2013年12月28日 講義

 

 

第3講 「A 意識」

 

〈前回の要約と今回の概要〉

① 前回の要約

● 精神現象学は、人間の意識がその対象となる客観的事物との相互媒介の関係を
 つうじて、主観と客観との完全な一致としての絶対的真理に到達する、
 真理認識の過程を論じた哲学

 ・それは、知が対象を自己のうちに取り込む感覚にはじまり、知覚、悟性を経
  て、理性、絶対知(絶対的真理)に至る道

● 絶対的真理認識に向かって前進する契機となるのが「経験」である

 ・経験をつうじて、自我は自我と対象との意識との不一致(不等性)を解消し
  ようとする

 ・この弁証法的運動をつうじて、尺度となる自我も対象も概念に向かって前進
  していく

② 今回(「A 意識」)の概要

●「A 意識」は、意識が客観的事物の真理を認識していく過程をとらえている

 ・最初の意識は、この「私」が対象を「このもの」としてとらえる「感覚(感
  性)」であり、次いで「われわれ」が対象を「物」としてとらえる「知覚」
  となり、さらに対象を「力」「法則」としてとらえる「悟性」となる

 ・それが「1 感覚的確信」、「2 知覚」「3 力と悟性」の見出しとなっ
  ている

 ・意識は即自態としての感覚、対自態としての知覚、即かつ対自態(即対自態)
  としての悟性として発展する

 ・この意識の発展を「対象自身も変る」(64ページ)というのは言いすぎ。あ
  くまで対象をとらえる意識が変わるというべき

● ヘーゲルの認識論は唯物論的

 ・経験をつうじて、知は感覚から知覚を経て悟性に至るとするヘーゲルの認識
  論は、いわゆる「経験論」とよばれる唯物論的認識論

 ・イギリス経験論者であり、唯物論者のベーコンは「感官は誤ることのないも
  のであり、すべての知識の源泉である。科学は経験科学であり、感覚によっ
  て与えられたものに合理的な方法を適用するところに成立する」(全集②
  133ページ)

 ・同じくロックは、「健全な人間の感覚およびこれにもとづく悟性よりほかに、
  これと異なる哲学などというものはありえない」(同135ページ)として近
  代唯物論を確立した

 ・ヘーゲルの認識論には、観念論的表現もあるが、全体としてイギリス経験論
  を継承する唯物論の立場にたっており、脳科学からみても正しい見解といえ
  る

●「A 意識」はヘーゲル弁証法の原点である

 ・「序論」でヘーゲルは、シェリングの外的な図式としての正反合を批判し
  (40ページ)、弁証法とは正反合(即自、対自、即対自)の形式はもつもの
  の、それは「対象の内的な必然性」(43ページ)をとらえたものであり、
  「対象の生命に身を委ねる」(同)ことによって得られたものであるとする

 ・「A 意識」において、ヘーゲルは対象に「身を委ねる」ことによって「対象
  の内的必然性」にしたがって認識が弁証法的に発展する姿を見事にえがきだ
  している

 ・「弁証法的なものは学的進展を内から動かす魂であり、それによってのみ内
  在的な連関と必然性とが学問の内容にはいり、またそのうちにのみ有限なも
  のからの外面的でない真の超出が含まれている原理である」(『小論理学』
  ㊤ 246ページ)

 ・第3講で、弁証法の原点を学ぶと同時に、それがあくまでも原点にすぎず完
  成された姿ではないことを学ぶのが、最大の課題となる

 

1.「1 感覚的確信このものと思いこみ」

《見出しの意味》

 ・最初の知は、この「私」が「いま、ここ」にある対象を「このもの」として
  丸ごと認識する感覚知(直接知)である

 ・感覚は対象を未分化の統一態(即自態)としてとらえる意識

 ・感覚知は対象を丸ごと認識した「無限に豊かな」(67ページ)真理だと確信
  しているが、この「感覚的確信」は「実際には最も抽象的で最も貧しい真理」
  (同)にすぎず、その確信はたんなる「思いこみ」にすぎない

 ・したがって感覚知はその制限をのりこえて「知覚」に移行する

① 感覚的確信は対象を「このもの」としてとらえる

● 感覚と感情

 ・感覚―経験をつうじて五感(視、聴、触、味、嗅)によってとらえられた意
  識の知的要素

 ・感情―感覚から生まれる情的要素(喜怒哀楽)

● 脳神経系の働き

 ・脳神経系は外界を知覚し、判断し、意識により行動するという「知、情、意」
  の働き

 ・動物は、動きまわって食物を取るために感覚、感情をもつ

 ・動物のもつ生物的「一次感情」は、「いま、ここ」にある「このもの」は食
  べられるのかの判断の前提となる生物学的な反応

● ヘーゲルはこの「一次感情」を「感覚的確信」とよんだ

 ・「感覚的確信は、このものとは何であるかと、自ら問うべきである。そこで
  このものを、ここといまという、現に在る2つの形で受けとる」(68ページ)

 ・ヘーゲルは「私」のとらえた「いま、ここ」にある「このもの」は言語に表
  現しえないから真理ではないとする

② 真理は言語によってのみとらえうる

● 人間の本質は共同社会性にある

 ・「人間性の本性は他人との一致をどこまでも求めることであり、人間性は
  諸々の意識の共同を成立させることのなかに現存している」(52ページ)

 ・しかし感覚は、「私」が「いま、ここ」にある対象を「このもの」としてリ
  アルタイムでとらえるものであって、「いま、ここ」にいない「第3者」と
  の間に「このもの」について「意識の共同」を成立させることはできない

 ・つまり「反人間的なもの、動物的なものは、いつまでも感情のなかにいるだ
  けで、感情によってのみ互いの心を伝えうるとするところに在る」(同)
  ―感覚(感情)はリアルタイムにおいてのみ伝えうる「動物的なもの」

 ・人間は「意識の共同」を言語によって生みだす

 ・知の本質は時間、空間をこえて記述され、伝達され、すべての人間に共有さ
  れることにある

 ・したがって対象を「いま、ここ」においてとらえる感覚的確信は「最も抽象
  的で最も貧しい真理」(67ページ)

● 感覚的確信は言語では表現しえない

 ・言語は、その言語圏のすべての人間に共有されるものとして、「普遍的なも
  の」を示すものであるから、「このもの」という個別的なものは表現しえな
  い

 ・「このもの」とは「自らに絶対的に等しいものをもっていないような現実的
  な、絶対に個別的な」(74ページ)ものである

 ・「思いこまれる感覚的なこのものは、意識に、つまりそれ自体で一般的な
  (普遍的な―高村)ものに帰属する言葉にとっては、到達できないものであ
  る」(同)

 ・「原爆の恐ろしさは、言葉に表現できない」とか「被爆体験したものでなけ
  れば分からない」とかいう表現は、個人的感覚は言語で表現しえないことを
  主張するもの

● 言葉によって表現しえない「このもの」は真理ではありえない

 ・「それゆえ、語られえないものと呼ばれるものは、真ならぬもの、理性的な
  らぬもの、ただ思いこまれただけのものにほかならない」(75ページ)

 ・つまり「このもの」はたんなる「思いこまれただけのもの」であって真理で
  はない

 ・したがって個別性をとらえる感覚的確信は、普遍性をとらえる知覚に向かっ
  て前進しなければならない

 ・「知覚は、存在すると思うものを、一般的なものとして受けとる」(76ペー
  ジ)

 

2.「2 知覚物とまどわし」

《見出しの意味》

 ・「知覚」は、「われわれ」が対象を同一のうちに区別・対立をもつ普遍的な
  「物」としてとらえる意識

 ・つまり、知覚とは感覚と異なり、対象を区別・対立の顕在化した状態(対自
  態)としてとらえる意識

 ・しかし、知覚によって「物」を対立物としてとらえることは、意識が対立す
  る2つの極の間を果てしなく循環する「まどわし」を示すことになり、知覚
  もまた真理ではないことを証明する

 ・したがって知覚はその制限をのりこえて「悟性」に移行する

① 知覚とは対象を対立を含む「物」としてとらえる

● すべての経験は、同一は区別を含んでいることを証明する

 ・形式論理学は、A=A(同一性の原理)とするが、経験はこれを否定する

 ・すべてのものは、同一のうちに区別を含んでいる

 ・区別には「差異」(自己と他者一般との偶然的関係)と「対立」(自己と固
  有の他者との必然的関係)とがある

 ・対立は「本質的な区別」(『小論理学』㊦ 28ページ)であり、「すべての
  ものは対立している」(同33ページ)

 ・知覚はその意味でヘーゲル弁証法の原点をなす重要な箇所

 ・しかし『現象学』では区別には差異と対立とがあることも、対立の意義もま
  だ明確にされていない

● 知覚は同一のうちに区別を見いだす

 ・「知覚だけが否定を、区別つまり多様をその本質としている」(76ページ)

 ・「それゆえ、このものは、このものならぬものまたは廃棄されたものとして、
  措定されている」(同)

 ・しかし「廃棄のはたらき」(77ページ)は、「否定することであると同時に
  保存すること」(同)

 ・したがって「思いこまれた個別」(同)は、「一般的なもの(普遍的なもの
  ―高村)」(同)として保存される

 ・しかし知覚はこの「一般的なもの」のうちに、さらに区別を見いだす

 ・「一般的なものは、単一な姿をとっていながら、媒介されたもの(区別をう
  ちに含むもの―高村)」(76ページ)

 ・この同一のうちに区別・対立を含むものが「物態一般」(77ページ)、つま
  り「物」(78ページ)としてとらえられる

●「物」は「一と多」の対立

 ・「物は他のものを自分の外に排除」(81ページ)することにより、「他の物
  に」対立するからこそ「一」(1つの物)である

 ・しかし他方で物は「多くの性質」(77ページ)をもっている

 ・「この塩は単一なここであると同時に多様である。それは白いと共に、辛く
  もあり、結晶体でもあり、一定の重さをもってもいる等々である」(77ペー
  ジ)

 ・したがって知覚は対象を「一と多」の対立を含む「物」としてとらえる

●「物」は「個別と普遍」の対立

 ・「対象は感覚的存在から出て、一般者となる。けれども、この一般的なもの
  は、感覚的なものから発しているので、本質的にはこれによって制限されて
  いる」(84ページ)

 ・したがって一般的なものは、「真に自己自身に等しいものではなく、対立に
  よって刺激された一般性である。それゆえ、個別と普遍という両極に……分
  れる」(同)

② 知覚から悟性へ

● 真理の基準は主・客の同一性

 ・「意識が真理をはかる標準は自己相等性(自己と対象との一致―高村)であ
  り、意識の態度は何か(対象―高村)を自己自身に等しいものとしてつかむ
  ことである(79ページ)

 ・しかし、知覚においては、対象を対立する2つの契機をもつものとしてとら
  えるから、知覚はそのうちの一方を真理としたり、他方を真理としたりする
  ことになり、「それ自身において対立した真理をもっているという経験が、
  現存」(82ページ)することになる

 ・言いかえると知覚において「対象は他者に対してある限りで、自分だけであ
  り、自分だけである限りで、他者に対している」(84ページ)という「力相
  互のたわむれ」(85ページ)としてとらえられることになる

 ・この「力相互のたわむれ」をとらえるのが、「常識と呼ばれる知覚的悟性」
  (同)であり、悟性は対立する2つの契機の「ただ1つの規定態だけを真と
  意識するが、次にはまた、それと対立した規定態を真と意識」(86ページ)
  し、「たえず右往左往」(85ページ)する「まどわし」のなかにおかれる

 ・しかし知は、この対立の根底には両者に共通する「無制約な絶対の普遍」
  (84ページ)が存在するのではないかと考え、それを求めてさらに前進して
  いくことになる

 

3.「3 力と悟性現象と超感覚的世界」

《見出しの意味》

 ・感性は対象をその即自態において、知覚は対自態において、悟性は対象を即
  対自態(対立物の統一)においてとらえようとする

 ・悟性は、対立する対象の根底には「力」という共通体があり、ヘーゲルが
  「物質とは力である」ととらえているのは高く評価されるべき

 ・したがって「力」は「現象」の世界の真理である

 ・しかし、力もまた作用と反作用という「両方の力のたわむれ」でしかない

 ・そこで、悟性はさらに前進して「超感覚的世界」における「無制約な絶対の
  普遍」(84ページ)を求める

 ・悟性のとらえる「超感覚的世界」の真理が、対立物の統一としての「法則」
  である

 ・しかしヘーゲルは『現象学』では区別には「差異」と「対立」とがあり、
  「対立」は区別のうちにあって「本質的な区別」(『小論理学』㊦ 28ペー
  ジ)であることを明確にしていない

 ・そのため「対立」を「一般的な区別としての区別」(96ページ)などとよぶ
  にとどまっている

 ・法則には、対象の静止した関係をとらえる「第1次法則」と対象の発展する
  関係をとらえる「第2次法則」としての弁証法の法則とがある

 ・第2次法則は、無限(矛盾)をとらえることによって、対象の概念(真にあ
  るべき姿)を認識する―ここでもヘーゲルは「矛盾」の概念を正面から使用
  していない

 ・意識が対象を無限性としてとらえるとき、意識は無限に発展する「自己意識」
  となる

① 悟性は「無制約的に一般的なもの」を探究する

● 知覚から悟性へ

 ・対象を対自態としてとらえた知覚は、「まどわし」のなかで「無制約的に
  一般的なもの」(87ページ)を求めて悟性に移行する

 ・「これからさき、意識の真の対象となる」(同)のはこの「無制約的一般
  者」(同)

 ・この「無制約的一般者」は、「絶対的対立がそのまま同一の実在として措定
  されている」対立物の統一として「まどわし」を乗り越える

●「実体としての力」(93ページ)

 ・塩の例でみる「一と多」とは、塩という「一」が多くの性質という「多」に
  なり、またその逆に、多くの性質が1つの塩になるという運動

 ・すなわち1つの塩が多くの性質となるのは「力が外化すること」(89ページ)
  であり、多くの性質から1つの塩が成りたつのは、外化した力が「自己に押
  しもどされ」(同)ることである

 ・「この運動こそは力と呼ばれるもの」(同)であり、この「自己に押しもど
  された力」(93ページ)は「実体としての力」(同)である

● しかし実体としての力は「誘発する力」と「誘発される力」という
 「両方の力のたわむれ」(91ページ)にすぎない

 ・しかし、「無制約的な一般者」としてとらえられた「力」も、よくみると
  「誘発する力」(同)と「誘発される力」(同)という「両方の力のたわむ
  れ」(同)にすぎない

 ・つまり力とは作用と反作用という2つの力であって、対立物の統一としての
  「無制約的一般者」ではない

 ・悟性は「2つの力のたわむれを通して、物の真の背景に眺め入る」(93ペー
  ジ)

 ・つまりこれまでのように感覚的世界(現象の世界)のうちに「無制約的一般
  者」を求めるのではなく「物の内面」(93ページ)にそれを求めていくこと
  になる

② 第1次法則と第2次法則

● 悟性は超感覚的世界に客観的世界の真理を求める

 ・無制約的普遍者は、「第1の一般者」(93ページ)としては「実体としての
  力」(同)であるが、「第2の一般者は物の内面である」(同)

 ・それは、対立物の統一としてとらえられる―「絶対的交替、一般的区別とし
  ての……区別」(96ページ)であり、「一般的区別としてのこの区別は、力
  そのもののたわむれにおける単一なものであり、このものの真である」(同)
  のうちにあるものは

 ・ここにいう「一般的な区別としての区別」(同)とか、「絶対的に一般的な
  区別」(97ページ)とか、「内的な区別としての区別」(104〜105ページ)
  は、すべて「本質的な区別」(『小論理学』㊦ 28ページ)としての「対立」
  を意味する未成熟な表現

 ・「この内面の真理のうちで、初めて、現象する世界としての感覚的世界を超
  えて、これから後、真の世界としての超感覚的世界」(94ページ)に移行す
  る

● 超感覚的世界の真理が「諸々の法則の静かな国」(97ページ)

 ・法則とは、たえず変化する現象の世界のうちにあって対立する2つの極の間
  に一定の安定し、静止した関係をとらえる対立物の統一

 ・法則には「地上の物体が落下するときの法則」(97ページ)や「天体が運動
  するときの法則」(同)など「多くの法則が現に在る」(同)

 ・しかし多くの法則は「統一を真理とする悟性の原理に矛盾する」(同)から、
  「1つの法則に集約されねばならない」(同)

 ・それが「万有引力」(98ページ)であり、「力」は「法則の純粋概念」(同)
  として、「この統一こそ法則の内的必然性」(同)とされる

 ・この「力」は「力の概念」(同)であり、「引くものと引かれるもの」(同)
  との統一である

 ・ヘーゲルがすべての物質の根源を「引力と斥力との統一」である「力」とし
  てとらえているのは卓見である

 ・「宇宙の進化とは、……宇宙のはじまりから現在にいたる膨張過程で、力が
  (4つに―高村)分化し、分化した力が自然界の構造系列の基本単位を形成
  するというかたちで物質化してゆく過程として表現できる」(池内了『宇宙
  進化の構図』75ページ、大月書店)

 ・現在ではすべての物質は引力と斥力とのつり合いによって1つの物質として
  の安定した状態を保っていると考えられている

 ・法則は「区別を自立的な契機として表現している法則」(98ページ)と「力
  一般」(同)という「二重の仕方で現存している」(同)

 ・ヘーゲルの「力」には「実体としての力」と「力一般」とがあることに注意
  すべき

● 第1次法則から第2次法則に

 ・第1次法則は、「この世界の直接的な、静かな映像」(97ページ)であって、
  「悟性はその対象の静止的な統一を固執」(101ページ)

 ・すなわち第1次法則は「知覚された世界を、一般的な場に、そのまま高める
  ことにすぎなかった」(102ページ)―自然界の反覆・継続する運動を法則
  に高めたものにすぎない

 ・これに対し、第2次法則は「第1の世界の顛倒した世界」(同)をとらえる
  ものであり、「等しいものが等しくなくなり、等しくないものが等しくなる」
  (102ページ)という矛盾を表現するもの

 ・それは「自分だけで交替と変化の原理を保って」(同)いる、運動、変化、
  発展をとらえる弁証法という法則

 ・弁証法の基本形式は後に対立物の統一として定式化される

 ・弁証法においては、「対立」という「内的区別としての区別」(104ページ)
  が「矛盾」(同)として「純粋にのべられ、把まれねばならない」(同)

 ・矛盾とは「単一なもの」(105ページ)が「自分自身から自分をつきはなし」
  (同)、「肯定的なもの及び否定的なものとして」(同)定立しつつ、「両
  者が在るということは、非有として措定され、統一のなかで廃棄される」
  (同)―矛盾の揚棄(解決)としての対立物の統一

● 対立、矛盾、無限

 ・『現象学』における弁証法は、区別に差異と対立があることを明確にしない
  だけでなく、対立が矛盾であることも、「矛盾」という概念も明確にされて
  いない

 ・対立する2つの極は、相互に「それが他者でない程度に応じて独立的なもの」
  (『小論理学』㊦ 28ページ)であると同時に、「他者があるかぎりにおいて
  のみ存在する」(同)という自立と非自立の統一としての矛盾であるが、そ
  れが明確にされていない

 ・また「矛盾」が事物や概念が無限に発展する原動力であることから、「無限」
  としてとらえられている

 ・「この単一な無限すなわち絶対概念は、生命の単一な本質、世界の心、一般
  的な血液と呼ばれるべきものである」(同)

 ・「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあ
  らゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である」(『小論理学』㊤
  246ページ)として後に定式化されている

③ 無限なものは「B 自己意識」である

 ・「無限が、それが在るところのものとして、意識にとっての対象となるとき
  には、意識は自己意識である」(106ページ)

 ・ヘーゲルは自然界は有限であるととらえており、無限性を問題とするとき人
  間内部の「自己意識」に移行するととらえる

 ・すなわち自己意識とは、自我のうちに矛盾をもつことによって無限に発展す
  る意識

 

4.脳科学からみた感覚、知覚、悟性

● 脳の仕組みと精神(心)

 ・成人男子の脳は約1600億個の脳細胞、そのうち約半分が神経細胞(ニューロ
  ン)、残りはそれを補佐するグリア細胞

 ・ニューロンのネットワークが活動することで、脳は機能する

 ・「おおまかにいえば、前頭葉は運動、行動にかかわるところ、頭頂葉は空間
  や動きの認知にかかわるところ、側頭葉は聴覚や形態の認知にかかわるとこ
  ろ、そして後頭野は視覚にかかわるところ」(『脳科学の教科書―こころ編』
  13ページ)

 ・無数のニューロンが広い脳の空間のなかですみからすみまで協調しながら、
  1つの精神(心)をもつ人格をつくり出している

 ・脳波の一種である「ガンマ波の同期現象」(同20ページ)が「神経細胞の同
  期的な活動」(同)を生みだし、統一した意識が生じるのではないかと考え
  られている

● 言語は知覚、悟性をつくり出す

 ・ニューロンのネットワークの活動から、感性、知覚、悟性が生じる

 ・感覚、知覚、悟性の統一した働きにより、一体性をもった精神(心)が生ま
  れる

 ・「感じる力」としての「感覚」は言語を必要としないが、「考える力」とし
  ての「知覚」「悟性」は言語と結合してはじめて生まれる意識

 ・人間の言語と動物の音声コミュニケーションは全く異なる

 ・動物的コミュニケーションは、「いま、ここ」にある「このもの」をリアル
  タイムで伝える、ヘーゲルのいう「感覚的確信」のみ

 ・人間の言語は、時・空にも対象にも制限されない、自由にして無限なもので
  あり、人間は言語をつうじて「『理性的』世界である象徴的社会環境と、
  『感情的(情動的)』世界である即物的物理環境」(同166ページ)という
  2つの世界をもつ

 ・この2つの世界から、第2講で学んだ「生物的な一次感情と社会的な二次感
  情」(同160ページ)が生まれる

 ・「人間の言語機能は、それを獲得して運用するための心を生みだす臓器/器
  官としての実在である」(同90ページ)

● 感覚、知覚、悟性

 ・五感をつうじて感覚野に達した外部の情報は、まだ言語野にまで達していな
  いので、言語に表現しえない

 ・感覚野の例えば「水の触覚、視覚」という情報は、一方で「下頭頂小葉」に
  達し、「水」とは「無色、無臭の液体であり、生命に必要なもの」という普
  遍的抽象的概念にかえられる(『知能と心の科学』16ページ)

 ・他方感覚野の「水」という情報は、「ウェルニッケ野」「ブローカ野」とい
  う言語野に達して、「水」という言葉にかえられる

 ・この両者が上位の概念中枢で結合することにより、「無色・無臭な液体で生
  命に必要なものは水である」と規定され、これまでの感覚は知覚、悟性へと
  移行することになるものと思われる

 ・いずれにしろ、ベーコンがいうように経験から生じる感覚は「すべての知識
  の源泉」となるものという唯物論的認識論は、脳科学からしても正しい