2014年2月22日 講義

 

 

第5講 「C 理性」①
 ─「A 観察する理性」①

 

〈C 理性の概要〉

●「C 理性」は変革の立場

 ・理性は、対象を「真にあるべき姿」に変革する変革の立場

 ・「真理を実体としてだけではなくて、主観(主体)としても理解し、表現す
  る」(23ページ)―真理とは、主体的に対象を変革する

 ・真理とは「対象と表象の一致」ではなく、「概念と実在との真の一致」
  (『小論理学』㊤ 124ページ)

 ・「C 理性」のキーワードは「概念」であり、概念にもとづいて「真にあるべ
  き姿」に変革する立場

●「C 理性」の時代背景

 ・ルネッサンス、宗教改革以降の近代の合理主義を時代背景としている

 ・デカルト以来の近代合理主義の頂点にたつヘーゲル

 ・ヘーゲルは、「A 意識」「C 理性」をつうじて感性、知覚、悟性、理性と
  して意識の発展をとらえ、理性を意識の最高位に―人間の人間たるゆえんは
  理性にある

●「C 理性」の構成

 ・序論に相当する「理性の確信の真理」では、理性とは何かが論じられ、理性
  は全世界を覆うことが主張される

 ・「A 観察する理性」では、自然界の真の姿が対立物の統一にあることが明ら
  かに(理論的理性)

 ・エンゲルス「自然は弁証法の検証となるもの」(全集⑳ 22ページ)
 ・しかし当時は機械的自然観の支配する時代であり、ヘーゲルの自然認識にも
  大きな制約あり

 ・「B 理性的自己意識の自己自身の実現」では、人倫的実体(ギリシアのポリ
  ス)の再興が近代の課題として論じられる(行為的理性)

 ・ここではヘーゲルの生涯に大きな影響を与えたフランス革命の評価が論じら
  れる

 ・「C それ自体で自覚的に現に在るような個人性」では、資本主義社会の批判
  をつうじて、社会の真にあるべき姿が論じられる(社会的理性)

 ・マルクスのいう「ヘーゲルは近代国民経済学の立場」(『経・哲草稿』)が
  どう生かされているかに注目

 

1.「理性の確信と真理」

●『法の哲学』(1821)のとらえる理性

 ・「存在するところのものを概念において把握するのが、哲学の課題である。
  というのは、存在するところのものは理性だからである」(『世界の名著
  35』171ページ、中央公論社)

 ・全世界に存在するすべてのものは、無秩序に存在するのではなく、理性的
  (合理的、合法則的)であり、その理性的なものは、「概念」(真の姿、真
  にあるべき姿)において把握されるべき

 ・「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」
  (同169ページ)

 ・「現実」のうちには理性(概念)が含まれており、現実のうちから取りだし
  た「理性的なもの」(概念)は、現実に転化する必然性をもっている

●『現象学』(1807)のとらえる理性

 ・まだ概念、理性のカテゴリーは未整理

 ・「理性は、全実在であるという意識の確信である」(142ページ)

 ・基本的に『法の哲学』の命題と同じ内容

 ・1つは、理性は全世界を覆っているという意味であり、2つは、理性は全世
  界を理性的に変革し、自己のものとするという確信

 ・自己意識は、「自らを全実在として示すことによって初めて、自体的にも全
  実在である」(同)

 ・「自己意識は観念論として現実に関係する」(141ページ)―客観を変革す
  る主体として関係する(カント、フィヒテの観念論を念頭に)

● 概念の把握とカント、フィヒテの観念論批判

 ・変革の立場をつらぬくには、客観のうちに「真の姿としての概念」をとらえ、
  それを揚棄するものとして「真にあるべき姿としての概念」に高め、それを
  実践して現実性に転化するという3段階の合法則的発展の立場が求められる

 ・合法則的発展とは、2つの意味の概念を媒介として「概念と実在との真の一
  致」(主観と客観の同一)を実現すること

 ・「理性は、全実在であると断言はするが、それだけで、このことを自ら概念
  把握しているのではない」(142ページ)

 ・カント、フィヒテの観念論は2つの意味の概念の媒介なしに、主観と客観の
  同一性を実現しようとする「一面的で素朴な観念論」(144ページ)

 ・彼らは、主観と客観の同一をたんなる「範疇」の問題として無媒介的に論じ
  る(範疇としての「自己意識と存在」(141ページ)との単純な統一)

 ・フィヒテは「意識は、単純な範疇としての自己から出て個別と対象に移行し、
  ……対象を区別されたものとして廃棄し、これをわがものとする」(145ペ
  ージ)―つまり「自我と非我」という「範疇」をつかって無媒介に(概念な
  しに)自我と非我の絶対的同一性を主張する

 ・すなわちフィヒテは「すべてのものは自分のものである」(同)というが、
  「この空しい私のものを充たすためには、……見知らぬ障害(概念―高村)
  を必要とする」(145〜146ページ)

 ・そこで理性は「全実在であるという確信」(146ページ)を「真理に高め、
  空しい私のものを(概念によって―高村)充たすように駆りたてられてい
  る」(同)

 ・この確信を真理に高めるために、「A 観察する理性」(理論的理性)、
  「B 理性的自己意識の自己自身による実現」(行為的理性)、「C それ自
  体で自覚的に現に在るような個人性」(社会的理性)の経験が必要となって
  くる

 

2.「A 観察する理性」

● 理性は概念を求める

 ・理性は、合法則的に主観と客観の同一を実現するために、それを媒介する
  「概念」を求める―変革のためには、まず対象の概念(真の姿)を知ること

 ・「理性が目指しているのは、真理を知ることであり、思い込みや知覚にとっ
  て物であるものを概念として見つけることである」(147ページ)

 ・理性は、フィヒテのいう自我と非我の「直接的統一」(148ページ)ではな
  くて「存在(非我―高村)と自我の両契機を分離したうえで」(同)、概念
  を媒介として「再統一すること」(同)をめざす

 ・そのために「理性は、物を認識し、自らの感性を概念に変え、……物が概念
  としてのみ真理をもっていると、事実上主張する」(同)

 ・観察する理性は、「自らを存在する現実として求める」(149ページ)

 ・観察する理性は、主観と客観の概念に媒介された同一をめざして、概念を求
  める

 ・その理性は「どういうふうに自然と精神とを、そして最後に(概念に媒介さ
  れた―高村)両者の関係を、感覚的存在として受け入れ、自らを存在する現
  実(概念に媒介された主観と客観の統一という現実―高村)として求めるか
  ということが考慮されねばならない」(149ページ)

a 自然の観察

〈自然物の観察〉

● 観察する理性は、対象の観察をつうじて本質的なものを取り出す

 ・観察する理性は、「無限に特殊化する」(150ページ)対象の観察をつうじ
  て「本質的なものと非本質的なものを区別する」(同)

 ・この区別によって「感覚的分散のなかから概念が浮かびあがってくる」〈同)

 ・そのためには、徴表が必要となり動物を区別する徴表として「爪や歯」が取
  り出される

 ・しかし対象となる自然の本質的徴表をどうとらえるかの規準はないから、在
  る徴表にはそれに対立する徴表が同等の権利をもって登場する

 ・「1つの原理が他方の原理を超えて現われ、移行と混乱が生まれることに気
  がつく」(151ページ)

● したがって、理性は、対立物の統一としての法則に真理を見いだそうとする

 ・こうして理性は、1つの原理には、それに対立する原理を立てることによっ
  てしか真理はとらえられないことに気づく―つまり理性は対立物の統一とし
  ての法則に真理を求める

 ・「理性本能は、本質的にそれ自身であるのではなく、反対のものに移ってい
  くという性質に応じて、規定態を求めることになってきたので、法則と法則
  の概念を求めることになる」(152ページ)

 ・法則とはすでに学んだように「この世界の直接的な静かな映像」(97ペー
  ジ)であり、それは対立物の統一としてとらえられる

 ・この法則のうちから「概念が浮かびあがる」(150ページ)のであって、
  「概念において自らの真理をもたない」(152ページ)法則は「偶然なもの
  であって、必然性ではない」(同)

 ・重要なことは、その法則が概念をうちに含んだ必然性であるかどうか

 ・対立物の統一としての法則が概念であるかどうかは、実験によって証明され
  る

 ・マルクス「イギリスの唯物論と近代実験科学全体の先祖はベーコン」(全集
  ② 133ページ)

 ・実験をつうじて、「法則とその諸契機を純化して概念とする」(154ページ)

〈有機体の観察〉

● 有機体は「自ら自由に他者と関係」(156ページ)しながらも、
 「自らの関係自身のなかで支えられている」(同)

 ・「ここでは理性本能が観察しようとする法則の両面は、まず、有機的自然と
  非有機的自然とが互いに関係し合うことである」(156ページ)

 ・有機体にとっての非有機的な自然とは「空気、水、大地、地帯、気候など」
  (同)の「生きるための一般的な場」(同)

● 有機体における有機的自然と非有機的自然の法則性

 ・有機体と場とは「自立的な自由のうちにありながらも、同時に本質的な関係
  として互いに関係しあう」(同)―「北国の動物は厚い毛皮をもっている」
  (同)

 ・しかし、有機体と非有機的な場との関係は、後者が前者に「大きな影響」
  (同)を与えているとはいえるが、「法則とよばるべきではない」(同)

 ・なぜなら、両者の関係は、「互いに無関心であり」(同)、概念に媒介され
  た「必然性を表現してはいないから」(同)

 ・つまり、「酸の概念には塩基の概念」(同)があるように「北国の概念のう
  ちに厚い毛皮の概念」(同)が在るわけではない

● 有機体における環境と目的概念

 ・有機体における概念に媒介された必然性を問題にするのであれば、目的に媒
  介された「最初のもの」(157ページ)と「最後のもの」(同)の関係が問
  題にされねばならない

 ・有機体の本質は、この目的概念のうちにある―「目的概念は、この理性にと
  り意識された概念であると同時に、一つの現実的なものとしても現存」(同)

 ・種の進化を生みだす「自然淘汰」とは、種が主体的に環境に適応する遺伝子
  を選択する過程―ヘーゲルは環境と目的論的関係で有機体をとらえたことは、
  進化論を否定しながらも進化の根本思想を先駆的にとらえていたもの

● 有機体における目的論と概念

 ・カントの内的目的性―「内的目的性という概念によって、カントは理念一般、
  特に生命という概念を再びよびさました」(『小論理学』下198ページ)
 ・ヘーゲルはカントに学び生命における内的目的性を概念としてとらえた

 ・目的も概念も、普遍であるで自らを特殊化して個となり、「最初の」目的
  (概念)を「最後の」の結果において実現する

 ・目的において「初めのものが自らのはたらきが動くことによって、到達した
  ものは、そのもの自身である。……それゆえ、初めのものは、それ自身にお
  いて概念なのである」(158ページ)

● しかし「素朴な観念論」(141ページ)としての観察する理性は、
 有機体の概念としての目的を有機体のうちに見ない

 ・「目的は本能にとっては意識としての自己のうちに生ずるのではなく、自分
  とは別の悟性のうちに生ずることになる」(158ページ)

 ・「観察する意識は、このような存在のなかに目的概念を認識するわけではな
  い」(159ページ)

 ・有機体を「自分の考えに一致するような対立」(160ページ)、すなわち
  「内なるもの」(同)と「外なるもの」(同)の対立に変えてしまう

 ・「外なるものは内なるものの表現である、という法則」を人為的につくり出す

● 内なるものと外なるものの法則性の検討

 ・例えば、有機体の内なるものを「感受性、反応性、再生」(161ページ)と
  してとらえれば、その表現としての外なるものを「神経組織」(162ペー
  ジ)、「筋肉組織」(166ページ)、「内蔵」(162ページ)としてとらえ
  ることもできるだろう

 ・しかし、「有機体固有の法則」(同)には、こうした内と外の法則と並んで、
  「一方では、有機的形成の部であり、他方では、……組織のすべてを貫いて
  いる、一般的流動的な規定態である」(同)という法則もある

 ・この法則からすると例えば「感受性という性質は神経組織を超え出て、有機
  体の全組織を貫いている」(同)から、感受性と神経組織を内と外の関係で
  とらえることはできない

 ・では、感受性を内なるもの、反応性を外なるものの関係としてとらえられな
  いか

 ・またキールマイヤーは「感受性と反応性はその大いさに反比例する」(163
  ページ)という法則を述べているが、これも質的対立を量的対立におきかえ
  たものであって、その必然性を媒介するものが示されていない

 ・そこで次にある「有機体が他のもの(有機体―高村)よりも感受性ないし反
  応性に富み、より大きな再生力をもつ」(165ページ)という法則も主張さ
  れているが、これも「偶然な大いさの階梯を、非理性的に上り下りする遊び」
  (同)にすぎない

 ・最後に、最初にもどって3つの契機と3つの組織との関係は「内なるものの
  刻印であるような、真に外なるもの言い表わす」(165ページ)法則である
  との主張を考えてみると、3つの契機と3つの組織の相互に媒介し合う関係
  をみないのみならず、有機体を「死んだ存在」(166ページ)とみる解剖学
  的見地との批判をまぬがれない

 ・結論として、「有機体においては(内と外という―高村)法則という表象は
  もともと消えている」(同)

 ・もともと有機体を内と外という「静止した側面」(同)としてとらえること
  が問題である

● 有機体のもつ法則性

 ・有機体の「法則定立と前にのべたいくつかの形式(「A 意識」(97ページ)
  でのべた法則―高村)との区別を見ぬくならば、この法則(有機体の法則―
  高村)の性質は全く明かになる」(167ページ)

 ・それは「ただ存在するだけの区別を、一般性という形式(対立物の統一とい
  う形式)のなかに静かに受け容れるにすぎないような法則」(167ページ)
  だった―対立する両項は「固定的に存在する側面」(同)

 ・しかし有機体の法則性の検討をつうじて、「法則の思想」(同)が問われて
  いることが明らかに

 ・つまり本来の「法則の思想」とは、対立する両項は「本質的には純粋の移行」
  (同)の関係にあり、「ただ存在するだけの」(同)「区別にありながら、
  そのままでまた概念の不安定を、したがって同時に、両面の関係の必然性を
  もっているような法則」(同)といわなければならない

 ・有機体は内的目的性(概念)をもって運動している存在であるから、対立す
  る両項は概念に媒介されて相互移行する対立物の統一

 ・「有機的な規定態としてつかまれる対象的なものは、既に概念を自分自身に
  もって」(168ページ)いるにもかかわらず、それをみないで有機体の法則
  を探究しようとすることは、「概念の本性」(同)をおさえつけるもの
 ・そこから、有機体を概念のもつ普遍、特殊、個の一体化としてとらえようと
  する見解が生じた(類―種―個の法則)

〈有機的全体としての自然の観察〉

● 非有機的自然における内と外の法則

 ・内と外の関係という「静止した側面」(166ページ)の「本来の領域」
  (171ページ)は非有機的自然

 ・金属の系列において内なるものとしての「比重」(同)と外なるものとして
  の「凝集力」(172ページ)とは比例的関係をもつ(ステフェンス説)

 ・しかし、「比重という数の上の区別としての区別を、表わしている物体の系
  列は、それとは別の諸性質の区別の系列と、決して平行に進ものではない」
  (173ページ)―比重と凝集力を媒介する必然性が存在しない

● 有機体における類―種―個の法則

 ・問題は内なるものと外なるものを媒介する概念がとらえられていないことに
  ある

 ・内なる類、外なる個、媒介する種ととらえれば、内と外に媒介された必然性
  となるだろうか

 ・ しかし、類を種に分けるとき「大地(環境―高村)の側から、暴力を受け
  る」(176ページ)ため、その作業は「至るところで中断され、隙間だら
  け」(同)になっている

 ・ヘーゲルは進化論による「一本の生命の樹」を知らないから、類―種―個を
  「隙間だらけ」と考えた

 ・したがって、「素朴な観念論」によって観察する理性にとって、生命とは、
  目次に示されるように「偶然な理性としての生命」でしかない

〈有機体の観察の小括〉

● ヘーゲルの主張したい事は何か

 ・有機体は、概念としての目的を内にもって自己運動する存在

 ・しかし「素朴な観念論」である観察的理性は、事実にもとづく目的的関係を
  みないで、範疇の機械的適用によって内と外の関係で法則をとらえようとし
  た

 ・しかし、内と外を必然的に媒介するものを示しえないところから、内と外の
  法則は成立しえないことになる

● 今後の課題

 ・したがって今後は、唯物論の立場にたって対立物の統一としての法則、対立
  物を媒介する「概念」の探究をしなければならない

 ・「b 純粋性と外的現実に対する関係とにおける自己意識の観察」、「c 自
  己意識から自らの直接的な現実に対してもつ関係の観察」では、唯物論の立
  場から概念の考察

 ・「A 観察する理性」の「結論」は「物と理性の同一」とされ、「自己は物
  である」(204ページ)をもって終わる

 ・唯物論の立場から有機体を観察すると、そこは弁証法の宝庫

 ・弁証法は運動、変化、発展をとらえるとき、もっとも生命力を発揮する

 ・有機体の法則の探究は、有機体の本質に根ざすものでなければならない

 ・生命とは、タンパク質と核酸との相互作用により不断の自己更新と自己複製
  とをおこなう物質代謝の仕方」(拙著『反デューリング論に学ぶ』)

 ・自己更新に注目すると「同化と異化の統一」「同一と区別の統一」

 ・自己複製に注目するならば、「有限と無限の統一」「保存と変化の統一」
  「偶然と必然の統一」

 ・心と脳のはたらきを問題にすれば、「内と外の統一」も問題に

 

3.脳科学からみた感性、悟性、理性

● 脳は人格をつくり出す

 ・脳は構造、機能の異なるいくつかの脳部位(機能局在)をもちながらも、全
  体として「1つの心」をつくり出し、その持ち主の人格をつくり出す

 ・ヘーゲルは、意識(心のはたらき)を感性、知覚、悟性、理性に分類してい
  るが、一般的には感性、悟性、理性の3つに分類され、感性が「感じる」能
  力、悟性、理性は「考える能力」とされており、両者の結合により一個の人
  格が誕生する

 ・脳科学的には、外部情報は、まず脳の感覚野で処理されて感性となり、次い
  で言語野に回されて悟性となる。次いで情報は前頭前野という上位中枢に回
  され、過去の記憶と比較検討しながら、理性的な判断が下されることになる

 ・感性、悟性、理性の相互媒介により、「考える能力」の頂点としての創造性
  (理性の産物)が生まれる

● 観念論は、感性、悟性、理性を「1つの心」のはたらきとしてとらえない

 ・感性、悟性、理性を分断することによって、人間の認識の無限性を否定する

 ・カントの不可知論は、現象は認識しうるが、物自体は認識しえないとする

 ・その根底にあるのは、経験に由来して感覚から悟性が生まれることまでは認
  めるが、経験を超える理性の創造性を認めないとする分断

 ・新カント派のウェーバーは、事実と価値を峻別し、価値に真理はないとして
  マルクス主義を批判

 ・これは、悟性により「事実」を認識することをつうじて、理性によりあるべ
  き姿としての「価値」を認識する関係をみようとせず、人間の創造性を否定
  するもの

 ・非合理主義哲学(生の哲学、現象学、実証主義)は、世界は非理性的存在だ
  から、理性で真理をとらえることはできないとする

 ・しかし、ビック・バンによって誕生した私たちの世界は理性的であり、した
  がって人間は理性によって無限に真理を認識しうる

 ・新実証主義は、信頼できるのは感覚のみだとして、感覚を超えるものの探究
  を否定する

 ・しかし、これは、感性と悟性・理性を人為的に分断するものでしかない(詳
  細は、拙著『科学的社会主義の哲学史』参照)

● 考えることは創造すること

 ・「思考のはたらきとは、多種多様な情報を系列化したり、並べ替えたり、比
  較したり、組み合わせたり、構造化したり、別の表現に転換したり、新しく
  創出したりする機能」(安西祐一郎『心と脳』282ページ、岩波新書)

 ・考えることの最高の到達点が創造性

 ・創造性とは、脳内における記憶の量から質への転化

 ・創造性を発揮するには、「基礎になる知識と経験が大量に必要で、それらを
  身につけることには少なくとも約2万時間(1日6時間、1年365日費や
  して約10年)を要する」(同284ページ)―「10年修業の法則」(同)

 ・いわば、「事実」の認識の蓄積をつうじて、対象がどうあることに価値があ
  るかという「価値の認識に到達し、創造性を発揮しうる―ウェーバーの見解
  は脳科学からみても間違い

 ・ヘーゲルが「意識の経験の学」を創造性としての「理性」で結んだのは、人
  間の心のはたらきを正しくとらえたもの

 ・「創造性は、人間の本質である思考の自由から生まれる、最も人間らしい心
  のはたらきにほかならない」(同290ページ)

 ・その創造性が、もう一つの人間らしい心を生みだす社会性と結びついて、新
  しい社会の創造・社会変革に向かうとき、人間らしい心は最高の段階に到達
  する