2014年1月25日 講義

 

 

第4講 「B 自己意識」

 

〈B 自己意識の概要〉

●「B 自己意識」では、人と人(社会)との関係における
 真理認識の過程が論じられる

 ・目次では明確でないが、内容的には、即自態としての「自己意識自体」、対
  自態としての「自己意識の自立性と非自立性」、即対自態としての「自己意
  識の自由」としてとらえうる

●「自己意識自体」

 ・自己意識とは自己自身を対象とする意識

 ・自己自身を「私」ととらえる自己意識と「私は人類の一員」としてとらえる
  自己意識の2つがある

 ・類としての自己意識が真の自己意識であり、自己と社会を一体化した意識

●「自己意識の自立性と非自立性 主と僕」

 ・類としての自己意識が解体し、主人と奴隷(主と僕)という支配・従属、人
  間疎外のローマ奴隷制社会が論じられる

 ・マルクスの『経済学・哲学草稿』が最も注目した箇所

●「自己意識の自由」

 ・奴隷制、封建制社会のもとで、内面の自由による疎外からの回復、現実の苦
  しみからの解放を求める自己意識が論じられる

 ・それが「ストア主義」「懐疑論」「不幸な意識」(キリスト教)
 ・不幸な意識を通じて、現実からの解放を求める変革の自己意識としての「C
  理性」に移行する

 

1.「自己意識自体」

● 自我としての自己意識

 ・「私のなかの私」を意識する「メタ認知」の意識

 ・ ヘーゲルが「意識」をつうじて「自己意識」が生じるとしたのは脳科学から
  みても正しい

 ・「いまわれわれは、自己意識に至ると同時に、真理の故郷に入っている」
  (109ページ)

 ・自己意識は「直接的な対象」(110ページ)と「自己自身」(同)という
  「二重の対象をもつ」(同)―対象を意識している私をもう1人の私が意識
  している

 ・自己意識が自我を対象としてとらえるとき、自我は「生命あるもの」(111
  ページ)

 ・生命あるものは、生きるために「否定的本性」(同)としての本能的「欲求」
  (同)をもつ

 ・「生命の本性は、……すべての区別を廃棄している有としての無限」(同)
  である

 ・生命の無限の概念は「無限な実体」(112ページ)としての「類」において
  実現される

● 自我とわれわれ

 ・類と個の弁証法的関係

 ・類としての自己意識は、まず類としての単一性を維持するために「他者を廃
  棄」(113ページ)としての「欲求」(同)をもつ

 ・しかし類としての自己意識は、他者の存在により「制限を受けて」(114ペ
  ージ)おり、他者が存在してこそ類も存在することに気づく

 ・類としての「自己意識は、他の自己意識においてのみ、その満足をうる」
  (114ページ)

 ・人間は社会的存在として、社会的精神をもつ

● 自己意識は、自己自身を確信する意識として3つの契機をもつ

 ・1つは、「自我は自我である」(110ページ)という個別態としての自己意
  識

 ・2つは、自我は「自立的な対象」(114ページ)を否定することで、自らが
  生きようとする個別態としての「欲求」(113ページ)である

 ・3つは、個別態としての欲求を通じて、類としての自己意識が生じるのであ
  り。「1つの自己意識がもう1つの自己意識に対して」(115ページ)おり、
  「自己意識がその他在において自己自身と一致するということ」(同)を意
  味することとなる

● 類としての自己意識において「精神の概念」(115ページ)が生じてくる

 ・自己意識の3つの契機は「精神が何であるかという経験」(精神とは、客観
  的精神としての人倫的共同体・社会共同体)

 ・すなわち「精神の概念」とは、「2つの自己意識の対立が、完全に自由であ
  り、独立」(同)でありながら「われわれである我と、我であるわれわれと
  の両者が1つ」(同)であるとの確信である

 ・言いかえると「精神の概念」は、「1人はみんなのために、みんなは1人の
  ために」

 ・それは「自由・平等・友愛」という古くは原始共同体、未来的には社会主義
  ・共産主義社会の精神

 ・ヘーゲルのいう人倫的共同体(古代ギリシアのポリス)

 ・「意識は、精神の概念としての自己意識に至って初めて、……(客観世界の)
  空しい夜から出て、現在という精神的真昼に歩みこんだ」(同)

 

2.「自己意識の自立性と非自立性主と僕」

① 自我と他者の相互承認

● 上述したように類としての自己意識の真理は
 「われわれである我と、我であるわれわれ」の統一

 ・本来の人間社会の精神は「自己意識は、他の自己意識から承認されたものと
  してのみ存在する」(115ページ)

 ・自我と他者とは相互に承認しあうことで、人間らしい無限の媒介を形成

● しかし自己意識の真理は、最初から実現されているわけでない

 ・2つの自己意識は「一方はただ承認されるだけなのに、他方はただ承認する
  だけであるという形で、歩みでてくる」(117ページ)―「主と僕」

 ・それは「生と死を賭ける戦」(118ページ)によって、類としての自己意識
  解体として生じる

② 主と僕の弁証法

● 類としての自己意識の解体

 ・「両方の自己意識は、この、自然的な定在である、見知らぬ本質態のうちに
  置かれた自分達の意識を、廃棄する」(同)

 ・「単純な統一が解体」(同)し、「純粋の自己意識」(同)と「他方の自己
  意識に対して在るような意識」(同)との対立が生じる―主と僕

 ・「主は自立的な存在(物)によって、間接的に僕に関係する」(同)

 ・「労働する意識は、自己自身としての自立的存在を、直観するようになる」
  (122ページ)

 ・「自立的意識の真理が僕的意識」(120ページ)であり、「僕たることは、
  ……真の自立態に逆転するであろう」(121ページ)

③ 主と僕の弁証法に学ぶ

● 階級的観点

 ・「戦いが階級社会を生みだす」という制約はあるが、ローマの奴隷制社会を
  階級社会ととらえて、人間疎外を見いだしていることは高く評価されるべき

 ・しかし、物質に基盤をもつ階級社会を「意識の2つの対立した形態」として
  とらえる

 ・「ヘーゲルにあっては、人間的本質、人間は、自己意識に等しいと見なされ
  る。したがって、人間的本質の一切の疎外は自己意識の疎外にほかならない
  のである」(マルクス『経済学・哲学草稿』201〜202ページ、岩波文庫)

● マルクスによる労働の本質の評価

 ・「ヘーゲルは、労働を人間の本質として、自己を確証しつつある人間の本質
  としてとらえる。……だからこそ彼の学問は絶対的なのである」(マルクス
  『経済学・哲学草稿』200ページ)

 ・「労働は人間生活全体の第1の基本条件であり、……労働が人間そのものを
  も創造した」(エンゲルス『猿が人間化するにあたっての労働の役割』全集
  ⑳ 482ページ)

● ヘーゲルの偉大なところは、労働をつうじて、
 主と僕の関係が逆転する「労働の弁証法」を論じているところにある

 ・ヘーゲルの偉大さは「否定性の弁証法において、……人間の自己産出を1つ
  の過程としてとらえ、対象化を対象剥離として、外化として、およびこの外
  化の止揚としてとらえているということ。こうして彼が労働の本質をとらえ、
  ……真なる人間を、人間自身の労働の成果として概念的に把握しているとい
  うことである」(マルクス『経済学・哲学草稿』199ページ)

 ・「対象化を対象剥離として」とは、「生産者が自己を対象化した生産物を搾
  取されること」、「この外化の止揚」とは「搾取の止揚」という意味

 ・すなわち、ヘーゲルの偉大さは、労働をつうじて「外化の止揚」(疎外から
  の解放)としてとらえ、解放された「真なる人間」を回復するとしたところ
  にある

 ・若きマルクスがとらえた『現象学』における「否定性の弁証法」は後に「階
  級闘争の弁証法」に結実する

 ・「自分と物とのあいだに奴隷の労働を挿入する主人のひたすらな享受は、主
  人に不毛の判決を下し、世界史の弁証法のなかで奴隷の意識を主人の意識を
  超えて高める。……ストア主義、懐疑主義および不幸なる意識は、……奴隷
  的意識の現象学的弁証法から発現してくる」(ルカーチ『若きヘーゲル』㊦
  157〜158ページ)

 

3.「自己意識の自由ストア主義と
   懐疑主義と不幸な意識」

① 自己意識の自由

● 階級社会の人間疎外のなかから「自己意識の新しい形」(123ページ)が
 生まれる

 ・「それは考える意識であり、自由な自己意識・ であるような意識」(123〜
  124ページ)

 ・私を「私の概念」(124ページ)においてとらえ、「思惟において私は自由
  である」(同)とする自己意識

 ・それは「考える意識」として、現実の階級対立を意識のうちで止揚しようと
  する自由な意識

●「思惟においては私は自由である」(124ページ)

 ・現実においては不自由

 ・しかし思惟のうちでは「私は他者(主人の支配―高村)のうちにいるのでは
  なく、端的に(主人の支配から解放され―高村)私のもとにいる」(同)か
  ら「自由」である

 ・その自由は、現実から逃れる「否定的自由」(自由の4段階の1番低い自由)

● 自由な意識としてのストア主義、懐疑主義と不幸な意識

 ・ヘレニズム・ローマ時代から中世にかけての帝国主義的あるいは封建的支配
  と抑圧のもとで、被抑圧人民は現実から逃避して内面のうちに自由を求めた

 ・ストア主義、懐疑主義、不幸な意識という「自己意識のこの自由は、精神史
  において意識的な形をとって現われている」(124ページ)

② ストア主義

● ストア主義は「自然的定在に対し無関心」(125ページ)

 ・「その自由は、世界の精神の一般的形式として、一般的な恐怖と奴隷状態の
  時代(古代末期)」(同)においてのみ現れえた

 ・彼らは「真と善、英知と徳」(126ページ)などというが、彼らのいうこれ
  からの「概念は、……物の多様な姿から引きはなされている」(125ページ)
  から、自らのうちに真理一般の標準」(同)をもたない無内容なものにすぎ
  ない

 ・「この意識は主と僕の関係に対しては否定的」(同)―無関心

 ・「王座にいようと鎖につながれていようと、個々の定在(名誉、財産、貧困、
  抑圧など―高村)に依存することのすべてにおいて自由であり、定在の運動
  (階級闘争―高村)からも、能動および受動のいずれからも、たえず身を引
  いて、思想という単一な本質態に帰る」(同)

 ・現実から逃避し、現実の苦難に目を向けない「生命のない姿」(同)

 ・それは「自由の概念(のうちにやっと含まれる自由―高村)にすぎず、生き
  た自由そのものではない」(同)

 ・「この意識は定在の絶対的否定としての自らを自分では実現しなかった」
  (126ページ)

 ・ヘーゲルはストア主義の批判をつうじて、真の自由は社会変革の自由にある
  ことを示唆

③ 懐疑論

● 懐疑論(スケプシス派)は、自由な意識のもつ否定性を
 「現実の否定性」(126ページ)に転化したもの

 ・懐疑論は、「多様に規定された世界の存在を空しくする」(同)「現実の否
  定性」(同)を示す

 ・「固定した、変化しないもの」(127ページ)は「全く永続するものを持た
  ないし、思惟にとっては消えざるをえない」(同)とする

 ・懐疑論は、「実在であると称するこの他者自身を消えさせてしまう」(127
  ページ)のみならず、「対象的なものを対象的なものと認め……る自分自身
  の……態度をも消えさせてしまう」(同)

 ・実在のすべてと、自分自身を否定する懐疑論は、「自己の自由の確信」(同)
  を「アタラクシア」に求め、「それを真理に高める」(同)

 ・懐疑論は「悟性が確実だとする一切のものにたいする完全な絶望であり、そ
  こから生じる境地は、何事にも心を動かされぬ自己安住」(『小論理学』㊤
  250ページ)

● 懐疑論の矛盾

 ・懐疑論は世界のすべてを否定するが、それでは生きてゆけない

 ・「それは見たり、聞いたりすることなどの空しさを言い表わしながら、現に
  見たり、聞いたりなどしている。それは、人倫的な本質の空しさを言い表わ
  しながら、その空しさを自ら行為の諸々の威力としている」(同)

 ・「その行為とその言葉はいつも矛盾している」(同)―言行不一致

 ・この「二重の、矛盾するだけの実在であるような自己についての意識」
  (129ページ)が、次に取り上げる「不幸な意識」(同)

④ 不幸な意識

● キリスト教哲学(スコラ哲学)としての不幸な意識

 ・ヘレニズム・ローマ時代の哲学としてストア主義、懐疑主義は、中世の哲学
  としてのキリスト教(スコラ)哲学に

 ・3つの哲学は、いずれも現実の苦しみから逃れて内面の自由を求める「自己
  意識の自由」としては共通している

 ・しかし、ストア主義、懐疑主義が現実からの「逃避の哲学」であるのに対し、
  キリスト教はゲルマン諸国家と結びつき、「支配の宗教」(全集① 397ペー
  ジ)としての「慰めの哲学」

 ・キリスト教の教義は、原罪をあがなうために天なる父(神)によってこの世
  につかわされた神の子・キリストが、人類の身代わりに原罪を引き受け、十
  字架にかけられ、聖霊となった。父なる神・キリスト・聖霊の三位一体の神
  を信仰し、神と一体となることによって、原罪から解放され、救済される、
  とするもの

● 不幸な意識は、自己意識のうちにおける、対立・矛盾する2つの意識

 ・信者の意識には、1つは神という「不変な意識」(129ページ)と同時に、
  もう1つは信者の「変化する意識」(同)という矛盾した意識があるところ
  から、「不幸な意識」とよばれる

 ・不幸な意識は、「変化する意識」から「解放され」(同)、「不変な意識」
  (同)との一体化を「目指さざるをえない」(同)

 ・「この運動にあっては、反対は自らの反対において安定するのではなく、自
  らのうちで自分を反対として新たに生みだすだけである」(130ページ)

 ・信者は天なる神との一体化を目指すが、一体化したと思う足下から現実の苦
  しみに引き戻され救済されないから、再び神との対立を意識するところに、
  その「不幸」がある

 ・キリスト教の三位一体の神には「いくつかの規定が現われる」(131ページ)

 ・父なる神との一体化を実現しえなかった不幸な意識は、より現実的な、形の
  あるキリストとの一体化を求める

 ・それでも尚「不変なものと1つになろうとする希望は、希望に止まる」(同)

⑤ 不幸な意識のたどる3つの形態

● 不幸な意識は、形態のない神から、形態のあるキリストに向かう

 ・そこで「分裂した意識は純粋で不変なもの(神―高村)に関係することを止
  めて、形態のある不変的なもの(イエス)に関係することだけに、身を捧げ」
  (132ページ)ることで、神との一体化を実現しようとする

 ・そこから「純粋な意識」(同)、「欲求及び労働として現実と関係する個々
  の実在」(同)、「自分だけでの有の意識」(同)という3つの段階が生ま
  れる

● 純粋な意識

 ・純粋な意識とは、不変的な神に「帰依するだけ」(133ページ)の「信心」
  (同)を意味する

 ・「鐘の音がなんとなく鳴ることであり、穏やかな香煙がたちこめる」(同)
  ことでキリストを感じることはできても、「見知らぬもの」(同)にとど
  まっている

 ・「意識は実在(不変なもの―高村)をつかまえる代わりに、感じるだけで、
  自己に逆もどり」(同)しており、「不変なものに対立した(可変的なもの
  としての―高村)」自己自身に到達しているだけ」(同)

 ・結局この「信心」の立場は、キリストの「生命の墓」(同)を手にしようと
  する十字軍の戦いのような無意味な自己満足に終わってしまう

 ・こうして純粋な意識は、「自分にとって個別的なものである限りの現実」
  (同)のうちにキリストとの一体化を求めて、次のステップに移行すること
  になる

● 欲求と労働の関係

 ・「欲求と労働」では、「純粋な意識」と異なり、行為によって神との一体化
  を求める

 ・すなわち欲求と労働によって、パンとブドウ酒等の食糧が造られる

 ・キリスト教は処刑の前日の最後の晩さんにおいて、12人の弟子に対し、パ
  ンを「わが体である」、ブドウ酒を「これはわが契約の血」として分け与え
  た

 ・そこからキリスト教においては、パンとブドウ酒などの食糧は神から与えら
  れたものであり、それを飲食することで、十字架で死に復活したキリストと
  交わることができるという「聖さん式」がおこなわれる

 ・「この欲求と労働は、心情がわれわれに対して求めた自己自身の内面的確信
  を、意識のために保証する、見知らぬ実在(キリスト―高村)を、つまり自
  立的な物(パンとブドウ酒)という形をとっている見知らぬ実在を廃棄し、
  享楽することによって確信を保証する」(134ページ)

 ・つまりパンとブドウ酒を飲食するという行為によって、可変的な自己意識は
  不変的な神と一体になろうとする

 ・しかしこの「欲求と労働が向ってゆく現実(としての聖さん式―高村)は、
  ……一方では自体的に空しいものにすぎないが、他方では神聖なものとされ
  た世界でもあるような、2つに引き裂かれた現実である」(同)

 ・つまり聖さん式という現実がもたらすものは、一方では労働の産物としての
  パンとブドウ酒を費消するという「自体的に空しいもの」を他方では「神聖
  なもの」とする「2つにひきさかれた現実」にすぎない

 ・この行為がもたらしたのは、「不変的なもの」と、「個別的な意識」とが
  「相互に関係するが、……また自体的には固定してもいる」(135ページ)
  のであり、この2つの側面が「一方から他方へと運動のたわむれ」(同)を
  くり返すにすぎない

 ・「その結果は、不変のものという対立した意識と、……自分だけで在る個別
  性一般の意識とに、くり返し分裂することである」(136ページ)

●「自分だけでの有の意識」(132ページ)

 ・「自分だけでの有の意識」とは、自らの個別性を否定することで、キリスト
  との一体化を実現しようとするもの

 ・本能に根ざした「動物的な機能」(137ページ)としての性欲、食欲は、
  「最も大切なこと」(同)ではあるが、「最もいやしいものであり、一般的
  なもの(不変的なもの―高村)ではなく、個別的なものである」(同)

 ・こういう最も個別的なものとしての「動物的な機能」を否定して禁欲・断食
  を求めることは「不変なものという思想に媒介されてのこと」(同)である

 ・この個別的な意識は「奉仕者」としてのカトリック教会を媒介として「不変
  な意識に対している」(同)

 ・「意識は……自分から、自分の意志の本質(動物的な機能―高村)をつきは
  なし、決意の自己性と自由を、媒語つまり奉仕者にまかせる」(同)

 ・しかし「非本質的な意識」(138ページ)には、まだ「自らの労働と享楽の
  みのりが残る」(同)から、「意識はこのみのりをもやはり自分から突きは
  なす」(同)、つまりすべてを教会に寄進する

 ・こうして、第3段階のキリスト教は、一切の個別性を捨てることで不変なも
  のと一体になろうとする

 ・しかし個別性の放棄は、教会の「忠告によって生じたもの」(139ページ)
  にすぎないから、不幸な意識を教会によって認めるよう求められたものとい
  える―「顛倒」(同)した不幸な意識

 ・結局不幸な意識は、内面の世界では救いを得られないため、「現実的な行為
  は貧しきものであり、自らの享楽は苦痛」(同)という現実に立ち戻らざる
  をえなくなる

 ・こうして現実の世界は変革されるべき対象としてあらわれる「C 理性」に移
  行することになる

 

4.類としての自己意識と脳科学

● 類としての「自己意識は、他の自己意識においてのみ、その満足をうる」
 (114ページ)としているのは、脳科学からみても正しい

 ・ヒトとサルの違いは社会をもつか否かにある

 ・ヒトは、社会によってヒトとなったから、「生まれつき人との関わりを求め
  ようとする『関係欲求』が、遺伝的に備わっている」(松本元『愛は脳を活
  性化する』80〜81ページ、岩波書店)

 ・動物の赤ちゃんは生理的欲求を満たすためにおっぱいの一気飲みをするが、
  ヒトの赤ちゃんは中断することで、お母さんからの語りかけを求める

 ・つまりヒトの赤ちゃんは、おっぱい飲みをつうじて生理的欲求と関係欲求の
  両方を満足させることでヒトになっていく

● 関係欲求と「無縁社会」

 ・ヒトの関係欲求を満たす「社会」は、家族、学校、職場、地域の4つ

 ・現代日本は、この4つの「他の自己意識」との接点がすべて奪われている
  「無縁社会」

 ・ヘーゲルが類としての自己意識を「われわれである我と我であるわれわれと
  の両者が1つ」(115ページ)としてとらえたことは、生得的(本能的)欲
  求である「関係欲求を哲学的に表現したものとして高く評価されるべき

●「人間らしい心」と社会性

 ・人間は動物と異なり、二次感情をもつ

 ・二次感情は、「人間社会」の生みだす普遍的感情として「人間らしい心」を
  生みだす

 ・「探検バクモン」の脳科学第2弾(2013.11.13)では、「人間らしい心は、
  社会のルールを守って行動するところにある」という

 ・自然科学者の脳科学の著作には、社会的二次感情とか社会的ルールが「人間
  らしい心」に関係するとしながら、社会的意識の諸形態のもつ階級性に目を
  ふさいでいる

 ・社会的意識の階級性と「人間らしい心」の関係を論じるには、国家の二面性
  を論じなければならない

 ・国家の二面性―国家は共同の利益を実現する仮象をもちつつ、階級支配の機
  関という本質をもつ

 ・上部構造の中心に位置する国家の二面性は、同じ上部構造に属する「社会的
  諸意識形態」としての社会規範にも反映する

 ・社会規範も、全構成員の普遍的意識の規範化としての仮象をもちつつ、階級
  支配の規範としての本質をもつ(拙著『反デューリング論』に学ぶ』参照)

 ・史的唯物論でいう「社会的存在は社会的意識を規定する」とは、この上部構
  造の本質部分を規定したもの

 ・階級社会においては、仮象にすぎない社会の普遍的意識が、被支配階級の意
  識であると同時に「人間らしい心」をつくる

 ・名護市長選の結果が「人間らしい心」であり、にもかかわらず「粛々と手続
  きを進める」という菅官房長に「人間らしい心」はない