● 聴 講(①1:05:47、②47:08、③16:40)

 

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第10講 近代哲学④
     ドイツ観念論(2)

 

今回は、前回の続きであるカント哲学からヘーゲル哲学までを学ぶ。

①カントの二元論
カントは、認識論において「当為の真理」は認識しえないとする不可知論の立場に立ちつつ、他方で『実践理性批判』において「人間としていかに生きるべきか」という「当為」を問題とした。彼はルソーに学びつつ道徳の根本原理を「自由な意志」に置き、神や国家に押し付けられる他律道徳を否定し、人類全体を拘束する普遍的道徳律(自律道徳)を自己の義務として生きることにより、人間は「善(真にあるべき生き方)」に到達し「思考と存在」の二元論は克服されるべき(当為)だと考えた。そして『判断力批判』において、二元論克服の当為からさらに一歩前進させ、精神と自然という二元論を統一する普遍として「内的目的性」という概念を使用し、この概念を使って「思考と存在」、「理想と現実」の同一性を論じた。
このようにカントは『判断力批判』において理想と現実の統一という「理念の思想」は述べたものの、問題を「芸術」と「生命体」に限定し理念一般を論じず、その仕事はヘーゲルへと持ち越される。

②フィヒテ、シェリング
フィヒテは、カント二元論を克服するため、「行為する自我」こそ外界の主人という主観的観念論の立場から「思考と存在の同一性」は論じられるべきだと考えた。彼は観念論の立場に立ちつつも、フランス革命の革命的実践に学び、「理想から現実をつくり出した」のだ。また彼は、「行為する自我(主体)―非我(客体)―自我と非我の統一」を主張し、弁証法の基本形式を明らかにして、ヘーゲル弁証法に大きな影響を与えた。
シェリングは、フィヒテの「絶対的自我の哲学」から出発しながらも、その観念論的側面を批判し、自我と非我、理想と現実の「絶対的同一性」を主張した。つまりフィヒテが「理想から現実へ」という一方向から「思考と存在の同一性」を論じたのに対し、シェリングは「理想から現実へ」、「現実から理想へ」という2方向から全面的に論じた。このシェリングの問題提起がヘーゲルの革命の哲学へ結実する。

③「革命の哲学」の誕生
ヘーゲルは、「思考の最高の形式」である弁証法を完結させ、「理想と現実の統一」としての革命の哲学を打ち立てるという二つの意味で、ドイツ観念論の完結者となった。彼は形式論理学の一面性を指摘することを通じて、「すべてのものは対立している」と捉え、真理は「対立物の統一」にあることを初めて明らかにした。そして『論理学』を通じて真理認識の結節点であるカテゴリーを初めて「包括的で意識的な仕方で叙述した」(マルクス)。また彼は、自身の哲学体系の一部分を拡大して『法の哲学』という独立した著作として出版し、フランス革命を思想的に総括。そこで人間論、道徳論、倫理論、人民主権国家論などをつうじて、革命の哲学を完成した。『法の哲学』もヘーゲル弁証法と並んで科学的社会主義の源泉となりうるものだと、講師は主張する。

④ヘーゲルの「観念論」
このようにヘーゲルは極めて革命的な哲学を打ち立てたにも関わらず、マルクスやエンゲルスから「観念論者ヘーゲル」と称され、今日までその評価は変わっていない。その理由を講師は「ヘーゲルは、きびしい言論統制のもとで弾圧をのがれるために、自身の哲学の革命性を悟られないよう入念な偽装工作を行っている」と強調し、最も入念な偽装工作が行われているのが彼の論理学における「概念論」だと説明する。
ヘーゲルにおける「概念」は、「真にあるべき姿」という「当為の真理」であるにも関わらず、ヘーゲル自身はその説明をせず「具体的普遍」としてのみ論じている。そのため、マルクスやエンゲルスも「概念論」の真意がつかめず、そこにヘーゲルの観念論を見て取ってしまい、いわゆる「ヘーゲルの罠」にまんまと引っかかってしまったと講師は説く。
ヘーゲル『論理学』全体を統一的に理解するには、「概念」を「真にあるべき姿」と理解すること。ヘーゲル哲学の本質は「観念論的装いを持った唯物論」であり、臨終の床で「誰も理解してくれなかった」と嘆いた「ヘーゲルの無念をはらしてやることが私達の責務だ」と講師は話す。

フランス革命を「思想的に完成させる」ことを模索し「理想と現実の狭間」を揺れ動いてきたドイツ観念論は、ヘーゲルに至り、遂に「理想と現実の統一」という「対立物の統一」において決着をつけたともいえる。

弁証法が「本質上批判的であり革命的である」(マルクス)と称される意味を、本講義を通して探りたい。