『科学的社会主義の哲学史』より

 

 

第七講 近代哲学①
    資本主義の台頭による神からの脱却

一、近代とは資本主義の時代

ブルジョアジーの三大決戦

 本講座における近代とは、一五世紀後半のルネッサンスと宗教改革の時代に始まり、一九世紀後半のマルクス主義の登場までとします。それは一言でいうと、封建制社会のなかから都市の市民階級(ブルジョアジー)が台頭し、資本主義社会を建設し発展させていった時代ということができるでしょう。
 封建制社会は農村を基盤とした自給自足の身分制社会でしたが、同時に、付随的ではあっても各地に商品の生産・交換の場としての都市も存在していました。都市を支えていたのは、同職組合を中心とする封建的手工業と商業でした。一五世紀末から一六世紀にかけて、新大陸アメリカや東インド航路の発見による大航海時代を迎え、ヨーロッパの商業と都市は植民地からの金銀の略奪によって急激に発展し、都市の自由な中流階級としての市民階級(ブルジョアジー)が台頭してきます。
 彼らは、自由な工業生産と商品取引の自由を求め、徒弟制度などさまざまな制約をもつ封建制度そのものを桎梏と感じるようになります。また彼らは、その工業生産を発展させるために自然科学の発展を必要としていましたが、「このときまでは、科学は教会のつつましやかな侍女でしかなく、信仰によって定められた限界をこえることを許されていなかった」(「『空想から科学へ』英語版への序論」全集⑲五五三ページ)ところから、この面でも封建制度とたたかわざるをえませんでした。
 当時「封建制の大きな国際的中心はローマ・カトリック教会」(同)でしたから、ブルジョアジーは封建制を攻撃するには「ローマ・カトリック教会を破壊しなければならなかった」(同)のです。こういうブルジョアジーの封建制度への挑戦の開始を宣言するものがルネッサンスと宗教改革でした。
 「それは市民階級によって封建制度を打ち破り――しかも都市市民と封建貴族とのあいだのその闘争の背後に反逆した農民たちを示し、またその農民たちの背後には、すでに赤旗を手にし共産主義を口にしていた近代プロレタリアートの革命的先駆をも示した」(『自然の弁証法』全集⑳五〇四ページ)「偉大な時代」(同)でした。
 封建制に対するブルジョアジーの三世紀にわたる闘争は、三つの大決戦で頂点に達します。それが一六世紀のドイツ宗教改革と農民戦争、一七世紀のイギリス革命、一八世紀のフランス革命でした。
 一五一七年ルターの「九五カ条の論題」の発表によって宗教改革の口火が切られ、それは大農民戦争に発展します。ルターは絶対君主制と妥協し、農民戦争は鎮圧されてしまいます。しかしその後を引きついだカルヴァンは、「その当時の最も大胆なブルジョアジー」(全集⑲五五四ページ)の利益にかなう自由主義経済を賛美する教義を唱えることで勝利し、「カルヴァン主義はオランダに共和国を建設し、イングランドに、またことにスコットランドに、活動的な共和主義の政党を建設」(同)することになります。カルヴァン派はイングランドではピューリタン、フランスではユグノーとよばれました。
 ピューリタンのブルジョアジーによる第二の蜂起が、一七世紀のイギリス革命でした。一六四二年クロムウェルは、チャールズ一世の専制政治に反対して決起し、国王を処刑して共和制を実施するピューリタン革命を成功させます。しかし彼の死後再び王政は復古し、一六八八年の名誉革命により「新興中流階級と旧封建地主とのあいだの妥協」(同五五五ページ)が成立します。この時以来、「ブルジョアジーはイギリスの支配階級のつつましやかな、とはいえ公けに承認された一構成要素」(同五五六ページ)になったのです。
 一七八九年バスチーユの襲撃に始まったフランス革命は、ブルジョアジーの三度目の蜂起であり、「一方の交戦者だった貴族が滅ぼされて他方の交戦者だったブルジョアジーが完全に勝利するまで、ほんとうにたたかいぬかれたという点でも、最初のもの」(同五五七ページ)でした。ルソーの唱える自由、平等と人民主権を実現しようとしてジャコバン独裁の政権が誕生しますが、ブルジョアジーはこれをクーデターで打ち倒し、ついに全権力を掌握したブルジョアジーは、革命のなかで掲げられた「自由、平等、友愛」のスローガンを形骸化し、「ブルジョアジーのみの自由、平等、友愛」に変えてしまいます。
 「大きな市民的運動が起こるたびごとに、近代的プロレタリアートの多少とも発展した先駆者である階級の、自主的な動きがいつも現われた。たとえば、ドイツの宗教改革と農民闘争との時代における再洗礼派とトーマス・ミュンツァー、イギリス大革命における、フランス大革命におけるバブーフがそれである」(『空想から科学へ』同一八八ページ)。
 しかし資本主義的生産がまだ未熟だった一八世紀には、労働者階級(プロレタリアート)もまだ未熟な階級でしかなく、また勤労者人口に占める割合も小さかったところから、三大決戦のなかではいずれも結果として、ブルジョアジーのために利用されるにとどまったのです。

産業革命

 資本主義をこれまでの商業資本を中心とする重商主義の時代から、産業資本を中心とする本格的な資本主義へと発展させるきっかけとなったのが、一八世紀後半から一九世紀にかけての産業革命でした。それは生産手段を「道具から機械へ」と転換させることにより、本来の資本主義の生産様式としての機械制大工業を発展させ、大量のプロレタリアートを生みだすことになります。
 「一八三一年にはリヨンで最初の労働者の蜂起が起こった。一八三八~一八四二年には、最初の国民的な労働運動、すなわちイギリスのチャーティスト運動がその頂点に達し」(同二〇四ページ)、「プロレタリアートとブルジョアジーとの階級闘争が、ヨーロッパの最も先進的な国々の歴史の前面に現われ」(同)てきます。
 こうした事態を反映して、挫折したフランス革命の精神である「自由、平等、友愛」をひきついだ社会主義・共産主義の思想が登場し、ヨーロッパ中を席巻するに至ります。
 「近代の社会主義は、……その理論上の形式からいえば、それは、はじめは、一八世紀のフランスの偉大な啓蒙思想家たちが立てた諸原則を受けついでさらに押しすすめ、見たところいっそう首尾一貫させたものとして現われる」(同一八六ページ)。
 こうしてマルクス、エンゲルスによる一八四八年の『共産党宣言』(科学的社会主義の綱領的文書)の冒頭には、「一つの妖怪がヨーロッパをさまよっている――共産主義の妖怪が」(全集④四七五ページ)という有名な文章が掲げられることになるのです。しかし生まれたばかりの社会主義的諸思想は、まだ「プロレタリアートの利害の代表者として登場した」(全集⑲一八八ページ)のではなく、資本主義とは何かも未解明なことによって、自ずから空想的なものにならざるをえず、「理性と永遠の正義との国を実現したいと願」(同)う主観的なものにとどまっていました。それを代表するのが、「三人の偉大なユートピア社会主義者」(同)、サン・シモン、フーリエ、オーエンでした。
 この空想的社会主義を、資本主義という実在的基盤のうえにすえ、科学的な社会主義へと発展させたのがマルクス主義でした。マルクス主義の発見した史的唯物論と剰余価値学説によって資本主義の基本矛盾が解明され、その矛盾を解決する階級闘争と社会主義の理論によって「社会主義は科学になった」(同二〇六ページ)のです。
 「いまでは社会主義は、もはやあれこれの天才的な頭脳の持主の偶然的な発見物としてではなく、歴史的に成立した二つの階級、プロレタリアートとブルジョアジーとの闘争の必然的な産物として、現われたのである」(同二〇五ページ)。
 それを以下にもう少し詳しくみることにしましょう。

 

二、近代が提起した自然、人間、社会の哲学

 古代哲学から中世哲学への移行は、哲学の対象の問題としては、自然と人間から神への移行を意味しており、内容的には、真理探究の哲学から支配のイデオロギーとしての哲学へという哲学の堕落を意味していました。
 これに対して中世哲学から近代哲学への移行は、対象的には神から再び自然と人間への復帰となり、新しく社会をもその対象とするに至ります。また内容的には、支配のイデオロギーとしての哲学から再び真理探究の哲学に復帰することを意味していました。
 というのも近代という時代は、封建制社会のなかにあってまだ被支配階級でしかなかったブルジョアジーが、大きく台頭して封建制度に挑戦し勝利していく時代であったところから、ブルジョアジーは真理を探究することに階級的利益を見いだしていたからにほかなりません。ドイツ宗教改革と農民戦争、イギリス革命、フランス革命というブルジョアジーの近代を切り拓くブルジョア民主主義革命は、進取の気風に満ち、真にあるべき社会を求める運動のなかから生まれてきたものでした。
 しかし資本主義が発展し、ブルジョアジーが支配階級として定着してくると、彼らは今では資本家階級として、逆に支配のイデオロギーとしての哲学を求めるようになり、ブルジョアジーにかわって労働者階級(プロレタリアート)が被支配階級として真理を探究することに階級的利益を見いだしていくことになります。
 こうして近代の哲学は、まずブルジョアジーによってブルジョア的な真理を探究する哲学に始まり、最後はプロレタリアートによる真理探究の哲学、つまりマルクス主義の哲学をもって終わることになります。その意味でマルクス主義の哲学は近代哲学の到達点を示すものとなっています。以下において、中世の「神学の侍女」から脱却した近代の哲学が、自然、人間、社会のすべてについて再び真理探究の道を歩み始め、そのすべてについてマルクス主義の弁証法的唯物論と史的唯物論という哲学がその到達点となったことを、近代哲学の提起した諸課題をつうじて概観してみることにしましょう。

(一)自然にかんする哲学

・自然科学の発展

 近世のルネッサンスはまず自然科学の発展から始まります。自然研究における神学からの脱却は、一五四三年コペルニクスが臨終の床で手にした「天体の回転について」から始まりました。続いてケプラーの天文学、ガリレイの力学、ハーヴィの血液循環説、ボイルの法則などを経て、一八世紀のニュートン力学と万有引力の発見により、「近代自然科学の第一期」(全集⑳五〇五ページ)は終わります。
 この近代自然科学の発展は、哲学史のうえに三つの大きな足跡を残すことになりました。
 一つは、自然の探究をつうじて唯物論が観念論に勝利していった偉大な時期だったということができます。自然の探究は、自然こそが世界の根源的存在であって、人間の精神は第二次的存在でしかないことを、有無をいわせぬ力で教えてくれたのです。
 二つには、自然科学上の発明、発見には数学的方法が多く利用されたところから、数学的方法を貫いている合理的思考、つまり理性を重視する傾向が生まれ、デカルトに始まる「大陸の合理論」に結びついていくことになります。
 三つには、これが自然にかんする哲学として最も重要なのですが、ガリレイの力学によって「全自然は創造主の叡智をあらわすためにつくられた」(同三四五~三四六ページ)と考えるスコラ哲学の目的的自然観が否定され、それにかわって形而上学的、機械論的自然観が支配的になっていったことです。
 「この時期を特徴づけているものは一つの独特の全体観の作成ということであって、その中心となるのが自然の絶対的な不変性という見解である」(同三四四ページ)。自然は絶対的に不変であって、機械的に同じことをくり返すのみであり、新しいものは何も生じないと考えられていたのです。つまり「自然は、ニュートンが教えたような永遠の天体と、リンネが教えたような不変の生物の種とからなりたっていて、狭い循環を描いて運動している、つねに自己同一的な全体」(『反デューリング論』同二四ページ)としてとらえられていたのであり、それが「形而上学的唯物論」(同)または「機械論的な唯物論」(同)とよばれるものでした。
 「形而上学的」とは事物を固定した、不変なものとみることを意味しており、「機械論的」とは、機械じかけのように同じことをくり返す、型にはまっていることを意味しており、いずれも弁証法に対立する概念ということができます。

・機械的自然観から弁証法的自然観に

 この一七、一八世紀の機械的自然観を、一九世紀の弁証法的自然観に転換させることになった「三つの大発見」(同五〇七ページ)が、「細胞の発見」「エネルギーの変換と保存の法則」、そして「ダーウィンの進化論」でした。細胞の発見は、植物と動物の区別が相対的なものでしかないことを教え、エネルギーの変換と保存の法則は、すべてのエネルギーは相互に転化しうるものであることを教え、ダーウィンの進化論は、生物の種は変化・発展するものであることを教えてくれることにより、自然を連関と発展のうちにとらえる弁証法的自然観に道をひらいたのです。
 自然科学は、一八世紀の終わりまでは「できあがった事物の科学」(『フォイエルバッハ論』全集㉑二九九ページ)でしたが、弁証法的自然観につながる三大発見によって、一九世紀においては「事物の起原および発展の科学、こうした自然過程を大きな全体へ結びつける連関の科学」(同)となりました。こうして近代の唯物論は、自然観については弁証法的となりましたが、そのことはまだ人間の歴史や社会に対する見方を弁証法的なものに変えることまでは意味していませんでした。
 「問題は、社会にかんする科学を、すなわち、いわゆる歴史的および哲学的諸科学の総体を、唯物論的基礎と一致させてこの基礎のうえに再建する、ということであった」(同二八五ページ)。
 歴史観は、観念論の「最後の隠れ場所」(全集⑳二六ページ)となっていたのですが、唯物論の立場から社会を構造的にとらえ、かつ社会の基本矛盾とその矛盾の揚棄として社会発展をとらえるマルクス主義の史的唯物論によって、はじめて観念論をその「最後の隠れ場所」から追い出すことができたのです。

(二)人間にかんする哲学

・ヒューマニズム

 中世スコラ哲学のもとでは、天上の神に対し、原罪を負った人間は虫けらのような存在でしかありませんでした。ルネッサンスは、古代ギリシアへの「文芸復興」の運動であると同時に、ポリス的人間への回帰を求める、人間性回復を求める運動でもありました。人間性の回復とは、まず一人ひとりの人間の主体的自我を尊重するという「近代的自我」の承認を意味していました。ヘーゲルは「主体的自由の権利、これが古代と近代との区別における転回点かつ中心点をなす」(『法の哲学』三二七ページ)と述べています。
 近代的自我の承認は、個々人を人間として尊重するヒューマニズム(人間主義、人道主義)の思想を生みだします。ヒューマニズムは、まず封建制への抵抗、批判の思想として登場し、やがてより合理的なイギリス、フランスの啓蒙思想となり、次いで台頭する資本主義の弊害が表面化するなかで社会主義思想に発展していきます。
 ルネッサンス期を代表するヒューマニストであるエラスムス(一四六六~一五三六)は、キリストの教えは自然な人間を肯定することにあるとして、その代表作『愚神礼讃』において中世以来の腐敗したローマ・カトリック社会を鋭く批判し、その批判精神によって宗教改革にも大きな影響を与えました。
 また資本主義が台頭してきた一六世紀イギリスのトマス・モア(一四七八~一五三五)は、『ユートピア』において「羊が人間を食い殺す」と当時のイギリスを批判しました。これはマルクスが『資本論』で指摘しているように、羊毛マニュファクチュアの繁栄と羊毛価格の高騰のもとで、牧羊地のために農民を土地から追い出す「囲い込み運動」を批判したものでした。彼はヒューマニズムの立場から私有財産制の廃止と平等社会の実現を訴えました。
 イタリアのカンパネラ(一五六八~一六三九)は、当時のナポリ王国の人々の窮状をみて反乱に立ちあがり、二十七年間獄につながれました。彼が獄中で著したのが『太陽の国』であり、そのなかでヒューマニズムの立場から貧富の対立を批判し、共産主義的平等社会を主張しました。
 一七、一八世紀になると、ヨーロッパ諸国では封建制国家から近代国家に移行する一形態として、ルイ一四世の「朕は国家なり」に象徴される絶対君主制の専制国家が誕生します。この専制国家をヒューマニズムの立場から批判したのが啓蒙思想でした。啓蒙思想は、現実社会の批判という面では唯物論的考えでしたが、あるべき社会を頭のなかから考えだすという点において観念論的側面をもっていました。
 イギリスのピューリタン革命のなかから生まれた啓蒙思想家がトマス・ホッブスでした。彼は絶対君主制を批判して、社会契約という全人民の合意に国家成立の根拠を求めました。ジョン・ロックはホッブスの社会契約論を発展させて人民主権論を主張し、アメリカの独立宣言やフランス革命に大きな影響を与えました。しかし社会契約論そのものは事実に基づかない観念の所産ということができます。
 イギリス啓蒙思想をうけついで、一八世紀のフランス啓蒙思想が誕生し、ディドロ、ダランベールが中心となって出版された『百科全書』はその結実となるものでした。そのなかでも抜きんでた存在だったのが、ジャン・ジャック・ルソーでした。彼はこれまでのヒューマニズムや啓蒙思想を一歩押しすすめ、人間尊重を主張するからには、尊重されるべき「人間とは何か」が解明されなければならないとして、人間論を本格的に論じました。
 彼の人間論にもとづく『人間不平等起原論』と『社会契約論』はフランス人民の心をとらえ、フランス革命のバイブルとなったのです。『人間不平等起原論』は、まず「人間のすべての知識のなかでもっとも有用でありながらもっともすすんでいないものは、人間に関する知識であるように私には思われる」(二五ページ、岩波文庫)という文章ではじまっています。彼は、人は生まれながらにして自由・平等な存在であるが、私有財産制のもとでその本質が損なわれているとして、社会契約によって人民主権国家を実現し、人間の本質を回復する社会の実現を訴えました。そこには、人間の本質論、本質疎外論、本質回復の人間解放論が論じられているところから、エンゲルスによって「ルソーのこの書物には、すでにマルクスの『資本論』がたどっているものと瓜二つの思想の歩みがある」(全集⑳一四六ページ)と紹介されています。ルソーの掲げる理想は、たんなる観念論的理想から唯物論的理想に一歩近づいたのです。
 このルソーの思想を受けつぎ発展させたのがヘーゲルでした。彼は人間を自由な意志をもち無限に発展する最高の存在であるととらえ、「最高の共同性は最高の自由である」と規定しました。この人間の本質論にもとづき、『法の哲学』において人格、法、道徳、家族、市民社会、国家を論じ、資本主義社会(市民社会)における人間疎外と、それを克服し、最高の自由と最高の共同性を実現する人民主権の国家を主張しました。

・真のヒューマニズムとしてのマルクス主義

 こうしたヒューマニズムと人間論のうえに、唯物論的理想をかかげた、真のヒューマニズムとしてのマルクス主義が誕生することになります。マルクスはまず人間の類本質は自由な意志と共同社会性にあるととらえ、それが階級社会における階級支配と国家による抑圧によって疎外されるととらえます。
 疎外により「人間をいやしめられ、隷属させられ、見すてられ、軽蔑された存在にしておくようないっさいの諸関係をくつがえ」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」全集①四二二ページ)し、人間を「人間にとっての最高の存在」(同)にするのが社会主義・共産主義の社会だととらえました。そのためには生産手段を社会化することによって、搾取も抑圧もない社会を実現することが必要であり、その意味で共産主義とは、「私有制度に感染した、人道主義的原理の特異な一形態にすぎない」(マルクス「『独仏年誌』からの手紙」同三八一ページ)としています。つまりこれまでのヒューマニズムは私有財産制度と搾取を前提としたヒューマニズムという限界をもっていたのに対し、マルクス主義のヒューマニズムは生産手段の社会化による搾取と階級の廃止という「特異な一形態」をかかげた真のヒューマニズムだというのです。
 したがって「共産主義は成就されたナチュラリズムとしてヒューマニズム」(マルクス「経済学・哲学手稿」全集㊵四五七ページ)とされています。「成就されたナチュラリズム」とは、疎外から解放されることによる人間本来の自然的あり方(人間の類本質)の開花を意味しています。それと同時にマルクスの人間論は、人間の本質を開花させる生き方こそが、もっとも人間らしい最高の生き方であるとして、人間の生き方の当為の問題についても客観的基準を与えることにより、生き方の当為の真理を明らかにしたのです。

・認識論

 認識論とは、人間の認識(思考)とその対象となる客観世界(存在)との相互媒介の関係を問題とするものです。近代哲学の祖といわれるデカルトは、世界の根本的存在を「思考」と「存在」としてとらえる「二元論」をうちだします。世界の根本が思考と存在という二元にあるとすると、両者のどちらが根源的か、両者の間にはどういう関係があるのか、などの問題が生じることになり、思考を根源的とする立場は観念論、存在を根源的とする立場は唯物論とよばれます。また認識の問題についても、認識は存在から出発するのか、それとも思考から出発するのかという認識の源泉性が問題となってきます。認識の源泉性をめぐって存在から出発するとする側は唯物論となり、思考から出発するとする側は観念論となります。
 認識論を考えるにあたっては、認識の三つの種類とその相互の関係をみておかなければなりません。それは、感性、悟性、理性です。まず感性とは、認識の対象となる存在を五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)によって受けとる受動的認識です。これに対して悟性、理性とは、対象を思惟することによってえられる能動的、主体的認識です。分かりやすくいえば、感性とは「感じる」認識であり、悟性、理性は「考える」認識ということができます。パスカルが「人間は考える葦である」といったのは、「人間はたんに感じる葦ではなく、考える葦なのだ」という意味でしょう。悟性と理性とがどう異なるのかはまた別の機会に論じることにして、ここではとりあえず悟性と理性を一緒にして広義の理性とよんでおきます。
 感性が存在から出発し、存在を反映した唯物論的認識であることは明瞭ですが、理性には存在から出発し、感性を経て理性に至る唯物論的認識もあれば、思考から出発する観念論的認識もあることになります。
 したがって感性と理性のいずれを重視するのかによって、認識論は大きく唯物論と観念論に分かれます。経験から生まれる感性、感覚を重視する立場は、イギリス唯物論の祖ベーコンに始まり、一般に「イギリス経験論」とよばれています。これに対して精神の能動的働きから生まれる理性を重視する立場は、フランスのデカルトに始まり、一般に「大陸の合理論」とよばれ、観念論の陣地を築くことになります。
 なお一言つけ加えておきますと、唯物論的認識論は存在から出発し、現実をありのままにとらえる認識ですから、必然的に社会批判を生みだします。したがってイギリス唯物論のうちからイギリス啓蒙思想が生まれ、それが一八世紀のフランス啓蒙思想として開花することになります。
 イギリス経験論は、経験からえられる感性的、感覚的認識こそすべての認識の基礎となるものであり、神の存在というような経験によってえられないものは認識の基礎にはなりえないと考えます。これは中世スコラ哲学の唯名論を継承した唯物論の立場にたつものです。しかし人間の認識はいつまでも感性、感覚にとどまるものではなく、思惟の力である悟性、理性によって具体から抽象へと思惟を上昇させ、普遍性、必然性をも認識するに至ります。そこからイギリス経験論は二つに分かれ、感性によってとらえられる個別性の認識のみが存在を反映した認識であって、理性によってとらえられる普遍性、必然性の認識は存在とは無関係な主観的なものにすぎないとする観念論的経験論(バークリ、ヒューム)と、普遍性、必然性も個別的存在のなかに含まれる客観的なものと考える唯物論的経験論(ホッブス、ロック)に分かれることになります。ホッブス、ロックはイギリス革命と結びついて「イギリス啓蒙思想」を展開し、それは一八世紀のフランス唯物論に発展的に継承され、フランス啓蒙思想とよばれます。
 他方合理論(合理主義)は、感性、感覚は信頼できないとし、理性によってのみ真理を認識しうるとする考えです。合理論は、一七世紀フランスのデカルトに始まり、オランダのスピノザ、ドイツのライプニッツ、ヴォルフに受けつがれたところから、一般に「大陸の合理論」とよばれています。
 合理論は、一面では非合理なものを認識のうちから排除し、理性にかなった論理的に完全なもののみを真理として認めようとする立場であって、近代自然科学の発展を生みだした正しい見解ということができます。しかし反面では感性を軽視して理性のみを信頼しうるとするところから、存在よりも思考を根源的と考える観念論の立場に大きく傾斜することになってくるのです。こうして「大陸の合理論」は、現実から切りはなされた壮大な観念論的世界図式論のあれこれの体系を生みだしていくことになります。感性を伴わない理性、悟性は、対象を頭のなかから生みだすところから観念論に陥ることになりますし、また理性、悟性を伴わない感性は、人間の認識を極めて限定されたものにとどめ、無限に真理に向かって前進していくことを不可能にしてしまいます。エンゲルスがイギリス経験論の「固有な狭い思考方法」(全集⑳一五ページ)と指摘しているのは、理性、悟性を伴わない感性を意味していたものでしょう。
 感性、悟性、理性は、いずれも人間の認識を構成するものであって、この三者が結合してはじめて認識として十全なものになりうるといわなければなりません。したがって一方で認識論としてのイギリス経験論は、感性的、受動的認識を一面的に強調するものであるのに対し、大陸の合理論は悟性、理性という能動的認識を一面的に強調するものということができます。
 そこから両者を統一しようとする試みがなされることになりますが、その場合も観念論的に統一するのか、それとも唯物論的に統一するのか、という二つの流れが存在するのです。
 まずカントは、ヒュームの観念論的経験論の影響を受け、感性的な認識は客観的事実によって与えられるのに対し、普遍性、必然性の認識は客観的事実のなかには含まれていないととらえます。そのうえで人間的には多様な感覚的認識を統一する能力としての悟性が先天的に与えられており、その悟性という主観の作用によって普遍性、必然性が認識されるとして、経験論と合理論を観念論的に統一しようとしました。
 観念論の問題もさることながら最も問題なのは、カントがせっかく感性と悟性の統一を主張しながら、悟性には限界があり、経験を越えるものについては認識しえないのであって、その悟性の限界を見極めるのが理性なのだと考え、結局は不可知論におちいってしまったことです。認識論を論じる意義は、いかにして真理を認識するのかを問題とするところにあり、したがって感性、悟性、理性を総動員して、相対的真理から絶対的真理へ、部分的真理から全面的真理へ、事実の真理から当為の真理へと無限に発展する認識を論じるところにあります。カントの認識論は、その精緻な理論構成にもかかわらず、「物自体」は認識しえないとする不可知論によって結果的に後世に見るべき哲学的遺産を残さなかったのです。
 これに対してヘーゲルは、普遍性、必然性は客観的事実のなかに含まれているという唯物論の立場にたって、人間は経験にもとづく感性を入口にしながら、悟性によって事実の真理として普遍性、必然性を認識し、理性によって当為の真理をも認識しうるとして、認識の無限の発展を認めると同時に、理想と現実の統一という革命の哲学を確立することで、後世の哲学に大きく貢献することになったのです。
 マルクス主義はヘーゲルの立場を継承しつつ、これまでの認識論に欠けていたのは実践の見地であったことを強調します。人間は実践を媒介にして悟性的、理性的認識が正しいか否かを検証しうるのであり、この実践による検証をつうじて、感性的認識から悟性的、理性的認識へと認識を無限に発展させ、自然や社会の客観的真理をとらえうることを明らかにしました。

・解釈の哲学と変革の哲学

 人間が他の動物と異なり、高度に発達した大脳を使って自然や社会などの客観世界を変革する能力をもっていることは古くから知られていました。しかし近代に至るまで、哲学とは「世界がいかにあるか」を認識する解釈の立場にたつものとされ、「世界はいかにあるべきか」を認識する変革の立場にたつものとはされませんでした。それをかえるきっかけとなったのが一九世紀における弁証法的自然観であり、この自然観はそれを思考のうえにも反映して弁証法的認識論を生みだします。
 「弁証法というものは、事物とその概念上の模写とを、本質的にそれらの連関、連鎖、運動、生成と消滅においてとらえるものである」(全集⑳二二ページ)。客観的事物はすべて運動、変化、発展するのであり、この事物の弁証法を「概念上の模写」したものが認識における弁証法、主観的弁証法となるのです。
 古代ギリシア哲学の弁証法をふたたびとりあげたのは、カントからヘーゲルにいたるドイツ古典哲学であり、ヘーゲルにおいて完結します。ヘーゲルはすべての事物を運動、変化、発展においてとらえる弁証法の立場にたち、はじめて実践をつうじて主体的に理想と現実の統一を実現する革命の哲学を確立しました。すなわち、人間は「世界がいかにあるか」という「事実の真理」を認識することをつうじて、「世界はいかにあるべきか」という「当為の真理」をも認識し、その唯物論的理想(概念・真にあるべき姿)をかかげた実践により、自然や社会を「真にあるべき姿」に変革しうる実践的真理を主張し、そこに哲学の究極の目的を見いだしたのです。
 この革命の哲学を主張することで、ヘーゲルは真理には「事実の真理」と同時に「当為の真理」があることをも明確にし、当為の真理を「概念」、概念と存在との一致を「理念」とよび、これまでの哲学に存在しなかった「概念」「理念」のカテゴリーを生みだしました。
 ここにおいて哲学は「世界はいかにあるか」を問題とする「解釈の立場」と「世界はいかにあるべきか」を問題とする「変革の立場」に大きく二分することになります。「変革の立場」にたちつつ、自然や社会の法則にそった合法則的発展をめざす立場が、革命の哲学となるのです。その意味で広義の「変革の立場」は革命の哲学を含むものとなっています。
 ヘーゲルの革命の哲学の発展的継承者として、マルクス主義の弁証法的唯物論と史的唯物論とが誕生し、階級闘争という実践を媒介として資本主義から社会主義・共産主義への発展の必然性が解明されることになります。

(三)社会にかんする哲学

・啓蒙思想

 先に一六世紀のヒューマニストであるトマス・モアやカンパネラが早くもヒューマニズムの立場から社会の矛盾を厳しく批判したことをみてきました。しかし近代における社会にかんする哲学を本格的に開始したのは、一七世紀のホッブスやロックのイギリス啓蒙思想と、それを引き継いだ一八世紀のフランスの啓蒙思想でした。モンテスキュー、ヴォルテール、ルソーなどによって代表されるフランス啓蒙思想は、一面では唯物論の立場から当時のフランスにおける封建制社会をあるがままに観察して批判すると同時に、合理論の立場から理性にしたがって社会を変革しようとしました。
 彼らは「理性こそは現存するいっさいのものの唯一の審判者であるとして、この理性にうったえた。理性国家、理性社会が確立されるべきであり、永遠の理性に矛盾するいっさいのものは、容赦なく除去されるべきだ」(全集⑲一八九ページ)と主張したのです。
 なぜ唯物論が啓蒙思想につながったのかといえば、唯物論は「もし人間がその環境によってつくられるものであるとすれば、ひとはその環境を人間的なものにつくっていかなければならない」(「聖家族」全集②一三六ページ)と考えることによって、その思想を徹底させれば、社会をより善いものにつくり変える社会変革に向かわざるをえないからです。
 ルソーの『社会契約論』は、フランス革命におけるバイブルとなり、誰もがこの著作を手にして革命に立ちあがります。しかし「自由・平等・友愛」を掲げたフランス革命は、中途半端なところで挫折してしまいます。そこでフランス啓蒙思想はフランス革命の精神をひきついでさらに前進し、社会主義・共産主義に向かわざるをえなくなります。こうして「フランスの唯物論の他の方向は、直接に社会主義と共産主義とにそそいでいる」(同)のです。

・フランス啓蒙思想から社会主義思想へ

 「フーリエは直接にフランス唯物論者の学説から出発している。バブーフ主義者は粗野で未開な唯物論者であったが、しかし発展した共産主義も直接にフランス唯物論からはじまった」(同一三七ページ)。しかし生まれたばかりの社会主義・共産主義は、当然にもまだ未熟なものにとどまり、科学にも哲学にもなりえていませんでした。
 「社会的な課題の解決は、未発展の経済関係のうちにまだ隠されていたので、頭のなかからそれをつくりださなければならなかった。社会は弊害を示すばかりであった。これらの弊害をとりのぞくのは、思考する理性の任務であった。……これらの新しい社会体系は、ユートピアになるという運命をはじめから宣告されていた」(全集⑲一九一ページ)。
 社会主義・共産主義を科学にするには、空想的な「理性国家」を主張するより前に、何よりも社会そのものを科学的に分析することが必要でした。社会がいかなる構造をもち、いかにして発展していくのかを解明したマルクス主義のもとではじめて社会は科学の対象となり、社会にかんする哲学も誕生することになるのです。マルクスはその代表作『資本論』において資本主義社会を分析し、その基本矛盾を明らかにすることをつうじてその矛盾を揚棄する社会としての社会主義・共産主義社会を展望しました。それをもたらしたのがマルクスによる剰余価値学説と史的唯物論という二大発見であり、これによって「社会主義は科学になった」(全集⑳二六ページ)のです。

 

三、近代が提起した哲学の根本問題

思考と存在との関係

 ここまで近代哲学が提起した諸課題を、自然、人間、社会と分野別に概観し、マルクス主義哲学はどの分野でも近代哲学の到達点となっていることをみてきました。マルクス主義はレーニンのいう「一九世紀の三つの主要な思想的潮流」(「カール・マルクス」レーニン全集㉑三七ページ)の発展的継承者というにとどまらず、近代哲学全体の発展的継承者となっているのです。
 ここで観点をかえて、哲学的見地からすると近代哲学の提起した根本問題は何なのかを考えてみましょう。先に認識論のところで学んだように、デカルトの二元論は哲学の根本問題を提起することになりました。エンゲルスはこれを受け、「すべての哲学の、とくに近世の哲学の、大きな根本問題は、思考と存在とはどういう関係にあるかという問題である」(全集㉑二七八ページ)としています。
 思考と存在との関係については、大きく二つの問題があります。一つは世界においてどちらが根源的かの問題であり、思考を根源的と考える側は観念論の陣営をつくり、存在を根源的と考える側は唯物論の陣営をつくります。この世界の根源性の問題に関連して、認識の源泉性の問題が問われ、経験論とよばれる唯物論と合理論とよばれる観念論の対立となってあらわれることは先にみたとおりです。
 もう一つは思考と存在とは同一になりうるのかの問題であり、エンゲルスはこれを「思考と存在との同一性の問題」(同二八〇ページ)とよんでいます。そこにも二つの問題があります。第一は、存在から出発する認識論的唯物論の立場にたつとして、思考はあますところなく存在を認識しうるのか、また「どうあるか」の真理だけでなく「どうあるべきか」の真理も認識しうるのかの問題です。いわば思考は存在と同一になりうるのかという認識論の問題です。第二は、思考に従って存在を改造、変革しうるのかの問題であり、いわば存在は思考と同一になりうるのかという実践論の問題です。この方向を逆にする二つの「思考と存在との同一性」の問題をつうじて理想と現実の統一が論じられることになるのです。

近代哲学の到達点としてのマルクス主義

 マルクス主義哲学は、近代哲学が提起したこの二つの哲学の最高の問題についての真理を示すことによって、近代哲学の到達点となりました。一つには、世界の根源は存在、自然であるという唯物論の立場にたつことで、自然科学の発展と歩みをともにする弁証法的唯物論の哲学をうちたてました。
 唯物論的認識論の立場とは、現実の世界を「先入見となっている観念論的幻想なしにそれに近づくどの人間にも現われるままの姿で、把握しよう」(同二九七ページ)とするものであり、この唯物論の立場にたてば、世界のすべての事物は運動、変化、発展するものとして弁証法的にとらえざるをえないのです。したがって、弁証法的唯物論の立場にたってのみ、すべての事物の真の姿および真にあるべき姿をとらえ、真理に向かって無限に認識を発展させることができるのです。
 また弁証法的唯物論から生まれた史的唯物論によって人類史上はじめて社会と人間とが科学的にとらえられることになりました。哲学の全歴史をつうじて社会を科学的にとらえるうえで史的唯物論以外にはどんな方法も存在しないことは、現代哲学を学ぶことでより明確になります。
 二つには、マルクス主義は「思考と存在との同一性」の問題について、思考は実践を媒介して存在をあますところなく認識しうるとして不可知論を退けるとともに、存在に一致する思考には「事実の真理」のみならず「当為の真理」が存在することを明らかにしました。また「当為の真理」をかかげた実践により、自然や社会を合法則的に発展させることで、思考に一致する存在を実現する「理想と現実の統一」の哲学、すなわち革命の哲学を確立したのです。
 マルクス主義は、マルクス、エンゲルスによって創始された一九世紀後半以降、レーニンをはじめとする革命的実践をつうじてより豊かなものとなり、「科学的社会主義」へと発展していくことになるのです。
 以上を近代哲学の概観として、本題に入っていくことにしましょう。

 

四、近代哲学の黎明期

(一)フランシス・ベーコン(一五六一~一六二六)

 ベーコンは、イギリス唯物論の祖であり、近代哲学への道を最初に切りひらいた人物です。中世スコラ哲学を崩壊に向かわせることになった源流が、イギリス・オックスフォード学派の唯名論にあることを学びましたが、この唯名論の流れを受けつぎ、ルネッサンス期を代表する人物として、ベーコンの唯物論が誕生することになります。ベーコンの唯物論は先入的偏見を捨て去り、経験にもとづく感覚から出発しなければならないことを強調したところから、イギリス唯物論は一般に「イギリス経験論」とよばれ、ベーコンはイギリス経験論の祖ともよばれます。
 「彼の学説によれば、感官は誤まることのないものであり、すべての知識の源泉である。科学は経験科学であり、感覚によってあたえられたものに合理的な方法を適用するところに成立する。帰納、分析、比較、観察、実験が合理的な方法の主要な条件である」(全集②一三三ページ)。
 こうして「イギリスの唯物論と近代の実験科学全体の先祖はベーコンである」(同)とされているのです。また「知は力なり」という有名な言葉も彼に由来するものです。彼はアリストテレスの『オルガノン』に対抗して『ノヴム・オルガヌム(新オルガノン)』を著し、哲学の「大革新」をはかろうとしました。そこには大きく二つの特徴がありました。
 第一に、経験にもとづく感性的認識に始まって真理を認識するに至るためには、スコラ哲学の生みだしたさまざまな偏見、彼のいう「イドラ(幻影)」から解放されなければならないとしたことです。言いかえると自然科学を発展させるには事物を現にあるがままのものとして観察する唯物論的認識論の立場にたたねばならないことを意味するものでした。
 彼は、排除されるべき偏見として、次の四つのイドラを示しました。一つは「種族のイドラ」であり、人間という種族全体がもっているイドラです。当時とすれば天動説がその一例でしょうし、現代でいえば、市場にまかせればすべてうまくいくという「新自由主義」ないし「市場原理主義」をあげることができます。二つは「洞窟のイドラ」です。これは各人の生いたち、環境からくるイドラであり、例えば「長いものには巻かれろ論」をあげることができます。三つは、「市場のイドラ」であり、市場で飛びかう言語(噂やデマ)のイドラです。ベーコンは言葉と事物は区別しなければならず、言葉にまどわされず、もっぱら事物そのものを観察すべきだというのです。現代でいえば「決定できる政治」がその一例でしょう。何を決定するのかが問題であって、圧倒的多数の国民に不利益な消費税増税など決定されない方がいいのです。四つは「劇場のイドラ」であり、劇場の大道具のような大掛かりな仕掛けによるイドラです。現代でいえばマスコミによる世論誘導がそれでしょう。
 ベーコンが指摘したこれらのイドラは、いずれも中世スコラ哲学が理性の装いのもとに作り出されたところから、彼は理性を批判し、経験をもって唯一の認識の源泉にすべきだと主張したのです。
 第二の特徴は、真理認識の方法としての「帰納法」を主張したことにあります。彼は、四つのイドラを排除し、個々の事実の観察と実験を積み重ねることによって、個々の事例のなかから真理としての一般命題を確立する「帰納法」あるいは「帰納推理」を確立するという功績を残しました。
 帰納法は個別から普遍を推理する経験論に特有な推理方法であり、例えば「金、銀、銅は金属である、これらの物体は電導体である、よってすべての金属は電導体である」という推理です。しかしすべての金属を経験し尽くすことはできませんから、帰納法は部分から全体を推理するものであって、そこには論理の飛躍があります。この飛躍が一面では新たな真理の発見に繋がることにもなるのですが、他方で帰納推理はあくまで蓋然的推理(多分そうなるだろうという推理)にすぎないのです。
 これに対して「演繹法」あるいは「演繹的推理」とは、普遍から個別を推理する合理論に特有な推理方法です。例えば「すべての人間は死ぬ、ガイウスは人間である、よってガイウスは死ぬ」という推理です。しかしもしガイウスが死ななければ、「すべての人間は死ぬ」という命題は成立しませんから、演繹的推理では出発点となる大前提は推理によって導き出される結論を前提としているという欠陥をかかえています。
 このように帰納と演繹とは、真理を認識するうえで重要な推理なのですが、どちらも一面的な推理にすぎません。したがって「帰納と演繹とは、総合と分析と同じくらい必然的に一つの対をなすもの」(全集⑳五三六ページ)であり、相互に補完しあってはじめて真理を認識することができるのです。このように帰納と演繹の一面性は、経験論と合理論の一面性をも指摘するものとなっているのです。 

(二)ガリレオ・ガリレイ(一五六四~一六四二)

 ガリレイは「近代自然科学の祖」といわれる人物です。彼はみずから望遠鏡をつくって天体観測をおこない、木星の衛星や太陽の黒点を発見しただけでなく、天体観測を積み重ねることによって、コペルニクスの地動説を擁護しました。そのため宗教裁判にかけられ、地動説の放棄を命じられますが、「それでも地球は動いている」とつぶやいたという逸話が残っています。
 また彼は、鉄球落下の実験により、アリストテレス以来の目的的自然観をうち破り、機械的、力学的自然観に道をひらいた人物としても有名です。それまで目的因のちがいにより、軽いものは重いものよりも落下速度が遅いと考えられていたのですが、彼は重さの違う鉄球を斜面に転がす実験と観察を繰り返すことによって、重さによる落下速度に違いがないことを証明し、自然界に目的因は存在しないことを明らかにしたのです。それと同時に、鉄球落下の実験・観察をつうじて「落下距離は落下時間の二乗に比例する」という落下の法則を発見しました。
 こうした観測の結果を定量化し、それを実験によって検証するという自然科学の方法論を確立することで、彼はベーコンをさらに一歩進める科学的な自然探究の方法を明確にしました。それは一つには、自然現象の原因の探求は、アリストテレスまたはスコラ的な形相因や目的因の探究にあるのではなくて、自然のなかに存在する普遍性、必然性の探究にあることを示しました。もう一つは、法則性、必然性の把握は、対象となる自然現象を単純な要素に分解することをつうじて普遍的要素を取り出し、次いでこの普遍的要素を総合することによってそれが自然現象と一致するか否かを実験によって確かめるという、分析と総合の統一という方法によって可能となることを明らかにしたのです。

デカルト(一五九六~一六五〇)

 デカルトは、その合理主義によってはじめて正面から近代哲学の道を切りひらいたところから、「近代哲学の父」とも「大陸の合理論の祖」ともいわれる人物です。ヘーゲルは、彼のことを「再び仕事を完全に発端から始めて、哲学の地盤を新しく形成した巨人である。事実この地盤に哲学は一千年も経過した後にめて立ち戻った」(『哲学史』下の二、七四ページ)と規定しています。
 「一切の前提を無視し自由にして単純な同時に大衆的な仕方で、大衆的な思想そのものと全く単純な諸命題とから始めて、内容を思想と延長又は存在に帰着せしめ、思想に言わばこのようなそれの対立者をうち立てた事がこれである」(同)。「一切の前提を無視」とは、教会の権威とスコラ哲学とを無視したことを意味しており、「自由にして単純な」方法とは「思想は自己自身から始めねば」(同七七ページ)ならないという方法でした。
 そのためには、まずすべてのものを一度疑ってみることが必要であり、すべてを疑い尽くした後になお残る確実なものが、疑っている「われ」自身が存在するということであり、かつその「われ」が疑っている、つまり「思惟している」という事実でした。そこから「われ思う、ゆえにわれあり(cogito, ergo sum)」という有名な「全く単純な諸命題」が引き出されることになります。
 この命題には、大きくいって三つの意味がありました。一つには、思惟する「われ」を絶対的なものとしてとらえることによって、近代的な自我の原理を提示しました。一人ひとりの「われ」は、主体的に思惟する存在として尊重されなければならないという「個人の尊厳」の思想がここにはじめて明確に示されたのです。ここにデカルトが「近代哲学の父」とよばれる理由があるのです。二つには、すべての与えられたものは疑わなければならないが、「われ」が理性にしたがって「思う」ところのものだけは、信じることができるとして、理性を唯一の審判者とする合理論を確立しました。近代自然科学の発展をもたらしたものが、理性的な学問である数学であったところから、彼は数学こそ唯一の真実な学問的方法であると考え、数学の方法にしたがって、理性により真理と考えた根本原理から一つずつ演繹する演繹的推理によって世界全体をとらえようとしたのです。三つには、「われ思う、ゆえにわれあり」の命題から、世界の根本的存在を思考と存在の二元としてとらえる「デカルトの二元論」を引き出し、「思考と存在とはどういう関係にあるか」(全集㉑二七八ページ)という近代哲学の根本問題に道をひらいたのです。
 ここでデカルトの世界創造論をみていきましょう。そこにはすでに合理論のもつ積極、消極の二つの側面がはっきり示されているのです。まず彼は、世界を生みだした根本原因を無限実体としての神ととらえます。彼は他のものに依存せず自己自身によって存在するものを「実体」としてとらえ、それを神としてとらえたのです。デカルトの神の存在証明は、アンセルムスとは異なる「理性的な」証明方法ですが、それはともかく理性によって神という現実には存在しないものの存在を証明するところに、早くも合理論の観念論的性格があらわれています。
 理性は思惟の力によって具体的、個別的なものから抽象的、普遍的なものへと上昇していきます。その抽象化、普遍化こそが事物の法則性、必然性をとらえることになる反面、その抽象化、普遍化が客観的事物から切りはなされるとき、それは観念論となるのです。
 合理論には、非合理的なものを排除して論理的完全性をもって真理とするという積極面と、観念論におちいりやすいという消極面の両面があることをみておかなくてはいけないのであり、デカルトが神の存在を合理的に証明したことは後者の一例ということができるでしょう。
 次に彼は、この無限実体としての神から演繹して、第二原因としての有限な実体、つまり現実の客観世界を構成する二つの有限実体が産出されるとします。すなわち「われ思う、ゆえにわれあり」の根本命題にもとづき、「われ」から「物体」という有限実体を、「思う」から「精神」という有限実体を導き出します。その論理の展開には問題があるとしても、彼が世界の根本を「物体」と「精神」としてとらえた「二元論」は、理性の積極的側面を示したものであり、「デカルトの二元論」は近代哲学に大きく貢献することになるのです。
 さらに彼は理性にもとづいて「実体」概念を展開し、実体は性質をもつ、性質には実体の本質的性質としての「属性」と第二次性質としての「様態」があるととらえます。そして物体の属性は「延長」であり、物体の様態は「位置、形状、運動」とされ、他方精神の属性は「思惟」であり、その様態は「感情、意志、表象」とされ、この属性と様態により個々の事物が規定されるとして、デカルト流の世界図式論が示されることになります。この「属性」「様態」論によって、再びデカルトは観念論の立場に舞い戻ったということができます。というのも、「属性」「様態」というカテゴリーは観念の所産にすぎないのであって、今日的科学の水準からすれば、もはや何らの意義をももたないカテゴリーにすぎないからです。
 このようにデカルトの世界図式論は、合理論のもつ論理的に物事を考え、世界の法則性、必然性を明らかにするという側面と、合理論のもつ世界創造という観念論の側面とが、見事なまでに混在し、「合理論」とは何かを象徴するものとなっています。理性によって世界の根本原理をつかみ、そこから演繹して世界を創造しようとする合理論は、デカルトからスピノザ、次いでライプニッツ、ヴォルフに引きつがれ「大陸の合理論」とよばれることになります。
 他方、デカルトは「物理学の内部では、物質が唯一の実体であり、存在と認識の唯一の根拠である」として、物理学にかぎっては唯物論の立場にたち、物体の運動をすべて機械的に説明することによって、一八世紀の機械的唯物論の先駆者ともなったのです。彼が動物をも一種の自動機械と考えていたことは有名な話です。この機械的自然観は目的的自然観を全く認めないという一面性から、ついにはラ・メトリの『人間機械論』などにつながっていくのです。
 世界には生命体、有機体が存在します。生命体には、生物という自然的生命体と同時に、国家、政党、企業、労働組合、民主団体などの社会的生命体も存在します。これらの自然的、社会的生命体は、いずれも機械とは異なり、たんなる部分の寄せ集めから成るものでもなければ、同じことを繰り返しているものでもなく、一個の生命あるものとして、内に目的をもち、日々運動、発展していく存在であって、バラバラに解体されればその生命を失ってしまいます。
 生命体のもつ内的目的とは、生命体が生命体として主体的に生きていくために必然的にもっている無自覚的あるいは自覚的目的を意味しています。あらゆる生命体は、この内的目的にしたがって発展するところに、生命をもたない無機物とのちがいがあるのです。したがって、デカルトの機械的自然観は、自然の一部をとらえるには正しいものの見方ではあっても、自然全体をとらえる見方となると一面的だといわざるをえなくなるのです。ヘーゲルは自然を大きく機械的関係と目的的関係の二つに分け、さらに機械的関係には、狭義の機械的関係と化学的関係があることを明らかにしました。エンゲルスはこの区分を「その時代にとっては完全だった」(同五五七ページ)と評しています。
 生命体は、その肉体に相当する部分は機械的または化学的関係として存在し、その精神に相当する部分は目的的関係として存在する、機械論と目的論の統一として理解しなければならないのです。
 こうして一七世紀の唯物論は、機械的唯物論としての制約をもつことになるのであり、そこから抜け出して弁証法的自然観に到達するには、先にみた「三つの大発見」(同五〇七ページ)を必要としたのです。