● 聴 講(①58:50、②53:39、③15:57)

 

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第4講 「B 自己意識」

 

自己意識とは、他者の観点から考える意識である。
そこには大きく「私の中の私」の意識と、社会的意識とがあり、
その意味では、自己意識こそが真の意識であり、
「自己意識に至ると同時に、真理の故郷に」(109ページ)入ることになる。
「B 自己意識」は、「自己意識自体」、「自己意識の自立性と非自立性」、
「自己意識の自由」の3つに分かれる。

「自己意識自体」とは、「私の中の私」の意識であり、
私とは何かを考える意識である。

自己意識は、私が生命体であり、個と類の統一体であることに気付く。
つまり私は個人であると同時に人類の一員であって、
他者があっての自分であり、社会的存在であることに気付く。
「一人はみんなのために、みんなはひとりのために」との精神こそ、
自己意識の真理である。

しかし自己意識の最初の形態は「自己意識の自立性と非自立性」として現れる。
つまり「主と僕」(「主人と奴隷」)の対立と闘争である。
主人と奴隷とは、奴隷の労働を媒介として結合しているが、
この労働こそが主人と奴隷の関係を逆転させる契機となる。
ヘーゲルが労働を人間の本質としてとらえ、
労働を通じて人間疎外が回復するとしているのは、偉大な功績である。

「自己意識の自由」とは、人間疎外からの現実的回復ではなく、
精神的回復を求めようとする内面の自由な意識であり、
ストア主義、懐疑論、不幸な意識の3つの形態がある。
ストア主義とは、現実から逃避し、
もっぱら「真と善」などの抽象的論議にふける意識であり、
懐疑論とは、すべては疑わしいとして、世界のすべてを否定する意識である。
これに対して不幸な意識とは、中世のキリスト教哲学のことであり、
自己意識は絶対者である神と一体となることで救済されるとする意識である。
しかし、どこまで行っても自己意識は現実の苦しみに引き戻され、
神と一体にはなりえない不幸な意識に止まる。

 

最後に類としての自己意識と脳科学との関係について一言。
ヘーゲルが「自己意識は、他の自己意識においてのみ、その満足をうる」
(114ページ)としているのは、脳科学からしても正しい。
ヒトには生まれつきヒトとの関わりを求めようとする「関係欲求」が
遺伝的に備わっている。
ヘーゲルが自己意識の真理を
「一人はみんなのために、みんなはひとりのために」としたのは、
ヒトの関係欲求からしても正しい。