『ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ』より

 

 

第二講 「序論」 ②、「緒論」

一、「序論」②

 知とは自我と対象との交互作用から生じる認識の発展

 前講で、「序論」の根本思想は真理は実体ではなく主体であることを学びましたが、今回は引き続き「序論」の「知」とは何かの検討から入ります。
 『現象学』は、直接知から始まり、絶対知という絶対的真理に到達するまでの「知の生成」(二八ページ)を取り扱っており、絶対知に到達するには、「知は永い道程を通りぬけなければならない」(同)とされています。
 直接知とは、知の対象を意識のうえに直接的に反映する感覚的意識であり、絶対知とは対象を真にあるべき姿に変革する創造的な理性的意識です。ヘーゲルはこの長い知の道程を、感覚、知覚、悟性、理性という意識の弁証法的発展過程としてとらえています。
 知の道程を論じるには、まず「知」とは何かが明確にされなければなりませんが、ヘーゲルは「知一般」(二七ページ)とは、「絶対的他在において純粋に自己を認識すること」(同)だといっています。つまり知とは、経験をつうじて認識主体としての自我が認識対象である「絶対的他在」を自己のうちに取り込み、自我と一体化することで「純粋に自己を認識する」という、主観と客観の同一をめざす自我ないし主体の意識の運動を意味しているのです。
 では、その意識の運動の出発点は何かといえば、まず意識は、自我に対立するものとして自我の外部に存在している対象(客観的実在)を「最初の否定によって、まだやっと無媒介なものとして、自己という場に移しおかれ」(三〇ページ)ることに始まるのです。「無媒介なもの」とは、自我の自覚的、主体的な働きとしてではなく、受動的に鏡のように対象を写しとる意識という意味でしょう。意識は経験をつうじて対象を「自己という場」に反映させるのであり、反映として自己のうちに取り込まれた対象が「表象」(同)とよばれる対象のイメージなのです。
 こうして意識は対象をまず「表象」として取り込むことによって、意識のうちには、自我という主体と対象の表象という二つの対立する契機が生まれることになります。
 「意識のなかには、自我と自我の対象となる実体との間に不等な関係がある。この不等性が両者の区別であり、否定的なもの一般である」(三三ページ)。意識のなかにおける自我と表象された実体(対象)との間には当然にも最初は「不等性」、つまり区別があり、その区別を否定することによって自我と対象とは接近し、ついには同一となって対象の真の姿を認識することになるのです。その区別解消の契機となるのが「経験」(同)であり、『現象学』は、自我が経験をつうじて対象との間の「不等性」を解消し、自我と対象、主観と客観の同一を実現しようとする「意識がつむ経験の学」(同)なのです。
 つまり、「意識がつむ経験の学」とは、自我が経験をつうじて一歩ずつ対象の真の姿、真にあるべき姿に接近することを積み重ね、ついには自我と対象との区別がなくなって、主観と客観との絶対的な同一としての絶対知(絶対的真理)に到達するまでの「意識の経験」を論じた認識論にほかなりません。
 では経験をつうじて、どのようにして自我と対象との「不等性」を解消していくのかといえば、それは精神のもつ感性、悟性、理性という「力」によってです。感性とは、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)によって、対象を「感じる力」であり、悟性とは、五感によってとらえられた対象を「知る力」「考える力」であり、理性とは「創造する力」ということができます。この感性、悟性、理性を活用して対象をとらえ、つくりかえることによって、自我は対象との同一性をめざすのです。
 知はまず、感性によって対象を「無媒介なもの」として丸ごと「自己という場に移し」(三〇ページ)、「自己のえた所有物」(同)とします。それを「表象」とよぶことは先に学んだところですが、「表象」とは対象を丸ごとイメージとして自己のうちに取り込むことなのです。感性は、対象を丸ごと自己のうちに取り込むのに対し、悟性は取り込んだ「表象を分析」(三一ページ)し、「要素に分解する」(同)ことによって対象の「本質的契機」(同)を把握します。
 「分けるというはたらきは悟性、最も不思議で偉大で、或はむしろ絶対的な威力である悟性の力であり仕事である」(同)。悟性は、意識のうちに取り込んだ対象を要素に分解することで対象の「本質的契機」、つまり対象の「真の姿」としての「本質」をとらえます。その意味で悟性は「思惟の、純粋自我の活力」(同)なのです。
 このように悟性は、分析によって対象の「存在するというだけの直接性を止揚」(三二ページ)して対象の本質をとらえる意識なのですが、反面からするとこの分析は、生きている対象を「固定した、静止的な規定」(三一ページ)に変えてしまうという大きな欠陥も抱えていることに注意しなければなりません。
 したがって悟性の力によって対象の「本質」をとらえれば、知は目的地に達するのかといえば、そうではないのであって、知が真理に達するためには、本質の認識からさらに前進して概念、つまり真にあるべき姿を認識しなければならない、というのです。

 『現象学』は理想と現実の統一をもって終わる

 「そこで今われわれのすべき仕事は、……固定し規定された思想を止揚して一般的なものを実現し、一般的なものに精気を与える点に在る」(三二ページ)。樫山氏が「一般的なもの」と訳している箇所は、全体として「特殊なもの」に対立する「普遍的なもの」として理解してください。ここにいう「固定し規定された思想」とは、本質を意味しています。知は本質を「止揚して一般的なもの」としての「概念」(同)を認識することになります。
 「そのとき、精神は自らにとって、在る通りの対象となり、直接的であるという抽象的な場、知と真の分離という抽象的な場は、超えられている」(三四ページ)。精神は概念を認識することによって初めて本来の精神となるのであって、概念の認識により、「知と真の分離」は克服され、知と真の統一という知の目標に達することになるのです。いわば概念を認識することが究極的な「絶対的他在において純粋に自己を認識すること」にほかならないのです。
 しかし概念を認識することによって、知と真の統一は実現されますが、それによって『現象学』は終わるわけではありません。「存在は絶対に媒介されたものである。存在は実体的内容であり、この内容はそのまま自我の所有であり、自己的である、すなわち概念である。ここまできたとき精神現象学は終る」(同)。認識された概念が「存在」となるとは、真にあるべき姿という主観的な概念が客観的実在のうちに実現され、存在が概念によって「絶対に媒介されたもの」となり、概念という理想が現実になったという、理想と現実の統一を意味しています。
 この概念と存在の統一としての真理は、「バッカス祭の陶酔」(三九ページ)であり、「誰一人として酔わぬということがない」(同)ものであって、このとき初めて「精神現象学は終る」のです。
 ヘーゲルにとって、「概念」はその要となるカテゴリーですので、『小論理学』の整理された言葉でこの箇所をもう少し説明しておきましょう。まずヘーゲルは、「真理とはどういうものか」(『小論理学』㊤一二四ページ)との問題を提起します。「普通われわれは、対象と表象との一致を真理と呼んでいる」(同)が、「しかし哲学的な意味」(同)の真理とは、概念と存在との一致であるといいます。
 この真理としての概念とは、存在のうちに潜んでいる「本質的なもの、内面的なもの、真なるもの」(同一〇九ページ)を意味しています。言いかえると真理としての「概念」とは、認識の対象(存在)の「真の姿」である本質と、「真にあるべき姿」としてのイデア(理念)なのです。対象の本質を認識することが「事実の真理」の認識であり、この本質の認識からさらに進んで、イデアとしての概念を認識することが「当為の真理」の認識となるのです(拙著『世紀の科学的社会主義を考える』一五六ページ以下)。『現象学』は概念(イデア)と存在の一致という「絶対知」に至るまでの知の生成の道程をたどり、真理とは実体ではなく主体であることを証明しようとする学問だということになるでしょう。言いかえると、自我が意識のうちに対象のイデアをとらえ、それを客観のうちに実現した理想と現実の統一によって「精神現象学は終る」のです。

 哲学の方法としての弁証法

 続いてヘーゲルは、ではどうすれば哲学的真理としての概念(イデア)と存在との一致を実現しうるのかという、「学の方法」(三九ページ)、つまり哲学の方法を問題とします。こうした「学の方法」を問題とする「方法本来の叙述は論理学の仕事」(同)であり、「むしろ論理学そのもの」(同)ということができます。しかしヘーゲルは『現象学』のなかでも「学の方法」の検討をおこない、荒削りではあっても弁証法的論理学こそが真理を認識する方法であることを訴えているのです。
 まず最初に検討されるのは、数学の「方法」論です。というのも数学は「認識の明証性を誇りとし、哲学に対し自慢している」(三七ページ)のですが、哲学の立場からすると、数学の方法は哲学の方法よりも真理を探究するうえで劣っており、「哲学が軽蔑せざるを得ないようなもの」(同)にすぎません。
 というのも、まず第一に「数学の目的つまり概念は量(大いさ)」(同)にあることです。すべての事物は質と量との統一としてのみ存在し、しかも事物の真の姿(本質)や真にあるべき姿(概念)は、「質」にのみ関係しています。したがって量のみを取り扱う数学という「知の運動は表面を行くだけで、事態そのものには触れない、本質つまり概念には触れない」(同)という制約をもっているのです。
 第二に問題なのは、数学の根本原理はA=Aという「相等性」(同)、つまり同一性の原理にたっており、ここに「数学的明証」(同)の根拠を見いだしていることです。「相等性の原理」とは、「自らは動かない」(同)「死せるもの」(同)の原理にほかなりません。
 結局数学の方法とは、「大いさの原理という概念のない区別の原理と、相等性の原理、つまり、生命なき抽象的統一の原理」(三八ページ)にすぎないということができます。「一般の生活にあっては、意識は……目の前に在るもの、固定し静止して在るもの」(四〇ページ)を問題にしていますから、この相等性の原理(同一律)でも足りるかもしれませんが、哲学の場合には真理を探究するがゆえにそれでは足りないのです。
 哲学の内容となるのは、経験のうちにある「現実的なもの、自己自身を措定するもの、自己のうちで生きるもの、すなわち、自らの概念のうちにある定在である」(三八ページ)。哲学は数学や一般の生活と異なり、質と量の統一としての「現実的なもの」「自己のうちで生きるもの」を取り扱いますから、真にあるべき姿としての「概念」をも問題にしなければならないのです。したがって概念を問題とする哲学の立場からすると、形式論理学のような「学問的な虚飾のこわばった行程」(四〇ページ)は追放されなければなりませんし、それに代わって、もっと柔軟に現実のうちの生命あるものをとらえる論理が求められることになります。
 ここに登場するのが、「カント的な三律体系」(同)です。すなわちカントは、その「カテゴリー論」で、量とは、「単一性 ── 数多性 ── 総体性」、質とは、「実在性 ── 否定性 ── 制限性」などという「正 ── 反 ── 合」の「三律体系」を示しました。シェリングは、カントの正・反・合を継承して主観(正)と客観(反)の絶対的同一性(合)の哲学を確立し、弁証法に大きく接近することになります。
 しかしヘーゲルは、正・反・合の形式そのものが弁証法に接近していることは評価しながらも、「この三律体系が絶対的意味に高められ、そのためその真の形式がその真の内容のうちで同時にかかげられ」(同)ていない、つまり形式は弁証法的ではあっても、内容をともなっていないところから、形式と内容が統一されていない「命のない図式」(同)になっているとして、ここでもシェリングの形式主義を厳しく批判しています。
 シェリングでは「内的な生命とその定在の自己運動の代りに、直観、すなわちこの場合は感覚知からえられた、そういう単純な規定が、表面的な類比に従って語られ、このように公式を外的に空しく適用することが、構成と呼ばれる」(四一ページ)として、シェリングの自然哲学における「三律体系」の「構成」の空しさを批判しています。生命のもつ自己運動をとらえるのに「三律体系」という「公式を外的に空しく適用」することは、「遠く離れていると思われるものを力ずくでとり集め、静止している感覚的なものを無理やりに結びつけ、そうすることによって、概念らしい外観を与えはするが、概念そのものをもしくは感覚的表象の意味を言い表わすという大切なことは省略する」(同)ことになるのです。
 「カント的な三律体系」という「すぐれたもの」(四二ページ)は「命を奪われ、精神をぬきとられ」(同)ていますので、それに命を吹き込み、「一般性に仕上げること」(同)が、いま求められているのです。それを一言でいうと、経験からえられる「対象の生命に身を委ねる」(四三ページ)ことによって、対象の「内的な必然性」(同)を正・反・合の形式においてとらえることが大切なのです。「対象の生命に身を委ねる」とは、意識の対象となる客観的事物のうちに対立・矛盾を見いだし、その矛盾を揚棄するものとして対象の概念(イデア)という「内的な必然性」をとらえることを意味しています。 
 すなわち「学はただ概念自身の生命によってのみ、組織されねばならない。規定態というものは、外的に図式から定在にはりつけられたものであるが、学にあっては、この規定態は充実した内容の自ら動く魂である。存在者の運動は、一方では自らが自らにとり他者となり、こうして自らに内在する内容となることである。他方では、存在者はこの展開乃至自らの定在を自らにとりかえす、すなわち、自己自身を一つの契機とし、自己を単純化して、規定態とする。この前者の運動においては、否定性は区別するはたらきであり、定在を措定するはたらきである。この後者の自己への復帰においては、否定性は一定の単純性が生成することである。こういうふうにして、内容は、その規定態を他者から受けとって自分にとじつけたのではないことを示す。そうではなく、内容は規定性を自己自身に与えるのであり、自己を自己から出て全体の契機に配列し、全体のなかに位置をえさせる」(四二ページ)。
 『現象学』では、ヘーゲルはまだ弁証法という用語を全面的に使用するには至っていませんが、ここは弁証法の基本形式を語っているところとして重要ですので、あえて長文の引用をしておきました。ヘーゲルが「学」と呼ぶのは「哲学」のことです。要約すれば「哲学」というものは「存在者」、つまり客観的事物のもつ弁証法的な運動を「組織」するものであって、正、反、合の弁証法的な形式を「定在(存在者 ── 高村)にはりつけ」るのではないというのです。存在者は「自らが自らにとり他者となり」ながらも「自らの定在を自らにとりかえす」という正・反・合の「内容」を自己のうちにもっているのであって、正・反・合という「規定態を他者から受けとって自分にとじつけたのではない」のです。この存在者のもつ運動を概念の形式においてとらえたものが「哲学」であり、したがって「学はただ概念自身の生命によってのみ、組織されねばならない」とされるのです。
 後にヘーゲルは、『小論理学』において弁証法を定式化し、即自 ── 対自 ── 即対自という「三つの側面」(『小論理学』㊤二四〇ページ)をもっていることを明らかにしました。第一のモメントは、事物を「固定した規定性」(同)においてとらえる「悟性的側面」(同)、つまり即自態です。しかし、すべての客観的事物は運動・変化・発展していますから、「固定した規定性」をとらえる悟性的側面は否定され、第二の「否定的理性」(同)の側面、つまり対自態に移行せざるをえません。それは「有限なもの自身の本性」(同二四五ページ)にもとづく「有限な諸規定の自己揚棄」(同)であり、こうして「反対の諸規定への移行」(同)となります。
 しかし、第一の側面も第二の側面もいずれも事物を一面的にとらえるにすぎないところから、「対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する」(同二五二ページ)のが「肯定的理性」(同二四〇ページ)という第三の側面、つまり即対自態となります。つまりすべての事物は、対立物の統一としてとらえられてこそ、真理となりうるのです。
 言いかえれば、即自とは未分化の統一体、対自とは対立・矛盾の顕在化した分裂体、即対自とは、対立・矛盾を揚棄した再統一体ということができるでしょう。このような客観的事物(存在)のもつ弁証法的な運動を思惟(思考)のうちにとらえたものが弁証法的論理学であり、この運動をつうじて「思惟と存在の同一」(四三ページ)、つまり概念と存在との同一としての真理が実現されることになります。

 弁証法を批判する三つの見解批判

 以上により、哲学の「研究にあたって大切なことは、概念(概念的把握)の努力を身に引き受ける」(四六ページ)ことであり、そのためには、弁証法という「哲学」が必要であることを学んできました。
 ヘーゲルは「一般的に言って、哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだということができる」(『小論理学』㊤六五ページ)と述べていますが、この認識の発展をもたらす「学の方法」が即自 ── 対自 ── 即対自の弁証法的論理学なのです。
 これに対し、弁証法という「学の方法」を否定し、概念を把握する努力を引き受けようとしないいくつかの見解があります。ヘーゲルはその例として懐疑論、命題論、「ロマン主義や常識哲学」(五一ページ)の三つをあげ、その批判を展開しています。
 まず懐疑論ですが、懐疑論とはすべてを疑うことによって概念の認識を否定する考えです。マルクスは自己のモットーを「すべては疑いうる」(全集四九五ページ)としていましたが、弁証法にとっても否定性は認識の発展にとって欠かすことのできない要素です。そこから「弁証法は普通、明確な概念のうちに、恣意によって、混乱と外見上の矛盾をひきおこす外面的な技術」(『小論理学』㊤二四五ページ)にすぎないとの誤解も受けていますが、この誤解を生みだした原因は、懐疑論と弁証法を混同したところにあります。
 同じ否定性を要素としながらも、懐疑論の場合は「肯定的なものを自らのなかに見てとらない否定的なもの」(四六ページ)であるのに対し、「概念把握的思惟(弁証法 ── 高村)においては、否定的なものは、内容そのものに帰属しており、内容に内在する運動及び規定として、また運動及び規定の全体として、肯定的なもの」(四六~四七ページ)となっているのです。ここにいう「肯定的なもの」が、否定の否定から生まれた「より発展した真理」としての概念を意味することは、いうまでもないでしょう。
 二つめの命題論とは、例えば「神は存在である」(四八ページ)という命題によって概念を認識しうるとする立場であり、ヘーゲルが「古い形而上学」(『小論理学』㊤一三五ページ)とよんで批判している見解です。命題とは、主語(神)と述語(存在)を繋辞(である)によって結合し、正または誤の判断を下しうるような判断を意味しています。
 この命題論からすると、主語にいかなる述語を附加するかによってその命題は真理となるか否かが決まるとされ、述語に真なるものを附加したとき、その命題は概念を認識し、真理となるというものです。例えば神は存在するのかしないのかという議論がありますが、神は存在すると考える人は、主語の「神」に述語の「存在する」を付加して「神は存在する」という命題は真理であるとします。
 ヘーゲルの批判は、命題論では、主語に対して述語が外から附加されたものにすぎず、主語が自ら展開することによって述語となるものではない、したがって命題論は偶然性に依拠する恣意的なものであって、必然的に真理をとらえる方法にはなりえない、というのです。
 すなわち命題論の場合は、「自己は表象された主語であり、内容はこの主語に偶有性として、述語として関係する」(四七ページ)にすぎない。これに対して「概念把握的思惟の場合」(同)には、「概念が対象自身の自己であり、自己が対象の生成として現われるから、自己は、動かずに偶有性をになっている静止的主語ではなく、自ら動いて自らの規定を自らにとりかえす概念である」(同)。
 言いかえると、命題論は恣意的な実体を真理とするのに対し、弁証法は主体的に概念をとらえ、真理を認識していくのです。命題論のいう真理は「断言する教条論」(四四ページ)にすぎないのであって、例えその命題が真理であったとしても何ら必然性のない偶然的真理であるのに対し、弁証法の真理は、自ら弁証法的に展開することによって真理に主体的に到達する必然的真理だということになるでしょう。
 「本質的に言えば、真理は基体(主観)である。主観(体)としての真理は弁証法的運動であるにすぎず、自己自身を生みながら、進展しながら、しかも自己に帰っていく行程であるにほかならない」(五〇ページ)のであって、真理を固定した実体としてとらえる命題論は真理認識の思惟形式ということはできません。
 三つめは「ロマン主義や常識哲学」(五一ページ)であり、これは「論証によらないで」(同)概念を把握し真理を認識しうるとする立場です。彼らは「各人は、生れつきの理性に尺度をもっているから、そのままで哲学的に思索し、哲学を判定することを心得ている」(同)として、直観や常識によって真理を認識しうるというのです。しかし哲学も「あらゆる学、技術、熟練、手仕事」(同)などと同様に「まじめな仕事」(同)の一つですから、当然ながら概念を把握し真理を手に入れるためには「学習と練習が必要」(同)となります。
 「真の思想と学的洞察とは、概念の労苦においてのみえられるべきものである。概念だけが知の一般性を生み出すことができる」(五三ページ)のであって、この「知の一般性」こそ「教養を経た完全な認識」(同)となるのです。真理は、教養をつみ重ねることによって、弁証法という「固有の形式に成熟」(同)させることで手にしうるのであり、「天才の怠慢やうぬぼれ」(同)によっては、けっして手にすることはできないのです。逆にいえば、教養をつみ重ねるならば、「真理は、すべての自己意識的理性(理性をもつすべての人々 ── 高村)の所有たりうる」(同)のであって、けっしてシェリングがいうような天才的な少数者がその直観によって独占すべきものではないのです。

 

二、「緒論」

 認識能力の吟味

 「緒論」は第一部の「意識の経験の学」の序論となるものであり、ここでは「知の目標となる真理とは何か」「どうやって知の目標に接近していくのか」が論じられています。
 哲学は真理の認識を目的としていますが、そのためには哲学の叙述そのものに先立って人間の認識能力そのものを吟味し、果たして人間には真理を認識する力があるのかが問題となります。その問題を提起したのが、ほかならぬカントでした。そこには人間の認識は「誤りに陥りはしないかという不安」(五八ページ)が横たわっているのです。
 しかしヘーゲルにいわせると、認識能力について「あれこれと語ったりして苦労する」(五九ページ)のは「無益な考え」(同)であって「止めたがよい」(同)のです。というのも真理は主体として生成されるものであって、「学は、登場してくるだけでは、その真の姿で実現されているのでも、展開されているのでもない」(同)からです。そもそも『現象学』は、その叙述の全体をつうじて現象する知が絶対知に至るまでの道をたどることによって、哲学は自分自身のうちに真理を認識する能力をもっていることを証明することを目的としているのです。『小論理学』では、認識能力の「吟味はそれ自身すでに、一種の認識」(『小論理学』㊤一六七ページ)なのであって、それは「水泳を覚えてから水にはいろう」(同)というに等しい議論だとして一蹴しています。
 いわば『現象学』は、「現象する知だけを対象」(六〇ページ)として、「真なる知に迫って行く自然的意識の道」(同)を叙述しているのです。その道は「自らを実在的知だと思っている」(同)自然的意識が、否定に否定をつみ重ねる「懐疑の道」(同)、「絶望の道」(同)をつうじてらせん型に発展し、その苦しみの末に絶対知に到達することによって、知は自ら真理を認識する能力をもっていることを証明する道なのです。

 知の目標は概念と存在の統一

 これまで学んできたように、「知の生成こそ、精神現象学がのべるもの」(二八ページ)でしたが、では知の目標となる真理とは何か、といえば、「概念が対象に、対象が概念に一致するところ」(六一ページ)だとされています。概念とは先にみたように、事物の「真にあるべき姿」ですから、知の目標となる真理とは、まず対象の概念を主観のうちに認識し、それを現実化することによる「概念と存在の統一」、言いかえると理想と現実の統一が知の目標としての「絶対知」だというのです。したがって「概念と存在の統一」をもって「現象学は終る」(三四ページ)ことになります。
 ではどうやって知は概念に到達することができるのかという「実現する方法」(六二ページ)が問題となります。そのためには、現象する知を吟味する「尺度として置かれる何らかの前提」(同)がなければなりませんし、吟味するとは、この尺度に照らして「対象がその概念に一致するかどうかを、見る」(六三ページ)ことになります。しかし現象知が「やっと登場したばかりのここ」(六二ページ)では、まだ意識のうちに「尺度」が存在することは「是認されてはいない」(同)から「吟味も全くあり得ないように思われ」(同)ますが、そうではないというのです。すなわち、対象を知ること自体が知の尺度を知ることだというのです。

 対象を知ることは同時に知の尺度を知ること

 「大切なこと」(六三ページ)は「知る」ということのうちには、対象の知と同時に対象の「自体存在」(同)、つまり対象の知の尺度となる対象の真の姿ないし真にあるべき姿を知るという「二つの契機が、われわれの探る知自身のなかで生ずる」(同)のです。
 「もともと意識が対象について知っているということの中には、既に区別が現存している、つまり、何かが意識にとって自体的なものであるが、これとは別の契機は、知、すなわち、意識にとっての対象の存在、であるという区別が現存している」(六四ページ)のです。
 人間は他の動物と違って自然や社会を変革する能力を身につけ、精神(意識)をそれにふさわしいものに発展させてきました。その結果意識は、経験をつみ重ねることで対象がどのようにあるかを知ると同時に、対象を変革するために必要な意識である対象の本来の姿、つまり「自体的なもの」という知の尺度をも知ることができるようになってくるのです。
 「自体的なもの」とは、対象の本来の姿であり、それはまず対象の「本質」という対象の真の姿であり、さらに発展して対象の「概念」という対象の真にあるべき姿となるのです。このように自己のうちに知と同時に知の尺度をもつと主張することは一見矛盾するように見えながら、私たちが日常経験していることであり、私たちは自己内の知の尺度に照らし、絶えず自分自身の知の真理性を検証し、自己否定をくり返すことで真理に接近していくことになります。
 したがって吟味するとは、「意識にとって自体的なもの」を尺度とし、この尺度と「意識にとっての対象」とを比較し、「両者が一致しないならば、意識は自らの知を変えて、自分を対象に一致するようにしなければならない」(同)のです。その意味で「尺度はわれわれのうちにある」(六三ページ)のです。
 尺度にてらして対象についての知が真ではないとして、知が変わるときには、「初め意識にとって自体であったものは、自体ではないということ」(六四ページ)になり、新たな知に対応する新たな「自体的なもの」が生じてくることになります。いわば「吟味は知の吟味であるだけでなく、尺度の吟味でもある」(同)のです。こうして、知は知の吟味をつうじて知それ自身を真理に向かって前進させるとともに、知の尺度としての「自体的なもの」をも真理に向かって前進させ、知の尺度はまず本質に接近し、本質を経て概念に接近し、概念を経て「概念と存在の統一」という知の目標としての真理に到達することになるのです。
 こういう知と知の尺度の弁証法的運動をもたらすものが、「経験と呼ばれるもの」(同)であり、したがって『現象学』は「意識の経験の学」(六六ページ)とされるのです。

 

* コラム * 脳科学における意識

 精神は物質であるか

 「われ思う、ゆえにわれあり」の命題で有名な近代哲学の父・デカルトは、人間の身体も脳も機械と考え、精神は人間の身体とは別物であるとする物心二元論を確立しました。この物心二元論は二〇世紀初頭まで一般的な見解であり、物質の解明は自然科学の仕事であって、精神の解明は宗教あるいは哲学の仕事とされてきました。
 しかし二〇世紀後半から顕微鏡やコンピューター等の脳の観察技術の発展により、大脳生理学の夜明けをむかえ、精神の解明を自然科学が担当するようになってきました。こうした流れのなかで、神経細胞の塊という物質としての「脳」と、私たちの精神としての「意識」との関係について、再検討がおこなわれるようになってきました。その結果アメリカのブルームは「脳が行うことのすべては、どんなに複雑であろうとも、究極的には神経細胞要素の相互作用によって、定義できるだろう」(不破『自然の秘密をさぐる』二二七ページ、新日本出版社)とするセントラル・ドグマを打ち出し、いわば精神も物質である脳の働きにすぎないとする物質一元論が共通の認識になってきました。意識は脳に付帯するとするこのドグマは、「付帯現象説」(『ニュートン別冊』『知能と心の科学』七四ページ、株式会社ニュートンプレス)とよばれており、ヘーゲルはそれを「自己は物である」(二〇四ページ)と表現しています。
 しかし二一世紀に入って、「意識が生まれるには、『身体』を通して周囲の環境と相互作用しながら脳が発展していくことが不可欠」(『知能と心の科学』六二ページ)だとする「相関関係説」(同七四ページ)が次第に支配的となりつつあります。
 東大の国吉康夫教授は、ロボットの研究をつうじて意識を解明しようとしています。
 「国吉教授がコンピューター内で再現した赤ちゃんロボットは、プログラムを組み込んでいないにもかかわらず、寝返りのような行動(や)……はいはいのような動きもみせた」(同六二~六三ページ)ところから、教授は「身体と環境との作用を通じて、ある意味では原始的な意図のようなものが生みだされたと言えるかも」(同六三ページ)しれないと語っています。
 こうした動きを反映して、脳科学をたんに自然科学としてではなく、社会科学、人文科学、心理学、哲学とも関連する総合科学として研究するために、一九九七年「理化学研究所脳科学総合研究センター」が設立されています。
 これまでの脳科学の研究は、脳のどの箇所がどのような機能をもっているのかという脳の「機能局在」の解明を中心としてきましたが、そのなかにあって意識の解明は、脳科学の「ハード・プロブレム」とされてきました。というのも、これまで精神と物質とは相対立する世界の二大根源であるとの二元論の立場から、どちらが第一次的な存在かをめぐって観念論か唯物論かの議論が存在してきたのに対し、脳科学は、精神(意識)は物質(脳)であるか否かという一元論を証明しようとするものですから、「ハード・プロブレム」と呼ばれるのもある意味当然といっていいでしょう。
 また意識は私たちの心のなかの生命現象であって、一人ひとり異なるうえに、一瞬一瞬のうちに変化するものですから、それを生きたまま観察し、客観的に分析することは、科学的技術の面からも至難の業といわざるをえないのです。こうした事情から、脳科学は果たして脳の神経細胞の働きの研究などをつうじて意識の解明にまで行きつきうるのか自体が問題とされているのが現状といえます。

 知の吟味と脳科学

 意識の問題は、これから少しずつ学んでいくことにして、今回は、脳の働きとしての「吟味」の問題について考えてみることにします。
 意識の問題の解明には、まず変革の意識をもつヒトの大脳と、そうでない(とされている)サルの大脳との比較検討が必要となります。ヒトの大脳でサルに比べて特に発達している部分が、ヒト特有の意識という機能にかかわっているのではないかと思われるからです。ヒトで大きく発達しているのは、抽象的な概念を扱う「下頭頂小葉」、言語に関わる「ウェルニッケ野」と「ブローカ野」、大脳の司令塔である「前頭前野」、四歳ころまでに他者の心や気持ちを理解する「心の理論」が完成するのと並行して神経細胞が増加していく「前部帯状回」などであり、これらの相互作用を通じて意識が生まれるのではないかと考えられています(『知能と心の科学』一四ページ参照)。
 前部帯状回は、人間らしいコミュニケーションをするうえで必要な「他人の視点に立って考える能力」(同二二ページ)、つまりヘーゲルのいう「B 自己意識」(一〇九ページ以下)に関わっているとされています。そのなかでも注目されているのが、一九九六年イタリアのリゾラッティによって発見された「ミラーニューロン」です。ミラーニューロンは「脳内の展望台」(同七五ページ)であり、「自分自身を他者の視点から見る」(同)こともできます。NHKの「探検バクモン」(二〇一三・一・六)で「脳科学総合研究センター」を探訪しましたが、この自分自身を俯瞰的に見る意識(認知)を「メタ認知」とよんでいました。このメタ認知が、後に学ぶ「B 自己意識」であり、知の尺度としての機能を果たすものと思われます。
 他方前頭前野には、「ワーキングメモリー(作業記憶)」とよばれる記憶があります。「ワーキングメモリーは基本的には、短時間で忘れ去られてしまう記憶」(高島明彦監修『脳のしくみ』四二ページ、日本文芸社)ですが、「その情報とすでに学習した知識や経験を照らし合わせながら、目的を達成していく」(同)働きをもっています。詳細は不明ですが、これらのミラーニューロンやワーキングメモリーが、知の吟味に関わっているのではないでしょうか。
 いずれにしても、知の吟味が可能となるためには、ある特定の対象について経験がつみ重ねられ、対象にかんする豊富な知が長期記憶として蓄積されることによってはじめて、「意識にとって自体的なもの」(六四ページ)も生まれてくるといえるのではないかと思われます。ヘーゲルは、対象についての「知」には、「対象そのものの知」と「対象の自体的な知」、つまり対象の知の尺度となる知が存在するといっています。これを言いかえると、対象の知には、受動的な知とそこから生まれる能動的な知があり、能動的、創造的な知が尺度となって受動的な対象そのものの知を批判的に検討するのではないでしょうか。いずれにしても「経験と呼ばれるもの」(同)をつうじて、たんに対象の知が得られるのみならず、知の尺度まで得られるとするヘーゲルの見解は正しいものといえるでしょう。
 知を吟味するという働きは、真理に到達するうえでの最も高度な脳の機能といえますから、仮にミラーニューロンやワーキングメモリーがそれに関わっているとしても、最終的には大脳の司令塔である前頭前野が総合判断を下すことになるのではないかと思われます。

 社会脳と科学的社会主義

 脳科学のなかで意識の解明は最も困難であり、遅れている部分であると同時に、社会科学や哲学からもアプローチすべき総合科学の問題とされています。『現象学』が哲学的見地から意識の解明を試みようとしていることは、現代の脳科学の到達点からしても先駆的意義をもっているということができます。
 最新の脳科学の研究によっても、人間は現実の物理的環境世界と同時に、「言語によってつくりだした」(『脳科学の教科書 こころ編』一四六ページ、理化学研究所脳科学総合研究センター編)「人間社会」(同)という「実体のある物理法則から乖離した、人間の精神世界の中にのみ抽象的に存在する『象徴的世界(シンボリック・システム)』」(同)をもっており、そこから他の動物がもっている「生物的な一次感情」(同一六〇ページ)に加え、「社会的な二次感情」(同)をもつに至っていることが明らかにされています。いわば「社会的な二次感情」こそ、他の動物にはない人間らしい心ということができるでしょう。
 そこには「正の感情」(同一五〇ページ)としての「誇り、誉れ、愛おしみ、慈しみ、信頼など」(同)と「負の感情」(同)としての「恨み、妬(嫉)み、憎しみ、不信など」(同)があるとされており、こうした「社会的な二次感情」が道徳や倫理の根拠になると考えられています。
 また最近では、「社会脳科学」と呼ばれる学問が注目されています。この学問は「『心の理論』(一九七八年)『社会脳の提唱』(一九九〇年)、PET・機能的MRIの登場(一九九〇年代以降)などを画期に発展」(伊古田俊夫『社会脳からみた認知症』五四ページ、講談社)してきた科学であり、「心理学の分野から始まり、医学や社会科学などと結びつくことで成長」(同)してきました。
 社会脳とは、「社会および社会の人々の情報をうまくキャッチし、理解する」(同五七ページ)という社会的認知の活動を主に担う脳の領域であり、言いかえると「人とうまくやっていくための『社会的能力』」(同)を担う脳の働きです。これまで認知症の中心症状は記憶障害とされてきましたが、社会脳の概念の確立により、認知症とは、社会脳が破壊される社会的認知の障害であるとされるようになってきました。
 このように人間らしい心の働きが、「社会的な二次感情」や「社会脳」としてとらえられるようになってきている現在、科学的社会主義の立場から、あらためて「社会的意識」の解明について積極的な提案をしていくことが求められているのではないでしょうか。というのも史的唯物論には、人間は社会的存在であって、「社会的存在が彼らの意識を規定する」(全集⑬六ページ)という有名な命題があり、「支配的階級の諸思想は、どの時代でも、支配的諸思想である」(服部『〈新訳〉ドイツ・イデオロギー』五九ページ)とされているからです。この命題は、これまで社会の土台における階級関係が上部構造としての社会的意識の諸形態を規定するとして理解されてきました。しかし脳科学の発展により、人間らしい心の働きが社会的意識としてとらえられるようになってきたため、法、政治、道徳、宗教などの社会的意識の諸形態も、階級的視点からだけではなくて、人間本来の社会的な心の働きという面からも考察すべき必要性が生じてきたということができます。この両者の関係を解明しうるのは科学的社会主義以外にはないということができるでしょうから、この意味で社会的意識の解明に科学的社会主義も一役かうべきではないかと考えるものです。