講義日 1996年1月26日

 

 

ヘーゲル哲学における「概念論」の意義

 

一、はじめに

 広島県労働者学習協議会として、はじめてヘーゲル『小論理学』のゼミナール(二年間)が昨年末終了した。関西勤労協による同名ゼミ(一九八九年、一九九〇年)に触発され開講するに至ったものであった。
 私たちは、ヘーゲルゼミの出発にあたり、今日ヘーゲルを学ぶ意義を次の点に確認した。
 「私たちには、職場、地域、学園において、日々、社会変革のために実践が求められています。科学的社会主義の運動論とは、その学説に導かれながら、日本社会の合法則的発展をめざすものです。その意味では、一人ひとりの活動家が日々の実践の場において、それぞれの場に固有な運動法則を探究し、解明する力量を身につけることが求められています。つまり、科学的社会主義の学説を『導きの糸』としながら、合法則的活動をするためには、全世界の運動の諸法則を包括的に学ぶことが必要とされているのです。今日、ヘーゲル『論理学』を学ぶ意義もここにあるといっていいでしょう」。
 初期の目的をどこまで達成しえたかについてはともかく、講義という「実践」をつうじて、ヘーゲル哲学をこの見地からより深く理解しうる契機となったことは間違いない。
 エンゲルスは、科学的社会主義とヘーゲルとの関係を「包括的な連関」において解明した『フォイエルバッハ論』のなかで、ヘーゲル哲学が「人間の思考と行為とのすべての結果の究極性にとどめを刺した」として、「ヘーゲル哲学の真の意義」をその革命的性格に求めている。またエンゲルスは、「もっとこの巨大な建物の中にはいりこんでいってみると、そこには、今日でもなお完全に値うちのある無数の宝がある」とものべている。
 講義をつうじてつかみえた、ヘーゲル哲学の「革命的性格」と科学的社会主義にとって「完全に値うちのある」いくつかの「宝」と思われる点について、以下にのべてみたいと思う。

 

二、法則性の認識

 ソ連、東欧の崩壊を一つの契機に、「社会科学のゆらぎ」として、社会の発展法則の存在そのものへの疑問が提起され、あるいは、社会の法則に対する様々の不可知論が横行するなど、科学的社会主義の理論の有効性がいま問い直されている。
 そもそも科学的社会主義における科学とは何を意味するのか。それは「自然がある法則に支配されていると同じように、社会も一定の法則のもとに発展していること、人間はその法則を認識できること、その法則にそって必要な段階をへながら社会変革をすすめること」を意味している。もとより社会変革だけでなく、合法則的に自然を変革することも含まれるというべきであろう。
 こうした社会状況の中でその基本姿勢において、自然や社会における法則の存在への確信と、その法則性を認識しうる人間の理性に対し、限りない信頼をおき、その法則性を、有論から概念論までの全カテゴリーをつうじて探究しつづけたヘーゲル哲学は、科学的社会主義の立場からも、まだまだ学ぶべき多くのものがある。
 まずヘーゲルは、次のように、理性への信頼をのべている。
 「さしあたり私が諸君に要求しうることは、ただ諸君が学問にたいする信頼、自分自身にたいする信頼と信念を持つということだけである。真理の勇気、精神の力にたいする信頼こそ哲学的研究の第一の条件」である。
ヘーゲルにとって、哲学の目的は、世界の根本法則を理性によって認識することにある。その意味で、哲学は、「ロゴス(宇宙万物を支配する理法)の学」=「論理学」と称される。
 したがって、哲学とは、「経験的個別性の大洋のうちにある確かな基準及び普遍的なものの認識、一見無秩序ともみえる無数の偶然事のうちにある必然的なものや、法則の認識に従事」する学問である。
 ヘーゲル哲学は、第一部有論、第二部本質論、第三部概念論という構成になっており、それは事物の、より単純な運動から、より複雑な運動への発展における諸法則をとらえると同時に、その客観的法則性を認識する人間の認識の発展を意味している。認識論に限定してみると、有論は、単に現象にすぎないもの、一時的で無意味なものも、そのまま肯定する浅い認識である。本質論は、事物を現象と本質に区別し、本質、実態、法則に媒介されたものとして現象をとらえるより深い認識である。概念論では、事物を所与のものとしてとらえるのではなく、その「あるべき姿」において認識する。それがヘーゲルによって「概念」とよばれているものである。この「概念」をとらえることが、本当の意味で真理を認識することとされる。「概念に適合しないような実在性は単なる現象である。主観的なもの、偶然的なもの、恣意的なものであって、それは真理ではない」。
 以上、ヘーゲル哲学が哲学の目的を世界の根本法則の認識におき、それを「論理学」のなかで、どのように追究してきたかを概観してきたが、ヘーゲルの理解する「法則性の認識」を、以下にやや詳しく検討してみる。
 人間の認識(類的認識)は、個々の人間の有限の認識に媒介されながら、相対的真理を積み重ねつつ無限に発展し、客観的真理に接近する。
 では、客観的真理に接近するとは、いかなる意味であろうか。それが科学的社会主義にいう、法則性の認識である。
 レーニンは、「思惟は、具体的なものから抽象的なものへ上昇しながら……真理から遠ざかるのではなく、真理へ近づくのである」として、「事物、現象、過程、等々に関する人間の認識を、現象から本質へ、それほど深くない本質からいっそう深い本質へと深くしていく無限の過程」とか、「並存から因果性へ。そして連関と相互依存との一つの形式から他のいっそう深い、いっそう普遍的な形式へ」などとのべて、真理を認識することの具体的意味を追及している。
牧野広義氏は、レーニンの「現象から本質へ、それほど深くない本質からいっそう深い本質へ」と発展する認識の筋道を、さらに次のように敷衍している。
 第一は、「認識の経験的レベル」であり、現象を記述する段階である。
 第二は、「認識の理論的レベルのより基礎的な段階」であり、「現実世界の現象を基本的な構成要素に分析したり……要素間の関係を捉えたり、その現象を担っている物質的な実体や構造をとりだしたりする活動」である。 第三は、「認識の理論的レベルのより高い段階」であり、「現実世界の現象を貫き、その現象を規定し、その構成要素や実体の相互関係、構造などを支配している運動法則を解明し、また現実の事物が成立している必然性やその生成、発展、消滅の必然性を解明する活動」である。
 牧野氏のこの認識の三段階の区別そのものには特に異論はないし、認識の発展の筋道もこのような段階を経過していくものと思うが、牧野氏のいう認識の第三段階を、それ自体「無限に探究される過程」としてとらえるとしても、それをもって人間の認識の最終段階つまり真理の認識に最も接近した段階かといえば、疑問が残らざるをえない。
 牧野氏が認識の第三段階として指摘する「運動法則」や「必然性」の解明は、ヘーゲルの「小論理学」でいえば、第二部本質論の「現象」や「現実性」において論じられている問題である。
 すなわちヘーゲルは、「現象」(一三一節以下)において、諸事物の相関とその法則性を、内容と形式、全体と部分、力とその発現、内的なものと外的なものなどのカテゴリーを用いて、解明している。さらに「現実性」(一四二節以下)において、現実性と可能性、偶然性と必然性、実体性と偶有性、原因と結果、交互作用などのカテゴリーを用いて、事物の必然的な生成、発展、消滅をとらえようとしている。したがって、牧野氏のいう認識の第二段階と第三段階とは、いずれもヘーゲルの「本質論」に基本的に含まれる「法則性」の認識の諸段階であるといってよい。
ヘーゲルにとって、哲学は、客観世界のなかから「普遍的なもの、法則、類等」を導き出すという意味で、経験諸科学とは共通の目的を持っている。しかし哲学は、単に客観世界の法則性の認識にとどまらず、思惟の「独自の諸形式」を取り上げることによって、経験諸科学をのりこえるものとして把握されているのであり、その独自の諸形式が「概念」であるという。
 ではヘーゲルは、なぜ認識の発展を事物の「法則性」の認識である本質論にとどめないで概念論にまで踏みこんでいったのだろうか。それは、認識の創造性と実践の意義を重視したためであろうと思われる。
ヘーゲル哲学のもとでは、「自然的・歴史的・精神的世界の全体が一つの過程として、すなわち、不断の運動、変化、転形、発展のうちにあるもの」として示されている。しかもそれは、人間の実践を媒介とする発展である。人間の認識は、この実践と不可分のものとして存在し、実践の前提となるものである。
 人間は、自然や社会に働きかけて、それを変革しようとする場合、実践に先立って、まず対象となる自然や社会を分析・総合し、その本質、実体、諸法則を把握する。そのうえで、かかる本質、実体、法則をふまえつつ、対象となる客観的実在の「現在ある姿」を仮象にすぎないものとして否定し、意識のうえに「あるべき姿」を画き出す。
 実践の前提としての認識は、客観世界に対し、否定的に対立する認識であり、対象の「現在ある姿」を否定し、「あるべき姿」として認識する。この所与の対象の否定的認識としての「あるべき姿」が実践によって現実化され、かくして自然や社会の変革が達成される。これが唯物論敵反映論にたった、認識の能動性、創造性である。 ヘーゲルは、本質論から概念論への移行を、「必然から自由への、あるいは、現実から概念への移りゆき」とよんでいる。つまり本質論では客観世界の「法則性」を論じてきたが、概念論では客観世界をのりこえて、現実を自由な変革の対象ととらえる、「概念」を問題としているのである。
 「認識の目的は、われわれに対峙している客観世界からその未知性をはぎとり、そのうちに自分自身を見出すことにある。自己を見出すことはすなわち、客観をわれわれの最も内的な自己である概念へ還元することである」。
認識の目的は、所与の客観をそのまま受容するのではなく、「われわれの最も内的な自己」、すなわち人間の認識のもっとも高度の働きから生まれた「概念」に還元し、客観を変革の対象としてとらえることにあるのである。
 われわれは、生産労働においても、社会変革においても、まず変革すべき「概念」を作り出し、それを「目的」として設定する。ヘーゲルは、「目的とは、直接的な客観性の否定によって自由な現存在へはいった、向自的に存在する概念である」としている。つまり、人間の意識の創造性の産物としての「目的」は、客観そのものから直接に導き出される本質、実体、法則と異なり、客観を反映した認識ではありながらも、客観を「否定」するものとしてあるから、「直接的な客観性の否定」である。それは客観的実在から導き出されながらも、人間の意識の自由な産物であり、かつ客観的実在から自立した「真にあるべき姿」をとらえた認識であるから、「自由な現存在へはいった、向自的に存在する」、「概念」と規定されるのである。
 日本共産党の二〇回大会決議は、ゆきづまった自民党政治から、新しい日本への転換として、①日米軍事同盟をやめ、自主独立の日本、世界平和に貢献できる日本への転換、②大企業優先の「経済発展」から国民生活優先の経済発展への転換、③金権腐敗政治を一掃し、「国民が主人公」となる民主主義日本への転換、という「三つの転換」を提起している。
 これは、現在の日本資本主義の本質、実体をふまえて構成された、資本主義の枠内での、新しい日本の「概念」規定である。
 われわれは、社会変革の実践において、それぞれの実践の場における「概念」を、政策的課題として不断に提起することによって、社会の発展に貢献しているのである。
 科学的社会主義にいう法則性の認識とは、牧野氏の指摘する、第一段階ないし第三段階の認識を意味するだけではなくて、ヘーゲルのいう「概念」までをも含む広い意味においてとらえないと、人間の意識の最高の段階である創造性を汲みあげたことにならないし、またそれは機械的反映論を否定した唯物論的反映論の積極的意義をも十分に生かすことにもなりえないであろう。
 もっとも牧野氏は、第三段階の認識のなかに「生成・発展・消滅の必然性を解明する活動」もかかげておられるので、あるいはこのなかに「あるべき姿」の認識も含まれるのだと主張されるのかもしれない。しかし「あるべき姿」は、客観の否定性の上にたつ意識の創造的産物であって、客観のなかに存在する発展法則そのものとは区別さるべきものであり、何よりも「目的」としての実践の前提となるものであるから、実践の意義を重視するのであれば、それを人間の認識の特別の、かつ最高の段階として、「運動法則」「必然性」一般とは区別すべきものと考える。
 人間の認識は、対象となる客観的実在の否定的対立である「概念」を把握し、それを「目的」として設定し、その「目的」を実践によって対象のなかに実現し、対象を変革する。牧野氏の第三段階に加え、第四段階として、現存する所与の事物を、単なる仮称として否定し、その「あるべき姿」をとらえることによって、認識は最高の段階に達し、客観的真理に接近していくのであり、この第四段階まで含めた全体が「法則性の認識」と称さるべきものである。もちろん、この「概念」それ自体も、対象の運動、変化、発展と、それを反映した人間の認識の深まりにつれて、無限に発展していくことはいうまでもない。
 弁証法のもつ革命的性格は、その現状否定性にあるのであり、それは認識論のなかにも明確に位置づけられねばならない。 
 先にのべた新しい日本への「三つの転換」は、「日本社会が直面している諸問題を、国民多数の要求と合致する方向で解決する、法則的道すじをしめすものである」とされている。これは、新しい日本の「概念」をも広義の法則と理解したうえで、現実の日本社会の合法則的発展を展望しているものといわねばならない。
 「概念」をも、広義の法則性ととらえることによって、はじめて、法則にそって客観的に働きかける人間の実践の意義も明確になってくるといえよう。

 

三、実践の方向性

 ヘーゲルは、「概念論」において、人間の認識と実践を媒介とした、客観世界の合法則的変革の問題を全面的に論じている。
 まずヘーゲルは、客観と概念とが一致したものを、「理念」とよぶ。「理念は真理である。というのは、真理とは、客観が概念に一致することだからである」。
 では、この「理念」は、どのようにして実現されるのか。ヘーゲルは、人間の働きによって、主観性の一面性と客観性の一面性との対立が揚棄され、主・客の同一性が実現されると考えているが、それは、人間の「二つの運動」によって媒介されるとしている。一つは、「存在する世界を自己のうちへ」取り入れ、主観性の一面性を「真理と考えられている客観性の内容をもってみたす」ことにより揚棄する運動であり、他方では、それとは逆に、「単なる仮称と思われている客観的世界を、真に存在する客観的なものと思われている主観の内面によって規定し、前者のうちへ後者を形成し入れる」運動である。前者は「認識」の問題であり、後者は「実践」の問題である。
 この認識と実践の交互作用をつうじて、人間は客観世界のなかから、本質、実体、法則を正しく認識すると同時に、対象となる客観の「概念」を認識し、認識した「概念」を実践により客観世界に実現することによって、客観世界を合法則的に変革するのであり、この反覆される交互作用をつうじて、主・客の一致という真理(理念)が実現する、というのである。
 現実の自然や社会を、人間の労働や社会的実践によって不断に変化、変革さるべき対象としてとらえ、かつ、その変化、変革のためには、客観世界の本質、実体、法則を認識し、そのうえにたって「概念」を把握し、この「概念」が人間の実践に媒介され、客観世界に実現されることによって客観世界は合法則的に発展し、そのあるべき姿が現実の姿となって顕在化する、という訳である。
 いわば、ヘーゲルは、「論理学」をつうじて、世界全体の合法則的発展と、人間の認識と実践の果たす積極的役割を強調したかったのではなかろうか。エンゲルスが、ヘーゲル哲学の本質を「革命的性格」ととらえ、「保守性は相対的であり、その革命的性格は絶対的」と理解した所以も、この実践の果たす積極的役割を評価したところにあるように思う。
 というのも、エンゲルスが、「新しい世界観の天才的な萌芽」とした、マルクスの「フォイエルバッハにかんするテーゼ」は、次の文章から始まっているからである。
 「これまでのあらゆる唯物論(フォイエルバッハのも含めて)の主要欠陥は対象、現実、感性がただ客体の、または、観照の形式のもとでのみとらえられて、感性的人間的な活動、実践として、主体的にとらえられていないことである。それゆえ能動的側面は、唯物論に対立して抽象的に観念論――これはもちろん現実的な感性的な活動をそのようなものとしては知らない――によって展開されることになった」。
 マルクスが「唯物論に対立して抽象的に観念論」によって展開された「感性的人間的な活動、実践」と指摘したのは、ヘーゲル「論理学」、とりわけ第三部概念論の諸節を意味していることは、間違いないところであろう。 「資本論」第五章「労働過程と価値増殖過程」において、マルクスは、「小論理学」の「目的的関係」のなかの一節、「理性は有力であるとともに狡智に富んでいる。その狡智がどういう点にあるかと言えば、それは、自分は過程にはいりこまないで、もろもろの客観をそれらの本性にしたがって相互に作用させ働き疲れさせて、しかもただ自分の目的だけを実現するという媒介的活動にある」という一文をそのまま引用している。
 人間の自然や社会を変革しようとする目的は、客観の法則性を認識し、法則にそって働きかけることによってのみ実現しうるものだと考え、ヘーゲルはこれを「理性の狡智」とよんだ。マルクスは、労働過程を、ヘーゲルの言う「理性の狡智」の働く、実践の場とみた訳である。
レーニンも、ヘーゲルの「実践」観は、マルクスのフォイエルバッハに関する右のテーゼに直接影響を与えたものと理解している。
 「疑いもなく、ヘーゲルでは実践が、一つの環として、しかも客観的(ヘーゲルによると〝絶対的〟)真理への移行として、認識過程の分析のうちにその位置を占めている。したがってマルクスは、直接にヘーゲルに結びついて、実践という基準を認識論に導入しているのである。フォイエルバッハにかんするテーゼを参照せよ」。
 科学的社会主義の哲学は「実践」の意義を、認識の正しさを検証する「真理の基準」であることと、自然や社会を変革する役割とに求めてきた。
 この「真理の基準」は、牧野氏の言う、第二段階、第三段階の認識について言えることである。客観的実在のなかから、その本質、実体、法則を正しく把握するためには、認識と実践の交互作用が必要であり、実践をつうじて認識の正しさが検証される。
 しかし、実践の意義はこれにとどまらないのであって、その最も重要な役割は、客観世界の合法則的変革を実現することにある。すべての実践は、何らかの意味で客観世界を変革する。しかしその場合の変革には、人類の進歩、発展にとってプラスになる変革もあれば、マイナスになる変革もあり、プラスにもマイナスにもならない変革がある。すなわち実践はあらゆる方向に向かいうるものであるが、そのすべてが、客観世界の発展にとって意味があるわけではない。われわれにとって必要な実践は、いうまでもなく人類の進歩、発展にプラスとなる実践である。そのためには、客観世界の否定的対立としての「概念」を認識し、この法則にそって自然や社会に働きかけ、自然や社会の合法則的発展をはかることが必要である。
 ところが、これまで科学的社会主義の哲学において、マルクスの墓誌名ともなっている「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのはそれを変えることである」という文言は、しばしば引用され、「理論と実践の統一」など、「実践」のもつ変革の役割は強調されながらも、いかなる実践が必要なのか、という実践の方向性は、政治上の論議は別として、哲学上の問題としては必ずしも明確にされてこなかった嫌いがある。
 ヘーゲルの「実践」観は、実践とは、「概念」の実現であるとして、実践が果たすべき進歩と変革の方向性を明らかにしたという点でも積極的意義をもつものであると考える。

 

四、ヘーゲルの「真理」観

 科学的社会主義の理論において、真理とは、「現実の世界についてのわれわれの表象と概念のうちに現実の正しい映像をつくりだすこと」であり、「思考と存在の同一性の問題」として理解されてきた。
 いわば、真理とは認識が客観に一致するという意味で客観的真理であり、それは、人間の認識の無限の発展をつうじで獲得されていくものである。
 これに対しヘーゲルは、真理が「思考と存在の同一性」の問題であることは認めつつも、それには、認識が客観に一致する(概念を認識する)という側面と、客観が認識に一致する(概念を実現する)という側面の、二つの側面があり、両者を統一した主・客一致が真の意味の真理としての絶対的理念であるとしている。
 いわば、真理を認識論的なレベルにおいてとらえると同時に存在論的レベルとしてもとらえるものといってよい。
 このヘーゲルの真理観をそのまま承認することはできないが、いくつかの点で学ぶべきものがあるように思う。 まずヘーゲル真理観をそのまま継承する許萬元氏の説明を聞いてみましょう。
 許氏は、このへーゲルの真理観を「実践的真理観」とよんでいる。すなわち「実践的な真理観にとっては、たんなる意識の立場 ── すなわち、対象を無条件に前提し、自己をそれによって正す、という『自然的意識』の立場 ── とは異なって、たんなる対象の存在が問題なのではなく、むしろ真の存在、または真の現存(=現実性)が問題なのである」とし、「認識とその対象との一致という伝統的な真理観は、あくまで現象論的な真理観ないしは結果論的な真理観にすぎない」と批判している。
 しかし、真理を認識論の問題にとどめないで、ヘーゲルのいう「真理態」(概念の客観化)という存在論まで含めるとなると、真理を主観的真理(認識の客観への一致)と客観的真理(客観の認識への一致)とに区別したうえで、両者の関係を論じなければならなくなる。しかも、こうした概念と、従来から論じられてきた客観的真理(真理は主観的なものではなく、客観的なものとして存在する)との区別も問題となって、真理の意味を複雑かつあいまいにすることになる。許氏が「実践的真理観」と称しているのも、実践のもつ変革の意義を強調したいためと思われるが、真理を存在論レベルでとらえなくても、何ら実践を軽視することにはならないし、存在論を真理観に含めなければならない必然性は存在しない。あくまで、真理は認識論の問題としつつ、真理の認識に「あるべき姿」の認識も含め、この「あるべき姿」を実践し、その実現を目指すことによって、真理は現実のものとなるといえば足りのではないかと思う。そうすれば真理は、広義の法則性まで含むことになり、許氏の「結果論的な真理観」との批判も免れうることになる。
 その場合更に検討すべきことは、「あるべき姿」の認識を真理とすることは、果たして科学的社会主義の真理観に抵触しないか、の問題である。客観的真理を認識するという場合、牧野氏のいう第二段階、第三段階の認識、つまり本質、実体、法則を認識する段階までは、客観的実在から直接導き出される認識であるから、「現実の正しい映像」をつくりだすものとして、従来の真理観の射程にとらえうるが、第四段階の「概念」をとらえる認識は、意識の創造性の産物であるから、これまでも「現実の正しい映像」とよびうるのか、という問題が生じてくる。
 人間の意識は、客観的意識の反映であるが、認識の深まりにつれて、感性的認識から悟性的認識に、さらに理性的認識へとより深い認識に発展する。それに応じて、認識は抽象の度合いを高めると同時に、客観的実在から離れていくが、抽象度を高めていく過程は、同時に真理から遠ざかる過程ではなく、真理により接近していく過程である。「一言でいえば、すべての科学的な(正しい、重要な、無意味でない)抽象は、自然をより深く、より正確に、より完全に反映する」。その認識が深まり、抽象度を高めていく過程は、同時に意識が客観的実在を、機械的に反映する過程から、創造的に反映していく過程であり、その意識の創造的反映の最終段階として、対象の「概念」をとらえるのである。「概念」をとらえることは、認識の発展、すなわち客観的真理に接近する過程の到達点ともいうべきものであり、まさに真理を認識することであるといってよい。意識の反映性は、現実の機械的反映に始まり、創造的反映としての、「概念」の認識までを含むものであるが、「概念」の認識は、客観性を否定する認識ではあるが、客観性にもとづかない空想的認識ではなく、客観性を反映しつつ、所与の客観を仮象に過ぎないものとして止揚し、その真の姿をつかみだすものであるから、「現実の正しい反映」といってよい。
 したがって、「概念」の認識を真理観に含めることには、何の問題もないものと思う。
 さらに、本来人間の認識は、実践に移されることを前提としているのであるから、真理と実践との関わりも、哲学上明確にさるべき課題である。許氏のいう「実践的真理観」も従来の真理観がこの点を明確にしてこなかったことを批判するものとしては、一理がある。
 ヘーゲルは、「法の哲学」序文の「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」との命題に関して、「理念と現実とを切りはなすことを好むのは、悟性的な考え方をする人々」として批判し、「理念は、単にゾレンにとどまって、現実的でないほど無力なものではない」と言った。
 客観的実在をとおして、その「概念」をつかみ出すことは、真理を認識することであるが、真理は、単に「ゾレンにとどまって現実的でないほど無力なものではない」のであり、自らを客観世界に体現する力を持っている。
 人間の実践は、真理にそって実践されるとき、真理それ自体の持っている力を発揮させ、客観世界を合法則的に変革しうる。しかし真理にそわない実践は、反法則的実践として、客観の抵抗にあい、自ら認識したところを客観世界に実現することができないか、又は、客観を無意味に破壊するだけである。その意味において、実践のすべてが人類にとって意義ある実践ではなく、実践の方向性が問題なのであり、意義ある実践とは、真理としての「概念」を実践するような実践である。
 史的唯物論の根本命題は、階級闘争が歴史発展の原動力であるという点にある。人民のたたかいが真理にそって実践されるとき、当初は、少数の者の真理の認識にもとづく、少数の者の実践として出発したとしてもその実践が真理にそったものである限り、必ず多数者が共有する認識と実践に発展する必然性を持っている。その意味から「概念」の実践は、壮大な多数者たる人民の階級闘争となって歴史を発展させる原動力となるのである。
 真理としての「概念」を実践するという方向に向かった実践こそ、実践の名に値する実践である。

 

五、「概念論」の意義

 以上みてきたように、ヘーゲルは、概念論において、全体として客観的実在の合法則的発展とそれを実現する人間の実践の積極的役割を明らかにしたものであって、科学的社会主義の立場から学ぶべきものが少なくないものと考える。これに対して、概念論のなかに、ヘーゲルの保守主義をみるいくつかの見解がある。
 一つには、「有から本質へ、本質から概念へ」という進行は、「ヘーゲル弁証法から批判的・革命的な性格が失われていく過程」であるとの見解がある。その理由は、「有論には、あるものが他のものに移行するという革命的な弁証法」があったのに対し、「概念論の見地は、普遍が特殊のうちでくもりなく自分にとどまるということ、すなわち、他者のうちにあっても、自己をつらぬくということであり、ここでは弁証法の核心である否定性がきわめて希薄になっている」からである。これは見田石介氏の見解をそのまま引き継いだものといってよい。
 たしかに、ヘーゲルは、「他者への移行は有の領域における弁証法的過程であり、他者への反照は本質の領域における弁証法的過程である。概念の運動は、これに反して発展である。発展は、すでに潜在していたものを顕在させるにすぎない」として、概念論をつらぬく弁証法を、発展の弁証法ととらえ、しかもその発展とは植物の胚から、根、葉が発生するような「萌芽からの発展」であるという見地にたっている。したがって、この点だけとらえれば、「現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解」を含んでいない、という意味で、弁証法のもつ革命的性格が弱いという批判が成立する余地はある。
 しかし、ヘーゲルの発展観のポイントは、「すでに潜在していたものを顕在させる」点にある。自然においては、生命体が、社会においては、認識における「あるべき姿」の実践による顕在化が、それぞれ「萌芽からの発展」の内容をなしている。自然にあっては、生命体という「普遍」が、その発展形態の諸段階という「特殊」をつうじて、「くもりなく自分のうちにとどまっている」が、同様に、社会にあっても、実践の目的として設定された「あるべき姿」という「普遍」が、実践をつうじて「特殊」化し、顕在化されることによって、「くもりなく自分のうちにとどまっている」のである。したがって自然における「萌芽からの発展」に限定して考えれば、「弁証法の核心である否定性がきわめて希薄になっている」ということができるとしても、社会における「萌芽からの発展」までをも同様に解することはできない。社会における発展観は、現にある客観世界を、変革さるべき仮象にすぎないとして否定するものであって、いわば「弁証法の核心である否定性」に直接立脚しているからである。
 有論、本質論が、人間の実践を除外した客観的事物の法則性をとらえているのに対し、「概念論」では、人間の実践による対象の合法則的な発展を明確にしているのであって、唯物論の見地からすれば、有・本質論から概念論へという進行は、むしろ解釈の立場から、変革の立場への移行であり、自然と社会の歴史を創造する人間の実践の役割を積極的に評価するという意味で、ヘーゲル弁証法の革命的本質がより深化していく過程とみるべきものと思う。
 二つには、「小論理学」の「世界の究極目的が不断に実現されつつあるとともに、また実現されているのだということを認識するとき、満足を知らぬ努力というものはなくなってしまう。一般的に言ってこれが大人の立場である」という文章をとらえ、これをもって「既存の世界はいくら不満があったとしても、そのあるがままの姿でうけいれよ」という、ヘーゲルの保守主義、現状肯定主義を示したものとする見解がある。同様の見解は見田氏にもある。
 ヘーゲルを丸ごと弁護する気持ちは毛頭ないが、その前後の文章と読み合わせると、ヘーゲルの文意は、別のところにあるのではないかと思われる。
 右引用文は、小論理学二三四節補遺の一部であるが、それに先立つ右補遺の冒頭部分は、次の文章から始まっている。
 「知性は単に世界をあるがままに受け取ろうとするにすぎないが、意志はこれに反して世界をそのあるべき姿に変えようとする。直接的なもの、目前にあるものは、意志にとって不変の存在ではなく、即自的に空無なもの、仮象にすぎない」。
 二三四節、及び同補遺において、ヘーゲルは、客観世界を合法則的に発展させる、つまり所与の客観世界を否定する人間の実践を論じているのであって、そのなかに突如現状肯定主義の文章が挿入されるとみるのは、全体の文脈を見失ったものといってよい。
 ヘーゲルは、「若い者は世界は全く害悪にみちていて、根こそぎ改革されねばらぬと思っている」が、これは世界が一挙に改革されない限り、人間の努力は意味がないとする立場であって正しくないもの、として批判すると同時に、これとは逆に、「世界は神の摂理に支配されており、したがってそのあるべき姿に一致している」として、現状を肯定する「宗教的意識」も同様に正しくないものと批判したうえで、右引用文の「大人の立場」を紹介し、「こうしたあるとあるべしとの一致は、硬化した、過程のないものではない。なぜなら、世界の究極目的である善は、常に自己を産出することによってのみ存在するから」といっているのである。
 つまり、ヘーゲルの言わんとするところは、「根こそぎ改革」される実践でなければ意味がないとする「若い者」の立場も、世界は「あるべき姿」として実現されているから、人間の実践を必要としないとする「宗教的意識」の立場も、いずれも正しくないのであって、あるべき姿を不断に追及する実践こそ、長いジグザグの過程ではあっても、世界を一歩ずつ合法則的なものに変革する意味ある実践であり、その「努力」を「満足」をもって受け入れるのが「大人の立場」なのだというものではないだろうか。
 いわば、ヘーゲルは、真理にそった実践の意義を明らかにしているのであって、ここにヘーゲルの保守主義を見ようというのは無理があるといってよい。
 エンゲルスが、ヘーゲル哲学の真の意義を、その革命的性格に求めたのは、ヘーゲル弁証法のもつ否定性に注目したからであるが、この変革の立場を強調したのが、概念論であるから、エンゲルスの右評価は、ヘーゲルの概念論まで含めた評価として理解したい。問題は、錯綜した観念論のなかから、かかるヘーゲル哲学の本質を、弁証法的唯物論の見地にたって、いかに主体的に引き出していくのか、にかかっているのではないかと考える。

一九九六年 一月 二六日