講義日 1997年8月3日

 

 

ヘーゲル哲学と科学的社会主義の運動論

大泊マリンパークで行われたヘーゲル・ゼミの書き起こしです。


 今日、参加された皆さんはだいたいヘーゲルゼミに参加されている皆さんですが、ヘーゲルゼミを始めるに当たって皆さん方にビラを配ったと思うのですが、何のために我々はヘーゲルを学ぶのかの意義をチラシの中に書きいておきました。
 そこでは、我々が日々社会変革のための実践をしているわけだけれども、科学的社会主義の理論に導かれながら日本の社会の合法則的な発展を目指す実践をしている。そういう点では一人一人の活動家が、自分たちの実践の場でそれぞれの場に固有の運動法則を探求してそれを解明するための力量を身につけることが求められている。つまり科学的社会主義の学説を導きの糸としながら、合法則的活動をするために全世界の運動の諸法則を包括的に学ぶことが必要なんだ。だからそのためにヘーゲル論理学を学ぶんだということをチラシの中に書いていたと思います。
 それで今日はいわば、ヘーゲルを学ぶ目的・意義に照らして、ヘーゲル論理学・ヘーゲル哲学をどうとらえたらいいのかという話をしようかなと思っています。

 

1.客観的観念論者ヘーゲル

 レジュメに入りますが、まず客観的観念論者ヘーゲルと書いておりますけれども、ヘーゲルは弁証法を包括的に述べたドイツ観念論哲学の到達点を示す学者だということはご存じだと思いますが、同時に彼の弁証法は逆立ちしているという風にいわれているわけで、逆立ちをし神秘的な姿をとっているヘーゲルは客観的観念論の代表みたいな人物だといわれているわけで、それは理由がないわけではなくてヘーゲルの哲学の大系というのは大きく論理学・自然哲学・精神哲学という3つの部門からなっている。これを絶対理念の自己展開だと・自己運動だというように彼はその体系を自ら説明している。論理学の中で導き出された絶対理念というのが外に現れたのが自然哲学でありそれが再び内に戻ったのが精神哲学であると説明しているわけで、自然というのを絶対理念の外化ととらえるのが特に我々としては気になるところであって、そういうところからヘーゲル哲学は観念論者と言われているわけです。
 我々がヘーゲルを観念論者だと批判するだけではありません。ヘーゲルは自分自身でも「絶対的観念論」だと自慢していっているんです。「わしの哲学は観念論哲学なんだと」自慢して言っているわけです。普通なら観念論者と批判されたらそんなことはないと反論するのは当たり前だけどそうではなくて、自分自身が「絶対的観念論の哲学なんだ」「これが正しいんだ」と言っているわけでそういうところからしてこういう二重の意味での観念論者・ヘーゲルを学ぶ意義はどこにあるのかというのを明確につかむと言うことが大切であると思います。唯物論者である我々にとって、二重の観念論者であるヘーゲルを学ぶ意義はどこにあるのかということです。

 

2.近代合理主義者としてのヘーゲル

 ヘーゲルの生きた時代ですが、フランス革命と産業革命の時代にヘーゲルは生き、その時代の精神を彼の哲学の中に生かしているのです。その時代の精神とは何かというと、一言で言うと近代合理主義と言うことだろうと思うわけです。 近代合理主義は、人間の理性を絶対的に信頼するということ。この全世界の物事には法則的なものがあり、それを理性で解明し真理に接近することができるというのが近代合理的主義の基本的立場です。それにはとりわけ近代合理主義の一つの到達点として人間が自然や社会の主人公であるという意識を発展させてきたという事があります。たとえばフランスの人権宣言の中でも国民が主権者であるということが明確に書かれております。科学的社会主義の魂が国民が主人公であるということは皆さんご承知ですが、これはまさに近代ヨーロッパが生み出した近代合理主義の一つの到達点であるのです。その自覚がどこから生まれてきたのかというと、一つはイギリスの産業革命です。人間の理性は自然を大きく変える力を持っているということを立証しました。二つ目のフランス革命は、人間は君主制の下で奴隷同然の身分制に縛られているのはおかしい。人間は本来社会の主人公でなければならないという自覚の芽生え・主権者意識の自覚の芽生えなどがフランス革命を準備したのです。思想的にはルソーなどの近代啓蒙主義思想というのがそれにあたるわけです。
 もう一つはドイツの精神革命で、これはいわゆるドイツ観念論といわれるカントに始まってフィヒテ・シェリング・ヘーゲルそしてフォイエルバッハなども加わると思います。
 こういう近代ヨーロッパの生み出したものの合理的なものを受け継いで、それをヘーゲルは自分の哲学の根幹に据えたのであって、ヘーゲルの言葉では「絶対者は主体である」と言っているのです。
 これを振り返ってみると、イギリスの産業革命から生み出されたのはイギリスの古典経済学ですし、フランスの政治革命が生み出したものはフランスの社会主義の思想ですし、ドイツの精神革命が生み出したのはドイツ観念論ですから、いわばヘーゲルが自らの哲学を確立した土台と科学的社会主義の土台とは、共通のものがあるということを、我々は理解しておく必要があるということです。
 このヘーゲルの思想を受け継ぎ、「絶対者は主体である」というのを単に哲学上の革命・精神上の革命にとどめず、実践的な革命に結びつけようとしたのがマルクスやエンゲルスであるというふうにとらえることができると思います。
 そのことは最近読んだ金子武蔵氏のちくま学芸文庫から出されている『ヘーゲルの精神現象学』でもそういう捉え方をしているわけで、私も金子さんのこの捉え方・考え方は基本的に正しいと考えております。
 マルクスやエンゲルスがいかにヘーゲルを勉強したか、さらにレーニンがどういうふうにヘーゲルを勉強したかはいうまでもないことですが、マルクスは、資本論の中でも自分はヘーゲルの弟子であると公然といっています。エンゲルスはヘーゲルの論理学に学んで自然の弁証法を完成させようと試みたのですが、志半ばに倒れました。レーニンは、『哲学ノート』の中で、大半をヘーゲルの論理学や哲学史などの記述に当ててヘーゲル論理学を学ぶ中で、レーニン的段階といわれるような哲学の認識論を一歩前進させた『唯物論と経験批判論』などを書いたといえると思います。

 

3.ヘーゲルの哲学観

 ヘーゲルの哲学観とはどんなものであったのかということを見ておきたいと思います。ヘーゲルが自分の哲学を体系的に述べたものが『エンチュクロペディー』という本なのです。『エンチュクロペディー』というのは、哲学の百科全書というような意味の訳で、このエンチュクロペディーの中に論理学・自然哲学・精神哲学という3つの哲学が含まれるわけですが、この全体をまとめる序論が「エンチュクロペディーへの序論」といわれています。それが皆さんお持ちの『小論理学』(『エンチュクロペディー』の中における論理学を小論理学と呼んでいるのですが)の上巻61ページ以下の「エンチュクロペディーへの序論」というのはそういう位置付けになるわけです。この「エンチュクロペディーへの序論」は単に論理学の序論ではなくて、論理学・自然哲学・精神哲学・全体への序論という性格を持っているわけです。これを学ぶ中でヘーゲル哲学とは一体どういうものなのかという、その基本を理解することができると思います。
 一番大事なところは、理想と現実の一致をすることが哲学の最高の究極目的だというふうにいっております。68ページの最後から2行目、「哲学はこの同一の内容に対する他の意識の仕方と、形式の点でのみちがってのであるから、それは現実および経験と必ず一致せねばならない。実際この一致は、ある哲学が正しいか否かにかんする、少なくとも外的な試金石であり、またこの一致を認識にすることによって自覚的な理性と存在に関する理性すなわち現実との調和を作り出すことが、哲学の最高の究極目的と見られなければならない。」と書いています。 ちょっとわかりにくいのですがこの「自覚的理性」というのは、人間の精神が生み出した理想です。「存在する理性、すなわち現実」とは客観世界における真実なものということでしょう。これは自覚的理性と存在する理性が調和=一致することが哲学の最高の究極目的ということ。つまり理想と現実が一致することが哲学の究極の目的だということです。その次の文章は『法律哲学』の序文に書かれた有名な言葉で、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という言葉であります。この理性的という語は合理的と訳されることもあって、ドイツ語ではフェアーニューティヒという言葉です。したがって合理的なものは現実的であり、現実的なものは合理的であると訳されることもあります。日本語の感覚では合理的と現実的ではちょっとニュアンスが違いますが、ドイツ語では元々同じものです。この言葉はヘーゲルの法律哲学の序文として大変有名であると同時にエンゲルスが『フォイエルバッハ論』の中でヘーゲルの哲学を理解する要になる用語として、この文章を引用してその意義を述べています。どんなことをいっているかというと、『フォイエルバッハ論』のなかでこの文章を引用して、このヘーゲルの命題ほど頭の悪い諸政府の感謝と同じように頭の悪い自由主義者たちの怒りを招いたものはなかった。これこそ明らかにすべて現存するものは神聖だと宣言したものである・・云々。つまり、「現実的なものはすべて理性的である」ということになると、すべて現実肯定の思想ではないかというふうに頭の悪い者は理解したが、しかしそうではないのだということを、エンゲルスは『フォイエルバッハ論』の中で数ページを割いて述べています。その中でエンゲルスがいいたかったのは、ヘーゲルはその文章の中で人間の頭脳の中で合理的なものはどんなに現存する見せかけだけの現実性と矛盾していようとすべて現実的になるように定められているということを言いたかったのだと、この文章の精神をとらえたのです。
 つまり人間が頭脳の中で理性的なものとしてとらえたものは、どんなに現実から見ればその実現が困難に見えてもそれが現実になるように定められている。つまり理想というものが合理的に定められたものであったら必ず現実的になるという力を持っているものだという意味でこのヘーゲルのこの言葉は、ヘーゲル哲学の真の意義と革命的性格を持っているとエンゲルスは評価しているのです。
 このエンゲルスの評価が正しいことは、71ページ2行目に「哲学はただ理念のみ取り扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレン(Sollen)にとどまって現実的でないほど無力なものではない。」といっています。単にゾレンというのは、単なる理想という意味でいいでしょう。哲学で問題にするのは単なる理想であって現実化しないような無力なものをとらえるのではないんだ。言い換えれば現実化するような力を持ったそういう理念をとらえるのが哲学なんだということであります。さらに言い換えれば観念論の批判なんです。ヘーゲルは観念的な理想を「単にゾレン」といっているので、哲学とは頭の中で考え出した理想を追求するものではないんだということをいっているのです。70ページを読めばいっそうわかると思います。
 70ページの8行目「もう一つは逆に、理念や理想は現実性を持つにはあまりにもすぐれたものであるとか、理念や理想は現実性を手に入れるにはあまりに無力であるというような考え方である。しかし、特に理念と現実とを切りはなすことを好むのは、悟性的な考え方をする人々であって、彼らは悟性が作り出した非現実的な抽象物を真実なものと考え、かれらが政治の領域においてさえ特に好んで押しつけたがるゾレンを得意になってふりまわしている。」
 悟性が作り出した非現実的な抽象物というのが空想的な観念的な理想なんです。それを振り回すのは間違いだとヘーゲルはいっている。理想を掲げるのは正しいけれど観念論にたった理想、そんなものは役に立たないものです。
ヘーゲルが唱える理想とはそんなものではないのだということを、エンチュクロペディーの序論でいっているわけです。ヘーゲルは自分の追求する理想というのは必ず現実となる必然性を持った理想なのだといっているわけです。ここにヘーゲルの合理的変革という精神を見ることができるだろうと思います。単なる観念論の立場ではないということを見ることができます。では、現実を変革する力を持った理想をどうすれば導き出すことができるのか、このことにヘーゲルは大変な苦労をしました。
 それで、そのような理想を導き出す出発点はどこにあるのか?
 それはまず客観的事実から出発します。ヘーゲルは完全に唯物論の立場に立っています。
 71ページ9行目「そこで哲学という名称は、経験的個別性の大洋のうちにある確かな基準および普遍的なものの認識、一見無秩序とも見える無数の偶然事のうちにある知覚的なものや必然的なものや法則の認識に従事し、したがってその内容を、内外の世界を自分の目で直感し知覚することから、すなわち目の前にある自然、目の前にある人間の精神および心情から取り出す、あらゆる知識に与えられるようになった。」つまり哲学というものは客観的事実の中における必然的なもの普遍的なもの法則を認識すること、そこにあるのだ。というふうに言っております。だからこの哲学の立場は、経験的諸科学と共通の立場なんだといっております。72ページ5行目「我々はこれまで哲学と呼ばれていた諸科学を、その出発点からみて経験的科学と呼んでいる。しかしそれらが目ざしかつ作り出す本質的なものは法則、普遍的な命題、理論であり一口にいえば、現存するものの思想である。
ニュートンの物理学が自然哲学と名付けられていたのは、こうした根拠を持っているのである。」
 だから、哲学というものは科学と共通の立場に立っているのだ、というのです。
自然科学・社会科学というものは客観的事実から出発して、その中における法則や普遍的命題を導き出すという立場ですが、哲学というのはそれと共通の立場に立っているのだ。では経験諸科学とどこで違うのかといえば、出発点で違うのではなくて到達点で違うのであるとヘーゲルは言っているのです。
 75ページ終わりから6行目「こうした要求を満足させようとする思惟が真の哲学的思惟であり、思弁的な思惟である。思弁的な思惟はしたがって、最初に述べた思惟と共通なものを持ちながら、同時に異なったものを持っているのであって、それは共通な諸形式のほかになお独自の諸形式を持っており、そしてこの独自の普遍的な形式は概念である。」
 つまり経験諸科学と出発点において共通であるけれども、どこで違ってくるのかというと、経験的諸科学が持たない独自の諸形式を持っていて、その独自の諸形式というのが概念だとヘーゲルは言っているのです。つまりヘーゲル哲学というのは経験諸科学の生み出す普遍的なもの法則・類などをそのまま承認するのだけれどそれにとどまらず、概念という独自のカテゴリーを使用するわけです。
 この概念というのが概念論の概念であり言い換えれば理想なのです。
 現実の中から出発し現実を乗り越えるものとして立てられなければならないのだ、これを概念というのだ、とヘーゲルは言っているのです。さらにそのことを79ページ12行「哲学は右に述べたような要求から生じるものであるが、その出発点としては経験、すなわち直接的および帰納的意識を持っている。思惟は経験に刺激されて、自然的意識、すなわち感性的および帰納的意識を越えて自己を自己自らの純粋な境地に高め、かくしてまずその出発点から遠ざかりそれを否定するような関係をとるようになる。」
つまり出発点は経験的事実から出発する。だけども出発点から遠ざかるというのは、人間の認識というのはだんだん物事を抽象化するわけですから、抽象化して感覚的な認識から、それをだんだん悟性的認識・理性的認識に高めて理論・法則というものに高めていくわけです。だから人間の認識というものは客観的事実から出発してそれを抽象化するという意味では、出発点から遠ざかるだけですけれども、ただ哲学は遠ざかるだけではなくて客観的事実を否定するということです。ここが大事です。
 否定するとはどういうことかと言いますと、現存するものを・あるがままの姿を、これが合理的なものとして未来永劫動かないものとしては見ない。これは変革の対象・変わるべき対象としてしか哲学は見ないのです。そういう意味で客観的事実を否定するのです。それがいわゆる弁証法的否定と言われるものです。
 否定することに哲学の意義があるのです。現状を肯定するだけでは哲学の意味はないと言っているのです。
 80ページでは、意識における直接性と媒介性という事をいっています。これは概念論の中で直接性と媒介性の統一というのが出てくるのです。我々は本質論の中における区別と同一の統一というのを前回やりました。
 区別と同一の統一というのは、直接性と媒介性の統一と同じような概念だということを前回話したと思います。直接性と媒介性の統一というのはヘーゲルの概念論を理解する上では非常に大事なことで、直接性というのは客観的事実とは切り離されたものとしてあるということです。媒介性というのは客観的事実に媒介されるということを意味しています。直接性と媒介性の統一ということは、人間が現実を変革する理想を打ち立てる場合に、それが客観的事実に媒介されたものとして、打ち立てられなければならないけれども同時に、その客観的事実を乗り越えるものとして打ち立てられなければならない。媒介されつつも客観的事実は否定するものとして存在しなければならない。こういう意味で直接性と媒介性の統一としての概念というのをヘーゲルは問題にするわけです。

 おもしろい例が81ページ5行目「これは、人は食物がなければ食べることができないから、人は食べるということを食物に負うていると言うことができるのと同じである。しかしこの点から言えば、食べると言うことは忘恩的であると考えられる。なぜならそれは、自分がそのおかげで存在するものを食べてしまうからである。思惟もこの意味から言えば、食事に劣らず忘恩的である。」
 面白いでしょう。どういうことかと言いますとね、哲学が問題とする理想というのは客観的事実に依存していながら客観的事実を否定しちゃうわけです。それは食事と同じで、食物に依存しながら、それを食べると言うことは否定するということだから、客観的事実に依存しながらそれを否定するということは、哲学で考える理想というものは食事に劣らず忘恩的だといっているわけです。だから直接性と媒介性の統一というのをこういう言い方で表しているのですね。ヘーゲルは例を述べるということはあんまりないんだけれど、この辺は大変面白い例ではないかなと思います。以上をとりまとめて見ると、ヘーゲルが考えている哲学は理想と現実の一致であるといいましたが、その理想がどう導かれなければならないのかということについていうならば、それはまず客観的事実から出発しなければならない。しかし、同時にそれを乗り越え、否定するものとして打ち立てられなければならないということを理解していただけたでしょうか。
 ヘーゲルの言葉で見てみますと、82ページの12節の終わりあたり「このように哲学はその発展を経験的諸科学に負いながらも、目前にあるものおよび経験された事実をそのままに是認するのではなく、諸科学の内容に思惟の自由(先天的なもの)というもっとも本質的な姿と必然性の保証を与え、事実をして思惟の本源的な、かつ完全に独立的な活動の表現および模倣たらしめるのである。」
 これが結論的なものになるわけで、哲学は経験的諸科学と共通の立場に立ちながらも、どこが違うかというと、目の前にあるものを是認するのではなくてそれを変革の対象として見るということが違うことなのです。
 レジュメの要約部分に入ります。
 ヘーゲルにとって唯物論は当然の前提なのです。当然の前提なのですが、客観世界をそのまま是認するのではなくて、それを変革の対象としてみるというところにヘーゲル哲学の特徴があります。そして、理想、あるいはヘーゲルの言葉で言えば、概念、理念、これの一番最後の形が絶対理念になるわけですが、理想を現実にするにはどのような理想を掲げる必要があるのかというところにヘーゲルの問題意識があります。結論的にいえば現実化する力を持った理想というものが概念または理念です。概念の一番最後のところの理念、絶対理念というのが出てきます。ヘーゲルは自分の哲学を観念論といっているわけですが、観念論というのはドイツ語でいいますとイデアリスムスという言葉なのですが、このイデアリスムスという語は観念論というふうに訳すこともできますが、同時に理想主義と訳すこともできます。ですから彼が自分の哲学を観念論哲学だと言っているのは客観世界を受動的に認識するところに人間の認識の役割があるのではなくて、それを主体的に理想的な姿に変革する哲学なんだ、自分の哲学は。そういう意味では自分の哲学を観念論哲学といっているわけです。イデアリスムスの語源になったイデアと言う言葉は、ドイツ語ではイデーといって、理念・理想と言う言葉になるのですが、もともとはプラトンが言い出したイデア論から出発した言葉です。プラトン自身もそういう物事の真にあるべき姿を考えて、それをイデアと呼びました。それを引き継いだのがアリストテレスなのです。アリストテレスはプラトンがいっているイデアというのは理想の姿であるかもしれないが現実化する力を持っていないではないかと批判します。本当の理想は現実化する力を持った理想でなければならないとアリストテレスはいうのです。このアリストテレスのイデア論を引き継ぎ発展させたのがヘーゲルです。だからヘーゲルは理想と現実を一致させる。つまり理想が現実化するような力を持った理想を打ち立てるのが哲学の役割なのだ。人間の認識能力はそういう力を持っている。そういう意味で「絶対者は主体である」と、ヘーゲルは哲学の根本精神をそういったのです。

 

4.精神現象学

 いま学んだのはエンチュクロペディーの序論ですから、ヘーゲルの哲学観を全体として述べたものですが、ヘーゲルの体系の全体の中で見てみると、そのきっかけとなったのが精神現象学という本です。これはヘーゲルが最初に書いたヘーゲル哲学のひとつの柱になるものです。この精神現象学で述べているのは、人間の精神、これは個人の精神であると同時に人類の精神という意味を含めて考えたらいいと思います。そういう精神がまず単純な意識から出発して絶対知・つまり絶対者の認識に至るまでの意識の発展をとらえたものです。
 その構成を見てみると大きく、意識・自己意識・理性の3つに分けて考えることができます。意識で述べているのは通常の人間の意識。つまり対象を認識する・客体を認識する、そういう問題をとらえています。客体を認識するのも感覚的認識から悟性的認識・理性的認識へとだんだんとその認識は深まっていくのですけど、いずれにしろ客観を認識することを問題にしています。
 次の自己意識というのは対象を媒介した自己の認識を問題にしています。つまり人間が認識するというのは対象をまず認識するのですが同時に対象を通じて自分を認識することなんです。自分を認識するというのは自分を対象化するということです。自分の中におけるもう一人の別の自分を打ち立てて、その別なもう一人の自分が客観的な存在である自分を見つめ直すということです。これを反省といいます。本質論で述べている反省も同じ意味があるわけです。対象を媒介にした自己の認識の問題であって、ここで自己意識のところで有名な資本論でも述べられている、主と奴の問題なんかも出てくるわけです。封建領主と奴隷との関係あるいは奴隷所有者と奴隷との関係なんかについて議論するわけです。つまり奴隷がいなければ奴隷所有者もありえない。奴隷も奴隷主があって初めて奴隷となりうるわけです。そういう相互の関係があるわけです。
 最後の理性というのは意識と自己意識の統一したものが理性なんだということ。理性の一番最後の段階を絶対知というのですが、金子武蔵さんは「絶対知というのは絶対の他在のうちに純粋に自己を認識する。」という立場だとし、これが精神の最高の段階だといっています。
 「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識する」というのは、客観の中に・客観的実在の中に人間の精神の最高の到達点を実現し、そこに自己(精神)を見出すことです。
 客観の中に人間の意識を・人間の精神を認識するということは、客観の中に人間の精神を実現するということを意味しているわけです。これはどういうことかというと、人間の意識をずっとたどってみると、先ず対象を認識することから出発して、ついで対象を媒介しながら自己を認識し、最後に自己を再び対象に実現し対象に自己を見いだすのだというのです。対象に自己を見いだすということは、言い換えれば人間の理想を現実化するということ、客観に現実化するということで、それが精神の最高の段階である、それを絶対知だというわけです。絶対知を主体と客体の一致だというように見田さんなどはいっているのですが、単に主体と客体の一致というのでは足りないだろうとおもうのです。「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識する」といわないと正しくないだろうと私は思います。
 ヘーゲルは、精神現象学の中で「絶対者は終わりにおいて初めてその真実体においてある」といいましたが、人間の認識というものは一番最後に客観として実現することによって、初めて認識の最高の段階である真実体に到達するということをいっているわけです。精神現象学の中の一番大切な言葉は「絶対者は主体である」ということになるわけです。
 つまり真理というのは受動的なものとしてあるのではなくて、主体的に実現してゆくものであるというのがヘーゲルの理解です。客観世界というのは偽りの世界だ・表面的な姿であって本当の姿ではない。客観世界を変革の対象としてとらえて、それを本来あるべき姿に主体的に変革してゆくところに真理があるのだ。「絶対者は主体である」という言葉は、真理というのは主体的にとらえなければならないという、変革の立場でとらえられているというのが精神現象学のポイントになるのではないかと思います。

 

5.論理学

① 論理学の対象は真理

 ここから論理学に入っていゆくわけですが、ヘーゲルは論理学でなにを問題にしているのかということですが、上巻の97ページ・補遺1では、論理学の対象は何かということについて、「真理が論理学の対象である」。論理学の目的は真理を認識することである。へ−ゲルに言わせると真理を認識するだけでなく、真理を実現することまでを含んでいるのです。
 真理をどういう意味に理解するのかといえば、科学的社会主義の哲学では、客観に一致する認識を真理というふうに学んでいると思いますが、ヘーゲルがいう真理とはちょっと違っています。
 292ページ6行「有限者の真理はその観念性にあるのである。」
 有限者は客観的実在ということです。客観的実在は、あるがままの「真実」の姿ではなくて、それが観念性にまで高められてはじめて真理になるんだということを意味しています。事物の直接に現れた姿はそのままでは真実ではない。それを変革して行ってこそ真理に到達することができるのだという実践的真理観にヘーゲルは立っています。
 124ページ最後の行~125ページ
 「あらゆる有限な事物は、そのうちに真実でないものを含んでいる。すなわち、それは概念と存在を持っているが、その存在は概念に適合していない。有限な事物が滅びなければならないのはそのためであり、このことによって、概念と存在の不一致が明らかにされる。個体としての動物は、その概念をその類のうちに持っており、類は死によって自己を個別性から解放する。論理学の課題は、以上述べたような意味における真理、すなわち自分自身との一致という意味における真理を、研究することである。」
 論理学の課題は真理だといったのですが、真理とは何かというと、自分自身との一致だというのです。自分自身との一致は何かというと、「概念と存在との一致」です。この場合に概念とはあるべき姿・真の姿という意味です。客観的事実が真にあるべき姿・真の姿・あるべき姿に一致したとき、それが真理だということです。こういうことをヘーゲルは言っているのです。
 我々が言っている真理とはちょっと違うな、と言うことがわかっていただけると思います。

② 真理を客観との関係でどう見るか(予備概念「客観に対する思想の態度」)
 
 124ページ5行目「普通われわれは、対象と表象との一致を真理と呼んでいる。」これは客観的事実と認識との一致を真理といっているということです。「この場合、われわれは一つの対象を前提し、そしてわれわれの表象はこの対象に適応しなければならないのである。しかし哲学的な意味では、真理とは、これに反して、抽象的に言えば、或る内容のそれ自身と一致を意味する。したがってこれは、先に述べたような真理の意味とは、全く違った意味である。」
 つまり真理とは、客観的事実をそのまま認識する受動的なものではないといっています。
 9行目「普通の言葉使いのうちでもすでに、われわれが真の友という場合、それは、その人の行いが友情の概念に適合している人という意味である。同じ意味でわれわれはまた真の芸術品と言う。このような場合、真実でないとは、悪い、あるいは、それ自身の概念に適合していない、と言うのと同じ意味である。この意味で、悪い国家というのは真実でない国家であり、一般的に言えば、悪いおよび真実でないとは、事物の本性あるいは概念と事物の存在とが矛盾していることである。」
 事物と概念の一致、存在と概念との一致を真理というのです。このような意味の真理を、実はわれわれも日常的に使っているのです。たとえばソ連や東欧のことについて本当の社会主義ではないというでしょ。本物の社会主義ではないと言うのは、ソ連や東欧における実体が、政治経済全体を含めた社会構成体において、社会主義の概念と一致しないということを意味しているのですね。
 われわれが真理といっているのも、事実と認識の一致という意味だけで必ずしも言っているのではありません。本当の社会主義というのは真理としての社会主義、概念としての社会主義なんです。概念としての社会主義と事実としての社会主義が一致していないというので、だからあれは本物ではないといっているのです。
 というようにみてくると、ヘーゲルの真理観というのもわれわれの真理観とあまりかけ離れてはいないということが言えると思うのです。
 いま読んだ所は、予備概念というところです。これはエンチュクロペディーの予備概念ではなくて、論理学の予備概念です。論理学の序論みたいなものです。 その中で哲学・論理学の対象は真理であり、真理とは事実と概念の一致であると言っています。そういう前提に対してヘーゲルは客観に対する3つの態度を132ページ以下で問題にします。
 134ページは、客観に対する思想の第一の態度というふうにでています。
 目次では、
 A・客観に対する思想の第一の態度
 B・客観に対する思想の第二の態度(経験論と批判哲学の二つ)
 C・客観に対する思想の第三の態度

 私も最初、この「客観に対する思想の態度」がなにを意味するのかなかなか理解できなかったのですが、よく考えてみると真理を客観との関係でどう見るのかという問題です。それに3つの態度があるということだと思います。

Ⅰ 古い形而上学 (客観に対する思想の第一の態度)

 先ず第一の態度は古い形而上学といわれるもので、神は存在するかとか、世界は有限か無限かとか、要するに普通の科学の態度(神は存在するかどうかはちょっと科学から離れているかしれませんが)です。世界は有限か無限かは自然科学の課題ですよね。古い形而上学とはこれまでの自然科学や社会科学の立場であって、それはつまり真理というのは直観によるものではなくて、直接的事物を分析することによる悟性的な思考によってとらえられるとする立場です。つまり物事を分析することによって真理を認識することができるという立場に立っております。
 客観的事物を分析することによって真理を認識しうるというやり方そのものが間違っているとは言わないけれど、悟性的思考方法で真理をとらえようとするところに問題があります。神が存在するのかしないのか。あれかこれかという捉え方をする。これは形式論理学の立場です。通常の自然科学や社会科学でも形式論理学がまかり通っているわけで、あれかこれかという立場になるわけです。真理を認識するやり方では間違っていないけど、物事をあれかこれかという悟性的認識でとらえようとするところに問題があって、真理は対立物の統一という弁証法的な立場に立たなければ認識できないという批判の仕方をしています。
 真理を認識しうるという点は正しいが、真理をあれかこれかとの問題としてとらえる限界があるというのです。

Ⅱの1 経験論(客観に対する思想の第二の態度(経験論と批判哲学の二つ))
 
客観に対する思想の二つ目の態度は、経験論の問題です。これは経験の中から真理を取り出そうとする立場です。これに対してヘーゲルは「事物に直接現れる姿が、そのまま真の姿ではない」と考えるわけです。
 経験をするというのは、事物が直接に現れた姿をそのまま認識のうえに反映するということです。言うなれば、有限な客観の中に真理を見いだそうとするそういう限界があるわけです。
 真理というのは有限な世界(客観的事実)を乗り越えたところにあるのだけれど、それを有限な中に真理があると単純に見てしまう限界があると言って、ヘーゲルは経験論を「不自由の学説だ」と述べています。何で不自由かと言えば客観世界にとらわれる不自由さがあるというのです。そうではなくて真理は主体的にとらえなければならない、主体性がないという批判をしているのです。

Ⅱの2 カント哲学(ヘーゲルは批判哲学と呼んでいます)
 
 カント哲学が、経験を通じて現象は認識し得るけれども、物自体は認識し得ないとする不可知論の立場であることは皆さんご承知の通り。  
これに対してはヘーゲルは正しい批判をしています。現象しか認識し得ないとして人間の認識に限界を設け、真理に到達し得ないというのは間違っていると言っています。『反デューリング論』でも、レーニンの『唯物論と経験批判論』の中でも、このカントの不可知論は厳しい批判を受けています。結局、現象と物自体との間には絶対的な境界を設けることはできない。それはすべて認識された物とまだ認識されていない物との差があるだけだということをレーニンは指摘しています。このカントの不可知論批判の原点はヘーゲルにあるということだと思います。

Ⅲ 直接知
 
 客観に対する三つ目の態度は、直接知に対する態度です。
 これは真理というのは有限な客観を越えたところにあるのだから、有限なカテゴリーによってはとらえることはできないのであり、直接に(直感によって)そういう真理をとらえるしかないのだという見地です。分析したり、科学的手法によったりしてはだめなのだというのです。
 これに対してヘーゲルは、真理を観念性にしてとらえるのは正しいけれど、それは主体と客体の交互作用においてとらえない限界があると批判しているのです。つまり直接性と媒体性の統一としてとらえていない。真理を直接性の面のみとらえているという批判の仕方をしているのです。
 それでヘーゲルは直接知に対して自分の立場を絶対知というふうに言っているのです。絶対者は主体であるとし、主体として客体との直接性と媒体性の統一として主体的に真理を認識するし、これが絶対知の立場なんだといって、直接知を批判しています。

Ⅳ 構成
 
 さてそういう予備概念に立ってヘーゲルは論理学を展開するわけです。ヘーゲル論理学は有論・本質論・概念論の三つの構成からなっています。この三つの関係をどのように統一的に捉えるのかという問題では様々な意見があります。
 私は、これを概念が次第に顕在化していく過程、(この概念は真の姿・あるべき姿という意味です)言い換えれば、人間の認識の深まりゆく過程という、認識論としてとらえるのが正しいと思います。たとえば、この『ヘーゲル論理学入門』などでは、ヘーゲルの『大論理学』が精神現象学の絶対知という所から出発していることをとらえ、この絶対知(主・客の一致)の立場は、存在論と認識論をごちゃ混ぜにしていると批判しています。そこにヘーゲルの観念性が現れているという見地にこの本は立っています。私もずっとそういう立場でヘーゲルを学んできたのですが、今は少し違うのではないかと思っています。
 というのは精神現象学における絶対知というのは単に、主客の主体と客体の一致というのをいっているからではないのです。精神現象学でいっているのは、先程も述べましたが、"絶対の他在のうちに純粋に自己を認識する"ということです。つまり主体的に人間の最高の認識を客観化することをもって、絶対知だといっているのです。単純に主体と客体との一致をいっているのではないのです。
 つまり主体の方を重視しているのです。
 だからヘーゲル論理学の構成も、主体と客体とをごちゃ混ぜにした立場だというのは正しくないのではないかと思うのです。つまり論理学は全体として認識論・主体論の展開としてとらえるものと思います。認識論というと認識だけで実践はないのかということになりますから、実践を含む認識といういう意味では主体論という立場に立っていると言っていいと思います。つまりそれは人間の認識が深まってゆく課程において真理をいかに実現してゆくかという問題として論理学を展開しているということだと思います。これをテキストに沿ってみていきましょう。
 ヘーゲルは、有論を即自的概念だといっています。
 上巻259ページ・84節
 「有は即時的にすぎぬ概念である。」これは、事物の表象的な姿を認識するにとどまり、またその真の姿を認識しえない段階だというのです。
次に下巻の9ページ112節の冒頭には、
 「本質は媒介的に定立された概念としての概念である。」と書いてありまして、つまり本質を媒介的概念だといっています。媒介的概念とは何かといいますと、それは事物の内にある真の姿を認識する段階、これが本質論です。
 媒介的というのは客観的事実に媒介されて真の姿を認識するという意味で媒介的概念なのです。概念とは真の姿・あるべき姿ですが、それを客観的事実に媒介された範囲内の真理を見るということです。つまり、まだ有限の世界に限定された真理だということをいっているわけです。
 それで最後の概念論は向自的な概念ということになると思います。
 向自的とは、概念がその本来の姿として客観をのりこえ自分で一人立ちしているといいう意味で向自的な概念ということです。言い換えれば、事物を揚棄して出てきた真の姿の認識、あるいは真の姿の認識と実現といった方がいいかもしれない。単なる認識ではないですから。
 つまり、概念論は真の姿を見るのですが、それは事物に媒介されているのだけれどそれを乗り越えているものなのです。それが直接性と媒介性の統一といっていることなのです。事物を揚棄して出てきた真の姿を認識し実現することが概念論の問題なのだといっていいかと思うわけです。
 こういう捉え方をするのは、おそらくこれまでの論理学の解釈の中でははじめてのことではないかと思われます。だけどもこういうふうに理解する根拠はヘーゲルの中にあるのです。その一つが(いくつか例はあるのですが)大論理学の文書です。
 「本質は有と概念との間に立ち、両者の中間をなしている。そしてその運動は有から概念への移行を形成する。本質は即且向自有であるが、ただし即自有の規定の中にあるところの即且向自有である。」
 本質論は有論と概念論の間に立って両者の中間をなしているといっています。ここが大事だと思います。どういう中間なのかといいますと、真理を認識する・真理を実現するそういう認識の発展過程の中において中間の位置を占めているということではないかと思います。有から概念にまで到るその運動は何かというと、真理を認識し実現する運動を意味しているのです。本質は「即且向自有である」の、「即且向自有」は真の姿と理解して結構です。本質は真の姿であるけれども、ただし即自有の規定の中にある、客観的実在の中にあるという真理のあり方。つまり本質というのは真の姿をとらえるものではあるけれど、有限な客観の世界に限定された真理にすぎないのだ、そういう意味で有論と概念論の中間にとどまるということをいっています。
 では概念とは一体何であるのかということになりますが、下巻の118ページの終わりから2行目からをご覧下さい。
 「必然から自由への、あるいは現実から概念への移りゆきは、もっとも困難なものである。」といっております。これは本質論の一番最後、概念論への橋渡しの所なのです。次の121ページの第三部の概念論への橋渡しです。
 本質から概念への移行は一体どういうものなのかが問題になっているわけです。
 本質論から概念論への移行は必然から自由への移行、あるいは現実から概念への移行であるといっています。つまり、本質論までは客観的実在の枠の中でその真理の姿を見てきたけれど、概念論ではそこから飛び出して行くといっています。
 ここで大事なのは、必然から自由への移りゆきということです。それは『空想から科学へ」の中で述べられているように、資本主義から社会主義への移行をとらえて、"それは必然の国から自由の国への人類の飛躍である"という有名な文句が出てくるわけです。このエンゲルスの『空想から科学へ』の必然から自由の国への移行というのはまさにヘーゲルの論理学の概念をそのまま使ったものだと思われます。
 『空想から科学へ』の中では何をもって、必然から自由への移行というふうにとらえているのかということですが、少し長いけれども読んでみましょう。
 国民文庫『空想から科学へ』112ページ9行
 「こうして、はじめて人間は、ある意味では、動物界から最終的に分離し、動物的な生存条件から真に人間的な生存条件に入り込む。人間を取り巻く生活諸条件の全範囲は、いままで人間を支配してきたが、いまや人間の支配と制御のもとに入る。人間は、自分自身の社会化の主人になるから、またそうなることによって、はじめて自然の意識的な真実の主人となる。これまでは、人間自身の社会的行為の諸法則は、人間を支配する外的な自然法則として人間に対立してきたが、いまや、人間によって十分な専門知識を持って応用され、したがって人間によって支配されるようになる。人間自身の社会化は、これまでは、自然と歴史によって無理に押しつけられたものとして人間に対立してきたが、いまや人間の自由な行為となる。これまでに歴史を支配してきた客観的な外的な諸力は、人間自身の制御に服する。このときからはじめて、人間は十分な意識をもって自分の歴史を自分でつくるようになる。このときからはじめて、人間によってはたらかされる社会的な諸原因は、主として、またますます大きくなる度合いで、人間が欲するとおりの結果を生むであろう。これは、必然の国から自由の国への人類の飛躍である。」
 つまりエンゲルスが必然の国から自由の国への移行といっているのは、客観的実在の法則性を認識すると同時に、人間が主体的にその法則を使って自然や社会をコントロールする。自然や社会の主人公になる。そういう主体的な働きかけができる人間、つまり合法則的な働きかけができる人間の認識と実践を持って自由というふうにエンゲルスはいっているのです。ヘーゲルの場合も同じように考えることができると思います。概念論というのは、客観世界における法則性を認識してそれに基づいて自然や社会を合法則的に変革する、そういう人間の認識の段階を「概念」とヘーゲルはいっているわけです。
 つまり、ヘーゲルは一貫して理想と現実の一致という問題を考えてきました。
人間の理想はどういう場合にそれが現実となる力を持つのかを探求してきたのです。この論理学を通じて客観世界の中における法則性を認識すると同時にそれを乗り越える真の姿を人間は認識することができるし、認識した真の姿を実践することによって、理想と現実との一致=絶対理念の状況が実現できるのだと考えたわけです。

 

6.ヘーゲル哲学と科学的社会主義の運動論

 こうして考えてくるとヘーゲル哲学と科学的社会主義の運動論というのはきわめて近い関係にあるというのが分かると思います。ヘーゲルがなぜこういう概念論をもつに到ったのかは、ヘーゲル自身の体験と深い関係があります。
 ヘーゲルの概念論はフランス革命の総括から生まれたと書きましたが、ヘーゲルはフランス革命を熱烈に歓迎しました。
 熱烈に歓迎したのですが、その後は恐怖政治にとってかわられ、最後はナポレオンの第二帝政が復活するという反動的な状況を迎えてヘーゲルはがっかりします。しかし、その中で何を学んだかというと空想的な理想は駄目だということに気がつくわけです。フランス革命を指導したのは、フランスやイギリスの啓蒙思想家たちでした。
 『空想から科学へ』の冒頭は次のような文書から始まっています。
「近代の社会主義はその内容からいえば、階級対立と無政府状態を認識した結果として。そして理論上の形式からいえばそれははじめは18世紀のフランスの偉大な啓蒙思想の諸原則を受け継いでさらに押し進め、見たところいっそう首尾一貫化したものとして現れる。」と書いております。
 近代の社会主義思想は、空想的社会主義も科学的社会主義も啓蒙思想を受け継ぎ発展させたものとして誕生しました。ヘーゲルの論理学もこのフランスの啓蒙思想を受け継ぎ発展させたものとして誕生してきたわけです。
 ヘーゲルはフランス革命に何を学んだのかというと、『空想から科学へ』には次の文章があります。
 フランス革命で迎えた時代というのは、「それは、ヘーゲルが言っているように世界を逆立ちさせた、(つまり)〔世界の上に思想ではなく思想の上の世界をおいた〕時代であった。」とヘーゲルが述べたとエンゲルスは書いています。(『空想から科学へ』大月・国民文庫56ページ)
 これはヘーゲルの『歴史哲学』の中からの引用ですが、ヘーゲルはフランス革命を頭で逆立ちしていた時代だったといっているのです。ここに唯物論者としてのヘーゲルの見事なフランス革命の洞察があります。言い換えればフランス革命における啓蒙思想というのは空想的資本主義なんです。封建社会に取って代わる、あるべき姿を、彼らは空想の中から選び出したわけなのです。だからフランス革命は失敗したのだとヘーゲルは総括しました。
 それで、ヘーゲルはこの総括の上に立って空想ではない理想を実現しなければならないと考えて、この論理学をつくったわけです。
 概念論を要約すると、概念とは物事の「真の姿」「本来の姿」「あるべき姿」というふうに理解をすることだと思います。
 これまでの『ヘーゲル論理学入門』などを見ますと、(116ページ)
 「有論では物事の「他者への移行」の諸形式、つまり事物の変化の弁証法が考察され、本質論では事物の「他者への反省」の諸形式、つまり事物相互の関連の弁証法が考察されました。概念論は有論と本質論の統一ですが、その意味は次の点にあります。概念論の考察するものは、一つには、事物の発展です。有論でのように、たんに自分を否定して他者に変化するのではなく、他者に変化しながら自分自身であることをやめようとしない事物のありかた、すなわち自己発展です。発展とはいわば、自分から自分を生み出す事物の自己産出のありかたです。そしてその発展の原動力をなすものが、ヘーゲルのいう事物の概念・主体・生命・等々にほかなりません。」
 こういう理解の仕方が一般的でした。
 しかし、これでは何で有論から本質論を経て概念論へ移行するのかという、その連関と移行の必然性が何ら明らかになりません。有論は事物の変化の弁証法、本質論は連関の弁証法、概念論は事物の発展の弁証法というだけでは、大論理学の中にある、「本質は有と概念の間に立ち、両者の中間をなしている。そしてその運動は有から概念への移行を形成する。」ということの意味が出てこない。
 概念論は事物の「真の姿」「本来の姿」「あるべき姿」を実現する、そういう課題(つまり理想と現実の一致)を問題としているのです。だから概念論で、物事が発展すること、発展一般を議論するかぎりにおいて、生命体をも述べるのですが、生命体を中心にして概念論をとらえるのは、私は正しくないのではないかと思います。
 概念論の中心は生命一般ではなくて、主体にあるのです。人間にあるのです。 近代の合理的主義者として「絶対者は主体だ」ととらえた、ヘーゲルの哲学の根本はこの概念論の中にある。概念はそういうものとしてとらえるべきなのです。
 変革の意識というのは客観的実在を否定して、そのあるべき姿を認識する事から先ず出発する。これがつまり主観的概念とヘーゲルが呼んでいるものです。
 先ず人間は客観的実在を乗り越えるもの、それを否定するもの、としてあるべき姿を認識するのですから、あるべき姿は必ず現実の否定としてあります。現実のアンチテーゼとしてあります。それが弁証法的否定なのです。弁証法的否定というのは、客観的実在を肯定するのではなくて否定するところから出発するのです。
 そして、それを認識し、認識したところを実践を通じて客観化する。これが客観的概念ということです。これによって概念と定有が一致することになる。それを真理というのだとヘーゲルはいっているのです。
 概念と定有の一致した真理をヘーゲルは理念といっていますが、(この理念が理想という意味なのです。)この理念において、"絶対の他在の内に純粋に自己を認識する"絶対知が実現されることになるということで、ヘーゲル哲学全体の絶対知と絶対者は主体であるという根本的テーゼが論理学においても貫徹されることになります。
 したがってヘーゲルの真理観というものは、認識論を越えて存在論にまで到るものです。つまりあるべき理念を実現するというのが、それが真理だということになります。ある意味でそういうふうに言えなくはないと思いますが、科学的社会主義の真理観はあくまでも認識論にとどめています。われわれが真理を問題にするときは認識論にとどめておいて、そのあるべき姿を認識するという主観的概念までを真理といっておけばいいと思います。それを客観的概念になるまでを含めなくてもいいと私は思います。
 大事なことは、いままでは法則とは何か、真理とは何かということが問題になったときに、法則とは客観的実在の中における本質的な連関を法則と呼んできました。これまでの科学的社会主義の哲学ではそういうふうに言ってきました。ただそれだけでは私は不十分だと思います。つまり客観的実在の中における法則性を認識するだけでは、まだすべての法則を認識したことにはならないのであって
大事なことはその客観を否定してあるべき姿を提示する、そこまでを法則に含めなければならないのだと思います。 
 それは同時に真理観にも関連してきます。これまで科学的社会主義の真理観というのは、客観的事実と一致した認識を真理だといってきました。客観的事実を認識するということの中には、客観的事実を否定してあるべき姿を認識するということまで含めて言わなければ正しい真理観とは言えないと思います。
 こうしてみてくると、ヘーゲルの立場はまさに科学的社会主義の運動論そのものといってもいいのではないでしょうか。
 日本共産党の19回大会決議は「科学的社会主義の運動は社会の現実の矛盾を明らかにし、その矛盾を人民にとってよりよい方向に打開する法則的な道筋に沿って必要な段階を経ながら、社会変革を進めるところに根本がある。」といっています。つまり科学的社会主義の運動というのは、現実を肯定するのではなくて現実を否定します。それは現状の中に矛盾を見いだすことによって、その中からあるべき姿を提示し、そのあるべき姿に沿って運動を進めてゆくのが合法則的運動=科学的社会主義の運動なのだといっているのです。ヘーゲルの概念論もそういう立場だといえるのではないでしょうか。
 社会を変革する、前衛政党の任務は歴史のそれぞれの局面において、ヘーゲルのいう概念を提示することにあるといってもいいと思います。
 20回党大会の中で、「丸山真男の戦争責任論」が問題になりました。日本共産党は第二次世界大戦を防げなかったので結果責任があるという立場なのです。その問題を取り上げて、中央委員会の報告では、歴史に対する前衛政党の責任は何なのかを述べています。その丸山の問いに対して、「それはその時々の歴史が提示した諸問題に対して真正面から立ち向かい、社会進歩の促進のために真理を掲げて闘うことであります。」といっています。
 歴史が提起した諸問題に対して正面から真理を掲げる、この場合の真理とは何かと言いますと、それがヘーゲルがいう主観的概念なのです。だからさっきも、科学的社会主義の真理観自体が発展してきているのではないかと述べましたが、この場合の真理は客観的事実の一致した認識という意味では理解できません。この場合は客観的実在の中から生まれて、それを否定して、あるべき姿を認識し、かつ提示すること、その意味で真理という言葉が使われています。そしてこの真理の理解の仕方で基本的に正しいと私は思います。
 いま21回党大会の議案が発表されていますが、この第2章の中で日本共産党はどんな日本を目指すのかといって、日本の政治方向の3つの根本的転換を提示しています。
 一つは日米安保条約をなくして、アジアと世界の平和に貢献する日本を目指すということ。
 二つには、ルールなき資本主義を正して国民生活優先の経済発展を目指すということ。
 三つ目は、憲法改悪を阻止し、民主主義の花開く人間尊重の日本を目指す。
 ということをいっています。これは現在の日本がどうなくてはならないのかという、日本のあるべき姿、日本の概念を示したものです。それはつまり現実の否定の上に立って、ヘーゲルのいう概念を提示したものなのです。
 このように概念を提示することが前衛政党の任務なのです。
 ヘーゲルのいう概念であるからこそ、それは単にゾーレン(Solen)にとどまって現実化しないほど無力なものではないということです。こういうものをも含めた真理だからこそ、真理は必ず勝利するという訳です。
 真理は必ず勝利するとは、科学的社会主義でもよく使われる言葉ですが、それはヘーゲルの言葉では「理念は単にゾーレンにとどまって、現実化しないほど無力なものではない」という、この言葉とまさにぴったりと一致するのです。
 真理というのは、真理であるが故に、最初は真理は少数の者の認識であっても、真理の持つ力によってそれはやがて多数の者の共通の認識になり、さらには多数の者の共通した認識と運動になることによって真理は実現されるということを意味しています。
 だからその意味の真理を追求したのが、ヘーゲルの概念論ではないのかと私は考えています。
 第20回大会は、「科学的社会主義における科学とは何か」という問題を提起しました。それは先ず第一に、自然や社会における法則性の承認であること。そして二つ目にはその法則を人間が認識できること。認識可能性を承認するということ。三つ目には、認識した法則に従って法則的に自然や社会に働きかけて、合法則的に自然や社会を変革すること。これが科学的社会主義における科学の意味だといっています。その意味でヘーゲルの論理学は、まさに科学の立場です。
 ではヘーゲルは丸ごと受け入れるべきなのかということですが、ヘーゲルには観念論がどこにもないのかというとそうではありません。
 ヘーゲルの根本的な批判は、『反デューリング論』や『フォイエルバッハ論』の中などで展開されておりますが、エンゲルスが一番批判しているのは、ヘーゲルの哲学の枠組みについてです。その枠組みというのは論理学・自然哲学・精神哲学という枠組みです。そして、その枠組みの舞台回しをする役割が絶対理念ということになっているのですね。
 ドイツ観念論では絶対者は何かということを追求していったわけです。それはつまり絶対的真理とは何かということですが、ヘーゲルは絶対理念ということをとらえて、それをヘーゲル哲学の体系を構築する舞台回しとしているのです。私はその枠組みは大いに問題があると思います。あるいは精神哲学における国家論などには一定の限界があるのは否定できません。ただヘーゲルの国家論も今一度評価し直すべきだという意見も最近出てきております。
 ヘーゲルを丸ごとその全部を肯定するわけにはいかないけれど、少なくとも論理学における一番根本的な考え方は、いかに人間が真理を認識しそれを実現するのかという科学的社会主義の運動論とも基本的に一致するものとして基本的に評価するべきものだと考えています。
  以上です終わります。(拍手)

 

若干の質疑と応答

 これまでの手法として、レーニンがヘーゲルの論理学をマルクスの資本論に匹敵するものだいう言い方をしているものだから、常に資本論との対比で論理学を理解しようとしてきたということがありました。
 それはやはり、資本論の中に弁証法を見いだすということはあるけれど、あまりその二つを結びつけようとせず、私はむしろ、プラトンやアリストテレスの哲学をも踏まえて、論理学は論理学だけで素直に学んだ方がいいのではないかと思います。ヘーゲルの体系の中で論理学はどういう意味を持っているのかを素直に学んだ方がいいのではないかと思うのです。そんな感じがちょっとしますね。
 たとえば、資本論第1巻の資本の問題・価値形態の問題などは、かなりヘーゲルに媚びをうって書いてあるように思えます。また論理学がずいぶん参考になっているように思います。しかしヘーゲル論理学を本当に理解するためには資本論を学ばなければならないのかというとそれはちょっと違うのではないかと思う。
 
ゼミ受講生A 「概念と絶対的真理の関係はどうなのでしょうか。完成されたあるべき姿に向かって進んでゆくというものなのでしょうか。」

高村先生 「ヘーゲルはそういう風に固定的に見ないのです。あるべき姿はそれ自身無限に発展してゆく過程なのです。日本の現実の問題でも一歩づつ前進しているわけではないですか。あるべき姿とはそういう意味で、現実が一歩前進したら、その前進した現実のまたさらにその先に新たなあるべき姿が出てくるわけで、不断にそういうものがくり返されてゆく無限の前進過程なのです。概念というのはあるべき姿、今の現実から出てくるあるべき姿、現実から生まれてくる一歩先の姿なのであって、常に現実の前進と共にあるべき姿も前進してゆくのです。」
 「私がこういう問題意識を持つようになったのはあるべき社会主義の問題があったからです。そのころソ連や東欧の社会主義は本当の社会主義ではない。あるべき社会主義はこうなんだという議論がされたがことがありました。私には、それまでの科学的社会主義の哲学の学習から、あるべき社会主義というのは観念論ではないのかという疑問がたえずあったのです。あるべき社会主義というのは、どう見たってこれは人間が頭の中で考えたものですよ。それはだから観念論ではないかと思ったのです。客観的事実を認識したものではないからです。そのあるべき姿を提示するのがなぜ観念論ではないのか、あるべき社会主義に照らして現実の社会主義は違うと考察し批判するのは論理としては正しいように思うのだけれど、これまでの哲学では説明できないのではないかという疑問がずっとあったのです。それで多くの人にいろいろと質問してみたのです。どうもすんなりとした答えが出なかったのですが、ヘーゲルの概念論を読んだらすっきりしたのです。ヘーゲルの概念論でいいのではないかということで考えてゆくうちに、今日のようなところまで来たのです。出発点はそこなのでした。」

ゼミ受講生B 「有なんて言葉は普通使わない。有なんて言葉はおかしい気がする。もっとほかに言葉はないのか。ザインSeinはどういう日本語がもっともぴったりするのか。」

高村先生 「そうですね。Seinを存在と訳している人もいます。Be動詞ですから"~がある"と"~である"の二つの意味があります。"ここにコップがある"と"私は人間です"との二つの意味です。ザイン(Sein)を存在と訳すと"~がある"という意味でしかなくなり、"~である"という意味の方がなくなるではないですか。Seinを両方の意味も持った言葉として使う場合には有の方がいいと思えます。寺沢恒信氏は存在と訳していますよ。」

ゼミ受講生B 「定有なんて日本語として何のことかよく分からない。取っつきにくい。」

高村先生 「確かにそうですね。独自の用語ですから、取っつきにくいですね。」

ゼミ受講生C 「50年前の訳だから分かりにくいのではないのですか?今でもやはり有とか定有とかと訳すのですか?」

高村先生 「今でもそういう訳と、存在・定在と訳す人がいるんだけれど、有と定有ならまだわかるけど、存在と定在になると今度はもっとわからなくなるかもしれない。定有はダーザインDaseinなんだけどね。ドイツ語を日本語に直す限界があるのではないでしょうか。」

ゼミ受講生D 「ドイツ人がドイツ語で読んだらもっとわかりやすいのでしょうか?」

高村先生 「そうでしょうね。」

ゼミ受講生E 「ドイツ人ではないからわからないんですが、二つあると思うんですよ。Seinなんかは子供でも使う言葉なのだそうですが、そういう意味で日用語に溶け込んでいるから違和感がない。一方ではヘーゲルは独自の言葉・用語として使っているんですよ。われわれは訳語で読むからいかめしい言葉になるんだけれど、特別の意味を持った言葉だということでいったんその意味を理解しさえすれば、その後はずっと理解できます。ドイツの人は日常の言葉の意味がじゃまをするという面もあるのではないかという気もします。」

ゼミ受講生F 「ドイツ人は理解しやすいのですか?」

ゼミ受講生E 「ドイツ人が読んでも難しいらしいですよ。」

高村先生 「優しい言葉で難しい内容を含めているから逆にドイツ人には難しいのかもしれない。」

ゼミ受講生E 「大学院時代の哲学専攻の同級生は、教授からヘーゲルを読んでもドイツ語の勉強にはならないといわれたとか(笑い)」「日常のドイツ語の会話とはかけ離れているそうです。」

高村先生 「今述べたようなことは私がこれまで書いた哲学の三つの論文をもとにしながら、また新たに付け加えたことなどをもお話ししました。何らかの形でこれらの論文が皆様方の目にとまるようにしたいなと思っています。」

ゼミ受講生E 「高村さんの論文を読んだり、今日の話を聞いたりして思ったのは、どこまでヘーゲル自身の内在するものから高村さんが概念として引っぱり出して展開したものなのか、ヘーゲル自身が自覚していたものなのか、この辺りを書かれるときにどうされるか期待をしております。」

ゼミ受講生B 「こう読んでいてもよくわからんなあと思うのだが、今あなたの話を聞くとなるほどそうかと思える。そういう理解をあなたはどうやって獲得したのか?」

高村先生 「それは反復熟読して、ヘーゲルを手の内にとらえることから来るのだと思います。最初は言葉の一つひとつが違和感があるものですね。」

受講生多数
 「何度読んでも無理かもしれない。」
 「そうそう」
 「最初読んだときとても日本語とは思えなかった。先生のお話を聞くと、何かそういう意味もあるのかとも思えたのですが。ヘーゲルの文章と先生のお話とどちらが間違っているのかとも思ったくらいでした。」(笑い)
 「ヘーゲルの方は意味が分かりませんから、先生の方が正しいのではないかとも思ってしまった。いまでもわかりません。」

ゼミ受講生D 「ちょっと別の質問を、レジュメ1ページのヘーゲルの思想を受け継ぎ、現実的に実現しようとしたのがマルクス・エンゲルスの共産党宣言ですね。
当時の思想界でヘーゲル左派と呼ばれていた人たちのことなどについてお話しして下さい。」

高村先生 「その辺りのことはフォイエルバッハ論をお読み下さい。ヘーゲルは矛盾したものを持っているのです。ヘーゲル哲学の中心は弁証法です。この弁証法はすべてのものは運動し変化発展するととらえます。エンゲルスの言葉を借りれば、ヘーゲル哲学の真の意義と革命的性格は、この哲学が人間の思考と行為のすべての結果の究極性ということに一挙にとどめを刺した。究極のものは何一つ無い。すべてのものは運動・変化・発展するのだ、ということが弁証法の神髄だといえるのです。しかし、ヘーゲルは一方ではそういうふうに言いながら、他方で彼の哲学を完成した体系としてつくったのです。一方では究極のものにとどめを刺したといいながら、そのもう一方では究極の哲学の体系をつくったのです。ドイツ人は体系好きなのでしょうね。きっちりした体系を作り上げて、三分法といわれるようにすべてを正・反・合の関係でガッチとつくりあげてこの哲学が最高の真理だ、これ以上はもう無いと言ってしまったのです。一方ではすべては移り変わってゆき、一方では自分の哲学は完成されたという。この矛盾の中から弁証法に重きをおいたものがヘーゲル左派を構成し、体系に重きをおいたものがヘーゲル右派を構成していたのです。ヘーゲル哲学における矛盾が二つに分裂していったというわけです。そしてマルクス・エンゲルスはヘーゲル左派として出発しながらそれを乗り越えていったというわけです。」

ゼミ受講生G 「論理学のうち98パーセントが左派で2パーセントが右派ですか?」

高村先生
 「98パーセントと私言いましたかね?」「それは、論理学の中における唯物論的なものが98パーセントと言ったのだと思います。残りの2パーセントは体系を作るための概念の無理な移行があるわけで、一つの概念から次の概念への移行に際して、カテゴリーが展開する過程でちょっと無理なことをしているところがあるのです。それは必要のないことです。神とか絶対理念とかは無くてもいいところです。せいぜい理念にとどめておけばいい所です。」

 「ヘーゲルは難解なのですが、なぜ学ぶべきなのかと言えば、そこに無限の真理があるからです。無限の宝があるからです。エンゲルスも無数の宝があると言っているのです。その宝は要するに法則です。自然や社会の法則がいくつも隠されているのですから学ぶ意義があるのです。」

 「宝が拾えないのだから宝の持ち腐れなのでしょうか?」(一同爆笑・笑い)
 「持ち腐れにならないようにしましょう。」
 「じゃあこんな所にしましょう。ご苦労様でした。」

一九九七年 八月 三日