『ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ』より

 

 

第五講 「C 理性」 ①

 理性は近代に特有の意識

 今回から三回に分けて「C 理性」を学んでいきます。
 第一講でお話ししたように「A 意識」「B 自己意識」「C 理性」は、全体として第一部の「意識の経験の学」を論じたものであり、個人の意識が弁証法的に発展して真理に接近していく過程を論じています。「C 理性」はテキストのページ数からしても「A 意識」「B 自己意識」の合計よりも多く、内容・形式ともに「意識の経験の学」の中心的位置をしめるものとなっています。
 それは一つには、『現象学』では意識を感性、知性、悟性、理性の四段階に区分してとらえており、意識は感性、知性、悟性を経て意識の最高の段階である理性に到達し、理性において無限の真理としての概念に接近しうると考えているからです。
 二つには、ヒトは自然や社会、さらには人間自身を変革する能力をもつことで、他の動物界から区別されます。ヒトの意識は、大きく、感じる能力と考える能力に分けることができますが、考える能力の最先端に創造する能力が位置しているのであり、その創造性、変革する能力が理性にほかなりません。
 第一講で、「大切なことは、真理を実体としてだけではなく、主観(体)としても理解し、表現するということ」(二三ページ)であると学びましたが、「C 理性」では、変革の立場にたって主体的に真理を実現していくことになります。
 「自己意識の自由」がヘレニズム・ローマの時代から中世にかけての意識だったのに対し、「理性」の背景となるのは中世から近代に、言いかえると封建制から資本主義に移行する時代の意識です。中世の暗黒時代から抜け出し、「いまようやく夜が明け、理性の国が出現した」(『空想から科学へ』全集⑲一八七ページ)のであり、理性をもって一切の判断の基準とし、これに反するものは「存在することを断念しなければならない」(同一八六ページ)変革の時代に突入したのです。
 こうして「C 理性」では、ヘーゲルの生きた時代の理性的な自然科学の到達点が批判的に検討されると同時に、一八世紀後半のイギリスで始まる産業革命、一八世紀後半から一九世紀前半にかけてのフランス革命という二つの社会変革が論じられ、ヘーゲルが自然と社会の変革の問題にどのように立ち向かうのかが注目されるところです。
 その変革の立場にたつ場合のキーワードが「概念」です。ヘーゲルは、哲学的意味の真理とは、たんなる「対象と表象との一致」(『小論理学』㊤一二四ページ)ではなく、「概念と実在との真の一致」(同)だといっています。つまり、理性的な真にあるべき姿としての概念を目的に掲げた実践によって、自然や社会を真にあるべき姿に変革することが、哲学的真理だというのです。この意味の真理が理性で論じられることになります。

 「C 理性」の概要と構成

 次に「C 理性」の構成と概要をみていきましょう。最初に「序論」としての「理性の確信と真理」があり、それを受けて、「A 観察する理性」「B 理性的自己意識の自己自身による実現」「C それ自身で自覚的に現に在るような個人性」という四部構成となっています。
 まず最初の「理性の確信と真理」では、ヘーゲルのいう理性とは何か、真理とは何かが論じられます。理性とは、一つには全世界はけっして無秩序な存在ではないという意味で、理性的(合理的)、合法則的存在であり、二つには人間の理性は全世界、つまり自然、社会、人間をその法則に沿って理性的(合理的)、合法則的に変革するという意識です。この二つの意味をこめて、「理性は、全実在であるという意識の確信である」(一四二ページ)とされています。変革的意識としての理性は、概念をとらえることによって変革の意識の確信を真理に高め、対象を合法則的に発展させることができるという意味で、「理性の確信と真理」という見出しになっています。
 「A 観察する理性」では、自然の変革が論じられ「B 理性的自己意識の自己自身の実現」と「C それ自体で自覚的に現に在るような個人性」では社会の変革が論じられます。ヘーゲルは時代の精神をとらえる学問が哲学だととらえていますので、ヘーゲルの関心が主として社会の変革にあることは言うまでもありません。
 二つめの「A 観察する理性」では、自然界、とりわけ有機体の観察をつうじてその概念や法則をとらえる変革の意識が論じられます。しかし当時の観察する理性は、有機体における目的論的関係をみようとせず、有機体のうちに人為的な「内と外」の範疇をもちこんで法則を導き出そうとするため、失敗に終わることが明らかにされます。自然の観察は事実にもとづいた観察でなければなりませんが、事実に立脚するとき「自然は弁証法の検証となるもの」(全集⑳二二ページ)であることが明らかになるのです。
 続いて「自己意識(人間そのもの ── 高村)の観察」に移り、そこには、論理学的法則、とりわけ弁証法という法則の存在することが論じられますが、他方で当時の心理学的法則といわれているものは法則の名に値しないことが論じられます。最後は人間の精神と肉体の関係の観察が「自己意識が自らの直接的な現実に対してもつ関係の観察」(一八二ページ)と題して論じられ、人相学、骨相学が取りあげられます。観察する理性の到達点は、頭蓋論をつうじて「物は自己である」と同時に「自己は物である」という無限判断をつうじて、概念を媒介とする主観と客観の統一としての絶対的精神に到達することが示されます。
 三つめの「B 理性的自己意識の自己自身の実現」では、観察する理性とは異なり、概念を目的にかかげて社会を合法則的に変革しようとする行為的理性が論じられます。ヘーゲルは、ギリシアのポリスという人倫的実体こそ、個人と共同体が一体化した真にあるべき社会と考えており、その人倫的実体が内部の矛盾によって解体し、階級社会となるところから、人倫的実体の回復を求める行為的理性が登場することになります。行為的理性も、個人的に「快」を求める理性から、社会の変革に向かう「こころの法則」を経て、ルソーの一般意志に学んでフランス革命の「徳」の政治などに向かいますが、いずれも概念をとらえていないため失敗します。そこから、一般意志こそ真にあるべき社会の概念であることを自覚した個人性は、その実現を資本主義社会のうちに見いだそうとします。
 それが四つ目の「C それ自身で自覚的に現に在るような個人性」の課題となります。ヘーゲルは、一方では産業革命をつうじて確立されていった資本主義社会を「精神的な動物の国とだまし」の世界として批判的にとらえながら、他方で商品交換社会と市場経済という「ことそのもの」には、形式的のみではあっても個人と共同体とが一体化する人倫的実体が存在する、とします。そこで「ことそのもの」という形式に概念をもちこんで名実ともに人倫的現実を実現するべく「立法的理性」「査法的理性」が登場しますが、いずれも成功しません。結局のところ、ルソーの一般意志こそ人倫的実体の概念であるとされ、この概念を資本主義社会に持ち込むことで、人倫的実体は形式・内容ともに復活し、ここに個人的意識の限界はありながらも絶対的精神が実現することになるとされていますが、この論理の展開には問題があるといわざるをえません。

 

一、「理性の確信と真理」

 理性とは変革を確信する意識

 「C 理性」の「序論」に相当する「理性の確信と真理」でまず学ぶべきことは、ヘーゲルが独自の意味をもたせている「理性」とは何かを理解することにあります。ヘーゲルの晩年の主著『法の哲学』では、「存在するところのものを概念において把握するのが、哲学の課題である。というのは、存在するところのものは理性だからである」(『世界の名著』一七一ページ、中央公論社)と述べています。
 すなわち、全世界に存在するものは、すべて無秩序のうちにあるものではなく、理性的なもの(合理的、合法則的、必然的なもの)として存在しているのであって、その理性的なものは、概念(事物の真の姿、真にあるべき姿)として把握されなければならない、というのです。
 それを受けて、「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」(同一六九ページ)との有名な命題が提起されます。これは、必然的な現実のうちには理性(概念)が含まれていると同時に、現実のうちから取り出した理性的なもの(概念)は、現実に転化する必然性をもっているという変革の立場を意味しています。
 しかし『現象学』では、まだ理性というカテゴリーが整理されるに至っていないので、「理性は、全実在であるという意識の確信である」(一四二ページ)と規定されるにとどまっていますが、その内容は『法の哲学』にいう「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」という命題と同じものです。つまり「理性は、全実在である」とは、「理性(合理性、合法則性)は全世界を覆い、全世界のうちに存在している」という意味であり、「人間の理性は、全世界を合理的、合法則的に変革し自己のものにする」という、二つの意味が込められており、ヘーゲルは全体として後者に比重をおいて論じています。それは、その後に続く「自己意識は自分だけで全実在であるのみではなく、自らこの実在となり、むしろ自らを全実在として示すことによって初めて、自体的にも全実在なのである」(同)との文章にはっきりと示されています。
 ここにいう「全実在」とは、「全世界」と同じ意味であり、自然と社会と人間とを意味しています。つまり、理性をもった自己意識は、概念をかかげた実践により、全世界をより理性的なものに合法則的に変革し、「自らを全実在として示す」ことを確信しているのです。したがって、理性をもつ「我」は、「他のものを非存在(変革されるべき存在 ── 高村)と意識する対象であり、唯一の対象、全実在」(同)として、「我は我である」(同)と規定されることになるのです。言いかえると、理性をもつ「我」は、概念を目的としてかかげることによって、対象となる「他のものを非存在」と意識し、対象の変革を確信することで「我は世界のすべてのものを我がものと確信する」のであり、それがフィヒテのいう「我は我である」という意味なのです。ヘーゲルがフィヒテに敬意を表する理由は、フィヒテの「自我=自我」に自己の哲学の根本思想を見いだしたからということができるでしょう。
 この変革の意識としての理性とは、一見どんなに困難な状況のもとでも、常に希望の光と打開の道を見いだし、諦めることのない不屈の意志であり、この理性こそが最も人間らしい心の根源をなしているのです。

 変革の確信としての理性は二つの意味の概念を把握することで
 真理として現れる

 その変革の立場を、ヘーゲルはカント、フィヒテを念頭におきつつ「自己意識は観念論として現実に関係する」(一四一ページ)と表現していますが、ここにいう「観念論」とは「理想論」の意味であり、「理想(概念)をかかげて客観を変革する主体として現実と関係する」のです。しかし「理性は、全実在であると断言」(一四二ページ)するだけではたんなる変革の意識を表明しただけであって、果たしてその理想とする変革が合法則的変革なのか、そうでないのかは明らかではありません。合法則的発展のために重要なことは、「自ら概念把握」(同)することであり、概念を把握し、概念をかかげた変革の意識となることによって、その理性は「確信及び断言としてだけでなく、真理として現われ」(一四三ページ)、合法則的発展を実現することができるのです。
 つまり理性が客観を合法則に変革するには、まず客観のうちに「概念(真の姿)」、つまり本質を発見し、次いでその本質を揚棄する「概念(真にあるべき姿)」を意識のうちにとらえ、その概念を目的として掲げ実践することによって現実に転化することで、客観を合法則的に発展させるのです。
 理性による合法則的発展を実現するには、二つの意味の概念、つまり「真の姿」としての概念と「真にあるべき姿」としての概念を媒介としなければなりません。二つの概念を把握せず、二つの概念を媒介としない変革の確信は、対象の合法則的発展を生みだすどころか、対象を破壊し、歴史の後退を招くにすぎません。したがって理性が自ら全実在となるには、まず二つの概念を意識のうちに把握しなければならないのです。
 しかし、フィヒテの観念論(理想論)においては、主観と客観の同一を言いながら、「これまでの道程をのべないで」(一四三ページ)、ただ結論のみを断言するにとどまっていました。
 「絶対的他在において純粋に自己を認識すること」(二七ページ)とは、一つには対象となる他在のうちに、純粋な自己としての二つの「概念」を認識することであり、二つには真にあるべき姿としての概念を存在に転化することで、変革された他在のうちに自己を認識することを意味しています。こうした概念の運動をつうじて主観と客観の同一が実現されるにもかかわらず、フィヒテの観念論はこの概念の運動をみようとせず、「自我と非我の絶対的同一性」を主張することで、その無媒介的同一性を示しました。つまり、「意識は、単純な範疇としての自己(自我 ── 高村)から出て個別と対象(非我 ── 高村)に移行し、この対象においてこの経過を直観し、対象を区別されたものとして廃棄し、これをわがものとする」(一四五ページ)ことによって、自我と非我の絶対的同一性が実現される、というのです。
 フィヒテの観念論は、「すべてのものは自分のものであるという、この抽象的な空しい言葉」(同)から出発しているのですが、「この空しい私のものを充すため」(同)には、「見知らぬ障碍」(一四五~一四六ページ)としての客観世界にぶちあたって、客観世界のうちに潜む二つの概念をとり出さなければなりません。つまり自我と非我の同一性が認められるためには、両者を媒介する二つの概念を見いださなくてはならないのです。しかしフィヒテはその労苦を取ろうとしないため、自我と非我の絶対的同一性も空しい言葉のままにとどめてしまいました。
 「理性は、やっとまだ、全実在であるという確信にすぎないながらも、この概念においては、確信であり」(一四六ページ)、しかもこの確信はまだ「実在ではないと、自ら意識している」(同)ところから、「理性はこの確信を真理に高め、空しい私のものを充たすように、駆りたてられている」(同)のです。
 この「確信を真理に高め」るために、理性は「A 観察する理性」「B 理性的自己意識の自己自身による実現」「C それ自体で自覚的に現に在るような個人性」へと経験をつみ重ね、二つの概念に媒介された主観と客観の同一を実現しようとするのです。

 

二、「A 観察する理性」

 「観察する理性」は、対象となる自然のうちに真の姿、真にあるべき姿を発見すること、つまり自然という「物」のうちに二つの概念を見いだすことを目的としています。
 「理性が目指しているのは、真理を知ることであり、思いこみや知覚にとって物であるものを、概念として見つけることである」(一四七ページ)。ここにいう概念が先にみた二つの概念であることは言うまでもありません。理性が自然のうちに概念を見いだすためには、フィヒテがいうような「自我とこの対象的実在」(一四八ページ)との「直接的統一」(同)をいったん否定して、「存在と自我の両契機を分離した上で再統一」(同)する立場にたたなければなりません。主観と客観とをいったん「分離した上で再統一」する立場にたって、初めて「概念」が観察する理性の問題意識として登場することになるのです。
 「理性が現実にはたらくと、……理性は、物を認識し、自らの感性を概念に変え……物が概念としてのみ真理をもっていると、事実上主張する」(同)のです。こうして観察する理性は、概念に媒介された主観と客観の同一をめざして旅立つことになります。
 そこで「観察する理性は、どういうふうに自然と精神とを、そして最後に(概念に媒介された―高村)両者の関係を、感覚的存在として受けいれ、自らを存在する現実(概念に媒介された主観と客観の統一という現実 ── 高村)として求めるかということが、考察されねばならない」(一四九ページ)ことになります。しかしそれは同時に、当時の理性的な自然科学の歴史的限界を指摘することにもなっています。


「自然の観察」

 自然物の観察

 まず自然物の観察は、「個別態から一般態を表面的にとり出す」(同)ことにはじまります。しかし多様な自然界には「観察と記述のために、尽きることのない貯えが開かれている」(一五〇ページ)のであって、そのうちに一般態を見いだすためには、まず「本質的なものと非本質的なものを区別することによって、感覚的分散のなかから概念が浮びあがってくる」(同)のを観察しなければなりません。
 この区別をするためには、対象となる自然物の「本質的なもの」をとらえる「徴表」(一五一ページ)が必要となり、例えば「動物を区別する徴表は、爪や歯」(同)とされることになります。しかし対象となる自然物の本質的徴表をどのようにとらえるかについて決定的な方法は存在しませんので、「思想のない観察と記述に押しかえされてしまう」(一五二ページ)ことにもなります。したがって理性は、「惰性的な規定態から出て、ほんとうにある通りの規定、つまり、自らの反対に関係する規定態の観察に、進んで行くよりほかない」(同)のです。言いかえると理性は、一つの原理に対してそれに対立する原理をたてることによってしか、真理はとらえられないことに気がつくのであり、こうして理性は対立物の統一という法則を一つの仮説として立てることになります。
 「理性本能は、本質的にそれ自身であるのではなく、反対のものに移って行くという性質に応じて、規定態を求めることになってきたので、法則と法則の概念を求めることになる」(同)。
 「A 意識」の最後で、法則とは「この世界の直接的な、静かな映像」(九七ページ)であり、それは対立物の統一としてとらえられることを学びました。観察する理性は自然における本質的なものを、この対立物の統一という法則(仮説)としてとらえようとします。しかし、自然を対立物の統一としてとらえさえすればいいのかといえば、そうではありません。「法則は、概念において自らの真理をもたないとすれば、偶然なものであって、必然性ではない」(一五二ページ)からです。問題はその対立物の統一という仮説が、対象の本質をとらえているかどうかにかかっているのです。
 このように仮説として立てられた法則の真理性を検証する手段が、実験です。マルクスは「イギリスの唯物論と近代の実験科学全体の先祖はベーコンである」(全集②一三三ページ)と述べていますが、ヘーゲルの自然の観察もベーコンの唯物論の立場を継承しています。実験によって同じ結果がくり返し表れるならば、それはその結果が真理であるという「蓋然性」(一五三ページ)、つまりある程度の確実性を示すことになります。蓋然性は、真理としての概念そのものではありませんが「理性の本能は、実際には、そういう(蓋然性をもつ ── 高村)法則を真理と受けとっている」(同)のです。
 しかし実験の回数を重ねることをつうじて、蓋然性の確率を無限に高めることになり、無限に真理としての概念に接近することができるのです。その意味では、「法則の本性となっている概念は、経験的な素材に沈められたままで、現われる」(一五四ページ)のであって、「実験によるこの探究は、法則の純粋な諸条件を見つけるという、内面的な意味をもっている」(同)のです。
 言いかえると、実験は仮説としての「法則を全く概念の形に高めることにほかならない」(同)のです。「たとえば、陰電気は、初め樹脂電気として、ガラスの電気である陽電気と並んで起る」(同)と考えられていたものが、実験の結果「純粋に陰電気と陽電気」(同)としてとらえられ、概念に純化されたのです。こうして、「この実験する意識の真理としてわれわれが見るのは、感覚的存在から解放された純粋法則である。つまりわれわれが見るのは、この法則が、感覚的な存在のなかに現存する概念である」(一五五ページ)ことになります。

 有機体の観察

 続いて自然物一般から有機体の観察に移ることになり、有機体のもつ法則性と概念とが検討されることになります。まず有機体とは何かといえば、同化と異化の統一であり、したがって「自ら自由に他者と関係」(一五六ページ)しながらも、「自らの関係自身のなかで支えられている」(同)直接性と媒介性の統一ということができます。したがって「理性本能が観察しようとする法則の両面は、まず、有機的自然と非有機的自然とが互いに関係し合う」(同)関係においてとらえられ、両者の間に法則性が認められるかどうかが問題とされます。
 まず有機体にとっての非有機的自然とは、「空気、水、大地、地帯、気候」(同)などの、有機体が「生きるための一般的な場」(同)ということができます。個体としての有機体と場とは、相互に「自立的な自由のうちにありながらも、同時に本質的な関係として互いに関係し合」(同)っており、例えば「北国の動物は厚い毛皮をもって」(同)います。
 その意味では有機体と場との関係は、場が有機体に「大きな影響」(同)を与えているということはできますが、ヘーゲルは「互いに無関心であり、少しも必然性を表現してはいない」(同)から、「法則と呼ばるべきものではない」(同)としています。例えば「酸の概念のうちには塩基の概念」(同)があると同様の意味で「北国の概念のうちに厚い毛皮の概念」(同)が含まれているわけではないというのです。
 ヘーゲルは有機体の法則を論じるのであれば、概念である「目的論的な関係」(一五七ページ)を論じなければならないと述べています。有機体は「実際には、現実の目的そのもの」(同)であり、個としての自己の内に種としての目的を有しており、その目的にしたがって種が自らを維持するために必要な進化を自ら選択していくのです。
 ヘーゲルはまだ進化論を知りませんから、当時の機械的自然観にたっており、「有機的自然は全く歴史をもっていない」(一七六ページ)と考えています。それにもかかわらずここにおける有機体と非有機的自然の関係の考察には、進化論の法則の一つである「自然淘汰」の思想の萌芽が示されているのは、驚きというほかありません。ダーウィンの進化論における自然淘汰とは、遺伝的な違いのある生物の個体間にあって、ある特定の環境のもとにおいては、その環境に適応しつつ、生涯を通じて残す子孫の数が最大となる遺伝子を選択するという、客観的な遺伝子選択法則を意味しています(矢原徹一「進化論から進化学へ」『自然の謎と科学のロマン』㊦一一四ページ、新日本出版社)。つまり自然淘汰とは、ある特定の生物が環境に適応する特定の遺伝子を種の内的目的にしたがって選択することによって種族をふやしていくという、種と環境との「本質的な関係」を意味しています。
 ヘーゲルが、この種と環境との「本質的関係」を論じるにあたって「目的論的な関係」をもちだしているのは、種はたんに受動的に環境に支配されて進化するのではなく、種として主体的に内的目的にしたがって特定の遺伝子を選択し、進化の方向性を選択しているととらえているものであって、まさに進化論を先取りするかのような先駆的な見解であったということができると思います。
 それはさておくとして、ヘーゲルは、「観察する理性の到達した目的概念は、この理性にとり意識された概念であると同時に、一つの現実的なものとしても現存」(一五七ページ)するとしています。つまり有機体における目的とは、有機体に現存する内的目的としての概念であり、有機体の運動を生みだすものとしてとらえています。
 というのも、ヘーゲルのいう真にあるべき姿としての概念(普遍)は、自らを特殊化して現実に立ち向かい、現実を真にあるべき姿(個)に変革するものであり、その意味で、概念は、普遍・特殊・個の不可分一体の関係にあります。有機体における内的目的も同様に、「初めのものが自らのはたらきが動くことによって、到達したものは、そのもの自身である」(一五八ページ)ということができます。最初の普遍的な目的が、「自らのはたらき」によって自らを特殊化し、その目的を貫くことによって「到達した」結果が、「そのもの自身である」個なのです。有機体の内的目的も概念も、ともに真にあるべき普遍をかかげ、それを自らの運動で特殊化し、結果としての個のうちにおいて自らを生かし、貫いているという意味においては、全く同一のものということができます。
 例えば最初の脊椎動物であった魚類は、地上に酸素が増えるのにともない地上での生活を内的目的(普遍)として、幼生時には呼吸でありながら成熟すると四肢が生じ、肺呼吸をするというように自らを特殊化し、両生類という類に進化していったのです。
 ヘーゲルは、「初めのもの(内的目的 ── 高村)はそれ自身において概念なのである」(同)と述べています。『小論理学』では、さらにそれを展開して「目的とは、直接的な客観性の否定によって自由な現存在へはいった、向自的に存在する概念」(『小論理学』㊦一九六ページ)と呼んでおり、「内的な目的性という概念によって、カントは、理念一般、特に生命という理念を再びよびさました」(同一九八ページ)として、それまでの機械的自然観を乗り越えたカントを高く評価しています。
 しかし当時の観察する理性は、まだ有機体のもつ概念としての内的目的性には思い至らず、もっぱら目的とは人間が外から対象に持ち込む外的目的性と考えていますから、「観察する意識は、このような存在のなかに目的概念を認識するわけではない」(一五九ページ)のです。そこで観察する理性は、内的目的を「内なるもの」(一六〇ページ)のカテゴリーでとらえ、内的目的のはたらきとしての結果を「外なるもの」(同)というカテゴリーにおきかえ、「対立を、自分の考えに一致するような対立に、変えてしまう」(同)のです。
 言いかえると当時の観察する理性は、目的概念を捨て去り、有機体を内なるものと外なるものの関係においてとらえ、その「両者の関係は、外なるものは内なるものの表現である」(同)として、有機体を概念(内的目的性)抜きにとらえようとします。

 内なるものと外なるもの

 こうして「内なるものと外なるものの関係である法則は、その内容を、一方では一般的な契機つまり単一な本質態を示しながら表現し、他方では現実の本質態つまり形態を示しながら表現する」(一六一ページ)ものとしてとらえられることになります。つまり内なるものと外なるものとの関係は、内なる本質が外なるものとして現象
する関係としてとらえられるのです。
 有機体の内なるものとしては、「感受性、反応性、再生」(同)の三つが考えられ、外なるものは、この三つに対応して「神経組織」(一六二ページ)、「筋肉組織」(一六六ページ)、「内臓」(一六二ページ)の三つを考えることができます。しかし「有機体固有の法則」(同)は、このような外的なものは内的なるものの表現であるという一つの法則でとらえられるほど単純ではなく、それと並んでこれらの組織は「一方では、有機体形成の部分であり、他方では……組織の全てを貫いている、一般的流動的な規定態である」(同)という法則をももっています。
 この法則からすると例えば「感受性という性質は神経組織を超え出て、有機体の全組織を貫いているようなものである。また他方では、感受性は一般的な契機であり、これは反作用または反応や再生から区別されないし、分離することもできない」(同)ことになりますから、感受性と神経組織とを内と外の法則としてとらえることには問題があるといえます。
 そこで見方を変えて、外部情報はまず感受性として受けとめられ、脳内で処理されて反応性として示されるところから、感受性を外なるもの、反応性を内なるものの関係としてとらえられないかが問題となってきます。一七九三年、キーマイヤーは、「感受性と反応性はその大いさに反比例する。したがって一方が増大すると他方が減少するというような法則が生ずる」(一六三ページ)と講演して、この考えが当時流行したようです。しかし、これらは、結局のところ、感受性と反応性という質的対立をたんなる量的対立におきかえようとするものであって、「法則定立というこの空しい遊び」(一六四ページ)は破綻せざるをえませんでした。
 次に、内と外に関わる第二の法則として有機体相互の「内なるもの自身の直接の外面性」(一六五ページ)の比較によって、「有機体が他のものよりも感受性乃至反応性に富み、より大きな再生力をもつといったような」(同)法則を定立しようとする試みがあらわれてきます。しかしそれらの比較のうちに法則を求めようとする試みは「概念の契機そのものを表わすというよりは、契機の間の偶然な大いさの階梯を、非理性的に上り下りする遊び」(同)以上のものではないといわなければなりません。
 そこで第三の法則として、「内なるものの刻印であるような、真に外なるもの」(同)を見つけ出し、そこに内と外の法則を見いだそうとする見解が登場します。しかし有機体は先にみたように、「一方では、有機体形成の部分」(一六二ページ)であると同時に他方では「組織の全てを貫いている、一般的流動的な規定態」(同)ですから、感受性と神経組織、反応性と筋肉組織、再生と内蔵とを機械的に結びつけ、その相互媒介の作用をみないのは、有機体を「死んだ存在という抽象的な側面」(一六六ページ)として把握する解剖学的見地といわなければなりません。
 こうして内と外の関係としてとらえるかぎり、「有機体においては法則という表象はもともと消えている」(同)のです。というのも一般に「法則は対立者を静止した側面として把握し表現しようとする」(同)ものであって、内なるものと外なるものの「両面が別々におかれる場合には、有機的な意味を失ってしまう」(同)からです。つまり、有機体を「外なるものは内なるものの表現である」(一六〇ページ)という「対立者を静止した側面」としてとらえること自体が問題だったのです。というのも「有機体の各側面は、むしろそれ自身においては、すべての規定を解消させている、単一な一般」(一六七ページ)であって、どの組織、器官といえども有機体全体と結びついているからです。
 したがって、これまで「A 意識」の「知覚」で述べた対立物の統一の法則と、有機体における内と外との対立物の統一の法則とは、同じ形式をもちながらも異なるものであることが明確になりました。知覚における法則は、「ただ存在するだけの区別を、一般性という形式のなかに静かに受け容れるにすぎないような法則」(同)だったのに対し、有機体の法則は、「区別にありながら、そのままでまた概念の不安定を、したがって同時に、両面の関係の必然性をももっているような法則」(同)でなければならないからです。
 例えば知覚における落下の法則を考えてみると、通過した空間が経過した時間の二乗に比例するとの法則は、空間と時間の蓋然性を「静かに受け容れる」法則にすぎないのに対し、有機体の場合には、内に目的性という概念をもつことによって、対立する両項は概念に媒介された必然的統一となっているのです。概念とはすでに学んだように、普遍・特殊・個別の不可分の一体ですから、有機体もこの「概念の不安定」をもち、普遍・特殊・個別の間を不断に移行することになります。その意味では、知覚の法則が「固定的に存在する側面」(同)であるのに対し、有機体の法則における「諸々の契機は本質的には純粋の移行」(同)のうちにあるということができるでしょう。
 有機体は、「既に概念を自分自身にもって」(一六八ページ)いるにもかかわらず、当時の観察する理性はそれをみようとしないところから、「概念の本性はおさえつけられて」(同)おり、たんなる「大いさという規定」(同)を法則として振り回しているのです。例えば、「強い筋肉をもった動物のようなものは、高い反応性」(同)をもっているとか、知覚の弱い「状態にあるものは、感受性の点で高い状態にあるものと規定される」(同)などのとらえ方にそれが示されています。
 しかし、こうしたことをもって法則としてとらえることは、「概念ではなく」(一六九ページ)、概念とは無縁のたんなる「大いさ」(同)の比較という無思想のうちに落ちこむものといわなければなりません。そこで、有機体を、概念のもつ普遍・特殊・個別と一体不可分の関係にある、類・種・個としてとらえようとする考えが登場してくることになります。 

 内なるものと外なるものの法則の否定

 いずれにしても、内と外を「静止した側面」(一六六ページ)の法則としてとらえる見方の「本来の領域」(一七一ページ)は、有機体ではなく、非有機の領域だということになります。
 こうして当時流行していたステフェンスの比重と凝集力の関係が内と外の法則との関連で論じられることになります。ステファンスは、金属の「比重」(同)を内なるものとしてとらえ、これに対し「形、色、硬さ、粘性、その他の無数の性質」(同)を外なるものとしての凝集力とよび、金属の比重の系列と凝集力の系列とは比例的関係のうちにあるとして、外なるものを内なるものの表現としたのです。
 これに対しヘーゲルは、「比重という数のうえの区別としての区別を、表わしている物体の系列は、それとは別の諸性質の区別の系列と、決して平行に進むものではない」(一七三ページ)として、その法則性を否定します。
このあり方においては、概念が「排除されている」(同)のであって、比重と凝集力との間の必然性は何ら証明されていないからです。
 そこでヘーゲルは再び有機体に戻り、有機体を概念に媒介された必然性としてとらえようとして、概念のもつ普遍、特殊、個別の関係を有機体の類・種・個別のうちに見いだそうとします。つまり内なるものは類であり、外なるものは個体であって、その両者を媒介するものが種であるととらえれば、内と外の法則が必然性をもってとらえられるのではないか、というのです。
 しかしヘーゲルは、この問題についても答えは否定的です。というのも、類を種に「分けるという静止的な仕事をしているとき、一般的個体すなわち大地の側から、暴力を受ける」(一七六ページ)ため、その作業は「至るところで中断され、隙間だらけ」(同)になっているからだというのです。
 ヘーゲルは進化論の原理としての自然淘汰についてかなり正確にとらえているものの、進化論そのものは知りません。したがってたった一種の原始生命体から一千万種の生命体に分かれて、進化し、すべての生命体は「一本の生命の樹」の一部をなしていることを知らないため、「有機的自然は全く歴史をもっていない」(同)と断言し、類 ── 種 ── 個体の系列は実際にはそうでないにもかかわらず「隙間だらけ」だと信じているのです。さすがのヘーゲルも、この点では当時の生物学の認識の水準にとどまらざるをえなかったのです。
 それはともかく、ヘーゲルはここに意識(精神)と有機的自然との違いを見いだしています。意識は、普遍としての「一般的精神」(同)と「個別すなわち感覚的意識との間に、意識の形態化」(同)を媒語として、普・特・個の概念としての一体化をもっており、それこそ「精神の現象学」としての本書で考察される精神の世界史の体系ということができます。これに対して「有機的自然は全く歴史をもっていない」のであって、普遍としての生命は、特殊という「真の自立的な媒介をもっていないので、すぐそのまま個別という極に落ちこんでしまう」(一七七ページ)と考え、暴力的な大地の影響を受ける有機体は、その影響によって普・特・個の概念にはなりえず、したがって「偶然な理性としての生命」(目次参照)でしかない、というのです。

 「有機体の観察」のまとめ

 結局ヘーゲルは、「有機体の観察」をつうじて何を言いたかったのでしょうか。思うに、本来有機体とは内的目的をもつ目的論的関係にあり、目的とは有機体の「概念」(一五八ページ)であるにもかかわらず、「空しい観念論」(一四五ページ)としての当時の観察的理性はそれに気づかず、人為的に有機体を「外なるものは内なるものの表現」(一六〇ページ)としてとらえようとしました。しかしこの内と外との法則は、内と外を媒介する概念を明確にしていないところから、内から外への移行の必然性を証明できないままとなり、法則としては成立しえないことを証明する結果になりました。
 「 自然の観察」がこうした結果に終わったのも、観察する理性が事実から出発して生命体を目的論的関係としてとらえるのではなく、内と外という「単純な範疇」(一四五ページ)から出発した「空しい観念論」の立場にたっていたためであり、今後の「A 観察する理性」の課題は、唯物論の立場にたっての「概念」の探究でなければならない、というのです。
 したがって「 自然の観察」に続く、「 純粋性と外的現実に対する関係とにおける自己意識の観察」「 自己意識が自らの直接的な現実に対してもつ関係の観察」では、唯物論的立場からの観察する理性が論じられ、「A 観察する理性」の「結論」は「物と理性の同一」(目次参照)とされ、理性は「物」のうちに概念を見いだし、自己と「物」との概念に媒介された統一を実現することになるのです。
 最後に一言するならば、唯物論の立場から有機体を理性的に観察するとすれば、そこはまさに弁証法の宝庫であるということができます。というのも、弁証法は、静止したものの真理をもとらえる論理ですが、運動・変化・発展をとらえるとき、もっともその生命力を発揮する論理だからです。
 有機体の法則の探究は、有機体の本質に根ざすものでなければなりません。「生命とは、タンパク質と核酸との相互作用により、不断の自己更新と自己複製とをおこなう物質代謝の仕方である」(拙著『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』一四四ページ)ということができます。したがって生命体の基本となるのは何よりも自己更新と自己複製の統一ということになるでしょう。この生命の本質のうち、自己更新の側面に注目するならば、それは「同化と異化の統一」であると同時に、有機体としての自己同一性を保ちつつ変化していく「同一と区別の統一」ということになります。エンゲルスは、「生命、すなわち蛋白体の存在の仕方は、なによりもまず、蛋白体が各瞬間にそれ自身でありながら同時に他のものである」(全集⑳八五ページ)としています。また自己複製の側面に注目するならば、生命体は自己複製をつうじて、個としては有限でありながら種としては無限という「有限と無限の統一」です。また種の進化は種としての内的目的をもつことによる「遺伝(保存)と適応(変化)の統一」であり、進化の生じるメカニズムは「偶然と必然の統一」ということができます。

 

 

* コラム * 脳科学からみた観念論の特徴

 脳のはたらきは、心を生みだします。一人ひとりの人間はすべて生活環境を異にし、異なった経験と異なった学習をしていますから、指紋と同じように一人ひとり異なった心をもっているのです。こうした個々人の心のはたらきが、その人固有の一個の人格という統一したはたらきとなってあらわれます。
 第三講のコラムで学んだように、大脳皮質には「機能局在」とよばれる構造的・機能的に異なるいくつかの部位がありますが、そのすべての部位が協調し、統合して一つの心と一個の人格が生みだされています。
 心の働きとして、ヘーゲルは感覚(感性)、知覚(知性)、悟性、理性という概念を使用しており、それぞれ「感じる力」「知る(記憶する)力」「考える力」「創造する(変革する)力」としてとらえることができますが、これらの力は大脳皮質の特定の部位と深いつながりをもちながらも、全体として協調し、統合されることによって無限に真理に接近しうる一個の人格を形成しています。したがってこれらの力を個々バラバラに切りはなしてとらえることは、認識能力に限界をもうけることにほかなりません。
 ところが観念論に共通しているのは、すべての知の源泉が経験に由来する感覚であることは認めながらも、回路として結合している感性・知性と悟性・理性とを人為的に分断することによって不可知論におちいったり、理性のもつ創造性を感性、知性から切りはなして一面的に強調する観念論になったりするところにあります。いわば認識の入口における経験論は、感性、知性にとどまるのか、それともそこからさらに進んで悟性、理性にまで至るのかによって、観念論にも唯物論にもなっていくのです。
 例えば、カントの不可知論は、現象は認識しうるが「物自体」は認識しえないというものですが、その根底にあるのは、人間は五感をつうじて経験できるものは認識できるが経験を越える超感覚的なものは認識しえないとする認識論ということができます。このカントの認識論は、人間の認識には客観世界を自己の内に反映する認識としての感性・知性と、創造的認識としての悟性・理性との区別を絶対化し、実際には両者は神経回路としては結合しているにもかかわらず、感性・知性と悟性・理性の間に人為的な断絶をつくりだすことによって不可知論に陥ったのです。
 また新カント派のマックス・ウェーバーは、「事実と価値」を峻別して、事実には真理があるが価値には真理がなく、価値に関してはたんにいかなる価値を選択するのかという選択の自由があるのみだとして、科学的社会主義の学説を「事実と価値」を混同するエセ科学だと批判しました。
 ウェーバーの論理の特徴は、カントの認識論を土台とし、そこにもう一つ唯物論的真理観の問題をつけ加えたところにあります。すなわちウェーバーは、感性・知性にもとづく反映的「事実の認識」と、悟性・理性にもとづく創造的「価値の認識」とを分断したうえで、真理とは客観に一致する認識であるから、客観を反映した「事実の認識」には真理はあっても、客観を越える「価値(当為)の認識」には真理はないとするのです。
 しかし人間は自然や社会を変革する動物であり、したがって変革にあたって価値や当為を問題にせざるをえないのであり、価値や当為に真理がないことになれば、およそ自然や社会の合法則的発展を問題にしえないことになるでしょう。脳機能からも明らかなように、人間は「事実の真理」を認識することに始まり、それを揚棄(打開)するものとして「当為の真理」を認識しうるのです。つまり、感性・知性と悟性・理性とは非連続であると同時に連続しており、同様に感性・知性から生まれる「事実の真理」と、悟性・理性から生まれる「当為の真理」も非連続であると同時に連続しており、したがってウェーバーのいう「事実と価値」の峻別はこの連続性を見ない点において誤った理論なのです。
 また「生の哲学」「現象学」「実存主義」などの非合理主義哲学は、世界は混沌とした非理性的存在だから理性的認識では真理はとらえられないとして、感情、直観、本能などを基準として世界をとらえようとし、感性と理性とを分断してしまいます。しかし今日では量子論により、私たちの世界はビッグバンによって合理的、合法則的に発展してきたものであること、史的唯物論により、社会にも発展法則があることが明らかになっています。したがって、人間は感性と理性の統一によって客観世界の法則性を認識しうることは、経験諸科学の常識になっているところです。
 また新実証主義は、信頼できるのは感覚のみだとして、感覚を超えるものの探究を否定する哲学ですが、これもまた感性・知性と悟性・理性を人為的に分断する間違った哲学であることはいうまでもありません(現代観念論の諸形態の詳細は拙著『科学的社会主義の哲学史』三五七ページ以下参照)。
 「二〇世紀半ばから認知科学が明らかにしてきたことは、思考のはたらきとは、多種多様な情報を系列化したり、並べ替えたり、比較したり、組み合わせたり、構造化したり、別の表現に変換したり、新しく創り出したりする機能だということであった」(安西祐一郎『心と脳』二八二ページ、岩波新書)。
 つまり「考える」ことの最高の到達点が、創造性であり、思考とは創造性なのです。思考の創造性とは、脳内における知識(記憶された認識)の量から質への転化という弁証法であり、創造性を発揮するには「基礎になる知識と経験が大量に必要で、それらを身につけるには少なくとも約二万時間(一日六時間、一年三六〇日費やして約一〇年)を要する」(同二八四ページ)ところから、「一〇年修業の法則」(同)とよばれています。
 創造性は、対象がどうあるのかという事実の認識を蓄積することによって、対象がどうあるべきかという価値の認識に到達し、そこにいたって初めて発揮することができるのです。その意味でヘーゲルが「意識の経験の学」を、唯物論的経験論の立場にたって、反映的「感覚」から出発しながら創造的「理性」で結んだのは、人間の心を正しくとらえたものということができるでしょう。なぜなら「創造性は、人間の本質である思考の自由から生まれる、最も人間らしい心のはたらきにほかならない」(同二九〇ページ)からです。
 その創造性が、もう一つの人間らしい心を生みだす社会脳と結びつき、新しい社会の創造、社会変革に向かうとき、人間らしい心は最高の段階に達するということができそうです。