自然界の非決定論を主張しました。さらにこの考えを人間の意志にも適用し、人間は意志の自由をもつことによって自己の行為を決定しかつ行動するから、自己の行為に対して責任を負うとして、責任の根拠を自由な意志に求めました。これは近代法における法的責任論に生かされる理論となっています。人間の意志をめぐる「自由か必然か」の論争は、カントのアンチノミーを経て、ヘーゲルにまで持ちこされることになります。
 普遍論争にかんしては、彼は真の実在は個物のみであり、個物のなかに普遍的形相と個別的形相が存在するとして唯名論の立場にたちました。マルクスは、スコトゥスの唯名論について「唯名論はイギリスの唯物論者のあいだでは一つの主要な要素となっており、また一般に唯物論の最初の表現である」(同)と語っています。こうしてスコトゥスは最盛期のスコラ哲学と衰退期のスコラ哲学とを結ぶ人物となりました。

②ウィリアム・オッカム(一二九〇/一三〇〇~一三四九)
 ウィリアム・オッカムはオックスフォード学派の唯物論的自然観にたって、スコトゥスの立場をいっそう押しすすめ、真に実在するのは個物のみであり、普遍とは多くの個物をあらわす記号・名辞にすぎないとする唯名論を主張しました。彼は近代哲学で重要な役割を果たしたベーコン、ホッブスなどのイギリス唯物論の先駆者ということができます。
 彼はこの立場から直観と経験にたった自然科学的知識を重視し、直観と経験のうえに基礎づけることのできない神学は学問としては成り立ちえないと考えました。信と知、神学と哲学の統一から出発したスコラ哲学は、ここに信と知、神学と哲学の完全な分離が説かれるに至り、それはスコラ哲学の崩壊にほかならなかったのです。したがって哲学はもはや教会の教義に拘束されることなく自由に探究することが可能となり、近代の自然科学の発展とそれに呼応する近代哲学の誕生に道をひらくことになりました。
 またオッカムは、信仰と知識の分離の考えから教会と国家の分離を主張し、教会は世俗的な権力をもつべきではなく、純粋に宗教的な事柄のみに関係すべきものと主張ました。

 

二、スコラ哲学から近代哲学へ

 古代哲学から中世哲学への移行は、一言でいえば自然と人間の哲学から、神の哲学への移行ということができるでしょう。それはたんに対象が自然と人間から神にかわったという対象の変化を意味するだけではなくて、哲学が真理探究の学問から真理に背をむけることによって支配階級の支配のイデオロギーに転落するという哲学の堕落を意味していました。
 真理を探究する哲学の最高の問題は、世界にかかわる最も根本的なカテゴリーである思考と存在、精神と自然との関係をどうみるかにありました。それは、存在、自然こそ根源的だとする唯物論と、そのうえにたって「思考と存在との同一性」をもって真理だとする唯物論的真理観を二本の柱とするものでした。
 しかし「神学の侍女」として誕生したスコラ哲学は、世界の根源的存在を神とする客観的観念論にたち、カトリック教会の教義をもって真理とする観念論的真理観にたつことによって、真理に背を向けたのです。そこからアンセルムスにみられるように信と知の統一、神学と哲学の統一を証明するためのものとして、スコラ哲学が誕生することになります。しかし聖書に書かれた唯一神の存在、天地創造、原罪、三位一体などを含むカトリック教会の教義は、たんに非科学的かつ前時代的なにすぎないのであって、キリスト教の誕生した二千百年も前の時代ならありうる話ではあっても、時代を超えて生き延びる永遠の真理とは到底いえないものですから、こうした教義を絶対的真理として理性的に証明しようとすること自体に無理があるといわなければなりません。
 したがって信と知、神学と哲学の一致を前提とするスコラ哲学は、真理を探究する本来の哲学の発展のもとで自己矛盾の顕在化により破綻せざるをえない宿命を内包していました。「神学の侍女」としてのスコラ哲学は「神学の侍女」であるがゆえに破綻せざるをえなかったのです。
 現にスコラ哲学の歴史は、アンセルムスに対するロスケリヌスやアヴェロエス、トマスに対するシゲルスやスコトゥス、オッカムなどの対立としてあらわれ、やがてスコラ哲学の崩壊となり、中世哲学から近代哲学へ移行することになるのです。それは神の哲学から脱却し、自然と人間、さらには社会の哲学への転換を意味すると同時に、哲学が再び真理探究の歴史としてその輝きを取り戻す時代に突入することを意味していました。
 私たちは、暗黒の時代、中世のスコラ哲学から、次のような教訓を学びとらなければならないでしょう。
 一つは、哲学の歴史は「弁証法的発展をなして次々とあらわれる理念の諸段階」(『小論理学』上二六五ページ)であり、真理に向かって認識が弁証法的に発展していく歴史としてとらえることができるということです。 スコラ哲学は、真理探究の学問である哲学からすれば一種の逆流ということができます。しかしその逆流の哲学のなかにも、異端とされながらも真理に忠実であろうとするスコラ哲学の一潮流が生まれ、正統的スコラ哲学と異端的スコラ哲学の対立と闘争をつうじて、少数派であった後者が勝利することになります。ここに「真理は必ず勝利する」という弁証法的唯物論の命題の正しさが証明されているのをみることができます。真理ははじめは先進的少数者の認識として異端視され、迫害されながらも、時が来れば真理は真理自身のもつ力によって多数の認識となり勝利することができるのです。
 二つは、史的唯物論の土台・上部構造論の正しさが証明されているということです。
 史的唯物論では「物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する」(マルクス「経済学批判 序言」全集⑬六ページ)ととらえます。
 中世の封建制社会とは、封建領主と農奴を基本的な階級対立とする封建的生産様式の社会ということができますが、この封建的生産様式そのものが封建的位階制社会を支えるカトリシズムというイデオロギー、すなわちスコラ哲学を生みだしたのです。
 三つは、二つめの問題とも関連して、その時代の支配的な思想は、どの時代でも支配階級のイデオロギーだということです。「すなわち、社会の支配的な物質的力である階級は、同時にその社会の支配的な精神的力である。物質的生産のための諸手段を自由にできる階級は、それとともに精神的生産のための諸手段を意のままにするのであるから」(マルクス、エンゲルス『〈新訳〉ドイツ・イデオロギー』五九ページ、新日本出版社)。
 封建制社会における支配的な思想としてのスコラ哲学は、文字どおり支配階級のイデオロギーでした。そして重要なことは支配階級のイデオロギーは、いつでも真理に背を向けた虚偽のイデオロギーだということです。なぜなら支配階級はつねに少数者でありながら多数者を支配しているのですが、その支配を維持するためには実際には少数者の利益のために行動していながら、あたかも多数者の利益のために行動しているかのような虚偽のイデオロギーを支配の道具として必要としているからです。これに対して、被支配階級の側は、少数者が多数者を支配しているという真実を明らかにすること自体が自らの階級の利益になるところから真理の擁護者となります。
 「自分より先に支配していた階級にとってかわるどの新しい階級も、その目的を遂行するためにだけでも、その利害を社会の全成員の共通の利害としてしめさざるをえない。すなわち、観念的に表現すれば、その諸思想に普遍性の形式をあたえ、それらの思想をただひとつ理性的で、普遍妥当的な諸思想としてしめさざるをえない」(同六一ページ)。すなわち被支配階級は、「ただひとつ理性的で、普遍妥当的な諸思想」である真理を全成員の前に提示することにより、「真理は必ず勝利する」道をめざすことに利益を感じるのです。
 古代ギリシアのアテナイ期の哲学者は、奴隷制社会は肯定しながらも、真理探究の道を歩みました。なぜ彼らが全体として真理探究の哲学を選択しえたのかといえば、当時のポリスのもとで市民相互の間には政治的自由と民主主義が保障されていたという特殊な事情があったからだということができるでしょう。マルクスは古代ギリシアのポリス社会を「真の奴隷制の基礎のうえにたった古代の、現実的=民主主義的な共同体」(全集②一二七ページ)とよんでいます。いずれにしても支配階級のイデオロギーはその階級性からして本質的に虚偽性をもつことを私たちは自覚しなければなりません。
 四つには、この問題にも関連するところですが、哲学も一つの社会的イデオロギーとして、党派性、階級性をもっていることであり、無党派を強調するのもまた一つの党派性、階級性の表現にすぎないことに注意しなければなりません。この点を強調したのがレーニンの『唯物論と経験批判論』(レーニン全集⑭)でした。
 「マルクスとエンゲルスは、哲学において終始党派的で、ありとあらゆる『最新の』流派のうちに、唯物論からの逸脱と観念論と信仰主義の甘やかしとをあばきだすことができた」(同四一一ページ)。
 哲学には唯物論と観念論、真理と非真理の二つの道しかないのであって、「唯物論からの逸脱」はどんなに小さいものであっても、観念論と非真理の道に傾斜していく危険性をはらんでいるのです。したがって「すべての党派のうちで、もっともいとうべきものは中間派」(同)であり、「ありとあらゆる名前の中間項、調停的な山師どもは、途中でどちらかの潮流にながれこんでしまう」(同)ので、しっかり見極めなければならないとレーニンは指摘しています。哲学も、近代から現代に移行するにしたがって次第に複雑になり、「中間派」を装う哲学がふえてきますが、私たちは「科学の目」ですべての哲学の党派性、階級性を見抜かなければなりません。
 五つには、スコラ哲学というより、キリスト教そのものが歴史の進歩・発展に貢献した側面を評価しておかなければなりません。キリスト教は、神の前にすべての人は平等であり、人間を神以外の者には従属しない自由な精神の持ち主としてとらえることにより、個人の尊厳を認める「近代的自我の確立」に道をひらく要素をはらんでいたのです。
 キリスト教が現代においてもなお大きな影響をもち、「聖書」が永遠のベストセラーとなっているのも、こういう一定の真理をもっていたことによるものです。近代を切りひらいたルターの宗教改革もまたこの「近代的自我」にもとづくものだったということができるでしょう。