『ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ』より

 

 

第一四講 「F 絶対知」

第三部「絶対知」とは何か

 本講座では、第一部、意識の経験の学(「A 意識」「B 自己意識」「C 理性」)と第二部、精神の現象学(「D 精神」「E 宗教」)をふまえ、「F 絶対知」を第一部、第二部を含む『現象学』全体の結論部分に該当するものとの立場から、「第三部、絶対知(F 絶対知)」として構成しています。この構成は、本講座の独自性を示すものとなっています。
 というのも、『現象学』はその構成の複雑さ、内容の分かりにくさもあって、全体として「何を人々に訴えようとしたか」については様々な議論があり、その理解の仕方によって全体の構成をどう理解し、「絶対知」をどうとらえるのかも異なってくるからです。
 テキストの訳者樫山欽四郎氏は「はじめに」でも紹介したように、その著作『ヘーゲル精神現象学の研究』のなかで、「ルカッチ(ルカーチ ── 高村)やイポリトが指摘しているように、結論であるはずの『絶対知』の章が明確な結論を与えていない。この書をつうじて結局何を書こうとしたのか、ということを確定することは極めて困難なことである」(前掲書七ページ)と述懐しているほどです。
 『現象学』の全体を大きく三部に分け、第一部を主観的精神、第二部を客観的精神、第三部を絶対的精神としてとらえたのは、ハンガリー共産党の指導者の一人であったルカーチです。このとらえ方は、第一部と第二部をエボデボの関係でとらえたエンゲルスの理解を継承するものとして、基本的に正しいと思います。
 しかしルカーチは、まず『現象学』の第一、二、三部とも疎外論を論じたものとします。そのうえで、第一部を「A 意識」「B 自己意識」「C 理性」とし、第二部を「D 精神」ととらえ、第三部を「E 宗教」「F 絶対知」として構成します。第三部では疎外からの回復を論じるものの「内容的に新しいものはもはや現われない」(「若きヘーゲル」㊦四五六ページ、『ルカーチ著作集』白水社)のであって、第二部と第三部の相違は「現在的視点か過去的視点かの相違」(同四五五ページ)にすぎない、としています。確かにマルクスが『現象学』から学んだ最大のものが疎外論だったことは否定しがたいところですが、そのことは『現象学』が全体として何を言わんとしているかとは別の問題であり、ルカーチの解釈はあまりにもマルクスの『経済学・哲学草稿』に傾斜しすぎたものであり、知の目標を概念と存在の統一とするヘーゲルの観点を見失ったものとの批判をまぬかれないでしょう。
 『現象学』全体を読み解く鍵は、ヘーゲルのいう「理性」を変革の意識としてとらえたうえで、「概念」を真にあるべき姿、つまりプラトンやアリストテレスのいう「イデア」、言いかえると唯物論的理想として理解するところにあります。しかしこれまでルカーチを含め、誰一人ヘーゲルの「理性」と「概念」の意義を正確に理解しなかったために、『現象学』が何を言いたいのかを理解できなかったものといわざるをえません。
 樫山氏は、テキストの「解説」において「哲学が学であるということは、概念においてのみ、その現存の場をうるということである」(四六七ページ)として、『現象学』における「概念」の重要な意義を指摘しながら、「ではここにいう概念とはどういう意味であろうか」(同)と問題を提起しています。そしてこの問いへの回答について三ページも費やしながら、結論は「精神が実体(対象)において自己を失うことを通して、自己を回復するとき、初めて真理がえられる。これがつまり概念なのである」(四六九ページ)という、ヘーゲルの文章を口移しにしたような意味不明の回答にとどまっています。これでは樫山氏が『現象学』をつうじて、ヘーゲルが何を言いたいのか理解できなかったのも当然ということができるでしょう。
 そこで本講座のまとめとして、『現象学』を全体としてどうとらえ、そのなかで「絶対知」が『現象学』の結論として何を意味しているのかを説明しておくことにしましょう。
 まずヘーゲルは「序論」において、哲学の目的は知が真理をとらえること、つまり「知と真」(三四ページ)の統一にあり、真理は実体としてではなく、主体として生成するとしています。では真理に向かっての知の生成がどのように行われるのか、というと「絶対的他在において純粋に自己を認識すること」(二七ページ)、つまり自己から他在(対象)へ、他在から自己への回帰という運動の反復をつうじてであるというのです。
 したがって、「学一般の、つまり知の生成こそ、精神現象学がのべるもの」(二八ページ)であり、「本来の知に成るためには、言いかえれば、学の純粋な概念そのものであるような、学の場を生み出すためには、知は長い道程を通りぬけなければならない」(同)のです。この「長い道程」が、第一部の意識の経験の学と、第二部精神の現象学なのです。ではこの長い道程を経て到達すべき知の目標となる真理とは何かといえば、それが「緒論」にいう「知が自己自身を見つけ、概念が対象に、対象が概念に一致するところ」(六一ページ)なのです。
 この知の目標である概念が対象に一致し、また対象が概念に一致するという概念の二つの運動を統一した「概念と存在との統一」、つまり理想と現実の統一という『現象学』の結論部分を述べているのが「絶対知」なのです。「絶対知」を理解するカギは、先に述べたようにヘーゲルのいう「概念」とは何かを正確に理解するところにあります。したがって、ルカーチのように『現象学』を全体として疎外論を論じたものととらえ、この観点から第三部は疎外論に関するこれまでの回想であって、「新しいものはもはや現れない」とするのは、『現象学』の「序論」や「緒論」で掲げた概念と存在との統一という問題提起への回答を示すものが「絶対知」であり、絶対知こそ「何を人々に訴えようとしたのか」の結論部分であることを理解しないものといわなければなりません。こうして本講座では、第三部絶対知を、これまでの第一部、第二部の総括をつうじて、「緒論」が提起した知の目標としての「概念が対象に、対象が概念に一致するところ」としてとらえることになります。

 絶対知はすでに表象の形で示されている

 概念の二つの運動とは、一つは対象のうちに概念を認識することによる「概念が対象に」一致する運動であり、もう一つは主観のうちに認識された概念を、実践をつうじて現実のものとし、対象を真にあるべき姿に変革することによる「対象が概念に一致する」運動です。この概念の二つの運動をつうじて、現実のなかから唯物論的な理想が主観のうちにとらえられ、その理想が実践され現実のものとなって理想と現実の統一が実現されるのであり、ヘーゲルはそれを「概念と存在の統一」としての絶対知とよんでいるのです。ヘーゲルは、この概念の二つの運動は、既にこれまでの意識・精神の運動のうちに、純粋な概念としてではなく、表象の形で現れているのであって、いま「必要なことは、既に現われているこれまでの意識形態を、想い起すことだけ」(四四二ページ)であり、そのうちに概念の運動を見いだすことだといっています。
 その一つは「D 精神」の「道徳性」で学んだ「美しき魂」であり、もう一つは、「E 宗教」の「啓示宗教」であるとします。すなわち「美しき魂」とは、事物の「真にあるべき姿」というイデアを直観的に「内なる声が、神の声」(三七三ページ)としてとらえたものにすぎず、その「美しき魂」は、行動をつうじて外化し、善と悪、個人と共同体の対立が生じることになりますが、「赦し」という相互承認をつうじて、対立から統一へと回復し、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という個人と共同体の一体化を実現する真のイデア(概念)が誕生する、運動を述べたものだ、というのです。他方でヘーゲルは、キリスト教の三位一体論に、神が外化して子となり、子が死して聖霊となる運動によって、概念が外化して存在となり、この外化された存在の死のうちに概念を認識するという精神の運動を見いだしました。
 単純化していえば、「美しき魂」において概念を認識する運動が示され、啓示宗教において概念が現実化する運動が示されているのであって、両者が統一されることによって「概念が対象に、対象が概念に一致する」知の目標に到達し、理想と現実の統一としての絶対知となる、としているのです。
 以上が「F 絶対知」の概要であり、こうしてみてくると、序論、緒論も含めた『現象学』全体がきわめて論理的な構成になっており、第三部の「F 絶対知」が、第一部、第二部の総括となっていることも理解することができるでしょう。この概要を念頭において、「絶対知」を学んでいくことにしましょう。

 

一、絶対知の成立

 啓示宗教は絶対知を表象する

 「E 宗教」の最後に学んだ啓示宗教における三位一体論は、「自己の外化において自己自身を知ることであり、自らの他在にいながら、自己自身との等しさを保ったままで、動いているような実在」(四二三ページ)を示す絶対精神でしたが、この絶対精神こそ実は概念(イデア)の運動にほかならなかったのです。
 三位一体の神とは概念そのものであって、それは自ら外化して現実的存在(イエス)となり、その存在が概念であることはイエスが死後復活して聖霊となることによって示されているのです。その意味では、三位一体論は、概念が外化することによって、「対象が概念に一致する」という概念の運動を示すものであったということができるのです。
 しかし啓示宗教においてその「表象の内容は絶対精神」(四四一ページ)としての概念となっていますが、まだ「現実的意識」(同)を引きずっているので、「表象というこの形式を廃棄」(同)して純粋知に高められなければなりません。言いかえると、表象性を廃棄するとは、意識が「対象を超え」(同)、対象のもっている本質的部分が意識のうえに「概念」という形で創造的に発展させられることによって、「対象そのものが意識にとって消える」(同)ことを意味しています。つまり、対象の概念を認識するということは、「自己の他在そのものにおいて、自己のもとにいる」(同)ことによって、対象そのものを消してしまうことなのです。
 それは、これまでみてきた「意識の諸々の形態のうちに生じて」(同)きたことであり、一言でいえば、対象を「自己(概念 ── 高村)として把握する」(同)ことにほかなりません。そもそも意識の運動は、「絶対的他在において純粋に自己を認識する」ことをつうじて、対象を乗り越え、対象を「自己として把握する」運動ということができます。例えば、「A 意識」では、「直接的意識」(同)、つまり感覚から、「知覚」(四四二ページ)「悟性」(同)へと意識は発展していきますが、その運動をつうじて意識は「個別者から一般者(本質 ── 高村)に至る」(同)のであり、それは「対象を自分自身である(本質 ── 高村)と知」(同)ることになり、ある意味で「対象を超え」ているのです。
 しかしまだこの段階の知は、「対象を純粋に概念把握するような知」(同)ではないため、知はさらに前進しなければなりません。そのためには「既に現われているこれまでの意識形態を、想い起す」(同)ことによって、一方では対象が消えつつ、他方で概念が形成され、運動していく過程を学ぶ必要があるのです。

 これまでの意識形態において絶対知は二重の側面から成就されている

 まず「A 意識」の「観察的理性」(同)では、対象である「物のなかに、自分自身を求め見つけ」(同)たのであり、「この理性の頂点においては、その規定は、自我の存在は物である、という無限判断」(同)となりました。言わば、自我は対象である物のうちに解消されてしまったのです。
 しかしこの無限判断は同時に「物は自我である」(同)という規定を含んでいます。すなわち、物は「自我との関係によってのみ意味をもつ」(四四二~四四三ページ)のであって、それが「啓蒙」のいう「有用性」論でした。つまり自我は対象としての「物」を消し去って、それを「自我あっての物」という有用性につくりかえてしまうのです。
 しかしこの段階では「物の知はまだ完結してはいない」(四四三ページ)のです。なぜなら物の自立性は否定されたものの、物は「本質乃至は内なるもの」(同)としても、また「自己(概念 ── 高村)として」(同)も、まだとらえられていないからです。こうして物の知は、自己のうちに移行して道徳的意識(良心)となりますが、そこでは真にあるべき生き方という生き方の概念が問題とされますから、「自らの知が絶対的本質(実在)態」(同)となっています。
 したがって啓蒙から良心への移行は、「精神とその本来の意識との和解」(同)、つまり、意識が絶対的精神としての概念に移行する「契機」(同)となるものです。というのも良心は、行動をつうじて自己を外化し、善と悪、個人と共同体に「分裂」(同)しますが、「赦し」をつうじて「分裂がもとに帰」(同)り、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という、個人と共同体の概念(イデア)に達するからです。
 こういう良心の運動をつうじて、個人と共同体は「まだ残っている空しい対立を廃棄し、自我=自我という知」(四四四ページ)、つまり「自己内存在の知」(四三八ページ)としての概念に達するのです。ここにいう概念とは、まず対象となる客観的事物の「真の姿(本質)」を、対立する二つの極の矛盾としてとらえ、次いでその矛盾を揚棄することによって自己のうちに得られた客観的事物の「真にあるべき姿(イデア)」であり、したがって概念は「空しい対立を廃棄」することによって対象を超えた「自己内存在の知、自我=自我」(同)なのです。ここに至って「対象そのものが意識にとって消える」(四四一ページ)ことになります。
 この良心の運動をつうじて、一方では対象が消えつつ、他方では「概念が対象に」一致することが示されていたのです。というのも、対象をつうじて対象の概念を認識するということは、客観としての対象が潜在的にもっている対象の概念を、自己が顕在化して主観のうちに認識するという意味において、主観としての概念が、客観としての概念に一致するのであり、したがって「概念が対象に一致する」ことになるからです。
 その意味では、対象のうちに概念を認識することによって、主観と客観の一致が実現されるのであり、ヘーゲルはそれを「意識と自己意識のこの和解」(四四四ページ)とよんでいます。「したがって、意識と自己意識のこの和解は、一方では宗教的精神において、他方ではそのままの意識自身(良心 ── 高村)においてという、二重の側面から成就されていることがわかる」(同)。このように概念を媒介した「意識と自己意識」、つまり主観と客観の統一は、一方では「宗教的精神」としての三位一体論における「対象が概念に一致する運動」として、他方では良心における「概念が対象に一致する運動」において、「二重の側面から成就されていることがわかる」のです。
 「F 絶対知」の冒頭において、「宗教的精神」、つまりキリスト教の三位一体の神は、概念の運動を示す絶対的精神であることを学びました。すなわち三位一体論とは、概念(神)が外化して現実(イエス)となり、現実のうちに概念を見いだすという意味において、「対象が概念に一致する」運動としてとらえられたのです。
 これに対して「美しき魂」では、「美しき魂」とは概念を認識する意識の運動を示すものであり、概念を認識する運動は、まず対象の本質を対立する二つの極としてとらえ、ついでその対立・矛盾を揚棄するものとして手にしうるという意味において、「概念が対象に一致する」運動としてとらえられたのです。
 つまり「美しき魂」において真にあるべき姿としての概念を認識し、啓示宗教において概念を現実のものに転化するのであり、両者の統一のうちに「概念が対象に、対象が概念に一致する」絶対知となるというのです。こうして、絶対知とは、概念を媒介とする主観と客観の統一、理想と現実の統一とされることになります。この論理の展開をもう少し詳しくテキストに沿ってみていきましょう。

 概念の二つの運動は、美しき魂において統一されて「真の概念」となる

 三位一体論における「意識と自己意識」(四四四ページ)、つまり主観と客観の和解は、宗教的精神の場合には概念が外化して存在になるという和解であるのに対し、良心という「意識自身」(同)の場合には、存在から概念が生まれるという和解です。しかし、この段階では両側面はいずれも概念の運動の一面性を示すものであって、「これら両側面の結合はまだ示されていない」(同)のです。
 「だがこの結合は自体的には既に起っている」(同)のであり、それはこれまで明確にはされてこなかったものの良心における「美しき魂」(同)においてのことなのです。ヘーゲルは「美しき魂」における概念の運動を三つの契機に分解して論じています。
 まず第一に、「美しき魂」とは、そもそも人間として真にあるべき生き方を自ら知っている「道徳上の天才」(三七三ページ)ですが、それは言いかえると生き方の「概念」を直観的に自己のうちにもっていることを意味しています。すなわち「この美しき魂は、純粋な透明な統一において、自己自身を自ら知」(四四五ページ)っているのですが、「自己自身を自ら知る」とは、「自らの生き方の概念を知る」ということです。したがって「美しき魂」とは、「神的なもの(概念 ── 高村)の自己直観でもあるような自己意識」(同)にほかならないのです。
 「神的なものの自己直観」という表現に、ヘーゲルがアリストテレスに学んでイデアをとらえていることが示されています。アリストテレスは『形而上学』(『アリストテレス全集』第一二巻第九章)において、理性は「最も神的で最も尊いものを思惟」(同四二八ページ)するのであって、この神的な理性は「それ自らを思惟する(いやしくも最も優越的なものであるからには)、言いかえれば、その思惟は思惟の思惟(思惟のなかの最高の思惟 ── 高村)」(同四二九ページ)、つまりイデアであるとしています。ヘーゲルは、アリストテレスに学んで「美しき魂」とは「内なる声が、神の声」(三七三ページ)であるイデアと「心得て」(同)いる「道徳上の天才」ととらえたのです。
 さらにヘーゲルは、『エンチクロペディー』の末尾に右の文章を引用し、「思惟の思惟」としてのアリストテレス的イデアを、彼から学ぶべき最良のものと理解しました(詳しくは拙著『科学的社会主義の哲学史』九八ページ以下参照)。ヘーゲルは、プラトンのイデアがたんなる「デュナミス(可能態)」にとどまって外化する力をもたないのに対し、アリストテレスのイデアは「本質的にエネルゲイアであること、言いかえれば、端的に外にあらわれている内的なもの」(『小論理学』下八四ページ)ととらえました。
 つまりヘーゲルは、真にあるべき姿であるがゆえに、イデアは必然的に現実性に転化し、現実を真にあるべき姿に変革する力をもっていると考えたのです。いわば、私たちのいう「真理は必ず勝利する」という命題を、エネルゲイアとしてのイデアに求めたのです。
 そこで第二に、「美しき魂」は、「外化の力」(三七四ページ)が欠けている場合には、「空しい蒸気となって消えてしまう」(四四五ページ)ことから、「積極的に外化し進んで行く」(同)ことをつうじて「真の概念」(同)となっていくのです。
 すなわち出発点となる「美しき魂」の概念は、「絶対至上の独裁権」(三六九ページ)としての独善的な概念にすぎないのですから、外化することによって善と悪、個人と共同体とに分裂・対立せざるをえなくなってきます。こうして「美しき魂」の概念は、本来の真にあるべき姿としての概念ではなかったことが明らかとなってくるのです。
 ここから、「美しき魂」には第三の概念の運動、つまり、本来の真にあるべき姿としての概念の誕生という運動が生じてくることになります。それがヘーゲルのいう「概念が充実される」(四四五ページ)ということなのです。すなわち第三に、「対立の各々は、他方に対抗して現われ出る規定態」(四四六ページ)であって、真理ではないとして、「自ら進んで断念」(同)し、相互承認の赦しの世界において、この対立する「自己自身を廃棄する」(同)ことにより、「絶対至上の独裁権」にすぎなかった概念は「真に在る通りに措定される」(同)ことになります。つまり「美しき魂」の概念はここに「充実される」ことによって、本来の真にあるべき姿としての「真の概念」となるのです。それが赦しの世界における善と悪、個人と共同体の分裂・対立を揚棄する「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という、個人と共同体の「概念」にほかなりません。
 精神は、この概念のうちに「在るとき初めて精神であり、その定在を思想に、それによって絶対的な対立に高め、正にこの対立によって対立から出て、自己自身に復帰する」(同)ことによって「真の概念」となります。「かくて宗教において内容であった」(同)概念が、良心においては「自己自身の行為」(同)の結果として現れてくるのです。
 以上、良心における概念の三つの契機をみてきました。それは第一には、良心とはまずは独善的な生き方の概念であり、第二には、良心は概念であるがゆえに、行動をつうじて外化せざるをえないということであり、第三に、行動による外化によって生じる分裂・対立は揚棄されて真にあるべき姿としての「真の概念」を生みだすというものでした。こうして良心の運動には、無自覚的にではあっても、概念の二つの運動が含まれていたのです。いま必要なことは、この概念の二つの運動という「両方を結びつけ」(同)、概念と存在を統一することにあるのです。

 

二、絶対知の本質

 絶対知の本質は理想と現実の統一にある

 「かくて宗教において内容であった」概念が、良心においては「自己自身の行為」として現れ出たのであって、いま必要なことは「両方を結びつける」ことなのです。というのも、良心において対象のうちに概念を認識し、キリスト教において主観的概念は現実のものとなるのであり、両者を統一し、「概念が対象に、対象が概念に一致する」(六一ページ)絶対知となるからです。「概念が対象に」一致するとは、自己が対象のうちに、「概念」という対象の真にあるべき姿を認識することであり、「対象が概念に一致する」とは、主観としての「概念」を現実化することにより、対象が真にあるべき姿に変革され、対象が概念に一致することを意味しています。
 この概念の二つの運動を結びつけることが、知の目標としての「概念と存在の統一」、つまり理想と現実の統一」としての絶対知なのです。この絶対知のもとで、「概念は、自己における自己の行為が全実在であり、全定在であると、知ることであり、この主体が実体であると知ることであり、実体が自己の行為の知であると知ること」(四四六ページ)になります。
 先に理性のところで、「理性は、全実在であるという意識の確信である」(一四二ページ)ことを学びましたが、理性の真理である精神は、いま概念の全運動としての絶対知においてこの「確信」をかみしめているのであって、真理は実体ではなく主体であって、真理は「自己の行為」の全実在として生み出されることを知るに至るのです。 つまり、概念の全運動とは、対象となる客観的事物のうちに、その真の姿(本質)を対立する二つの極としてとらえ、その対立・矛盾を揚棄するものとして対象の真にあるべき姿(概念)を認識し、この主観のうちにとらえた概念を実践することをつうじて対象を真にあるべき姿に変革し、もって「自己の行為が全実在」であると知り、真理は実体ではなく、主体であると知るのです。この概念の全運動が「概念と存在の統一」、つまり理想と現実の統一としての絶対知にほかなりません。
 エンゲルスは『反デューリング論』のなかで次のように述べています。「われわれが事物を静止した、生命のないものとして、個々別々に、相並び相前後するものとして考察するあいだは、たしかに、それらの事物においてどんな矛盾にもぶつからない、……しかし、われわれが事物をその運動、変化、生命、交互作用において考察するやいなや、事情はまったく違ったものになる。その場合には、われわれはたちまち矛盾におちいる」(全集⑳一二五ページ)。
 変革の立場で対象を認識するとは、対象の本質を対立においてとらえ、その対立・矛盾を揚棄する概念を認識することで対象を合法則的に発展させることなのです。「精神のこの最後の形態は絶対知である。それは、自らの完全で真なる内容に、同時に自己という形式を与え、このことによって、その概念を実現すると共に、かく実現することにおいて、自己の概念のうちに止まる精神である」(四四六ページ)。言いかえると絶対知とは「精神の形態において自らを知る精神」(同)であり、「概念把握する知」(同)ということができます。
 ここにおいて「概念と存在の統一」という知の「目標」(六一ページ)に到達し、「真理は定在となっている」(四四六ページ)のです。

 「精神の現象学」が終わったところから「論理学」が始まる

 この真理の「定在の場において意識に現われる精神」(四四七ページ)としての「概念」を扱うのが「論理学」なのです。
 以上をまとめてみると、知の運動は、自己から他在へ、他在から自己へ復帰するという運動の反復をつうじて、現象から本質へ、本質から概念へ、概念の認識から概念の実現へと進行し、「概念と存在の統一」という知の目標に到達する運動であり、その理想と現実の統一の運動をヘーゲルは「対象そのものが意識にとって消える」(四四一ページ)運動と表現したのです。
 つまり、自己にとって対象を概念として把握することが、対象を完全に我がものとすることによって対象を消し去り、この概念の現実化によって「新たな対象が意識にとって生みだされる」ことになり、ここにこれまでの対象は完全に「消える」ことになるのです。したがって概念の内容は、「対象という姿をとりながら」(四四七ページ)、「精神として自分で(自覚して)自己自身を貫いている精神」(同)ということができます。
 これまでの知の長い道程の意味するところは、この道程をつうじて「自己意識は次第に豊かになり、遂には実体全体を対象的意識からもぎとり、実体の本質の構造全体を自己のうちに吸いこんで」(四四八ページ)対象を完全に消し去り、概念として完成していく精神の運動だったのです。
 ヘーゲルは対象を概念に変革することによって、たんに対象が消えるというだけでなく、対象となる客観的事物は時間と空間のうちに存在していますから、対象が消えるということは、時、空を超えて永遠の真理に達することだととらえています。つまり「精神は、自らの純粋概念を把握していない限り、すなわち、時間を亡ぼしていない限り、時間のうちに現われる」(同)のであって、「それゆえ時間は、自らにおいて完結していない精神の宿命であり、必然性」(同)なのです。言いかえると、対象を概念把握することによって、「時間を亡ぼ」すことになり、概念を取り扱う「論理学」は、時空を超えた永遠の真理として、すべての経験科学のうえに君臨することになるのです。
 精神の運動は「その自体を対自に、実体を主体に、意識の対象を自己意識の対象に、すなわち、同じ意味で廃棄された対象に、つまり概念に変える運動である」(四四九ページ)。つまり精神の運動は、自己から他在へ、他在から自己への復帰の運動を反覆することをつうじて、「意識の対象を自己意識の対象に」、つまり意識の対象となった他在をすべて自己のうちに取り込んで「廃棄」し、「概念に変える運動」なのです。
 「そのときになって初めて精神は、その最内奥の深みに在る思想を外に向け、実在を自我=自我であると言表することになる」(四五〇ページ)。ヘーゲルは精神の「最内奥」を概念と存在の統一に求め、それがフィヒテのいう「自我=自我」であるとしているのです。ヘーゲルの墓が生前の要望によってフィヒテの墓に並んで建てられているのは、フィヒテの「自我=自我」に概念と存在の統一という自らの知の「目標」(六一ページ)を見いだしたからのことでしょう。
 「ここまできたとき精神現象学は終る」(三四ページ)のであり、これまでの『精神現象学』にかわって、概念のみを取り扱う「論理学」が「精神が自己自身についてもつ真の知」(四四九ページ)として登場することになります。

 

三、「現象学」から「論理学」へ

 「論理学」は一対の概念(諸カテゴリー)の体系的展開

 「かくて精神は、概念をえたのであるから、自らの生命のこのエーテルのなかで、自らの定在と運動を展開し、学(論理学)となる」(四五一ページ)。ヘーゲルは、「一般的に言って、哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだ」(『小論理学』㊤六五ページ)といっています。カテゴリーは「範疇」と訳されていますが、抽象度を最高に高めた一対の最高類概念であり、したがってもっぱら対立する一対のカテゴリーを取り扱う「論理学」は諸概念の体系的展開として示されることになります。「論理学」は、このカテゴリーを最も単純なものから最も複雑かつ高度なものに弁証法的に発展していく体系としてとらえたものであり、「有論」「本質論」「概念論」の三部構成となっていて、有論は即自的概念、本質論は対自的概念、概念論は即対自的概念にかんする理論とされています(同二五六ページ)。
 その意味では、「論理学」全体がカテゴリーとしての「概念にかんする理論」ということもできるでしょうが、第二講で学んだようにヘーゲルが概念=真理という意味でとらえるとき、概念(真理)とは事物の真の姿としての本質と事物の真にあるべき姿としての概念となるでしょうし、概念をイデアの意味でとらえるとき、概念とは概念論の概念(真にあるべき姿)ということになるでしょう。
 つまりヘーゲル哲学の最重要概念である「概念」には、「カテゴリーとしての概念」「真理としての概念」「イデア(真にあるべき姿)としての概念」という、大きく三つの意味があり、それぞれの場で使い分けていることに注意しなければなりません。
 こうして論理学においては、「精神が動くときのもろもろの契機」(四五一ページ)は、「意識の一定の形態」(同)をとって現れるのではなく、「一定の概念(『論理学』の諸範疇)」(同)、つまりカテゴリーとして現れてくるのです。そしてこの一対の諸カテゴリーにもとづき、論理学は「自己自身に基づいた有機的な概念の運動として現われる」(同)ことになります。

 「論理学」は「自然哲学」「精神哲学」のうえに君臨する

 論理学は、カテゴリーでとらえた認識論ですから、それ自身「絶対的他在において純粋に自己を認識する」形態をとることになり、「学は、純粋概念の形式が外化する必然性と、概念が意識に移行することとを自分自身のうちに含んでいる」(四五二ページ)ことになります。したがって論理学は、自己を外化して「自然哲学」となり、自然哲学から自己に回帰して「精神哲学」となることを「自分自身のうちに含んでいる」のです。
 こうして論理学は、自然哲学と精神哲学とを「自分自身のうちに含む」ことにより、自然と精神という世界の二大要素の上に君臨することによって「絶対精神の王座」(四五三ページ)に座ることになりますが、「この王座がなければ絶対精神は生命なき孤独であろう」(同)として、『現象学』は結ばれています。

 

 

* コラム * 史的唯物論と絶対知

 ヘーゲルの絶対知の意義と限界

 最初にヘーゲル哲学と絶対知の意義と限界を明らかにしておきましょう。
 ヘーゲルは、「理性は、全実在であるという意識の確信」(一四二ページ)であり、精神を理性の真理(二五五ページ)としてとらえることによって、『現象学』全体をつうじて変革の立場を貫いています。それが『現象学』の結論部分である「絶対知」にも現れていて、絶対知とは、知の目標である「概念(真にあるべき姿)と存在の統一」、言いかえると理想と現実の統一という絶対的真理の実現であるとしました。しかもヘーゲルは、「概念」を現実の矛盾を解決して人間疎外からの解放を実現するものとしてとらえ、しかもその矛盾の解決を理性的・普遍的個人を土台とする「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という真の人倫的世界に求めました。
 以上の点において、ヘーゲルの絶対知は積極的意義をもつものとして高く評価されなければならないでしょう。しかしそれと同時にヘーゲルの絶対知には大きな限界があることも指摘されねばなりません。それは真にあるべき社会を、現実の資本主義の矛盾を解決する社会としてではなく、良心の「赦し」の世界という、現実には起こりえない観念の世界に求めたところにあります。
 ヘーゲルの生きた時代のドイツは、一方では資本主義美化論としての有用性論がまだ幅をきかすほど資本主義の矛盾が顕在化していなかった時代であり、他方でマルクスの剰余価値学説はまだ登場していなかった時代でしたので、ヘーゲルの絶対知はそうした時代を反映した歴史的制約をもっていた、ということができるでしょう。しかしそういう時代の反映があるにしろ、ヘーゲルの変革の立場からすると『現象学』における資本主義美化論を肯定することはできません。後年ヘーゲルはこの矛盾に気づいたのか、『法の哲学』において実践的理性としての道徳のもつ制約を明らかにして、現実の社会・国家の変革を実践的理性の課題とし、資本主義の矛盾を厳しく批判することになります。
 こうした絶対知が提起した意義と限界を正確に理解し、変革の立場にたって資本主義的矛盾の経済学的解明による人間疎外の実体と、その矛盾の解決による真の人倫的世界としての人間解放を社会主義・共産主義としてとらえたのが、科学的社会主義の学説だったということができるでしょう。
 
 初期の哲学的社会主義論と絶対知

 マルクスは若いときに『現象学』をつうじて、第一二講のコラムでお話ししたようにヘーゲルの三段階歴史観を学び、人間の本質論を前提として人間の類本質の疎外からの解決という哲学的見地からその社会主義論を展開しました。「経・哲草稿」と「ミル評注」という事実上一本の論文をつうじて、マルクスは人間の類本質を対自然、対人間の二つの側面でとらえ、対自然の「労働」から生じる本質を「自由な意識」、対人間の「コミュニケーション」から生じる本質を「共同社会性」としてとらえました。そして労働による疎外を、「労働者がより多くの対象を生産すればするほど、彼の占有できるものがますます少なくなり、そしてますます彼の生産物すなわち資本の支配下におちいっていくほど、それほど激しい疎外として現われる」(『経・哲草稿』八七ページ)ととらえ、コミュニケーションにおける疎外を「人間的・社会的な行為が、疎外されて、それが人間の外に存在する物質的な物の、すなわち貨幣の属性になっている」(「ミル評注」全集三六四ページ)ととらえたのです。
 したがって、二つの疎外から解放される社会主義・共産主義とは、「人間による人間のための人間的本質の現実的な獲得」(『経・哲草稿』一三〇ページ)の社会とされ、「この共産主義は完成した自然主義として=人間主義であり、完成した人間主義として=自然主義」(同一三一ページ)であって「それは人間と自然とのあいだの、また人間と人間との間の抗争の真実の解決」(同)としての人間解放の社会ととらえられています。つまり初期の科学的社会主義における社会主義論とは、人間の類本質が全面的に回復した、真のヒューマニズムにたった人間解放の社会ということができるでしょう。

 後期の社会主義論と絶対知

 しかし、マルクスはその後、社会主義論はたんに哲学的にではなく、経済的・政治的にも解明されなければならないと考え、社会の土台となる経済学の研究に打ち込み、資本主義の矛盾の解明をつうじて社会主義論を発展させました。すなわち、資本主義の矛盾は「社会的生産と資本主義的取得」としてとらえられ、その矛盾を揚棄する「概念」を「社会的生産と社会的取得」の社会主義として規定することになります。
 つまり経済的な意味の社会主義とは、生産手段の社会化による搾取と階級を廃止する社会としてとらえたのです。続いて、社会主義を政治的にとらえると、その権力は「プロレタリアート執権」、つまり労働者階級の主導性と人民主権の統一の権力とされ、社会主義をヘーゲルのいう「一人はみんなのために、みんなは一人のために」の真の人倫的社会としてとらえました。

 科学的社会主義の社会主義論と絶対知

 結局科学的社会主義は、ヘーゲルの絶対知について、直接社会主義・共産主義を展望するものではなかったものの、真にあるべき社会を人間の類本質の疎外からの解放としてとらえたという点でも、現世の現実的な矛盾を解決する「概念」としてとらえていたという点でも、また「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という人倫的社会としてとらえた点でも、社会主義・共産主義への道を掃き清めたものとして評価し、その積極的部分を科学的社会主義の社会主義論に生かしていったということができるでしょう。
 その意味では科学的社会主義の社会主義論は、哲学的には疎外からの人間解放論として、経済的には資本主義的矛盾の概念的解決として、政治的には真の人倫的社会として、ヘーゲルの絶対知を発展的に継承したものということができると思います。
 『現象学』の泰斗・金子武蔵氏が「マルクスが類的生命、類的存在としての人間(『経・哲草稿』)の立場から絶対的な知ること(絶対知 ── 高村)をもってコミュニズムと規定するのは、必ずしも奇異ではなく、むしろ相互承認の成立が共同体のそれと不可分であるところからして当然である」(金子武蔵訳『精神の現象学』㊦一六八五ページ、岩波書店)としているのも、うなづけるところです。