● 聴 講(①1:10:58、②48:22、③15:35)

 

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第7講 「C 理性」③
 ─「B 理性的自己意識の自己自身による実現」②
 ─「C それ自体で自覚的に現に在るような個人性」

 

行為する理性は、「こころの法則」にもとづく行為から、
フランス革命におけるジャコバン独裁の「徳」にもとづく行為へ移行する。
それはルソーの一般意思を「徳」と言い換えたものだが、
実際には個人性を犠牲にし、世の中に敵対する恐怖政治でしかなかった。

こうして「行為する理性」は、「社会的理性」に移行し、
概念を媒介とする主客の統一を目指す。
そのためには資本主義という社会の分析が必要となる。
資本主義とは、利潤第一の「だまし」の世界ではあっても、
個人としての生産者が生産物の交換を通じて、
社会と一体化する社会(「ことそのもの」)である。
「ことそのもの」は、「われとわれわれの統一」という
人倫的実体の形式は持っているが、
「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という、
人倫的理念をもっていない。

そこで、この「ことそのもの」に道徳的理念を持ち込もうとする
「立法的理性」や、自分なりの理念をつくろうとする「査法的理性」が
登場するが、いずれも成功しない。
結局人倫的実体の理念は、人倫的実体の内にしか
見出すことはできないのであり、
それがルソーの一般意思にほかならない。
一般意思を統治の原理とする人倫的実体において、
個人と社会共同体、主観と客観の統一としての絶対知、
ただし個人的意識としての絶対知が実現される。

第一部「意識の経験の学」をまとめてみると、
全体として変革の立場に立った唯物論的認識論ということができるが、
その変革の立場は不徹底であり、資本主義がなし崩しに人倫的実体に
移行するとしているのは問題と言わざるをえない。

 

最後に、脳とコンピューターの異同について。
どちらも情報処理機関としては同一であるが、
脳とコンピューターとでは目的と手段が逆になっている。
すなわち、コンピューターでは出力が目的となっているのに対し、
脳では出力を手段として、脳のネットワークの形成を目的としている。
人間が「知を愛する」所以である。