『ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ』より

 

 

第一三講 「E 宗教」

宗教の概要と構成

 今回は「E 宗教」という大変長い章を講義します。
 ヘーゲルはもともとチュービンゲン大学神学科(四八三ページ)を卒業した人物であり、終生宗教には深い関心をもち続けてきました。初期の宗教観は、権力と癒着したキリスト教の批判に向けられていましたが、『現象学』でのキリスト教は絶対的精神そのものであるとして積極的に評価されています。
 最初に『現象学』における「E 宗教」の位置づけを紹介しておきましょう。『現象学』では、これまでにも「不幸な意識」や「啓蒙と迷信の戦」などで、現実の世界におけるキリスト教の果たしている役割を論じてきましたが、「E 宗教」においてはそもそも宗教とは何かという宗教の本質を問題とし、それは結局のところ宗教とは絶対的精神であるとされます。
 『現象学』の第二部、いわゆる「精神の現象学」は、「D 精神」と「E 宗教」からなっています。第二部のうち、人類史としての客観的精神といえるのは、「D 精神」のみであって、「E 宗教」は本来なら人類史に含まれるべきものですが、ヘーゲルは宗教の歴史を独立した項目にしているのです。というのも、ヘーゲルにとって宗教とは民族の精神そのものであり、したがって客観的精神一般としての人類史から区別される独自の歴史をもつ精神として、独自に論じる必要があったのでしょう。
 前講で学んだように、「D 精神」の最後は、良心にもとづく赦しの世界であり、それは精神が疎外から回復した絶対的精神の世界でした。いわば、人類の歴史としての「D 精神」は、古代ギリシアのポリスという「真の精神」(二五八ページ)に始まり、「自己疎外的精神」(二八二ページ)を経て、再び良心の赦しの世界において理性的個人を基礎とする真の精神としての絶対的精神の境位に達したとされます。
 つまり「D 精神」における「絶対的他在において純粋に自己を認識する」(二七ページ)という場合の「絶対的他在」とは、共同体そのものであり、人類の歴史は個人と共同体との関係をめぐって展開されてきたのです。これに対して、宗教の場合の「絶対的他在」とは、絶対者としての神そのものであり、宗教の歴史は神と人間との関係をめぐって展開され、最後には神とは精神であり、自己であるとする、神と人間の一体化する絶対的精神の境位にまで達することになります。その意味で宗教は、「精神の完成」(三八六ページ)であり、絶対者(神)を「絶対的他在」とする絶対的精神の一形態として、「絶対精神の現実的自己意識」(二五七ページ)として規定されるのです。すなわち、宗教とは、絶対者を人間そのもの、つまり精神であるととらえる民族の現実的精神なのです。
 以上を前置きとして、「E 宗教」の概要と構成について紹介しておきましょう。「E 宗教」は、「序論」にはじまり、「A 自然宗教」「B 芸術宗教」「C 啓示宗教」の歴史としてとらえられることになります。このうちで重要なのは、「序論」と「C 啓示宗教」です。
 まず序論では、狭義の宗教とは絶対者を精神としてとらえる絶対的精神であること、宗教は各民族の民族精神を表現するものとして独自の歴史をもち、それは自然宗教、芸術宗教、啓示宗教としてあらわれること、しかし啓示宗教もまた精神の「表象」にすぎないから、「概念」に移行し、第三部の「F 絶対知」となることが論じられます。
 「A 自然宗教」とは東方的精神の宗教であり、絶対者を自然のうちに見いだし、「光の宗教」「花の宗教」「動物の宗教」を経て、ピラミッドやオベリスクの「工作物の宗教」となり、最後はスフィンクスという人獣の宗教となって、次の「B 芸術宗教」に移行します。
 「B 芸術宗教」とは、ギリシア的精神の宗教であり、ギリシアのポリスにおける「人倫的精神の宗教」(三九六ページ)です。それは芸術と一体化した宗教というか、むしろ芸術そのものが民族精神であり、民族精神だから宗教であるというのです。それはまず「抽象的芸術品」としての神託、賛歌、礼拝に始まり、次いで「生きた芸術品」としてのオリンピック選手となり、最後は「精神的芸術品」としての叙事詩、悲劇、喜劇としてとらえられます。
 最後の「C 啓示宗教」とは、ゲルマン的精神としてのキリスト教であり、キリスト教では父と子と聖霊の三位一体論をつうじて神の本性が人間に啓示されているという意味で啓示宗教であること、また神=人間=精神という絶対精神が示されているという意味で絶対宗教であること、しかし啓示宗教は絶対宗教であるとはいえ、三位一体論は現実の衣をまとった「表象」にすぎず、純粋な精神としてとらえられていないこと、したがって啓示宗教は、その表象の衣をぬぎすてて純粋知である第三部「F 絶対知」に前進しなければならないことが論じられることになります。

 

一、「序論」

 宗教は絶対者(神)を民族の精神としてととらえる

 宗教には、広い意味と狭い意味の二種類がありますが、「E 宗教」で論じるのは狭い意味の宗教です。広い意味での宗教とは、「絶対実在(絶対者=神 ── 高村)の意識」(三八三ページ)であり、これまでにも「不幸な意識」や「信仰と純粋透見」として論じてきた、神の存在を認め、信仰する意識です。
 これに対して狭い意味の宗教とは、たんに絶対者を意識するにとどまらず、絶対者とは何かという、宗教の本質をとらえようとするものです。結局狭義の宗教とは、絶対者を民族の精神ととらえ、かつそれは精神である自己にほかならないとする「自らを精神と知る精神」(同)、「絶対精神の現実的自己意識」(二五七ページ)なのです。言いかえると宗教とは、民族の精神という「絶対的他在において純粋に自己を認識する」(二七ページ)精神として、絶対精神の一形態なのです。
 宗教は絶対精神の一形態として、精神の諸契機である「意識と自己意識と理性と精神」(三八五ページ)のすべてを自己のうちに含んでいて、「宗教はこれらの契機の全経過を前提しており、それらのものの単純な統体」(同)をなしています。
 他方で宗教は、「現実的自己意識」として「すべての現実」(三八四ページ)を「表象という形態」(三八五ページ)において含んでいます。精神がすべての現実を概念において把握するとき、精神は時間と空間を越えた永遠の真理となりますが、宗教においてはまだ現実を「表象という形態」においてとらえるにすぎませんから、宗教は「時間のなかに在る」(同)ことになり、宗教としての独自の歴史をもつことになるのです。
 「それゆえ、宗教が精神の完成であり、意識、自己意識、理性及び精神という精神の個々の契機はその根底としてのこの完成に帰り、また帰ってしまっている」(三八六ページ)。つまり宗教は、その根底に「絶対精神」をもつ「精神の完成」であり、「精神の個々の契機」としての民族精神は、その歴史をつうじて絶対精神に向って前進することにより、絶対精神に「帰って」行く民俗宗教として現れるのです。
 「その場合、それらの契機は一緒になって、精神全体の定在する現実(絶対精神の現実 ── 高村)をなすわけであるが、この全体は、これらの側面が区別されながらも、(絶対精神という ── 高村)自己に帰って行く運動としてのみ現に存在する」(同)のです。

 宗教は意識の諸形態にしたがって自己を区別する

 このように民族精神としての民俗宗教は、絶対精神の一形態として精神の諸契機を含むと同時に、その諸契機をつうじて絶対精神に向かって前進する運動であり、その意味で「精神全体、宗教の精神は、また、その直接態から」(同)、「精神が自ら在る通りの自分を直観するに至るまでの運動」(同)となっています。
 この運動のなかで、精神は「この運動の区別をつくっている一定の形態をとる」(同)ことになり、「一定の宗教は(民族の精神という ── 高村)一定の現実的精神をもつこと」(同)になります。こうして宗教は、「意識 ── 東方的精神 ── 自然宗教」「自己意識 ── ギリシア的精神 ── 芸術宗教」「理性と精神 ── ゲルマン的精神 ── 啓示宗教」という三つの系列をもつことになるのです。
 最初の現実的精神は、インド、中近東の「自然的な宗教」(三八八ページ)であり、それは特定の自然物を神=自己としてとらえる「宗教そのものの概念」(同)というべき宗教です。自然宗教においては、現実的「精神は、自然的乃至直接的な形態をとった自らの(信仰の ── 高村)対象を、自分だと思っている」(同)のです。自然宗教を「意識、自己意識、理性、精神」という精神の諸契機との関係でいうならば、自然物という意識の対象を信仰するという意味で、「意識の形式」(同)の宗教ということができます。
 これに対し「第二の現実」(同)的精神は、「廃棄された自然つまり自己という形で自分を知る」(同)宗教であり、意識の諸形態との関係でいうならば、対象から自己に帰った「自己意識の形式」(同)における宗教です。それが、ギリシアの「芸術宗教」(同)であり、自己を表現した芸術作品のなかに神を見いだすのです。
 第三の現実的精神は、対象意識(絶対者)と自己意識(自己)の統一、つまり「理性、精神の形式」における「啓示宗教」(同)であり、それはゲルマン諸国家のキリスト教を意味しています。キリスト教における、父と子と聖霊の三位一体論のうちに、ヘーゲルは、自己から他者へ、他者から自己へ帰る精神の運動を見いだし、啓示宗教において精神は「絶対的他在において純粋に自己を認識する」(二七ページ)絶対精神となっているととらえているのです。
 しかし啓示宗教は、内容において「精神は自らの真の形態」(三八八ページ)である絶対精神に達してはいるものの、まだ現実の衣をまとった「表象」(同)の形式にとどまっているため、「精神は概念に移って」(同)行かなければならないとされ、第三部の「F 絶対知」に向かいます。

 

二、「A 自然宗教」

 自然宗教はいかなる自然物を絶対者とするかによって規定される

 「精神を知る精神は自己自身の意識であり、自ら対象的なものの形式のうちにいる」(三八九ページ)。「精神を知る精神」とは、絶対精神のことであり、それは「絶対的他在において純粋に自己を認識する」精神です。したがって、絶対的他在(神)という「対象的なものの形式」を自己のうちに含む「自己自身の意識」ということができます。
 宗教においては、この絶対者がどのように規定されるのかによって、さまざまな宗教が生じることになってきます。そしてさまざまな宗教は「精神の自らを知る形態(絶対者の形態 ── 高村)が、規定されるに応じて、一つの宗教が他の宗教から区別される」(三八九ページ)ことになります。すなわち、「自己意識が意識の対象(絶対者 ── 高村)の規定を自分のなかで把み、それを自らのはたらきによって完全にわがものとし、他の規定に比べて本質的なものと知ることによって決められる」(三九〇ページ)のであり、言いかえると、いかなる自然物をもって絶対者とするかによって、自然宗教の性格が規定されることになってくるのです。

 「 光」

 絶対精神の最初の形態は、ペルシアのゾロアスター教にみられる「光」(同)を絶対者とする光(アフラ・マズダ)の宗教です。「自己を知る絶対的精神が、直接的に初めに分裂するときには、その形態は、直接的意識または感覚的確信に帰せられるような規定をもつ」(同)。つまり光というものを、闇の中から万物を生みだす本質的な自然物ととらえる「感覚的確信」にたって絶対者とするのであり、ヘーゲルはそれを「東方の光の神」(三九一ページ)とよんでいます。

 「b 植物と動物」

 絶対精神の次の形態は、「精神的知覚の宗教」(同)です。感覚と異なり、知覚は対象を分裂においてとらえますが、ここでは多様な自然物は「より弱い精神と、より強い精神」(同)、「より豊かな精神とより貧しい精神」(同)の二つに分裂され、より強く、より豊かな精神が本質的自然物としての絶対者とされます。
 こうして、特定の花や動物が絶対者とされる「花の宗教(インド)」(同)や「動物の宗教(インド)」(三九二ページ)が誕生することになります。「このように(分裂して ── 高村)散り乱された精神の現実的な自己意識は、孤立化して仲間を失った多数の民族精神であり、これは憎しみの余り死を賭して戦い、一定の動物形態を自分達の本質と意識するようになる」(同)。このような憎しみから生まれた動物の宗教に対し、精神はもはや直接的な自然物を絶対者とするのではなく、精神の産物のうちに絶対者を求める「工作者」(同)の宗教へと移行することになります。

 「c 工作者」

 「工作者(エジプト)」(同)の宗教では、「自分自身を対象としてつくり出し」(同)たピラミッドやオベリスクという工作物に絶対者を求めます。それは、自己と自然物の統一を絶対者としてとらえるものとして、「悟性の抽象的形式」(同)ということができますが、「その作品も、まだそれ自身において精神に充たされてはいない」(同)という制約をもっています。
 そこで工作者は、作品のうちに自己の精神をもちこんだ「彫像と神殿」(三九三ページ)を絶対者とすることになり、さらには「半獣半人の像」(三九四ページ)であるスフィンクスを絶対者とすることになります。したがって工作者の宗教とは、「自然的な形態と自己意識的な形態を混ぜ合せる形で、両方を統一する」(同)工作物をもって絶対者とする宗教ということができます。
 しかし絶対精神の一形態としての宗教は、この自然宗教における「自然的形態」から抜け出し、純粋な「自己意識的な形態」としての芸術宗教に移行することになるのです。

 

三、「B 芸術宗教」

 自然宗教が東方的精神の宗教であったのに対し、芸術宗教はギリシアのポリスにみられる人倫的精神と一体化したギリシア的精神の芸術です。芸術宗教において、いまや精神は「思想と自然的なもの」(三九五ページ)という「異質的な二つの形式を混合させる」(同)のではなく、両者を「自己意識的活動」(同)のうちに統一した芸術作品が絶対者とされます。
 そもそも宗教とは、民族の精神として現実的精神なのですが、芸術宗教における「現実の精神」(同)は、ポリスにおける「人倫的乃至真の精神」(同)にほかなりません。「人倫的精神の宗教は、自らの現実を超えることであり、その真実態から自分自身の純粋知に帰って行く」(三九六ページ)のです。
 つまり芸術宗教は、人倫的実体と一体となった抽象的芸術品にはじまり、次第に「自己への信頼と自己自身の確信に帰って行」(同)くことで「自らの現実を超え」、「自分自身の純粋知」として精神的芸術品となっていくのです。
 言いかえると、宗教芸術における精神は、人倫的実体という「身体をぬけ出して、純粋概念に入って行く」(三九七ページ)ことにより、人倫的実体から「解放された形態」(同)となり、「人倫的精神がよみがえる」(同)のです。

 「 抽象的芸術品」

 最初の芸術作品は「神々の形態」(三九八ページ)をとった「彫刻と建築」(三九七ページ)です。それは民族精神としての神々の姿を作品にすることで「もはや自然物のようなものではなくなっており、自己意識的な民族のはっきりとした人倫的精神になって」(三九八ページ)いるのです。
 さらに芸術作品における民族の神々は、「彫刻と建築」のような「自己意識なき物」(四〇〇ページ)から、「言葉をその形態の場」(同)とする「魂を与えられた芸術品」(同)に高まり、神々をたたえる「賛歌」(同)と「神の必然的な最初の言葉」(同)である「神託」(同)となって、より精神性が明確にされることになります。
 「動かされた神の形態」(四〇二ページ)としての賛歌と、「物という場で静止している神の形態」(同)である彫像との統一が、第三の形態としての「礼拝」(同)となります。礼拝において、神の彫像を賛歌によってたたえることになり、ここに「神的実在」(同)は、自己の内に宿ることになり、「自己意識という本来の現実をもつこと」(同)になって「生きた芸術品」へと移行することになります。

 「b 生きた芸術品」

 「かくて礼拝から出てくるのは、自らの実在のなかで満足している自己意識であり、神はこの自己意識に帰ってその場所をえている」(四〇五ページ)。
 確かに礼拝において神は自己と一体化し、自己のうちに宿ることになりますが、それは「パンと葡萄酒」(四〇六ページ)の秘儀を媒介として実現されるにとどまるため、芸術宗教は、「自己意識に帰って」直接神を生きた人間とする「生きた芸術品」(四〇四ページ)に高められなければなりません。すなわち、生きた芸術品とは、絶対者としての神が「生きた身体性という抽象的契機」(四〇六ページ)となっており、その「陶冶され鍛錬された」(同)肉体が「魂をえた生ける芸術品」(同)となっているオリンピック選手を指しているのです。
 しかし「諸々の民族精神」(四〇七ページ)の集まりとしてのオリンピック競技は、「民族の本質を最高の形で身体的に現わしている」(同)ものの、「精神的実在が留守になって」(同)おり、そのため、「精神的芸術品」(同)へと移行することになります。

 「c 精神的芸術品」

 そこで「諸々の民族精神の集まり」(四〇八ページ)は、「全自然並びに全人倫界を包括」(同)する「精神的芸術品」(四〇七ページ)としてのギリシア神話に発展していくことになります。精神的芸術品は、まずギリシアの「人倫的精神」(三九六ページ)を代表するホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイ』という二大「叙事詩」(四〇八ページ)として示されます。
 「一般にこの叙事詩において、意識となって現われるのは、自体的には礼拝において成し遂げられていたこと、つまり神的なものと人間的なものの関係」(同)であり、「両者の関係は、一般者と個別者の総合的結合」(四〇九ページ)としての人倫的精神として示されることになります。
 これに対し、ギリシア「悲劇」(四一〇ページ)においては、「真の精神」(二五八ページ以下)におけるソフォクレスの『アンティゴネ』で学んだように、「神々のおきてと人間のおきて」(四一〇ページ)の対立・矛盾という「二つの概念に分れて現われる」(四一二ページ)ことになります。この対立・矛盾のなかで、神々のおきてと人間のおきてという「二つの威力」(四一四ページ)と天界の神アポロンと地下の神エリニュエスという「二つの個人性」(同)の「何れもが本質ではなく、本質であるのは、全体が自己自身に安らうことであり、運命が動かずに統一されていること」(同)が明らかになり、神々の王である「単一のゼウス」(四一五ページ)に帰って行くことになります。
 こうして悲劇における対立物の統一がゼウスだったのに対し、喜劇における対立物の統一は、人間としてのソクラテスとされます。アリストファネスの『雲』は、ソクラテスを主人公とする喜劇ですが、そこで彼は弁証法を駆使して、借金は返済すべきであると同時に返済しなくてもよく、道楽息子は父親を尊敬すると同時に父親を殴ってもよいという弁証法を教えた人物として、皮肉られています。
 ヘーゲルが、悲劇よりも喜劇を上位においたのは、悲劇から喜劇への移行を神と人間の統一から純粋な人間への移行、つまり神を人間とする啓示宗教を準備するものととらえたためでしょう。喜劇において「自己は絶対的実在」(四一八ページ)としてとらえられ、「芸術宗教はこの自己において完結し、完全に自分に帰った」(四一七ページ)人倫的精神となるのです。

 

四、「C 啓示宗教」

 絶対精神を宗教において示したのが絶対的宗教

 絶対精神とは、「絶対的他在において純粋に自己を認識する」(二七ページ)という運動の最高の到達点を示す精神です。したがって精神には、自己から他者へ、他者から自己へという運動をする二つの側面があります。しかし芸術宗教は、他者から自己に帰るという側面を示したのみであって、「自己という一方の極」(四一八ページ)に片寄りすぎていますから、それは乗り越えられなければなりません。そこに啓示宗教が登場する理由があるのです。
 そもそも精神には「一方は、実体が自己自身を外化して、自己意識となる側面であり、逆に他方は、自己意識が自分を外化して、物となり一般的自己となる側面」(四二一ページ)という「二つの側面」(同)があります。この二つの側面の「各々が他方となって互いに外化することにより、精神は、両者の統一」(四二二ページ)としての絶対精神となるのです。
 それは、先に知の目標とされた「概念が対象に、対象が概念に一致するところ」(六一ページ)ということになります。つまり対象のうちに概念(真にあるべき姿)を認識し、その概念を外化し、客観的実在を真にあるべき姿に変革するという「概念と存在の統一」、言いかえると理想と現実の統一が、「絶対精神」と呼ばれるものなのです。
 この絶対精神を、宗教において示したのが「絶対的宗教」(四二三ページ)です。絶対的宗教としてのキリスト教においては、絶対精神は「精神が一つの自己意識としてすなわち一人の現実的な人間」(同)として存在し、神=人間が絶対者となっています。つまりゲルマン諸国家のキリスト教においては、父なる神(概念)が、神の子イエスという「現実的な人間」に外化し、イエスは死んで聖霊(概念)として復活するという三位一体論が唱えられていますが、キリスト教では三位一体論をつうじて絶対精神の運動をとらえているから、絶対的宗教だというのです。というのも「精神とは、自己の外化において自己自身を知ることであり、自らの他在にいながら、自己自身との等しさを保ったままで、動いているような実在」(同)であり、キリスト教の三位一体論は、この絶対精神の運動をとらえたものだからです。

 絶対的宗教は啓示宗教

 この絶対的宗教において、「神的実在は啓示されて」(同)います。啓示されているとは、神的実在が「何であるかが知られているという点に在る」(同)のですが、三位一体論においては、神という「実在は、精神として知られるという正にこのことによって、本質的に自己意識であるような実在として、知られる」(同)のです。つまり絶対的宗教においては、神とは精神であり、人間(イエス)であり、自己であると知られることにより、啓示宗教となっているのです。
 「神の本性は人間の本性と同じであり、直観されるのは、この統一」(四二四ページ)なのです。こうして無限の神は有限な「個別的人間として顕われる」(四二六ページ)がゆえに、イエスはその有限性によって「在るは在ったに移行」(同)し、死亡します。イエスは有限な人間であると同時に無限の神であるがゆえに、聖霊という形で復活し、その無限性を示すことになるのです。そのとき初めて個人的「意識は精神的意識」(同)となり、イエスは有限な「感覚的定在」(同)から「いまは、(無限の ── 高村)精神のなかに復活」(同)することになります。
 この三位一体論における無限の絶対精神は「教団という一般的自己意識」(同)のうちにその現実的精神をもっています。そこで人々は「教団の意識と一緒にいる」(同)ことによって、「その人の完き全体(キリスト)」(同)と一体化するのです。
 しかし、キリスト教の三位一体論は「表象」(四二七ページ)という形式にとどまり、「まだ、精神の自己意識が、概念としての自己の概念に成長していない」(同)ところから、「精神的実在は此岸と彼岸の分離につきまとわれており」(同)、「内容は真実」(同)ですが、すべての契機は「互いに外的に関係し合う」(同)という形式上の不備をもっています。

 絶対的宗教は概念に高められねばならない

 絶対的宗教の真の内容が「真の形式をもつためには」(同)、「絶対的実体の直観を概念に高め」(同)る「一層高い教養」(同)が必要となってきます。絶対的実体の概念把握とは、まず実体を普遍的な「純粋実体の形式」(同)においてとらえ、次いでこの実体が「個別態に降りて行く運動」(同)としてとらえ、最後にこの他在から「自己意識自身という場」(同)に帰る運動として、つまり絶対精神としてとらえることなのです。
 「これら三つの契機が精神を形成する」(同)のであり、こうして、絶対的実在は、「実在」(四二八ページ)と、「実在の他在であり、実在を対象としている自独(対自)存在」(同)と、「他者において自己を知るという意味での自独存在」(四二九ページ)という、三つの契機に区別されることになります。「自己自身のなかでのこの運動は、絶対実在が精神であることを言い表わしている」(同)のです。
 しかし「教団の表象」(同)は、「概念という形式の代りに、父と子という自然的な関係を、純粋意識の領域にもちこむ」(同)のです。そのため例えば、「抽象的であるだけの精神」(四三〇ページ)が個別特殊的な「他者」(同)になるという普遍から個別へという概念の運動を、イエスの誕生という表象としてとらえるのです。また「個別的な自己」(同)が精神として「定在」(同)するためには、直接的な精神が「まず自己自身の他者」(四三一ページ)となり、現実的行動となった良心にみられるように「善と悪を互いに対立させている思想」(同)に分裂しなければなりませんが、啓示宗教ではそれを智恵の実を食べたアダムとイヴがエデンの園から追放されると表象しているのです。
 しかし三位一体論は、表象の形式をもつとはいえ、「単一な同一者は、抽象であるために絶対な区別となるが、区別自体は自分自身から区別されるから、自己自身に等しくなる」(四三五ページ)という精神の運動を表現していることは評価されなければなりません。つまりキリスト教の三位一体論は、表象の形式においてではあっても、「精神自身を言い表わしている」(四三八ページ)のです。
 精神は「その本性の三つの場を通り抜け」(同)ることによって、たんに「自己意識の内容、自己意識にとっての対象であるに止まらず」(同)、実体と統一した現実的精神としての啓示宗教になっています。「かくて宗教的意識は、まさにこのような運動であるゆえ、またその限りで、それ自身(絶対 ── 高村)精神」(同)ですから、その表象の衣をぬぎすて、概念としての絶対知へと前進しなければならないのです。

 

 

* コラム * 史的唯物論と道徳、宗教

 Ⅰ 史的唯物論と道徳論②

 科学的社会主義の一般的道徳法則

 前回コラムで提起した科学的社会主義の一般的道徳法則は、もう少し説明を必要とします。
 まず基本になるのは、「人間が人間らしく生きるためのヒューマニズムと理性の道徳論」、人間の類本質を開花させる道徳論という立場にたっているということです。大飯原発福井地裁判決では、「個人の生命、身体、精神および生活に関する利益」の総称が「人格権」であり、これをもって憲法上の至上の価値だとしています。これは、ヒューマニズムをもって、憲法の至上価値ととらえたものとして、科学的社会主義の道徳論と共通の土台にたっているということができます。
 科学的社会主義の道徳論として、この土台のうえに「生命の尊厳と自由な精神」をあげたのは、人間らしく「生きる」ためには、まず生命が尊重されなければならないからであり、かつ「人間らしく」生きるためには、人間の本質の一つである「自由な意識」が保持されなければならないからです。ヘーゲルは「精神の本性は、精神と正反対のもの(物質)との比較によって認識される。物質の実体が重力であるとすれば、精神の実体、本質は自由であると言わなければならない」(『歴史哲学』㊤四二ページ)といっていますが、人間は自由な精神をもつことによって人間らしい理性的存在になり、道徳的意識をもつこともできるのです。
 生命の尊厳は、それを否定する戦争と暴力を否定し、すべての紛争は話し合いによって解決を求めることになり、自由な精神は、理性にもとづく真理探究の自由を尊重し、真理と正義を愛し、虚偽と不正を許さないことを求めます。
 この「人間が人間らしく生きるためのヒューマニズムの道徳論」には、以上に述べた個人の生き方としての道徳論と同時に、人間のもう一つの本質である「共同社会性」、つまりヘーゲルのいう「類としての自己意識」としての生き方につながる道徳論があります。それが「一人はみんなのために、みんなは一人のためにという民主的道徳」なのです。この点でまず最初に指摘しておかなければならないのは、私たちが生活している資本主義の社会と国家は、人間の本質の疎外された社会・国家であり、個と普遍、個人と共同体とが分断され、切りはなされた社会・国家であるということです。
 したがって「人間らしく生きる」ためには、何よりも、人間疎外をもたらす資本主義社会と資本主義国家の変革を求める道徳でなければならず、疎外された人間の本質の全面回復を求める人間解放の道徳でなければなりません。それを一言で表現したものが、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という、個と普遍、個人と共同体の統一を実現する道徳法則であり、人間の「共同社会性」を実現する道徳法則なのです。いわば、自己中心主義を否定し、対等、平等、相互承認と相互扶助の道徳法則ということができるでしょう。
 この「共同社会性」からくる道徳法則を対国家の関係でみると、治者と被治者の同一性実現のために、主権者の自覚のもとに理性と教養を身につけ、三つめの人間の本質である自由と民主主義という価値を守り、自由と民主主義の土台となる平和のために行動する道徳が求められることになります。対社会の関係でいうと、支配・従属の関係を許さないことを基本に、労働(対自然)とコミュニケーション(対人間)を尊重し、対等・平等の立場にたって、誠実、正直、信頼、友愛、連帯の道徳が求められることになるでしょう。

 一般的道徳法則の展開

 以上の説明により、科学的社会主義の一般的道徳法則は、かなり展開された具体的道徳法則としても示されたと思います。要は、自由な意識、共同社会性、自由と民主主義の価値という人間の三つの類本質が全面的に発揮されることによって、「人間らしく生きる」道徳を一般的道徳法則とし、個々の道徳法則をその展開としてとらえていくことが求められることになるでしょう。
 この点で日本共産党の第二一回大会決議(『前衛』六九三号二五ページ)では、教育の内容となる民主的市民道徳として十項目の個別的道徳法則が提案されているので、要約して紹介しておきます。
 ①人間の生命、たがいの人格と権利の尊重 ②真実と正義を愛し、暴力、うそ、ごまかしを許さない ③勤労の尊重 ④責任感と自立心 ⑤親、きょうだい、友人、隣人への愛情 ⑥公衆道徳を身につける ⑦男女同権と両性の正しいモラル ⑧主権者の自覚 ⑨戦争、暴力に反対し、真の平和を愛好する ⑩真の愛国心と諸民族の友好の精神です。
 もちろん、この十項目に限定されるという意味ではないでしょうし、この十項目は一般的道徳法則の展開を示した個別的道徳法則として、積極的に評価しうるものです。いずれにしても科学的社会主義の道徳論はこれまで正面から論議されてこなかっただけに、一般的道徳法則と、その展開としての個別的道徳法則ともども、今回の問題提起を機に積極的な議論がおこなわれ、練りあげていく必要があるのではないかと考えるものです。


 Ⅱ 史的唯物論と宗教

 史的唯物論の宗教観

 史的唯物論では、道徳論と同様に、宗教は上部構造に属する支配階級のイデオロギーの一形態であり、宗教の本質は超自然的なものが人間や社会を支配するという観念論的世界観であって、唯物論的世界観である科学的社会主義とは世界観を異にするととらえます。
 しかし、信教の自由と政教分離という憲法上の原則を尊重しつつ、良心的、民主的宗教人とは、現実の矛盾を解決するという一致点では行動を共にすることを認めています。したがって日本の民主的変革のための、独立、民主、平和、生活向上の統一戦線は、「世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進」(日本共産党綱領)するとの立場にたっています。
 これを一言で表現すれば、史的唯物論にとって宗教とは、世界観を異にする別世界のイデオロギーであり、信教の自由は認めるが、その内容には関知せず、またその内容について論評することもせず、当面の一致点で共闘するのみという、よそよそしい態度ということができるでしょう。
 著者自身も、この見地からこれまで宗教に対して無関心な態度をとってきました。しかし日本の国民の二、三割が宗教に関心をもっており、宗教者のなかから少なくない人々が科学的社会主義に関心をもち、科学的社会主義に接近してくることからしても、また宗教が、哲学や道徳とは異なる独特の構造と精神的影響力をもつイデオロギーであることからしても、果たしてそれでよいのかが問われているといってもいいでしょう。宗教が「なやめるもののため息」(全集①四一五ページ)であり、精神的な苦悩を解決する一手段となっている以上、宗教そのものの内面に立ち入って、科学的社会主義との思想上の一致点を見いだす必要があるのではないかと思われるからです。
 というのも宗教者から科学的社会主義に接近してきた人々の場合、自己の内面で二つの異なる世界観をどう調和させるのかの問題に悩まざるをえないからです。ここには、科学的社会主義の学説が、いまだに宗教の本質をとらえることなく、その内容上の接点を見いだし得ないという理論上の未解決の問題が存在するように思われます。その解決もまた私たちに残された課題ということができるでしょう。
 ヘーゲルが宗教の本質を精神の運動としてとらえていることはさすがというべきですが、良心的、民主的宗教人や宗教者党員の悩みは、ヘーゲルのように宗教の本質をとらえるだけでは解決しえないのであって、科学的社会主義と宗教との、本質的内容における接点が求められているのではないでしょうか。

 接点としてのヒューマニズム
 
この問題を考えるうえで重要なことは、まず宗教を上部構造に属する社会的意識形態としてとらえることによって、上部構造の中核に位置する国家の二面性を反映し、宗教にも二面性があるととらえることです。
 国家には階級支配の機関としての本質と同時に、全人民の共通の利益を代表する現象をもつという二つの側面があります。宗教も道徳と同様に、階級支配のイデオロギーという本質と同時に、全人民の精神的苦悩を解決する人民のイデオロギー、人民の宗教という現象をもっています。いつの時代にも、宗教者のなかから科学的社会主義に接近し、行動を共にする良心的、民主的宗教人がくり返し登場してくるのは、後者の宗教を代表したものということができます。
 では、この人民の宗教の本質的内容となっているものは何でしょうか。それは人民の苦悩を精神面において打開しようとすることを原点として、「人間としていかに生きるべきか」という問題に答えを見いだそうとするところにあると思われます。仏教では誰でも生苦、死苦、病苦、老苦という四つの苦しみ、悩みをもっているとしています。宗教ではこの人間としての苦しみや悩みは人間によっては解決しえないものとして、神仏への信仰に救いを見いだそうとするのに対し、科学的社会主義では人間の苦しみ、悩みは人間がもたらしたものであり、人間によって解決しうると考えています。人民の宗教と科学的社会主義とは、解決方法の違いはありながらも、人間一人ひとりを大切にし、苦しみや悩みに共感をよせて、その解決をはかろうとするヒューマニズムを共通の土台にしているということができるでしょう。
 第二次世界大戦の前後をつうじて、コミンテルン第七回大会は、「反ファシズムの統一戦線」を呼びかけ、ヨーロッパ各国にこの統一戦線が誕生することになります。その時のスローガンが「神を信ずるものも、信じないものも」というものであり、ここにキリスト教と科学的社会主義との統一戦線という新しい歴史的経験が生まれ、それをつうじて、良心的、民主的宗教人と科学的社会主義との相互信頼の関係が築かれることになり、その後の歴史に大きな影響を及ぼすことになります。
 しかし、それはまだ科学的社会主義と宗教との間の世界観の対立という課題を解決するものではありませんでした。その対立は、より具体的には宗教者の側から提起される、宗教には人間の内面を問題にする「人間論」があるが、科学的社会主義には階級的観点はあっても、この意味での「人間論」は存在しないのではないか、との疑問となって現れてきます。現に良心的、民主的宗教人や宗教者党員の多くがこうした疑問をもちながらも、個々の人間の内面的活動は宗教の問題、人間の外面的活動と社会変革の問題は科学的社会主義の問題という二元論によって折り合いをつけているようです。そこには、旧ソ連や東欧が、社会主義を標榜しながらも「人間抑圧型の社会」だったという現実的裏付けが存在しているといってよいでしょう。
 しかし、科学的社会主義に、人間の内面を問題にする「人間論」が存在しないというのは、誤解にすぎません。マルクスがたんなるヒューマニズムの立場から科学的社会主義へと前進していった原点となったのは、人間を「人間にとっての最高の存在」(全集①四二二ページ)とするために、「いやしめられ、隷属させられ、見すてられ、軽蔑された存在にしておくようないっさいの諸関係を、くつがえせという……至上命令をもっておわる」(同)ことだったのです。
 したがって、科学的社会主義の本質は「真のヒューマニズムにたった人間解放の学説」にあるということができます。いわば、科学的社会主義と人民の宗教とは、世界観を異にしながらも人間としてより善く生きるヒューマニズムを原点とし、かつそれを根本的、本質的内容としているという点において共通するものをもっており、しいたげられた者、貧しき者への共感を共にしているのです。
 科学的社会主義と人民の宗教とは、たんに当面の課題での一致点での行動というよそよそしい関係を打ち破り、それぞれの原点と本質的内容においてヒューマニズムを共通の立場としていることを確認しあうことを通じて、より深いところでの内面的信頼関係を築き、より多くの良心的、民主的宗教人を党に迎えうると同時に、宗教者党員の二元論も克服しうるのではないでしょうか。
 いずれにしても、科学的社会主義にとって、宗教には階級支配の宗教と人民の宗教の二面性があることを承認することが決定的に重要なのではないかと考えるものです。