『ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ』より

 

 

第七講 「C 理性」 ③

「c 徳と世の中」

 前講の最後で「万人のこころの法則」には、ルソーのいう「万人の意志」と「一般意志」の二種類があり、一般意志が「c 徳と世の中」における徳であるとお話ししました。ルソーのいう万人の意志とは、多数者の意志であり、「多数決は必ずしも真ならず」といわれるように、万人の意志はけっして真理ではないのです。したがってヘーゲルのいうように「思いこまれた一般にすぎない」(二二二ページ)のであって、特殊個人的な「こころの法則」を廃棄するほどの力をもつものではありません。
 これに対し一般意志とは、人民の真にあるべき意志、つまり人民の意志の「概念」を意味する意志の真理であり、一般意志を統治の原理とすることにより、治者と被治者の同一性が実現され、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という政治が実現されることになります。フランス大革命は、ルソーの一般意志を目的に掲げ、その実現をめざすものでした。
 それはまさに、行為的理性がその目標として掲げた「個別者として自己を実現しよう」(二一一ページ)とする行為であると同時に、「失われた人倫」(同)を回復して「人倫的実体」(同)を実現しようとする革命として出発したのです。そのなかで誕生したロベスピエールを先頭とする「ジャコバン独裁」は、ルソーの一般意志を「徳」と言いかえ、徳にもとづく統治を主張しました。
 彼は一七九四年五月七日の演説で「市民社会の唯一の基礎は道徳である。……徳性が共和国の精髄であるように、背徳は専制の基盤である」(ソブール『フランス革命』㊦一〇四ページ、岩波新書)として、背徳とみなしたものを容赦なく断頭台に送る恐怖政治をおこないました。
 「c 徳と世の中」の徳とは、道徳一般というよりもこのロベスピエールの徳の原理を念頭においているのです。「徳の原理はロベスピエールによって絶頂に達した。彼にとっては徳だけが真剣の問題だったと言ってよい。
ここにおいて、徳と恐怖とが支配することになった。というのは、単に心情だけを基にして統治をやる主観的な徳は最も恐ろしい虐政を招致するものだからである」(『歴史哲学』㊦三一六ページ)。
 以上を前提としてテキストをみていくことにしましょう。
 「徳の意識においては、自己の個人性は、自体的に真であり善である一般者に、従うように訓練され」(二二二ページ)るべきであって、徳の「法則が本質的なものであって、個人性は廃棄さるべきものである」(同)。すなわち徳とは「真であり善である一般者」、つまりルソーのいう一般意志であり、その徳こそが社会における本質的な法則であって、すべての人々は徳に従わないと廃棄されてしまう、というのです。
 「徳の目的は、顛倒した(疎外された ── 高村)世の中を更に顛倒させて、世の中の真の本質をつくり出すこと」(二二三ページ)に置かれ、「善は、自らの反対を強圧することによって初めて、自らの真理を与え」(二二四ページ)るものとして、「世の中に対する戦」(同)を挑むのです。徳のいう「善はまだやっと一つの抽象」(同)にすぎないのに、「徳の騎士」(二二五ページ)は、自分のかかげる「善が絶対的なものである」(同)と信じて、「世の中と、戦う」(同)ことになります。
 これに対し世の中というものは、個人から成る「個人性によって命を与えられ」(同)ており、一般意志は個々人の意識のうちに含まれているものですから、「世の中のあらゆる現象」(同)には、この「現実の善」(同)があみこまれています。「徳の騎士」は、自己の「善が絶対的なものである」とし、それを「自分の強みとして」(同)世の中と戦うのですが、その抽象的な善は、世の中の「現実の善」に打ち負かされてしまいます。
 「徳は世の中に敗北する。それは、徳が実際には、抽象的で非現実的な本質を、自分の目的としている」(二二六ページ)ためでした。徳は、その抽象的な善を目的として、「個人性を犠牲にして善を現実」(二二七ページ)化しようとしたのですが、「現実という側面は、それ自身個人性という側面にほかならない」(同)ことに気づかなかったのです。
 結局世の中が徳に打ち勝ったということは、一般意志に打ち勝ったわけではなく、徳が「抽象的で非現実的な本質を、自分の目的としている」ためであり、「人類の福祉や人類に対する抑圧」(同)などについて行われる、徳の名のもとの「華麗な言辞」(同)に対しての勝利というべきものでした。
 古代ギリシアのソクラテスが求めた徳は、「民族の実体」(同)、つまり「既に現存している現実の善を、その目的としていた」(同)のに対し、ロベスピエールの徳は、「本質のない徳、……ただ表象の上の、言葉の上の徳」(同)にすぎなかったのです。ここから「出てくる結果は、意識が、まだ現実性をもっていない自体的な善についての表象を、空しい外套としてぬぎすてる」(二二八ページ)こと、つまり抽象的な徳から、本来の一般意志に立ち帰るべきだということになります。フランス革命の教訓は、「世の中の現実は一般者の現実」(同)であって、一見すると長いものに巻かれているようにみえる人民の現実の意志のうちに、潜在的に一般意志の現実が潜んでいるのをみなければならないのであって、「個人性を犠牲にして善をつくり出す」(同)ことはできないということだったのです。
 「世の中の個人性」(同)は、自分では「利己的に行動するにすぎない、と思いこんでいるかもしれないが」(同)、深いところでは共同社会性という人間の類本質をもっているところから、「自体存在的な一般的な行為」(同)、つまり人民の一般意志にもとづく行為にでているのであって、個人が「利己的にふるまうときには、自分が何をしているかを、知らないだけのこと」(同)なのです。
 ヘーゲルが人民の意識のうちには、体制に順応する表面的、現象的な意識と、人間の類本質としての共同社会性からくる一般意志との対立・矛盾があり、ここに人民が社会変革の運動に立ちあがる基本的要因があるとみているのは、鋭い分析といわなくてはなりません。一般意志という「自体」(二二九ページ)は、「抽象的な一般者のことではなく、それ自身でそのまま、個人性が動いていく現在であり、現実」(同)、つまり、共同社会性を類本質としてもつ人民の意識の真理なのです。
 フランス革命をつうじて徳の騎士は敗北しましたが、ルソーのいう一般意志こそが個人と共同体を一体化する真にあるべき社会の理念であるということは生き残ったのであり、それを自覚した個人が資本主義の市場経済のなかでその理念を実現しようとするのが、次の「C それ自体で自覚的に現に在るような個人性」の課題となるのです。

 

四、「C それ自体で自覚的に現に在るような個人性」

 見出しの意味と概要

 本章は『現象学』第一部「意識の経験の学」の最後に位置し、第一部のまとめともなる重要な箇所となっています。
 「B 理性的自己意識の自己自身による実現」から、本題ともいうべき社会の変革の問題に入ってきました。変革の目標とされる社会の真にあるべき姿は「人倫の国」(二〇七ページ)、「人倫的実体」(同)とされますが、「B」ではその目標を実現することはできませんでした。
 したがって本章の「C それ自体で自覚的に現に在るような個人性」では、どのようにして「人倫の国」が回復し、人倫的実体が実現されるかが、その課題とされます。その課題の達成により、「これまでの諸々の形式は、自らの根拠であるこの実体のうちに帰って行く」(二〇六ページ)のであって、「それらの形式は、この根拠からみると、根拠が生成して行くときの個々の契機にすぎない」(同)ことになるのです。
 「それ自体で自覚的に現に在るような個人性」という見出しの意味は、一般意志こそが社会共同体の概念であるべきだと自覚した個人が、産業革命により発展した市場経済をつうじて、この概念を実現する人倫の国、人倫的実体という絶対的精神をめざすというものです。
 本章の構成と概要を紹介しておきましょう。まず最初に本章の「序論」に相当する箇所があります。そこでは、一般意志にもとづく「われとわれわれの統一」が真理であることを確信した社会的理性は、この一般意志を媒介とする主観と客観の統一という絶対的精神に向かうことが論じられます。ヘーゲルはそれをフィヒテの「単純な範疇」との対比において、「範疇そのもの」とよんでいますが、その説明は後に回します。
 二つめの「 精神的な動物の国とだまし、または『ことそのもの』」(二三一ページ)では、資本主義が「精神的動物の国」という「だまし」合いの世界であるとされながらも、他方で産業革命から生まれた市場経済としての「ことそのもの」は、形式的には個人と共同体の一体化する「人倫の国」とされます。
 そこで三つめの「b 立法的理性」(二四四ページ)では、資本主義のもつ「だまし」を排除し、形式・内容ともに「人倫の国」にするために、自覚した自己意識が自分なりに人倫的概念を道徳法則として「立法」しようとするが成功せず、さらに四つめの「c 査法的理性」(二四八ページ)では「だまし」を生みだす資本主義の土台となっている私有財産制そのものを査問しますが、これにも問題が残ります。
 こうした経験を経て、自覚した個人性は、人倫的実体の概念は外から持ち込まれるものではなく、人倫的実体自身のうちにあり、それが一般意志であることに気づきます。この一般意志が資本主義社会にもちこまれることによって、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という人倫的実体は疎外から回復することになり、ここに絶対的精神が実現するというのですが、この論理の展開には後にみるように問題があるといわざるをえません。

 「序論」

 「自己意識についての概念」(二二九ページ)が「われとわれわれの統一」(一一五ページ)にあるということは、「これまではやっとまだ」(二二九ページ)哲学者である「われわれの概念にすぎなかった」(同)のですが、フランス革命の経験をつうじて、一般意志こそが意志の概念であることを、「自己意識が、自ら」(同)つかんだのです。「ここにいま理性は、絶対的に自己の実在性を確信しており、……範疇そのものを自らの意識の対象としているのである」(同)。
 ここに初めて「範疇そのもの」という用語が登場します。もともと「範疇」とは、「量と質」とか「本質と現象」という対立する関係にある一対のカテゴリーを意味しています。ここにいう「範疇そのもの」とは、カント、フィヒテの「単純な範疇」(一四三ページ)に対立する用語として登場してきたものです。フィヒテの「単純な範疇」とは概念に媒介されることのない、「自己意識と存在との単純な統一」(一四四ページ)、つまり主観と客観との無媒介的な統一を意味していました。これに対して頭蓋論は、物は自己であり、自己は物であるという無限判断をつうじて、概念に媒介された主観と客観の統一という要素を「きっぱりと(フィヒテの単純な ── 高村)範疇につけ加」(二〇四ページ)えたのです。「無限判断という契機は、直接(無媒介)態が、媒介もしくは否定(態 ── 高村)に、移行すること」(同)であり、この概念に媒介された範疇を、ここで「範疇そのもの」と呼んでいるのです。
 いまや理性は、一般意志という真にあるべき意志(意志の概念)を媒介にして、自己の目的である人倫の国、つまり絶対的精神を実現しようとしており、理性の変革の確信は、概念によって真理実現の確信となり、「真理と確信」(二三〇ページ)の統一の立場にたっています。したがって、この理性の「行為は、それ自身において自らの真理であり現実である」(同)ことになるのです。
 自己意識は、いまや観察する理性や行為する理性としての「諸々の関係を、清算し終え」(同)て、一般意志という概念をかかげた「純粋範疇そのもの(絶対的精神 ── 高村)を自分の対象」(同)として、理想と現実の統一の実現をめざす行為的理性となっているのです。
 こうして意識は、絶対的精神をめざして「新たに自己から出発するが、他者にではなく、(自己意識の概念という ── 高村)自己自身に向って行く」(同)のであり、「それゆえ行為は、外見からすれば(自己から出発し、自己に帰る ── 高村)円運動」(同)となっています。
 この「個人性が自ら形態を現わす場は、この形態を純粋に受け容れる」(同)市民社会、つまり資本主義社会
にほかなりません。つまり資本主義社会では自己の行為がそのまま社会的行為として「受け容れ」られるところから、いまや理性はこの資本主義社会という「場」において理想と現実の統一をめざすことになるのです。

「 精神的な動物の国とだまし、または『ことそのもの』」

 見出しの意味

 「精神的な動物の国」(二三一ページ)とは「互いに権力を争い混乱に陥りながら、戦い合いだまし合っている」(三一〇ページ)社会であり、資本主義社会を意味しています。マルクスも、『現象学』のなかでは「ブルジョア社会が『精神的な動物界』として現われ」(全集二〇三ページ)るとしています。ヘーゲルは資本主義社会が利潤第一主義の本質をもっており、そこから利潤獲得をめぐってだまし合いの戦いが生じるということは理解していませんが、資本主義が「だまし」合いの「精神的な動物の国」にすぎないことは見抜いているのです。
 そこは評価しうるのですが、以下にみるように、他方でヘーゲルが資本主義を「ことそのもの」という個人と共同体の一体化した社会としているのは、当時の産業革命の華麗さへの称賛があったとしても、問題といわざるをえません。というのも、そこには「物」そのものの変革の立場はあっても、現実の社会の変革の立場は貫徹されていないからです。
 「ことそのもの」とは、産業革命から生まれた労働生産物としての商品、商品交換市場、市場経済などの幅広い意味をもったヘーゲル独自のカテゴリーです。ヘーゲルは「ことそのもの」のうちに個人と社会共同体との一体化を見いだし、内容面では「だまし」の世界という問題をもつものの、形式面においては資本主義を「人倫の国」であるととらえているのです。
 したがって、変革の立場にたつ理性は、この形式面のみの「人倫の国」である資本主義に、「人倫の国」にふさわしい内容をもり込むことによって、名実ともに「人倫の国」にすべく、次の「b 立法的理性」「c 査法的理性」へと前進する、という論理の展開になっています。
 ヘーゲルは、スチュアートやスミスのイギリス経済学を研究していますが、スミスがいうところの「神の見えざる手」による予定調和が「ことそのもの」というカテゴリーを生み出したということができるでしょう。
 以下テキストに沿ってみていくことにしましょう。

 個人は生産労働をつうじて社会的存在となる

 さしあたり個人性は、「徳と世の中」の経験をつうじて「われとわれわれの統一」という真理実現の確信をもっていますが、まだ「充たされていないし、内容をもっていない」(二三一ページ)段階にとどまっています。個人はまだ「本源的本性」(同)にとどまっていて、自己意識の概念が「われとわれわれの統一」であることを知ってはいるものの、それは「抽象的で一般的」(同)なものにとどまり、真理に向かって歩きだしていないからです。
 この「単純な本源的本性は、行為や行為の意識となるとき、行為につきものの区別となって行く」(二三二ページ)ことになります。それがすなわち生産労働という行為であり、この行為は、自己を「目的」(同)と「手段」(同)による「実現された現実」(同)という労働生産物へと「自らの区別を展開」(二三一ページ)していくことになります。この生産労働をヘーゲルは「仕事」(二三四ページ)と呼んでおり、「仕事と一緒に、本源的本性の区別が出てくる」(同)のであり、「仕事は、行為から解放されて、存在する現実」(同)となります。
 生産労働としての「仕事」は、「存在する現実」としての商品を生みだし、商品は生産者の手からはなれて、商品市場という社会的な場に押し出されることになります。こうして「個人は、本来仕事において一般性という場に、存在という無規定の場に、自分を押し出したのである」(二三五ページ)。つまり、個人はその仕事をつうじて、社会的存在となり、社会的理性を身につけることになるのです。
 それと同時に、商品市場においては、生産者の個人性は消え去ってしまって、商品は、商品を購入しようとする「他の個人性にとって存在」(二三六ページ)するものとなっており、生産者にとってはもはや「見知らぬ現実」(同)となっています。したがって、「仕事をしている間に意識に起ってくるのは」(同)、生産労働という「行為」は自分のものであるが、商品という「存在」は他人のものという「行為と存在の対立」(同)なのです。同時に行為と存在の対立は、自己の個人性にもとづく行為が、社会的存在に転化したという意味では、「われとわれわれ」とが切っても切れない関係にあるとの自覚が生まれてくることになります。
 「だから、この仕事において、意識は、自らが真に在る通りのものとなり、自己自身についての空しい概念も消え去るわけである」(二三七ページ)。つまり仕事を媒介として、個人と共同体、個と普遍、われとわれわれとの対立が統一されることを自覚することで「空しい概念も消え去」り、少なくとも形式的には絶対的精神が現実のものとなりつつあるのを感じるのです。
 この対立物の統一を実現するためには、商品が、市場において流通しなければなりません。したがって「真の仕事」(二三八ページ)は「行為と存在のこの統一」(同)、つまり市場における商品の流通ということになり、この「真の仕事」から生まれたのが、一八世紀後半からイギリスで始まった産業革命による「ことそのもの」(同)、つまり商品交換の市場経済だったのです。

 「ことそのもの」は形式的には人倫的実体

 個人の生産した労働生産物が、市場において「ことそのもの」つまり商品として流通するためには、「個別的行為そのもの、環境、手段、現実などという偶然性たることからは、独立」(同)し、社会的に通用する交換価値と使用価値の統一という形態をもつことが求められます。
 その意味では、商品としての「ことそのもの」は、資本主義社会という共同体の「精神的本質を表わして」(同)います。個別的行為の「すべての契機は、自分だけで妥当するものとしては、廃棄されており、したがって、一般的な契機としてのみ妥当」(同)しているからです。したがって、商品としての「ことそのもの」は、「自己意識から、自己自身のものとして、生みだされた対象でありながらも、自由な本来的な対象」(二三九ページ)となっています。別の側面からいえば「ことそのものにおいて、自己意識は、自らについての真の概念を自らえたのであり、自己の実体の意識に至りついた」(同)のです。つまり「ことそのもの」において「われとわれわれの統一」という自己意識の「真の概念」を手にすることができたのであり、ここに至って自己意識は少なくとも形式的には人倫的実体の「意識に至りついた」のです。 マルクスはこうした「ことそのもの」にかんして、「ヘーゲルは、労働を人間の本質として、自己を確証しつつある人間の本質としてとらえる」(『経済学・哲学草稿』二〇〇ページ)と述べています。つまり、自己意識は商品交換という「ことそのもの」において、自己の真の概念が「われとわれわれの統一」にあり、「自己の実体」は個人と共同体とが一体化した人倫的実体であるとの自覚に到達したのです。マルクスが、商品が商品としての価値をもつのは、「それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われ」(『資本論』①八一ページ)る「純粋に社会的なもの」(同)と述べているのと同様の意義を、ヘーゲルは商品市場に見いだしたということができるでしょう。
 商品の価値はその生産に必要な社会的労働時間によって規定されるという価値規定を基礎にして、商品の交換はその価値にしたがってなされるという価値法則が市場を支配します。それが等価交換の原則と呼ばれるものであり、ヘーゲルはそれを「誠実な意識」(二四〇ページ)と呼んでいます。この「信義誠実の原則(信義則)」は、市場経済を基礎とする近代私法の基本原理であり、民法一条二項にも「権利の行使及び義務の履行は信義に従い誠実にこれを為すことを要す」と明記されています。
 「意識が誠実であると言われるのは、一方では、ことそのものが表現している理想主義に達しており、他方では、このような形式的一般としてのことそのものに即して、真理をもっているからである」(二三九ページ)。
 ヘーゲルは市場経済のもとでの信義則こそが、商品交換における「理想主義」を表現したものであり、商品交換の真理であると高く評価したのです。
 しかし他方で「この誠実の真実は、外見ほど誠実であるはずがない」(二四一ページ)とされます。というのも、この誠実な意識は「個人性と一般性が自ら動いて浸透し合う」(同)ところに生じるのですが、個人性としての利潤第一主義が資本主義社会において「本質的なもの」(二四二ページ)であるのに対し、一般性としての誠実な意識は、「ただ外的なもの」(同)にとどまるからです。そのため、市場経済という「ことそのもの」には、「個人性相互の戯れが入りこんでくる」(同)ことになり、「自分自身をも、また互いに相手をも、だましたり、だまされたりすることになる」(同)のです。
 資本主義的生産様式のもとでは「意識がこと(商品生産 ── 高村)において関心を向けているのは、自分のすることなすこと」(同)、つまり利潤の追求だけであって、「あとは野となれ、山となれ」なのです。
 資本主義社会における「だまし」を象徴するのが、資本主義社会の固有の産物である株式会社です。マルクスは、株式会社の本質を「他人の資本および他人の所有、それゆえ他人の労働にたいする、一定の制限内での絶対的な処分権を提供する」(『資本論』⑩七六〇~七六一ページ)もの、つまり他人の金で金もうけをしようとする制度であることを明らかにしたうえで、次のように述べています。
 「それは、新たな金融貴族を、企画屋たち、創業屋たち、単なる名目だけの重役たちの姿をとった新種の寄生虫一族を再生産する、すなわち、会社の創立、株式発行、株式取引にかんするぺてんと詐欺の全体制を再生産する」(同七六〇ページ)。こうしてヘーゲルは、資本主義社会を弱肉強食のだまし合いの世界として「精神的な動物の国」(二三一ページ)と規定することになります。
 したがって史的唯物論の観点からすると、資本主義社会の特徴は、「誠実な意識のうちにだましがある」のではなく、「形式上の誠実な意識そのものが内容上の不誠実な意識に転化する」ところにあるというべきものです。というのも、労働者が自己のもつ労働力という商品を価値どおりに販売したとしても、資本家の側は剰余生産物を対価の支払いなしに取得し、搾取しているからです。つまり資本家と労働者の間の労働力の売買という交換関係は、形式上は等価交換という「誠実な意識」でありながら、内容は資本家が「他人の不払労働を絶えず新たに取得する」(『資本論』④一〇〇六ページ)不等価交換という「不誠実な意識」となっているのです。マルクスはそれを「商品生産の所有諸法則は資本主義的取得の諸法則に転換する」(同)といっています。
 しかも実際には、資本の蓄積に比例して高まる産業予備軍の創出によって、労働力という商品は、不断に価値以下でしか販売し得ないという「だまし」の絶対的法則が労働力市場を支配しており、その意味では資本主義の特徴は、「不誠実な意識に加えてだましの世界」ということができるでしょう。

 「ことそのものの本性」の批判

 ヘーゲルの時代の近代経済学が、資本主義社会を予定調和的世界としてとらえ、搾取そのものを明確にできなかったことは、当然ヘーゲルにも色濃く反映されています。マルクスは、ヘーゲルが「労働を人間の本質」(『経済学・哲学草稿』二〇〇ページ)としてとらえたことは高く評価しながらも、「彼は労働の肯定的な側面を見るだけで、その否定的な側面を見ない」(同)と批判していますが、このヘーゲルの弱点が、「ことそのものの本性」(二四三ページ)にも示されることになります。
 ヘーゲルは、「ことそのもの」(市場経済)を、形式的にみるかぎり個人とすべての人々の行為(生産労働)と存在(商品)を「一般的なことそのもののなかで、解消する」(同)ような「精神的な本質」(同)としての人倫的実体としてとらえています。
 言いかえると、ことそのものは形式的には「個人性でありながらも、そのまま一般的でもあるような」(二四四ページ)、「個人性によって浸透された実体」(同)だというのです。ヘーゲルが資本主義の本質を「精神的な動物の国」としてとらえながらも、産業革命のもたらした商品生産と市場経済の発展のうちには個人と共同体の一体化という人倫的実体の形式面があることを見透かしたのはさすがというべきですが、「ことそのもの」に人倫的概念を盛り込めば資本主義は「誠実な意識」を取り戻し、名実ともに人倫的現実になるとしたのは、あまりにも安易な変革の立場といえるでしょう。
 それはともかくとして、ヘーゲルの論理からすると、「ことそのもの」だけでは「だまし」を防ぐことのできなかった「空しかった精神的本質」(二五〇ページ)を、内容面でも「充実」(同)させ、形式・内容ともに人倫的実体に変えていくために、次の「立法的理性」と「査法的理性」において「空しかった精神的本質を、(内容的に ── 高村)充実する二つの契機」(同)の導入が検討されることになります。

「b 立法的理性」

 立法的理性とは、共同体の概念である道徳法則をつくり出そうとする理性を意味しています。
 共同体の概念となる法則は、共同体を上から下まで貫く法則であると同時に、その構成員に共有され、構成員の規範となる共同体の精神的本質でなければなりませんから、それは道徳規範、つまり道徳法則ということになります。「ことそのもの」としての市場経済は、形式的には人倫的実体としての個人と共同体の一体化でありながら、内容的には「だまし」という不道徳の世界であって、まだ名実ともに人倫的実体と呼べるものではありませんでした。そこで「ことそのもの」に道徳法則を盛りこむことで「だまし」を取り除き、「ことそのもの」を形式・内容ともに人倫的実体にしようというのが立法的理性です。
 したがって、立法的理性という「意識にとって対象」(二四四ページ)となるのは、共同体の概念としての「人倫的な意識」(同)をつくり出すことにより、「ことそのもの」を名実ともに「人倫的実体」(同)という「真理」(同)に変革しようとする意識なのです。立法的理性は、「自分がこの(人倫的 ── 高村)実体の対自存在という契機であると、知っているから、自分のうちにある法則の定在を表現して、健全な理性は何が正しく、何が善いかを無媒介に知っているというふうに言う」(二四五ページ)。つまり立法的理性は、自分には人倫的実体の道徳法則が「無媒介に」、つまり「直接的に与えられ」(同)ており、しかもその法則は無媒介に「そのままで、これが正しく善である」(同)と考えています。
 しかし、無媒介的に直接的に与えられた「感覚的確信」(同)が「最も抽象的で最も貧しい真理」(六七ページ)であったことからすると、人倫的意識のいう無媒介的な道徳法則の真理性も、果たして言葉どおりに受け取り得るかは疑問といわなければなりません。したがって、はたして「この人倫的な直接的な確信」(二四五ページ)のいう「直接的な人倫的法則」(同)とはいかなるものであるかを検討してみなければなりません。
 すなわち立法的理性からすると、資本主義社会のもつ信義誠実の原則をつらぬき、不誠実な意識と「だまし」を排除するためには、まず「各人は真実(理)を語るべき」(同)であり、「これは、無条件的なものとして、言い表わされた義務である」(同)とする道徳法則がたてられるべきだということになります。しかしこの義務は、各人が真実を知っていることを前提としていますから、より正確には「各人は、いつでも真実についての、自分の知見と確信に従って、真実を語るべきである」(二四六ページ)ということになり、当初の命題は、けっして無条件的なものではないことになってしまいます。
 そこでさらに深く考えて「真実についての知見や確信の偶然性が脱落すべきであり、真実は知らるべきでもあるのだ」(同)という命題に置きかえてみると、それは「理性は真実を知るべきである」(同)ということになり、「初めに出発したところに、全く矛盾する命令」(同)になってしまいます。
 次に同様に不誠実な意識と「だまし」を排除する「汝の隣人を汝自身の如く愛せよ」(二四七ページ)という道徳法則について考えてみましょう。ここで言われている愛は「活動的な愛」(同)ですから、善と邪を区別できる愛でなければなりませんが、そういう悟性をもった愛は国家によって公共的になされてはじめて意味をもつことになり、個人の愛ではないということになるでしょう。したがって最初の法則と同じように、この法則も「多分善であるかもしれないが、またそうでないかもしれない、というような性質のもの」(同)であり、「一般的な内容をもってはいない」(同)し、「絶対的なものを表現してもいない」(同)のです。
 結局これらの道徳法則は、「こうあるべきだ」という「当為に止まるだけであって」(同)、「それは法則ではなくて、命令であるにすぎない」(同)のです。それもある意味で当然といえるかもしれません。というのも人倫的実体は、絶対的精神として「絶対的内容」(二四八ページ)を自らのうちにもっていなければならないのに対し、これらの道徳法則は「精神的な動物の国」としての資本主義社会に外から押しつけられた「一つの内容」(同)にすぎないからです。限られた内容の道徳法則の押しつけによって絶対的内容をもつ人倫的実体を実現しようとするのは自己矛盾でしかありません。
 理性的意識のなしうることは、新たな人倫的実体の道徳法則をつくって外から押しつけることではなくて、人倫的実体の絶対的内容としての法則の存在を前提とし、それが「自己矛盾でない」(同)という「形式的な一般性」(同)を問題にするだけということになってきます。つまり道徳性の問題にしうるのは、人倫的実体の法則がもつ絶対的な内容が何かというのではなく、与えられた法則の内容が「自己矛盾でない」かどうかを検討する「査法的理性」(同)となってくるのです。こうして「立法的理性はただ査問する理性になりさがって」(同)しまいます。

「c 査法的理性」

 人倫的実体を自覚した個人は、自分なりにとらえた人倫的実体の道徳法則の「内容を自分自身とだけ比較し、この内容が同語反復であるかどうか」(二四九ページ)、矛盾がないかどうかを検討することになります。
 「もはや、諸々の法則が与えられるのではなく、査問されるのであり、諸々の法則は、査問する意識には既に与えられているのである」(同)。そこで査法的理性は、資本主義の不誠実な意識と「だまし」は私有財産そのものから生じるのではないかとの疑問から、はたして資本主義において「私有財産が在る、ということは、絶対的な意味で法則であるべきか」(同)という問題を提起します。
 フランス革命をつうじて、ルソーの提起した平等論は、たんなる政治的平等の要求から、社会的・経済的な平等の要求にまで発展し、私有財産制を否定することで完全な平等を実現しようとするバブーフの「平等のための陰謀」という共産主義思想に結びついていきます。マルクスが指摘したようにフランス唯物論は「直接に社会主義と共産主義とにそそいでいる」(全集②一三六ページ)のです。
 ヘーゲルは真にあるべき社会としての人倫的実体の法則を「私有財産の否定」(二四九ページ)との関連でとらえ、その社会では財物は「すべての人に共通のものであるとか、誰もが自分の必要に応じて、または、同じ分け前でもらう」(同)として、社会主義・共産主義をも頭の片隅においていたように思われます。この言葉は、マルクスが「ゴータ綱領批判」において「共産主義のより高度の段階」(全集⑲二一ページ)では「各人はその能力におうじて(働き ── 高村)、各人にはその必要におうじて」(同)分配するとの命題を想い起こさせるものとなっているからです。
 それはさておき、この私有財産制にかんするヘーゲルの査問をみていきましょう。まずヘーゲルは、私有財産の対象となるのは「物」であり、「物」とは所有者がいるか否か、誰が所有者であるかは関係のない「一般的な物態」(二五〇ページ)であるとします(因みに、民法二三九条一項は「無主物先占」を規定し、無主の動産は最初に自分のものとして占有した者の所有になるとしていますので、物とその所有とは区別すべきだとするヘーゲルの見解は正しいものといえます)。したがって、「私が物を所有するということは、物が一般的な物態であることに矛盾する」(同)として、私有財産制を批判します。
 では逆に私有財産を認めて、それを社会の共有にするとすればどうでしょうか。「この共有においては、各人は、自分が必要とするだけ与えられる。その結果、この不平等と、個々人の平等を原理とする意識の本質とは、互いに矛盾することになる」(二四九~二五〇ページ)。つまり、私有財産の否定は真の平等を実現するためのものであったはずなのに、社会的共有財産にして各人に必要なだけ与えられることはある意味で平等原則に反するのではないか、というのです。
 こうして私有財産制も社会的共有財産制もともに否定されることになります。ヘーゲルはすべてのものは矛盾をもっているのであって、自己矛盾が存在しないことをもって真理認識の基準とする査問的理性は「あれかこれか」のどちらが真理かを問題とするものであって、「実際には(真理認識の ── 高村)尺度ではない」(二五〇ページ)といいます。すなわち「A 観察する理性」(理論的理性)では、「あれかこれか」を問題とする「力相互のたわむれ」(八五ページ)は真理ではないとされたのに、同じ「あれかこれか」が「実践的真理の認識にとっては、それ以上のものであると言われるのも、奇妙なこと」(二五〇ページ)だというのです。

 一般意志による「人倫の国」の回復

 立法的理性、査法的理性をつうじて、理性的自己意識は、「ことそのもの」をもつ資本主義社会を真にあるべき理性的社会(人倫的実体)にかえようとしましたが、「その結果は、規定された法則も、この法則についての知識も、共に成立し得ない」(同)ということでした。個人の「恣意的な内容」(二五一ページ)をもって法則とする「直接的立法は暴君的な悪虐」(同)にすぎませんし、査法的理性も「絶対的な法則から離れて理屈をこね」(同)る「知の悪虐」(同)にすぎません。
 というのも、立法的理性と査法的理性が「個別的に遊離して受けとられるときには、人倫的意識の支えなき二つの契機にすぎない」(二五〇ページ)のであって、いま必要なことは両者を統一のうちにとらえ、「それらを契機としてのみ含んでいる」(二五一ページ)一般意志をもって人倫的実体の「精神的本質」(同)とすべきなのです。というのも人民の真にあるべき意志としての一般意志は、一方では立法的理性の対象とされる誠実な意識であると同時に、他方で査法的理性の対象とされる私有財産の濫用をも防ぐ意識となるからです。
 人倫的実体の「精神的本質は、まず、自己意識にとって、自体的に存在する法則」(同)、つまり「われとわれわれとの統一」(一一五ページ)にあります。この法則こそ「永遠の法則」(二五一ページ)であり、いまやこの人倫的実体の概念はルソーの一般意志としてあらわれているのです。
 「この法則は、個人の意志のうちにその根拠をもっているものではなく、自体的にまた自分で(対自的に)存在し、万人の絶対的な純粋意志であり、この意志は直接的存在という形式をもっている。またこの意志は、ただ存在すべきであるというような、命令ではなく、現に在り、現に妥当している。この精神的本質は、範疇の一般的自我であり、この自我はそのまま現実である。そして世界は、この現実にほかならない」(二五一~二五二ページ)。
 ここにいう「万人の絶対的な純粋意志」とは、ルソーのいう一般意志にほかなりません。ヘーゲルは、一般意志こそが、真にあるべき社会の「精神的本質」である概念としての「永遠の法則」であり、しかもたんなる精神にとどまるものではなく、「この意志は直接的存在という形式をもって」いて、必然的に現実性に転化し、人倫的実体を生みだすことになるというのです。したがって「この意志は、ただ存在すべきであるというような命令ではなく、現に」存在となる意志という意味で、意志の「概念」なのです。つまり一般意志は「神々の、書かれてはいないが誤りなき法と、認められる」(二五二ページ)のです。
 こうしてヘーゲルは、変革の意識としての「理性」の最後を一般意志に媒介された資本主義社会でしめくくり、ここに人類は疎外的精神から回復して人倫的実体を実現し、絶対的精神に到達したとされます。つまり資本主義という「ことそのもの」による形式的な個人と共同体の一体化した社会に、一般意志という内容をもち込むことによって、「精神的な動物の国とだまし」の世界は「誠実な意識」が支配すると同時に私有財産の濫用をも防ぐ人倫的実体となり、疎外からの回復が実現する、というのです。

 ヘーゲルの変革の立場は不徹底

 理性が変革の対象とするのは、世界のすべてであり、その意味で「理性は、全実在であるという意識の確信」(一四二ページ)ということができます。その意味では、自然(物)の変革も社会の変革も、同じ「全実在」の変革ということができますが、行為的理性の目標が「人倫の国」の回復という社会変革にあることは第六講で学んだところです。したがって「C 理性」の最大の課題は、階級社会に突入することによって失われた「人倫の国」(二〇七ページ)を変革の立場からいかに回復するかにあるということができます。
 「B 理性的自己意識の自己自身による実現」ではその目的を達しえなかったところから、本章でそれが実現するのかと期待していると足もとをすくわれてしまいます。というのも、ここでは資本主義社会という社会そのものの変革が課題とされているにもかかわらず、「ことそのもの」(生産物)という「物」の変革が、資本主義的生産関係という人と人との関係から切りはなして論じられ、その結果資本主義的商品生産に一般意志を接ぎ木するだけで、搾取も階級もない「人倫の国」が実現されるかのような結論になっているからです。 
 このヘーゲルの「真にあるべき社会」の考え方は、一八二一年の『法の哲学』でも展開されています。すなわち『法の哲学』では、まず国家と社会とを区別したうえで、資本主義社会(市民社会)をエゴイズムの塊としての「欲求の体系」としてとらえながらも、「そこから生じる諸矛盾を人民の一般意志を体現した国家によって規制し、国家と人民の一体化を実現しよう」(拙著『ヘーゲル「法の哲学」を読む』三七九ページ)としています。それはある意味で民主連合政府によって「ルールある経済社会」を実現しようとするものであり、「民主連合政府の理論的根拠を提供するものとなっているところは、高く評価されるべきもの」(同四一五ページ)ということができます。
 しかし『現象学』における「C 理性」の「C それ自体で自覚的に現にある在るような個人性」の結論に対して、『法の哲学』と同様の評価を下すことはできません。「C 理性」の出発点となったのは、第五講で学んだように、理性は真にあるべき姿としての概念を認識し、実践することで、現実を合法則的に変革し、真理を実現するということでした。この論理からすれば、資本主義に関しても資本主義の概念を把握し、資本主義を合法則的に変革して「人倫の国」とすることが「C それ自体で自覚的に現にある在るような個人性」の課題とされなければなりません。
 『法の哲学』では、国家と社会が明確に区別されているために、国家による市民社会の民主的規制を講じることは資本主義の民主的変革の課題になりえたのですが、『現象学』ではその区別がなされていません。そのため「C 理性」の結論は、資本主義そのものの概念としての社会主義・共産主義を問題にすることなく、資本主義に一般意志という意志の概念を接ぎ木するだけで、資本主義は疎外から回復し、人倫的実体になるという安易な資本主義美化論になっていると同時に、「C 理性」の課題とされた対象の合法則的発展という変革の意識が不徹底なものになっています。ヘーゲルの生きた一九世紀前半には、挫折したフランス革命の精神を継承発展させて、さまざまな社会主義思想が歴史の舞台に登場していたのですから、なおさらその感を強くするものです。 
 こういうヘーゲルらしからぬ論理の一貫性を欠いた資本主義論も、『現象学』をはじめとする哲学体系を放棄する大きな理由の一つになっているのではないかと思われます。またこの変革の立場の不徹底さは、残念ながら第二部「D 精神」の結論にも引きつがれているのです。

 

 

* コラム * 脳とコンピューター

 最近の認知科学の発展により、脳は情報処理機関としてとらえられるようになってきました。それにともない、同じ情報処理機関としての脳とコンピューターとの異同も議論されるようになりました。コンピューターにも意識はあるのか、もしあるとすれば、それは人間と同じような意識なのか、それともそれとは異なる意識なのかも、これからの研究課題となってくることでしょう。
 そうしたことに関連して、ヘーゲルは『現象学』において、人間の意識は、意識から自己意識へ、自己意識から理性へと、真理を求めて発展することを論じています。では、そもそもなぜ人間は真理を求めるのでしょうか。それは脳のはたらきと関係があるのでしょうか。
 哲学は英語で「フィロソフィー」といいます。フィロソフィーはギリシア語の「フィロソフィア」に由来するものであり、「フィロ」とは「愛する」、「ソフィア」とは「知」を意味していますから、哲学とは「知を愛する」学問ということができます。
 ソクラテスは、その哲学によって青年たちを惑わし、神を信じなかったという理由で告訴され、裁判を受けますが、その法廷で「わたしの息のつづくかぎり、わたしにそれができるかぎり、決して知を愛し求めること(哲学)を止めないだろう」(プラトン全集①八三ページ、岩波書店)として、死刑の判決を受け入れるのです。
 こうしてみると、人間はコンピューターとは異なり、知を愛すること、つまり真理を求め愛する存在であるということができると思われます。ではなぜ人間が知を愛し、真理を求めるのかを、脳科学の観点から考えてみると、脳とコンピューターとの違いに起因しているように思われます。
 脳もコンピューターもどちらも情報処理のシステムですが、決定的に違うのは、コンピューターが与えられたプログラムに従って情報を処理し、出力することを目的とするシステムであるのに対し、脳は出力することをつうじてコンピューターのプログラムに相当する「情報処理のアルゴリズム(処理方法)」(松本元『愛は脳を活性化する』五ページ、岩波書店)を獲得、強化することを目的としているシステムということができます。
 いわば脳とコンピューターとでは目的と手段とが逆になっており、脳では情報処理の仕組み(ネットワーク)の形成が目的であって、出力はその手段であるにすぎないのに対し、コンピューターは、出力を目的として、情報処理の仕組みを手段としているのです。
 脳は、経験をつうじて記憶を質・量ともに発展させ、記憶された情報のうち、使用に耐えうるものを知識に変化させ、蓄積させていきます。記憶自体も「外部から取り入れた情報がそのまま保持されているものではない」(仲真紀子編著『認知心理学』一〇六ページ)のであり、ましてや記憶を知識に変えるには「主体による記憶情報や現実世界に対する積極的な働きかけが必要である」(同)と考えられています。すなわち「記憶や知識は外部から受け身的に入ってくるものではなく、記憶主体が自ら積極的に作り上げていくものである」(同)との考えが、一般的なものとされています。こうした知識をつかって「思考(考えること)」がおこなわれます。思考とは、入力された新しい情報が提起した「何らかの問題を解決する」(同一四九ページ)ことを意味していますが、「思考の本質は推論」(同一五六ページ)にあります。こうして脳は「感じる」「知る」「考える」「創造する」というすべての機能をつうじて新しい問題を解決することにより、主体的により発展した神経細胞のネットワーク(アルゴリズム)をつくりあげていくのです。
 このように脳は出力することによって、脳の情報処理の仕組みを発展させますので、知を求め、真理を探究することは、脳にとって神経細胞のネットワークをより発展させる作業であり、脳はその作業を「快または善」として受けとめます。脳は、新しく知ること、真理を探究することによって自らの情報処理能力を発展させることから、こうした作業をすることを「快または善」として受けとめるのです。ソクラテスが哲学することを止められないと言ったのも、それが最も人間らしい心の働きだからということができそうです。