2013年11月23日 講義

 

 

第2講 序論② 「哲学の方法」としての弁証法
    緒論真理への道

 

3.「序論」(つづき)

● 前回の復習

 ・人間の意識(認識)が直接知にはじまり媒介を経て絶対知(絶対的真理)に
  至る「知の生成こそ精神現象学がのべるもの」(28ページ)

 ・絶対的真理(主観と客観の完全な一致)は、できあがった実体ではなく、主
  体的な運動をつうじて実現されるもの

 ・「大切なことは、真理を実体としてだけではなくて、主観(体)としても理
  解し、表現するということ」(23ページ)

 ・「真理は、鋳こまれた貨幣のようなもの」(34ページ)ではなく、「出来上
  がったものを与えられて、そのまま懐にいれればいいというようなものでは
  ない」(同)

③ 「知」とは何か

● 知とは、自己(主体)が、対象(客観的事物、実体)を
 自己のものにしていくこと

 ・自己が、自己と対象との完全な一致(主観と客観の同一)をめざす運動から
  生まれる主体の認識が「知」である

 ・「知一般」(27ページ)は「絶対的他在において純粋に自己を認識すること」
  (同)

 ・言いかえると、自己が「絶対的他在」である客観的事物を自己のうちに取り
  込み、自己の「意識の所有物」(33ページ)とすること

● すなわち知とは、自我と自我のうちに取り込んだ実体(対象=客観的事物)と
 の間の、言いかえると主観と客観の間の「不等な関係」(同)の解消である

 ・「意識のなかには、自我と自我の対象となる実体(意識のうちに取り込まれ
  た客観的事物―高村)との間に不等な関係がある。この不等性が両者の区別
  であり、否定的なもの一般である」(同)

 ・この「不等性」を解消する道程をたどっているのが「意識の経験の学」とし
  ての精神現象学

 ・つまり意識のなかには自我と対象という2つの契機があり、自我が次々と対
  象の真の姿を経験し、遂に自我と対象との区別がなくなることが絶対的真理
  としての絶対知

●主観と客観との不等性の解消は、対象を自己のうちに取り込み、
 思惟の力によって対象をとらえなおすことでおこなわれ、真理に接近する

 ・知は、まず対象を「自己という場に移し」(30ページ)「自己のえた所有物」
  (同)とする―それが「表象」(対象をイメージとして自己のうちに取り込
  むこと)であり、表象する能力が「感性」

 ・表象された対象は、思惟の力により「分析」され(31ページ)、「要素に分
  解」(同)される

 ・それは「思惟の、純粋自我の活力」(同)により、対象を「固定した、静止
  的な」(同)要素にかえるものであり、この「絶対的な威力」(同)が「悟
  性」(同)とよばれるもの(感性から悟性に)

 ・悟性は、「存在するというだけの直接性を止揚」(32ページ)し、「真の実
  体」(同)、つまり実体の本質(対象の真の姿)をとらえることになる
  (「悟性的真理の認識」)

 ・しかし哲学的意味の真理とは「対象と表象との一致」(『小論理学』㊤ 124
  ページ)ではなく、「或る内容のそれ自身との一致」(同)を意味するつま
  り哲学的真理は「自我と対象の不等・ 」(33ページ)の解消のみならず、
  「実体と実体自身との不等」(同)の解消

 ・「或る内容のそれ自身」または「実体自身」とは、対象の概念(真にあるべ
  き姿)であり、概念を認識することが「理性的真理」をとらえること(悟性
  から理性に)

 ・「一般的に言って、哲学は表象を思想やカテゴリー、より正確に言えば概念
  に変えるものだと言うことができる」(『小論理学』㊤ 65ページ)

 ・「存在は実体的内容であり、この内容はそのまま自我の所有であり……すな
  わち概念である。ここまできたとき精神現象学は終る」(34ページ)

④ 哲学の「方法」(39ページ)

● 問題は、どうすれば哲学的真理としての「概念」を認識しうるのかにある

 ・概念とは、一方で自我(主体)における実体(客体)の真にあるべき姿の認
  識(主観)であると同時に、他方で実体(客体)の真にあるべき姿であり、
  したがって主観と客観の統一としての絶対的真理である(悟性から理性に)

 ・言いかえると、絶対的真理としての概念を認識するには、いかなる論理の形
  式(思惟法則)を必要とするかの問題

 ・ヘーゲルは、それが弁証法にほかならないことを、形式論理学、カント、
  シェリングの形式主義の批判をつうじて明らかにしていく

● 形式論理学批判

 ・まず歴史的にみても最初に登場するのは数学の方法であり、数学は「認識の
  明証性を誇りにし、哲学に対し自慢している」(37ページ)

 ・しかし数学的真理なるものは、「大きさの原理という概念のない区別の原理
  と、相等性の原理、つまり生命なき抽象的統一の原理」(38ページ)による
  ものであって、「外面的な、生命のない内容」(同)しかとらえることはで
  きない

 ・すなわち数学は一方では質を捨象することで「概念なき量的関係をその原理」
  (39ページ)にすると同時に、A=Aという同一律をその基本原理にしてい
  るものであって、生命をもち無限に発展する概念をとらえることはできない

 ・「一般の生活にあっては、意識は、……目の前に在るもの、固定し静止して
  あるもの……をその内容としている」(40ページ)から、この同一律で足り
  るということができる

 ・しかしこの同一律は、固定性を一面的に主張することで現実に存在する生き
  ているものをとらえることができない独断論にすぎない

● 正―反―合という「形式主義」(同)批判

 ・そこから形式論理批判として、カントのカテゴリー論における正―反―合と
  いう「三律体系」(同)が生まれることになる

 ・カントのカテゴリー論における三律体系は、シェリングにおいて主観と客観
  の絶対的同一性の原理として弁証法に接近する

 ・しかしシェリング哲学は、弁証法に接近するものではあるが、対立物の統一
  を「内的な生命とその定在の自己運動の代わりに、直観」(41ページ)とし
  てとらえ、「このように公式を外的に空しく適用する」(同)形式主義にす
  ぎないのであって、この形式主義では生きているものとその概念をとらえる
  ことはできない

 ・すなわちシェリングの同一哲学は、「遠く離れていると思われるものを力ず
  くでとり集め、……そうすることによって概念らしい外観を与えはするが、
  概念そのものを……言い表わすという大切なことは省略する」(同)

● シェリングの形式主義は、弁証法に「仕上げ」(42ページ)られねばならない

 ・対立物の統一という弁証法の形式は、「対象の生命に身を委ね」(43ページ)
  た結果として手に入れた、「対象の内的な必然性」(同)を表現したもので
  あって、外的に押しつけられる形式主義ではない

 ・「存在者の運動は、一方では自らが自らにとり他者となり、……他方では、
  存在者はこの展開乃至自らの定在を自らにとりかえす。……この前者の運動
  においては、否定性は区別するはたらきであり、定在を措定するはたらきで
  ある。この後者の自己への復帰においては、否定性は一定の単純性に生成す
  ることである。こういうふうにして、内容はその規定態を他者から受けとっ
  て自分にとじつけたのではないことを示す」(42ページ)―真理は主体であ
  る

 ・対立物の統一という弁証法の「3つの側面」(『小論理学』㊤ 240ページ)
  は、『小論理学』でより整理して示される

 ・すなわち、第1のモメントは、客観的事物という対象を「固定した規定性」
  (同)においてとらえる「悟性的側面」である

 ・しかし、すべての客観的事物は運動・変化・発展しているから、悟性的側面
  は否定され、「有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行」
  (同245ページ)をせざるをえない。これが第2のモメントとしての「否定
  的理性」の側面である

 ・「その真の姿においては、弁証法はむしろあらゆる悟性的規定、事物、およ
  び有限なもの自身の本性である」(同)

 ・しかし、第1のモメントも第2のモメントもいずれも対象を一面的にとらえる
  ものであり、真理は「対立した2つの規定の統一」(同252ページ)のうち
  にある。すなわちすべての客観的事物は静止と運動という対立物の統一(概
  念)としてのみ真理である。これが第3のモメントとしての「肯定的理性」
  の側面である

 ・このような客観的事物の弁証法的な運動を思惟においてとらえるのが弁証法
  的論理学であり、ここに「思惟と存在の同一」(43ページ)、主観と客観の
  同一が実現されることになる

⑤ 弁証法を批判する3つの見解批判

●「学の研究にあたって大切なことは、概念(概念的把握)の努力を
 身に引き受けること」(46ページ)

 ・表象から悟性を経て概念に至る努力を引き受けることで、哲学的真理に到達
  しうる

 ・この概念の努力を引き受けることなく真理探究に背を向ける3つの見解(懐
  疑論、命題論、ロマン主義ないし常識論)がある

● 懐疑論

 ・「弁証法は普通、明確な概念のうちに、恣意によって、混乱と外見上の矛盾
  をひきおこす外面的な技術」(『小論理学』㊤ 245ページ)と考えられてい
  る

 ・この考えの基礎となっているのが、弁証法における否定的側面にのみ拘泥し、
  すべてを疑う「懐疑論」―真理への絶望

 ・しかし「概念把握的思惟(弁証法―高村)においては、否定的なものは、内
  容そのものに帰属しており、内容に内在する運動及び規定として、……肯定
  的なものである」(46〜47ページ)

● 命題論

 ・命題論には、例えば「神は存在である」(48ページ)という、主語と述語の
  結合による命題によって真理(概念)をとらえうるとする立場である

 ・しかし命題論には、「内在的概念がかけている」(50ページ)。というの
  も、「AはBである」という命題は、Aを実体としてそれにBという属性を
  外から付加するものであって、Aが主体として自己を展開し、Bに移行する
  ものとしてとらえることはできないからである

 ・「主観(体)としての真理は弁証法的運動であるにすぎず、自己自身を生み
  ながら、進展しながら、しかも自己に帰って行く行程である」(同)から、
  固定した命題の形式でとらえることはできない

●「ロマン主義や常識哲学」(51ページ)

 ・彼らは「論証によらない」(同)で、常識や天才的な直観により真理を認識
  しうると主張する

 ・「各人は、生まれつきの理性に尺度をもっているから、そのままで哲学的に
  思索」(51ページ)することができるとして哲学的学習なくして真理を認識
  しうるとする

 ・「真の思想と学的洞察とは、概念の労苦においてのみえられるべきものであ
  る。概念だけが知の一般性を生みだすことができる」(53ページ)のであっ
  て、この一般性は、「教養(形成)を経た完全な認識」(同)であり、「固
  有の形式に成熟した真理」(同)である

 

4.「緒論」

● 認識能力の吟味は必要か

 ・カントは「認識する以前に認識能力を吟味することを要求」(『小論理学』
  ㊤ 166ページ)する

 ・しかし「絶対者を手に入れる道具としての、または、われわれに真理を見て
  とらせる媒体」(58ページ)について「あれこれと語ったりして苦労する」
  (59ページ)のは「無益な考え」(同)

 ・というのも認識能力の「吟味はそれ自身すでに、一種の認識」(『小論理
  学』㊤ 167ページ)であって、それは「水泳を覚えてから水にはいろう」
  (同)というような議論にすぎないから

● 真理への道は、「現象する知の叙述」(60ページ)の道

 ・真理への道は、精神の「現象する知」としての「意識」が発展して精神(絶
  対知)に至る道

 ・それは「真なる知に迫って行く自然的意識の道」(同)

 ・「この道は懐疑の道」(同)であり、「もっと本来的にいえば、絶望の道」
  (同)―弁証法的否定を積み重ねて真理にせまっていく道

 ・「真なる知」の目標は「概念が対象に、対象が概念に一致するところ」(61
  ページ)にあり、そこに至るまで意識は「止まることもないし、以前の停り
  場で満足することもない」(同)―「主観と客観の一致」のより発展した形
  態が「概念と客観」(対象)の一致」

 ・問題はなぜ意識のうちの「懐疑」あるいは「否定」は生じるのかにある

● 経験をつうじて意識は真理に接近する

 ・意識が知の真理性を吟味する「尺度はわれわれのうちに」(63ページ)あ
  り、「吟味するとは、対象がその概念に一致するかどうかを、見ること」
  (同)
  にある

 ・しかし意識は生まれながらに自己のうちに「概念」をもっているわけではな
  い

 ・単に「意識にとって自体的なもの」(あるべきもの=当為、64ページ)が尺
  度として存在し、それと知、すなわち「意識にとっての対象」とを比較する
  ことから出発する

 ・尺度となる「自体的なもの」は経験を蓄積した記憶から生じるものと思われ
  る(蓄積した記憶のないところに尺度は生じない)

 ・尺度と知が一致しないときは、「知が変わる」(64ページ)と同時に「対象
  自身も変わる」(同)

 ・「なぜならば、現存する知は本質的には対象についての知」(同)であり、
  他方「対象は本質的には知に帰属しているからである」(同)

 ・意識にとって「対象自身も変わる」とは、対象のこれまでの「自体的なもの」
  (当為)が、真の尺度(当為の真理としての概念)ではないとして否定され
  ることを意味する

 ・いわば「吟味は知の吟味であるだけでなく、尺度の吟味でもある」(同)こ
  とになる

 ・こういう「弁証法的運動」(同)をくり返すことで尺度も知とともに「概念」
  に接近していくのであり、その運動をもたらすものが「経験と呼ばれるもの」
  (同)である

 ・よって現象学は「意識の経験の学」(66ページ)である

 ・経験は、意識のうちの「自体的なもの」、「知(主観)」「意識のうちの対
  象(客観)」というすべての要素を新しいものにつくりかえ、主観と客観の
  同一という絶対的真理に向かって意識の前進をもたらす

 

5.脳科学における意識

● 意識(心)は脳科学のハードプロブレム(難問題)

 ・ブルームの「セントラル・ドグマ」(『脳の探検』)―「脳が行うことのす
  べては、どんなに複雑であろうとも、究極的には神経細胞要素の相互作用に
  よって定義できるだろう」(不破『自然の秘密をさぐる』227ページ、新日
  本出版、1990)という見解は脳科学の「共通の認識」(同228ページ)に

 ・しかし最近では意識は身体を通して「周囲の環境と相互作用」するなかで脳
  が発達し、意識が生まれるのであり、ロボット(身体をもつコンピューター)
  にも意識の宿る可能性があると考えられている―赤ちゃんロボットによる
  「寝返り」や「はいはい」の運動(東大・国吉康夫教授、ニュートン別冊
  『知能と心の科学』75ページ、2012.12)

 ・脳と意識の関係は「附帯現象説」(ブルーム説)から「相関関係説」に移行
  しつつある(同74ページ)

 ・「脳科学総合研究センター」(日本の脳研究の中枢)ではロボットが人間の
  心を読めるようにする(人間の心をもつ)研究を行っている(「探検バクモ
  ン」2013.11.6)

 ・意識がハードプロブレムとされるのは物質と精神は対立する存在であるにも
  かかわらず、なぜ物質としての脳から精神としての意識が生まれるのか、意
  識とは何かという哲学的問題にもかかわっているからである
 ・心の動きは、目に見えないだけでなく刻々変化するものであり、取り出して
  科学的に調べることは困難

● 脳科学の困難性は、生物学のみならず、
 人文科学や哲学にも関わる総合科学性にもある

 ・人間は社会的存在であり、生理的な一次感情をもつのみならず、社会的な二
  次感情をもつ

 ・社会における複雑な人間関係をつうじて社会的感情が生じ、反社会的言動抑
  制の規範として道徳、倫理が生まれる(人文科学)

 ・しかも人間は自由意志をもって行動し、自らの生き方を選択する存在でもあ
  る

 ・したがって脳科学の研究にとって、社会的二次感情と理性の関係を考察する
  うえで社会を科学する史的唯物論も一役かわねばならないが、科学的社会主
  義はまだ正面からその課題に答えていない

 ・脳科学は、生物学、心理学、人文科学、哲学などの総合科学だから「脳科学
  総合研究センター」が設立された―『現象学』もその研究に貢献しうるもの

● 脳科学の発展は脳の「機能局在」の解明に始まる

 ・近年顕微鏡の性能向上、遺伝子操作技術の発達、脳の内部の画像化技術の向
  上などにより、脳の研究は近年急速に進歩

 ・脳は各領域でさまざまの役割分担をして情報を処理している(脳の「機能局
  在」とよばれる)

 ・意識も、脳の各領域のさまざまな働きの結果生じると考えられている―特に
  深い関わりをもつのが大脳皮質

 ・ヒトの大脳皮質で特に大きく発達しているのが、①下頭頂小葉(縁上回と角
  回) ②大脳左半球のブローカ野とウェルニッケ野③前頭前野④前部帯状回
  (ヒト特有の巨大神経細胞が密集)(同14ページ)

 ・これらの箇所の相互作用が意識(心)に関係していると思われるが、詳細は
  不明

● 脳の働きとしての「吟味」 

 ・1996年 イタリアのリゾラッティは心の働きに前部帯状回の巨大細胞「ミ
  ラーニューロン」が深く関わっていることを発見。ミラーニューロンは他者
  の行為を脳内に再現(ミラーリング)する働きに関わっているとされている
  (同22、24ページ)

 ・ミラーニューロンは「脳内の展望台」(同75ページ)であり、「自分自身を
  他者の視点から見る」(同)こともできる、「私のなかの私」

 ・自分自身を俯瞰的に見ることを「メタ認知」とよぶ(「探検バクモン」)

 ・他方、大脳の司令塔といわれる前頭前野にはワーキングメモリー(作業記憶
  の働き)がある

 ・ワーキングメモリーとは、何かをするために憶えておく記憶(未来のための
  記憶)であり、「目的をもって情報を記憶し、他の記憶と照合することによ
  り結論を導き出す際に使われる」(高島明彦監修『脳のしくみ』42ページ
  日本文芸社、2006.1)

 ・ミラーニューロンやワーキングメモリーは「知の吟味」に関わっているので
  はなかろうかと思われるが、詳細は不明