2014年8月23日 講義

 

 

第11講 「D 精神」④
─「自己疎外的精B 神、教養」③
─「C 自己確信的精神、道徳性」①

 

3.「B 自己疎外的精神、教養」③

③ 「 b 啓蒙」(2)

〈 Ⅱ 啓蒙の真理〉

● 啓蒙の真理は、自己と物との無限判断

 ・「観察する理性」の最後で、概念に媒介された「物は自己であり、自己は物
  である」という無限判断が、主観と客観の一致を示す主観的精神における真
  理、絶対知としてとらえられた

 ・この自己と物との無限判断を資本主義社会における商品生産として示したの
  が「有用性」のカテゴリーという「啓蒙の真理」

 ・「自体的には(即自的には―高村)概念である純粋透見が、自己を実現する
  ことによって」(331ページ)「純粋な物」(同)が生成し、主観と客観の
  同一を実現しようとする

 ・したがって、純粋透見は「純粋な物としての純粋な思惟になる」(同)

 ・しかし、純粋透見は「まだ疎外の段階にあるために」(同)、この主観と客
  観という2つの側面が「等しいものであること」(同)、つまり主観と客観
  の同一は物の「真にあるべき姿」という概念に媒介されてはじめて実現され
  るのに、純粋透見は「そのことを認識しない」(同)

 ・自己と物との同一をめざす啓蒙は、唯物論と観念論という「2つの党派に分
  裂する」(同)

 ・一方は「純粋思惟」(332ページ)、つまり精神を「出発点」(同)とし、
  他方は「絶対実在」(同)、つまり「物質」(同)を出発点とする

 ・しかしヘーゲルによると両者は「同一の概念」(同)であるが、「区別があ
  るとすれば……出発点のちがい」(同)による区別にすぎない

 ・唯物論も観念論も「自体存在と思惟が同一であるという、デカルト形而上学
  の概念に到達していない」(同)―概念に媒介された自己と物との同一性と
  してとらえていない

 ・唯物論と観念論の対立を出発点にちがいにすぎないとしているのは問題だが、
  ヘーゲルのいいたいことは、商品生産とは物から自己へ、自己から物への無
  限判断をつうじて、物の概念が浮かびあがるということ

● 自己と物との無限判断は有用性として示される

 ・自己と物との無限判断としての商品の生産が有用性であることは、「絶対知」
  で明示される

 ・自己と物との無限判断ということは、物は「それ自体では何物でもない」
  (442ページ)のであって、「自我との関係によってのみ意味をもつ」(同)
  ことを示している

 ・商品は自我にとって有用(使用価値をもつ)である限りで、流通しうる商品

 ・啓蒙にとって「物はただ有用であり、有用性の点から考察さるべき」(443
  ページ)

 ・啓蒙の自己意識は「自らを外化することによって、物を自己自身として生み
  出し、……物が本質的には対他存在にすぎないことを、知っている」(同)

 ・商品という物は、自己との関係において有用であることによって、他者との
  関係においても有用であるという二重の意味で「対他存在」

 ・したがって、有用性は啓蒙の真理

 ・二重の意味の対他存在としての有用性は、「自体存在と対他存在と自独存在」
  (334ページ)という3つの「契機が(無限に―高村)交替し合うだけで、
  自己自身には帰らない動き」(同)である

 ・すなわちこの無限判断は、「自独存在」としての自己が、それ自体として存
  在する「自体存在」としての物を加工し、自己と他者にとって有用な「対他
  存在」に変えていく無限の運動であるが、まだ物の「概念(真にあるべき
  姿)」は認識していないので、「自己自身には帰らない動き」にすぎない

 ・つまり、有用性とは、「純粋透見が自分を完全に(物のうちに―高村)実現
  し、自分自身の対象とするもの」(334ページ)

 ・「有用なものは、(自己と物という)両契機が休むことなく交替すること」
  (同)

 ・純粋概念は、「自分を完全に実現」(同)するものではあっても、まだ物の
  「概念」を実現するものではない

 ・したがって「その意識は、存在と概念自身の統一」(同)という絶対知には
  「まだ行き着いていない」(同)が、それに接近するもの

 ・知の目標は、「知が自己自身を見つけ、概念が対象に、対象が概念に一致す
  るところ」(61ページ)にあり、それが絶対知

 ・こうしてヘーゲルは、有用性において、「純粋透見は、自ら満足した現実の
  意識」(同)となり、有用性は「観念的並びに実存的(唯物論的―高村)な
  これまで全世界の真理」(同)となる、という

 ・ヘーゲルは、資本主義社会における人と人との関係の真理を「ことそのもの」
  (231ページ)としてとらえるとともに、人と物との関係の真理を有用性と
  してとらえ、これを資本主義社会の「現実の原理」(同)としている

 ・「有用なものが対象となる」(336ページ)限りにおいて、自己意識は「対
  象の真の本質」(同)が対他存在であることを見透すのであり、「真の知」
  (同)となる

 ・同じように、自己意識は、自己と物との関係の真理は、「存在と概念自身の
  統一」、つまり理想と現実の統一にあることを見透す

④ 「c 絶対自由と恐怖」

● 絶対自由

 ・「絶対自由と恐怖」とは、一般意志にもとづく人民主権を求めてたたかわれ
  たフランス革命と、その一環としての恐怖政治を意味しており、主観的精神
  の「徳と世の中」(222ページ)に相当

 ・意識は有用性において自らの概念(が理想と現実の統一であること―高村)
  をみつけた」(336ページ)が、「この目的を直接にはまだ手に入れていな
  い」(同)

 ・有用性における物の「内的な変革」(同)から、「現実を現実的に変革する
  こと、意識の新しい形態、絶対自由が現われ出てくる」(同)

 ・絶対自由とは、対他存在が「自己に帰って行」(337ページ)くことにより、
  もはや他者をもつことのない絶対的主体の自己意識

 ・「かくして精神は、絶対的自由として現存すること」(同)になり、絶対自
  由の自己意識は「世界は直ちに自らに意志であり、この意志は一般意志(ル
  ソー)である」(同)とする

 ・すなわち絶対自由の自己意識は、ルソーのいう「一般的意志」(同)、つま
  り人民の真にあるべき意志を概念にかかげた自由であり、この絶対自由によ
  り理想と現実の統一した世界を実現しようとする

 ・「われわれの各々は、身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高
  の指導の下におく」(『社会契約論』31ページ、岩波文庫)

 ・ルソーの一般意志は、分割しえない主権という「未分の実体」(337ページ)
  として「世界の王座にのぼ」(同)り、「いかなる威力も、それに対抗する
  ことはできない」(同)

 ・というのも、一般意志において「対象が概念になるのだから、対象には、存
  立するようなものは、何もない」(同)ことになり、「否定性が対象の全契
  機に浸透」(同)するから―一般意志の行使としての主権に反するものは全
  て否定される

 ・したがって、一般意志を統治原理とすることにより、「いろいろな区別を
  もった精神的集団も、個々人の制限された生活も」(338ページ)一般意志
  へ の服従を求められ、「共に廃棄」(同)される

 ・「こうしていかなる積極的な仕事も行果も、一般的自由をもたらすことはで
  きない。この自由に残されたことは、……消えゆく狂暴にほかならない」
  (339ページ)

● 恐怖政治

 ・その結果、一般意志にもとづく絶対的自由は、「単純で不屈で冷酷な一般と、
  ……利己的点のような態度をとる現実の自己意識と、に分れる」(同)

 ・この両極の関係は、「全く媒介できないただの否定」(340ページ)であり、
  「一般的自由の唯一の仕事及び行果は、死である」(同)

 ・いまや「絶対に自由な自己意識は、自分の実在する姿が、実在自身の概念と
  は、全く別のものであることに気がつく」(同)

 ・「一般的な意志は、個人格に対しては肯定的なもの」(同)であるはずなの
  に、「否定的本質に転換し」(341ページ)し、「死の恐怖」(340ページ)
  をもたらす

● 絶対的自由から道徳的精神に

 ・こういう経過を経て、絶対自由としての一般的意志は外界に向けられるべき
  ではなく、自己自身に帰り「自己自身としての真にあるべき意志」という
  「純粋知であり純粋意欲」(342ページ)、つまり道徳的意識となる

 ・「こうして絶対的自由は、一般的意志と個別的意志の対立」(343ページ)
  を自己のうちにおいて「自分自身と和解させる」(同)

 ・「絶対的自由は、自己自身を破壊する現実から出て、それとは別の自己意識
  的精神の国(ドイツ)に移る」(同)

 ・この新しい精神の国で、絶対的自由は、「道徳的精神」(同)という新しい
  形態をとることになる

 

4.「c 自己確信的精神、道徳性」①

〈カントの道徳論とその批判〉

● ヘーゲルの道徳論は、カントの『実践理性批判』を前提としている

 ・道徳とは、社会において人間としてどう生き、かつ行動すべきかの内面的真
  理を探究する理論

 ・ヘーゲルの道徳論は、カントの道徳論である『実践理性批判』を前提とし、
  その批判として展開される

 ・カントの『実践理性批判』は、それまでの感性にもとづく幸福主義という恣
  意的な道徳論に対し、実践理性にもとづく画期的な道徳論を展開

 ・幸福主義(功利主義)とは、人間の最高の目的は幸福(快)にあり、快をも
  たらす行為は効用あるもの(有用性)であって道徳的である、とする(ベン
  サムの「最大多数の最大幸福」に代表される)

 ・カントの道徳論は自然的意識としての感性に対し、道徳的意識としての理性
  を対立させ、自然的意識は必然性に支配されているのに対し、理性的意識は
  自由な意志をもつとするところから出発する

 ・自由な意志をもつ人間が、心のうちに「どう行動すべきか」という理性の命
  ずる道徳的義務を感じるところに「純粋理性の事実」としての道徳法則があ
  り、この道徳法則にただ「尊敬の念」をもって従うところに、理性的自由が
  ある

 ・この道徳的義務に反する行為にでるとき、心のうちに疚しさと後悔と呵責の
  念が生じるのであり、そこに「道徳法則への尊敬の念」がみられる

 ・この道徳的義務の履行を命じる命令とは、見返りを期待するような条件的な
  ものではなく、無条件的なものでなくてはならず、義務は義務のためになさ
  れなければならない

 ・その義務による命令は、仮言的命令や選言的命令のような考えられるいくつ
  かの命令(「多くの義務」348ページ)ではなく、「定言的命令」とよばれ
  る無条件的な唯一の命令であり、それが真の道徳法則

 ・仮言的命令とは、「もし病気をなおしたければ、医者に行くべし」というよ
  うなものであり、選言的命令とは「暴力団に脅されたときには、弁護士か、
  警察か、別の暴力団に行くべし」というようなもの

 ・定言的命令の根本形式は「汝の意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理
  となるように行為せよ」というものであり、これがすべての行動を律する唯
  一の道徳法則となる

 ・つまり自分が実践しようと思うことを万人が実践しても矛盾が生じないよう
  に行為せよ、という命令である

● ヘーゲルの『現象学』におけるカント批判

 ・カントの道徳論は、道徳と自然、理性と感性、などの対立する2つの契機を
  調和させようとするものだが、それを概念的に統一しようとしないため、
  「思想なき矛盾の全巣窟」(352ページ)におちいっていると批判

 ・そのためカントは道徳的目標の達成をまじめに望まず、矛盾の存在をごまか
  す「おきかえ」(同)に終始することになると批判

 ・しかしヘーゲルのカント道徳論批判は、後年の『法の哲学』では、実践理性
  の中心課題が道徳論におかれていること自体に向けられる

 ・つまり人間の実践においてもっとも重要なのは内面的な道徳的実践ではなく
  て、社会的実践であるとされ、道徳の上位に「人倫」(家族、社会、国家)
  がおかれ、社会変革こそが最高の実践理性の課題とされる

〈「c 自己確信的精神、道徳性」の概要と構成〉

 ・「自己確信的精神」とは自らのうちに真理の基準があることを確信している
  精神であり、最終的には「良心」(360ページ)を意味している

 ・「c 自己確信的精神、道徳性」は「序論」「a 道徳的世界観」「b お
  きかえ」「c 良心、美しき魂、悪とその赦免」の4部分で構成

 ・「序論」では、道徳的世界観とは自己のうちにいかに生き、行動するかの真
  理があると確信している精神であること、それは自己意識が自然的自己を乗
  り越えて、自ら義務を知り、行う運動であり、絶対的自由の意識であること
  が、論じられる

 ・「a 道徳的世界観」においては、カントの道徳論が紹介される。そこでは
  義務のみが本質的であること、その義務は道徳的意識と自然的意識、理性と
  感性の2つの調和の要請から生じること、さらに道徳的に行為するときには、
  多くの義務と純粋義務との対立が生じ、「聖なる立法者」(349ページ)、
  つまり神という第3の要請が生じること、しかし、道徳的世界観はこれらの
  対立を「表象する」(ごちゃまぜにする)だけで、概念に統一せず、そのた
  め「b おきかえ」という目先のごまかしが生じることが、論じられる

 ・「b おきかえ」では、カントの道徳的世界観は矛盾の巣窟であること、そ
  の矛盾は道徳性と自然、理性と感性、純粋な義務と多様な義務の対立として
  示されること、これらの2つの契機は、いずれもその反対の契機に「おきか
  え」られることで、矛盾をごまかされること、意識はこの「おきかえ」に嫌
  気がさして、良心に移行することが、論じられる

 ・「c 良心、美しき魂、悪とその赦免」では、まず、「良心」とは、道徳的
  意識とことなり、無媒介の統一のうちにある道徳的精神であること、自己は
  良心という道徳的法則をもつことによってはじめて義務にかなった道徳的行
  動をなしうること、しかし良心は「絶対至上の独裁権」(369ページ)であ
  るから、他人に承認されないこともあることが論じられる。次の「美しき魂」
  とは、良心に基づく行動が恣意的になり、「悪」となることをおそれて、行
  動にでない「空しい無」(380ページ)としての良心である。しかし良心は
  行動してこそ良心であり、良心にもとづく行動の一面性を相互に承認し、
  「赦免」することによって、精神は個と普遍の統一としての絶対知となる、
  ということが論じられる

① 序論

● 道徳性とは、自己自身のうちにいかに生き、行動するかの真理があると
 確信している精神

 ・「個別的な自己が、この世界の運命であり、真理であること」(343ページ)
  は、人倫的世界が死に、「法の国の人格」(同)ではじめて示されたが、そ
  れは疎外された精神

 ・自己疎外の精神は、教養の国をつうじて疎外からの回復を求め、「絶対自由」
  に至るが、それは恐怖政治という結果に終わる

 ・こうしていまや自己意識は自己自身のうちに真理があることを確信し、その
  実現をめざすことで、自己のうちに疎外からの回復を求めようとする道徳的
  意識となる

 ・こうしていまでは、「対象は意識自身にとり自己の確信」(同)となってお
  り、自己自身のうちに存在する「純粋知」(同)の確信となっている

 ・この自己確信の精神は、「直接的にもまた絶対的に媒介された形でも、自己
  意識と不可分の統一をなしている」(同)

 ・直接的にというのは、「自己意識自らが義務を知り行い、自らの本性として
  の義務に従うから」(344ページ)

 ・絶対的な媒介というのは、「直接的な定在」(同)としての自然的自己意識
  を廃棄し、「自ら一般者(理性的自己意識―高村)になる自己の運動」(同)
  だから

● 道徳的意識は絶対に自由な意識

 ・つまり、道徳的な自己意識は、「全対象性と世界」(同)を自己のうちに引
  き入れ、その対象性のなかで自己がどう行動すべきかの回答を与える

 ・したがって「自己意識は、自らの自由を知っている点で、絶対に自由」(同)
  である

 ・人間は自己のうちに生き方、行動の真理としての絶対的な「当為」を確立し、
  それに到達することを義務として行動するという意味で、絶対自由であり、
  それが道徳性の立場

② 「 a 道徳的世界観」

● カントの道徳的世界観の形成

 ・カントは、自己意識は、「義務によってのみ制約されて」(同)おり、「義
  務が絶対的実在であると知っている」(同)

 ・その義務とは「道徳的な即且対自有(真にあるべき姿―高村)と自然的な即
  且対自有(現にある姿―高村)」(345ページ)との対立から生じる義務で
  ある

 ・そこから、3つの要請が生じることになる

● 道徳性と自然(幸福)の調和の要請(第1の要請)

 ・この道徳的世界観においては「道徳的意識一般が前提されている」(同)

 ・道徳的意識一般にとって「義務」(同)は本質であり、「その現実と行為に
  おいて、義務を充たすことになる」(同)

 ・この道徳的意識に対立するのが、「自然という前提された自由」(同)、つ
  まり自然的意識

 ・自然的意識にとって、その要求が充たされた状態が「幸福」(同)である

 ・道徳的意識は、自然的意識を「含」(同)んでいるから「幸福を断念するこ
  と」(同)も「捨て去ること」(同)もできない

 ・したがって、「道徳性と自然の調和」(346ページ)、言いかえると「道徳
  性と幸福の調和」(同)が「要請されている」(同)ことになる

 ・この調和の要請は、理性が前提となる「理性の要求」(同)から生まれる
  「理性の直接的確信」(同)

● 理性と感性の調和の要請(第2の要請)

 ・意識とは、まず「自然的なもの」(同)としての「感性」(同)であり、そ
  れは純粋意志という理性に対立している

 ・「現実的な道徳性」(347ページ)とは、「理性と感性」(346ページ)の
  対立を前提として、両者の「統一」(347ページ)という第2の要請から生
  じる

 ・しかし、理性と感性の統一は、「感性が道徳性に適う」(同)ことを「要請」
  (同)するにすぎない

 ・道徳性は、この統一に向かって「絶えず前進していくべき」(同)であるが、
  「その完成は無限の先に押しやられて」(同)おり、その完成は「絶対的課
  題として、考えられるべきもの」(同)にすぎない

 ・「課題に止まっているのに、なお実現さるべきだという課題の矛盾」(348
  ページ)こそ、「道徳性の矛盾」(同)

●「聖なる立法者」(349ページ)の要請(第3の要請)

 ・この道徳性の矛盾から「道徳性と対象的自然との調和」(348ページ)と
  「道徳性と感性的意志との調和」(同)という2つの「要請」(同)が生じ
  る

 ・これら2つの要請を「結びつけるものは、現実的行動自身の動き」(同)で
  あり、現実的行動は、具体的義務の履行として示される

 ・行動は、「多様な現実」(同)を反映して「多様な道徳的関係とを含んでい
  る」(同)から、「多くの義務」(同)、つまりカントのいう仮言的命令や
  選言的命令のもとでの義務を生みだすことになる

 ・しかし、「もともと道徳的意識に妥当するのは、それらの中での純粋義務だ
  け」(同)、つまりカントのいう定言的命令だけである

 ・したがって「多くの義務としての義務を神聖なものとする」(349ページ)、
  つまり純粋義務に高めるには、「聖なる立法者」(同)としての神という第
  3の要請が必要になってくる

 ・言いかえると、純粋義務が成立するのは、神の存在という「現実的意識の外
  のこと」(同)となるので、結局現実的意識は「不完全な道徳意識」(同)
  ということになる

● 表象としての道徳的世界のもつ矛盾

 ・「道徳的自己意識の概念」(350ページ)からすると「純粋義務と現実とい
  う2つの側面は1つに統一」(同)されるべきものであるが、実際には道徳
  的義務は「自分自身とは別の存在者」(同)として立てられるから、結局
  「 非道徳的なものを、完全なものとして妥当させる」(同)結果となった

 ・というのも、道徳的意識は、対立する2つの契機を「概念にまとめるような
  こと」(同)はせず、たんに「義務を表象されたもの」(同)、つまりご
  ちゃまぜにしたものとして立てるからである

 ・こうしていまや道徳的世界観の「別の形態」(351ページ)が生じることに
  なる

 ・すなわち、「出発点」(同)となった第1の命題は、「現実的な道徳的自己
  意識」(同)は「存在する」(同)というものだったが、「この統一は、意
  識の現実の彼岸」(同)にとどまり、自己意識に「残っている」(同)のは
  「道徳的に完成された現実的意識は存在しない」(同)という「第2の命題」
  (同)である

 ・この2つの命題から生じる第3の命題は、「2つの命題の、総合的統一」
  (同)として、道徳的自己意識は「存在する」(352ページ)と同時に「存
  在しない」(同)、つまり「存在するけれども、表象においてのことにすぎ
  ない」(同)という矛盾を示すものとなっており、概念的統一には達してい
  ないのである

 

*** *** *** *** コラム *** *** *** ***

〈史的唯物論と有用性理論、フランス革命〉

1.史的唯物論と有用性理論(功利主義)

■ 有用性理論の歴史的役割
 ・マルクス、エンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』や『資本論』で、詳細な
  功利主義の批判を展開している
 ・功利主義の代表者・ベンサムは「最大多数の最大幸福」の命題で知られるが、
  それは個々人の利益追求が「予定調和」(『資本論』② 301ページ)に従っ
  て全体の利益を実現するという資本主義美化論
 ・予定調和とは、世界を形成する単位となるモナドは一つひとつ独立している
  が、「モナドからなる世界に秩序があるのは、神があらかじめモナド相互に
  調和をもたらすように定めたから」(同)とするライプニッツの「モナド論」
  に由来
 ・この理論の背景には、「近代市民社会の内部ではすべての関係が、実際上、
  抽象的な貨幣関係および商売関係という1つの関係のもとに包摂されている
  という事実」(全集③ 441ページ)がある

■ 有用性理論の本質
 ・有用性理論の本質は、資本主義的搾取を隠蔽するところにある
 ・マルクスは、「労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の
  部面は、実際、天賦人権の真の楽園であった。ここで支配しているのは、自
  由、平等、所有およびベンサムだけ」(『資本論』② 300ページ)であると
  して、ベンサムは流通過程のみをみて、生産過程における搾取をみないこと
  で、資本主義を「天賦人権の真の楽園」として画きだしていると批判
 ・この功利関係は、「人間による人間の搾取」(全集③ 442ページ)という明
  確な意味の「無意識的あるいは意識的な」(同)仮装だと批判
 ・有用性理論(功利主義)は、まだ資本主義的矛盾が全面的に顕在化していな
  い時代の、資本主義台頭期特有の資本主義美化論ということができる

2.史的唯物論とフランス革命

■ フランス革命の意義
 ・フランス革命はブルジョアジーの第3の蜂起だったが、それは「一方の交戦
  者だった貴族が滅ぼされて他方の交戦者だったブルジョワジーが完全に勝利
  するまで、ほんとうにたたかいぬかれたという点でも、最初のもの」(全集
  ⑲ 557ページ)
 ・フランス革命はルソーの一般意志と一般意志の行使としての人民主権を理論
  的な柱としてたたかわれた
 ・フランス革命の推進力はブルジョアジーとサン・キュロット(無産階級)だ
  ったが、サン・キュロットの恐怖政治に対するブルジョアジーのクーデター
  (「テルミドールの反動」)で、ブルジョアジーが権力を掌握
 ・しかし「ほんとうにたたかいぬかれた」ところから、挫折したフランス革命
  の精神は、社会主義思想を生みだし、科学的社会主義へとつながっていった
 ・1848年の『共産党宣言』は、「1つの妖怪がヨーロッパをさまよっている。
  共産主義の妖怪が」(全集④ 475ページ)としてフランス革命の影響により
  社会主義思想が全ヨーロッパに広がったとしている
 ・フランス唯物論は「直接に社会主義と共産主義とにそそいでいる」(全集②
  136ページ)

■ ヘーゲルのフランス革命に対する評価の変遷
 ・ヘーゲルの『現象学』のなかの「徳と世の中」「絶対自由と恐怖」の2箇所
  でフランス革命について論評している
 ・どちらの箇所でも一般意志と恐怖政治について述べながら、一般意志の意義
  も明確にせず、またフランス革命が封建制から資本主義、さらには社会主義
  につながったことも評価せず、全体として消極的評価にとどまっている
 ・しかし、晩年の『歴史哲学』では、「世界史とは自由な意識の進歩を意味す
  る」(『歴史哲学』上44ページ)との立場にたって、フランス革命に関して、
  アナクサゴラスの「ヌース(理性)が世界を支配する」(同311ページ)を
  引用しながら、「人間はここにはじめて、思想が精神的現実界を支配すべき
  ものだということを認識する段階にまでも達したのである。その意味で、こ
  れは輝かしい日の出であった」(同)とその評価を180度かえている
 ・エンゲルスも『空想から科学へ』でこの箇所を引用し、ヘーゲルの「変革学
  説」(全集⑲ 187ページ)として紹介している
 ・フランス革命の評価の転換は、『現象学』の体系放棄の一因ともなったと考
  えられる

■ ルソーの「一般意志」と人民主権論
 ・ルソーが『社会契約論』で展開した「一般意志」論と人民主権論は、フラン
  ス革命における合言葉となった
 ・ヘーゲルはルソーの「一般意志」を一定評価しながらも、それが全体主義に
  転化する要素を内包し、恐怖政治をもたらしたと批判している
 ・それは「法則(人民主権―高村)が本質的なものであって、個人性は廃棄さ
  るべきもの」(222ページ)とか「否定性が対象の全契機に浸透した」(337
  ページ)などの言葉に示されている
 ・ルソー研究家のギールケも同様に「あらゆる個人主義的な出発と目標とにも
  かかわらず、その時々の多数者の意志のうちにあらわれる主権の絶対的専制
  が結果として生ずる」(『ルソー研究』第2版 96ページ、岩波書店)とし
  ている
 ・ギールケが一般意志と「多数者の意志」を混同しているのは論外としても、
  一般意志の行使としての「主権」への服従義務は、「主権の絶対的専制」を
  もたらす危険性を含有しているのかという問題がある
 ・ルソーが提起したのは、個人と社会共同体とが一体化する人間解放のために
  は、一般意志による統治という「人民主権論」以外にはありえないことを明
  確にしたことであり、人民主権とは一般意志を統治原理とする治者と被治者
  の同一性を実現する原理であって、これに代替しうる方法は他に存在しない
 ・ヘーゲルも、真の人倫的実体を「われわれである我と我であるわれわれとの
  両者が1つ」(115ページ)となる一般意志に求めた
 ・マルクスも「ユダヤ人問題によせて」(全集① 407ページ)のなかで、『社
  会契約論』を引用しながら、「現実の個別的な人間が、抽象的な公民を自分
  のうちにとりもどし、個別的人間のままでありながら、……類的人間(社会
  的人間―高村)となったときはじめて、……人間的解放は完成」(同)する
  としている
 ・恐怖政治の誤りは、労働者階級の政党の主導性がないまま人民主権国家を実
  現しようとしたために、人民が「定形のない塊」(『法の哲学』)として暴
  走し、衆愚政治となったもの―人民主権の民主政治と衆愚政治はメダルの裏
  表の関係にある
 ・マルクス、エンゲルスは労働者階級の政党の主導性があってはじめて、一般
  意志にもとづく人間解放の人民主権国家を実現しうると考え、それを「プロ
  レタリアート執権論」とよんで、科学的社会主義の学説の重要な柱とした
 ・「プロレタリアート執権論」は、日本共産党綱領の「国民が主人公」として
  定式化されている