2014年12月27日 講義

 

 

第15講 『現象学』から何を学ぶのか

 

1.『現象学』をどういう見地から学ぶのか

● マルクス『経・哲草稿』のヘーゲル批判の的確性

 ・『経・哲草稿』の第3草稿「五」は「ヘーゲルの弁証法と哲学一般との批判」
  (同188ページ)と題して「ヘーゲル哲学の真の誕生地であり、その秘密で
  ある」(同193ページ)『現象学』批判を展開している

 ・そこでは、ヘーゲルの疎外論を高く評価しながら、「ヘーゲルにおける2重
  の誤り」(同195ページ)として次の2点を挙げている。

 ・第1には、人間疎外が現実の人間疎外ではなくて「抽象的な哲学的思惟の疎
  外」(196ページ)にすぎず、したがって、現実の人間における「人間的本
  質がみずからを非人間的に」(同)されている事実をみていない

 ・第2には、したがって疎外からの回復による「人間の本質諸力」(同197ペー
  ジ)の獲得も「純粋思惟のなかで」(同)の獲得にすぎない

 ・ヘーゲルはせっかく「自己疎外的精神」を論じながら、資本主義社会を「こ
  とそのもの」「有用性」という予定調和の世界としてとらえ、「主と僕」で
  とらえた階級対立も貧富の対立もみようとしないから、マルクスの批判は適
  確

 ・また「自己確信的精神」という疎外から回復した精神も、道徳的な「赦し」
  の世界という観念論的疎外からの回復にすぎないからである

 ・いわば、マルクスのヘーゲル批判はヘーゲルから脱皮して史的唯物論を確立
  する出発点としての意義をもつもの

 ・しかし私たちはすでに史的唯物論を手にしているので、別の観点から『現象
  学』を学ぶ必要がある

●『現象学』を3つの見地から学ぶ

 ・第1講で『現象学』を学ぶ3つの見地を示した

 ・1つは、科学的社会主義の学説をより豊かにする見地から学ぶことであり、
  2つは、『現象学』をヘーゲル哲学の到達点ではなく、出発点として学ぶこ
  とであり、3つは、200年以上前の『現象学』を現在の自然科学、社会科
  学の到達点から学ぶ、という3点である

 ・そこで、この3つの見地から、これまでの講義のまとめとして、以下に『現
  象学』から何を学ぶのかを整理してみたい

 

2.『現象学」の認識論は、弁証法的唯物論の認識論

● 唯物論的認識論

 ・意識の発展を、経験を媒介とする「絶対的他在において、純粋に自己を認識
  すること」(27ページ)による主体的運動としてとらえている

 ・ヘーゲルは個人の意識の発展を感覚、知覚、悟性、理性としてとらえている
  が、これは現代の認知心理学における「感じる」「知る(記憶する)」「考
  える」「創造する」に対応する唯物論的認識論

 ・私たちは、こうした一連の認識をつうじて現象、本質、概念へと認識を深め、
  発展させるが、ヘーゲルはそれを「論理学」において「有論」「本質論」
  「概念論」として展開

 ・ヘーゲルの認識論は、経験を認識の源泉とする点でも、経験を媒介として、
  認識が現象、本質、概念へと発展するという点でも、弁証法的唯物論の見地
  にたった認識論ということができる

● ヘーゲルの理性は合理主義と変革の意識

 ・「理性は、全実在であるという意識の確信である」(142ページ)

 ・2つの意味がある。1つは世界は合理的、法則的であるという合理主義、も
  う1つは理性は全実在を変革する意識

 ・いずれも今日的到達点からして正しいが、これまでの解説書では、理性が変
  革の意識であることが明確にされていない

 ・脳科学でいうと、外部からの情報は、いわゆる五感としての「感覚野」に集め
  られて感覚、知覚となり、「言語野」に送られて悟性となり、さらに頭頂連
  合野と前頭連合野という脳の司令塔において、理性、創造性となる(第3講
  コラム)

● 対象意識と自己意識

 ・ヘーゲルが対象意識(「A 意識」)と自己意識(「B 自己意識」)とを区
  別し、後者をより高い意識としてとらえたのも正しい

 ・自己意識は第3者の目で自己や他者や社会をみる意識

 ・認知心理学をつうじて、人間は、3,4歳頃までは「対象意識」しか存在しな
  いが、5歳頃から第3者の立場でものごとを考える「自己意識」が目覚め、い
  わゆる「メタ認知」とよばれる人間らしい心を獲得するとされている(第6
  講コラム)

 ・自己意識とは、人間の類本質としての共同社会性の意識として人間らしい心
  を生みだすもの

 ・いわば、「対象意識」は類人猿でももっている「生物的な1次感情」を生みだ
  すのに対し、「自己意識」は人間に特有の「社会的な2次感情」を形成する
  (第2講、第3講コラム)

 ・ヘーゲルが「自己意識に至ると同時に、真理の故郷に入っている」(109ペー
  ジ)としているのも、人間の類本質の1つが共同社会性の意識にあることを
  指摘したものとして、素晴らしい

 ・ヘーゲルが「自己意識の概念」(115ページ)こそ「精神の概念」(同)と
  して、「われわれである我と、我であるわれわれとの両者が1つ」(同)と
  して個人と共同体の概念を示しているのも評価しうる

● 観念論の特徴は、経験から生じる、感じる、知る、考える、創造するという
 一連の心の働きを分断してしまうところにある(第5講、第10講コラム)

 ・カントは経験にもとづく「現象」は認識しうるが、経験を超える「物自体」は認
  識しえないとしたが、これは「知る」と「考える」の間に乗り越えられない壁を
  人為的につくり出すもの

 ・新カント派のウェーバーは「事実と価値」を峻別し、科学の対象になるのは事
  実のみとして、史的唯物論を攻撃したが、これもカントと同様に「知る」と
  「創造する」の間に絶断をつくり出すもの(創造するところに価値が求めら
  れる)

 ・「実存主義」、フッサールの「現象学」などの、いわゆる「非合理主義哲学」は、
  世界は混沌とした非理性的存在だから、理性によってではなく、感情、直観、
  本能などを基準として人間、世界をとらえようとして、世界が合理的存在で
  あることを否定し、理性を感性、知性から切断する

 ・分析哲学やプラグマティズムなどの「新実証主義」は、経験から生まれた感
  覚のみが「実証的」であり、感覚を超えるものを探究することは形而上学だ
  とすることによる、カントと同様の「知る」と「考える」の分断による不可知論

 ・つまり観念論の特徴は、創造性をもつ理性を他の意識から切り離すことで、
  意識の創造性を一面的に強調して「なにかの種類の世界創造を認め」(全集㉑
  279ページ)るか、それとも感性を一面的に強調することによって経験に直
  接由来する感性を超えるものを認めないという不可知論や反科学主義(科学
  とは創造すること)にたつことになる

 ・ヘーゲルが感覚から理性までを一連の心の働きとしてとらえ、「理性は全実
  在であるという意識の確信」(142ページ)としたことは、現代観念論を反
  駁する唯物論的認識論であることを証明するもの

 

3.『現象学』における変革の立場

● 変革の立場を示す弁証法

 ・理性がおこなう対象の「合法則的発展」を実現するのが弁証法

 ・弁証法とは、「正―反―合」の形式主義ではなく、「対象の生命に身を委ね」
  (43ページ)、対象の内的必然性」(同)をつかむ結果としての「正―反―
  合」(対立物の統一)

 ・対象の合法則的発展は、対象の本質を認識することに始まる

 ・本質とは、対象の「内なる真の姿」であり、「対象の内的な必然性」

 ・「必然性」とは、2つのものの間において、そうであってそれ以外ではあり
  えない関係があることを意味しており、最も基本的な必然性が上と下、左と
  右というような「対立」という関係である

 ・この客観的実在における必然性を認識のうちにとらえたものが「法則」と呼
  ばれるものであり、したがって、もっとも基本的な法則は、対立する2つの
  ものが1つのもの(自己を中心とした位置関係における上と下、自己を中心
  とした方向関係における左と右)のうちにあること、つまり対立物の統一と
  いう弁証法の基本法則となる

 ・つまり運動、変化、発展をとらえる弁証法とは、「対象の生命に身を委ね」、
  対象の観察をつうじて対象の真の姿(本質)を対立物の統一として認識する
  ことから始まる(「正―反」の認識)

 ・これがヘーゲルのいう「知覚」であり、知覚とは本質のうちに「現存する矛
  盾(対立―高村)の展開」(79ページ)を認識すること

 ・ヘーゲルは教養を身につけるということは、ラモーの甥のように、すべての
  物を対立物の統一としてとらえるものの見方を身につけることとしている

● ヘーゲルの変革の立場は、「概念と存在の統一」に集中的に表現される

 ・しかし事物の本質を対立物の統一として意識するだけでは、事物の合法則的
  発展をとらえることはできない

 ・そのためには対立した「本質」から、統一した「概念(真にあるべき姿)」
  への認識の弁証法的発展が求められる(「反―合」の認識)

 ・本質のもつ対立・矛盾を「揚棄」する統一として概念は認識される

 ・ヘーゲルのいう「概念」とはアリストテレスのイデアであり、「現実に転化
  する必然性をもった事物の真にあるべき姿」である

 ・つまり概念とは、変革の立場にたった真理、言いかえると当為の真理

 ・「矛盾の揚棄」とは、矛盾のもつ消極的部分を廃棄しつつ、積極的部分を保
  存し、より質の高いものに移行することであり、これが合法則的発展とよば
  れるもの

 ・史的唯物論では、社会構成体における本質的矛盾を生産力と生産関係の矛盾
  としてとらえ、その矛盾の揚棄としてより質の高い社会構成体が生まれると
  している

 ・ヘーゲルは、知の目標としての「絶対知」を「知が自己自身を見つけ、概念
  が対象に、対象が概念に統一するところ」(61ページ)としているのは重要
  な意義をもつ

 ・というのも、そこには、いかにして対象のうちに概念を認識するかの問題と、
  認識した概念をいかにして現実に転化するかという問題とが、概念の2つの
  運動として区別されながらも統一され、理想と現実の統一という知の目標が
  語られているから

 ・第1に、「概念が対象に一致する」とは、「対象のうちに潜在する概念を主
  観のうちに顕在化して取り出すことにより、主観と客観とが一致し、概念が
  対象に一致する」ことを意味しており、いかにして唯物論的な理想としての
  概念を認識するかという運動がとらえられている

 ・つまり、ヘーゲルの変革の立場は、まず対象の真の姿(本質)を対立物の統
  一として認識し、その対立・矛盾を揚棄するものとして対象の真にあるべき
  姿(概念)を認識することを示している

 ・それを示したのが、行動する良心における善と悪、個人と共同体の対立と、
  相互承認の「赦し」による対立を揚棄した「1人はみんなのために、みんな
  は1人のために」と言う共同体の概念

 ・ヘーゲルは、「精神は本来、認識であるところの運動」(448〜449ページ)
  であり、「意識の対象」(449ページ)を「概念に変える運動」(同)、つ
  まり概念を認識する運動こそ、最も重要な運動としてとらえている(『エン
  チクロペディー』の最後に、アリストテレスの「思惟の思惟」を引用)

 ・「概念」に達しないと「自己意識的精神」(449ページ)は「自己に完全に
  達することはできない」(同)

 ・第2に、この主観のうちにとらえられた概念を、実践をつうじて現実に転化
  することによって、対象を真にあるべき姿に変革し、「対象が概念に一致す
  る」ことになる

 ・この概念の2つの運動の統一により、「概念と存在の統一」、つまり理想と
  現実の統一という「絶対知」が実現されるというもの

 ・しかし、後のヘーゲルの哲学体系・『エンチクロペディー』(第2版1821
  年)の『小論理学』では、1819年のカールスバート決議(学問の自由の否
  定、検閲)の影響もあってか、概念はいかにして認識されるかという最も重
  要な問題が曖昧にされていて、その「概念論」はもっぱら「対象が概念に一
  致する」という概念の外化の側面から論じられている

 ・それだけに、まだ学問の自由が存在した1807年の『現象学』が、概念をいか
  にして認識するかという「概念が対象に一致する」側面を明記していること
  は貴重であるといえる

 ・いわば、ヘーゲルは理想と現実の統一のためには、当初から概念の2つの運
  動が必要であるととらえていたにもかかわらず、『小論理学』で「概念が対
  象に一致する側面」を曖昧にしているのは、弾圧を免れるための故意の偽装
  工作と断ぜざるをえない

● ヘーゲルの変革の立場は、真理には、事実の真理と当為の真理という、
 2つの真理があることを明確にしている

 ・これまで弁証法的唯物論において、真理とは客観に一致する認識とされてき
  た

 ・いわば、真理は解釈の立場にたって客観的事実を正確に意識のうえに反映さ
  せることとしてとらえられてきた

 ・しかしヘーゲルは、変革の立場にたつことによって、あるべき姿にも真理が
  あるとして、それを真にあるべき姿としての「概念」としてとらえた

 ・これにより、真理とは広義において客観に一致する認識といってもいいが、
  そこには「客観の現にある姿に一致する認識」と「客観の真にあるべき姿に
  一致する認識」、言いかえると、「事実の真理」と「当為の真理」という2
  つの真理があることを明らかにした

 ・事実の真理とは、客観的事物の本質をとらえる認識であり、当為の真理とは、
  概念をとらえる認識である

 ・2つの真理の間の関係は、事実の真理としての本質を対立・矛盾においてと
  らえ、その矛盾を揚棄するものとして当為の真理としての「概念」を認識す
  るという関係にある

 ・当為の真理をとらえた実践をつうじて客観的事物は、その本質的矛盾を解決
  して発展していくことになり、これが「合法則的に発展」とよばれるもの

 ・ヘーゲルが真理とは「概念と存在の統一」という場合、たんに概念を認識す
  るのみならず、合法則的発展まで含めた理想と現実の統一としてとらえてい
  る

 ・しかし、科学的社会主義の立場からすれば、真理とはあくまでも認識の問題
  であって、客観的真理、絶対的真理とは、「客観に完全かつ絶対に一致する
  認識」を意味するから、ヘーゲルのいう実践的真理までも真理とすることは
  真理の定義を広げすぎるというべき

● ヘーゲルは変革の立場から、
 世界史上宗教改革とフランス革命をとりあげている

 ・ヘーゲルが変革の立場から、近代を切りひらく啓蒙思想をとりあげ、封建制
  に対するブルジョアジーの「3つの決戦」(全集⑲ 553ページ)のうちの2
  つである宗教改革とフランス革命をとりあげたのは、正しい問題意識といえ
  る

 ・しかし『現象学』においては、宗教改革、フランス革命のどちらも封建制を
  変革する運動であったにもかかわらず、積極的に評価されていない

 ・すなわち、宗教改革については、カトリックもプロテスタントもどっちも
  どっちという態度であり、フランス革命については、絶対的自由は恐怖政治
  をもたらしたのみとされている

 ・しかし、ヘーゲルは、その『歴史哲学』を「1830〜31年度においてはじめ
  て中世と近世とをやや立ち入って取り扱うように」(『歴史哲学』㊤ 14ペー
  ジ)改訂し、そのなかで、この2つの出来事の評価を大きくかえている―
  1830年は「七月革命」の年であることに注目すべし

 ・まず宗教改革については、「中世期の終りに現われたあの曙光(ルネッサン
  ス―高村)に引き続いて昇って来て、すべてのものの上に照り輝き、すべて
  のものを浄化するところの太陽」(同㊦ 266ページ)であり、「ここからわ
  れわれは自由を自覚した精神の時期に這入る」(同)と位置づけている

 ・次いでフランス革命については、「人間はここにはじめて、思想が精神的現
  実界を支配すべきだということを認識する段階にまでも達した」(同311ペー
  ジ)のであり、「その意味で、これは輝かしい日の出であった」(同)とし
  ている

 ・こうした評価の背景には、復活したブルボン王朝を打ち倒した「七月革命」
  (1830)があり、ヘーゲルは「こうして遂に戦争と大混乱の40年(1789〜
  1930年)の後に、老いた心もこの混乱の終結と平和とに再会する喜びをもつ
  ことができた」(同317ページ)というフランス革命後におけるフランス革
  命の精神を継承・発展する情勢の発展があった

 ・ヘーゲルは宗教改革に始まり、フランス革命を貫いた「自由の精神の旗」
  (同272ページ)という変革の旗印を見いだすことによって、『現象学』の
  限界を感じ、その体系を捨て去ったとみることができる

● ヘーゲルの変革の立場は、資本主義の評価において貫徹されていない

 ・18世紀後半から19世紀のはじめにかけてイギリスで始まった産業革命によ
  り、マニュファクチュアから機械制大工業に移行しだが、近代的統一国家に
  なるのが遅れたドイツでは、『現象学』の時代はまだ産業革命前の遅れた資
  本主義国

 ・ドイツでは資本主義の矛盾がまだ顕在化していなかったことを反映し、ヘー
  ゲルは『現象学』で資本主義美化論を展開

 ・すなわち、ヘーゲルは一方で「B 自己意識」において「主と僕」という階級
  的観点をもちこみ、労働をつうじて主と僕の関係が逆転するという弁証法的
  見地を示しながら、他方「D 精神」の「B 自己疎外的精神」では資本主義に
  おける自己疎外をみようとせず、「ことそのもの」と「有用性理論」という
  資本主義美化論を「啓蒙の真理」とする矛盾した態度をとっている

 ・しかしヘーゲルの変革の立場からすれば、資本主義をも階級的観点から批判
  することは可能だったはずであり、『法の哲学』(1821)では、この観点か
  ら厳しく資本主義を批判している

 ・『現象学』では資本主義美化論の立場から、疎外からの解放を道徳的世界に
  おける「赦し」の世界という観念論的世界に見いだすにとどまっている

 ・その結果『現象学』では、理性にもとづく変革の立場が高らかに宣言され、
  「概念と存在との統一」という素晴らしい目標が掲げられながら、竜頭蛇尾
  に終わった感がある

 ・こうした変革の立場の不徹底さも『現象学』体系放棄の一因といえよう

 ・ヘーゲルの変革の立場は、個人と共同体の概念において象徴的に示されている

● ヘーゲルの変革の立場には不徹底な側面があるが、
 真にあるべき社会(社会の概念)の構想には見るべきものがある

 ・「B 自己意識」において、「自己意識の概念」(115ページ)、「精神の概
  念」(同)を「われとわれわれの統一」、つまり「1人はみんなのために、
  みんなは1人のために」としてとらえている(ルソーと同一の理念)

 ・「D 精神」では、真にあるべき社会を、個人と共同体、個と普遍との統一と
  しての人倫的実体(ポリス)としてとらえている(「精神の概念」の現実化)

 ・しかし、ポリスにおける個人は、共同体のなかに埋没しているが、人間は教
  養を身につけ、自然的人間から人間の「概念」に向かって前進しなければな
  らない

 ・真にあるべき社会には、それにふさわしい人間集団が必要

 ・マルクスは、ここに注目し、ヘーゲルの偉大なところは「人間の自己産出を
  一つの過程」(『経・哲草稿』199ページ)としてとらえたところにあると
  する

 ・ヘーゲルは、教養をつむことによって、生まれたままの自然的人間から社会
  的人間へ、感性的人間から理性的人間へ、個人的人間から普遍的人間へ自己
  産出するととらえている

 ・つまり、ヘーゲルは個人としての人間の「概念」を、社会的人間としては
  「1人はみんなのために、みんなは1人のために」という精神を身につけ、
  理性的人間としては、ラモーの甥のような弁証法的ものの見方を身につけ、
  普遍的人間としては生き方の概念である道徳的意識を身につけることを意味
  するものととらえている

 ・したがってヘーゲルの見解からすると、真の人倫的実体、つまり「共同体の
  概念」とは、社会的・理性的・普遍的人間を土台として、はじめて「1人は
  みんなのために、みんなは1人のために」という社会を実現しうるというこ
  とになる

 ・その背景には、フランス革命の恐怖政治の経験があり、ヘーゲルはルソーの
  一般意志という正しい理念を掲げながら人民が成熟していなかったために恐
  怖政治となったと理解した

 ・『法の哲学』でも、人民は「定形のない塊り」(前掲書532ページ)であり、
  国民主権の思想は「国民についてのめちゃな表象に基づく混乱した思想の1
  つ」(同)にすぎないとしている

 ・同様の考えはルソーにもあり、『社会契約論』で、もし人民が成熟する以前
  に革命を起こせば「仕事は失敗に終わる」(同69ページ)としている

 ・では人民が成熟し、主権者としての自覚を十分に高めないと革命は起こしえ
  ないのかといえば、そうではあるまい

 ・革命の進展が革命に参加した人民を成熟させ、人民の成熟が革命をさらに進
  展させるという、革命と人民との弁証法的関係が多数者革命を現実のものと
  していく

 ・ここに革命と人民の成熟とを媒介する「プロレタリアート執権論」の意義が
  ある。労働者階級の政党が一般意志を国民の前に提示し、そのもとに人民を
  団結させるという主導性のもとに、人民は人民の概念を身につけ、共同体の
  概念としての社会主義を建設していくことができるというべき

●『現象学』は「何を人々に訴えようとしたのか」(463ページ)

 ・訳者の樫山氏はこの問題を提起しながら、明確な回答を示していない

 ・これまで誰一人理性とは変革の意志であり、概念とは「真にあるべき姿」で
  あることを理解しなかったため、誰も『現象学』の訴えを理解しなかった

 ・『現象学』が訴えようとしたのは、「すべての事物を合法則的に発展させ、
  変革するには、事物の本質を認識することをつうじて事物の真にあるべき姿
  としての概念を認識することが最も重要であることを解明した書である」と
  いうこと

 ・この点を初めて明確にしたところに、科学的社会主義の立場から『現象学』
  を学ぶ本書の意義がある

 ・科学的社会主義から『現象学』を学んだものとして、ルカーチの『若きヘー
  ゲル』(白水社)があるが、ルカーチも理性と概念の意義を理解しえなかっ
  た

 ・そのため「絶対知」を「内容的には新しいものはもはや現れない」(前掲書
  ㊦456ページ)というにとどまり、「概念と存在の統一」(理想と現実の統
  一)として理解しない

 

4.『現象学』の道徳、宗教から何を学ぶか

● 史的唯物論と道徳、宗教

 ・ヘーゲルは、『現象学』第2部の人間の精神活動の産物たる「客観的精神」
  として、道徳と宗教を論じている

 ・その意味で科学的社会主義の学説は「正しいので全能」(レーニン全集⑲ 3
  ページ)であり、世界のすべてのものを対象にしうる「全一的な世界観」
  (同)である

 ・道徳や宗教は客観的精神として現に存在し、かつ社会的にも一定の影響力を
  もっていること、特に道徳については中教審の出した「道徳の教科化」の答
  申により「国定道徳」が注入されようとして今日的課題となっていること、
  などからして「全一的な世界観」としての史的唯物論にとっても無視できな
  い課題となっている

 ・しかしこれまで史的唯物論では道徳や宗教は上部構造に属する社会的意識で
  あり、全体として支配階級のイデオロギーとして規定されるに止まり、それ
  以上に研究の対象にされることはなかったように思う

 ・つまり、道徳に関しては、特定の価値観をもった国定道徳を押しつけること
  に反対し、宗教に関しては、信教の自由は保障しつつ、良心的宗教人とは現
  実の一致する課題で共闘する、という以上のものになりえなかったのではな
  いだろうか

 ・ヘーゲルが、道徳、宗教の問題を哲学的課題として正面から論じていること
  は、「全一的な世界観」としての史的唯物論への反省を迫るものとなってい
  る

● 国家の二面性からくる道徳、宗教の二面性

 ・道徳、宗教を全体として支配階級のイデオロギーであり、ただし例外もある、
  という単純なとらえ方には「すべてのものは対立している」という弁証法の
  見地からしても問題があると思う

 ・かつて国家の本質を「階級支配の機関」としてとらえることの正しさを感じ
  つつも、現実に福祉や教育、年金などをも認めているところからすると、そ
  れだけでいいのかという疑問をもった

 ・哲学的にいうと、本質のみを取りあげることは、本質と対象を一対のカテゴ
  リーとしてとらえる弁証法的とらえ方ではないのではないかとの疑問

 ・その結果、国家の起原は「共同の利益」をまもる独自の機能を支配階級が独
  占して独自の機関に高めたところにあることからして、「国家とは、その全
  構成員の共同の利益を実現する仮象をもちつつ、一方で支配階級の利益を擁
  護するとともに、他方で被支配階級を抑圧するという、搾取する階級の階級
  支配の機関である」(拙著『人間解放の哲学』93ページ)と規定した

 ・つまり、国家とは、階級支配の機関という「本質」と共同の利益実現の機関
  という「現象(仮象)」をもつ、本質と現象とが対立・矛盾する二面性のあ
  る機関である

 ・国家は、法と政治を手中に治めることによって上部構造の中核に位置する存
  在であり、したがって、この国家の二面性は、上部構造全体に反映している
  というべき

 ・すなわち、道徳、宗教も、階級支配の社会的意識という「本質」をもちなが
  らも、同時に人民全体の道徳、宗教という「現象」をともなっており、科学
  的社会主義の果たすべき役割は、人民の道徳、宗教の概念(真にあるべき姿)
  を人民の前に提示することにあるということができる

● 人民の道徳

 ・そもそも道徳とは、人間としての生き方の概念を問題とするもの

 ・人間には生き方の概念としての良心があり、それに反する生き方は疚しさ、
  後悔、呵責の念をもたらすことは、誰も否定できない厳たる事実

 ・では人間はなぜ良心を持っているのか、良心の唯物論的根拠はどこにあるの
  か、といえば、それは人間の類本質に由来するということができる

 ・人間は階級社会において人間疎外状況にあるが、それでも人間の類本質はD
  NAのなかに組み込まれており、人間が人間である限り、その類本質が良心
  という心の働きとして現れてくる

 ・したがって人民の道徳とは、「人間が人間らしく生きるためのヒューマニズ
  ムと理性の道徳であり、具体的には、人間の生命の尊厳と自由な精神を尊重
  すると同時に、「1人はみんなのために、みんなは1人のために」という民
  主主義的道徳」と一応の規定をしておいた(第12,13講コラム)

● 人民の宗教

 ・宗教とは、人間の苦悩を絶対者の力を借りて解決しようとする社会的意識で
  ある(「苦しいときの神だのみ」)

 ・仏教では、人間が必ず受けねばならない「四苦(生苦、死苦、老苦、病苦)
  八苦(愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦)」があり、この苦悩から
  逃れるのは仏を信ずるしかない、とする

 ・これに対し、科学的社会主義は、人間がつくり出した政治、経済、社会が逆
  に人間を疎外し、あらゆる種類の苦悩を生みだしているのであり、人間解放
  により苦悩は解決しうると考える

 ・つまり人間のつくり出したものは、人間の手によって解決しうるのであり、
  神仏の力を借りる必要もないし、絶対者も存在しないと考える

 ・しかし階級社会と人間疎外の存在する限り、人民の苦悩は存続するので、当
  面の問題として人民の宗教の必要性を承認し、信教の自由を認める

 ・その場合の人民の宗教とは、支配階級のイデオロギーとしての宗教に対立し、
  人民を収奪するエセ宗教からも区別される宗教

 ・したがって人民の宗教とは、絶対者を信仰しつつも苦悩の根源が政治、経済、
  社会にあることを否定することなく、人民の苦悩を解決するために人間とし
  ていかに生きるべきかを問う宗教といえるのではないか

 ・その姿勢が人民の宗教を求める良心的、民主的宗教人を「真のヒューマニズ
  ムにたった人間解放の学説」としての科学的社会主義にも接近させることに
  なる

 ・いわば、人民の宗教と科学的社会主義とは、観念論と唯物論という世界観に
  おける対立を含みながらも、「人間としてより善く生きる」ヒューマニズム
  の課題を追求するという点において共通の土俵にたっているということがで
  きる

 ・こういう両者の本質的部分での共通点を確認し合うことが、両者の間のより
  深いところでの信頼関係を構築し、宗教人との統一戦線を結成しうることに
  なるのではないか

● 科学的社会主義の道徳論、宗教論は、これからの研究課題

 ・本講座において提起した、道徳、宗教のもつ2つの側面と、人民の道徳、宗
  教論は、あくまで1つの問題提起にすぎない

 ・科学的社会主義の道徳、宗経論以上の問題提起を含めて、今後の研究をつう
  じて一層深まり、発展することを期待したい