2014年10月25日 講義

 

 

第13講 「E 宗教」

 

〈「E 宗教」の概要と構成〉

●『現象学』第2部における「E 宗教』の位置づけ

 ・第2部の「精神の現象学」は、「D 精神」「E 宗教」「F 絶対知」からなる

 ・第1講で、第1部は主観的精神、第2部は客観的精神を対象としていると述べ
  た

 ・より正確にいうと、第2部の「D 精神」「E 宗教」が人間の精神活動の産物
  としての客観的精神であり、「E 絶対知」は主観的精神と客観的精神の統一
  としての絶対知を対象としている

 ・「E 宗教」は、本来なら「D 精神」(人類史)のうちに含まれるべきもの
  だが、ヘーゲルは宗教を民族の精神という精神そのものととらえることに
  よって、人類史から区別して、独自の歴史をもつととらえている

 ・「D 精神」の最後は「絶対的他在において純粋に自己を認識する」(27ペー
  ジ)絶対的精神

 ・その場合の「絶対的他在」とは共同体のことであり、個人と共同体の一体化
  が絶対的精神としてとらえられた

 ・これに対し「E 宗教」では絶対者(神)を「絶対的他在」とする絶対的精神
  の一形態として「絶対精神の現実的自己意識」(257ページ)

 ・つまり宗教とは、絶対者=人間=精神としてとらえる民族の現実的精神

 ・これまで、意識、自己意識、理性、精神はさまざまな「他在」を意識の対象
  としてきたが、宗教はそのすべての「他在」を含んだ絶対者を意識の対象と
  するという意味で、「精神の完成」(386ページ)である

 ・精神の完成としての宗教は、民族の精神として独自の歴史と発展法則をもっ
  ている

 ・すなわち、宗教の歴史は、「A 自然宗教」「B 芸術宗教」「C 啓示宗教」
  として示される

●「E 宗教」の概要と構成

 ・「E 宗教」は、序論とA、B、Cの4部分から構成されている

 ・序論では、宗教が神を絶対的他在とする絶対的精神であり、これまでの意識
  の全経過の総括であること、しかし宗教は「精神の表象」にとどまっている
  こと、各民族の宗教は絶対者を「一定の現実的精神」(386ページ)として
  とらえ、それは自然宗教、芸術宗教、啓示宗教として発展的にあらわれるこ
  と、しかし啓示宗教もまた「精神の表象」にすぎないから、「概念」に移行
  し、絶対知となること、が論じられる

 ・「A 自然宗教」では、絶対者を自然のうちに見いだし、「光の宗教」「花の
  宗教」「動物の宗教」を経て、「工作物(ピラミッド、オベリスク)」の宗
  教となり、最後はスフィンクスという人獣の宗教として「B 芸術宗教」に移
  行する

 ・「B 芸術宗教」とは、ギリシアのポリスという「人倫的精神の宗教」(396
  ページ)であり、芸術と一体化した宗教である。それは「抽象的芸術品」と
  しての、神託、讃歌、礼拝、「生きた芸術品」としてのオリンピック選手、
  「精神的芸術品」としての叙事詩、悲劇、喜劇としてとらえられる

 ・「C 啓示宗教」とは、キリスト教のことであり、キリスト教では三位一体論
  をつうじて神の本性が絶対的精神であることが人間に啓示されているという
  意味で啓示宗教であること、キリスト教では神が人間(イエス)になり、イ
  エスは死んで聖霊(神)になることをつうじて、神は精神=人間であること
  が示されるという意味で絶対宗教であること、しかし啓示宗教は絶対宗教と
  はいえ、三位一体論は現実の衣をまとった「表象」にすぎず、純粋な精神と
  してとらえられていないこと、したがって啓示宗教は、その表象の衣をぬぎ
  すてて純粋知である絶対知に前進しなければならないこと、が論じられる

 

1.序論

● 宗教とは神を精神としての自己であるととらえる精神

 ・宗教には広い意味と狭い意味の2種類があり、ここで論じるのは狭い意味の
  宗教

 ・広い意味の宗教は「絶対実在(絶対者=神―高村)の意識」(383ページ)
  であり、これまでにも、あちこちで論じてきた

 ・狭い意味の宗教とは、たんに絶対者を意識することではなく、絶対者を精神
  であり、かつ自己であるととらえる「精神の自己意識」(同)

 ・それは絶対者を「絶対的他在において純粋に自己を認識する」(27ページ)
  絶対精神としてとらえるものだから、宗教は絶対精神の一形態である

 ・つまり、宗教とは「絶対精神の現実的自己意識」(257ページ)

 ・「自分自身を知っている精神(絶対精神―高村)は、宗教において、そのま
  ま、自分自身の純粋自己意識」(384ページ)となっている

● 宗教は、すべての現実を表象として自己のうちに含む

 ・精神とは、真理に高まった理性(255ページ)であり、「理性は、全実在で
  あるという意識の確信」(142ページ)

 ・絶対精神は、自分自身が理性であることを知っているから、「すべての実在
  とすべての現実を自己のうちに含む」(384ページ)

 ・しかし、宗教における現実は「自己意識であるという規定のうちに描かれて
  いるから」(同)、現実は「精神のうちに閉じこめられて」(同)いる

 ・したがって、「宗教のなかに包まれた現実は、精神の表象という形態」
  (385ページ)をとっている

 ・宗教は、すべての現実を表象としてではあっても自己のうちに含むことで、
  「意識と自己意識と理性と精神」(同)のすべてを自己のうちに含む

 ・したがって「宗教はこれらの契機の全経過を前提しており、それらのものの
  単純な統体」(同)として「時間のなかに在る」(同)―宗教としての独自
  の歴史と発展法則をもつ

 ・「それゆえ、宗教が精神の完成であり、意識、自己意識、理性および精神と
  いう精神の個々の契機はその根底としてのこの完成に帰り、また帰ってしま
  っている」(386ページ)

 ・つまり宗教において、精神の個々の契機は、その根底に絶対精神をもってい
  ると同時に、その歴史をつうじて絶対精神に向かって前進していくことによ
  って、絶対精神に帰っていく

● 宗教は意識の諸形態にしたがって自己を区分する

 ・その意味で「精神全体、宗教の精神は、また、その直接態から」(同)、
  「精神が自ら在る通りの自分を直観するに至るまでの運動である」(同)

 ・つまり精神自身は「この運動の区別をつくっている一定の形態をとる」
  (386ページ)ことになり、「一定の宗教は(民族の精神という―高村)
  一定の現実的精神をもつことになる」(同)

 ・すなわち、「意識、自己意識、理性および精神」(同)に対応する民族的精
  神としての東方的精神、ギリシア的精神、キリストゲルマン的精神は、それ
  ぞれの精神に対応する宗教の一定の形態(自然宗教、芸術宗教、啓示宗教)
  をもつ

 ・精神の最初の現実は、「自然的な宗教」(388ページ)であり、それは自然
  物を神=自己ととらえる「宗教そのものの概念」(同)である

 ・すなわち自然的な宗教においては、「精神は、自然的乃至直接的な形態をと
  った自らの(信仰の―高村)対象を、自己だと思っている」(同)

 ・これは言わば対象「意識の形式」(同)における宗教であり、東方的精神の
  宗教

 ・これに対し、「第2の現実」(同)的精神は、「廃棄された自然つまり自己
  という形で自分を知る」(同)現実であり、それがギリシア精神としての
  「芸術宗教」(同)であって、自己表現としての芸術作品のうちに絶対者を
  みる

 ・これは、対象から自己に帰った「自己意識の形式」(同)における宗教であ
  る

 ・第3の現実的精神は、キリストゲルマン精神としての「啓示宗教」(同)で
  あり、対象意識(絶対者)と自己意識(自己)を「統一する形式」(同)を
  とる

 ・啓示宗教の三位一体論において、精神は自己から他在へ、他在から自己に帰
  る本来の精神として表象される

 ・啓示宗教において「精神は自らの真の形態に達してはいるものの」(同)表
  象の形式にとどまっているため、「精神は概念に移って」(同)行かなけれ
  ばならない

 

2.「A 自然宗教」

● 自然宗教はいかなる自然物を絶対者とするかによって規定される

 ・絶対精神は「対象的なものの形式のうちにいる」(389ページ)「自己自身
  の 意識」(同)であり、対象となる絶対者がどのように規定されるかによっ
  て区別される

 ・日本の民俗宗教は、自然の万物に神が宿るとする「八万(やよろず)の神」
  であるが、ヘーゲルの考察の対象にはなっていない

 ・絶対者が「規定されるに応じて、1つの宗教が他の宗教から区別される」
  (同)

 ・すなわち、「自己意識が意識の対象の規定を自分のなかで把み、それを自ら
  のはたらきによって完全にわがものとし、他の規定に比べて本質的なものと
  知ることによって決められる」(同)

 ・つまり、いかなる自然物をもって本質的他在とし、それを絶対者とするかに
  よって各自然宗教の性格が規定される

① 「a 光」

 ・絶対精神の最初の形態は「光」(同)を絶対者とする「感覚的」(同)な自
  己意識

 ・この自己意識は、光こそ闇のなかから万物を生みだす本質的な力としてとと
  らえる「東方の光の神」(391ページ)の宗教(ペルシアのゾロアスター教)

② 「b 植物と動物」

 ・絶対精神の次の形態は、「精神的知覚の宗教」(同)

 ・というのも、そこでは多様な自然物は「より弱い精神とより強い精神」(同)
  「より貧しい精神とより豊かな精神」(同)の2つに分裂され、後者が絶対
  者とされる

 ・それが「花の宗教(インド)」(同)と「動物の宗教(インド)」(392ペ
  ージ)

 ・「死を賭して戦い」(同)「ただ引きちぎられて行くだけの動物精神に打ち
  克つのは、工作者」(同)であり、こうして精神の意識は、自然物ではなく、
  精神の産物としての工作物のうちに絶対者を見いだす

③ 「c 工作者」

 ・「ここに精神は工作者(エジプト)として現われる」(同)が、最初は、ピ
  ラミッドやオベリスクのように「まだそれ自身において精神に充たされては
  いない」(同)「悟性の抽象的形式」(同)にすぎない

 ・次の形態は、工作物のうちに自己の精神をもちこみ「彫像と神殿」(393ペ
  ージ)を経て「半獣半人の像」(394ページ)であるスフィンクスを絶対者
  とする

 ・「だから工作者は自然的な形態と自己意識的な形態を混ぜ合せる形で、両方
  を統一する」(同)

 ・こうした経過を経て、東方的精神としての自然宗教は「自然的形態」(同)
  から抜け出し、純粋な「自己意識的な形態」(同)としての芸術宗教に移行
  する

 

3.「B 芸術宗教」

● 芸術宗教とは、ギリシアのポリスにみられる芸術と一体化した
 ギリシア的精神の宗教

 ・精神はいまや「思想と自然的なもの」(395ページ)という2つの「異質的
  な形式を混合させる」(同)のではなくて、両者を「自己意識的活動」(同)
  のうちに統一する

 ・そもそも宗教は民族の精神として現実的精神であるが、芸術宗教における
  「現実の精神」(同)とは、「人倫的乃至真の精神」(同)

 ・「人倫的精神の宗教は、自らの現実を超えることであり、その真実態から自
  分自身の純粋知に帰って行く」(396ページ)

 ・エジプトの工作物はまだ「本能的な労働」(397ページ)であったのに対し、
  ギリシアの芸術は「自然と自らの直接的実在から解放された形態となって、
  人倫的精神がよみがえ」(同)った芸術として、「絶対芸術」(396ページ)
  となっている

① 「a 抽象的芸術品」

 ・最初は民族の神々を作品にした、抽象的な「彫刻と建築」(397ページ)で
  あり、「全体を純粋概念に高めることによって、精神のものである純粋形式」
  (397~398ページ)をとった「神々の形態」(398ページ)として示される

 ・次に神々は「自己意識なき物」(400ページ)から、「言葉をその形態の場」
  (同)とする「魂を与えられた芸術品」(同)に高まり、「讃歌」(同)と
  「神の必然的な最初の言葉」(同)である「神託」(同)となる

 ・「動かされた神の形態」(402ページ)としての讃歌と、「物という場で静
  止している神の形態」(同)である彫像との統一が、第3の形態としての
  「礼拝」(同)である

 ・礼拝において、神の彫像は讃歌によってたたえられ、「神的実在」(同)は、
  「自己意識という本来の現実をもつことになる」(同)

② 「b 生きた芸術品」

 ・「かくて礼拝から出てくるのは、自らの実在のなかで満足している自己意識
  であり、神はこの自己意識に帰ってその場所をえている」(405ページ)

 ・しかし礼拝において、神と自己との一体化は「パンと葡萄酒」(406ページ)
  の「秘儀」(同)を媒介してとらえられるのみであるから、生ける「自己意
  識的精神」(同)という「作品」(同)に高められねばならない

 ・こうしていまでは、絶対的実在としての神が「生きた身体性という抽象的契
  機」(同)となっており、その「陶冶され鍛錬された」(同)肉体は、「魂
  をえた生ける芸術品」(同)となっている(オリンピックの選手のこと)

 ・しかし「諸々の民族精神」(407ページ)の集まりとしてオリンピックは、
  「民族の本質を最高の形で身体的に現わしている」(同)ものの、「精神的
  実在が留守になっている」(同)

③ 「c 精神的芸術品」

 ・そこで「諸々の民族精神の集まり」(408ページ)は、「全自然並びに全人
  倫界を包括」(同)する「精神的芸術品」(407ページ)としてのギリシア
  神話に発展していく

 ・神話はまずホメロスの『イーリアス』『オデュッセイ』という2大「叙事詩」
  (408ページ)として示される

 ・「一般にこの叙事詩において、意識となって現われるのは、……神的なもの
  と人間的なものの関係」(同)であり、「両者の関係は、一般者と個別者の
  総合的結合」(409ページ)として示される

 ・これに対し、「悲劇」(410ページ)においては、「D 精神」「A 真の精神」
  (258ページ)で学んだように「神々のおきてと人間のおきて」(同)とい
  う対立・矛盾する「2つの概念に分れて現われる」(412ページ)

 ・「2つの威力」(414ページ)の「何れもが本質ではなく、本質であるのは、
  全体が自己自身に安らうこと」(同)、つまり対立物の統一であり、こうし
  て「単一のゼウスに帰」(415ページ)ることになる

 ・しかし悲劇における対立物の統一がゼウスだったのに対し、喜劇における対
  立物の統一は人間(ソクラテス)とされる

 ・アリストファネスの喜劇『雲』においてソクラテスは対立・矛盾を弁証法的
  に統一しようとした人物として画かれている

 ・ヘーゲルは悲劇から喜劇への移行を、神から人間への移行としてとらえるこ
  とで、悲劇のうえに喜劇をおいた

 ・喜劇において「自己は絶対的実在」(418ページ)、つまり神となり、ここ
  に芸術宗教は「完結」(417ページ)する

 

4.「C 啓示宗教」

● 絶対精神を宗教において示したのが絶対的宗教

 ・絶対精神とは、「絶対的他在において純粋に自己を認識すること」(27ペー
  ジ)

 ・したがって精神には自己から他在へ、他在から自己へ、言いかえると、実体
  から主体へという側面と、主体から実体へという2つの側面がある

 ・しかし芸術宗教は、実体から主体(神から人間)への側面を示したのみであ
  り、「自己という一方の極」(418ページ)に片寄りすぎているから、それ
  は乗り越えられなければならない

 ・精神の2つの側面の「各々が他方となって互いに外化することにより、精神
  は両者の統一」(422ページ)としての絶対精神となる

 ・この絶対精神を宗教において示したのが、「絶対的宗教」」(423ページ)
  である

 ・すなわち、絶対的宗教においては、実体としての「絶対的精神」(同)が
  「1つの自己意識としてすなわち1人の現実的な人間として」(同)現れ、
  神=人間(イエス)が絶対者に

 ・絶対的宗教とは「神的実在が人間になること(受肉)、言いかえれば、神的
  実在がそのまま自己意識の形態をもつこと」(同)

 ・つまり絶対的宗教とは、父なる神と、神の子イエス、イエスが死後復活して
  聖霊になったという、三位一体論をもつキリスト教

 ・というのも「精神とは、自己の外化において自己自身を知ることであり、自
  らの他在にいながら、自己自身との等しさを保ったままで、動いているよう
  な実在」(同)であり、三位一体論は、この精神の運動をとらえたものだから

● 絶対宗教は啓示宗教

 ・絶対的宗教において「神的実在は啓示されている」(同)

 ・神的「実在が啓示されていることは、明かに、それが何であるかが知られて
  いるという点にある」(同)

 ・キリスト教においては、神的「実在は、精神として知られるという正にこの
  ことによって、(精神とは自己であるから―高村)本質的に自己意識である
  ような実在として、知られるのである」(同)

 ・絶対宗教は、神とは精神であり、自分であると知ることにより啓示宗教であ
  る

 ・「神の本性は人間の本性と同じであり、直観されるのは、この統一なのであ
  る」(424ページ)

 ・無限の神は神は受肉により有限な「個別的人間として顕われる」(426ペー
  ジ)が、イエスはその有限性のゆえに、「在るは在ったに移行」(同)し、
  同時にイエスは有限な人であると同時に無限の神であるがゆえに、聖霊とし
  て復活する

 ・そのとき初めて「意識は精神的意識」(同)となり、イエスは「感覚的定在」
  (同)から「いまは、精神のなかに復活した」(同)

 ・この三位一体論における無限の絶対精神は、「教団という一般的自己意識」
  (同)のうちに現実的精神をもつ

 ・人々は「教団の意識と一緒にいる」(同)ことによって、「その人の完き全
  体(キリスト)」(同)と一体化する

 ・しかしキリスト教の三位一体論は「表象」(427ページ)という形式にとど
  まり、「概念としての自己の概念に成長していない」(同)から、「精神的
  実在は此岸と彼岸の分離につきまとわれており」(同)、内容は真実だが、
  すべての契機は「互いに外的に関係し合う」(同)形式上の不備をもつ

● 絶対的宗教は概念に高められねばならない

 ・絶対的宗教の真の内容が「真の形式をもつためには」(同)、「絶対的実体
  の直観を概念に高め」(同)る「一層高い教養」(同)が必要

 ・すなわち、絶対的実体の概念的把握とは、まず実体を「純粋実在の形式」
  (同)においてとらえ、次いでこの実体が「個別態に降りて行く運動」(同)
  として、最後にこの他在から「自己意識自身という場」(同)に帰る運動、
  つまり3つの契機をもつ絶対精神としてとらえることにある

 ・「自己自身のなかでのこの運動は、絶対実在が精神であることを言い表わし
  ている」(429ページ)

 ・しかし「教団の表象」(同)は、「概念という形式の代わりに、父と子とい
  う自然的関係を、純粋意識の領域にもちこむ」(同)

 ・そのため例えば、「抽象的であるだけの精神」(430ページ)が、個別特殊
  的な「他者」(同)となるという概念の運動を、神による天地創造という表
  象としてとらえる

 ・また「個別的な自己」(同)が精神として「定在」(同)するためには、直
  接的な精神が「まず自己自身の他者」(431ページ)となり、「善と悪を互
  いに対立させている思想」(同)に分裂しなければならないが、啓示宗教で
  は、それを智恵の実を食べたアダムとイヴはエデンの園から追放されると表
  象している

 ・三位一体論は表象の形式をもつとはいえ、「単一な同一者は、抽象であるた
  めに絶対な区別となるが、区別自体は自分自身から区別されるから、自己自
  身に等しくなる」(435ページ)という精神の運動を表現したものである

 ・つまり、キリスト教の三位一体論は、「精神自身を(表象という形態におい
  て―高村)言い表わしている」(438ページ)のである

 ・精神は、「その本性の(即自―対自―即対自という―高村)3つの場を通り
  抜け」(同)ることによって、単に「自己意識の内容、自己意識とっての対
  象であるに止まらず」(同)、実体と統一した「現実的精神」(同)となっ
  ている

 ・「かくして宗教的意識は、まさにこのような運動であるゆえ、またその限り
  で、それ自身(絶対―高村)精神である」(同)から、その表象の衣をぬぎ
  すて、概念としての絶対知へと前進しなければならない

 

*** *** *** *** コラム *** *** *** ***

〈史的唯物論と道徳、宗教〉

1.史的唯物論と道徳論②

■ 科学的社会主義の一般的道徳法則
 ・前回コラムで、科学的社会主義の一般的道徳法則を提示したが、もう少し説
  明を要する
 ・基本になるのは「人間が人間らしき生きるためのヒューマニズムの道徳論」
 ・大飯原発福井地裁判決では、「個人の生命、身体、精神および生活に関する
  利益」の総体としての「人格権」を超える価値は存在しないといっており、
  科学的社会主義の道徳論と共通の土台
 ・この土台のうえに「生命の尊厳と自由な精神」をあげたのは、人間らしく
  「生きる」ためにはまず生命が尊重されねばならないし、「人間らしく」生
  きるためには、「自由な精神」が必要となるから
 ・生命の尊厳は、それを否定する戦争と暴力を拒否し、紛争の話し合い解決を
  求める
 ・自由な精神は、理性にもとづく真理探究の自由を認めると同時に、真理と正
  義を愛し、虚偽や不正を許さないことを求める
 ・「人間らしく生きる」ためには、個人の道徳論と同時に「共同社会性」から
  くる社会的道徳論がある
 ・それが個人と共同体(国家、社会)の一体化(個と普遍の統一)による民主
  主義的道徳
 ・民主主義的道徳は、最終的には搾取と階級支配のもたらす人間疎外からの解
  放(人間解放)によってもたらされるが、当面は人民の道徳法則となる
 ・それを一言で表現すると「一人はみんなのために、みんなは一人のために」
  という、自己中心主義を否定し、対等・平等、相互承認・相互扶助の道徳法
  則
 ・対国家の関係でいうと、治者と被治者の同一性の実現するために、主権者と
  しての自覚をもって権力にだまされない理性と教養を身につけ、自由と民主
  主義、平和のために行動する道徳が求められる
 ・対社会の関係では、労働(対自然)とコミュニケーション(対人間)を尊重
  し、対等・平等の立場にたって約束を守ると同時に、誠実、正直、信頼、友
  愛、連帯の道徳が求められる
 ・いずれにしても科学的社会主義の一般的道徳法則は、今回の問題提起を機と
  して、練りあげていく必要がある

■ 一般的道徳法則の展開
 ・一般的道徳法則の基本は、人間の3つの類本質を全面的に発揮することによ
  る「人間らしく生きる」道徳法則にあり、それを基準にして、個別的道徳法
  則を考えていくことになる
 ・日本共産党の民主的市民道徳(「第21回党大会決議」前衛第693号)
  ① 人間の生命、互いの人格と生命の尊重
  ② 真実と正義を愛し、暴力、うそ、ごまかしを許さない
  ③ 勤労の尊重
  ④ 責任感と自立心
  ⑤ 親、きょうだい、友人、隣人への愛情
  ⑥ 公衆道徳を身につける
  ⑦ 男女同権と両性の正しいモラル
  ⑧ 主権者の自覚
  ⑨ 戦争、暴力に反対し、平和を愛好する
  ⑩ 真の愛国心と諸民族の友好
 ・これは一般的道徳法則の適用による個別的道徳法則として異論のないところ
  であるが、この10項目に限定される趣旨ではないであろう

2.史的唯物論と宗教

■ 史的唯物論の宗教観
 ・宗教は道徳と同様、上部構造に属する支配階級のイデオロギーの一形態
 ・すなわち、宗教とは超自然的なものが人間や社会を支配するという観念論的
  世界観であって、唯物論的世界観である科学的社会主義とは世界観を異にす
  る
 ・しかし階級関係を反映して、一時的、部分的には人民解放のイデオロギーと
  なることもある
 ・したがって、信教の自由と政教分離という憲法の原理を尊重しつつ、良心的、
  民主的宗教人とは現実の諸矛盾を解決するという一致点では行動を共にする
 ・独立、民主、平和、生活向上の統一戦線は「世界観や歴史観、宗教的信条の
  違いをこえて、推進」(綱領)する

■ 史的唯物論にとって宗教とはよそよそしい存在
 ・史的唯物論にとって宗教とは、世界観を異にする別世界のイデオロギーであ
  り、信教の自由は認めるが、その内容には関知せず、またその内容について
  積極的に論評もせず、当面の一致点で共闘するのみ
 ・高村自身も、この見地から宗教に対して無関心なよそよそしい態度をとって
  きたが、日本の国民の2~3割が宗教に関心をもち、また独特の精神的影響
  力をもっている状況のもとで、果たしてそれでよいのかが問われている
 ・というのも「宗教がなやめるもののため息」(全集① 415ページ)であり、
  精神的「なやみ」を解決する一手段となっている以上、宗教そのものの内面
  に立ち入って、科学的社会主義との思想的一致点を見いだす必要があるので
  はないか
 ・宗教者党員(小笠原貞子元参院議員など)の多くが、2つの世界観の矛盾の
  うちにおかれ、自分なりの解決を見いだそうとして苦闘している
 ・ここには科学的社会主義の学説がいまだに宗教との内容上の接点を見いだし
  えないという理論上の未解決の問題が存在している

■ ヘーゲルの宗教観と史的唯物論
 ・ヘーゲルは宗教の本質を客観的精神の一形態であり、しかも精神の運動その
  ものを客観化した現実的精神ととらえる
 ・精神の運動とは、「絶対的他在において純粋に自己を認識すること」(27ペ
  ージ)をつうじて、無限に絶対的真理に接近する運動であり、その意味で真
  理とは、実体ではなく主体
 ・「絶対的他在」とは、意識における客観的実在、自己意識における他者、理
  性と精神における社会共同体であり、宗教においては絶対者(神、仏)
 ・つまり精神の運動とは、自己と絶対的他在との相互媒介の関係であり、自己
  が絶対的他在に移行しながら自己に帰るという運動の反覆による絶対的真理
  への接近
 ・しかも宗教のなかの啓示宗教は、三位一体論をつうじて精神の運動そのもの
  を示している
 ・ヘーゲルが三位一体論のうちに、認識の弁証法的発展を見いだし、それを
  「絶対的他在において純粋に自己を認識すること」として定式化したのも評
  価しうる
 ・この認識論の定式化は、対象となる客観的実在のうちに、その真の姿を認識
  することで、自己を外化して他在に移行し、その真の姿の認識をつうじて真
  にあるべき姿(概念)を認識することで他在から自己に帰り、この概念をか
  かげた実践をつうじて再び自己を外化して他在に移行し、客観的実在を真に
  あるべき姿に合法則的に発展させ、理想と現実の統一、主観と客観の統一と
  いう絶対知に至るところに、その真髄がある
 ・しかし、宗教者党員の悩みは、ヘーゲルの宗教を真理認識としてとらえるこ
  とによっては解決しないだろう

■ 科学的社会主義と宗教との接点はヒューマニズム
 ・宗教は、道徳と同時に上部構造に属し、国家の二面性を反映して、2つの側
  面をもつ
 ・1つは、支配のイデオロギーとしての宗教であり、もう1つは、人民の「な
  やみ」を解決するイデオロギーとしての人民の宗教である
 ・この2つの側面をもつことによって、宗教ははじめてその社会における社会
  的意識となることができる
 ・宗教者党員の悩みの根底には、宗教は人間の「なやみ」という人間論を問題
  としているのに、科学的社会主義には人間論が存在しないとの思いがある
 ・その背景には、ソ連や東欧の「人間抑圧型の社会」という実態がある
 ・しかし、科学的社会主義の本質は「真のヒューマニズムにたった人間解放」
  にある
 ・したがって、「人間としていかに生きるべきか」という問題に対し、人民の
  宗教はそれを精神活動において打開しようとするのに対し、科学的社会主義
  はそれを唯物論的に社会変革により打開しようとする
 ・人民の宗教と科学的社会主義とは、世界観としては異なりながらも、人間と
  してより善く生きるという問題に回答を見いだそうとしている点では共通し
  ており、両者にとって本質的内容は「ヒューマニズム」である
 ・このようにとらえることによって、人民の宗教と科学的社会主義とは、当面
  の課題では一致できるが世界観においてはよそよそしいという関係を打ち破
  り、世界観においても共通の「ヒューマニズム」にたつことを相互に確認し
  あうことができる
 ・こうしてこそ宗教者党員のかかえる矛盾も解決しうるし、良心的、民主的宗
  教人ともより深いところで信頼関係を構築しうることになる
 ・重要なことは宗教のもつ二面性を区別するところにあるということができる