『科学的社会主義の哲学史』より

 

 

第八講 近代哲学②
    一七、一八世紀のイギリス唯物論と
    大陸の観念論

五、一七、一八世紀のイギリス唯物論

イギリス唯物論

 前講で学んだように「すべての哲学の、とくに近世の哲学の、大きな根本問題は、思考と存在とはどういう関係にあるかという問題」(『フォイエルバッハ論』全集㉑二七八ページ)であり、近世の哲学のさまざまな潮流をもっとも大きな枠組みでくくると、唯物論か観念論かの問題となります。この問題に先鞭をつけたのが、ベーコンに始まるイギリス唯物論であり、近代哲学も古代ギリシアと同様唯物論で幕を明けることになります。
 イギリス唯物論に属するホッブス、ロック、バークリ、ヒュームには大きく二つの側面があります。一つは認識論において経験論の立場にたつことから、イギリス唯物論は「イギリス経験論」ともよばれています。もう一つは、前講で学んだように、唯物論は必然的に社会変革の思想に向かわざるをえなくなるのであり、イギリス革命と時代を共有したイギリス唯物論のこの側面は、「イギリス啓蒙思想」とよばれています。このイギリス啓蒙思想に属するのはホッブス、ロックです。
 唯物論が社会変革の思想につながる理由について、マルクスは次のように述べています。
 「唯物論が必然的に共産主義や社会主義につながるということを見ぬくには、何もたいした洞察力を必要としない」(「聖家族」全集②一三六ページ)。というのも、唯物論にしたがって「人間がそのすべての知識や知覚やその他を、……感性界における経験からつくりだすものだとすると、人間がそのなかで真に人間的なものを経験するように、……経験の世界をしつらえることが大切なことになる」(同)からです。

イギリス啓蒙思想

 このイギリス啓蒙思想は、第九講で学ぶように、フランス啓蒙思想を生みだし、フランス啓蒙思想は「直接に社会主義にそそいでいる」(同一三一ページ)のです。「啓蒙」とは「蒙をく」、つまり無知な者に合理的な考えを身につけさせることを意味しており、一七、一八世紀のヨーロッパにおける政治革新の思想が「啓蒙思想」とよばれています。
 啓蒙思想には二つの側面があります。一つは、唯物論の立場から現実を直視し、その非合理な側面を厳しく批判するという側面であり、もう一つは、理性によって理想社会を実現しようとする側面です。後者の場合は、理性によって頭のなかから理想社会を展望するところから、観念論にもなりうる側面をもっており、これがやがては空想的社会主義につながっていくことにもなるのです。理想には、現実を直視することから生まれる唯物論的な理想と、現実から切りはなされた観念論的な理想、つまり空想とがあることをみておかなければなりません。
 イギリス啓蒙思想は、自然法ないし自然権思想と社会契約論とをその骨格としています。自然法思想とは、実定法に優先し、実定法を規定する永遠不変の法が存在し、この自然法のもとにおいて人間は生まれながらに人間としての自由や平等の権利をもつという「天賦の人権」思想です。社会契約論とは、自然法思想と結合して、自由・平等な個人が主体となり、各人の権利を守るためにたがいの間に契約をして国家をつくったとする理論であり、国家の起原を人民の合意による社会契約に求めるのです。
 ここには、自由や平等を人間の本質的価値としてとらえようとする合理主義の積極性があらわれていますが、同時に、実定法以前に自然法が存在するとか、国家・社会が契約によって成立したとするのは、何ら事実の裏付けのない観念論的議論にすぎません。契約が拘束力をもつようになったのは、資本主義の台頭により商品交換が社会的になってからのことであり、近代への移行が「身分から契約へ」といわれるところにもそれが示されています。社会契約論自体その意味では近代を象徴する理論なのですが、国家は古代社会から存続しているのですから、それを近代法の理論で説明することは、所詮フィクションにすぎません。
 こうした二面性をもちながらも、イギリスで始まった啓蒙思想は、一八世紀のフランス啓蒙思想に発展的に継承され、フランス大革命に結実することになります。日本の自由民権運動もフランスの啓蒙思想の影響を受けたものでした。このフランス大革命の影響のもとに、一九世紀前半にヨーロッパ全体に社会主義思想が広まり、そのなかからマルクス主義の学説が誕生することになります。
 「近代の社会主義は、……その理論上の形式からいえば、それは、はじめは、一八世紀のフランスの偉大な啓蒙思想家たちが立てた諸原則を受けついでさらに押しすすめ、見たところいっそう首尾一貫させたものとして現われる」(『空想から科学へ』全集⑲一八六ページ)。
 その意味でイギリス啓蒙思想は、マルクス主義の学説につながる「社会にかんする哲学」の祖として、近代哲学の扉を大きく押し広げたということができるでしょう。
 こうしてイギリス唯物論は、「認識論」における経験論、「社会にかんする哲学」としての啓蒙思想という二本柱において、哲学史上その名を残すことになるのです。

(一)トマス・ホッブス(一五八八~一六七九)

 ホッブスはその認識論において、イギリス唯物論の創始者ベーコンの唯物論哲学を継承し、体系化すると同時にピューリタン革命をつうじて自然法思想と国家の原理を深め、イギリス啓蒙思想の祖となった人物です。
 まず経験にもとづく認識論の問題についていえば、彼はベーコンにならって認識の第一の源泉を経験から生じる感覚におきます。彼は、人間と動物とが異なるのは、人間は言語をもつことによって個別的な感覚を抽象化するところにあり、普遍とは抽象から生まれた記号にすぎないと考えました。したがって学問とは経験を抽象化した記号の操作にすぎないとして、幾何学を学問の模範とし、すべてを力学的な運動としてとらえようとしました。
 マルクスの言葉を借りれば、ベーコンの唯物論では「物質は、詩的な=感性的なかがやきにつつまれて人間の全体にほほえみかけ」(全集②一三四ページ)ていたのに対し、ホッブスの唯物論では「感覚はそのはなやかさを失い、幾何学者の抽象的感覚」(同)となって「唯物論は人間ぎらいとなる」(同)のです。このようにホッブスはベーコンの経験論を力学的運動として体系化しようとしたのですが、「しかし知識と観念の起源が感性的世界にあるというベーコンの根本原理を、それ以上くわしく基礎づけること」(同)はせず、その仕事はロックが引き受けることになります。
 他方彼の啓蒙思想はその代表作『リヴァイアサン』(教会権力から解放された国家の意)における自然法思想と社会契約にもとづく国家論に示されています。「クロムウェルと時を同うした彼はその時代の大事変たるイギリス革命のうちに、国家および法の原理について深く考える機会を見出した」(『哲学史』下の二、一八〇ページ)のです。彼はまず人間を自然状態と社会状態に区別します。自然状態においては自然法が存在し、人間はすべて平等であったとされます。しかしアリストテレスのいう「ゾーン・ポリティコン(ポリス的動物)」としてではなく、彼は、自然状態のうちにある人間は「万人の万人にたいするたたかい」のうちにあると考えました。
 この自然状態から抜け出すために、人々は社会契約によって国家をつくり出し、社会状態に移行したというのです。したがって社会契約の目的は人民の平和と安全を保つことにあり、この目的を実現するために人民はお互いに自らもつ権利を国家に譲り渡すわけですから、国家は絶対的権力をもたねばならないとして、専制君主制を肯定しました。
 にもかかわらず、彼が啓蒙思想の祖とされるのは、彼の社会契約論が「国権の根本をわれわれ自身のうちにあり、われわれがわれわれ自身のものとして認める諸原理に帰着」(同一八一ページ)させようとして、王権神授説を批判し、国家権力が人民に由来することを明らかにしたところにあります。またそこから、権力者の統治の意志は権力者としての特殊的意志ではなく、普遍的意志でなければならないとして、後にみるルソーの「一般意志」に通じる見解を示していることも、啓蒙思想として評価されるべきものでしょう。

(二)ジョン・ロック(一六三二~一七〇四)

 ロックは、イギリス経験論を確固たる基礎のうえに確立した人物です。その偉大さは、経験に由来する認識論をより深化、発展させると同時に、ホッブスの理性にもとづく啓蒙思想をより民主的なものに発展させ、イギリスの名誉革命を政治的に代表するとともに、一八世紀のフランス啓蒙思想にも大きな影響を与えました。彼の認識論は、主著『人間悟性論』にあらわされています。彼は、まず人間の心は「タブラ・ラサ(白板)」であって、それに書き込みをするのは経験のみだと考えます。言いかえると、人間の心には生まれながらに存在する観念は存在しないというのです。
 ロックの偉大さは、経験には、外界がわれわれの五感に与える「感覚」と、われわれ自身の心の作用としての「反省」との二種類があることを明らかにしたところにあります。それはいわば「感性」と「悟性・理性」とを区別したものであり、イギリス経験論が観念論的経験論と唯物論的経験論に分離していく要因をもっていることを予見したものといえるでしょう。
 ロックは、この感覚と反省という二種の経験によってわれわれの心に二つの観念が与えられるとして、それを単純観念と複合観念ととらえ、そのうえで悟性は「感覚」によって与えられた単純観念を「反省」によって複合観念に高めるとします。その意味では、「反省」をも経験に由来するものととらえることによって、ロック自身は唯物論的経験論の立場を貫いたということができます。
 こうしてロックはその『人間悟性論』のなかで、「ベーコンとホッブスの原理を基礎づけ」(全集②一三四ページ)、「健全な人間の感覚およびこれにもとづく悟性よりほかに、これと異なる哲学などというものはありえない」(同一三五ページ)として唯物論のみが正しい哲学だと主張したのです。
 次にロックの啓蒙思想をみてみましょう。ロックもホッブスと同様、人間を自然状態と社会状態に区分します。しかしその自然状態は、ホッブスのいう「万人の万人に対するたたかい」ではなく、人々はすべて自由で平等な存在であり、所有権の主体として存在していたととらえます。そのうちにあって所有権の絶対の思想こそ、ブルジョアジーの利益を直接に代表するものにほかなりませんでした。彼は世界のすべての事物はもともと人類の共有物であったところ、人々が自己の自由な身体にもとづいて労働を加えることによって、その生産物を自己の所有物にしたとして、所有権の絶対というブルジョアジーの根本的要求に応えることになります。この所有権思想はヘーゲルの『法の哲学』に引きつがれています。その所有権が第三者の暴力によって侵害されるとき戦争状態となるのであって、それを防いで生命、自由、財産を守るために、人々は社会契約を結んで権力を統治者に信託すると考え、当時支配的だった王権神授説を批判したのです。
 ロックの啓蒙思想は、最高の権力は人民にあるとする人民主権の立場から、人民の生命、自由、財産を守るという目的で人民が政府に統治を信託するというものですから、もし政府がその信託の目的に反して、人民の生命、財産を侵害するときは、人民はこれに抵抗し、新しい統治者を自由に選択しうるとする人民の抵抗権、革命権を認める画期的なものでした。このロックの人民主権、生命、自由、財産権の保障、人民の抵抗権、革命権の思想は、アメリカの独立宣言やフランス革命に大きな影響を与えることになります。一七七六年のアメリカの独立宣言は、次のように宣言しています。
 「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる。また、これらの権利を確保するために人類のあいだに政府が組織されたこと、そしてその正統な権力は被治者の同意に由来するものであることを信ずる。そしていかなる政治の形体といえども、もしこれらの目的を毀損するものとなった場合には、人民はそれを改廃し、かれらの安全と幸福とをもたらすべしとみとめられる主義を基礎とし、また権限の機構をもつ、新たな政府を組織する権利を有することを信ずる」(宮澤俊義他編『人権宣言集』一一四ページ、岩波文庫)。
 しかし自由、平等を人間のもつ普遍的価値としてとらえたことは正しいとしても、それを造物主(神)によって与えられた「天賦の人権」とする観念論的議論に賛同することはできません。問題は、なぜ人間にとって自由および平等をはじめとする民主主義が普遍的価値をもち、その価値が「権利」として承認されるに至っているのか、さらにいえばなぜ人間は価値意識をもっているのかが、唯物論的に根拠づけられなければなりません。それは言いかえると、唯物論的な「人間とは何か」という「人間論」の探究にかかわる問題であり、それは前講で学んだように、ルソー、ヘーゲルを経て、マルクス主義の「人間論」で解明されることになるのです。
 また国家成立の根拠についても、観念論的な社会契約論に何の根拠もないことも明らかであり、国家がいつ、どのようにして、何を目的に誕生したのかの解明も、マルクス主義まで待たねばならないのです。イギリスの啓蒙思想が、自由、平等を人間としての基本的権利、基本的人権として承認したこと、社会契約論をつうじて人民主権論に達したことは高く評価しながらも、その観念論的根拠の誤りは誤りとして、しっかり認識しておくことが必要だと思われます。

(三)バークリ(一六八四~一七五三)

 バークリは、ロックの経験論から出発しながら主観的観念論に到達した人物であり、ここに経験論は入り口における唯物論にすぎないことが証明されることになります。バークリは、レーニンの『唯物論と経験批判論』(レーニン全集⑭)のなかで、ロシアの経験批判論者の先駆者として紹介されていることでも有名です。バークリの出発点となるのは、「真理の源泉は彼にとっては経験であり又は知覚された存在であるという事」(『哲学史』下の三、六ページ)でした。ここからバークリは「事物が存在するとは知覚されることである」として、存在イコール知覚ととらえるのです。彼の考えの根底にあるのは、スコラ哲学における唯名論であり、存在するものは個体のみであって個別を超える抽象的なもの、普遍的なものは知覚しえないから、単なる名前にすぎないのであって実在しないと考えたのです。彼はこの唯名論をロックの経験論に結びつけて抽象的、普遍的なものは存在しないというにとどまらず、個体そのものも単なる感覚の複合にすぎないとして否定する物体否定論にまで到達するのです。
 すなわち、われわれは経験によって様々な感覚、知覚をうることができます。例えば色、味、香、形等々の感覚です。われわれが事物を存在すると考えているのは、このような様々の感覚を寄せ集めて存在していると考えているにすぎない、存在するとされるのも感覚をつうじてであり、存在しないとされるのも感覚をつうじてである。したがって存在するとされる物体は「感覚の複合」にすぎないのであって、感覚を超えた物体なるものは名前のみの存在であって実際には存在しない、というのです。
 この主観的観念論への反論は、レーニンが『唯物論と経験批判論』で三つの観点から展開しています。一つは、「感覚の複合」=物体というのであれば、感覚する「人間も、また一般にどんな生物もそのうえにはいなかったし、またいることができなかったような状態」(レーニン全集⑭八〇ページ)のもとで、地球という物体が存在していた事を否定するのか、というものです。二つは、「感覚の複合」が物体だというけれど、感覚を生みだすのは、脳という物体の機能であるから、物体(脳)が感覚を生みだしているのであって、「感覚の複合」をもって物体というのはそれを逆にとらえているではないか、というものです。三つは、「感覚の複合」=物体ということになれば、感覚する「私」が存在しなければすべての物体が存在しないという唯我論になってしまうというものです。「この哲学のばかばかしさは、それが唯我論に、ある哲学する個人だけを存在するものとみとめるという結論に到達する点にある」(同一〇四ページ)のです。

(四)ヒューム(一七一一~一七七六)

 ヒュームは経験論から出発して懐疑論、不可知論に至った人物であり、「彼が歴史的に著名な理由はカントが本来その哲学の出発点を彼から採っている点にある」(『哲学史』下の三、一二ページ)とされています。カントはヒュームによってそれまでの合理論という「独断のまどろみ」から目覚めて、理性批判に向かったと述べています。
 ヒュームも経験にもとづく感覚、知覚こそ認識の源泉だとするのですが、しかし経験は必然性、普遍性までは教えてくれないとして不可知論におちいったのです。彼が例にあげたのは因果法則でした。私たちは経験をつうじて因果法則という必然性を認識しうると考えているけれども、経験が教えてくれるのはAが存在すれば、それに続いてBという変化が生じるという継起する変化だけであって、それを因果法則という必然性ととらえるのはたんなる習慣にすぎないのであって、必然性は何ら経験のうちに含まれた客観的なものではない、というのです。
 確かにヒュームの問題提起は鋭いものをもっており、経験は事物の普遍性、必然性まで示すものではないというのはある意味で正しいといわなければなりません。この点に関してのエンゲルスの『自然の弁証法』(全集⑳)における批判を紹介しておきましょう。
 「観察による経験だけでは、けっして必然性を十分に証明しつくすわけにはいかない。ポスト・ホック(それのあとに)ではあるが、プロプテル・ホック(それのゆえに)ではない」(同五三七ページ)。このことはきわめて正しいが、それはあくまで「観察による経験」についてのみ正しいのであって、「実践による経験」までを考察すると正しいとはいえない。「必然性の証明は人間的活動のうちに、実験のうちに、労働のうちにある。すなわち、もしわたしがポスト・ホックをつくりだすことができるなら、そのポスト・ホックはプロプテル・ホックと同一となるのである」(同)。
 観察による経験だけではAのあとにBが生じることを知りうるのみですが、実践による経験をつうじてAからBをつくり出すことができれば、それによってAB間の因果法則という必然性が「単なる習慣」という主観的なものではなくて、客観的なものであることを証明したことになります。その意味で「人間の活動が因果性の試金石となる」(同五三八ページ)のです。人間の認識は実践をつうじてポスト・ホックからプロプテル・ホックへと前進し、蓋然的因果性から必然的因果性へと前進していくのです。
 さらにエンゲルスは『フォイエルバッハ論』(全集㉑)において、「世界が認識できるということに、あるいは少なくともあますところなく認識できるということに、異論をとなえている」(同二八〇ページ)ヒューム、カントの不可知論は「哲学的妄想」(同)にすぎず、それに「たいする最も適切な反駁は、実践、すなわち実験と産業とである。もしわれわれがある自然現象を自分自身でつくり、これをその諸条件から発生させ、そのうえそれをわれわれの目的に役だたせることによって、この自然現象についてのわれわれの認識が正しいことを証明することができれば」(同二八〇~二八一ページ)、そのとき不可知論は消滅するとして、『自然の弁証法』における「活動が因果性の試金石」との論理をより詳細に説明しています。
 不可知論とは、実践をつうじて認識が無限に発展することを見ようとせず、また認識の歴史的制約を絶対化する哲学上の議論にほかならないのです。

 

六、一七、一八世紀の大陸の観念論

大陸の観念論による世界創造

 イギリス唯物論に対抗して登場するのが、デカルトに始まる一七、一八世紀の大陸の観念論です。この大陸の観念論に属するスピノザ、ライプニッツ、ヴォルフにも大きく二つの側面があります。
 一つは、大陸の観念論は認識論において、経験論に対立する合理論を対置したことです。彼らは経験から生じる感覚は信頼できないとして、人間は他の力をかりることなく理性のみで真理を認識しうるとの立場にたったところから、一般に「大陸の合理論」とよばれています。
 非合理的な迷信や外的権威などをしりぞけ、「いっさいのものが、理性の審判廷に立って、自分が存在してもよい根拠を立証するか、それができなければ、存在することを断念しなければならない」(全集⑲一八六ページ)とされたのであり、合理論は近代を特徴づける根本原理となりました。
 しかし大陸の合理論は、たんにすべての物事を合理的に考えるという枠組みを越えて、理性にもとづく世界の根本原理なるものを唱え、そこから世界のすべてを演繹的に根拠づけようとする世界図式論を展開することによって観念論の立場にたったのです。
 エンゲルスは『フォイエルバッハ論』において観念論を次のように規定しています。
 「自然にたいする精神の根源性を主張し、したがってけっきょくなにかの種類の世界創造を認めた人々は――そしてこの創造は哲学者たちの場合……キリスト教におけるよりもずっとこみいったばかばかしいものになっていることが多い――観念論の陣営をつくった」(全集㉑二七九ページ)。
 エンゲルスが『フォイエルバッハ論』より先に著した『反デューリング論』(全集⑳)では、デューリングの「世界図式論」を「なんらかの種類の世界創造」の一例としてみているので紹介しておきましょう。デューリングこそ大陸の観念論者の世界創造の図式を継承した一人にほかならなかったのです。デューリングは「取り扱うのは、もろもろの原理であり、外界からではなく思考のうちからみちびきだされた形式的諸原則であって、それらを自然と人間界に適用しなければならない」(同三三~三四ページ)と主張しました。
 エンゲルスはこれを批判し、「デューリング氏の見解は、観念論的であり、問題をまったく逆立ちさせ、現実の世界を思想から、すなわち世界のできるまえからどこかに永遠の昔から存在している図式……から組み立てるものである」(同三四ページ)としています。
 デカルトに始まる「世界図式論」は、スピノザ、ライプニッツ、ヴォルフへと形を変えながらも引きつがれていき、いずれも壮大な観念論的な世界図式の体系につくりあげられていきます。しかしそのすべてが「キリスト教におけるよりもずっとこみいったばかばかしいものになっている」のであって、現代においてなおみるべき哲学的遺産はほとんど存在しないということができるでしょう。
 このように「大陸の合理論」の本質は観念論にあるにもかかわらず、現在でもなお「大陸の合理論」とよばれることはあっても「大陸の観念論」とよばれることがないのは、その哲学的本質を曖昧にするものとして問題だといわなければなりません。そこで本講座ではこれまで「大陸の合理論」とよばれてきた哲学的潮流を、「一七、一八世紀の大陸の観念論」とよび、その認識論が「合理論」であるととらえることにします。因みにマルクス、エンゲルスは「大陸の合理論」という用語は使用しておらず、「一七世紀の形而上学」(全集②一三〇ページ)とよんでいます。
 大陸の観念論の世界図式論がみじめな破産を示しているのに対し、唯物論の立場にたった世界の探究は、未解明の分野を数多く残しながらも、二〇世紀の量子論にもとづく宇宙論によって大きく前進し、普遍的、客観的真理に日々接近しつつあるのです。また四十六億年の地球の歴史のなかで、三十五億年の生命誕生と生物の進化のあゆみ、人類の出現が明らかにされ、他方で大脳生理学の発展によって、人間の精神も脳の神経細胞の働き以外の何ものでもないことが解明され、精神のもつ神秘性も取り除かれてきました。
 こうして近代という時代は、観念論的世界観に対立する唯物論的世界観の優位性を疑問の余地なく誰の目にも明らかに示すものとなった時代ということができるのです。

大陸の観念論の形而上学

 大陸の観念論の二つめの側面は、これも認識論に関連しているのですが、彼らがマルクス主義でいう「形而上学」の立場にたっていたということです。マルクス主義の「形而上学」とは「弁証法」に対立する概念であり、「事物とその思想上の模写である概念とは、個々ばらばらな、ひとつずつ順次に、他のものと無関係に考察されなければならない、固定した、不動の、一度あたえられたらそれっきり変わらない研究対象」(全集⑳二〇~二一ページ)と考えるものの見方です。
 マルクスは、大陸の観念論者であるデカルト、スピノザ、マルブランシュ、ライプニッツをまとめて「一七世紀の形而上学」(全集②一三〇ページ)とよんでおり、ヘーゲルは、ライプニッツ、ヴォルフの哲学を「カント哲学以前にドイツに見られたような古い形而上学」(『小論理学』上一三五ページ)とよんでいます。ヘーゲルの形而上学批判のポイントは、彼らが「二つの対立した主張のうち、一つが真理で他は誤謬でなければならない」(同一四三ページ)という「あれかこれか」の立場にたっているが、それは「ドグマティズム(一面観)」(同)にすぎないとする、弁証法の観点からの批判にあります。
 問題は「大陸の観念論者」たちが、なぜ形而上学の立場にたったのかにあります。それは、彼らの理性を重視するという観点に直接つながっていたのです。彼らが理性を重視し、理性によって真理であると判断する基準としたのは、数学的方法、とりわけ幾何学的方法における「論理的完全性」でした。
 数学、幾何学の方法論は、古代ギリシアのユークリッド(エウクレイデス)によって確立されました。彼の『ストイケイア(幾何学原本)』全十三巻は聖書に次いでよく読まれた書物だとされており、二千年にわたりヨーロッパの合理論の柱となってきたのです。
 それはまず対象の本質規定である「定義」から出発し、定義から基礎となる命題としての「公理」(無証明命題)が引き出され、この定義、公理を基礎として証明された命題として「定理」がつくられ、こうして命題から命題へと演繹的推理にもとづいて証明していく方法をつうじて、その体系が論理的に組み立てられています。
 その場合の数学的に証明する際に用いられる論理が、アリストテレス哲学で解明された「同一律(A=A)」であり、言いかえると論理の展開に矛盾がないという「矛盾律(A≠~A)」なのです。つまり単純な、根本的命題から、より複雑な、派生的命題へと演繹的に証明していくときに用いられる「論理的完全性」とは、同一律にてらして問題がない、つまり矛盾がないというものであり、そういう同一律にもとづく証明を論理的完全性とよんでいるのです。
 第四講で学んだように、アリストテレスは形式論理学をほとんど訂正の余地のないほど完全に仕上げた人物ですが、形式論理学の公理となるのがほかならぬこの同一律でした。したがって合理論が求める真理の基準としての数学的方法にもとづく論理的完全性とは、形式論理学上の論理的完全性、つまり同一律の貫徹性にほかならないのです。こうして大陸の観念論は、一方でその合理論により、あらゆる非合理的な矛盾や偏見を排除するという近代哲学全体を貫く根本思想を確立しながら、他方でその合理論によって「形而上学」に結びついていったのです。
 以上大陸の観念論の二つの側面をみてきました。いずれも認識論に関連するものですが、一つは合理論であり、もう一つは形而上学の側面でした。近代哲学のその後の発展は、一方で観念論から唯物論へと前進し、他方で合理論の積極面は保存しながら、形而上学から弁証法へと真理に向かって前進していくことになります。

(一)スピノザ(一六三二~一六七七)

 スピノザは、オランダでユダヤ系大商人の子として生まれます。ヨーロッパ最初のブルジョア革命を実現させたオランダの自由な環境のもとで何ものにもとらわれず、デカルトの研究に力を注ぎます。彼の処女作は「幾何学的方法によって証明されたデカルトの根本原理」でした。
 彼はキリスト教的な人格神を認めず、汎神論という神学の衣をまとった唯物論の立場にたったところから、無神論者とみなされました。そのためユダヤ教からもキリスト教からも危険分子として追及され、彼の主著『エティカ(倫理学)』は、没後彼の友人によってやっと出版されたほどでした。しかし、彼の観念論的な世界図式論は死後影響力を広げ、ハイネは一八三四年に出版した『ドイツ古典哲学の本質』(岩波文庫)において、スピノザを「今日のドイツでは思想界の唯一の支配者」(同一〇六ページ)と紹介しています。彼は思想の自由を守るために、多くの援助や大学教授の地位を断り、屋根裏で工学レンズを磨きながら貧しい生活を送り、哲学の研究に生涯をささげ、独身のまま四十四歳でその生涯を終えました。
 スピノザ哲学の特徴は、徹底的に幾何学的方法にしたがって、定義から出発し、公理、定理と順次演繹的に推理するという合理主義を徹底させる世界図式論によって、デカルト的世界図式の哲学を乗り越えようとしたところにあります。
 彼の世界図式論は、「自己原因(causa sui)」の定義に始まります。世界には世界を生みだした根本原因、第一原因があるはずであり、それを自己が原因となって自己を産出する「自己原因」と考えました。次いでその「自己原因」は神という無限にして唯一の「実体」だとします。デカルトが一方で実体を他のものに依存せず自己自身によって存在するものとしながら、他方で神、精神、物体の三つを実体と主張することは論理の矛盾であると批判します。実体は他のものに依存しない自己原因として唯一のものでなければならず、かつ唯一のものということは、他のものの制約を受けることのない無限の存在でなければならないというのです。こうしてこの唯一の無限実体としての神から、いかにして有限な精神界、物体界が生じるのかを説明するために、実体――属性――様態という三つのカテゴリーが順次定義されることになります。
 まず、属性とは、実体の本質的構成部分であり、それがデカルトのいう「思惟と延長」、つまり精神と自然だとされます。延長を神の属性と考えることは、万物のうちに神が存在すること、言いかえるとキリスト教の神のように、世界のうえに超越的に神が存在するという超越神を否定し、汎神論の立場にたつことになります。
 次に、「様態とは実体の変相または他者のうちにあり他者によって理解されるもの」(『哲学史』下の二、一一九ページ)です。言いかえると様態とは、神の属性から生じる神のあらわれであり、神そのものではないから他のものによって制限される「有限者そのもの」としての精神界と物体界ということになります。
 このスピノザの世界図式論そのものは観念論的な虚構の産物にすぎませんが、そこには近代哲学の根本問題である「思考と存在との同一性の問題」(全集㉑二八〇ページ)に初めて論及したという功績をみることができます。すなわちデカルトは精神(思考)と物体(存在)の二元論を主張したものの、両者は相互に排斥しあうものであって共通なものは少しもない、と考えました。これに対してスピノザが神の二つの属性とよんでいるものは、ハイネにいわせると「われわれが神を見る見方の形式」(ハイネ前掲書一一二ページ)にすぎないのであって、「この形式は相互にどんなにちがっていても、神つまり絶対的な実体そのものの中では同一」(同)であり、シェリングの「同一哲学の根本原理にぶつかる」(同)というのです。
 つまりスピノザの神における「思惟と延長の同一」の考えは、シェリングのいう精神と自然、主観と客観の同一、ひいては理想と現実の統一を主張する「同一哲学」と根本において同じものだというのです。なおハイネは、スピノザのいう「思惟と延長」という言葉は、「ドイツの自然哲学者のいわゆる『精神と自然』、あるいは『理想と現実』ともいわば同意語」(同)と評していることも紹介しておきます。
 スピノザのもう一つの功績は、この「思惟と延長の同一」「精神と自然の同一」にもみられるように、合理主義をつうじて「形而上学」に向かうのではなく、対立物の統一という基本形式をもつ弁証法に接近していることです。エンゲルスは『空想から科学へ』(全集⑲)において、「近世哲学は、そのうちにも弁証法の輝かしい代表者(たとえばデカルトやスピノザ)がいたとはいうものの、とりわけイギリスの影響によって、いわゆる形而上学的な考え方にますますはまりこんでいった」(同一九九ページ)と述べています。「イギリスの影響」とは、ベーコンの機械的自然観の影響を意味するものでしょうが、ここでスピノザを「弁証法の輝かしい代表者」として紹介していることに注目し、スピノザの弁証法の二つの例を紹介しておきましょう。
 一つは、同一と区別の統一という弁証法です。スピノザの汎神論に対して、すべての事物(人間を含む)のうちに神が存在するということは、神の意志は必然であり善そのものであるから、スピノザは人間の意志も善そのものであり、善悪の区別をする自由もないと主張するものであるとの批判があったようです。
 ヘーゲルはスピノザの弁証法を擁護して次のように述べています。スピノザでは、神と人間とは同一であると同時に区別されている。神の意志は必然であり「善そのもの」(『小論理学』上三一ページ)であって「悪は排除されている」(同)が、神と同一でありながらも神から区別された人間の意志は必然であると同時に自由なのであり、したがって「人間のうちにこそ、区別はまた本質的に善悪の区別として存在する」(同)。人間の意志は、必然のうちに自由をもつことによって善悪を区別するのである。自由と必然は「あれかこれか」という形而上学的関係としてとらえるべきものではなく、弁証法的に統一すべきものであり、スピノザの自由論にはすでにその萌芽がみられる。ヘーゲルは「人は、スピノザが『エチカ』のうちで悪や、感情や、人間の屈従や人間の自由について述べている部分をよく読んでからでなければ、この体系の道徳的帰結について語る資格はない」(同三二ページ)として、スピノザの弁証法を擁護したのです。
 もう一つは、スピノザの「あらゆる規定は否定である(Omnis determinatio est negatio)」(同二八二ページ)という有名な命題に関する肯定と否定の統一という弁証法です。「規定する」とは、例えば「人間は直立二足歩行する哺乳類である」というように、「決定する」「特徴づける」「限界づける」ことを意味しています。一般に規定するとは「規定された事物を単に肯定的なものとのみ」(同)考えているのですが、スピノザは「規定」のなかに肯定と同時に否定をみるという弁証法をみたのです。
 人間を規定するということは、人間を「直立二足歩行の哺乳類」として肯定的に規定すると同時に、人間は類人猿では「ない」として、他のものから区別し、他のものの否定としてとらえるという意味で、「あらゆる規定は否定」なのです。ヘーゲルは、このスピノザの命題にもとづき、無規定の有を規定した「定有のうちには否定のモメントが含まれて」(同)いるととらえました。
 以上二つの例を紹介しましたが、スピノザの深い思索が観念論的な世界図式論からはなれて、個々の事実についての唯物論的な考察にすすんだとき、弁証法という真理認識に到達せざるをえなかったのです。

(二)ライプニッツ(一六四六~一七一六)

 ライプニッツは、アリストテレスに次ぐ博学の人といわれる人物であり、「モナド論」の哲学者として有名であるだけでなく、微分積分法の発見者として数学史上に名を残している人物でもあります。哲学史からいうと、彼はアリストテレスの形式論理学上の公理を唯一補足したとされています。まず彼は合理論の立場から、真理には「永遠の真理(理性の真理)」と「事実の真理(偶然の真理)」の二種類があるとします。
 永遠の真理とは、理性によって見いだされる数学的な真理、つまり論理必然的に演繹される真理であって、その反対を考えることはできないから、この真理認識の原則は同一律にあるとしました。他方事実の真理とは、経験によって帰納的に見いだされる真理とされます。事実の真理は経験的には真理とみなしうる十分な根拠があるが、しかしその反対も考えられないではないのであって、真理であることを論理的には証明しえない真理を意味しています。この真理認識の原則は、「充足理由律(すべて存在するものは、なぜそうあらねばならないのかという十分な根拠をもっている)」にあるとしました。
 ライプニッツは、同一律と充足理由律を形式論理学の二大公理とすることによって、アリストテレスの形式論理学を一歩進めたとされていますが、充足理由律とはエンゲルスのいう「ポスト・ホック」という蓋然的必然性を意味するものにすぎないのではないかと思われます。
 しかし何といってもライプニッツといえば、「モナド論」という観念論的な世界図式論をつくり出したことをあげなければなりません。ヘーゲルは「ライプニッツ哲学は宇宙の叡智性の観念論である」(『哲学史』下の二、一九六ページ)とその本質を規定しています。「宇宙の叡智性」とは、アリストテレスのいう「エンテレケイア(完成態)」に相当するモナドが宇宙全体を支配している「実体」ととらえることを意味しています。アリストテレスは「エネルゲイア」と同様の意味で「それ自身において目的であり同時に目的の実現でもある」(同中の二、三〇ページ)イデアを「エンテレケイア」とよびました。
 モナドは「純粋活動として解されたアリストテレスのエンテレケイア(完成態)であり、自己自身の内における形相」(同下の二、一九七ページ)であって、この活動的なモナドこそ世界のすべての事物の実体をなすものと、スピノザは考えたのです。モナドはある意味でデモクリトスの「アトム」と共通するものですが、アトムは実在しているのに対し、エンテレケイアとしての活動的なモナドは全く観念の所産でしかありません。
 したがってヘーゲルが「ライプニッツ哲学は哲学大系としてよりも世界の本質についての仮説として、すなわち妥当するものとして設定された・形而上学的な規定や表象の与件ならびに諸前提に従っていかに世界の本質が規定されるべきかの仮説として現れる」(同一九五ページ)としているのは適切な表現といえます。ハイネも同様に「モナド説は、これまでに哲学者が考え出したもっともめずらしい仮説のひとつである」(前掲書一〇一ページ)と述べていますが、この仮説はけっして証明されることのない観念論にとどまっているのです。「宇宙の叡智性の観念論」とは、いかにもヘーゲルらしい、しかも適確なライプニッツ哲学の本質規定といわなければなりません。
 このモナド論は、スピノザの汎神論への批判から生まれたものであり、スピノザの唯一実体(神)から展開される合理論的世界図式論に対し、徹底して観念論的な合理論的世界図式論を対置したものということができるでしょう。すなわちスピノザは、唯一実体である神は有限な万物を生みだすと考えたのですが、ライプニッツはそれでは一つの神からどのようにして多様な万物が生じるのかを説明しえないとし、すべての有限な事物のなかには多様なモナドが実体として存在し、このモナドの活動によって多様な物体が生じるとしたのです。
 彼はこのモナド=実体論の根本原理によって全世界を演繹的に説明しようとしました。すなわち一つひとつのモナドは相互に独立的であり、最下位のモナドから成りたっているのが無機的自然、より高度のモナドから成るのが植物界、意識をもつモナドから成るのが動物界、理性をもったモナドから成るのが精神界であると考え、それぞれのモナドは宇宙の創造者としての神の働きによって相互に影響しあっているかのように調和を保っていると考えたのです。しかしこのライプニッツの世界図式論もまた壮大な虚構にすぎず、その後の哲学に何らの影響をも残さなかったのです。

(三)ヴォルフ(一六七九~一七五四)

 ヴォルフは、哲学史上において重要な位置を占める人物ではありません。ただライプニッツの合理主義哲学を一層徹底させ独断論的合理主義哲学をつくり出したところから、一般に「ライプニッツ・ヴォルフ哲学」と称されています。ヘーゲルが『小論理学』で「カント哲学以前にドイツに見られたような古い形而上学」(『小論理学』上一三五ページ)といっているのは、この「ライプニッツ・ヴォルフ哲学」を指しているのです。またヴォルフはこれまでの哲学がすべてラテン語であったものをはじめてドイツ語で論じ、ドイツにおける哲学の普及に貢献したことでも知られています。ヴォルフは、ライプニッツが形式論理学の公理を同一律と充足理由律の二つととらえたのに対し、再び同一律に一本化し、「あれかこれか」の立場からの世界図式論を展開したところから、ヘーゲルによって「古い形而上学」として弁証法的観点からの厳しい批判をあびることになったのです。
 ヴォルフの世界図式論は、「神は存在するか否か」の形式論理学的問題提起にはじまります。そこから神は存在するとの結論をひき出し、神による世界の創造により、すべてを必然的なものととらえる目的論的世界観を展開していきます。しかしヘーゲルにいわせると、「神は存在するかという風に問題を呈出し、その際存在を全く肯定的なもの、究極の真理と考えている。しかし……定有はけっして単に肯定的なものではなく、それは理念にとってはあまりに低く、神にはふさわしくない規定である」(同一三八ページ)ということになります。
 同様にエンゲルスも「あるものは偶然的であるか必然的であるかのどちらかであって同時にその両方ではないとするヴォルフ流の形而上学の無思想性」(全集⑳五二八ページ)を指摘し、あわせて「猫は鼠を食うために、鼠は猫に食われるために、そして全自然は創造主の叡智性をあらわすためにつくられた」(同三四五、三四六ページ)とする「ヴォルフ流の皮相な目的論」(同三四五ページ)を批判しています。
 これだけ聞けば十分であり、これ以上詳細にヴォルフの世界図式論を追いかける必要性は存在しないといっていいでしょう。