『科学的社会主義の哲学史』より

 

 

第一三講 現代哲学①
     科学的社会主義の哲学と
     ブルジョア的観念論哲学との対決

一、現代は資本主義と社会主義の対峙する時代

 本講座における現代とは、マルクス主義以降、つまり一九世紀後半以降二一世紀前半の現在に至るまでを指しています。一九世紀の後半全体をつうじて、産業革命により資本主義は産業資本を中心に大きく発展し、その矛盾が顕在化するなかで雑多な社会主義の思想は次第にマルクス主義に自然淘汰され、マルクス主義は全ヨーロッパにその影響力を広げていきます。一九世紀末から二〇世紀にかけて資本主義は帝国主義の時代に突入し、一九世紀末にヨーロッパの帝国主義列強は世界のすべてを植民地として分割完了します。二〇世紀に入って遅れて帝国主義の仲間入りをしたドイツ、オーストリア、イタリアは、世界の再分割を求めて一九一四年第一次世界大戦を引き起こします。世界大戦のさなかの一九一七年、帝国主義戦争に反対し、土地と食糧を求めるたたかいの高揚のもとに、ロシアで世界最初の社会主義革命が実現します。レーニンの率いるソビエト政権は、革命の翌日には「平和についての布告」を公布して、これまでの帝国主義戦争では考えられなかった無併合・無賠償の即時講和をかかげて、大戦参加諸国に衝撃を与えます。続いて「ロシア諸民族の権利宣言」を発表して、帝政ロシア内の諸民族に民族自決権を与え、対内的には八時間労働制、社会保障制度、教育権を承認し、農民に土地を与えるなど、社会主義をめざす国としての体制的優位性を存分に示すことになります。ジョン・リードの『世界をゆるがした十日間』の標題にも示されているように、ロシア革命は文字どおり世界に激震を与え、二〇世紀を資本主義から社会主義へと大きく方向転換させる原動力となりました。レーニンは政治的のみならず哲学的にもマルクス主義哲学を発展させ、マルクス主義を科学的社会主義に発展させることになります。
 帝国主義列強は、新生ソビエト政府に対して直ちに軍事介入し、日本もシベリア出兵をして、革命を押しつぶそうとしますが、結局失敗に終わります。レーニンは、一九一九年コミンテルン(第三インタナショナル)を結成して、これを世界の共産主義運動の統一組織とします。その影響のもとに、世界各国で革命運動や民族解放運動が大きく発展します。
 他方第一次世界大戦の戦後処理などに関連し、一九三九年から四五年にかけて第二次世界大戦が勃発します。それは帝国主義諸国間の植民地の争奪戦争と、帝国主義と植民地間の民族解放戦争という二大要素のからみ合ったたたかいとなります。このたたかいのなかから、ドイツの侵略に反対してたたかった東欧の反ファッショ民族解放統一戦線は、ドイツの敗北とともに社会主義をめざす諸国となり、中国、ベトナム、キューバでも同様に民族解放運動をつうじて社会主義をめざすことになります。
 こうして二〇世紀は全体として資本主義諸国と社会主義をめざす諸国とが対峙する時代となり、一時は世界の人口の三分の一が社会主義をめざす国で生活するようになります。それを哲学的にみるならば、科学的社会主義の哲学が一方の雄としてそびえ立つのに対して、あれこれの観念論がブルジョア哲学として対決を挑み、その堅陣を突き崩そうとする時代であったということができるでしょう。
 しかし当然ながらこうした科学的社会主義批判はいずれも失敗に終わり、科学的社会主義にとってかわる新しい「全一的な世界観」としての哲学は誕生するには至っていません。この二〇世紀後半までの哲学史を学ぶことが現代哲学の第一の課題となっています。
 二〇世紀末、ソ連・東欧の崩壊と、ラテン・アメリカにおける「二一世紀の社会主義」の実験が始まります。「レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ」(日本共産党綱領)結果、「社会主義の実態としては、社会主義とは無縁な人民抑圧型の国家として、その解体を迎えた」(同)のです。また中国、ベトナムも「ソ連型社会主義」の名残りから、社会主義の体制的優位性を示しえない状況となっています。他方、長年「アメリカの裏庭」とされてきたラテン・アメリカでは、キューバの教育、医療等の制度的優位性の影響もあって、二〇世紀末アメリカの押しつける新自由主義経済のもたらした極限までの格差拡大に反発し、アメリカの支配下から脱出する左翼政権が相次いで誕生します。そのうちベネズエラ、ボリビア、エクアドルでは、「ソ連型社会主義」を否定して新しい「二一世紀の社会主義」を展望する動きも生じています。
 こうして二〇世紀の壮大な社会主義の実験をふまえて、科学的社会主義の哲学は現代にふさわしい進歩と発展が求められているのであり、この問題を検討することが現代哲学の第二の課題ということになるでしょう。以下にこの二つの課題を念頭におきつつ、現代哲学史を学んでいくことにしましょう。

(一) レーニン(一八七〇~一九二四)

 いうまでもなくレーニンはロシア革命の指導者であり、彼はロシア革命をつうじてマルクス主義をさらに一歩前進させ、帝国主義戦争を批判し、現在では国連憲章に明記されている民族自決権、社会権などの諸原則をマルクス主義をふまえて人類史上はじめて打ち出す偉大な功績を残しました。そのなかでも民族自決権の承認は、二〇世紀初頭の帝国主義諸国による植民地支配の体制を崩壊させ、二〇世紀後半を民族独立の時代に転換させる根源となりました。
 またレーニンは若いときからマルクス主義の研究に没頭したばかりか、ヘーゲル弁証法の研究をつうじてマルクス主義哲学を「レーニン的段階」に引きあげたとされています。レーニンによってマルクス主義はマルクス、エンゲルスの個人的業績をのりこえたより普遍的理論として、「科学的社会主義」へと発展していったのです。それはエンゲルスのいう「この科学をそのあらゆる細目と連関とにわたってさらに仕上げてゆく」(『反デューリング論』全集⑳二六ページ)最初の作業だったということができるでしょう。
 レーニンの後継者スターリンは、レーニンの権威を利用して自己の専制支配を確立しようとして、「マルクス=レーニン主義」の呼称をつくり出し、自らがその理論の権威者であるかのように振る舞いました。しかしその後にスターリンがおかした社会主義とは無縁の言動からしても、「マルクス=レーニン主義」との呼称は使用するべきではなく、現代のマルクス主義は「科学的社会主義」と呼ばれるべきものでしょう。
 このように、レーニンはマルクス主義を科学的社会主義に発展させた功労者ということができます。しかし、レーニンの科学的社会主義にもいくつかの問題があったことは否定できません。一つはマルクス主義を「三つの源泉と三つの構成部分」としてとらえようとしたことであり、果たしてそれでいいのかは、本講座のテーマともなっているところです。もう一つは、レーニン流「執権論」の問題です。レーニンは、マルクス主義の「執権論」である労働者階級の政党の主導性のもとにおける人民主権から大きく逸脱する「執権論」を打ち出し、それをコミンテルンをつうじて世界各国に押しつけました。
 こうしてレーニン流「執権論」は、二〇世紀全体をつうじて科学的社会主義の最大の理論問題となったのです。さらにスターリンのもとでレーニン流「執権論」はスターリンの専制支配の理論的根拠にまで転化し、いわゆる「ソ連型社会主義」を生みだす根本理論とされるに至りました。レーニンの功績は功績として評価しながらも、同時にレーニンの理論的制約や誤りも指摘しておくことが、「不断の進歩と発展を特徴」とする科学的社会主義にとって不可欠の態度ということができるでしょう。
 レーニンの著作は、『レーニン全集』(大月書店)全四十五巻にまとめられた膨大なものになっています。そのうち哲学的著作としては、『唯物論と経験批判論』(一九〇九年)、「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」(一九一三年)、『哲学ノート』(一九一四~一六年)、「カール・マルクス」(一九一四年)などがあります。なかでも『哲学ノート』は、ヘーゲル「論理学」の研究をつうじて弁証法を発展させようとする試みとして注目されるものです。

・レーニンの認識論

 レーニンは『唯物論と経験批判論』のなかで、経験批判論者(マッハ主義者)との論争をつうじて、マルクス主義の認識論を発展させました。マッハ主義は、一九世紀後半に始まった「新カント主義」の一流派であり、彼らは存在するものは経験だけであるという実証主義の立場から、意識から独立した物質の存在やその認識可能性を否定することでマルクス主義に敵対したのです。
 第一に彼らは対象を認識するためには経験することが唯一の方法であって、経験をつうじてえられる認識以外には何も存在しないと考えます。そして経験によってとらえられるのは、形や色や臭いなどの五感であり、この感覚のいくつかが合わさって一つの物とみなされるのであるから「物とは感覚の複合にすぎない」と主張しました。その立場から、唯物論とは経験のかなたにある「物自体」を認めるものだという攻撃を加え、意識から独立した物質の存在を否定すると同時に、感覚のうしろにあるとする物質をあますところなく認識することはできないとして、絶対的真理を否定する不可知論の立場にたったのです。
 これは第八講で紹介したイギリス経験論者バークリーのむしかえしというべきものでした。バークリーは「私の目で見、私の手でふれる物が存在している、しかも実在的に存在していることを、私はいささかも疑わない。われわれがその存在を否定する唯一のものは、哲学者たちが物質または物体的実体と呼んでいるものである」(『唯物論と経験批判論』レーニン全集⑭二二ページ)として、物質否定論にたちましたが、マッハ主義もその考えをひきついだのです。
 これに対してレーニンは、第八講でも紹介したように、もし物が「感覚の複合」にすぎないとすれば、感覚する人間が誕生する以前にも自然が存在したことをどう説明するのか、人間は「脳」という物質の助けを借りて感覚していることをどう説明するのか、さらには、感覚している哲学者以外の人間の存在を認めないのか、という三つの問いを発して、「物とは感覚の複合」とする議論を粉砕したのです。
 第二にマッハ主義者は、カントにしたがい現象と物自体とを切りはなし、現象については真理を認識しうるが、「物自体」は存在もしないからましてやその真理も認識しえないとし、相対的真理と絶対的真理とを区別したうえで、相対的真理のみしか認識しえないとする不可知論の立場にたちました。
 これに対しレーニンはまず「われわれの知識が客観的・絶対的真理に近づく限度は、歴史的に条件づけられている。しかし、この真理の存在は無条件的であり、われわれがそれに近づきつつあることは無条件的である」(同一五八ページ)として、「思考と存在との同一性」を意味する客観的真理の存在は絶対的であるととらえます。
 ではどうやって歴史的に制約された相対的真理から絶対的真理に向かって前進していくのかというと、それは相対的真理が歴史的に制約された真理であるがゆえに、真理と誤謬の統一であるという矛盾のうちに求められるのです。レーニンはこの真理と誤謬の統一としての相対的真理のもつ矛盾を顕在化させるのが実践であることを強調しました。実践をつうじて、相対的真理のもつ誤謬が明らかになり、その誤謬を克服することをつうじて、相対的真理は絶対的真理に向かって前進していくことになるのです。
 「マッハにとっては、実践と認識論とはまったく別のものであり、前者によって後者を条件づけることなしに、両者を並置する」(同一六二ページ)ところに、相対的真理のみしか認識しえないという不可知論におちいる根拠があったのです。レーニンは、実践によって「物自体」をつくり出すことで「『物自体』はわれわれにたいする物」(『フォイエルバッハ論』全集㉑二八一ページ)になるというエンゲルスの言葉も引用しながら、唯物論の認識論に「実践の基準」(レーニン全集⑭一六〇ページ)をもちこむことで不可知論を克服しうることを強調したのです。
 第三にレーニンは、物質の認識論的意義を明らかにしています。二〇世紀初頭の物理学では、物質の属性は質量(重さ)にあると考えられていました。ところが新たに発見された電子には質量がない(今日では非常に小さい質量をもっていることが判明)とされたところから、「物質は消滅した」として唯物論を否定する議論が登場しました。これに対してレーニンは、物質の属性に対する認識は科学の進歩とともに発展するものですが、唯物論でいう認識の根源は物質にあるという場合の「物質」とは、自然科学的物質とは異なり「人間の意識から独立して存在し、そして人間の意識によって模写される客観的実在以外のなにものをも意味しない」(同三一五ページ)ことを明らかにしたのです。いまでは質量をもたない光子やグルーオンも、人間の意識から独立して存在する客観的実在としての物質であることを否定する人は誰もいないでしょう。レーニンは、マッハ主義の誤りが自然科学でいう物質と哲学上の物質との混同にあることを明らかにして、マッハ主義の唯物論批判を打ち破ったのです。
 第四に、レーニンがマッハ主義との論争をつうじて哲学の階級性、党派性を明確にした功績をあげておきたいと思います。エンゲルスは、一九世紀末のドイツの新カント派やイギリスのヒューム主義にみられる不可知論について、「科学的には退歩であり、実践的には、唯物論をかげではうけいれて世間の前では否認する、はにかみやのやり方」(全集㉑二八一ページ)とか、「『恥ずかしがりの』唯物論」(「『空想から科学へ』英語版への序論」全集⑲五四九ページ)とよんでいます。それは不可知論者が「徹頭徹尾、唯物論的」(同)な自然観をとりながら、「自然対象についてわれわれが知っているわずかな事柄の背後に神秘的な『物自体』があるのではないか、と彼が疑った」(同五五一ページ)ことをもって、そうよんだのです。このエンゲルスの表現からすると、新カント派やヒューム主義者の本質は唯物論であるととられかねないものとなっています。
 しかし、先に物質否定の観念論にたったバークリーですら客観的自然が「実在的に存在していることを、私はいささかも疑わない」といっているように、問題は自然科学的意味の物質を認めることは、世界の根源性における哲学的意味の物質を認めることを意味するものではないところにあるのです。その点からすると、新カント派やヒューム主義者が自然科学的意味の物質を認めたとしても、哲学的意味の物質、つまり彼らのいう「物自体」を否定している点においてバークリーと何ら異なるところはないのですから、それを唯物論の一形態ととらえることは正しくないといわなければなりません。
 これに対しレーニンは、このエンゲルスの新カント派やヒューム主義者の不可知論評価について論及しながらも、その唯物論的評価については一言もふれることなく、逆に「それらが唯物論から基本的に逸脱したことを頭から論駁」(レーニン全集⑭四一〇ページ)したものとして受けとめ、「マルクスとエンゲルスは、哲学において終始党派的で、ありとあらゆる『最新の』流派のうちに、唯物論からの逸脱と観念論と信仰主義の甘やかしとをあばきだすことができた」(同四一一ページ)ととらえています。
 そして唯物論から逸脱して、マッハ主義のような唯物論と観念論の調停を試みる中間派や、無党派を主張するあらゆる哲学的潮流の「客観的役割はただ一つ、観念論と信仰主義の道をきよめ、それらに忠実に奉仕すること」(同四一三ページ)を明らかにします。唯物論から一歩でも逸脱することは、観念論というブルジョア哲学に転落することを意味しているととらえたのです。
 「爪が一本ひっかかれば、その小鳥はたすからない。ところで、わが国のマッハ主義者はみな、観念論に、すなわち緩和され洗練された信仰主義にひっかかった。……もし人間の意識が客観的に実在する外界を反映するという唯物論の理論をみとめなければ、不可避的にここまで転落せざるをえない」(同四一九ページ)。
 結局、唯物論か観念論かの対立の間に中間は存在しないのであり、それは真理か非真理か、プロレタリアートの哲学かブルジョア哲学かの対立にほかならないのです。すべての観念論哲学は、ブルジョアジーの支配のイデオロギーであり、非真理の哲学であることを銘記すべきでしょう。この哲学の党派性にかんするレーニンの見解は、現代哲学全体を批判する規準を与えたものとして高く評価されるべきものです。

・弁証法的唯物論の発展

 レーニンは、『哲学ノート』(レーニン全集㊳)において、ヘーゲルの『大論理学』『哲学史』『歴史哲学』の抜粋ノートを作成し、それにレーニン自身のコメントを付して、ヘーゲル弁証法を研究しています。レーニンは一九一四年、百科辞典用に「カール・マルクス」の項目への執筆を依頼され、マルクス主義をまとめるためにヘーゲル弁証法を本格的に研究したものであり、レーニンの意図は弁証法の定式化にあったものと思われます。
 それは、「カール・マルクス」のなかの弁証法の四要素にもその試みがみられますし、『哲学ノート』では弁証法の要素として十六項目を思いつくまま指摘していることにも表れています。結局それは未完のままとなりますが、それでもエンゲルスと異なり、「弁証法の核心」(『哲学ノート』同三二六ページ)が「対立物の統一」(同三二七ページ)にあることを正面からとらえ、「世界のすべての過程を、その"自己運動"
において、その自発的な発展において、その生き生きとした生命において認識する条件は、それらを対立物の統一として認識することである」(同三二六~三二七ページ)と弁証法の基本形式をしっかり押さえていることは評価されなければなりません。
 さらに対立物の統一には、対立物の自立的統一と媒介的統一の区別があることを明らかにし、「対立物の統一(合致、同一、均衡)は条件的、一時的、経過的、相対的である。たがいに排除しあう対立物の闘争は、発展、運動が絶対的であるように、絶対的である」(同三二七ページ)としているのも、鋭い指摘ということができます。
 レーニンのヘーゲル研究で特筆すべきことは、『唯物論と経験批判論』では、マルクス、エンゲルスのヘーゲル観をそのまま受け売りして、「絶対的理念とは観念論者ヘーゲルの神学的な作りものである」(レーニン全集⑭二七二ページ)と評価していたのが、ヘーゲル『大論理学』の研究をつうじてその評価をガラリと変えていることです。まず、ヘーゲルの観念論の象徴とされている「概念」について、「人間の意志、人間の実践は、……外的現実性を真にあるもの(客観的な真理)とみとめない」(レーニン全集㊳一八五ページ)のであって、「認識は……自分のまえに、主観的な意見とは独立に現存する現実性としての真にあるものを見い出す(これは純粋の唯物論だ!)」(同)ととらえ、「真にあるべき姿」という正解にあと一歩のところまで接近しています。
 同様に概念と存在との同一としての「理念」に関しても、「世界は人間を満足させず、そして人間は自己の行為によって世界を変えようと決心する」(同一八二ページ)と理解し、それは「外的現実性を真に有るもの(客観的な真理)とみとめないこと」(同一八五ページ)であって、「人間の活動は、外的現実性を変化し、……この現実性から仮象、外面性および空無性という特質を取りさり、この現実性を即自かつ対自的に有るもの(=客観的に真なるもの)にする」(同一八七ページ)ととらえています。
 いわばレーニンは、ヘーゲルの「概念論」は革命の哲学を論じているものであって、「概念」「理念」というカテゴリーはけっしてヘーゲルの観念論を意味するものではなく、逆にヘーゲルの革命性を象徴するカテゴリーとして理解しているのです。そして「論理学」ノートの最後に「注目すべきは、"絶対的理念"にかんする章全体が神についてほとんど一語も述べていないということである」(同二〇三ページ)と書きつけています。これはレーニンがマルクス、エンゲルスに倣って先に「絶対的理念とは観念論者ヘーゲルの神学的な作りもの」と規定したことに対する痛烈な自己批判とみることができるでしょう。
 続けて「そのうえ――この点を注視せよ――この章全体とくに観念論を含んでいるということはほとんどなく、弁証法的方法をその主要な対象としている」(同)と続け、「ヘーゲルのこのもっとも観念論的な著作のうちには、観念論がもっともすくなく、唯物論がもっとも多い。矛盾している、しかし事実だ!」(同)と「論理学」全体を唯物論的著作として評価しているのです。したがって、マルクス、エンゲルスとは異なり、レーニンの弁証法の定式化の試みのうちには、逆立ちしているヘーゲル弁証法をひっくり返さなければならないとの観点は全くみられません。レーニンの自己批判をも考慮するならば、ヘーゲル哲学の本質は革命の哲学であり、その立場は「観念論的装いをもった唯物論」と理解するのが正しいと考えます。
 なおレーニンの弁証法研究には、個々の問題についてもいくつかの鋭い指摘があるので、二つほど紹介しておきましょう。
 一つは、なぜ観念論がなくならないのかについての認識論的根拠に関するものです。
 「哲学的観念論は、粗野な、単純な、形而上学的な唯物論の見地からすれば、たわごとにすぎない。これに反して、弁証法的唯物論の見地からすれば、哲学的観念論は、認識の特徴、側面、限界の一つを、物質、自然から切りはなされた、神化された絶対者へと、一面的に、誇大に、過度に発展させ(膨張させ、ふくらませた)たものである」(同三二九~三三〇ページ)。ここには人間の認識が経験から出発しながらも、観念論に転化していく可能性をもつことの二つの根拠が示されています。
 一つめは事物を対立物の統一として全面的に認識せず、その一側面を「誇大に、過度に発展させ」るという、弁証法的思考ではなく形而上学的思考からくる観念論であり、さしづめフランス唯物論の「機械的自然観」はその一例ということができるでしょう。
 二つめは、抽象化からくる観念論です。レーニンは「思惟は、具体的なものから抽象的なものへ上昇しながら――もしその思惟が正しいものであれば――真理から遠ざかるのでなく、真理へ近づくのである」(同一四一ページ)と述べていますが、人間の認識は感覚から表象へ、表象から思惟へとどんどん抽象化され、具体的事物からはなれていきます。その抽象化が正しくなければ真理から遠ざかり観念論へと進んでいくのです。正しくない抽象とは客観的事物に即した抽象ではなくて、「物質、自然から切りはなされた」抽象ということでしょう。さしづめ、イギリス経験論のバークリーの物質否定論やヒュームの不可知論はそれに該当するものということができます。
 先に哲学の党派性に関連して、すべての観念論はブルジョア哲学としてのブルジョアイデオロギーであることを指摘しましたが、ブルジョア哲学は、経験から出発するという唯物論的認識論を認めることによって真理性を装いつつ、一面化、間違った抽象化によって観念論の非真理へと引きずり込んでいくのです。レーニンの観念論の二つの根拠の指摘には、マッハ主義との論争をつうじて弁証法的唯物論を鍛えあげてきた理論の鋭さがみられます。
 二つには、レーニンはつねに『資本論』を念頭におきつつヘーゲル弁証法を学んでおり、『資本論』と弁証法の関係についていくつかのコメントを残していることです。
 「マルクスは"論理学"……をのこさなかったとはいえ、"資本論"の論理学をのこした。……"資本論"のなかでは、……唯物論の、論理学、弁証法および認識論、この三つの言葉は必要ではない、これらは同一のものであるが、一つの科学に適用されている」(同二八八ページ)。この箇所をどう解するかの議論がありますが、ヘーゲル『論理学」は全体として認識論として理解すべきものであり、それは客観世界の弁証法を反映して弁証法的認識論となっているのであり、同様に『資本論』は資本主義の認識論であり、しかも全体の叙述が弁証法を駆使した弁証法的認識論になっているという意味に理解したいと思います。
 また「ヘーゲルの《論理学》全体をよく研究せず理解しないではマルクスの《資本論》とくにその第一章を完全に理解することはできない」(同一五〇ページ)ともいっています。マルクス自身が『資本論』のあと書きのなかで、自分はヘーゲルの弟子であり、『資本論』で使った方法は弁証法だといっているのですから、『資本論』は弁証法的に読み解いてこそ、その真髄を理解することができるでしょう。
 拙著『「資本論」の弁証法』(一粒の麦社)は、レーニンの指摘を受けて『資本論』を弁証法的に読み解くことで、難解な『資本論』の論理の展開を少しでも分かりやすくとらえようとした最初の著作といえるのではないかと思われますので、紹介しておきます。

・マルクス主義の体系化

 マルクス、エンゲルスは、自らその学説を体系化したことはありません。しかしマルクス主義をロシアに紹介しようとの意図もあって、レーニンは「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」(レーニン全集⑲)において、マルクス主義の構成部分を三つに定式化し、それが現在までそのまま一般的に使用されているので紹介しておきます。
 レーニンは、「マルクス主義には、世界文明の発展の大道のそとで発生した、なにか閉鎖的で、硬化した学説という意味での『セクト主義』らしいものはなにもない」(同三ページ)のであって、反対に人類の先進的な思想である一九世紀の「ドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義という形でつくりだした最良のものの正統の継承者である」(同三~四ページ)ととらえます。また論文「カール・マルクス」(レーニン全集㉑)でも同様に、マルクスは「一九世紀の三つの主要な思想的潮流」(同三七ページ)、すなわち「ドイツの古典哲学、イギリスの古典経済学、および一般にフランスの革命的諸学説とむすびついたフランス社会主義」(同)の「継承者であり、天才的な完成者であった」(同)と規定しています。
 マルクス主義が、いわゆる「三つの源泉」から多くのものを学んだことは間違いないとしても、源泉の名に値するものがそれだけかといわれれば疑問に感じないわけにはいきません。マルクス自身、古代の哲学者のうち最も好きなのはアリストテレスだと語っていますし、アリストテレスの経済学的研究の成果を『資本論』に取り入れてもいます。プラトン、アリストテレスのイデア論は、ヘーゲルの理想と現実の統一と結びついて、マルクス主義の革命の哲学に結びついていますし、またプラトンの哲人政治の考えはルソーの人民主権論と結びついて「プロレタリアート執権論」のなかにしっかり生かされています。マルクス、エンゲルスは、たんに一九世紀の先進的な思想を学んだのみならず、古代から近代に至るまでのすべての積極的な遺産を学び、発展させてマルクス主義をつくりあげたものであって、その意味ではマルクス主義とは「人類が生みだしたすべての価値ある知識の発展的な継承者」という日本共産党のとらえ方が正しいというべきでしょう。
 問題は源泉のみならず、構成部分についても同様です。レーニンは、一方でマルクス主義を「全一的な世界観」(レーニン全集⑲三ページ)としながら、他方でマルクス主義の構成部分を、三つの源泉に対応する哲学(弁証法的唯物論と史的唯物論)、経済学(『資本論』)、階級闘争論と社会主義の三つとしてとらえています。しかし「全一的な世界観」というためには、自然、人間、社会という世界のすべてを対象としなければなりませんし、世界の「すべての価値ある知識」を源泉とするならば、それに対応してマルクス主義の構成部分も世界のすべてを対象にするものとならなければなりません。
 レーニンが三つの構成部分としたのは、エンゲルスが「われわれの見解の百科辞典的な概観をあたえる試み」(「ベルンシュタインへの手紙」全集㊱一二三ページ)として著した『反デューリング論』が哲学、経済学、社会主義の三つの篇から成っていることに学んだのではないかと思われます。しかしこれは、『反デューリング論』がデューリングの哲学、経済学、社会主義の三つの著作に対する論争の書だったためであり、エンゲルスも初版への序文で「この著作は、デューリング氏の『体系』にもう一つ別の体系を対置するなどということを目的とするものではありえない」(全集⑳六ページ)と述べていますので、これをもってマルクス主義の構成部分とすることには疑問があります。
 何よりもレーニンの構成部分からすると、人間論がマルクス主義の構成部分から除外され、人間的価値としての自由と民主主義がマルクス主義の本質的構成部分に含まれないことになります。またそれでは社会主義の理念が人間解放の真のヒューマニズムにあることも明確にされないことになってしまいますし、ソ連・東欧の崩壊をもって「社会主義崩壊」とする議論に正面から立ち向かえないという弱点をかかえることになってしまいます。
 また哲学は古代のギリシア哲学以来、人間としてより善く生きるという生き方の当為を哲学の柱としてきました。人間論を論じることは、生き方の当為を問題にするものとしてマルクス主義の出発点ともなった問題であり、利潤第一主義の資本主義があえて避けて通ろうとしている問題であるがゆえに、逆に科学的社会主義としては重要な構成部分ということができます。
 結論的にいうならば、レーニンの「三つの源泉と三つの構成部分」は、マルクス主義の主要な源泉と構成部分を指摘したのみであって、マルクス主義とは「すべての価値ある知識を源泉とした全一的な世界観」としてとらえるべきものでしょう。

・レーニン流「執権論」

 これまで学んできたようにマルクス主義の「プロレタリアート執権」とは、労働者階級の政党の主導性のもとに、「人民の、人民による、人民のための政治」という人民主権の政治を実現することを意味していました。
 レーニンは、ロシア革命の推進力となったのが工場のなかのストライキ委員会から発展した統一戦線組織である「ソビエト」であったところから、「プロ執権」=「ソビエト」ととらえ、「プロ執権」を普通選挙制とも、民主共和制とも無縁な概念につくりかえてしまい、最後には人民主権そのものをも否定してしまいます。しかもこのレーニン流「執権論」を、「ブルジョア民主主義か、それともプロレタリアート執権か」という二者択一の問題としてコミンテルンの基本方針として各国に押しつけることにより、いわゆる「ソ連型社会主義」がヨーロッパ全体に広がることになります。ブルジョア民主主義を否定する「プロ執権」論は、ソビエトのなかで、共産党が多数を占めるようになると共産党の一党支配の体制となり、さらにスターリンの個人崇拝と専制支配のもとで、「プロ執権」=ソビエト=共産党の一党支配=スターリンの個人専制にまで転化し、人民抑圧型の社会をつくりあげていくことになったのです。
 二〇世紀末に、ソ連・東欧が文字どおりあっという間に瓦解してしまった理由は、これらの諸国が社会主義をめざして出発しながらも、結局は社会主義とは無縁の人民抑圧型の社会に変質してしまったことに求められるでしょう。その主たる責任がスターリン以降のソ連指導者にあったことは否定できませんが、理論的にはレーニン流「執権論」も一つの遠因となっていたことは否定しえないというべきでしょう。レーニンの数多くの功績は功績として評価しながらも、レーニン流「執権論」の誤りは誤りとして指摘しておかなければなりません(詳細は拙著『二一世紀の科学的社会主義を考える』一粒の麦社参照)。

(二)新カント主義(観念論①)

 新カント主義とは、一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけてドイツを中心に広がった反マルクス主義のブルジョア哲学です。フランス革命からパリ・コミューンまでの八十年間、ヨーロッパの革命運動の中心はフランスでしたが、パリ・コミューン後の徹底した弾圧のもとで、ヨーロッパの革命運動の中心はドイツに移行します。ドイツで広がった新カント主義は、パリ・コミューンの崩壊後のヨーロッパ全体に広がった反動期を背景として、「カントにかえれ」を合言葉に、多かれ少なかれ客観世界を主観的意識の産物にすぎないとする立場から、マルクス主義への攻撃を加えました。レーニンが批判した経験批判論も、この新カント主義に属するものです。
 新カント主義は、当時世界最大の労働者階級の政党であったドイツ社会民主党のなかで広がり、エンゲルス指導のもとに生まれた第二インターナショナルを修正主義の路線に転換させる役割を果たしました。とくにベルンシュタインは貧困化論、「執権論」、社会主義論などでマルクス主義の学説を根本的に歪曲し、労働者階級に社会主義をめざす階級闘争をやめて資本主義のもとでの改良闘争にとどまることをよびかけました。その影響のもとに第二インターは労資協調路線の立場から帝国主義戦争である第一次世界大戦を支持することで労働者階級の信頼を失い、新カント主義も第二インターもともに崩壊することになり、コミンテルンにとってかわられることになります。以下に価値論と社会科学の法則性の問題を二本柱として、マルクス主義を攻撃した新カント主義の代表的見解のいくつかを紹介しておきます。

①ランゲ(一八二八~一八七五)
 初期の新カント主義を代表する人物がランゲです。彼は『唯物論史』において、次のようにマルクス主義の唯物論を批判します。物質を根源的とする唯物論は一面的な正しさはもっていても世界のすべてをとらえる世界観にはなりえない。というのも自然界については自然現象を物質から説明し、物質的な原因と結果としてとらえることは正しいが、精神界については、そのすべてを物質の作用として説明することはできない。人間の認識のうちには、客観世界を反映する唯物論的側面と同時に、客観世界と関係のない価値という分野があり、価値は人間の意識が客観世界と無関係に創造した主観の所産にすぎない、というのです。ここに哲学史上はじめて明確に、価値の問題が、事実との対比において登場することになります。
 新カント主義は、カントが感性を受動的・反映的能力とし、悟性を能動的・創造的能力だとして両者を区別したことをとらえ、この区別を媒介のない対立とし、感性による事実の認識と悟性による価値の認識を全く別個のものとして切りはなしてしまうのです。しかし人間は他の動物と異なり、自然や社会を変革する能力をもっています。その変革能力は、感性、悟性、理性という認識能力をフルに発揮させることによって生じます。その意味では、カントが人間の認識を感性と悟性の統一として論じたように、感性、悟性、理性は区別されつつも統一されており、事実の認識と価値の認識も区別されつつ統一されているのです。
 価値意識とは、人間が変革の立場にたって対象を考察したときに生じる「世界はこうあるべき」とする当為の意識であり、人間は「あるべき姿」に価値を認め、それを目的に掲げて対象変革の実践に踏み出すことになります。「あるべき姿」という価値意識は、客観世界の「現にある姿」を認識し、それを変革しようという意識から生じるのであって、客観世界と無関係な意識ではないどころか客観世界を反映しつつ、それを揚棄しようとする主観の産物なのです。
 事実に事実の真理があるように、当為にも当為の真理があります。人類は実践を媒介にして、事実の真理と当為の真理の認識を蓄積することをつうじて、自然や社会を変革する能力を高めてきました。したがって、事実と価値、存在と当為とは、事実・存在から価値・当為が生まれるという意味では連続しながらも、事実・存在を揚棄したものとして価値・当為が生まれるという意味では非連続性であるという連続性と非連続性との統一という関係のうちにあるのです。空想と唯物論的理想の違いもここから生まれます。観念論的理想も、一つの価値を示すものではありますが、それは客観的事実から切りはなされた空想でしかないのに対し、唯物論的理想は、客観的事実に立脚し、客観的事実に根ざした理想、つまり当為の真理として現実性に転化する必然性をもった価値なのです。「真理は必ず勝利する」との命題は、この唯物論的理想としての「当為の真理」を示しています。

②コーエン(一八四二~一九一八)
 コーエンは、ランゲの跡をついでマールブルク大学教授となり、新カント主義のマールブルク学派をつくり出した人物です。彼はカントの思想をいっそう観念論的に徹底させ、一切の認識の内容はわれわれの思惟みずからが産出するという思惟一元論を貫きました。その立場から、空間・時間もカントのいうような思惟から独立した直観形式ではなく、思惟のカテゴリーととらえただけではなく、経験によって与えられる感覚も、思惟によって規定されてはじめて自然科学の対象となるとして、経験のもつ唯物論的性格までも否定してしまいました。もっとも彼の場合、認識の根本原理となる思惟とは、個人の思惟ではなく、論理的な思惟、言いかえるとプラトンのイデアを意味していました。その立場から彼はカントを社会主義の創始者と理解し、社会主義を主観的なイデア社会としてとらえ、搾取と階級のない社会という唯物論的基盤から目をそむけてしまったのです。
 弁証法的唯物論と史的唯物論という、唯物論の土台のうえに誕生したマルクス主義の「社会主義論」を、徹底した観念論の土台のうえに置きなおすことは、ある意味で「空想的社会主義」に逆もどりすることにほかなりません。その意味では、新カント主義の修正主義的社会主義論が理論的にも実践的にも破綻するのは時間の問題だったということができるでしょう。

③ヴィンデルバント(一八四五~一九一五)と
 リッケルト(一八六三~一九三六)

 コーエンが新カント主義のマールブルク派とよばれるのに対し、ヴィンデルバントとリッケルトは、新カント主義の西南ドイツ学派とよばれています。西南ドイツ学派の特徴は、カント哲学を価値哲学として解釈しようとするところにあります。
 ヴィンデルバントは、カントの『純粋理性批判』の意義について、「哲学がもはや世界の模写ではありえず、哲学の課題はすべての思惟に価値と妥当とをはじめて与える規範を知ることである」ことを教えてくれたことにあるとして、ランゲと同様、事実と価値とを対立するものとしてとらえ、哲学においては価値のみに意義があるとします。彼は反覆・持続する自然現象を対象とする自然科学においては、普遍的・一般的な法則を探究することが可能であるから「法則科学」が成立するが、一回かぎりの特殊的な社会現象を対象とする社会科学においては、法則は存在しないから、ただその価値を問題とする「出来事の科学」が成立するのみだとします。彼は社会科学の法則性を否定したうえで、もっぱら社会科学は価値の存否、妥当の有無を論じうるのみだとしたのです。こうして新カント主義は、事実と価値の峻別に加え、社会科学の法則性の否定というマルクス主義を攻撃する二本の武器を手にしたことになり、その総決算がウェーバーの「没価値論」となってあらわれることになります。
 リッケルトも、ヴィンデルバントの二分説を採用し、自然科学は価値や意味にとらわれない「普遍化」的方法がとられるのに対し、社会科学は価値の見地から評価される「個別化」的方法に分類されるとしました。
 彼らの考えには、以下のような問題があります。一つは法則性の問題です。法則とは必然的な連関、運動を認識のうちにとらえたものを意味しています。世界における根本的必然性は対立という関係であり、対立する二つの極の本質的な関係が対立物の相互浸透と対立物の相互排斥(闘争)の二つであり、両者を合わせて対立物の統一とよばれます。対立物の相互浸透と対立物の相互排斥は、いずれも運動の法則を示すものであり、前者は「構造法則」、後者は「発展法則」とよばれます。前者は反覆・継続する循環的現象にみられる運動法則であり、後者は一回限りの生成・消滅する現象にみられる運動法則です。自然にも社会にも、反覆・継続する構造法則があると同時に、自然や社会のすべての事物は生成・発展・消滅するものとして発展法則をもっています。自然における生物の種の進化は発展法則を示すものであり、地球の運動は構造法則を示すものです。社会における資本主義的恐慌は構造法則であり、生産力と生産関係の矛盾は発展法則です。したがって、自然には法則があるが、社会には法則がないとする見解は正しくありません。
 二つは自然科学では事実のみが問題であるのに対し、社会科学では価値のみが問題だとする見解も正しくありません。自然科学も社会科学も、その根本には人間が人間としてより善く生きるために自然や社会を変革するという目的が存在しているのですから、自然科学でも社会科学でも客観世界の「現にある姿」という事実が問題であると同時に、多かれ少なかれ「あるべき姿」という価値、当為も問題にせざるをえないのです。したがって自然科学においても法則の探究のみならず、原発、原・水爆や劣化ウラン弾の開発、遺伝子の組み換え、臓器移植、クローン人間などの問題では、価値や倫理の問題が鋭く問われることになりますし、社会科学においても、価値の問題のみならず、近代の古典経済学は資本主義の運動法則の解明をその課題として掲げたのです。
 こうしたことをみても、事実と価値とを全く切りはなしてとらえる形而上学の誤りは明瞭だといわなければなりません。

④ウェーバー(一八六四~一九二〇)
 ウェーバーは、新カント主義の影響のもとに、事実と価値を峻別し、経験科学の「没価値性」の見地から史的唯物論の批判をおこない、現代においてもなおその影響力を保っています。彼の代表的論文である一九〇四年の『社会科学方法論』(正式名称は「社会科学および社会政策の認識の『客観性』」・『世界の大思想3・ウェーバー』河出書房新社)は、その冒頭において、ヴィンデルバントとリッケルトの名をあげ、この論文は「すべて本質的な点においては、もっぱらそれらの研究に結びついていることに、すぐに気がつくであろう」(同五二ページ)とわざわざことわっているほど、彼らの影響を強く受けています。
 まず彼は「経験的な知識と価値判断との厳密な分離」(同)を要求し、「『存在するもの』の認識と『存在すべきもの』の認識とを原理的にわける」(同五三ページ)という事実と価値の峻別を求めます。したがって「われわれの意見では、拘束力のある規範や理想を発見して、そこから実践にたいする処方箋をひきだせるという期待をかけるなどということは、経験科学の課題では決してありえない」(同)として、経験科学の「没価値性」を主張します。言いかえると、理想や理念、価値を論じることは「経験科学の対象ではない」(同五七ページ)し、「価値の妥当を評価することは信仰上の問題」(同)であって、それは「価値の選択」(同五五ページ)の問題にすぎず、したがってそこには真理は存在しないとします。いわば価値の問題については、「多様な価値観」のなかから、どれを選択するかだけの問題であり、どの価値が正しいのか、真理なのかは問題にしえないというのです。
 では経験科学は何を課題とするのかといえば、「なすべきことがらを教える」(同五六ページ)のではなくて、「なしうること」(同)の「客観的な意義」(同)を教えることにあるとして、「理念型」(同九一ページ)というカテゴリーを持ち出します。「理念型」とは「現実のどこにも経験的にはみいだすことはできない」(同)「ひとつのユートピア」(同)であり、それに照らして現実の社会を説明する手段にすぎないというのです。「この種のユートピアは、……どれもこれもたがいにちがったのがひじょうにたくさん、つくられる」(同九二ページ)のであり、理念型を論じることは「思想の遊戯」(同九三ページ)にすぎないのであって、「どんな価値をもみとめない」(同)ことになります。
 こうした理論の展開をつうじて、彼がもっとも強調したいことは、事実と価値を混同し、ユートピアの「理念型」にすぎない社会主義を理想にかかげるマルクス主義は、「科学的社会主義」を自称しているが、エセ科学にすぎない、という結論なのです。すなわち、「いわゆる『唯物史観』というものは、だんことして排斥さるべき」(同六九ページ)だということが、ウェーバー論文の「本質的な目的のひとつ」(同)であって、「マルクス主義的な『法則』や歴史的発展についての構成はみな――理論的に誤謬がないかぎりにおいてのことではあるが――理念型的な性格をもっている」(同一〇四ページ)のであり、したがってマルクス主義が「経験的に妥当するものだとか、ないしはさらにすすんで真実な……『活動力』『傾向』であるなどと、考えられるならば、たちどころに、それは危険なものとなる」(同)、と結論づけるのです。
 『資本論』のなかで明らかにされた資本主義の運動法則と社会主義への発展法則は、ユートピアとしての「理念型」にすぎないのであって、何ら真理でもなければ、現実に妥当するものでもない、というわけです。このウェーバーの見解は、新カント主義の到達点を示すものということができるでしょう。新カント主義は、たんに観念論の立場から唯物論を批判したものというにとどまらず、ブルジョアジーのイデオロギーとして革命の哲学であるマルクス主義を攻撃するところにその本質があるといわなければなりません。それは事実と価値の峻別、社会科学における法則性の否定という二つを武器にして展開された理論ですが、それがどんなに科学的装いを身にまとっているとしても、科学とは無縁の反共攻撃なのであり、それはベルンシュタインと第二インターの果たした歴史的役割からしても明確だといわなければなりません。
 ウェーバーの理論的誤りもまた新カント主義の誤りの総決算とでもいうべきものです。まず事実と価値を峻別することの誤りは、変革を事とする人間にとって、事実と価値は連続性と非連続性の統一としてとらえなければならないことから明らかです。また事実に真理があることを認め、それを探究することが経験諸科学の任務というのなら、「事実の真理」をふまえ、それを揚棄するものとして「当為の真理」つまり価値の真理が生まれることを否定するのは、原因を認めながら結果を否定するに等しい論理的矛盾です。
 何よりもウェーバーの「没価値論」には実践の視点が欠けており、もっぱら解釈の立場から事実の真理と当為の真理の間に本来存在しない断絶を観念論的につくり出しているのです。人間は自然や社会を変革する存在ですから、経済的な生産労働をはじめとし、政治的、法的、道徳的、倫理的なすべての行為において、「何を為すべきか」を問題とし、その真理を探究することで人類の歴史を刻んできたのであり、「当為の真理」「価値の真理」を否定することは、人間が人間として生きることを否定するに等しい暴論といわなければなりません。
 ウェーバーもさすがに『資本論』の事実に立脚した緻密な資本主義の分析は否定しがたいところから、「理論的に誤謬がないかぎりにおいてのことであるが」などと負け惜しみ的批判にとどめざるをえなくなっていますが、史的唯物論を批判してみても人類史が原始共同体から奴隷制、封建制、資本主義へと法則的に発展してきた事実までを否定することはできないでしょう。彼がもっとも問題とする社会主義についても、マルクス、エンゲルスは、「社会的生産と資本主義的取得」という「事実の真理」を揚棄するものとして「当為の真理」である「社会的生産と社会的取得」としての社会主義を展望しているのであり、けっして「ユートピア」社会主義ではなく、「科学的」社会主義なのです。二一世紀の資本主義の行き詰まりは、社会主義への展望を「ソ連型社会主義」とは異なる人間解放の真のヒューマニズムの社会として現実的なものとしつつあり、決して社会主義がユートピアでないことを歴史的に証明しつつあります。
 結局、ウェーバーの立場は社会を解釈の立場でしかみない観念論にすぎず、変革の立場を否定することによって、変革する主体という人間の能力そのものを見失う議論だということになるでしょう。歴史の進歩と発展の側にたつのか、それとも後退と反動の側にたつのかは、けっして「価値の選択」の問題として傍観者の立場から評論していてすむ問題ではなく、直接人民の生活と権利にかかわる問題なのです。
 アリストテレスの『形而上学』は「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」との命題で始まっています。何のために「知ることを欲する」のかといえば、ソクラテスのいうように「ただ生きるということではなくて、よく生きるということ」のためであり、そのために人間は、価値と当為の真理を探究し続けるのです。