『ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ』より

 

 

第三講 「A 意識」

「A 意識」の概要

 いよいよ今回から第一部「意識の経験の学」の本論に入ります。まずは主観的精神のうちの「A 意識」を学びますが、ここでは認識主体としての意識が、認識の対象となる自然の真の姿を経験をつうじて認識していく過程、すなわち認識論を学んでいくことになります。
 「A 意識」は、「一、感覚的確信」「二、知覚」「三、力と悟性」の三つの部分から構成されています。最初の「感覚的確信」は、この「私」が対象を「このもの」としてとらえる「感覚(感性)」であり、次いでその意識の制限性から「われわれ」が対象を「物」としてとらえる「知覚」へと発展し、さらにその知覚の制限性から対象を「力」「法則」としてとらえる「悟性」へと発展していくところまでを論じています。
 ヘーゲルは、認識のみなもとを経験としてとらえ、意識が経験を重ねながら一歩ずつ真理に向かって前進するという、「経験論」とよばれる唯物論的認識論の立場にたっています。
 「イギリスの唯物論と近代の実験科学全体の先祖」(全集②一三三ページ)とされるフランシス・ベーコン(一五六一~一六二六)は、マルクスによって「経験論」の祖として次のように紹介されています。
 「彼の学説によれば、感官は誤まることのないものであり、すべての知識の源泉である。科学は経験科学であり、感覚によってあたえられたものに合理的な方法を適用するところに成立する。帰納、分析、比較、観察、実験が合理的な方法の主要な条件である」(同)。
 ベーコンは、すべての知識は経験にもとづくものであり、感覚に始まって真理に至るには、さまざまな偏見から解放されて、経験した事実を現にあるがままのものとして観察・探究する、唯物論的認識論の立場にたたねばならないと主張したのです。また同じく「イギリス経験論」者であるジョン・ロック(一六三二~一七〇四)は、人間の心は「タブラ・ラサ(白板)」であり、それに書き込みをするのは経験のみだとして、生まれながらに存在する観念を否定しました。彼は「健全な人間の感覚およびこれにもとづく悟性よりほかに、これと異なる哲学などというものはありえない」(同一三五ページ)として、近代唯物論を確立するに至ったのです。
 しかし注意すべきは、経験を知の源泉とする経験論は、確かに入口においては唯物論的認識論ですが、出口においてもそうであるとは言い切れないことです。というのも経験論のうちには、感覚や知覚が経験から生じることは認めても、感覚や知覚を踏まえて生じる悟性や理性は経験を越えるものとしてこれを認めない観念論的経験論も存在するからです。経験論が唯物論的認識論となるのは、感覚、知覚のみならず、悟性や理性も経験に由来するととらえるときだけなのです(拙著『科学的社会主義の哲学史』一五三ページ)。ヘーゲルの「A 意識」にみられる認識論は、全体として経験をつうじて感覚、知覚、悟性、理性へと前進するという、徹底した唯物論的認識論の立場であることは明確にしておく必要があるでしょう。
 もう一つの「A 意識」の特徴は、ヘーゲル弁証法の原点を示すものとして注目すべきものということができます。ヘーゲルは「序論」でシェリングの「形式主義」(四〇ページ)を批判し、弁証法とは正・反・合(より正確には、即自、対自、即対自)の形式はもつものの、それは「対象の生命に身を委ねる」(四三ページ)ことによってえられる「対象の内的な必然性」(同)をとらえたものであることを強調しました。「A 意識」において、ヘーゲルは対象に「身を委ねる」ことによってつぎつぎと認識の制限性を明らかにし、その制限性を一つずつ「内的必然性」にしたがって克服し、真理に向かって前進していくという、認識の弁証法的発展を見事にえがいており、その弁証法の原点を学ぶことも、第三講の課題の一つになっているということができるでしょう。
 「弁証法的なものは学的進展を内から動かす魂であり、それによってのみ内在的な連関と必然性とが学問の内容にはいり、またそのうちにのみ有限なものからの外面的でない真の超出が含まれている原理である」(『小論理学』㊤二四六ページ)。
 しかし『現象学』の弁証法は、まだ誕生したばかりの弁証法として、形式、内容ともに未成熟なものであり、その限界を明らかにすることもまた重要な課題です。「A 意識」は『現象学』のなかでも弁証法の基本形式を論じようとした特筆すべき箇所ということができるでしょう。

 

一、「感覚的確信 このものと思いこみ」

 最初に見出しの「感覚的確信 このものと思いこみ」の意味を説明しておきましょう。
 最初の知は、「感覚」による知であり、それは、この「私」が「いま・ここ」にある対象を「このもの」(六七ページ)としてとらえる意識です。
 この対象を「このもの」としてとらえる感覚は、対象を未分化の統一体(即自態)として丸ごととらえる意識であって、「まだ対象から何物をも取り去っていないし、対象を全く完全な姿で見ている」(同)ところから、「最も豊かな認識であり、いや無限に豊かな認識である」(同)と「確信」(同)しています。そこで「感覚的確信」(同)と呼ばれているのです。しかし「この確信は、実際には最も抽象的で最も貧しい真理」(同)であって、たんなる「思いこみ」にすぎないことが明らかになります。
 これが「感覚的確信 このものと思いこみ」の意味であり、したがって感覚という知は、この制限を乗り越えて次の段階である「知覚」という知に進まざるをえなくなるのです。

 感覚的確信は対象を「このもの」としてとらえる

 まず感覚とは何かといえば、経験をつうじて五感(視、聴、嗅、味、触)によってとらえられた意識の知的要素であり、ベーコンがいうように、「すべての知識の源泉」となるものです。この感覚から感情が生まれます。感覚が知的要素であるのに対し、感情は感覚から生じる情的要素であり、喜怒哀楽として示されます。
 脳という器官は、脊椎動物に固有な器官であり、脳は脊髄、神経と一体となって外界を知覚し、判断し、それにもとづき目的意識をもって行動するという働きを担っています。感覚と感情とは、魚類にはじまるすべての脊椎動物がもっている脳の働きです。じっと動かずに水と光合成によってエネルギーを生みだす植物と異なり、動物は動きまわって食べものをえなければなりませんので、感覚と感情が必要になってくるのです。
 第二講のコラムで、人間には「生物的な一次感情と社会的な二次感情」(『脳科学の教科書 こころ編』一六〇ページ)とがあることを学びましたが、ヒト以外の脊椎動物には「生物的な一次感情」しかありません。「生物的な一次感情」とは、何よりも「いま・ここ」にある「このもの」は、食べられるのか否か、我が身にとって危険な存在であるのか否かという判断の前提となる感覚・感情ということができます。
 ヘーゲルは、もっとも原始的な知は、この「生物的な一次感情」であると考えました。そしてその一次感情としての知を、この「私」が「いま・ここ」にある対象を「このもの」としてとらえる知であるとして、それを「感覚的確信」とよんだのです。
 「感覚的確信は、このものとは何であるかと、自ら問うべきである。そこでこのものを、ここといまという、現に在る二つの形で受けとる」(六八ページ)。
 しかしヘーゲルは、「いま・ここ」にある「このもの」という感覚的確信は、言語に表現しえないから真理ではないというのです。

 真理は言語によってのみとらえうる

 まず最初に、ヘーゲルは人間の本質が共同社会性にあることを指摘しています。
 「人間性の本性は他人との一致をどこまでも求めることであり、人間性は諸々の意識の共同を成立させることのなかに現存している」(五二ページ)。
 しかし感覚は、この「私」が「いま・ここ」にある「このもの」をとらえるリアルタイムの意識ですから、「いま、ここ」にいる第三者との間に「意識の共同を成立させる」ことはできても、「いま・ここ」に存在しない第三者と「意識の共同を成立させる」ことはできません。その意味では、感覚とはリアルタイムによってのみ「互いの心を伝えうる」(五二ページ)、「反人間的なもの、動物的なもの」(同)にすぎないのです。
 こうして感覚とは動物的に音声によって「心を伝えうる」にすぎないのに対し、人間は言語によって心を伝え、「意識の共同を成立させる」ことのできる存在です。言語は、リアルタイムで個別的なものを伝える動物的な音声コミュニケーションと異なり、個別的なものを越えて、より一般的、普遍的なものを表現することにより、時空を越えて心を伝えることができるコミュニケーションの手段なのです。言語の基本となる普通名詞(ヒト、犬、木、草など)は、すべて普遍性を表現していることにもそれが示されています。
 その意味では、人の知とは、言語によって表現される普遍性をもつ知であり、したがって個人の個別的な、その人にしか理解できないような感覚を超えるものであって、悟性、理性こそ知の名にふさわしいものです。言語に表現される悟性、理性は、時空を越えて、その言語圏のすべての人々に伝達され、共有されるという本質をもっているのです。
 これに対し、感覚的にとらえられた「このもの」は、「絶対に個別的な、全く個人的な、個的な物」(七四ページ)としてとらえられていますから、普遍性を表現する言語によって言い表すことはできません。例えば、「原爆の恐ろしさは言葉には言い表せない」とか「被爆体験をした者でなければ分からない」などといわれるのも、対象を丸ごと捉える感覚の個人的特殊性を示したものということができるでしょう。
 「思いこまれる感覚的なこのものは、意識に、つまりそれ自体で一般的な(普遍的な ── 高村)ものに、帰属する言葉にとっては、到達できないものであるからである」(同)。真理とは、本質にしても概念にしても、時空を越える普遍性をもつものであり、したがって誰にでも真理であることを理解しうるものですから、普遍的なものを表現する言語によって言い表しえないものは、真理ではありえないのです。
 「それゆえ、語られえないものと呼ばれるものは、真ならぬもの、理性的ならぬもの、ただ思いこまれただけのものにほかならない」(七五ページ)。したがって対象を「このもの」としてとらえる感覚的確信は、真理ではないところから、意識はさらに前進しなければならないことになります。
 この「私」が「いま・ここ」にある「このもの」としてとらえるものは、本当は「多くのいま」(七三ページ)、多くの「このもの」であって、「私」が「個別的な物と言うとき、むしろ全く一般的なもの(普遍的なもの ── 高村)と同じものを言っている」(七五ページ)のであって、「実際には、一般的なものこそ感覚的確信の真理」(六九ページ)なのです。
 こうして個別をとらえる「感覚」は、個別と同時に普遍をとらえる「知覚」へと移行することによって、一歩前進した意識となります。「知覚は、存在すると思うものを、一般的なものとして受けとる」(七六ページ)のであり、感覚による「直接的なものを知る代わりに知覚する」(七五ページ)のです。

 

二、「知覚 物とまどわし」

 最初に見出しの意味するところを説明をしておきましょう。
 知覚とは、対象のうちに分け入って、対象を同一のうちに区別をもつ「物」としてとらえる一歩前進した意識であることを意味しています。意識の主体となるのは、もはや個人的な「私」ではなく「われわれ」(七六ページ)となります。
 感覚が対象を丸ごと単一ないし同一な「このもの」としてとらえたのに対し、知覚は対象を同一(個別)のうちに区別(普遍)を含む物としてとらえるのです。すなわち知覚は対象を「このもの」としてのみならず、ヒト、犬、木、草、などの普通名詞でとらえられる普遍的な「物」としてもとらえます。それは個別のうちに普遍、同一のうちに区別・対立を見いだす、感覚より一歩進んだ意識なのです。いわば、感覚が対象を表面的な即自態としてとらえるのに対し、知覚は対象のうちにふみこみ、対象を同一のうちに区別・対立を含む対自態としてとらえるのです。
 しかし、知覚が「物」を対立のうちにとらえることは、対立する二つの極のいずれを真理とするかの「まどわし」を示すことになり、知覚もまた真理ではないことを証明することにより次の悟性に移行することになります。

 知覚は対象を同一のうちに区別・対立を含む「物」としてとらえる

 ヘーゲル弁証法は、形式論理学のA=Aという同一性の原理を否定するところに始まります。すべての経験はあらゆるものは運動・変化しているのであり、したがって同一のうちに区別を含んでいることを証明しているのであって、「いかなる存在も、こうした法則(同一性の原理 ── 高村)にしたがって存在してはいない」(『小論理学』㊦二〇ページ)と断言します。同一性の本当の意味を、「区別を排除した同一性として解さないことが必要」(同二一ページ)であり、「これが、あらゆるつまらない哲学と本当に哲学の名に値する哲学とが分れる点である」(同)として、ヘーゲル哲学の優位性は、本当の意味の同一性をとらえることに始まるとしています。
 さらにヘーゲルは、区別には差異と対立があることを明らかにします。「差異」とは「自己とその他者一般」の偶然的な関係であるのに対し、「対立」とは、上下、左右のように、「自己とその固有の他者」との間の、切っても切れない必然的関係をとらえたものとして「本質的な区別」(同二八ページ)なのです。
 すべての同一は区別をうちに含むものであると同時に、「本質的な区別」は対立であるところから、「すべてのものは対立している」(同三三ページ)という有名な命題がうち立てられ、対立物の統一を基本形式とする弁証法を確立していくことになるのです。
 この「知覚」は、同一と区別の統一を論じた箇所として、ヘーゲル弁証法の原点を示す重要な箇所ということができます。しかし「現象学」の弁証法はまだ未成熟のため、「知覚」においては、同一が区別を含むことは指摘されながらも、区別には差異と対立があることはまだ明確にされていません。
 そのため、あたかも区別=対立であるかのような表現がとられていたり、さまざまの区別のなかで特別な区別が「本質的な区別」としての「対立」であること、一般的な区別を単なる差異にとどめることなく対立にまで高めてとらえるところに真理認識の思惟形式(論理形式)としての弁証法の意義があることも明確にされていません。
 以上の論理をテキストに沿ってみていくことにしましょう。まず感覚的確信は「このもの」をとらえるのに対し、「知覚は、存在すると思うものを、一般的なもの(普遍的なもの ── 高村)として受けとる」(七六ページ)ことになります。「一般的なもの」とは「単一な姿をとっていながら、媒介されたもの」(同)としての「物」であり、物は「単一な統一」(七七ページ)のうちに「多くの性質をもった物」(七六ページ)、つまり「一と多の統一」としてとらえられます。
 「この塩は単一なここであると同時に多様である。それは白いと共に、辛くもあり、結晶体でもあり、一定の重さをもってもいる等々である」(七七ページ)。「物」の諸性質は、「単一な統一である(「物」という ── 高村)媒体のなかで」(同)、「ほかの性質を静かにしておき、無関心なもまたによって、ほかの性質に関係するだけ」(同)なのです。「もまた」というのは、ヘーゲルの独特の表現であって、「あれも、これもまた存在している」という、たんなる並列的な、相互に無関係な多くのものの関係を意味している用語です。
 しかし一般的なもののうちにおける区別は「一と多」の対立としてあらわれるだけではなく、「個別と普遍」の対立としてもあらわれます。「対象は感覚的存在から出て、一般者となる。けれども、この一般的なものは、感覚的なものから発しているので、本質的にはこれによって制限されている」(八四ページ)。知覚のとらえる一般的なものは、感覚的な個別性の意識から生まれてきたものですから、個別性につきまとわれ、個別性によって「制限されている」のです。
 したがって一般的なものは、「真に自己自身に等しいものではなく、対立によって刺激された一般性である。それゆえ、個別と普遍という両極に……分れる」(同)。

 知覚から悟性へ

 「意識が真理をはかる標準は、自己相等性」(七九ページ)であり、対象の真の姿、真にあるべき姿という真理を「自己自身に等しいものとしてつかむ」(同)ことを意味しています。しかし知覚においては、対象を区別・対立をもつ二つの極としてとらえますので、「それ自身において対立した真理をもっているという経験」(八二ページ)をすることになります。
 言いかえると、知覚は相対立する二つの契機の「ただ一つの規定態だけを真と意識するが、次にはまた、それと対立した規定態を真と意識」(八六ページ)して、「たえず右往左往」(八五ページ)して「力相互のたわむれを行う」(同)のです。これをヘーゲルは「まどわし」とよんで、「知覚」には「物とまどわし」との標題がつけられています。
 こうして対象を「物」としてとらえる知覚も真理ではないことになります。そこで「物」のうちに区別・対立が生じるのは、両者の根底に両者を媒介する「無制約な絶対の普遍」(八四ページ)が存在するからではないかとの疑問が生じ、この「無制約的一般者」(八七ページ)を求めることにより、意識は知覚を抜け出し、「真に悟性の分野に入」(八四ページ)ることになります。「無制約的一般者」とは物質の根底にあり、諸物質を成り立たせる普遍的存在という意味です。
 意識は経験から出発しながら、感覚、知覚にとどまるのか、それとも知覚を超えて悟性、理性にまで至るのを認めるのか否かによって、経験論も観念論的経験論と唯物論的経験論とに分かれます。イギリスの経験論者バークリは、「事物が存在するとは知覚されることである」として、知覚を超える抽象的な概念である「物質」という悟性、理性の産物をみとめなかったところから、物体とは「感覚の複合」とする観念論におちいってしまいました。またロックの影響をうけたイギリス経験論者のヒュームは、経験にもとづく感覚、知覚こそは認識の源泉であるとしながら、経験は必然性、普遍性としての因果関係までは教えてくれないとして、不可知論に陥りました(詳細は拙著『科学的社会主義の哲学史』一七九ページ以下)。
 ヘーゲルが経験から出発しながら苦もなく知覚から悟性へと前進しているのを見るのは、唯物論的経験論を示すものとして小気味よいものです。

 

三、「力と悟性 現象と超感覚的世界」

 最初に見出しの意味を説明しておきましょう。
 「知覚」が同一のうちに区別を見いだす対自としての意識だったのに対し、「悟性」は、区別・対立のうちに統一を見いだす即対自の意識です。そこで「悟性」はまずその統一を「力」に求め、力こそ「現象」の世界を動かす真理だとして、ニュートン力学を評価しています。しかしいったん無制約的普遍としてとらえられた力も、実は作用と反作用という二つの運動に区別されるところから、悟性はより深い真理を求めて、「現象」の世界から「超感覚的世界」に分け入り、そこに対立物の統一としての「法則」という真理を見いだすのです。
 法則には、世界を静止した関係としてとらえる第一次法則と、運動・変化・発展するものとしてとらえる弁証法という第二次法則があることが明らかにされます。ヘーゲルが第一次法則のうちに、物質の構成要素としての力を見いだしていることは、現代に通じる先見性を示すものとなっています。またヘーゲルが、「A 意識」の最後を第二次法則としての弁証法としてとらえていることは、弁証法こそ窮極の真理認識の思惟法則としてとらえたことを示しています。
 その意味で「三、力と悟性」は『現象学』のなかでもヘーゲルの唯物論的認識論を示した重要な箇所といえますが、まだ弁証法の基本的カテゴリーである「対立」や「矛盾」の概念が明確に確立されていないことにも注目してください。

 悟性は対象を対立物の統一としてとらえる

 対象を対自態としてとらえた知覚は、「力相互のたわむれ」(八五ページ)という「まどわし」(七六ページ)のなかで、対立を統一する「無制約的に一般的なもの」(八七ページ)を求めて、悟性に移行します。したがって、「これからさき、意識の真の対象となる」(同)のは、「この無制約的一般者」(同)となります。
 この無制約的一般者は、知覚における区別・対立を揚棄するものとして、「絶対的対立がそのまま同一の実在として措定されている」(八八ページ)対立物の統一であり、その対立物の統一により「まどわし」を乗り越えるとされるのです。
 ところで、知覚において「物」は単一な物であると同時に多くの性質をもつ「一と多」としてとらえられました。この「一と多」の関係を先ほどの塩の例で考えてみると、白い、辛い、結晶体であるなどの「自立的に措定された素材」(八九ページ)を、すべて集めた一般者が塩という「統一」(同)であり、また塩という「統一は、そのまま、展開に移行する。そして展開はまた還元に帰って行く」(同)のです。
 「一と多」としての「塩とその諸性質」との関係は、一方で塩は諸性質に分解されると同時に、他方で諸性質から塩が成っているという関係であり、「この運動こそは力と呼ばれるもの」(同)なのです。「物」のうちに対立が生じるのは、その根底に「物」の運動をもたらす力があり、「力が外化」(同)したり、「自己に押しもどされ」(同)たりする運動によるものだというのです。
 つまり、「物」の内には「物」を動かす「力の運動」(九〇ページ)が存在するのであって、「その結果、無制約的に一般的なもの(力 ── 高村)が、非対象的なものとして、物の内なるものとして、出てくる」(同)とします。しかしヘーゲルはさらに進んで、この「無制約的一般者」としての力をよくみると、そこには「誘発する力」(九一ページ)と「誘発された力」(同)という区別とその二つの力の相互移行が存在することを見いだします。それは、「物」における「両方の力のたわむれ」(同)の復活であり、力は無制約的一般者という対立物の統一としての普遍者から、再び対立を内に含む「物」に逆戻りしてしまったことになります。
 ここでヘーゲルが「力」と呼んでいるものは、ニュートン力学における力を意味しており、「両方の力のたわむれ」と呼んでいるものは、力における作用と反作用を意味しています。物体は物体どうしでお互いに力をおよぼし合うのであって、相手に力をおよぼす作用は、同時に相手から反作用という力を受けることであり、相手から力を受けずに、一方的に相手に力を加えることはできません。
 その意味で、ヘーゲルの力の理解は正しいものということができます。ヘーゲルは「両方の力のたわむれ」をもたらす「力」は、まだ自然の根本原理ではないとして、悟性はこの「二つの力のたわむれを通して、物の真の背景に眺め入る」(九三ページ)ことになります。すなわち経験を知の源泉としながらも、これまでのように感覚的世界のうちにではなく、より深く対象のうちに分け入って、悟性、理性の超感覚的世界に第二の無制約的一般者を求めるところに、ヘーゲルの認識論が唯物論的認識論とされる所以があるのです。

 力から力の法則へ、さらには力の概念へ

 内面の真理を探究することは、「現象する世界としての感覚的世界を超えて、これから後、真の世界としての超感覚的世界」(九四ページ)に分け入ることになります。いわば「第一の一般者」(九三ページ)が「実体としての力」(同)であるのに対し、「第二の一般者は、物の内面」(同)における一般者となるのです。第二の一般者は何よりも「二つの力のたわむれ」(九六ページ)を克服する統一体でなければなりません。
 そこで重要になってくるのが、「対立」というカテゴリーです。すでに「知覚」において、対象は区別・対立をうちに含む「物」としてとらえられました。そこでは、「物」は、「一と多」「個と普遍」という「対立」としてとらえられていましたが、まだ「対立」の意義は明確にされておらず、「対立」は「二つの力のたわむれ」とされるにとどまっていました。
 しかし、内面の真理を理解するには、もっと「対立」の意義を明確にし、それが自己とその「固有の他者」(『小論理学』㊦二八ページ)との間における必然的な関係をとらえる「本質的な区別」(同)であることが明らかにされなければなりません。つまり対立とは、相違なる二つの極の間に、切っても切れないような必然的な関係が存在する場合の二つの極を意味しているのです。
 区別には差異と対立とがありますが、差異とは区別された二つのものの間に何の関係もないという偶然的な関係にすぎないのに対して、対立とは、上と下、左と右のように一方は他方なしには考えられない必然的な一対の規定として「本質的な区別」なのです。真理を認識するとは、客観世界における偶然性の内に必然性を見いだすことであり、必然性の最も基本となる形式が対立という法則なのです。こうして真理認識の形式としての弁証法は対立物の統一を基本形式としているのです。
 ヘーゲルは「二つの力のたわむれ」という対立を統一するものを「力の法則」(九六ページ)としてとらえています。「一般的区別としてのこの区別は、力そのもののたわむれにおける単一なものであり、このものの真である。この区別こそ力の法則である」(同)。
 内面の真理としての「力の法則」とは、対立する二つの極を一定の関係において結合することによってえられる「絶対に一般的で、静止的」(九七ページ)な自然の法則です。この「対立」という区別は、「常ならぬ現象の常なる像としての法則において、表現されて」(同)おり、「超感覚的世界は諸々の法則の静かな国」(同)としてとらえられることになります。
 その例としてヘーゲルは「地上の物体が落下するときの法則」(同)と「天体が運動するときの法則」(同)、「電気」(九八ページ)の法則 などをあげています。落下の法則とは、通過した空間は経過した時間の二乗に比例するというガリレイの法則であり、この法則は時間と空間という対立物を統一のうちにとらえたものです。また天体運動の法則とは、惑星と太陽を結ぶ直線は一つの惑星については一定の時間に一定の面積を描くというケプラーの法則であり、ここでは時間と面積の統一が法則としてとらえられています。電磁力についてヘーゲルは「陽電気と陰電気」(同)の統一としてとらえていますが、今日では原子核と電子の統一とされています。
 このように自然界には多くの法則が認められますが、ヘーゲルは、多くの法則を認めることは「一般的な統一を真理とする悟性の原理に、矛盾する」(九七ページ)ところから、これらの諸法則は「一つの法則に集約させねばならない」(同)として、「すべての法則を一般的引力(万有引力)のなかで統一」(同)するとしています。これはガリレイの「落下の法則」と、ケプラーの「惑星の運動の三法則」を統一するものとして、ニュートンの万有引力の法則が生まれたことを指摘するものです。
 こうしてヘーゲルは、世界の「静かな映像」(同)としての法則は、「二重の仕方で現存」(九八ページ)しており、一つは、作用と反作用という対立物の統一としての「力の法則」であり、もう一つは万有引力に示されるような「力一般であり、力の概念として有るような」(同)力であるとします。つまりヘーゲルは、力には対立物の統一としての力と、「力の概念」ともいうべき物質の根本的構成要素としての力の二つがあると考え、後者を「引くものと引かれるもの」(同)、つまり引力と斥力の統一の法則としてとらえているのです。
 これは、きわめて先見性のある卓越した見解だといわなければなりません。というのも現代において、私たちの宇宙のうちに存在するすべての物質は、引力と斥力のつり合いによって物質としての安定状態を保っていると考えられているからです。宇宙の歴史は、「インフレーション」によるビックバンにより宇宙が急激に膨張するなかで温度が低下し、引力と斥力の統一としての四つの力が分離することで、多様な物質が生まれたことが明らかになっています。いわゆる「力の物質化」と呼ばれるのがそれです。最初は「強い力の物質化」、続いて「電磁力の物質化」、最後に「重力の物質化」という三つの段階を経て、多様な物質が誕生することになります(拙著『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』一一四ページ以下)。
 「以上のように宇宙の進化とは、プランク時間という宇宙のはじまりから現在にいたる膨張過程で、力が分化し、分化した力が自然界の構造系列の基本単位を形成するというかたちで物質化してゆく過程とも表現できる」(池内了『宇宙進化の構図』七五ページ、大月書店)。

 第一次法則から第二次法則へ

 以上に述べた法則と力は、いずれも「対象の静止的統一」(一〇一ページ)をとらえる第一次法則と呼ばれます。しかし現実の世界は、すべて運動・変化・発展しているものですから、「この世界の直接的な、静かな映像」(九七ページ)をとらえた第一次法則で満足することはできません。そこでヘーゲルはその制限性を乗りこえる「第二の法則」(一〇一ページ)を提示します。この第二次法則は、「第一の世界の顛倒した世界」(一〇二ページ)であって、「この新しい法則は、むしろ、等しいものが等しくなくなり、等しくないものが等しくなる」(一〇一~一〇二ページ)法則なのです。
 この第二次法則が、弁証法という思惟法則にほかなりません。弁証法においては、「対立」という「内的区別としての区別というこの絶対的概念」(一〇四ページ)が「純粋にのべられ、把まれ」(同)なければなりません。
 先にもみたように、『現象学』における弁証法は未成熟なものであり、したがって、区別における「差異と対立」「対立と矛盾」「矛盾の揚棄」などの概念はまだ確立されるにいたっていません。「差異と対立」の関係は既に述べましたので、ここではまず「対立は矛盾である」ことをみておきましょう。
 対立する「両者の各々は、それが他者でない程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する」(『小論理学』㊦二八ページ)。
 つまり対立とは、他者を否定して自立(独立)しようとすると同時に、「他者があるかぎりにおいてのみ存在する」非自立、つまり自立と非自立の統一という矛盾なのです。ヘーゲルが「内的区別としての区別が、……純粋にのべられ、把まれねばならない」(一〇四ページ)といっているのは、「対立は矛盾であることが、純粋にのべられ把まれなければならない」ということを意味しています。
 すなわち、「対立したものは、ただ、二つのもののうちの一つであるのではない」(同)のであって、相互に媒介しあい、「他方は、一方のなかに、そのまま自ら現存している」(同)のです。言いかえると「対立は矛盾」なのです。矛盾とは、まず「単一なもの」(一〇五ページ)が「自分自身から自分をつきはなし」(同)、「肯定的なもの及び否定的なもの」(同)という対立する二つのものを定立することなのです。しかも矛盾における肯定的なものと否定的なものとは、相互に他者を牽引しつつ、排斥しあう関係にありますから、「両者が在るということは、非有として措定され、統一のなかで廃棄される」(同)のです。言いかえると、矛盾する二つのものは、矛盾を「廃棄」する(揚棄する、解決する、打開する)ことによって、より高い「統一」を回復することになるのです。

 矛盾の揚棄

 次に矛盾の揚棄についてみておきましょう。確立したヘーゲル弁証法において、ヘーゲルは矛盾の解決を「揚棄(アウフヘーベン)」と呼んでいますが、そこには三つの要素が含まれています。一つには対立する二つの極のうちにある消極的なものを「廃棄」することであり、二つには二つの極のうちにある積極的なものを「保存」することであり、三つには、より高い質をもつ「統一」に発展することです。しかし、まだこの段階では「廃棄の側面」のみが強調されています。
 しかも『現象学』の段階では、まだ矛盾の概念が確立していませんので、「矛盾」が「無限」という概念でとらえられています。「超感覚的世界は内的区別としての区別、つまり、それ自体で区別である。言いかえれば、無限として在る」(同)。この箇所は、「内的区別としての区別、つまり対立とは矛盾であり、矛盾とは無限である」という意味でしょう。それに続く「この無限によってわれわれは、法則が完成されて、それ自身における必然性になることを知り、現象の全契機が内面に受け容れられることを知る」(同)との文章がそれを証明しています。
 すなわち、矛盾によって弁証法という論理「法則が完成」するのであって、これによって運動、変化、発展する「現象の全契機」がとらえられることになるのです。矛盾によってすべてのものは無限に発展するところから、矛盾を「無限」としてとらえたものでしょう。
 「この単一な無限すなわち絶対概念は、生命の単一な本質、世界の心、一般的な血液と呼ばれるべきである」(同)。この箇所も『小論理学』では、「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である」(『小論理学』上二四六ページ)と整理された形でまとめられています。
 結局、すべての事物が発展するとは、自己を否定することで他者を定立し、再びその他者を否定して自己自身に復帰するという対立・矛盾の定立とその揚棄とを無限に反覆することにほかなりません。
 「無限が、それが在るところのものとして、意識にとっての対象となるときには、意識は自己意識である」(一〇六ページ)。
 これまで意識は、有限な客観的事物を対象として、感覚から知覚、知覚から悟性へと意識を発展させ、ついに無限性を意識するところまで到達しました。ヘーゲルは当時の機械的自然観を反映して、自然には歴史がなく、同じ運動を反覆するのみの有限な存在と考えていますので、無限性を問題とするとき、それはもはや自然のなかには存在しえないのであって、人間内部の「自己意識」を問題にせざるをえないとして、「A 意識」から「B 自己意識」に移行します。
 ヘーゲルは、『小論理学』では自己同一性を保ちながらも、自己否定をくり返して無限に発展する「自我」を「向自有」(『小論理学』㊤二九三ページ)というカテゴリーでとらえています。自我は「無限であると同時に否定的な自己関係の表現」(同)であり、この向自有としての自我を『現象学』では「自己意識」と呼んでいるのです。
 つまり「自己意識」とは「私は私を私自身から区別する。そして、そうしながら、区別されたものが区別されていないということが、そのまま私に対している」(一〇七ページ)という意識なのです。言いかえると、自己意識とは、「私は、新しい私をこれまでの古い私自身から区別しながらも、区別された新しい私もまた私自身であって、私自身の同一性がつらぬいている」という同一と区別の統一のうちにある無限に発展する意識なのです。

 

 

* コラム * 脳科学からみた感覚、知覚、悟性、理性

 今回は脳科学からみた感覚、知覚、悟性、理性とは何かを考えてみることにしましょう。

 脳のしくみと精神(心)

 成人男性の脳はおよそ一六〇〇億個の細胞からできており、その約半分が情報を伝達するニューロン(神経細胞)、残りの半分がニューロンを補佐するグリア細胞です。二〇世紀の初頭にはニューロンは網のようにつながった一つの構造なのか、それとも多数のニューロンが連結したものかについて議論がありましたが、その後電子顕微鏡の開発で後者が正しいことが分かりました。ニューロンとニューロンの間にはシナプスとよばれる接合部が存在しながらも、それを神経伝達物質がつないで、情報を伝えていくのです。
 出生後の脳の重さは約四〇〇グラムですが、四、五歳ころには一二〇〇グラムと大人の約八〇パーセント前後にまで成長します。しかし脳が重くなるのは、主にグリア細胞が分裂して増えるためであって、ニューロン自体は大きくはなっても数が増えることはありません。
 ニューロンのネットワークが活動することで脳は機能を発揮します。ニューロンのシナプスの数は、一~三歳ころまでに急激に増加しますが、その後再編されてより効率的なものになり、数はむしろ減少していきます。「記憶」することは、ニューロンのつながり方やつなぎ目の大きさが変わり、ネットワークが変化することでおこなわれます。
 脳機能画像法により、大脳皮質の機能局在が解明され、「おおまかにいえば、前頭葉は運動・行動にかかわるところ、頭頂葉は空間や動きの認知にかかわるところ、側頭葉は聴覚や形態の認知にかかわるところ、そして後頭葉は視覚にかかわるところ」(『脳科学の教科書 こころ編』一三ページ)とされています。これらの箇所は、「異種の感覚を統合する高次な情報処理をおこなう領域」(同一五ページ)であるところから、前頭連合野、頭頂連合野、側頭連合野などの「連合野」(同)とよばれています。
 すべての人間は、自由な意志をもつ統一された一個の人格として存在していますが、その人格は「連合野どうしが協調して統合して生まれてくる」(同一九ページ)ことから生じると考えられています。一ミリメートルの百分の一前後しかない無数のニューロンが、広大な脳という臓器のなかですみからすみまで協調しながら、一体として機能し、一つの精神(心)を生みだしているのです。
 脳の各部位がそれぞれバラバラに働きながらなぜ一体として機能しうるのかは不思議といわなければなりません。しかし最近の研究で、脳波の一種である二五~三〇ヘルツのガンマ波が何かを意識したときに「はば広く同期することがわかり、ガンマ波の同期現象が意識と関係があるのではないかと考えられています」(同二〇ページ)。

 言語は人間の心をつくり出す

 重要なことは、ニューロンのネットワークの活動によって感覚、知覚、悟性、理性が生じ、これらの意識の諸形態の統一により、一体性をもった精神(心)が生じることです。しかし、反映的機能としての感覚、知覚(記憶)と、創造的機能としての悟性、理性とは、明確に区別しなければなりません。というのも、感覚、知覚は動物が生きていくための機能ですから、あらゆる脊椎動物がもっているのに対し、悟性、理性などの意識は、ヒトだけがもつ意識であり、それはヒトの脳が言語機能をもつことによってはじめて生じる意識だからです。いわば、「感じる力」「知る力」としての感覚、知覚は、言語を必要としませんが、「考える力」「創造する力」としての悟性、理性は脳の言語機能と結合することによってのみ生じる意識なのです。
 人間はコミュニケーションの手段として言語(言葉と文字)を使用するのに対し、他の動物はもっぱら音声を手段としています。ヒトの言葉と動物の音声は、いずれも声帯を利用して音を出し、その変化をつうじてコミュニケーションをするという点では共通していますが、本質的には全く異なるものといわなければなりません。
 すなわち動物のコミュニケーションは、「いま、ここ」というリアルタイムに限定して「このもの」という有限なものをとらえ、それを「いま・ここ」にいる他の仲間に音声をつうじて伝えうるのみであり、まさにヘーゲルのいう「感覚的確信」にすぎないのです。
 これに対して人間の言語は、時・空の制限を受けることなく、また対象に限定されることもなく、自由に無限の情報を伝えうるものとなっています。そこから人間は、一つにはすべての動物のもつ現実的物理的な環境世界と、もう一つは言語によってつくり出された「象徴的世界」(同八八ページ)としての人間社会という、二つの独立した世界をもつことになり、「それらを組みあわせることによって、膨大な数の結合を形成し、無限の意味をつくりだす」(同)ことができるのです。
 こうして、言語によって、第二講で学んだ「生物的な一次感情と社会的な二次感情」(同一六〇ページ)が生みだされることになり、ひいてはそこから自由意志をもった理性的存在としての人間が登場することになるのです。したがって「人間の言語機能は、それを獲得して運用するための心を生みだす臓器/器官としての実在である、人間の脳神経系に生まれながらにそなわったメカニズムのはたらきによるもの」(同九〇ページ)なのです。
 いわば人間は、脳の言語機能によって人間らしい心をもつことになり、言語によって理性的存在としての人間になるということができます。その意味でヘーゲルが、真理という人間らしい認識は、言語によって表現されることではじめて可能となるとしたのは、当時の理論水準を大きく上回る高い見識を示したものとして評価されなければならないでしょう。

 脳科学からみた感覚、知覚、悟性、理性

 では、脳科学からみたとき、感覚、知覚、悟性、理性は、どのようにとらえうるのかを考えてみましょう。
 人間は、目、耳、鼻、舌、手などをつうじて、外部からの情報を五感として受けとり、その情報を大脳皮質のうちの各感覚野に伝達します。各感覚野に入力された情報は一箇所に集められます。それはまだ、概念としても、言語としてもとらえられない、例えば「水」の視覚、触覚などの感覚にとどまっています。
 感覚野に達した異なる種類の感覚情報は、前頭葉と側頭葉の境界近くの「下頭頂小葉」に集められて、「水」の視覚、触覚等は「水とは無色・無臭の液体であって、生命に必要なもの」という抽象的普遍的イメージとしての知識に変えられて貯えられますが、まだ「水」という言葉では呼ばれません。
 他方感覚野の情報は、言語野である「ウェルニッケ野」を経て「ブローカ野」に達することにより、水の視覚、触覚等は、「水」という言葉にかえられます。この両者が上位中枢で結合することにより、「水」という言葉と「無色無臭の液体であり、生物の生存に不可欠なもの」というイメージとが結合することになり、ここに「感覚」から「知覚」、さらには人間らしい心としての「悟性」「理性」へと移行するということになるのではないかと思われます。ヘレン・ケラーが「水」の感覚を「水」という言語と結びつけることのできたときの喜びは、感覚、知覚から悟性、理性に移行したことによる人間らしい心に達した喜びだったのでしょう。
 ベーコンのいう感覚は「すべての知識の源泉」(全集②一三三ページ)になるものとの命題は、「すべての知識」のうちに悟性的、理性的知識を含めて理解することによって、はじめて唯物論的認識論として脳科学的にも正しいものになるのです。
 第二講のコラムでも少し触れましたが、脊椎動物の進化にともない「脳が大きくふくらんで複雑になってくると、外界の感覚運動情報とは直接つながっておらず、中枢神経系の下部構造とのみ情報のやりとりをする脳の場所ができてくる」(『脳科学の教科書・こころ編』九三ページ)のであり、こうした上位中枢が悟性や理性という脳の高度の機能に関係していると思われます。それが「頭頂連合野と前頭連合野」(同)であり、これらの脳領域は「とくに言語機能に関連する抽象的な世界の情報処理や操作に深くかかわって」(同九三、九五ページ)いることが明らかになっています。
 重要なことは、脳はその機能局在によって脳領域ごとに異なる機能をもちつつも、全体として感覚、知覚、悟性、理性というすべての脳の機能を一つに統合して、一人の人間の一つの心、一つの人格をつくりあげていることが強調されなければなりません。その意味では、脳の働きそのものが、同一と区別の統一、非連続性と連続性の統一という弁証法的なものとなっているのです。