2013/01/23 講義

 

第10講 近代哲学④
     ドイツ観念論(2)

 

1.カントの批判哲学(つづき)

① カントの道徳論

●『実践理性批判』で道徳論

 ・実践理性とは、人間としていかに生きるべきかという実践に関する理性的判
  断

 ・認識論では当為の真理は認識しえないとする

 ・そこから「カントの二元論」―自然(存在)を対象とする認識論と精神(思
  考)を対象とする道徳論とは次元を異にする「思考と存在」の二元論

 ・道徳とはいかに生きるかの当為を問題とするもの

● カントの道徳論

 ・根本原理をルソーに学んで「自由な意志」に

 ・自由な意志は経験を超えて「善(真にあるべき生き方)」に達し、善に向
  かって生きる義務が道徳

 ・「思考と存在」との二元論は克服されるべきという「当為」にとどまる

 ・近代的自我の主張にもとづく自律道徳により、神や国家によって押しつけら
  れる他律道徳を否定

 ・自律道徳は、自分が満足しさえすればいいという個人的、特殊的な幸福主義
  とは無縁

 ・人類全体を拘束する普遍的道徳律を求める

 ・「汝の意志の格率が同時に1つの普遍的な立法の原理として通用しうるよう
  に行為せよ」

● ヘーゲルの批判

 ・万人の意志を問題とするのであれば、人間の本質論の探究が必要なのに、そ
  れがなされていないから、その内容が規定されていない

 ・実践理性という人間の生き方を問題にするのであれば、「善」は、人間の内
  面の問題にとどまらず、国家、社会という外面的な「善」も問題とされるべ
  き

 ・より根本的には、カントが認識と実践を別個のものとして切りはなしてとら
  えているところに、道徳論の限界があらわれている


② カントにおける二元論の克服

●『判断力批判』で二元論を克服しようとする

 ・実践理性批判では精神界の善と自然界の義務との対立は、統一されるべきと
  いう当為の問題にとどまる

 ・カントのいう「判断力」とは、特殊をつうじて普遍をとらえる能力であり、
  精神と自然という2つの特殊を統一する普遍として「内的目的性」という概
  念を使用

 ・『判断力批判』で「内的目的性」という概念を媒介して、精神と自然、思考
  と存在との同一性を論じる

 ・内的目的性は、普遍的な「思考」として、自らを特殊化して「存在」に移行
  することで「思考と存在との同一性」を実現するような目的

 ・芸術―美のイデアを内的目的とし、それを実践をつうじて特殊化し、芸術作
  品として実現する

 ・生命体―種としての内的目的性を特殊化して、自らの肉体を有機的連関をも
  つ統一体としての組織に―ダーウィンの進化論を先取りしたもの

● ヘーゲルの評価

 ・『判断力批判』で「理念の思想」(『小論理学』㊤ 201ページ)をはっき
  り述べていることは評価しうる(ヘーゲルの「理念」とは概念と存在の
  一致)

 ・しかしカントは、問題を芸術と生命体に限定して、理念一般、つまり理想と
  現実の統一一般を論じていないと批判

 ・その制約はあっても、カントが近代哲学のもう1つの根本問題である「思考
  と存在との同一性」(理想と現実の統一)の問題に理論的に踏み込んだ功績
  は大きい(マルクスが「フランス革命のドイツ的理論」と評価した理由)
  ―フィヒテ、シェリング、ヘーゲルに継承される


③ カント哲学の総括

● 弁証法を復活させた

 ・アンチノミー、3批判哲学の思考と存在の弁証法で対立の意義を明確に

 ・カントの限界は「対立」を論じながらも対立の統一に真理があるところまで
  前進せず

● 思考と存在の問題で、二元論から完全に脱却できず

 ・「カントの二元論的体系の根本欠陥は、それが独立的なもの、したがって結
  合されえないと説いたものを、すぐあとで結合するという不整合のうちにあ
  らわれている(同206ページ)

 ・このような「動揺そのものが2つの規定の各々が不十分であることを証明」
  (同206ページ)しており、カントの欠陥は、精神と自然、思考と存在とを
  「結合する能力が全くない点にある」(同)

 ・そのためフランス革命の理想には共鳴しながらも、理想と現実の統一にしん
  りがあるというところまで前進せず

 


2.フィヒテ(1762〜1814)

● フィヒテ哲学

 ・ベルリン大学総長。フランス革命を熱烈に支持

 ・カント哲学の後継者として、2つの点でカントを乗り越えようとする

● 絶対的自我の哲学

 ・カントが現象と物自体という二元論におちいったのは、経験から出発すると
  いう唯物論に引きずられたためと批判

 ・「行為する自我」こそ外界の主人という主観的観念論の立場から「思考と存
  在との同一性」を論じられるべき、とする

 ・しかしフィヒテの観念論は、一面ではフランス革命における革命的実践に学
  び、人間の実践こそ人間の本質的行為であることを主張したもの

 ・ハイネ―「フィヒテは『思想と自然とは同一物である』という原理から出発
  して、……思想から自然を、理想から現実をつくり出した」(『ドイツ古典
  哲学の本質』223ページ、岩波文庫)

● カントのアンチノミーから弁証法へ

 ・絶対的自我から出発しながら、自我(主体)と非我(客体)の弁証法を主張
  することで、ヘーゲル弁証法に道をひらく

 ・行為する自我―非我―自我と非我の統一による「理想と現実の統一」の弁証
  法を論じる

 ・それを基本に多様なカテゴリーを展開

 ・ヘーゲルはフィヒテがカテゴリーを「その必然性において示」(『小論理
  学』㊤ 170ページ)したとしてフィヒテのカテゴリー論を高く評価

 


3.シェリング(1775〜1854)

● シェリングの同一哲学

 ・シェリングはフィヒテの絶対的自我の哲学から出発したが、その観念論的側
  面を批判し、自我と非我、理想と現実の「絶対的同一性」を主張

 ・シェリングの批判は唯物論の立場からではなく、いわば二元論の立場からの
  批判にとどまる

 ・しかし同一哲学の根底には、理想は現実から生まれ、理想が現実を変革する
  という理想と現実の相互媒介の関係が念頭に

 ・ハイネ―シェリングの同一哲学はスピノザの思考と延長の二元論とはちが
  い、「理想と現実とが生き生きと浸透しあっている」(前掲書112ページ)
  ところにその特徴がある、とする

 ・フィヒテが理想から現実へという一方向からのみ「思考と存在との同一性」
  を論じたのに対し、シェリングは現実から理想へ、理想から現実へと2方向
  において全面的に「思考と存在との同一性」を論じたもの

 ・シェリングの問題提起はヘーゲルの革命の哲学に結実し、ヘーゲルは「哲学
  の最高の究極目的」(『小論理学』㊤ 69ページ)を、理想と現実の統一
  にあるとする

 


4.ヘーゲル(1770〜1831)の弁証法的論理学

① ヘーゲル哲学の本質

● ヘーゲルにおいてドイツ古典哲学は完結する

 ・「思考の最高の形式」(全集⑳ 19ページ)としての弁証法を完結させた

 ・ヘーゲル哲学はマルクス主義哲学の源泉

● エンゲルス『フォイエルバッハ論』

 ・マルクス主義がヘーゲル哲学から出発しながら、フォイエルバッハを経て実
  現した経緯を概観

 ・ヘーゲル哲学には革命的側面と観念論的側面の2つがある

 ・フォイエルバッハは、ヘーゲルの観念論を粉砕したが、人間社会までは唯物
  論的にとらえなかった

 ・これに対しマルクス主義は、フォイエルバッハの唯物論を徹底し、ヘーゲル
  の観念論的に逆立ちした弁証法を唯物論的に改造した、とする

● マルクス、エンゲルスのヘーゲル観への疑問

 ・彼らは、ヘーゲルの「概念」「理念」にその観念論を求めている

 ・しかしヘーゲル哲学は、フランス革命を総括したドイツ古典哲学の到達点で
  あり、ドイツ古典哲学全体をつうじて論じられた理想と現実の統一こそ「哲
  学の最高の究極目的」ととらえ、それを示すカテゴリーとして「概念」「理
  念」を論じているもの

 ・概念、理念は、ドイツ古典哲学が探究した「思考と存在との同一性」の問題
  に回答を示すと同時に、ヘーゲル哲学の革命性をあらわすカテゴリー

 ・ヘーゲル哲学の本質は、革命の哲学にあり、それを覚られないために「観念
  論的装いをもった唯物論」となってあらわれた

 ・ヘーゲルは反動的な「プロイセン王国の国定哲学」(全集㉑ 269ページ)
  にまで登りつめたが、臨終のベッドで、誰一人自分の哲学を理解してくれな
  かったと嘆いたとされている(ハイネ)


② ヘーゲル弁証法

● 弁証法は真理認識の最高の形式

 ・弁証法の基本形式が対立物の統一であることを明らかにすると同時に、包括
  的に弁証法的カテゴリーを論じた

 ・すべての事物は静止と運動の統一
  ―静止の論理学としての形式論理学の一面性を揚棄したのが、静止と運動の
   統一としての弁証法的論理学

●「すべてのものは対立している」(『小論理学』㊦ 33ページ)

 ・すべてのものは相互に関係しあっている

 ・最も基礎的な関係は、「或るもの」と「他のもの」という2つのものの間の
  関係

 ・2つのものの間の関係には「同一」と「区別」がある

 ・区別のうちに差異と対立がある

 ・差異とは、「或るもの」と「他者一般」との偶然的関係

 ・対立とは「或るもの」とその「固有の他者」との必然的な関係(上と下、左
  と右、のように一対として存在し、不可分の、それ以外にはない関係)

 ・哲学とは、真理認識の学問であり、偶然性を排して必然性・法則性を認識す
  ること

 ・すべての事物の根本的な必然性が「対立」

 ・したがって「対立」の認識こそ真理認識の根本であり、すべてのものを対立
  のうちにとらえる弁証法は真理認識の唯一の思惟形式

 ・哲学の目的は、……(或るものと他者一般というような―高村)無関係を排
  して、諸事物の必然性を認識することにあり、他者をそれに固有の他者に対
  立するものとみることにある」(同32ページ)

● 対立物の相互媒介

 ・対立するものは「その一方は、それが他方を自分から排除し、しかもまさに
  そのことによって他方に関係するかぎりにおいてのみ存在する」(同32
  ページ)という「本質的な相互関係のうちに」(同)ある

 ・つまり対立するものは、相互に排除しつつ浸透するという矛盾のうちにあ
  り、対立とは矛盾である

● 対立物は「自分自身によって自己を揚棄する」(同33ページ)

 ・対立物は、自己を揚棄することで矛盾を解決する

 ・「一般に、世界を動かすものは矛盾である」(同)

 ・矛盾の解決としての統一体が「対立したものを観念的なモメントとして自己
  のうちに含む」(同上255ページ)―これが発展ということ

● ヘーゲルの功績

 ・形式論理学の一面性を指摘することによって、弁証法が真理認識の唯一の形
  式であることを明らかに

 ・弁証法の基本法則が対立物の統一にあることを解明


③ ヘーゲルの認識論とカテゴリー

● 認識の発展をカテゴリーの発展としてとらえる

 ・萌芽からの発展

 ・認識は、経験から出発して感性、悟性、理性へと発展するという唯物論の立
  場

 ・カントの理性は「真理のカノンであってオルガノンではない」(『小論理
  学』㊤ 198ページ)と批判

 ・経験に依存する感性、悟性は有限な認識(事実の真理の認識)、理性は有限
  な客観的事実をふまえながらも、それをのりこえた無限な認識(当為の真理
  の認識)

 ・「有論」―客観的事物の表面的真理をとらえる感性的認識と、それに関連す
  るカテゴリー

 ・「本質論」―客観的事物の内面的真理をとらえる悟性的認識と、それに関連
  するカテゴリー

 ・「概念論」―客観的事物を揚棄する「当為の真理」をとらえる理性的認識お
  よびそれにもとづく実践と、それに関連するカテゴリー

 ・カテゴリーはすべて「対立物の統一」としてとらえられ、その制限性(矛
  盾)により、より高度のカテゴリーへと発展していく

● 有論の主なカテゴリー

 ・有と無の統一が有論の根本的カテゴリー

 ・有と無の統一は運動の論理(ここにあって、ここにない)

 ・或るものは、或るものである(有)と同時に他のものではない(無)という
  有と無の統一

 ・或るものと他のものは、限界において同一であると同時に区別されている―
  限界をこえると或るものは他のものに移行

 ・生命体(向自有)は、時間的にみた或るもの(同一)と他のもの(区別)と
  の統一(否定の否定)

 ・或るものは質と量の統一―量が限度をこえると質の変化をもたらす

 ・量は連続量(単位)と非連続量(集合数)との統一

● 本質論の主なカテゴリー

 ・内面的な真理をとらえるうえで、内面と外面の「同一と区別の統一」が本質
  論の根本的カテゴリー

 ・同一と区別の統一の一般的な形態が根拠であり、「根拠と根拠づけられたも
  のとの統一」が「現存在」

 ・客観世界の諸物体はすべて根拠と根拠づけられたものとの統一として無限の
  連関からなる「現存在」

 ・本質がそのままの姿であろうとなかろうと外にあらわれでて、本質が「現存
  在」するにいたったものが「現象」であって、現象は本質そのままの姿で
  あったり、なかったりする「単なる現象」にすぎない

 ・「本質」は事物の内にある事物の真の姿であり、「根拠」として外にあらわ
  れでる

 ・現象の世界は、本質が根拠になって諸物体を相互に関係づける「本質的な相
  関」の世界

 ・本質的相関は、「全体と部分」「力とその発現」「内的なものと外的なも
  の」との相関

 ・本質がそのままの姿として外にあらわれ出た「本質と現存在の統一」が「現
  実性」

 ・したがって現実性と必然性とはほぼ同義

 ・「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」の現実性
  も、この「必然的現実性」として理解すべきもの

 ・必然性としての現実性をとらえるうえで「可能性と現実性」「偶然性と必然
  性」のカテゴリーが必要となってくる

 ・「現実性」の関係は「必然的相関」であり、「実体と偶有」「原因と結果」
  「作用と反作用」のカテゴリーとしてとらえられる

 ・必然性に関連して、人間の意志に関する「自由と必然」が問題となり、ヘー
  ゲルは必然性との関係における自由を「否定的自由」「形式的自由」「必然
  的自由」「概念的自由」の4段階においてとらえ、概念的自由こそ真の自由
  だとする

 ・「必然から自由への、あるいは現実から概念への移りゆきは、最も困難なも
  の」(『小論理学』㊦ 118ページ)―必然的自由から概念的自由へ、事実
  の真理から当為の真理への移行は「最も困難なもの」

● 概念論の主なカテゴリー

 ・概念論の構成は「主観(的概念)」「客観」「理念」となっており、全体と
  して「思考と存在との同一性」が論じられている

 ・「自覚的な理性と存在する理性すなわち現実との調和を作り出すことが哲学
  の最高の究極目的」(同上69ページ)―「自覚的理性」とは主観的概念、
  「存在する理性」とは客観的概念。理性と現実の統一こそ「哲学の最高の究
  極目的」

 ・「主観的概念」は、一方では具体的普遍(特殊、個をうちに含む普遍)とし
  てとらえられ、ここから概念、判断、推理という主観的思惟形式が論じられ
  る

 ・主観的概念が「分割」されると、「個は普遍である」という「判断」に

 ・分割された判断が再び結合すると「個―特―普」の「推理」に

 ・また主観的概念は他方で「真にあるべき姿」としてとらえられ、それは必然
  的に「客観」に移行するものとされる―こうして主観から客観に移行するこ
  とになる

 ・「客観」はそのうちの概念の顕在化の度合いにより、「機械的関係」「化学
  的関係」「目的的関係」に分かれる

 ・最後の理念は(主観的)概念と客観との統一―真にあるべき姿が実践により
  現実性に転化したものが理念

 ・レーニン「疑いもなく、ヘーゲルでは実践が、1つの環として、しかも客観
  的真理への移行として、認識過程の分析のうちにその位置をしめている」
  (『哲学ノート』レーニン全集㊳ 181ページ)

 ・マルクスも「フォイエルバッハにかんする第1テーゼ」でこれまでのすべて
  の唯物論に欠けていた「実践」の観点は、「観念論によって展開される」と
  している


④ ヘーゲルにおける理想と現実の統一

● ヘーゲル哲学は革命の哲学

 ・実践を媒介にした理想と現実の統一

 ・「哲学の最高の究極目的」(『小論理学』㊤ 69ページ)は理想と現実の
  統一にあるが婉曲的な表現にとどまる

 ・「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(同)―理
  想は現実になり、現実のうちには理想があるとの真意も分かりにくいもの

 ・革命の哲学という真意を覚られて弾圧されることを回避するための偽装工作
  により、観念論と誤解されたもの

 ・マルクス、エンゲルスは、ヘーゲルの観念論的偽装を観念論と誤解

 ・レーニンはヘーゲルを観念論と理解せず

● ヘーゲルの偽装工作

 ・客観的「論理学」は、経験にもとづく感性的認識から出発して、普遍性、必
  然性を意味する「現実性」で終わる唯物論の立場にたっている

 ・本来なら「概念論」では、概念とは客観的事物の普遍性、必然性を揚棄した
  客観的事物の「真にあるべき姿」という「当為の真理」であることがまず明
  確にされるべきなのに、それが故意に隠されている―そこから「概念」の誤
  解が生じている

 ・つまり「現実性」から、現実性を揚棄した当為の真理である「概念」が生ま
  れることを明確にせず

 ・「最も困難なもの」とされている「必然性から自由への、あるいは現実から
  概念への移りゆき」とは、必然性、現実性は「事実の真理」であるのに対
  し、概念は精神の自由な働きにより、「事実の真理」の揚棄から生まれた
  「当為の真理」としての「真にあるべき姿」を意味しているが、ヘーゲルは
  それを説明していない

 ・他方でヘーゲルは、「より深い意味における真理」(『小論理学』㊦ 210
  ページ)は、「客観が概念と同一であること」(同)としながら、その同一
  を実現するものが概念を目的にかかげた実践であることを明記せず

 ・わずかに別の箇所で「知性は単に世界をあるがままに受け取ろうとするにす
  ぎないが、意志はこれに反して世界をそのあるべき姿に変えようとする」
  (同236ページ)とつぶやくのみ

 ・「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」との命題は
  理想と現実の統一であることを意味しているが、それを明確にせず

 ・私たちの責務は、ヘーゲルの観念論的装いを取り除き、それを本来の唯物論
  的土台のうえに据え直して、ヘーゲルの無念をはらしてやること


⑤ ヘーゲル『法の哲学』

●『法の哲学』はフランス革命の総括として誕生

 ・法、道徳、社会、国家の真にあるべき姿を人間論の観点から考察

 ・フランス革命をヘーゲルなりに意志の自由の原理として総括したもの

 ・「ヘーゲルの哲学のように、ひたすら革命の哲学であり、フランス革命の問
  題を中心的な核としている哲学は、他には1つもない」「ヘーゲルのフラン
  ス革命との対決は『法の哲学』で終わる」(ヨアヒム・リッター)

 ・『法の哲学』全体を支配しているのは「自由の原理」

 ・ヘーゲル哲学の革命的総括が最も明確に示されると同時に、「観念論的装
  い」も深くたちこめている―『法の哲学』の評価を二分するものに

 ・エンゲルス「今日でもなお完全に値うちのある無数の宝がある」

 ・ヘーゲル弁証法と合わせて『法の哲学』の人間論、道徳、倫理論、国家論も
  科学的社会主義の源泉に

● 人間論

 ・人間は自由な意志をもつ存在としてすべて平等であり、人間の尊厳をもつ

 ・人間は、自己の自由な意志を投入した生産物を取得する絶対的な権利をもつ
  として、搾取による人間疎外論を示唆している―マルクスの人間疎外論の原
  形

● ヘーゲルの道徳、倫理論

 ・ヘーゲルは道徳、倫理を自由な意志によってとらえた真にあるべき生き方
  (善)と現にある生き方との区別のうえに、その区別を揚棄しようとする
  「当為」の問題としてとらえる

 ・そのうえで、内面の生き方の当為を「道徳」、外面的生き方(社会、国家と
  のかかわりにおける生き方)の当為を「倫理」としてとらえる

 ・ヘーゲルは真にあるべき生き方をルソーのいう人民主権国家のもとで自由な
  主体として生きることに求めている

 ・ヘーゲルの道徳、倫理論は科学的社会主義に継承されていくべきもの

● ヘーゲルの人民主権国家

 ・真にあるべき国家は、自由な意志から生まれる人民の「一般意志」を統治の
  原理とする国家

 ・人民を「定形のない塊り」としてとらえ、一般意志の形成は、優秀な官僚の
  手に委ねるべきとする―フランス革命における恐怖政治の反映

 ・ルソーの一般意志と多数意志の矛盾をヘーゲルなりに解決しようとしたもの

 ・マルクス主義の「プロレタリアート執権論」は、ルソーの人民主権論とそれ
  に対するヘーゲルの批判をふまえ、労働者階級の政党が導き手となって一般
  意志を形成、実践することを明らかに

● 人民主権国家のもとで、権利=義務論

 ・治者と被治者の同一性の国家のもとにあっては、「権利と義務とは1つに帰
  する」

 ・ルソーの人民主権論は人民の権利のみを主張

 ・人民は「義務においておのれの解放を手にいれる」

● 政治革命の積極的意義

 ・資本主義の貧富の格差を鋭く批判し、人民主権の国家という政治革命による
  市民社会の規制を主張

 ・マルクスは「ヘーゲル国法論批判」(全集①)で、ヘーゲルは「国家が規定
  的な要素」(同305ページ)と考えていたと批判しているが、民主主義革命
  による資本主義規制の先駆的役割を果たしたとして評価されるべき