2014年7月26日 講義

 

 

第10講 「D 精神」③
 ─「B 自己疎外的精神、教養」②

 

3.「B 自己疎外的精神、教養」②

② 「 a 自己疎外的精神の世界」(2)

〈 Ⅱ 信仰と純粋透見〉

● 現実の世界から純粋意識(宗教)の世界へ

 ・現実の世界(「教養の世界」305ページ)の彼岸には、「純粋意識もしくは、
  思惟の非現実的な世界が、在る」(同)

 ・「この彼岸世界の内容は、純粋に考えられたもの」(同)だが、それは現実
  をイメージした「表象の形」(同)をとっており、まだ現実から完全に切り
  離された思想(概念)にはなっていない

 ・したがってこの純粋意識は、「まだ現実という領域と規定態」(同)のうち
  にいるキリスト教的=ゲルマン国家における宗教である

 ・すなわち、純粋意識の「問題となっているのは宗教」(306ページ)である
  が、その宗教はまだ「現実から逃避」(同)するための宗教であって、真に
  純粋意識となった「即且対自的に在るような、宗教ではない」(同)

 ・つまり、ここでの宗教は、真の宗教から「疎外されたもの」(307ページ)
  であって、「その意識は、この他者(キリスト教的=ゲルマン国家―高村)
  との結びつきにおいてのみ考察されねばならない」(同)

● 宗教としての純粋意識は2つの意識に疎外(区別)される

 ・宗教としての純粋意識は、「もともと疎外という規定態に従うから、二重の
  意識となって分裂する」(同)

 ・1つは、神を「自己意識のうちで総括」(同)する「純粋透見」(同)であ
  り、この純粋透見は「自分自身をそのまま真理である」(同)と確信するこ
  とにより、カトリック教会という「対象的実在を亡ぼし、それを意識の存在
  にしてしまう」(同)―つまり宗教改革となる意識のこと

 ・もう1つは、権力と癒着したカトリック教会を絶対的実在として認め、それ
  を「単純な内面の純粋意識」(308ページ)として承認する「信仰」(307
  ページ)である

 ・信仰と純粋透見対立し、互いに疎外し合う関係にあるが、は「信仰と純粋透
  見に共通のことは、純粋意識という境位(場)のものであること」(308ペ
  ージ)と同時に「共に教養の現実世界から帰ったもの」(同)

 ・したがって両者は、教養の世界から帰ったものとして「それ自体に自分だけ
  である」(同)側面、「現実世界と関係する」(同)側面、「一方が他方に
  関係する」(同)側面という、3つの側面をもつ

● 信仰する意識の3つの側面

 ・「信仰する意識」(同)における第1の側面は、「絶対的実在」(同)とし
  ての「精神(父)」(同)

 ・この父としての絶対的実体は、「対他存在に移って行き、……現実的な、自
  己を犠牲にする絶対的実在(子)」(309ページ)となる

 ・このイエスという「おとしめられた実体がその初めの単純態(聖霊)に帰っ
  たもの」(同)が「第3のもの」(同)となる

 ・こういう三位一体において「初めて、(絶対的―高村)実体は精神として表
  象されている」(同)―絶対的実在は自己の外にある精神として表象されて
  いる

 ・第2の側面は、「実体が外化」(同)され、現実のものとなった精神として
  のローマ・カトリック教会

 ・カトリック教会は、現世が無価値な「精神なき定在」(同)にすぎず、「神
  に奉仕」(同)、つまり教団への奉仕によって神と一体化すべきだと教える

 ・しかし教団をつうじての自己意識と神の一体化は、教団に媒介された一体化
  にすぎず、「直観された現実的統一」(同)ではない

 ・したがって、この教団への奉仕によっては神との一体化という「その目標を
  完全には達成しえない」(同)

 ・信仰する意識にとって、「精神が自分自身(のうち―高村)に現在している
  という現実」(同)、つまり概念は「自分では現われ出てくることがない」
  (310ページ)

 ・信仰と異なり、純粋透見においては、神は自己自身のうちにある「精神の自
  己意識」(同)―教団に媒介されない自己媒介による確信

 ・これが信仰する意識が啓蒙と関係する「第3の側面」(同)となる

 ・したがって純粋透見は、教団を含む「他なるすべての自立性を、廃棄し」
  (同)、自己の内なる神の概念こそ「すべての真理であるという、自己意識
  的理性の確信」(同)にたって、教会・教団を批判する

 ・しかし、「純粋透見の概念」(同)は、「まだ実現されてはいない」(同)
  のであって、それは宗教改革とフランス革命において「実現すべき目的とし
  て現われる」(同)―それが「Ⅰ啓蒙と迷信の戦」と「Ⅱc 絶対的自由と恐
  怖」

 ・この目的を実現するには、純粋透見を広く普及し、これを「一般的なものに
  すべき」(同)であり、この普及の運動が啓蒙

 ・「かくて純粋透見は、すべての(宗教的―高村)意識に向って、お前達すべ
  ては、自覚的に、お前達自身が本来(自体的に)ある通りのものに、自分で
  なれ、すなわち、理性的であれ、と呼びかける精神である」(311ページ)

③ 「 b 啓蒙」(1)

● 純粋透見は、透見を普及することで現実の世界の変革を求める啓蒙である

 ・「純粋透見が、概念の力を向けている固有の対象」(同)は、「純粋意識の
  形式」(同)における「信仰であるが」(同)、同時に「透見は現実の世界
  にも関係している」(同)

 ・純粋透見は教養の世界における世界の矛盾を理性の力で解決するために、透
  見を普及する―この透見を普及することで無知蒙昧を啓くことになるから
  「啓蒙」とよばれる

 ・すなわち純粋透見は、教養の世界における「定在する全契機が引き裂かれ」
  (同)るという弁証法的対立を、「一般的な像にまとめあげ、すべての人々
  の透見(理念―高村)に、つくりあげ」(312ページ)ることによって、現
  実の世界の変革を求める純粋透見となる

 ・「純粋透見は、こういう単純な方法で、この世界の混乱を解体する」(同)

 ・キリスト教的=ゲルマン国家の「本質となっているのは、集団(国家権力と
  財富)や一定の概念(善・悪)や個人性(君主、貴族、富者、市民)などで
  はなく、現実がその実体と支えをもっているのは」(同)、ローマ・カトリ
  ック教会という「現存する精神」(同)である

 ・純粋透見は、特権と腐敗のカトリック教会に対して、聖書における神の言葉
  のみを真理とし、「信仰に対抗して出てくる限りで、初めて、本来の活動と
  なって現われる」(同)―それがすなわち宗教改革

〈 Ⅰ 啓蒙と迷信の戦〉

● 純粋透見(啓蒙)のもつ否定性

 ・「啓蒙と迷信の戦」とは、ルター、カルヴァンの宗教改革

 ・純粋透見の本質は「絶対的否定性」(315ページ)にあり、信仰を否定する
  のみで「内容がない」(316ページ)

 ・「信仰と透見は、同じように純粋意識であるが、形式的には対立している」
  (同)

 ・信仰にとって、神とはカトリック教会であり、「自己意識に端的に対立」
  (同)しているのに対し、「純粋透見にとっては、本質(神―高村)は自己
  である」(同)

 ・啓蒙と信仰とは「互いに、一方が他方を端的に否定するもの」(同)

● 啓蒙活動(宗教改革)の対象

 ・「純粋透見は、信仰が自分に、つまり理性と真理に、対立したものだと知っ
  ている」(313ページ)

 ・「信仰は、純粋透見からみると、一般に、迷信、偏見、誤謬が織りまぜられ
  たものであるが、更にこの内容の意識は、(封建制権力に―高村)組織され
  て誤謬の国」(同)となっている

 ・誤謬の国を構成するのは「大衆、僧侶、専制政治」(同)という3つの要素。
  つまり、絶対主義的国家権力とカトリック教会という2大権力と、それに支
  配される大衆

 ・僧侶階級は「専制政治と結託」(同)し、「大衆をあざむく悪い意図」(同)
  をもっており、「大衆は僧侶階級の欺瞞の犠牲となっている」(同)

 ・他方専制政治は「欺瞞的な僧侶を手段に使って、大衆の愚昧と混乱を利用し、
  両方を軽蔑しながら支配を安定させ」(同)ようとする

 ・したがって蒙を啓く「啓蒙活動の対象」(同)になるのは、愚昧であって、
  欺瞞の犠牲となっている大衆の「単純な素朴な意識」(同)である

 ・純粋透見は、大衆の「誠実な知見とその無邪気な本質を偏見と誤謬から引き
  離」(同)そうとする

● 啓蒙が信仰とたたかう2つの方法

 ・1つは、啓蒙と信仰とは、純粋意識という共通の場(308ページ参照)にお
  り、「本質的に同じもの」(314ページ)であるから「抵抗のない雰囲気の
  なかで、靄が静かに拡がり流れて行く」(同)ように、「無関心な場にこっ
  そりと伝染して行」(同)く方法

 ・しかし、僧侶と専制政治の厚い壁のもとにあって、この方法は成功しない
  (支配者のイデオロギーは支配的イデオロギー)

 ・そこで、もう1つの方法として、啓蒙は信仰に対して、公然と宣戦布告して
  「暴力的な戦を挑まざるをえない」(315ページ)―つまり宗教改革

● 純粋透見は、信仰をどう否定しょうとするか

 ・純粋透見は、理性の力ですべてを変革して自己のうちに取りこもうとするか
  ら、「全実在(142ページ参照―高村)であり、その他には何もない」(同)

 ・したがってその否定性は「自己自身を否定するもの」(同)でしかない

 ・純粋透見の弾劾する「誤謬乃至いつわり」(同)は、透見の理性がとらえた
  誤謬にすぎない

 ・したがって「啓蒙が誤謬と戦うことの本性は、この(自己のとらえた―高村)
  誤謬のなかで、自己自身と戦いながら、自己が主張することを、弾劾するこ
  と」(316ページ)にほかならない

 ・「したがって信仰は、啓蒙がいつわりであり、非理性、悪しき意図であるこ
  とを経験する」(同)

 ・つまり啓蒙も信仰と同様に真理の基準を自己自身の意識のうちにもつことに
  なるから、お互いに自己の基準で相手を批判しているにすぎない

 ・例えば啓蒙は、信仰が真理とするものは、神という「絶対的実在」(同)で
  あり、それは「意識によって生みだされたもの」(同)と批判する

 ・しかし「意識が自らの見通した対象のうちに、自己自身を認識している」と
  いう点では、啓蒙も同じ

 ・つまり、啓蒙においては「自己としての自己(理性―高村)と対象との一致
  が、意識にとって存在することになる」(同)が、「この意識こそは、また
  信仰」(同)の意識でもある

 ・というのも、信仰上の絶対実在はカトリック教会という「教団の精神」(同)
  であり、信仰における「抽象的実在と自己意識との統一」(同)は教団とい
  う「対象と自己の一致」ということになるから

 ・また他面からいうと、啓蒙にとって対象は自分とは「別のもの」(同)だか
  ら、「信仰上の実在」(318ページ)を「見知らぬもの」(同)と批判する

 ・すなわち「手品師のような僧侶の呪文によって、何か絶対に見知らぬものが
  ……(絶対的―高村)実在の代りに、意識に押しつけられたかのように言」
  (319ページ)うことで、「僧侶がだますとか、民衆をいつわる」(同)と
  して信仰を批判する

 ・しかしそういいながら、他方で啓蒙は、勤行は「自己自身とその実在」(同)
  との統一をつくり出すということで、啓蒙が批判した「見知らぬもの」が
  「意識にとり最も固有なもの」(同)だとする

 ・これでは「自分こそ意識的ないつわり」(同)をしていることになる

 ・結局、啓蒙と信仰とのちがいが、自分自身のうちにある絶対的なものを理性
  とするか、神とするかのちがいにすぎず、したがって啓蒙の信仰批判は成り
  立たない

 ・そもそも「意識が直接自己自身を確信しているような、実在についての知の
  場合」(同)、つまり自己自身のうちに真理の基準をもっているような意識
  の場合には、「いつわりの思想などは全然成り立たない」(同)のである

● もう少し具体的に啓蒙の信仰批判をみてみよう

 ・1つには、純粋透見は、信仰が対象とする絶対実在は「純粋思惟」(319ペー
  ジ)にすぎず、実在しない、と批判する

 ・透見が「意識の固有の対象」(同)とするものは「感覚的確信という普通の
  存在する事物」(同)であるところから、透見は、あたかも「信仰の対象」
  (同)である神も同様に「一片の石、一片の木」(同)から作られた偶像や、
  聖さん式における「パン粉」(同)であるかのようにとらえて批判する

 ・しかしこれは、「神聖な精神であるものを、現実の移ろい易い物にしてしま
  い、感覚的確信という、それ自体では空しい見解によって、汚してしまう」
  (同)もの

 ・もともと信仰にとっては、神は絶対実在であると同時に「物」という「もま
  た」(同)であって、「石その他のようなもの自体があるのではなく、自体
  であるのは、純粋思惟の実在だけだと、知っているのである」(同)

 ・2つには、啓蒙は、信仰が神が実在するとする根拠は「偶然の出来事につい
  ての偶然の知」(320ページ)にすぎない、と批判する

 ・すなわち啓蒙は、信仰が神の実在を確信する根拠は「文字や紙や筆耕など」
  (同)の「個別的な史的証拠に基づいている」(同)が、これらの証拠は
  「偶然の出来事についての偶然の知」(同)にすぎないと批判する

 ・しかし信仰とは、「自分を自分と媒介」(同)によって神を確信する「純粋
  知」(同)だから、神の実在の確信に根拠は不要

 ・そもそも純粋透見も「純粋知」なのに、それを「自覚」(同)することなく、
  したがって信仰の「純粋知」にも気づかず、証拠を要求するもの

 ・3つには、純粋透見は信仰が禁欲や喜捨という勤行によって神と一体化する
  というのは「合目的ではなく、正しくない」(321ページ)と批判する

 ・しかし透見は、一方では「理性的であれ」(311ページ)とよびかけ、自然
  的自己を「超え高まることが必要であると、主張」(322ページ)しながら、
  他方で「この高まりを、行果によって証明すべきであるというのは、愚かで
  あり、正しくない」(同)というのだから、矛盾している

● 啓蒙の肯定的要素

 ・以上みたように啓蒙の信仰批判は、内容のない単なる否定性のため、根拠が
  ないといえるが、しかし啓蒙にはもっと積極的な「肯定的実在」(同)があ
  るのではないかを検討してみよう

 ・すなわち、啓蒙によって「すべての偏見と迷信が追放され」(同)た場合に
  「啓蒙が普及させた真理とはどんなものか」(同)という問題

 ・1つには、啓蒙が絶対実在としての神を「どんな規定もどんな述語も、付け
  られえない」(同)「真空」(同)としてとらえたのは、「見識ある生き方」
  (同)である

 ・というのも、絶対実在は無限に豊かな内容をもつものであるのに、これを規
  定することは無限態を「有限態」(同)にかえてしまうことになるからであ
  る

 ・2つには、啓蒙はこうして信仰により「絶対実在の外に排除された……個別
  性一般」こそが、「絶対的なそれ自体に自分で存在するもの」(同)という
  唯物論の立場を明確にしたことである

 ・この啓蒙の立場は、これまでのすべての意識の経験をつうじて、感覚的確信
  こそがいっさいの意識の出発点となるという、意識の「初めの形態につれも
  どされ」(323ページ)、その「肯定的真理」(同)を確証することになっ
  た

 ・ここはイギリス唯物論の祖であるベーコンの「感覚は誤ることのないもので
  あり、すべての知識の源泉である」(全集② 133ページ)を念頭においたも
  の

 ・3つには、「個々の実在と絶対的実在の関係」(同)の問題である

 ・啓蒙は、絶対的実在を「空しいものとしている」(同)から、空しいものと
  「感覚的現実」(同)との関係は、「任意に、つくられうる」(同)のであ
  って、「現実を否定することもあれば、措定することでもある」(同)こと
  になる

 ・言いかえると、感覚的現実は、神と無関係に自立しているともいえるし、神
  に媒介されているともいえることになる

 ・その結果「個々の実在」相互の関係は「自体的(自分だけで存在する―高村)
  でもあれば、対他的(他者との関係において存在する―高村)でもある」
  (324ページ)ということになる―つまり、すべてのものは直接性と媒介性
  の統一であり、他者との関係をもつから相互に「有用なもの」であって、無
  駄なものは一つもない

 ・啓蒙は、「すべてのものは有用」(同)としてとらえ、人間もまた「この関
  係を意識している物」(同)として、「人間にとりすべてのものが有用であ
  るように、人間もすべてのものにとり有用なのである」(同)としてとらえ
  ることになる

 ・つまり「異なったものは異なった仕方で、互いに有用」(325ページ)である

 ・その意味では啓蒙にとって「全くのご利益そのもの」(同)でしかない「宗
  教は、それゆえ、あらゆる有用のなかでは、最も有用なもの」(同)という
  ことになる

● 信仰にとって、以上述べた「啓蒙の肯定的結果」(同)は
 「戦慄すべきこと」(同)

 ・啓蒙は「信仰のなかに絶対実在、最高存在、つまり空しいもの以外には何も
  見ない」(同)。しかも、神聖であるべき神への信仰までをも功利主義の見
  地から「あらゆる有用性のなかでは、最も有用なもの」としてとらえる

 ・それは信仰をもっぱら現世のご利益としてとらえるものであって、「ただも
  うあさましいこと」(同)

 ・信仰からすれば、啓蒙の「この知恵」(同)は「愚論の告白」(同)である

 ・つまり、啓蒙は「絶対実在については何も知らない」(同)のであって、知
  っているのは「有限性についてだけ」(同)

 ・「有限性が真理である」(同)と考えているところに「啓蒙の本質が在る」
  (同)

● 啓蒙は信仰のもつ矛盾をとらえて信仰を追放する

 ・啓蒙は、信仰の「神の正義」(同)に対し、「人間が正義」(同)を提起し、
  自己の正義が「絶対的な正義」(同)であると主張

 ・というのも、啓蒙の正義は、対立を意識し、「ただ自分だけで在るのではな
  く、自分の反対をも侵す」(326ページ)「自己意識の正義」だから

 ・信仰する意識は、自己の原理に対立する2つの契機があることに気づかない
  のに対し、啓蒙は2つの契機が対立する関係にあることをとらえ、その「矛
  盾を明るみに出す」(327ページ)ことで、「信仰に行使する権力の絶対的
  権利」(同)をもっている

 ・すなわち1つには、啓蒙は、絶対実在は「意識によって生みだされたもの」
  (同)であって、実在しないと批判する

 ・信仰する意識からすると、絶対的実在は「意識にとり、それ自体で存在して
  いるもの」(同)であると同時に、神への「服従と奉仕」(同)という「自
  己の行為を通じて」(同)、「この実在を、自分の絶対的実在として」(同)
  生みだすものでもある

 ・しかし啓蒙は、後者のみに注目し、服従と奉仕という行為によって実在しな
  いものを意識のうちに生じたと批判する

 ・2つには、信ずる意識の「あがめる対象は、石であり、木で」(328ページ)
  あると批判する

 ・しかしもともと信ずる意識とは、現世とその彼岸に「分裂した意識」(同)
  であって、神はこの2つの世界にまたがって存在していると考えられている
  から、「一方では純粋実在であり、他方では普通の感覚的な物」(同)とす
  る

 ・ところが啓蒙は、石や木が神の「規定態」(同)であるにもかかわらず、そ
  れを絶対的実在と無関係な「動かし得ない有限として遊離させ」(同)、批
  判する

 ・3つには、信仰のいう神の実在性の根拠は、処女懐胎、イエスの奇跡、イエ
  スの復活昇天といった「偶然の知」(同)にすぎない、と批判する

 ・たしかに、これらの根拠は司祭という「見知らぬ第3者によってひき起こさ
  れる媒介」(同)でもあるが、他方で信仰する意識の神の実在の確信は、自
  己媒介による確信

 ・しかし啓蒙は、「偶然な知のことだけを考えて、もう一方を忘れ」(同)、
  信仰する意識を批判する

 ・4つには、啓蒙は信仰が「享楽や所有を投げ出すことが正しいことでなく、
  合目的でない」(同)と批判する

 ・「正しくない」というのは、享楽や所有の「犠牲が小さな部分でだけ行われ」
  (329ページ)るだけであり、反面からすると「一層かたくなに所有を主張
  し、一層粗野な形で、享楽に身を委せる」(328ページ)ことになるから

 ・「合目的でない」というのは、「一般的なものである目的」(329ページ)
  実現のために、「個別的なものである実行」(同)で足りるとするのは、
  「余りにも単純素朴」(同)であるから

 ・しかし啓蒙自身は享楽や所有を楽しんでいながら、信ずる意識の矛盾を批判

 ・「こうして啓蒙は、信仰にたいして、抵抗できないほどの権力をふる」 (同)
  い、信仰のもつ「二重の物差し」(330ページ)のもつ矛盾を批判する

 ・信仰は啓蒙による「二重の世界」(同)の矛盾を指摘する宗教改革によって、
  純粋意識の「国から追い払われ」(同)ることになる

 ・しかし「信仰は、実際には啓蒙と同じ」(同)一面的なもの

 ・というのも「啓蒙の光をあてられた」(330ページ)のは、有限性のみであ
  り、無限性は「空しい彼岸」(同)にとどまっている

 ・したがって啓蒙は、この二面性を乗りこえ、「Ⅱ 啓蒙の真理」へと前進しな
  ければならない

 

*** *** *** *** コラム *** *** *** ***

〈史的唯物論と啓蒙思想、宗教改革〉

■ 史的唯物論は啓蒙思想をどうとらえるか
(1)啓蒙思想は台頭するブルジョアジーの封建制への
   たたかいの思想として登場

 ・「封建制の大きな国際的中心はローマ・カトリック教会であった」(エンゲ
  ルス『空想から科学へ』英語版序文、全集⑲ 553ページ)
 ・「ローマ教会の権利主張との闘争を最も直接に利益とする階級はブルジョア
  ジーであった」(同)
 ・「この当時には封建制にたいする闘争はすべて宗教的仮装をつけなければな
  らず、まず第1に教会に矛先を向けなければならなかった」(同)
 ・啓蒙思想はブルジョアジーの封建制に対する階級闘争のイデオロギーとして
  登場
 ・「封建制に対するブルジョアジーの長い闘争は、3つの大決戦で頂点に達し
  た」(同)―16世紀の宗教改革とドイツの大農民戦争、17世紀のイギリ
  ス革命(ピューリタン革命と名誉革命)、18世紀から19世紀にかけての
  フランス革命
 ・ヘーゲルが啓蒙思想と信仰とのたたかいとしてとらえ、近世を宗教改革、フ
  ランス革命を論じたのは、時代認識としても正しい

(2)啓蒙思想は近世の唯物論として誕生し、
   社会主義に必然的に発展していく

 ・近世の哲学は、唯物論か観念論かの対立を鮮明に
 ・啓蒙思想(17、18世紀のイギリスの啓蒙思想にはじまり、18世紀のフ
  ランス啓蒙思想、18、19世紀のドイツの啓蒙思想)は、唯物論の歴史を
  示すもの
 ・マルクスは、「聖家族」のなかの「フランス唯物論に対する批判的戦闘」
  (全集② 130ページ以下)において、啓蒙思想の歴史を唯物論の歴史として
  とらえている
 ・ブルジョアジーのローマ・カトリック教会に対するたたかいは、唯物論の観
  念論に対するたたかいとして始まる
 ・ベーコンに始まる「唯物論はイギリスの生みの息子」(同133ページ)であ
  り、認識論における「経験論」(同)と社会にかんする啓蒙思想の2本柱か
  らなる
 ・唯物論は、社会の現実を直視することによって、社会批判の啓蒙思想に必然
  的に発展した
 ・ホッブス、ロックのイギリス啓蒙思想はイギリス革命と結びつき、またそれ
  はフランス啓蒙思想に引きつがれてフランス革命の思想的土台に
 ・フランス唯物論は「直接に社会主義と共産主義とにそそいでいる」(同136
  ページ)
 ・「というのももし人間がその環境によってつくられるとすれば、ひとはその
  環境を人間的なものにつくっていかなければならない」(同136ページ)と
  して社会主義・共産主義につながるのは必然的とする
 ・フランス革命の影響を受けてドイツ啓蒙思想が生まれる
 ・カント哲学は「フランス革命のドイツ的理論」(全集① 93ページ)であり、
  ヘーゲルは一層そうである
 ・ドイツ啓蒙思想から、科学的社会主義誕生

(3)史的唯物論は啓蒙思想が唱える理性のもつ二面性を明らかにした
 ・ローマ・カトリック教会のスコラ哲学は、天地創造、処女懐胎、イエスの奇
  跡、イエスの復活昇天などの非合理を含む哲学
 ・したがって、啓蒙思想によるキリスト教的=ゲルマン国家への批判は、理性
  を武器として展開された
 ・理性は、非合理、迷信、偏見をしりぞけることで、近代哲学の基礎を築く
 ・フランス啓蒙思想家は「いっさいのものが、理性の審判廷に立って、自分が
  存在してもよい根拠を立証するか、それができなければ、存在することを断
  念しなければならない、と彼らは考えた」(エンゲルス『空想から科学へ』
  全集⑲ 186ページ)
 ・その意味では、ヘーゲルが「純粋透見」(理性の力)というカテゴリーを使
  用し、「純粋透見が、概念の力を向けている固有の対象」(311ページ)を
  「信仰」(同)とし、啓蒙思想を純粋透見の「普及」(312ページ)ととら
  えているのは基本的に正しい
 ・他方で史的唯物論は、感性、知性から切り離された理性は、「なにかの種類
  の世界創造を認め」(全集㉑279ページ)る観念論となることを明らかに
 ・理性第1の「大陸の合理論」(デカルト、スピノザ、ライプニッツ、ヴォル
  フ)は、世界図式論として「大陸の観念論」となったことを明らかに
 ・ヘーゲルも理性のもつ2つの側面を正しくとらえた

■ 史的唯物論は宗教改革の本質をどうとらえるか
 ・「ブルジョアジーが台頭してきたとき、封建的なカトリック教に対抗してプ
  ロテスタント的異端が発展してきた」(『フォイエルバッハ論』全集㉑ 309
  ページ)
 ・「プロテスタント的異端もまた、すでにはやくから、ブルジョワ的に穏健な
  ものと、……平民的に革命的なものとに分かれていた」(同)
 ・宗教改革は、ドイツのルターに始まり、大農民戦争に発展するが、都市市民
  が見殺しにしたため、革命は敗北
 ・「それは絶対君主制に適応した宗教であった。北東ドイツの農民は、ルター
  派教会に改宗するやいなや、自由人から農奴におとされてしまった」(全集
  ⑲ 554ページ)
 ・他方フランス人カルヴァンは、「宗教改革のブルジョワ的性格を全面に押し
  だし、教会を共和化し、民主化した」(全集㉑ 310ページ)
 ・「ルターの宗教改革はドイツで堕落してドイツを破滅させたが、カルヴァン
  の宗教改革は、ジュネーブ、オランダ、スコットランドで共和主義者たちの
  旗じるしとして役立ち、オランダをスペインとドイツ帝国とから解放し、ま
  た、イギリスでおこなわれていたブルジョア革命の第2幕にイデオロギー的
  衣装を提供した」(同)
 ・イギリス革命後のイギリスブルジョアジーは、かつてイギリス革命において
  「国王や領主とたたかったさいに旗印になった」(全集⑲ 556ページ)宗教
  が、勤労者を「主人の命令に従順ならせるのに好都合であることを発見」
  (同)し、この目的のために「宗教の影響力」(同)を手段として用いた
 ・結局宗教改革のもたらしたものは、ルター派のような現状肯定か、カルヴァ
  ン派のようなブルジョア的宗教への変革という枠内にとどまった
 ・ヘーゲルが、「啓蒙と迷信の戦」(318ページ以下)において、啓蒙(宗教
  改革)と信仰の対立について述べながら、他方で「両者が本質的には同じも
  の」(314ページ)と述べているのは、結局ブルジョア的土台の枠内のたた
  かいだったことを見ぬいていたのかもしれない
 ・今日では、ヨーロッパの保守政党のほとんどすべてが、キリスト教徒と手を
  結び、全体としてキリスト教が支配のイデオロギーとなっていることは衆知
  の事実となっている