『ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ』より

 

 

第四講 「B 自己意識」

「B 自己意識」の概要

 「A 意識」では対自然の関係における真理認識の過程が論じられましたが、「B 自己意識」では、人と人、人と社会という対社会の関係における真理認識の過程が論じられています。
 「B 自己意識」の構成も「A 意識」と同様に、即自・対自・即対自として展開されます。「目次」を見るかぎり、この三部構成は明確ではありませんが、内容的には即自態としての「自己意識自体」(「目次」参照)、対自態としての「自己意識の自立性と非自立性」、即対自態としての「自己意識の自由」としてとらえられます。
 まず一つめの「自己意識自体」では、自己意識とは自己自身を対象とする意識であり、そこには「私は私」としてとらえる個人としての自己意識と、「私は人類の一員」としてとらえる類としての自己意識の二つがあることが論じられます。類としての自己意識こそ、真の自己意識であり、それは自己と社会との一体化した意識、つまり「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という意識であること、それは古代ギリシアのポリスに見られることが明らかにされます。
 二つめの「自己意識の自立性と非自立性」では、自己と社会の一体化した類としての自己意識が解体され、主人と奴隷(主と僕)という支配・従属の関係にある人間疎外のローマ奴隷制社会をはじめとする階級社会が論じられます。ここはマルクスが『経済学・哲学草稿』のなかで最も注目した箇所の一つです。
 三つめの「自己意識の自由」では、奴隷制社会やそれに続く封建制社会の圧制のもとで、内面の自由によって人間疎外を回復し、現実の苦しみからの解放を求めようとする自己意識がとりあげられています。それが、副題となっている「ストア主義と懐疑論と不幸な意識」の三つの自己意識です。「不幸な意識」とは、キリスト教哲学を意味しています。不幸な意識をつうじて、内面の自由によっては現実の苦しみから抜けだしえないところから、直接に現実の苦しみからの解放を求める「C 理性」という変革の意識へと移行することになります。

 

一、「自己意識自体」

 個人としての自己意識

 「B 自己意識」とは、「私を私自身から区別する」(一〇七ページ)意識であり、第二講のコラムで学んだように「私のなかの私」を意識する「メタ認知」の意識です。メタ認知とは、対象となる外界を認知するのではなく認知そのものを認知する「一段高い認知」を意味しています。
 ヘーゲルが「A 意識」をつうじて「B 自己意識」が生じるとしているのは、脳科学からみても正しい見解ということができます。というのも、ヒトの意識は三~四歳頃までは自分の視点で対象を見るという動物と同様の「意識」しか存在しないのですが、五歳頃からは、ヒト特有の他者の視点で自分を見るメタ認知、つまり「自己意識」が生まれてくるからです。言わば客観的事物という対象の認識をつうじて、自己自身を認識する自己意識が生まれてくるのです。
 ヘーゲルは、それを哲学的にとらえ、「意識」は無限性を認識することをつうじて、有限な客観的事物の認識から、無限な自我の認識という「自己意識」に移行するとしました。
 「自我は、他者に対して自我自身であると同時に、やはり自我に対して自我自身であるにすぎないようなこの他者を、覆うている」(一〇九ページ)。
 つまり個人としての自己意識とは、「私のなかの私」の意識であり、この「私のなかの私」は、「私とは何者か」という目で私をみるのと同時に、「私と対象」「私と他者」「私と社会」という私と他者との関係をも「自己意識の契機として」(一一〇ページ)含んでいるという意味において「この他者を、覆うている」のです。
 ヒトは、動物と異なり、メタ認知としての自己意識をもつことによってヒトとなります。したがって「いまわれわれは、自己意識に至ると同時に、真理の故郷に入っている」(一〇九ページ)ことになるのです。
 こうして個人としての自己意識は、「自己自身」を意識の対象とすることによって「自己自身とは何であるか」の問いを発し、自己は「生命あるもの」(一一一ページ)と回答することになります。「A 意識」の最後の方で、無限性をつうじて自己意識に移行することを学びましたが、そこには「無限が、それが在るところのものとして、意識にとっての対象となるときには、意識は自己意識である」(一〇六ページ)ことが示されていました。
 自己意識は、自分自身を「生命あるもの」ととらえることにより、自分自身は「生命の本性」(一一一ページ)として「すべての区別項を廃棄している有としての無限であり、軸回転する純粋な運動」(同)であることを意識するのです。すなわち、生命体とは、外界からエネルギーを取り入れ、費消し、残滓を廃棄するという本能的「欲求」(同)にもとづいて無限の自己運動をする存在であり、その意味で外界という「区別項を廃棄する」(同)「否定的本性」(同)をもっているのです。

 類としての自己意識

 しかし、自我(個人)としての自己意識は、自己が生命体として無限の自己運動をする存在であることを認識するにとどまらず、生命体としての真の無限性は個体にではなくて、「類」にあることに気がつきます。個々の生命体は有限な存在にすぎませんが、子孫を残すことをつうじて「類」としての無限性を確保することになります。つまり、類とは個体という区別を「無限性に隷属させる」(一一二ページ)生命の概念にほかならないのです。
 こうして自己意識は、「個人としての自己意識」から、自分は人類の一員であるという「類と認めている意識」(一一三ページ)に移行することになります。ヘーゲルは、この「無限な実体」(一一二ページ)としての「類」を、「一般的な流動的な媒体のうちにある生命」(同)と呼んでいます。つまり類とは、類に属する個体が次々と交替していくなかで、自己同一性を貫く無限な生命なのです。すなわち類としての生命とは、個体として「自ら展開しながら」(一一三ページ)、個体の死によって「その展開を解体し、この運動のうちに単一に自己を維持する全体」(同)としての「無限な実体」なのです。
 こうして自己意識は、はじめは自己自身を「生命あるもの」という「直接的な統一態」(同)としてとらえるにとどまっていましたが、いまや自己を無限な生命の概念ともいうべき「単一な類」(同)としてとらえるようになってきます。
 自己意識が自己自身を「類」として意識するということは、自己自身を人類の一員、社会の一員として意識することであり、自己を「諸々の区別を区別としないような、単一な一般者」(同)であると確信することにほかなりません。この類としての自己意識が、いわゆる円滑な人間関係を形成する「社会脳」と呼ばれる心の働きなのでしょう。
 いわば個人としての自己意識はメタ認知として、類としての自己意識は社会脳として、いずれも人間らしい心を形成しているということができるでしょう。したがって「いまわれわれは、自己意識に至ると同時に、真理の故郷に入っている」(一〇九ページ)との命題には、特別の重みを感じざるをえません。
 「そこで自己意識は、自分に対し独立な生命として現われる他者を廃棄することによってのみ、(類としての ── 高村)自己自身を確信している。だから、自己意識は欲求である」(一一三ページ)。
 類と個とは、同一と区別の関係にあります。類は個の存在によってのみ類として存在するのですが、同時に類は個ではないとして個を否定し、排除することによって、単一な類であろうとするという矛盾する関係のうちにあります。そこでまず、類としての自己意識に生じるのが、「生命あるもの」の「否定的本性」(一一一ページ)であった「欲求」の側面であり、「他者を廃棄する」という欲求によって、類としての単一性を維持しようとします。
 「自己意識は、この他者が空しいことを確信して、この空しさを自分の真理である」(一一三ページ)と確信することになります。しかし、他方で類としての自己意識は、他者という個体が存在してこそ、類としての自己自身も存在しうることに気がつくのです。すなわち類としての自己自身は、他者の存在「により制限を受けている」(一一四ページ)のであって、「廃棄するためには、この他者は存在していなければならない」(同)ことに気づきます。こうして類としての自己意識は、「対象を、欲求と同じように、再び生み出す」(同)ことになります。 つまり類としての「自己意識は他の自己意識においてのみ、その満足をうる」(同)のであり、この自己意識が「真理の故郷」である類としての自己意識なのです。結局ヒト、つまり人類という類は、社会的存在であって、自分自身が生きるためには、他者と相互に承認しあうことによる共存、連帯、友好、相互扶助という関係をもたざるをえない存在なのです。
 人間には共同社会性という類本質が生まれながらに備わっていますが、その共同社会性がヘーゲルのいう「類としての自己意識」にほかならないのです。マルクスは『現象学』を論じた『経済学・哲学草稿』等で、人間の類本質を「自由な意識」と「共同社会性」としてとらえました。これはヘーゲルが『現象学』において人間の本質を「自由な精神」と「類としての自己意識」としてとらえたことに対応するものであり、マルクスはあるいは『現象学』にヒントを得て人間の類本質を規定したのかもしれません。
 以上を整理してみると、「自己意識の概念」(一一四ページ)は、三つの契機において完結していることになります。まず「自己意識の最初の直接の対象」(同)になるのは、自我としての自己意識であり、二つには、自我は、生きるために「自立的な対象を廃棄する」(同)欲求をもつことであり、三つには、自我は「ただ生きているだけ」(同)ではなくて、類として生きているという類としての自己意識へと発展するのです。「無限な実体」(一一二ページ)である類としての自己意識とは、「自己意識がその他在において自己自身と一致する」(一一五ページ)意識にほかなりません。

 「精神の概念」は「一人はみんなのために、みんなは一人のために」

 この類としての自己意識をつうじて、私たちは、人間社会の理念という「既に精神の概念」(同)に直面しており、これからの展開をつうじて、人間社会という客観的精神が「何であるかという経験」(同)をしていくことになります。それはすなわち、「二つの自己意識の対立が、完全に自由であり、独立でありながらも、両者が、すなわち、われわれである我と、我であるわれわれとの両者が一つであるという、この絶対的実体が何であるかという経験である」(同)。
 類としての自己意識の概念とは、人間社会の真にあるべき姿という「精神の概念」であって、一人ひとりが「完全に自由であり、独立」でありながらもわれとわれわれ(社会)との「両者が一つ」となって社会の「絶対的実体」としての精神となっているのです。これから自己意識はさまざまな経験を経て、この「精神の概念」に向かって前進していくことになります。
 つまり社会の構成員の一人ひとりが、完全に自由で独立していながらも、社会から切りはなされることも、疎外されることもなく、社会と一体化し、われとわれわれの対立物の統一としての社会こそ、客観的精神の真にあるべき姿なのです。それはアレクサンドル・デュマが『三銃士』でとりあげ、エイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』という不朽の名画のなかで有名となった「一人はみんなのために、みんなは一人のために」のスローガンと同じ精神ということができます。ヘーゲルはこの客観的「精神の概念」を古代ギリシアのポリス(都市国家)のうちに見いだしています。
 言いかえると、「精神の概念」とは、ルソーのいう「一般意志」、つまり人民の真にあるべき意志にもとづく治者と被治者の同一という「意志の概念」の支配する社会であり、第一部の最後で論じられる一般意志の支配する人倫的実体となってあらわれるのです。
 「意識は、精神の概念としての自己意識に至って初めて、その転回点を持つことになる。この転回点に立って意識は、感覚的此岸の多彩な仮象と超感覚的彼岸の空しい夜から出て、現在という精神的真昼に歩みこんだのである」(同)。つまり意識は「自己意識に至って初めて」個人的意識という主観的精神から社会的意識という客観的精神に到達し、「空しい夜から出て」本来の精神という「精神的真昼に歩みこんだ」のです。

 

二、「A 自己意識の自立性と非自立性 主と僕」 

 自己意識の相互承認から対立・闘争に

 「自己意識自体」で学んだように、類としての自己意識の真理は、「われわれである我と、我であるわれわれとの両者が一つ」というものでした。すなわち、人類という類としての「自己意識は他の自己意識から承認されたものとしてのみ存在する」(一一五ページ)ことにより、個人の尊厳を相互に尊重し、承認し合うことによってすべての社会の構成員が人間らしく生きることができるのです。
 「承認というこの純粋概念」(一一七ページ)が「どういうふうに現われるか」(同)というと、最初は「両方が等しくない」(同)という関係におかれ、「一方はただ承認されるだけなのに、他方はただ承認するだけであるという形で、歩み出て」(同)くる、といいます。というのも、「各々は自己自身を確信してはいるが、他者を自分のものと確信してはいない」(同)のであって、他者は「非本質的な対象として、否定的なものという性格を印された対象として存在」(同)しているからです。
 したがって「二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦によって、自分自身と互いとの真を確かめるというふうに規定されて」(一一八ページ)います。なぜなら「共に、自分だけであるという自己自身の確信を、他者においてまた自分達自身において、真理に高めねばならない」(同)からです。この戦いをつうじて、「両方の自己意識は、この、自然的な定在である、見知らぬ本質態のうちに置かれた自分達の意識(類としての自己意識 ── 高村)を、廃棄する、つまり自らを廃棄する」(一一九ページ)のです。したがってこの戦いから生まれるのは、真理ではなくて、類としての自己意識という「単純な統一が解体する」(同)という結果にすぎません。
 「この解体によって、純粋の自己意識と、純粋に自分だけで有るのではなく、他方の自己意識に対して在るような意識」(同)という対立した二つの意識が生じることになります。一方は主(主人)という「独立な意識」(同)であり、他方は僕(奴隷)という「非独立的な意識」(同)です。主人は奴隷を所有することによって奴隷が生産する生活手段を独占するという関係にありますから、「主は自立的存在(物)によって間接的に僕に関係する」(同)ということになります。その意味では、「この推理(主 ── 物 ── 僕)においてこの他方を自分に従属させる」(一二〇ページ)のです。
 奴隷は、もっぱら「物に働きかける」(同)ことで物を生産し、主人は「物をひたすら享楽する」(同)ことによって、間接的に奴隷を支配します。この関係は一見すると、一方の主人は自己意識として「自立」し、他方の奴隷は主人に隷属する「非自立」の自己意識にすぎないように思えます。しかし主人は、奴隷が作った生産物がなければ生きていけないのに対し、奴隷は自ら生産しているのですから、ある意味で主人こそ「非自立」的存在であり、奴隷こそ「自立」的存在ということもできます。つまり奴隷が労働するということは「対象に形式をあたえることになり、永続させる」(一二二ページ)ことになりますから、奴隷の「意識は労働しながら自分の外に出て永続の場に入る」(同)のであり、「労働する意識は、自己自身としての自立的存在を、直視するようになる」(同)のです。したがって奴隷は「見知らぬ縁なき(他人、主の)意味だけが所をえているように見えていた労働のうちに」(同)、「自己を、自己自身で再発見することによって固有の意味が労働のうちに生れる」(同)のです。
 こうして、「自立的意識の真理は僕的意識である」(一二〇ページ)ことが明らかとなり、「僕たることは、自己に押しもどされた意識として、自己のうちに帰り、真の自立態に逆転するであろう」(一二一ページ)と結論されます。いわば、労働は、生産者である奴隷に対し、自立した人間としての意識をもたらすと同時に、「生産者が主役」としての意識をも生みだすことになり、奴隷は「真の自立態」として主人との立場を「逆転する」ことになるのです。

 主と僕の弁証法の意義と限界

 ヘーゲルが類としての自己意識、つまり自己と社会の一体化した社会が「生と死を賭ける戦によって」(一一八ページ)解体し、ローマの奴隷制社会に移行したとしているのは、史的唯物論の観点からすると、認識の歴史的制約性を示すものということができます。なぜなら、「生と死を賭ける戦」が階級社会を生みだしたのではなくて、階級社会が階級闘争を生みだすのであり、因果の関係が逆になっているからです。原始共同体から、ギリシア・ローマの奴隷制社会という階級社会への移行をもたらしたものが生産力の発展による私有財産制にあったことは、今日では明白になっているところです。
 そういう制約がありながらも、ヘーゲルが史的唯物論の発見されていない時代に、ローマの奴隷制社会を「主と僕」の階級対立の社会としてとらえ、そこに人間疎外を見いだすと同時に、主と僕の関係が逆転する弁証法を導き出したことは、時代の限界を越える認識として高く評価されるべきでしょう。
 しかしヘーゲルは、人間をもっぱら「自己意識」としてとらえていることもあって、「主と僕」という階級対立を「意識の二つの対立した形態」(一一九ページ)から生じるとしてとらえていることも、今日的認識からすると問題といわざるをえません。というのも、奴隷制社会における「主と僕」の対立は、主人が奴隷という生産手段を所有することにより、奴隷の生産した生活手段を独り占めするという、物質的諸関係から生じるものであって、けっして「意識」の問題ではないからです。
 マルクスは『経済学・哲学草稿』においてこの点を次のように批判しています。
 「ヘーゲルにあっては、人間的本質、人間は、自己意識に等しいと見なされる。したがって、人間的本質の一切の疎外は自己意識の疎外にほかならないのである。自己意識の疎外は、人間的本質の現実的な疎外の表現、その現実的な疎外が知識と思惟のうちに自分を映しだしている表現とは見なされていない」(『経済学・哲学草稿』二〇一~二〇二ページ)。
 しかしこのマルクスの批判は一面で正しく、一面で正しくないと言えます。確かに「主と僕」の対立を、「自己意識の疎外」とするとらえ方は問題ですが、それにしても「主と僕」の対立は、けっしてたんに「自己意識の疎外」としてではなく、「人間的本質の現実的な疎外の表現」としての階級対立としてとらえられていることも、また間違いないところだからです。それはヘーゲルが「D 精神」の「法状態」において、古代ローマの奴隷制社会を「自己を疎外するような実在」(二八一ページ)としての「現実的真理」(同)としてとらえていることにも示されています。

 

三、「B 自己意識の自由 ストア主義と懐疑論と不幸な意識」

 内面における自由な自己意識

 奴隷制から封建制にかけての人間疎外のなかから、現実的疎外の回復としてではなく、自己の内面において疎外からの回復を求める「自己意識の新しい形」(一二三ページ)が生まれてきます。それは「考える意識であり、自由な自己意識であるような意識」(一二三~一二四ページ)です。「考える」自己意識とは、対象である自我を表象のうちにとらえるのではなく、「概念把握」(一二四ページ)しようとする意識であり、「私の概念」(同)をとらえようとする意識です。
 つまり思惟する自己意識は、「私の概念」を、現実には不自由であっても「思惟においては私は自由」(同)であり、「私は他者のうちにいるのではなく、端的に私のもとにいるまま」(同)であるとしてとらえ、内面的自由に沈潜することになるのです。それを「自己意識の自由」と呼んでいるのは、客観世界の現実の苦しみと悩みから意識面で逃れる自由だからです。
 後にヘーゲルは、客観世界のもつ必然性(法則性)と意志決定の自由との関係について、必然性から逃れる否定的自由、必然性を無視する形式的自由、必然性を承認する必然的自由、必然性を揚棄する概念的自由の四段階に区別してとらえましたが、「自己意識の自由」は最も低い否定的自由あるいは次の形式的自由を意味しているのです(拙著『ヘーゲル「法の哲学」を読む』九〇ページ以下)。この「自己意識の自由」には、ストア主義、懐疑論、不幸な意識(キリスト教)の三つの形態があります。歴史的にみるとストア主義と懐疑論はヘレニズム・ローマ時代の哲学であるのに対し、不幸な意識は中世の哲学ということができます。

 ストア主義のいう自由とは否定的自由

 「自己意識のこの自由は、精神史において……ストア主義と呼ばれてきた」(一二四ページ)ものであり、「一般的な恐怖と奴隷状態の時代」(一二五ページ)に現れてきた哲学です。ストア主義のいう「自己意識の自由は、自然的定在に対し無関心であるから、この定在をやはり自由に放っておく」(同)のであり、「主と僕の関係」(同)についても次のようにいうのです。
 「王座にいようと鎖につながれていようと、個々の定在(名誉、財産、貧困、抑圧など ── 高村)に依存することのすべてにおいて自由であり、定在の運動(階級闘争 ── 高村)からも、能動及び受動のいずれからも、たえず身を引いて、思想という単一な本質態に帰るという、生命のない姿をとり続けることである」(同)。
 ここには現実から逃避して、現実の苦難に目をむけようとしないストア主義の本質が的確に指摘されていると同時に、ストア主義を「生命のない姿」とよんで厳しく批判するヘーゲルの現実にたいする姿勢をみてとることができます。
 ストア派は、「思想の純粋な一般性」(同)にのみ真理があるとして「真と善、英知と徳」(一二六ページ)などを論じます。しかし思想の真理性は「生きた世界を思想の一体系としてつかむ」(一二五ページ)ところにあるにもかかわらず、彼らのいう「真と善、英知と徳」は「物の多様な姿からひきはなされている」(同)ため、真理の基準をもたないのです。そのため「何が善であり真理であるかと問うならば、その答えとしてはやはり内容なき思惟が与えられるだけ」(一二五~一二六ページ)にとどまります。
 したがってストア派のいう自己意識の自由とは、必然性から逃れる否定的な自由という最も広い意味の「自由の概念にすぎず、生きた自由そのものではない」(一二五ページ)といわざるをえません。
 「この意識は、定在から自分のなかに引きもどされているにすぎないから、この意識は定在の絶対的否定としての自らを自分では実現しなかったのである」(一二六ページ)。「定在の絶対的否定」というのは、現実社会を否定する社会変革を指しています。ヘーゲルはストア主義の批判をつうじて、真の自由は現実社会を変革する概念的自由にあるととらえていることに注目したいと思います。

 懐疑論のいう自由は形式的自由

 二つめの自由な自己意識である懐疑論について、ヘーゲルは「懐疑論とは、ストア主義がただ概念としてもっていたにすぎないものを実現すること」(同)だとしています。つまりストア主義のいう自由が否定的自由であったことを受けて、懐疑論のいう自由な自己意識とは「現実の否定性」(同)を示すことであり、「多様に規定された世界の存在を空しくする完全な思惟」(同)として定立されるのです。
 その意味では、ストア主義が客観世界の存在自体を否定する否定的自由であったのに対し、懐疑論は客観世界の存在を認めながらも、これを無視する形式的自由ということができるでしょう。彼らは悟性のとらえる「固定した、変化しないもの」(一二七ページ)は、「全く永続するものを持たないし、思惟にとっては消えざるをえない」(同)として、「実在であると称するこの他者自身(客観的実在 ── 高村)を消えさせてしまう」(同)のです。
 それのみならず、「自分自身の、対象に対する態度をも消えさせて」(同)しまうことによって、「真理をも消えさせてしまう」(同)のです。したがって懐疑論における自己意識の自由とは、全ての存在も真理も疑わしいとして否定し、ひたすら「心の平静(アタラクシア)」(同)を保つことによって「自己自身に対する不変な真の確信」(同)とします。その意味で懐疑論は、「悟性が確実だとする一切のものにたいする完全な絶望であり、そこから生じる境地は、何事にも心を動かされぬ自己安住」(『小論理学』㊤二五〇ページ)なのです。
 しかし懐疑論は、自分では「心の平静」をいいながら、実際には自らが否定している客観世界とかかわらざるをえないところから「自己自身に等しい自己意識の極から、偶然で混乱しており、混乱して行く意識の他の極へと、行ったり来たりしている」(一二八ページ)のです。
 すなわち懐疑論は、一方で思想のうえでは世界の全てを無視しながら、他方で現実のうえでは世界の全てを肯定するという、大きな矛盾を自己のうちに抱えています。「それは見たり、聞いたりすることなどの空しさを言い表わしながら、現に自ら見たり、聞いたりなどしている」(同)のであって、「その行為とその言葉はいつも矛盾している」(同)のです。
 この懐疑論のもつ矛盾の「経験から新しい(意識の ── 高村)形態が出てくる」(同)ことになりますが、それが三つめの自由な自己意識である「不幸な意識」です。つまり不幸な意識とは、「自らを解放する」(一二九ページ)意識であると同時に、「絶対に自分で混乱しており、さかしまになっているものとしての自分の意識」(同)でもあるという、「二重の、矛盾するだけの実在であるような自己についての意識」(同)なのです。

 不幸な意識は矛盾した意識

 哲学史(ヘーゲルのいう「精神史」一二四ページ)からすると、時代的にはヘレニズム・ローマ時代の哲学であったストア主義、懐疑論を経て、中世のキリスト教哲学に至りますが、ヘーゲルは、このキリスト教哲学を「不幸な意識」とよんでいます。
 ストア主義、懐疑論、不幸な意識という三つの哲学は、いずれも階級対立から生じる現実の苦しみから逃れて、内心の自由な意識のうちに救いを求めるものとして、「自己意識の自由」とよばれています。しかしストア主義、懐疑論が、現実からの逃避によって内心の平穏を求める哲学であるのに対し、キリスト教は、西ヨーロッパのゲルマン諸民族国家の国家権力と結びつき、「キリスト教的=ゲルマン的国家では、宗教の支配は、支配の宗教」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」全集①三九七ページ)として、現実の苦しみをやむをえないものとして諦めさせ、来世に救いを求める慰めの哲学という特徴をもっていました。キリスト教の教義の大略は、人間は生まれながらに原罪を負っているために現世的苦しみのなかにおかれていることを出発点としています。人類の罪をあがなうために天なる父としての神がこの世につかわした神の子・イエスは、人類にかわって原罪を引き受け、十字架にかけられ、死後復活して聖霊となります。したがって、父なる神、神の子イエス、聖霊は三位一体であり、この三位一体の神を信仰し、三位一体の神と一体となることによって、神の恩恵により全ての人間は原罪から解放される、として現世の苦しみを慰める宗教なのです。
 ヘーゲルがキリスト教の信仰を「不幸な意識」とよんでいるのは、信者の意識には神という「不変な意識」(一二九ページ)と、自己の「多面的で変化する意識」(同)という二つの意識の対立・矛盾が存在していることによるものです。すなわち不幸な意識においては、二つの意識が「対立している」(同)のであり、一方では「単一で不変な意識は本質としてある」(同)のに対し、他方では「多面的で変化する意識は非本質的なものとして在る」(同)のであり、「両者は不幸な意識にとっては互いに縁なきもの」(同)であるため、現実の個人は現世の苦しみから逃れることはできないのです。
 つまり不幸な意識は「自己自身から解放される」(同)ことを求めて、「不変な意識」と一体になろうとして運動するのですが、自己の「変化する意識」は、意識のうえにおいて神との和らぎを得たと思うその足下から、また現実の苦しみに引き戻され、「不幸な意識」に立ち戻ることになります。
 「この運動にあっては、反対は自らの反対において安定するのではなく、自らのうちで自分を反対として新たに生みだすだけ」(一三〇ページ)なのです。「変化する意識」はどこまでいっても「不変な意識」と一体となりえない、矛盾した意識であるところに、「不幸な意識」とよばれるゆえんがあります。
 こういう不幸な意識の「不変な意識」との一体を求める運動をつうじて、「不変なものにいくつかの規定が現われ」(一三一ページ)てくることになります。というのも、キリスト教の神は、三位一体としてとらえられるため、不変なものとしての神も、「いくつかの規定」態をとって「現われ」てくるからです。しかし重要なことは、「不変なもの」が天なる神であろうが、聖霊であろうが、「不変なものと一つになろうとする希望は、希望に止ま」(同)り、「実現されないし、現実にもならないままであるよりほかない」(同)のです。
 そこで父なる神や聖霊との「直接的な統一」(一二九ページ)を求めるのではなく、「形態のある不変なもの」(一三二ページ)であるイエスとの統一を求める運動に移行することになります。

 イエスとの一体化を求める不幸な意識

 神との一体化を求める不幸な意識の運動は、常に現実の生活の「苦しみ」(一三〇ページ)に引き戻されて、神との一体化による救いを実現することができません。しかし「変化する意識」は、「不変なもの」との一体化の努力をあきらめることはできませんから、より現実的な、形のある「不変なもの」としてのイエスとの一体化を求めることになります。
 そこで「分裂した意識は純粋で形態のない不変なもの(父なる神および聖霊 ── 高村)に関係することを止めて、形態のある不変なもの(イエス)に関係することだけに、身を捧げる努力」(一三二ページ)をすることになります。形のあるイエスとの一体を求める意識は、彼岸である「不変なもの」に対してもつ関係からして、三つの形態をもつことになります。それは「まず純粋な意識であり、次に、欲求及び労働として現実と関係する個々の実在であり、第三に、自分だけでの有の意識」(同)という三つの形態です。
 まず第一は、イエスに「帰依するだけであり、信心」(一三三ページ)することでイエスと一体化しようとする「純粋な意識」です。「純粋な意識」は、「鐘の音が何となく鳴ることであり、おだやかな香煙がたちこめることであり、音楽的な思惟であるに止っている」(同)のです。言いかえると信心することによって、イエスを「無限に純粋に内面的に感じ」(同)ることはできても、それは信者の思惟のうちに「概念把握された対象としてではない」(同)ため、あくまで信者にとってイエスは余所余所しい「見知らぬもの」(同)に止まっているのです。
 つまり「意識は実在をつかまえる代わりに、感じるだけ」(同)のため、イエスとの一体感を手にするのではなく、「不変なものに対立した自己自身に到達しているだけ」(同)であって、「自己に逆もどりしている」(同)のです。そこでこの「純粋な意識」は、より現実的なイエスの「生命の墓」(同)を求めて「困難な戦(十字軍)」(一三四ページ)に挑みますが、この「現実的な不変の実在という墓も、何ら現実性をもっていないことを経験」(同)するのみとなります。
 こうして「純粋な意識」は、信心によってではなく、「自分にとって個別的なものである限りの現実」(同)のうちにイエスを見いだし、一体化を実現しようとして、第二の「欲求と労働の関係」(同)に移行することになります。
 新約聖書の「マタイ福音書」には、イエスが最後の晩餐の場において、十二人の弟子に対し、パンを「わが体」とし、ブドウ酒を「これはわが契約の血、多くの人の罪のゆるしのために流すもの」として分け与えたとされる記述があります(九七章二六節から二九節)。そこから「欲求と労働」によって生まれたパンとブドウ酒をはじめとする飲食物は、イエスによって与えられたものであり、パンとブドウ酒をイエスとみなし、それを摂取することでイエスと交わり、一体化することができるという「聖さん式」という儀式が生まれてきます。「欲求と労働」では、この聖さん式という行為を取り上げているのです。
 「この欲求と労働は、心情がわれわれに対して求めた自己自身の内面的確信を、意識のために保証する、見知らぬ実在(イエス ── 高村)を、つまり、自立的な物という形をとっている見知らぬ実在を廃棄し、享楽することによって確信を保証する」(一三四ページ)。「純粋な意識」においては、「心情」によってイエスとの一体化という「自己自身の内面的確信」を手に入れようとしたのに対し、「聖さん式」においては、パンとブドウ酒という「自立的な物という形をとっている見知らぬ実在を廃棄し、享楽することによって」、イエスとの一体化という「確信を保証」しようというのです。
 しかし「欲求と労働」が向かっていくこの聖さん式という現実は、一方ではパンとブドウ酒を飲食するという「自体的に空しいものにすぎない」(同)行為であると同時に、他方ではその行為が「神聖なものとされた世界でもあるような、二つにひきさかれた現実」(同)にすぎません。したがって、この行為によって、二つの極は、「相互に関係」(一三五ページ)しながらも「また自体的には固定してもいる」(同)のであって、「一方から他方へと運動のたわむれ」(同)をくり返すにすぎません。
 言いかえると、「不変なものという対立した意識と、それに対立する意欲、実現、享楽という意識……とに、くりかえし分裂する」(一三六ページ)のであって、どこまでいってもイエスとの一体化は実現されないのです。
そこで第三の意識形態としての、「自分だけでの有の意識」(一三二ページ)が登場することになります。
 「不幸な意識」においては、「不変なもの」としての神と、「可変的なもの」としての個別性の意識とが対立しています。そこで第三の意識は、自らの個別性を否定することによって、自らをイエスと一体化しようとするのです。不変なものの対極に位置する個別性の最たるものは、本能(生得的欲求)に根ざす「動物的な機能」(一三七ページ)であり、「最もいやしい」(同)「個別的なもの」(同)ということができます。
 こうして、性欲、食欲という「動物的な機能」を否定する禁欲、断食によって、個別性を否定し、自己の放棄をつうじて「不変なものと一つに」(同)なろうとするのです。この第三の意識は、カトリック教会という「奉仕者」(同)を媒介して「不変な意識」と一体化しようとするのであり、「意識は自分だけで有る極としての自分から、自分の意志の本質をつきはなし、決意の自己性と自由を、媒語つまり奉仕者(僧侶)にまかせる」(同)のです。
 しかし、禁欲や断食によってもまだ個別的なものには、「自らの労働と享楽のみのりが残る」(一三八ページ)ので、この「みのり」である財産を媒介者である教会に寄進することによって、最終的にすべての自己を放棄することになります。
 「自己の意志を捨てることは、一面では否定的であるにすぎないが、同時に、その概念から言えば、すなわち自体的には、肯定的である。つまり他者としての意志を措定しているのであり、きっぱり言えば、個々のではなく、一般的な意志としての意志(「不変なもの」としての意志 ── 高村)を措定しているのである」(同)。
 二重に分裂した不幸な意識は、「変化する意識」という可変的なものをすべて捨てさることによって、「一般的な意志」として措定されることになり、「自体的には意識の不幸も意識から解き放たれ」(同)ているようにみえます。しかし、それはカトリック教会という媒介者の「忠告として生じたもの」(一三九ページ)ですから、「一般的なものは、意識にとってまだ自分の行為ではない」(同)のであって、媒介者によって「確信がまだ分裂していることを自分で言う(告白する)ように仕向けられ」(同)たものにすぎません。その意味では、不幸な意識から解放されているのではなく、不幸な意識を媒介者によって自認させられているのであり、「顛倒」(同)した不幸な意識というべきものにすぎません。

 不幸な意識から現実世界の変革に

 結局不幸な意識は、階級社会における人間疎外という現実の苦悩から逃れて「不変なもの」と「可変なもの」の統一に救いを求めながらも、その実現はかないませんでした。そこから意識は、内面の自由の世界から現実の世界に立ち戻らざるをえなくなってきます。
 すなわち不幸な意識にとっては、「行為しかも意識の現実的な行為は貧しきものであり、自らの享楽は苦痛」(同)でしかないのであって、苦痛の「廃棄」(同)はいまだ「彼岸」(同)にとどまっています。したがって意識自身にとって、いまやこの現実世界は「理性」により変革されるべき対象となっており、理性は「全実在であるという意識の確信の表象が生じている」(一三九ページ)のです。
 こうして、意識にとって現実の世界は変革されるべき対象として立ち現れてくるのであり、「B 自己意識」は変革の意識としての「C 理性」に移行することになります。「自己意識」から「理性」への移行を歴史的にみるならば、中世から近代への移行ということになるでしょう。

 

 

* コラム * 自己意識と脳科学

 ヒトの関係欲求

 ヘーゲルは、類としての「自己意識は他の自己意識においてのみ、その満足をうる」(一一四ページ)といっていますが、これは脳科学からみても根拠があるものです。ヒトとサルとの違いは、DNAの違いによるというよりも、社会をもっているか否かにあります。ヒトは社会をつくり、社会はヒトをつくってきました。
 「そのためわれわれには、生まれつき人との関わりを求めようとする『関係欲求』が、遺伝的に備わっていると考えることができる」(松本元『愛は脳を活性化する』八〇~八一ページ、岩波書店)。
 動物の赤ちゃんは生理欲求を満たすためにおっぱいを一気飲みするのに対し、人間の赤ちゃんが中断するのは、「お母さんからの語りかけを引き出そうとして、おっぱいを飲むのを中断するのである。……赤ちゃんにとっては、おっぱいを飲むことも母親とのコミュニケーションを図ることも、どちらも生きて行く為に欠かせないことだということを意味する」(林正寛『生きること伝え合うこと』一~二ページ、創文三八六巻)。
 ヒトは、類として食欲、睡眠欲などの生理的欲求とあわせて「関係欲求」が脳に遺伝子として刷り込まれているため、「自己意識は他の自己意識においてのみ、その満足をうる」のです。この「関係欲求」を満たすものが、社会であり、より具体的には、家族、学校、職場、地域となります。現代日本では、この四つの「他の自己意識」との接点のすべてが失われることによる「無縁社会」が現出しており、ここに人間疎外が、もっとも象徴的な姿において示されています。
 したがって、ヘーゲルが人間の真にあるべき社会を類としての自己意識としてとらえ、「われわれである我と、我であるわれわれとの両者が一つ」(一一五ページ)となる社会としてとらえたことは、人間の「関係欲求」を哲学的に表現したものとして高く評価されなければなりません。
 またヒトに「関係欲求」の遺伝子が刷り込まれていることは、「人間らしい心」を社会性との関係でとらえなければならないことを教えてくれるものとなっており、それが「社会脳」と呼ばれるものでしょう。
 社会脳が担う社会的認知とは、「目つきや表情などから、相手の気持ちや心の内を推測する『表情の認知』という働きに始まり、他人の心の痛みを自分の心の痛みとして感じる『共感』や『同情』、自己の感情、欲望を適切に抑制する『理性的抑制』」(伊古田前掲書五五ページ)などが含まれており、いずれも社会のなかで周りの人々とスムーズな人間関係を作り出す能力ということができます。
 こうしてみると、社会脳は「人間らしい心」の中心部分を担っているということができるでしょう。それを証明するかのように「社会脳は一ヵ所の部位だけで機能を担うのではなく、いくつかの領域がネットワークをつくることで仕事をして」(同七七ページ)おり、「ちょうどジグソーパズルの各ピースのように、脳のあちこちに社会脳という領域がちりばめられてい」(同八〇ページ)て、脳の全体が社会脳を生みだしているのです。

 人間らしい心と階級的意識

 第二講のコラムで、ヒトの社会的意識には、人間らしい心としての社会的な二次感情や社会脳と同時に階級的意識とがあること、この両者の関係を解明することが道徳、倫理、宗教、法、政治などの社会的意識の諸形態を考察するうえで求められており、それが科学的社会主義の課題になっているのではないかという問題提起をしておきました。
 この点で一言指摘しておきたいことは、自然科学者の著した脳科学の諸著作のすべてに共通しているのは、社会的二次感情や社会脳という社会的な心の働きが「人間らしい心」を作り出していることは指摘しても、社会的意識における階級的意識の問題については全く視野の外におかれていることです。しかし階級的観点を抜きに法、政治などにおける社会的意識を論じることは、およそ科学の立場を放棄するものといわざるをえません。
 史的唯物論からすると、社会的存在は社会的意識を規定するのであり、階級社会における道徳、倫理、法、政治などの社会的意識の諸形態は、すべて支配階級のイデオロギーを反映したものとしてとらえられます。「支配的階級の諸思想は、どの時代でも、支配的諸思想」(『〈新訳〉ドイツ・イデオロギー』五九ページ)なのです。
 自然科学者のいう「人間らしい心」としての社会的意識が、支配階級の意識を意味しているものでないことは明瞭です。したがって、問題は、「人間らしい心」を考えるうえで、階級的観点を生かしながら社会的意識や社会脳をどうとらえるかにあるといっていいでしょう。
 この点で重要なことは、国家の二面性を反映した社会的意識の二面性の問題です。国家とは、その全構成員の共同の利益を実現する機関という仮象をもちつつ、階級支配の機関という本質をもつ、二面的存在です。上部構造の中心に位置する国家のもつこの二面性は、国家の機能としての法や政治のみならず、同じ上部構造に位置する「社会的諸意識形態」(全集⑬六ページ)である道徳、倫理、宗教などにも反映し、社会的意識の二面性を生みだします。すなわち、すべての社会的意識は、社会の全構成員の普遍的な意識をあらわす仮象をもちつつ、階級支配の意識としての本質をもっているのです(拙著『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』一五〇ページ以下)。その本質部分をとらえて、史的唯物論では「社会的存在は社会的意識を規定する」という命題を打ち立てています。
 「人間らしい心」をつくる社会的な二次感情や社会脳とは、階級社会においては仮象にすぎないとされている普遍的な社会的意識を意味するのであって、階級支配の社会的意識を意味するものではありません。法でいえば、日本国憲法の諸規定を意味するものであって、秘密保護法を意味するものではありません。道徳でいえば、日本共産党第二一回大会決議で示された「真実と正義を愛する心」(『前衛』六九三号二五ページ)「勤労の重要な意義を身につけ、勤労する人を尊敬する」(同)などの「民主的な社会の形成者にふさわしい市民道徳」(同)であって、安倍内閣の志向する国家主義の愛国心の道徳ではないのです。
 言いかえると、階級的観点から社会的意識の諸形態をみるとき、それは大きく支配階級の意識の諸形態と被支配階級である人民の意識の諸形態に二分されるのであって、階級社会にあってはたんなる仮象とされている人民の意識の諸形態こそ、「人間らしい心」をつくる普遍的な意識の諸形態ということができます。最近の事例でいえば、名護市長選の結果にこそ「人間らしい心」があるのであって、稲嶺圧勝の翌々日に新基地建設のために入札公告を強行させた安倍首相に「人間らしい心」はないのです。
 第二講で科学的社会主義の立場にたつことによって、心の解明について積極的役割を果たしうるのではないかと問題提起しましたが、ここにその一例を仮説として提起するものです。