2014年11月22日 講義

 

 

第14講 「F 絶対知」

 

〈第3部「F 絶対知」の概要〉

●『現象学』全体の構成

 ・『現象学』全体の構成をどうとらえ、「絶対知」をどう理解するかは、『現
  象学』が「何を人々に訴えようとしたか」(463ページ)の理解にかかって
  いる

 ・本講座では、第1部「意識の経験の学」(「A 意識」「B 自己意識」「C
  理性」)、第2部「精神の現象学」(「D 精神」「E 宗教」)、第三部
  「概念と存在の統一としての絶対知」(「F 絶対知」)としてとらえている

 ・『現象学』を読み解く鍵は、ヘーゲルのいう「概念」をプラトン、アリスト
  テレスのいう「イデア(事物の真にあるべき姿)」として理解することにあ
  る

 ・しかしこれまで誰もこの概念の意味を正確にとらえず、したがって『現象学』
  の「絶対知」を理解しなかった

● 本講座では、「絶対知」を「序論」「緒論」で提起した問題への
 回答を示す『現象学』の結論部分としてとらえる

 ・「序論」では「知の生成こそ精神現象学がのべるもの」(28ページ)とされ、
  知の生成は「絶対的他在において純粋に自己を認識する」(27ページ)こと
  をつうじて行われること、つまり真理は実体ではなく、主体であること(23
  ページ)が示された

 ・そのためには「知は永い道程を通りぬけなければならない」(28ページ)

 ・「緒論」では、知の目標が「知が自己自身(概念―高村)を見つけ、概念が
  対象に、対象が概念に一致するところ」(61ページ)にあるとされる

 ・つまり『現象学』は、自己から他在へ、他在から自己へという知の運動をつ
  うじて概念を認識し、概念と存在の統一という真理への到達を目標としてい
  る

 ・ヘーゲルのいう「概念」とは、「事物の真にあるべき姿(イデア)」のこと

 ・すなわち概念の運動は、1つは対象のうちに概念を認識することにより「概
  念が対象に」一致することであり、もう1つは、主観のうちに認識された概
  念は、実践をつうじて現実のものなり、対象が真にあるべき姿となって「対
  象が概念に一致する」こと

 ・つまり、概念は2つの運動をつうじて理想を現実のものにかえる「理想と現
  実の統一」を実現するのであり、それが「概念と存在の統一」であるとの結
  論を示したのが「絶対知」

 ・概念の運動に関して特に重要な意義をもつのは、「美しき魂」と「啓示宗教」

 ・良心という「美しき魂」は「内なる声が神の声」、つまり内なる声としてイ
  デアを問題としている

 ・しかもそのイデアは、良心が行動することによって、善と悪、個人と共同体
  の対立・矛盾をつうじて、赦しによる相互承認により、対立から統一へと回
  復することで、「1人はみんなのために、みんなは1人のために」というイ
  デアが生まれることを学んできた

 ・他方啓示宗教では、神(イデア)が外化して存在(イエス)となることをつ
  うじて、イデアが外化するという側面を明らかにしている

 ・この両面を統一することによって「概念が対象に、対象が概念に一致する」
  (61ページ)ことによる「概念と存在の統一」、言いかえると理想と現実の
  統一という絶対的真理(絶対知)が実現されることになる

 

1.絶対知の成立

● 絶対知に至る精神の運動

 ・啓示宗教における三位一体論は、「自己の外化において自己自身を知ること
  であり、自らの他在にいながら、自己自身との等しさを保ったままで、動い
  ているような実在」(423ページ)という精神の運動を示す「絶対的精神」
  (同)とされたが、この絶対的精神が概念(イデア)にほかならない

 ・しかし、啓示宗教の精神は、その「表象の内容は絶対精神」(441ページ)
  としての「概念」だが、まだ「現実的意識」(同)を引きずっているので、
  「表象というこの形式を廃棄」(同)して、純粋知に高めねばならない

 ・言いかえると、表象性を廃棄するとは、意識が「対象を超え」(同)、「対
  象そのものが意識にとって消える」(同)ことを意味している

 ・つまり対象の概念を認識することは「自己の他在(対象―高村)そのものに
  おいて、自己のもとにいる」(同)ことであり、対象が消えること

 ・それは「既に意識の諸々の形態のうちに生じて」(同)おり、一言でいえば、
  対象を「自己(概念―高村))として把握する」(同)ことにほかならない

 ・そもそも意識の運動は「絶対的他在において純粋に自己を認識すること」
  (27ページ)であり、それが対象を超え、対象を「自己として把握する」運
  動

 ・例えば「A 意識」では「直接的意識」(同)、「知覚」(442ページ)、
  「悟性」(同)という「個別者から一般者(本質―高村)に至る」(同)認
  識であり、この過程をつうじて意識は「対象を自分自身である」(同)本質
  として知るのであり、ある意味で「対象を超え」ている

 ・しかしまだこの段階の知は「対象を純粋に概念把握するような知ではない」
  (同)

 ・対象を超えて概念を把握するには、「既に現われているこれまでの意識形態
  を想い起」(442ページ)こし、そのなかで対象がどのように消えつつ、他
  方で概念が形成されていくかを学ばねばならない

● これまでの意識形態から学ぶべきこと

 ・まず、「観察的理性」(同)では、対象である「物のなかに、自分自身を求
  め見つけ」(同)、「この理性の頂点においては、その規定は自我の存在は
  物であるという無限判断」(同)とされた―つまり自我は物に吸収された

 ・しかし、この無限判断は同時に「物は自我である」(同)という規定を含ん
  でいる

 ・「物は自我である」との規定は、物は「自我との関係によってのみ意味をも
  つ」(442~443ページ)「有用性」(443ページ)としてとらえる「啓蒙」
  (同)の立場である

 ・この有用性の立場は、「物が本質的には対他存在にすぎない」(同)ことを
  示しており、ここに自我の外に独立して存在する「対自存在としての物」
  (同)は「消えて行くにすぎない」(同)

 ・しかし「物の知はまだ完結してはいない」(同)。というのも、有用性にお
  いて、「物は自己あっての物」としてとらえられるにとどまり、まだ物は
  「本質乃至は内なるもの」(同)としても、また「自己(概念―高村)とし
  て」(同)もとらえられていないから

 ・こうして物の知は自己のうちに移行して「道徳的自己意識」(同)となる。
  そこでは真にあるべき生き方が問題にされているから、「自らの知が絶対的
  本質態(概念―高村)」(同)となっている

 ・したがって、啓蒙から良心への移行は、意識が精神と「和解」(同)する、
  つまり意識が精神(概念)となる「契機」である

 ・というのも、良心は行動をつうじて自己を外化し、善と悪、個人と共同体と
  に「分裂をおこ」(同)すが、赦しをつうじて個人と共同体の一体化が実現
  して「分裂がもとに帰」(同)り、「1人はみんなのために、みんなは1人
  のために」という概念(イデア)に達する

 ・つまり概念とは、まず対象である客観的実在という「真の姿(本質)」を対
  立する2つの極の矛盾としてとらえ、それを揚棄して「真にあるべき姿」に
  高められた「自己内存在の知、自我=自我」(438ページ)であり、イデア
  である

 ・「かくて最後にまた両者は、まだ残っている空しい対立を廃棄し、自我=自
  我という知」(444ページ)、言いかえると「自己内存在の知」(438ペー
  ジ)としての概念に達する

 ・この対象の概念を認識する運動が「概念が対象に」(61ページ)一致する運
  動であり、この運動と「対象が概念に一致する」運動とが結合して、「概念
  と存在の統一」、つまり理想と存在の統一が実現する

 ・「概念と存在の統一」という運動は、「一方では宗教的精神において、他方
  ではそのままの意識自身(良心―高村)においてという、二重の側面から成
  就されていることがわかる」(444ページ)

● 啓示宗教における概念の運動と良心における概念の運動とは、
 何れも概念の運動の「解体された」(442ページ)契機を示している

 ・「F 絶対知」の冒頭において、「宗教的精神」、つまり啓示宗教における神
  とは概念そのものであり、三位一体論とは概念の外化する運動を示すことを
  学んだ

 ・すなわち、三位一体論では神という概念が外化して現実となり、現実のうち
  に概念を見いだすという意味で「対象が概念に一致する」(61ページ)とい
  う側面を学んだ

 ・他方「美しき魂」とは、対象の概念を認識する運動であり、その概念は良心
  にもとづく行動による分裂と統一をつうじて認識され、対象のうちに概念を
  見いだすことで「概念が対象に一致する」(同)ことを学んだ

 ・つまり「美しき魂」において、「概念が対象に」一致し、三位一体論におい
  て「対象が概念に」一致することを学んだのであり、これを「われわれ」
  (442ページ)のうちでの統一することにより「概念と存在の統一」として
  の「真の概念」(445ページ)、つまり絶対知となる

 ・この論理の展開をテキストに沿ってみていこう

● 概念の2つの運動の統一

 ・三位一体論における「意識と自己意識」つまり、自我と対象、主観と客観と
  の和解は、概念が外化して存在になるという「自体存在の形式における和解」
  (同)

 ・他方「美しき魂」における和解は、対象の矛盾から概念が生まれるという
  「自独(対自)存在の形式における和解」(同)

 ・この2つの側面は、いずれも概念の運動の一面性を示すものだが、両者の
  「結合は自体的には既に起って」(同)おり、それが「美しき魂」にみられ
  る

 ・すなわち「美しき魂」には、これまで明確にはされなかったものの、概念の
  2つの運動が含まれており、それが以下の3つの契機において示されている

 ・第1に、この「美しき魂は、純粋な透明な統一において、自己自身を自ら知
  る」(445ページ)

 ・「自己自身を知る」とは「概念を知る」ということであり、したがって「美
  しき魂」とは「神的なもの(概念―高村)の自己直観でもあるような自己意
  識」(同)

 ・アリストテレスは『形而上学』(アリストテレス全集⑫)において、理性は
  「最も神的で最も尊いものを思惟」(前掲書428ページ)するが、その「思
  惟の思惟」(同429ページ)をイデアであるとしており、ヘーゲルはアリス
  トテレスに学んで、イデアを「神的なもの」と呼び、それを概念としてとら
  えた

 ・因みに『エンチクロペディー』の最後には、アリストテレスの「思惟の思惟」
  を述べた『形而上学』第12巻第9章の文が引用されている

 ・ヘーゲルは、プラトンのイデアはたんなる「デュナミス(可能態)」にとど
  まっているのに対し、アリストテレスのイデアは「本質的にエネルゲイアで
  あること、言いかえれば、端的に外にあらわれている内的なもの」(『小論
  理学』㊦ 84ページ)としての現実性としてとらえている

 ・つまりイデアを、内面の意識から、外面的な現実に必然的に転化するもの
  (「真理は必ず勝利する」)としてとらえている

 ・そこで第2に、「美しき魂」は自らを外化することで「真の概念」(445ペー
  ジ)となる

 ・すなわち「美しき魂」は「外化の力」(374ページ)を欠くときは「空しい
  蒸気となって消えてしまう」(445ページ)ところから、「積極的に外化し、
  進んでいく」(同)

 ・それは「自らを実現した概念」(同)として「真の概念」(同)となること
  である

 ・しかし「美しき魂」の概念は、たんに「絶対至上の独裁権」(369ページ)
  にすぎないから、外化することによって、自ら善と悪、個人と共同体とに分
  裂せざるをえない

 ・こうして「美しき魂」の概念は、本来の概念ではなかったことが明らかにな
  り、この概念は「充実され」(445ページ)なければならない

 ・したがって第3に、こういう「対立の各々は、他方に対抗して現われ出る規
  定態」(446ページ)は真理ではないとして「自ら進んで断念」(同)し、
  相互承認の赦しの世界において、この対立する「自己自身を廃棄する」(同)
  ことにより、「真に在る通りに措定される」(同)―つまり「美しき魂」の
  概念は「充実され、本来の真にあるべき姿となる

 ・それが「1人はみんなのために、みんなは1人のために」という「精神の概
  念」(115ページ)

 ・精神は、「その定在を思想に、それによって絶対的な対立を高め、正にこの
  対立によって対立から出て、自己自身に復帰する」(446ページ)ことによっ
  て、「概念」を認識することになり、精神は概念のうちに「在るとき初めて
  精神」(同)ということができる

 ・「精神は、この行動という動きによって……知の単純な統一である自己意識
  (概念―高村)として、現われ出ている」(同)

 ・こうして「宗教において内容であった」(同)概念が、良心においては「自
  己自身の行為」(同)の結果として現れていた

 ・いわば良心においては、以上3つの契機をつうじて、概念の2つの運動が含
  まれていることが明らかとなった

 ・いま必要なことは、この概念の2つの運動という「両方を結びつけ」(同)、
  概念と存在を統一すること

 

2.絶対知の本質

● 概念と存在の統一としての絶対知

 ・というのも良心において、対象の真にあるべき姿としての概念を認識し、啓
  示宗教において概念を現実のものとするのであり、両者の統一のうちに「概
  念が対象に、対象が概念に一致する」(61ページ)絶対知となる

 ・つまり「概念が対象」に一致するとは、対象のイデアを認識することであり、
  「対象が概念に一致する」とは、認識されたイデアが実践をつうじて現実に
  転化し、対象が真にあるべき姿に変革されることであり、この概念の2つの
  運動の統一が「概念と存在の統一」としての「真の概念」(445ページ)で
  あり、絶対知である

 ・この2つの側面を結びつけることによって「この概念は、自己における自己
  の行為が全実在であり、全定在であると、知ることであり、この主体が実体
  であると知ることであり、実体が自己の行為の知である」(446ページ)と
  いう概念の全運動がとらえられ、真理は実体ではなく主体であると知ること
  になる

 ・先に「理性は、全実在であるという意識の確信」(142ページ)であること
  を学んだが、概念の全運動としての絶対知において、実体は「自己における
  自己の行為」(同)による「全実在」(同)と知る

 ・つまり概念(イデア)の全運動とは、対象となる客観的事物のうちに、その
  真の姿(本質)を対立する2つの極としてとらえ、その対立・矛盾を揚棄す
  るものとして対象の真にあるべき姿(概念=イデア)を認識し、この主観の
  うちにとらえた概念を、実践することをつうじて対象を真にあるべき姿に変
  革して概念の外化を実現し、もって「自己の行為が全実在」であると知り、
  もって理想と現実の統一という真理が主体的に実現される、というもの

● 絶対知の本質

 ・この概念の全運動が「概念と存在の統一」、つまり理想と現実の統一として
  の絶対知である

 ・「精神のこの最後の形態は絶対知」(同)であり、ここに至って知はその目
  標に達して「満足する」(61ページ)ことになる

 ・「それは、自らの完全で真なる内容に、同時に自己(概念―高村)という形
  式を与え、このことによって、その概念を実現すると共に、かく実現するこ
  とにおいて、自己の概念のうちに止まる精神である」(446ページ)

 ・言いかえると、絶対知とは概念の「形態において自らを知る精神」(同)で
  あり、「概念把握する知」(同)

 ・この「概念と存在の統一」という知の目標に到達することで「真理は定在と
  なっている」(同)

 ・「この定在の場において意識に現われる精神」(447ページ)としての「概
  念」を取り扱うのが、「論理学」

 ・以上まとめてみると、知の運動は自己から他在へ、他在から自己へ復帰する
  という運動をつうじて、現象から本質へ、本質から概念へ、概念から概念の
  実現へと進行し、「概念と存在の統一」という目標に到達する運動であり、
  その運動をヘーゲルは「対象そのものが意識にとって消える」(441ページ)
  と表現

 ・つまり概念の内容は「対象という姿をとりながら」(447ページ)「精神と
  して自分で自己自身を貫いている精神」(同)

 ・知の永い道程において「自己意識は次第に豊かになり、遂には実体全体を対
  象的意識からもぎとり、実体の本質の構造全体を自己のうちに吸いこんで」
  (448ページ)概念として完成する精神の運動

 ・ヘーゲルは、さらに対象を概念として把握することは、たんに対象が消える
  というだけでなく、対象のもつ時間と空間の限界をこえて、永遠の真理に達
  することと理解している

 ・「精神は、自己の純粋概念を把握していない限り、すなわち、時間を亡ぼし
  ていない限り、時間のうちに現われる」448ページ)

 ・対象は概念把握されることによって「時間を亡ぼ」し、概念を扱う「論理学」
  は永遠の真理として経験諸科学のうえに君臨する

 ・精神は「絶対的他在において純粋に自己を認識する」(27ページ)という
  「本来、認識であるところの運動」(448~449ページ)であり、「意識の対
  象を自己意識の対象に、すなわち、同じ意味で廃棄された対象に、つまり概
  念に変える運動」(449ページ)

 ・したがって対象を概念に変えた「論理学」は、「精神が自己自身についても
  つ真の知」(同)

 

3.『現象学」から『論理学」へ

●「論理学」は「一定の概念」(諸カテゴリー)の体系的展開

 ・「かくて精神は、概念をえたのであるから、自らの生命のこのエーテル(運
  動の場―高村)のなかで、自らの定在と運動を展開し、学(論理学)となる」
  (451ページ)

 ・「一般的に言って、哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概
  念に変えるもの」(『小論理学』上65ページ)

 ・カテゴリー(範疇)とは最高類概念という「概念」であり、したがってもっ
  ぱら概念を取り扱う「論理学」は諸カテゴリーの体系的展開として示される

 ・すなわち「論理学」は、カテゴリーの弁証法的発展を論じ、「有論」「本質
  論」「概念論」の3部構成となっている

 ・「概念論」の概念とは、真にあるべき姿(イデア)としての概念

 ・論理学においては、「精神が動くときのもろもろの契機」(451ページ)は、
  「意識の一定の形態」(同)をとって現われるのではなく、「一定の概念
  (「論理学」の諸範疇)」(同)として現れてくる

 ・すなわち、「現象学」では、精神は時間と空間のうちに「自らの定在」
  (452ページ)をもっていたが、「論理学」は絶対的真理を概念のうちにと
  らえたものであるから、時間と空間の限界をこえている

 ・「論理学」において、概念は「自己自身にもとづいた有機的な(体系的な―
  高村)概念の運動として現われる」(451ページ)

●「論理学」から「自然哲学」「精神哲学」へ

 ・「学は、純粋概念の形式が外化する必然性と概念が意識に移行することを自
  分のうちに含んでいる」(452ページ)

 ・つまり純粋概念としての論理学もまた「絶対的他在において純粋に自己を認
  識する」運動として展開されるのであり、自らを「外化」して「自然哲学」
  となり、「自然哲学」から自己に回帰して「精神哲学」となることを「自分
  のうちに含んでいる」

 ・こうして「絶対精神の王座」(453ページ)が築かれることになるが、「こ
  の王座がなければ絶対精神は生命なき孤独であろう」(同)

 

*** *** *** *** コラム *** *** *** ***

〈絶対知と史的唯物論〉

■ ヘーゲルの絶対知の意義と限界
 ・ヘーゲルは「理性は、全実在であるという意識の確信」(142ページ)であ
  り、精神とは理性の真理である(255ページ)として、変革の立場を明らか
  にした
 ・この変革の立場から知の目標は、概念(真にあるべき姿)と存在との統一
  (理想と現実の統一)という実践的真理にあるとし(61ページ)、それを絶
  対知とよんだ
 ・つまり「概念は、自己における自己の行為が全実在であり、全定在であると、
  知る」(446ページ)
 ・しかもヘーゲルは、概念を現実の世界の矛盾を解決し、疎外から解放するも
  のとしてとらえ、かつその疎外からの解放を理性的、普遍的個人を土台とす
  る「1人はみんなのために、みんなは1人のために」という真の人倫的世界
  に求めた
 ・以上の点において、ヘーゲルの絶対知は積極的意義をもつものとして高く評
  価されねばならない
 ・しかしそれと同時に、ヘーゲルの絶対知には大きな限界がある
 ・それは、真にあるべき社会を現実の資本主義の矛盾を解決する社会ではなく、
  道徳的矛盾を解決する「赦し」の世界という観念的世界に求めたことにある
 ・もちろんそれはヘーゲルの生きた時代の歴史的制約を示すものではあったが、
  変革の立場を貫こうとするヘーゲル哲学のもつ矛盾でもあった
 ・ヘーゲルは後年この矛盾に気づいたのか、『法の哲学』では資本主義の矛盾
  を厳しく指摘したが、その矛盾を解決するものとしての社会主義・共産主義
  を直接展望するには至らなかった
 ・このヘーゲルの絶対知が提起した意義と限界を正確につかみ、変革の立場か
  ら資本主義の矛盾の解決による疎外からの解放として社会主義・共産主義を
  とらえ、その内容を真の人倫である「人間解放」としてとらえたのが、マル
  クスではないかと思う

■ 初期の哲学的社会主義論と絶対知
 ・マルクスは若いときヘーゲルの『現象学』を学んで、まず哲学的に人間解放
  の社会主義論を展開
 ・『経・哲草稿』と「ミル評注」において、人間の類本質を、対自然(労働)
  から生じる「自由な意識」、対人間(コミュニケーション)から生じる「共
  同社会性」の2つとしてとらえる
 ・資本主義的搾取と収奪のもとで、2つの類本質は疎外される
 ・この疎外から解放された社会主義とは、「人間による人間のための人間的本
  質の現実的な獲得」(『経・哲草稿』130ページ)の社会
 ・「この共産主義は完成した自然主義として=人間主義であり、完成した人間
  主義として=自然主義である」(同131ページ)
 ・「それは人間と自然とのあいだの、また人間と人間とのあいだの抗争の真実
  の解決」(同)
 ・つまり哲学的な社会主義とは、人間の類本質が全面的に回復した、真の人間
  解放のヒューマニズムの社会

■ 後期の経済的、政治的社会主義論と絶対知
 ・マルクスはヘーゲル哲学から出発しながら、続いて資本主義の研究をつうじ
  て経済的・政治的な社会主義論を発展させる
 ・すなわち資本主義の基本矛盾は「社会的生産と資本主義的取得」(『空想か
  ら科学へ』)にあり、その矛盾を解決する「社会的生産と社会的取得」とい
  う「概念」を実現するのが社会主義
 ・また社会主義の政治的権力は、科学的社会主義の政党の主導性と人民主権を
  統一した「プロレタリアート執権論」であり、それにより「1人はみんなの
  ために、みんなは1人のために」の真の人倫的な社会主義を実現するととら
  えた

■ 科学的社会主義の社会主義論と絶対知
 ・科学的社会主義は、ヘーゲルの絶対知を、社会主義・共産主義を直接展望す
  るものではなかったものの、人間の類本質の疎外からの解放という点でも、
  現世の矛盾を解決する「概念」をとらえ、それを「1人はみんなのために、
  みんなは1人のために」の人倫的社会と理解した点においても、科学的社会
  主義への道を掃き清めるものとしてとらえている
 ・その積極的部分を取り込んで、科学的社会主義の社会主義論は、哲学的には
  疎外からの人間解放、経済的には資本主義的矛盾の概念的解決、政治的には
  真の人倫的社会として形成されるに至った
 ・「マルクスが類的生命、類的存在としての人間の立場(『経・哲草稿』)か
  ら絶対知をもってコミュニズムと規定するのは、むしろ相互承認のそれが共
  同体のそれと不可分であるところからして当然である」(金子『精神の現象
  学』㊦ 1685ページ、岩波書店)