2014年4月26日 講義

 

 

第7講 「C 理性」③
 ─「B 理性的自己意識の自己自身による実現」②
 ─「C それ自体で自覚的に現に在るような個人性」

 

1.「B 理性的自己意識の自己自身による実現」②
  (つづき)

「 c 徳と世の中」

● フランス革命における「徳」

 ・フランス革命はルソーの一般意志(真にあるべき意志)という「意志の概念」
  を目標にかかげた革命

 ・一般意志を統治の原理とすることによって治者と被治者の同一性が実現され、
  「1人は皆んなのために、皆んなは1人のために」の政治が実現されること
  になる(人民主権)

 ・ロベスピエールの率いる「ジャコバン独裁」は、ルソーの一般意志を「徳」
  とおきかえ、「徳性の統治」を訴えた

 ・「市民社会の唯一の基礎は道徳である。……徳性が共和国の精髄であるよう
  に、背徳は専制の基盤である」(ソブール「フランス革命」㊦ 104ページ、
  岩波新書)

 ・「徳の原理はロベスピエールによって絶頂に達した。彼にとっては徳だけが
  真剣の問題だったと言ってよい。ここにおいて、徳と恐怖とが支配すること
  になった」(ヘーゲル『歴史哲学』㊦ 316ページ)

● 徳性の統治

 ・「徳の意識からすれば、(徳という―高村)法則が本質的なものであって、
  個人性は廃棄さるべきもの」(222ページ)

 ・徳とは「自体的に真であり善である一般者」(同)―つまりルソーのいう一
  般意志

 ・「徳の目的は、転倒した(疎外された―高村)世の中を更に転倒させ」
  (223ページ)ることにあるから、「自らの反対を強圧することによって初
  めて、自らの真理を与えよう」(224ページ)とする

 ・したがって、ここにいう「善はまだやっと1つの抽象」(同)にすぎないの
  に、「徳の騎士」(225ページ)は、自分のかかげる「善が絶対的なもので
  ある」(同)と信じて「世の中と、戦う」(同)

● 徳と世の中

 ・しかし世の中とは、「個人性によって命を与えられ」(同)た「現実の善」
  ―つまり一般意志は個々人の意識のうちにある意識の真理であり、したがっ
  て個人の集合した世の中は「現実の善」

 ・徳はその「個人性を犠牲にして善を現実」(227ページ)にしようとするか
  ら、「徳は世の中に敗北する」(226ページ)

 ・それは「徳が実際には、抽象的で非現実的な本質を、自分の目的としている」
  (同)からである

 ・世の中は、「本質なき抽象」(227ページ)としての徳という「空しい言葉」
  (同)、「ただ表象の上の、言葉の上の徳」(同)に打ち克つのである

●「徳と世の中」の関係が示すもの

 ・以上にみた、徳と世の中の「対立から出てくる結果は、意識が、まだ現実性
  をもっていない自体的な善についての表象を、空しい外套としてぬぎすてる
  ことである」(228ページ)

 ・それは抽象的な「徳」から、本来の一般意志に立ち返ることでなければなら
  ない

 ・世の中においては、個人性と一般意志とは深いところで「分離せずに統一し
  て」(同)おり、「個人性を犠牲にして善をつくり出す」(同)ことはあり
  得ない

 ・「個人性は、自ら思いこんでいるよりは、善いものであり、その行為は、同
  時に自体存在的な一般的な(それ自体一般意志的な―高村)行為である」
  (同)

 ・一般意志という「自体」(229ページ)は、「抽象的な一般者のことではな
  く、それ自身でそのまま、個人性が動いて行く現在であり、現実である」
  (同)意識

 

2.「C それ自体で自覚的に現に在るような個人性」

 ・「それ自体で現に在るような個人性」とは、社会的理性に高まった個人は、
  あくまでも個人の立場ではあっても一般意志が共同体の理念となることによ
  って「われとわれわれの統一」(115ページ)としての絶対知の世界が開か
  れることを確信している、という意味

 ・「A」が理論理性、「B」が実践理性(行為的理性)であるのに対し、「C」
  は理論理性と実践理性の統一としての社会的理性であり、「C」で絶対知に
  達して「意識の経験の学」は終わる

 ・冒頭の序文では、今や社会的理性に高まった個人は、2つの概念を媒介に主
  客の統一という真理(絶対知)をめざすことが論じられる

 ・「a 精神的な動物の国」では、個人は仕事をつうじて社会的理性となり、
  仕事から生まれた「ことそのもの」(市場経済)によって、自己意識の概念
  が「われとわれわれの統一」(115ページ)という人倫的実体にあることを
  自覚するに至る

 ・「b 立法的理性」では、人倫的実体を自覚した個人が自分なりに人倫的実
  体の理念である道徳法則をつくろう(立法)とするが、成功しない

 ・「c 査法的理性」では、自覚した個人は、自分なりにとらえた人倫的実体
  の理念を検討しようとするが、これも成功しない

 ・こうした経験を経て、自覚した個人は、人倫的実体が自己自身のうちに理念
  をもっており、それが一般意志であることに気付く

 ・一般意志が共同体の理念となり、その理念をすべての構成員が自覚し、共有
  することによって、「1人は皆なのために、皆なは1人のために」の人倫的
  実体(絶対知)が実現する

《序文―真理と確信の統一》

●「徳と世の中」の経験を経て、自己意識は、
 「自己意識についての概念」(229ページ)が
 「われとわれわれの統一」(115ページ)にあることをつかんだ

 ・「ここにいま理性は、絶対的に自己の実在性を確信」(229ページ)してお
  り、2つの概念を媒介とした主・客の統一としての「範疇そのもの」(同)
  という真理をつくりだそうとしている―つまり絶対知をつくり出そうとして
  いる

 ・いまやフィヒテの無媒介的な主・客の統一としての「範疇」は、頭蓋論をつ
  うじて、2つの概念に媒介された主・客の統一という「範疇そのもの」(つ
  まり存在から自我へ、自我から存在へという運動をともなった範疇)となっ
  ている

 ・したがって「真理と確信」(230ページ)は結合しており、理性的自己意識
  の「行為は、それ自身において自らの真理であり現実である」(同)

● 概念をかかげた行為は、自己自身のうちでの「円運動」(同)

 ・自己のうちで主観的な概念をつくり出し、それを自ら実践して現実に客観化
  し、さらに新たな現実のうちから概念をつくり出して実践することを反覆す
  る円運動

 ・「意識は、新たに自己から出発するが、他者にではなく自己自身に向って行
  く」(同)

 ・概念の実現をめざす運動は、自己実現の運動

① 「a 精神的な動物の国とだまし、または『ことそのもの』」

《見出しの意味》

 ・「精神的な動物の国」とは「互いに権力を争い混乱に陥りながら、戦い合い
  だまし合っている」(310ページ)「ブルジョア社会」(全集㉚ 203ペー
  ジ)、すなわち資本主義社会

 ・資本主義社会とは、仕事にもとづく「ことそのもの」の社会であると同時に、
  利潤第一主義の「だまし」の世界として「精神的な動物の国」

 ・「ことそのもの」とは、資本主義的な、商品又は商品交換の市場、さらには
  市場経済を意味する

 ・他方で、「ことそのもの」には、共同体の理念こそ存在しないものの、個人
  と共同体が一体化しているという点で、ある意味では「人倫の国」(207ペー
  ジ)といえる

 ・ヘーゲルが一方で資本主義社会を「精神的な動物の国」としながら、他方で
  真にあるべき社会の入口としてとらえていることは、ヘーゲルの経済学研究
  の成果を示すもの

 ・マルクス「ヘーゲルは近代経済学の立場にたっている」(『経・哲草稿』
  199ページ)

《個人は仕事をつうじて社会的理性となる》

● さしあたり、個人性にとって絶対知は
 まだ「充たされていないし、内容をもっていない」(同)

 ・「個人性」とは、「単純な自体存在として、媒介を経ないまま」(同)の
  「本源的本性」(同)としての自由な個人

 ・個人性は、自己意識の概念が「我とわれわれの統一」であることを知っては
  いるものの、まだ何らの行為にもでていないから、その概念は「抽象的で一
  般的」(同)な存在にすぎない

● 個人の本源的本性は仕事をつうじて展開する

 ・さしあたり、個人は自由であり、「本源的本性」(231ページ)の持主とし
  て登場する

 ・個人は、生産労働という行為をつうじて、自己を「目的」(232ページ)、
  「手段」(同)、「実現された現実」(同)へと「自らの区別を展開」
  (231ページ)する

 ・これが「仕事」(234ページ)であり、「仕事と一緒に、本源的本性の区別
  が出てくる」(同)

《仕事は「ことそのもの」》

● 仕事をつうじて個人は社会性の場に踏み入る

 ・「個人は、本来仕事において一般性という場(商品交換のおこなわれる市場
  の場―高村)に、存在という無規定の場に、自分を押し出した」(235ペー
  ジ)

 ・市場において、生産者という個人性は消え去り、仕事は「他の個人性にとっ
  て存在」(236ページ)する「見知らぬ現実」(同)としての商品となる

 ・したがって「仕事をしている間に意識に起ってくるのは」(同)、行為は自
  分のものであるが、仕事から生まれた生産物は「別のもの」(同)であり、
  他者のために存在するという「行為と存在の対立」(同)である

● ことそのもの

 ・こうして「真の仕事」(238ページ)は、市場において通用する「ことその
  もの」(同)としての商品の生産である

 ・商品としての「ことそのもの」は「自己意識から、自己自身のものとして生
  みだされた対象」(239ページ)でありながらも、自分の手からはなれ市場
  に出て行く「自由な本来的な対象」(同)

 ・自己意識は、市場経済としての「ことそのもの」を自覚することによって、
  「自らについての真の概念」(239ページ)が、「われとわれわれの統一」
  (115ページ)、つまり個と共同体の統一のうちにあることを理解し、「自
  己の実体の意識に至りついたのである」(同)

 ・「ヘーゲルは、労働を人間の本質として、自己を確証しつつある人間の本質
  としてとらえる」(『経・哲草稿』200ページ)

 ・商品の価値対象性は「それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現
  われ」(『資本論』① 81ページ)る「純粋に社会的なもの」(同)

 ・つまり、個人は、商品交換をつうじて自己の本質が社会的存在にあることを
  知る

● 誠実な意識

 ・商品交換の市場においては、等価物どうしが交換されるという信義誠実の原
  則が働く(民法1条2項)

 ・ヘーゲルはそれを「誠実な意識」(240ページ)と呼んでいる

 ・誠実な意識は、「一方ではことそのものが表現している理想主義」(239ペ
  ージ)を示すものであると同時に、他方では、「ことそのもの」である商品
  交換の「真理をもっている」(同)

 ・しかし「この誠実の真実は、外見ほど誠実であるはずがない」(241ペー

 ・というのも、商品交換市場は、「個人性と一般性が自ら動いて浸透し合う」
  (同)場であるから、「個人性相互の戯れが入りこんでくる」(242ページ)

 ・そこでは、個人性が「本質的なもの」(同)であるのに対し、誠実な意識は
  「ただ外的なもの」(同)であるにすぎない

 ・個人の「意識が、こと(生産―高村)において関心を向けているのは、自分
  のすることなすこと(利潤の追求)」(同)だけであり、「あとは野となれ
  山となれ

 ・そこで市場では「自分自身をも、まだ互いに相手をも、だましたり、だまさ
  れたりすることになる」(同)

 ・例えば労働力というもっとも重要な商品は、産業予備軍の存在によって不断
  に価値以下でしか販売されない

 ・利潤第一主義の資本主義が生みだした株式会社のもとでは、「会社の創立、
  株式発行、株式取引にかんするぺてんと詐欺の全体制を再生産する」(『資
  本論』⑩ 760ページ)

 ・したがって、資本主義社会は弱肉強食の「精神的な動物の国」にほかならない

●「ことそのものの本性」(243ページ)

 ・「ことそのもの」としての市場経済は、個人とすべての人々の行為(生産労
  働)と存在(商品)を「一般的なことそのもののなかで解消する(243ペー
  ジ)ような「精神的本質」(同)としての人倫的実体である

 ・「ことそのものは個人性でありながらも、そのまま一般的でもあるような」
  (244ページ)、「個人性によって浸透された実体」(同)

 ・その意味では共同体の理念こそ欠いてはいるものの、「われとわれわれの統
  一」という人倫的実体の形式はもっている

 ・したがって「純粋なことそのものは、さきに範疇として規定されたもの」
  (同)、すなわち自我と存在(共同体)の一体化(142ページ)

 ・ことそのものは個人性を「本質的なもの」(242ページ)としており、「1
  人は皆んなのために、皆んなは1人のために」という共同体の理念をもって
  いないから、まだ人倫的実体ではない

② 「 b 立法的理性」

● 立法的理性とは道徳法則という理念によって
 「ことそのもの」を人倫的実体につくりあげようとする理性

 ・立法的理性は、「ことそのもの」に欠けている共同体の理念をつくることで
  人倫的実体を実現しようとする

 ・「意識にとって対象であるもの」(244ページ)は、理念としての「人倫的
  意識」(同)をつくり出すことで、「ことそのもの」を「人倫的実体」(同)
  という「真理」(同)にしようというもの

 ・自己意識は、自分が人倫的「実体の対自存在という契機であると、知ってい
  る」(245ページ)から、「健全な理性は、何が正しく、何が善いかを無媒
  介に知っている」(同)と思い、自己の内にある道徳法則をとり出そうとする

● 理性的自己意識は、絶対的な道徳法則はつくり得ない

 ・立法的理性は、「自分自身で、在りまた妥当する」(244ページ)「絶対的
  な」(245ページ)法則をつくり出そうとする

 ・例えば、「各人は真実(理)を語るべきである」(同)とか、「汝の隣人を
  汝自身の如く愛せよ」(247ページ)という命題をたて、これらの命題は
  「無条件的なものとして、言い表わされた義務である」(245ページ)と主
  張する

 ・しかしこれらの命題もさまざまに解されるから、無媒介な絶対的人倫的道徳
  法則などありえない

 ・というのも、人倫的実体は、それ自体自己のうちに共同体の理念となる「絶
  対的な内容」(248ページ)をもっているが、それを知らないままにそれと
  は別に限られた「1つの内容」(同)をもつ道徳法則にしようとするのは自
  己矛盾でしかない

 ・立法的理性は、人倫的実体と無関係に自分なりの法則を考え、それに自己矛
  盾がないかを検討する「査問的理性になりさがっている」(同)

③ 「 c 査法的理性」

● 査法的理性

 ・上述の如く、絶対的な人倫的道徳法則は存在しえないから、理性的自己意識
  のなすべきことは、自分の考える人倫的実体の法則そのものに自己矛盾がな
  いかどうかを同一律の観点から査問すること

 ・査問的理性は自分の考える法則の「内容が同語反復であるかどうかを考察す
  る」(249ページ)

 ・ヘーゲルはルソーの「平等論」を念頭において、「私有財産の否定」という
  法則を査問する

 ・マルクス「フランス唯物論は、……直接に社会主義と共産主義に注いでいる」
  (全集② 136ページ)

 ・ヘーゲルは、マルクスが「ゴータ綱領批判」(全集⑲)で述べているような
  「誰もが自分の必要に応じて、または、同じ分け前でもらう」(249ページ)
  と述べて、社会主義思想に関心をよせていたことを示している

●「私有財産が在る、ということは、絶対的な意味で法則であるべきか」(同)

 ・「私が物を所有するということは、物が一般的な物態であることに矛盾する」
  (250ページ)

 ・他方「共有においては、各人は、自分が必要とするだけ与えられる。その結
  果、この不平等と、個々人の平等を原理とする意識の本質とは、互いに矛盾
  することになる」(249〜250ページ)

 ・つまり、私有財産の否定は、真の平等を実現するものでありながら、必要に
  応じて分配することは平等原則に反する矛盾だというもの

● 結局査問的理性が査問の基準とする「同一律」は、
 実践的真理の認識基準にはなりえない

 ・というのもすべてのものは対立・矛盾をもっているから

 ・したがって、矛盾の存否を査問する査法的理性は、そもそも「実際には尺度
  ではない」(250ページ)

④ 人倫的実体は一般意志の支配する社会

● 人倫的実体は、自己自身のうちに法則をもつ

 ・立法的理性、査問的理性をつうじて、人倫的実体の理念となる法則を外から
  もちこもうとしたが、人倫的実体の理念を理解していなかったために成功し
  なかった

 ・直接的立法は、暴君的な悪虐」(251ページ)であり、「絶対的な法則から
  離れて理屈をこね」(同)る査法的理性も「知の悪虐」(同)にすぎない

 ・問題は、人倫的実体自身のうちに理念としての法則を見いだすしかないので
  あり、それが「万人の絶対的な純粋意志」(251ページ)、つまりルソーの
  いう一般意志である

 ・一般意志は「ただ存在すべきであるというような命令ではなく、(人倫的実
  体のうちに―高村)現に在り、現に妥当している」(252ページ)

 ・「この精神的本質は、範疇の一般的自我であり、自我はそのまま現実である。
  そして世界は、この現実にほかならない」(同)

 ・「人倫的自己意識は、自らの一般性によって、(人倫的―高村)実在と直接
  一つになっている」(同)―絶対知となっている

 ・一般意志は「神々の、書かれてはいないが誤りなき法」(同)である

 ・「理性は、全実在であるという意識の確信」(142ページ)であったが、こ
  こにきて「理性はこの確信を真理にまで高め」(146ページ)るに至り、絶
  対知となった

 ・いま、意志の概念を統治の原理とする人倫的実体において、個人と社会、主
  観と客観の一体化としての絶対知が実現される

 

3.『現象学』第1部「意識の経験の学」のまとめ

① 「意識の経験の学」は唯物論的認識論

● 第1部は感覚に始まり、絶対知に至る「意識がつむ経験の学」(33ページ)

 ・ヘーゲルは、「感官は、すべての知識の源泉である」とのベーコンの経験論
  (唯物論)の立場にたち、経験から出発する意識の発展を、感覚、知覚、悟
  性、理性として段階的・発展的にとらえる

 ・このヘーゲルの立場は、認知の諸形態を区別し、その関連を論じる現代の認
  知心理学を先取りするもの

● 変革の立場

 ・意識を大きく感じる能力と考える能力としてとらえることをつうじて、意識
  の最高の段階を、考える能力の頂点としての変革する意識である「理性」と
  してとらえる

 ・これは、認知心理学の到達点に一致すると同時に、もっぱら解釈の立場にた
  つあらゆる観念論を打ち破るもの

 ・「現象する知の叙述」(60ページ)の目標は「知がもはや自分を超えて出る
  必要のない」(61ページ)、「概念が対象に、対象が概念に一致するとこ
  ろ」(同)、つまり「概念と存在との同一」としての絶対知にある
 ・理性は、真の姿としての概念と真にあるべき姿としての概念という2つの概
  念を媒介主観と客観の絶対的同一を実現して絶対知に達する

② 対象意識と自己意識の関係の解明

● 対象意識から自己意識が生まれる

 ・ヘーゲルは、対象意識から「私は私を私自身から区別する」(107ページ)
  自己意識が生じることを明らかにした

 ・「或る対象の意識は、それ自身当然自己意識であり、自己に帰った有」
  (108ページ)

 ・これも認知心理学からみても正しい

● 自己意識が、意識の真理であることを解明

 ・「こうしていまわれわれは、自己意識に至ると同時に、真理の故郷に入って
  いる」(109ページ)

 ・自己意識とは、他者を対象にする(私のなかの他者)意識であると同時に自
  己自身を対象とする(私のなかの私)意識

 ・「自我は、他者に対して自我自身であると同時に、やはり自我に対して自我
  自身」(同)

 ・これも認知心理学からして正しい見解である

 ・認知心理学は、自己意識こそ「人間らしい心」であり、真理を探究する力で
  あることを明らかに

● 自己意識は、社会をみる眼を生みだす

 ・自己意識は、他者の立場でものごとを考える(メタ認知)をつうじて、ヒト
  特有の社会的二次感情、つまり社会的存在としてのヒトをつくる意識

 ・ヘーゲルは、自己意識のなかで、労働が人間をつくり出すと同時に「主と僕」
  の弁証法を生みだすことを示す

 ・さらに真にあるべき社会(人倫の国)を「われとわれわれの統一」(115ペー
  ジ)としてとらえ、それはルソーのいう一般意志を統治原理とする社会であ
  ることを論じていることも社会主義を展望するものといえる

③ 最大の問題は変革の立場を貫徹していないこと

● 真理は実体ではなく、主体である

 ・ヘーゲルが『現象学』完成後に付け加えた「序論」の根本思想は、「真理を
  実体としてだけではなく、主体としても理解し、表現する」(23ページ)と
  いうこと

 ・つまり真理は出来上がった実体ではなく、主体的に生みだされるもの、とい
  う実践的真理観を現したもの

●「理性は全実在であるという確信である」(143ページ)

 ・この変革の立場にたつ実践的真理観を示すのが「理性」であり、理性の最後
  は、概念に媒介された主・客の絶対的同一性で締めくくられることになる

 ・「理性は全実在である」とは、1つには全世界は理性的・法則的であること、
  2つには理性は全世界を概念にもとづいて合法則的に変革し、全世界をわが
  ものとすることを意味している

 ・この立場から、「A 観察する理性」の最後で、絶対知とは、物は自己であ
  り、自己は物であるという無限判断であると知ることで終わっている

 ・次の「B 行為的理性」では、絶対知をめざした実践による社会変革が論じら
  れることになり、フランス革命の経験をつうじて、一般意志こそ社会変革の
  「概念」であることが示される

●「C 社会的理性」の問題点

 ・ところが「C 社会的理性」になると、資本主義社会を一方では「精神的動物
  の国」と批判しながら、他方で「ことそのもの」であり、そこから人倫的実
  体が生まれるかのような議論をしているしている

 ・ヘーゲルは、一定程度社会主義・共産主義の知識をもちながらも、正面から
  資本主義の変革を語るのではなく、資本主義の生みだした「ことそのもの」
  に共同体の理念を注入することで人倫的実体という理性の目標、つまり絶対
  知が実現されるととらえる

 ・いわば、絶対知に接近するもっとも重要な箇所で、突然変革の立場が放棄さ
  れており、「理性」の最後の絶対知に至る論理の展開にも説得力がない

 ・『現象学』第1部と同様の認識論を対象としている『小論理学』では、「概
  念と存在の同一」を理念としてとらえ、「哲学はただ理念のみを取扱う」
  (『小論理学』㊤ 71ページ)として、理念をもっとも重要なカテゴリーと
  している

 ・ところが『現象学』も同様に目標を「概念が対象に、対象が概念に一致する」
  (61ページ)としながらも、変革の立場にとって不可欠の「理念」のカテゴ
  リーが存在しないところに、その不徹底さが示されている

 ・ヘーゲルが『現象学』を先頭とする哲学体系を放棄した最大の原因は、『現
  象学』における変革の立場の不徹底さにあったものと考える

 

*** *** *** *** コラム *** *** *** ***

〈脳とコンピューター〉

■ 脳とコンピューターの同一と区別
 ・脳もコンピューターも情報処理機関としては同一
 ・しかしコンピューターと違い、人間は「知を愛する」(哲学)存在
 ・ソクラテス「わたしの息のつづくかぎり、わたしにそれができるかぎり決し
  て知を愛し求めること(哲学)をやめないだろう」(プラトン全集① 83ペー
  ジ)

■ なぜ人間は知を愛し、真理を愛するのか
 ・脳とコンピューターは、目的と手段が逆になっている
 ・脳ではネットワークの形成が目的で、出力は手段であるのに対し、コン
  ピュ ーターでは、出力が目的でネットワークはその手段
 ・脳は経験をつうじて、記憶を質・量ともに発展させ、そのうち使用にたえ
  うるものを知(識)にかえて蓄積
 ・知識を使って思考する
 ・思考とは入力された新しい情報が提起した問題を解決すること(推論―帰
  納、演繹、類推)
 ・新しい問題を解決することで、より発展した神経細胞のネットワークが形成
 ・「学習は出力依存性がある」
  (出力が手段となって知のネットワークが発展する)
 ・知を求め、真理を探究することは、脳の目的であるネットワークの発展を
  もたらすことから、脳は知を求めることを「快又は善」という感情として
  受けとめる
 ・したがって人間は知を愛し、真理を探究することをやめることができない