講義日 1998年1月2日

 

 

社会変革の認識論

 

はじめに

 日本共産党は、九七年九月の第二一回大会において、二一世紀の早い時期に民主連合政府をめざすという目標を明らかにした。長年つづいた自民党政治の深刻な行きづまりを打開するには、もはや日本の政治の枠組みそのものを根本的に転換し、「国民こそ主人公」の民主主義日本への転換以外の道は存在しないからであり、かつ〝総自民党化〟政治のもとで、日本共産党の政治的比重が高まり、現実政治のうえでも〝自共対決〟の時代が到来していることに裏付けられた、科学的方針として提起されたものであった。
 現代唯物論は、変革の哲学であり、自然や社会を、労働や社会的実践によって変革さるべき対象ととらえる。社会的実践の中でもとりわけ重要なのは、社会変革を目的とする実践としての階級闘争である。階級社会では階級闘争こそ歴史発展の原動力だからである。
 二一世紀の早い時期に民主連合政府を実現するための階級闘争の課題は、政治革新の目標で一致する国民的多数派の結集、民主的統一戦線の形成にある。
 現代唯物論は、その変革の立場からして、かかる階級闘争における今日的課題の哲学的意義を解明することを、当面の重要な課題として位置づけねばならない。

 

一、統一戦線の認識論

 統一戦線とは、複数の階級、階層が階級的利害や価値観、世界観などのちがいをもちながらも、共通の目標のために共通の敵とたたかうために組織される共同の戦線である。
 日本の民主的変革をめざす統一戦線の共通の目標は、①日米安保条約をなくし、真に独立した、非核・非同盟・中立の日本、②大企業に社会的責任をはたさせ、国民生活優先の経済発展をすすめる、③憲法改悪と軍国主義の全面復活を阻止し、民主主義の花開く日本、として提起されており、この共通の目標にむけて国民の大多数を結集する民主的統一戦線の結成が求められている。
 現代日本における様々な個人的・階級的利害の対立や、多様な価値観、世界観のもとで、なぜ単一の民主的統一戦線に国民の大多数を結集することが、現実の政治課題となりうるのであろうか。
 様々な利害の対立や多様な価値観のもとで、日々の国民の社会的実践は、経済的にも、政治的にも、イデオロギー的にも、多様な形態となってあらわれる。ましてや社会的実践の一形態としての、社会変革をめざす社会的実践だけをとってみても、労働運動、業者運動、平和運動、民主運動など多様な形態がある。
 多様な価値観、多様な要求にもとづく多様な社会的実践の違いをのりこえて、政治革新の目標を、大多数の国民の一致した認識にすることを可能にするためには、認識論の問題として、価値観以上の問題が存在しなければならない。
 これに応えうるのは、真理以外にありえない。真理は単一なものである。国民の前に提起される統一戦線の目的が真理であるときにのみ、はじめてそれは国民大多数の共通の認識になりうるのであり、逆にいえば、その目的として真理をかかげるときにのみ、統一戦線は、単なる可能性を越えて現実となる力を持つ。
 真理は、真理の単一性によって、万人の共通とした認識となり、万人の共通の実践課題となるのであり、万人の共通の実践課題となることによって現実となる力を持つ。統一戦線の目的は、個々の特殊な社会変革の要求を生み出す根拠となる普遍的要求である。この普遍的要求は、現実社会の具体的分析から生まれる認識であり、しかも現実社会を否定して、現実社会を真にあるべき社会に変革しようとする認識である。統一戦線という概念は、真理の認識可能性の承認という、唯物論的な認識論に直接立脚しているのであり、統一戦線は一見すると単に政治的課題であるかのように思われるが、すぐれて認識論という哲学的課題であるといわねばならない。
 唯物論的真理観は、主観と客観の一致をもって真理とする。主・客の一致であり、この場合の真理は、認識論としての真理である。もう一つは、主観としての真理を客観に実現することによる主・客の一致であり、この場合の真理は実践論としての真理である。認識論における真理と実践論における真理とを一つに結びつける真理が「真にあるべき姿」である。「真にあるべき姿」は、客観から生まれる真理たる認識であると同時に社会的実践の目的としてかかげられる。この意味の真理は、はじめは少数のものの認識と実践として出発するが、正しい認識であるがゆえに時間の経過につれて次第に多数の者の共通の認識と実践になる。社会の根本的変革をめざす真理は、こうして階級闘争の課題となり、真理の実現をめざす階級闘争は、社会発展の原動力となるのである。「真理は必ず勝利する」との認識論的かつ実践的命題は、かかるものとしての意味をもっている。
 したがって現代唯物論において、認識論と実践論とは、真理を媒介にして統一されているのであって、真理の問題を棚上げにしたままで認識論と実践論との統一を論ずることはできないものと考える。

 

二、真理と価値

 ヘーゲルは、弁証法の三つの側面を①抽象的側面あるいは悟性的側面、②弁証法的側面あるいは否定的理性の側面、③思弁的側面あるいは肯定的理性の側面、としてとらえ、これら三つの側面は、「あらゆる概念あるいは真理のモメントである」としている(ヘーゲル『小論理学』㊤七九節、岩波文庫)。
 ここでいう「概念」は、「概念論」の「概念」であり、「真にあるべき姿」の意味である。つまり客観的事物の発展は、そのものの定有(悟性的側面)を否定することから出発するのであるが、単なる否定(否定的理性)にとどまるのではなく、否定をつうじて事物の真のあるべき姿(肯定的理性)を実現するという形態を反復しつつ発展するという、弁証法的発展を述べたものである。ヘーゲルは、客観が真にあるべき姿に一致することをもっって真理としているのであるが、無限に「真にあるべき姿」を追及し、それを実現していく真理実現の過程、「否定の否定」の過程として、弁証法的発展をとらえたのである。
 したがってこの弁証法的発展は、人類の生みだしたその時々の真理である「真にあるべき姿」をつねに実現しつつ、それをより豊かなものに発展させて行くのであり、弁証法的唯物論は、人類の知的遺産の集大成として存在する。
 「マルクス主義は、ブルジョア時代のもっとも価値ある成果を決して拒否しなかったどころではなく、二〇〇〇年以上におよぶ人類の思想と文化の発展における価値あるもののすべてを摂取し加工することによって、革命的プロレタリアートのイデオロギーとしての世界史的意義を獲得したのである」(「プロレタリア文化について」レーニン全集㉛三一六ページ)。
 ここにいう「価値あるもの」とは、階級闘争の歴史をつうじて保持され、発展しつづけた「真にあるべき姿」であり、いわばその時々の真理、相対的真理である。人類の価値ある遺産とは、相対的真理の一粒、一粒であり、それは真理であるが故に時代の制約をこえて普遍的価値を有するに至っているのである。
 現代日本の民主的変革のキーワードは、「国民こそ主人公」であり、その法的表現は「人民主権」ないし「国民主権」である。
 人民主権は、封建制社会の君主主権のアンチテーゼとして歴史上登場してきた思想である。
 「権利宣言は、何よりも歴史的所産であり、その内容も、したがって、歴史的にのみ理解されなくてはならない。ゲオルク・イェリネックがいったように、個々の基本権は、人間および国家とに関する一般理論の論理的産物のような顔をしているが、それらは、しかし、その具体的な法の規定のしかたにおいて、歴史的にのみ理解されうる。それらは、一般に知られるように、何よりもまず従来行われた制限の否定である。従来検閲が存したから、出版の自由が宣言されたのであり、良心強制が支配していたから、信仰の自由が宣言されたのである」(宮沢俊義「人権宣言概説」『人権宣言集』二八ページ、岩波文庫)。
 人民主権も、君主主権という「従来行われた制限の否定」として、当時、主権の「真にあるべき姿」、すなわち真理として登場してきたものである。主権は、主権者たるにふさわしい人権(基本的人権)と結合して歴史上登場してきたものであるが、その後の人民のたたかいは、人権の発展を生み出す。すなわち、第一世代の人権たる自由権は、封建制の「身分」という「制限の否定」としての意義を有するものであったが、資本主義、帝国主義の発展とともに、一方では契約の自由や営業の自由が、無制限な搾取強化、貧困、隷属、児童や婦人労働者の健康破壊を生み出し、他方では、戦争の自由が、植民地支配と民族抑圧を生み出すことが明らかになった。こうした「制限の否定」として、一方では労働組合結成の自由や労働者の生存権など、いわゆる第二世代の人権たる「社会権」が、他方で民族自決権を求める「民族の自由」が、いずれも資本主義的、帝国主義的「制限の否定」として、「社会主義国家」ソ連の誕生を契機としつつ、資本主義国家でも普遍的人権として位置づけられるに至った。しかし、自由権、社会権、民族自決権の保障によって、個人の尊厳と人間たるにふさわしい人権が実現されたかといえば、決してそうではなかった。第二世代の人権の「制限」性を暴露したのが第二次大戦であった。いざ戦争になれば生命・自由・財産を含む人権の一切がその機能を停止してしまうことが誰の目にも明らかとなった。平和であってこそ人権も保障される。こうして、平和的生存権という「人権としての平和」が第三世代の人権として登場してくるに至ったのである。また帝国主義時代の帝国主義戦争の相次ぐなかで、戦争の「制限の否定」として国際紛争の平和的解決の原則が次第に明確にされ、国連憲章を経て日本国憲法の平和原則にまで発展してくるのである。
 人民主権、個人の尊厳、自由、平等、平和など、今日普遍的価値を有するとみなされる法律上の諸制度は、すべて階級闘争の歴史のなかで、時代的制約と制限を否定し、「真にあるべき姿」、すなわちその時代における真理として掲げられて歴史に登場し、その後のたたかいのなかで、その真理が広く承認されて制度として定着し、内容的にも発展してきたものに他ならない。
 価値の基準は真理にある。真理に接近すればするほど価値は高くなるのであり、真理から遠ざかれば遠ざかるほど価値は低くなってくる。人類の価値ある遺産のうち、少なくとも「社会的価値」といわれるものはその時代の真理、すなわち相対的真理であるといってよい。

 

三、社会的実践と価値

 これに対して、価値の問題を真理からきりはなして、議論する考えがある。
 例えば、牧野広義氏は、「社会的実践と価値」(牧野広義「社会的実践と価値」大阪経済法科大学論集第五六号)において大略次のように主張されている。
 すなわち、「社会的実践は、いずれも人間が何らかの価値を実現しようとする目的意識的な活動」であり、「認識と実践とを媒介するものとして、価値を位置づけることによって、事実認識に基づく価値判断や価値選択の意義」を明確にしたいとの問題意識から出発する。
 牧野氏にとって、「価値」とは、「自然や社会の事物の必然性、有用性であり、また人間の行為の目的や手段としての意味を持ち、さらに人間の行為の規範や理想となるもの」である。人間の認識は事実認識から始まるが、それは同時に価値意識でもある。価値意識は実践的意識と結びつき、「要求、意志、当為」となってあらわれ、価値実現としての社会的実践となる。現代社会で求められる「普遍的・共同的価値意識」は、「すべての人間を人間として尊重して、人間の基本的な必要を満たすような自然的・物質的価値」、「自由、平等、民主主義、平和などの社会的価値とそれと結びつく精神的価値」、「これらを通しての人間的価値そのもの」とされる。価値論は、自由論とも結びつけられ、「意志の自由」は、「人間の実践にかかわる事柄の知識によって与えられる様々な可能性のうちから、もっとも望ましい可能性を選択して決断する」ということも含めて理解すべきであり、エンゲルスの自由論も、「自然と社会の法則性の認識にもとづいて、ここに示される実在的な可能性のうちから人間にとってもっとも価値あるものを選択する仕方で意思決定を行い、こうして人間が自然と社会を合理的に支配し、このような歴史的発展のなかで人間が主人公となっていくこと」と理解されているのである。
 以上の牧野見解に関し、次のような疑問が生じる。
 事実と価値、存在と当為、現実と理念の関係をどうとらえるかの問題は、ギリシャ哲学以来の哲学的課題となっている。牧野氏は、現代唯物論を発展させる立場から、トゥガリノフ、栗田賢三氏らの研究成果のうえにたって、その価値論を展開しておられるが、科学的社会主義の理論にとって、価値論は、真理論からきりはなしても尚かつ科学の対象になりうるのか、が、最大の問題なのではないだろうか。
 栗田氏は、「価値とは、歴史的に特定な社会または階級に属する人々に、現実のものとして、または目的ないし理想として有用であり、必要であるところの、自然及び社会の現象」(栗田賢三「マルクス主義と価値の問題」岩波講座哲学Ⅳ二五三ページ)というトゥガリノフの定義をとりあげて、次のような批判を加えている。
 「価値論が科学であろうとするならば、あらゆる科学の場合と同様に客観的な基準から出発しなければならないが、そのような価値基準はありうるのか、ということが問題になる。トゥガリノフはこの問いを肯定して、『人類の全歴史に対する価値として、例えば『社会進歩を促進する諸要因、さらに人間の人格、その生命、自由、品位、福祉、幸福』をあげている」ことをまず指摘したうえで、「有用であり、必要である」を客観的意味に解しても、「はたして、これに価値の定義としてどれほどの意味があるだろうか」と問い返している(同)。
 「そうすると、トゥガリノフの定義は『価値とは目的とすべきもののことである』ということになる。この定義はまちがいではないが、単に価値とは規範的、当為的なものであるということを言っているだけで、はなはだ空虚な定義になってしまう」(同)。
 価値を「必然性、有用性」とするかぎり、いくら価値には「客観的価値」があるといってみても、絶対的な価値の評価基準は存在しないことになるから、いかなる価値をもって「自然や社会の事物の必然性、有用性」と判断し、いかなる価値を社会的実践の目標としてかかげるべきかは、相対的なものとしてしか規定されないことになってくるのではないかと思われる。平和や民主主義、人間的価値そのものなどを「普遍的・共同的価値意識」といってみても、何をもって「普遍的・共同的価値意識」とするかに関する判断の基準が存在しない以上、多義的内容をもつものとして相対化されてしまうことに変わりはないように思われる。
 平和や民主主義が「普遍的・共同的価値」を有すること自体は否定しないが、問題はむしろ何故これらの価値が「普遍的・共同的価値」を有するかが、説明されなければならないであろう。
 社会的実践のなかでも、社会発展の原動力となる社会変革を目的とする実践は、多様な形態の社会的実践を一つの大きな流れに束ねて、階級闘争にまで発展させることが重要なのであり、そのためには実践的課題が、単なる可能性のうちにある選択肢の一つとしてではなく、それ以外にはありえない必然的かつ唯一なものとして、すなわち真理として提起されねばならないと考える。
 牧野氏は、有用性、必要性としての価値から生まれる実践的意識は、要求、意志、「当為」となってあらわれると主張されるが、「当為」の哲学上の意義もまた問題である。
 ヘーゲルは、カントやフィヒテの哲学が、「当為」をかかげるにすぎないことを「ただ有限性に固執し、従って矛盾に固執するところの立場」として批判して次のように言う。
 「当為は、制限の超越であるが、しかしそれ自身は単に有限的な超越である。……けれども現実そのものといえども、理性や法則が単にあるべきものとしてあるにすぎないというほど悲惨なものではない。それが単に当為にすぎないとすれば、そこにはただ即自有の抽象体しかないことになる。 ── また当為が当為を生むというように次々に永久に立てられるものであり、これを裏から言えば有限性が絶対的であるというほどに現実は哀れで、みすぼらしいものでもない」(ヘーゲル『大論理学』㊤の一、一五八ページ)。
 「制限と当為」のカテゴリーは、ヘーゲル論理学の「定有」のなかで論じられており、「或るもの」から「他のもの」への移行に関わるカテゴリーである。
 「或るもの」にとって、「他のもの」は、「或るもの」が移行すべき「当為」であるが、「他のもの」とは、「或るものでないもの一般」を意味している。「当為」が実現された「他のもの」も、単に一つの「或るもの」にすぎないから、また新たな「当為」に直面し、「当為が当為を生む」無限進行となる。したがって、単なる「当為」は、「制限の超越」ではあっても、「単に有限な超越」にすぎないから、かかる「当為」に安住すべきものではない、というのである。
 では、「当為」から、どこに向かうべきというのであろうか。
 「大きくみれば外面的で一時的な事物や制度や状態などに、悟性的なゾレンが向けられる場合には、その言い分が正しいこともあるであろう。このような場合には、それは普遍的な正しい規定に一致しないものを沢山見出すでもあろう。誰しも自分の周囲に、あるべきものでない多くのものを見出すほどの知恵は持っているからである。しかしこのような知恵が、先にのべたような諸事物やそのあるべき姿を云々することによって、哲学のうちにあると自惚れるのは見当違いである。哲学はただ理念をのみ取り扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではない」(ヘーゲル『小論理学』㊤六節)。
 単なる「当為(ゾレン)」は、あるべき姿を見出すのではあるが、その「当為」は、「或るもの」を否定するにとどまるから、その否定から生まれる「あるべき姿」も、恣意的、偶然的なものにすぎないのであって、現実になりうる力を持つこともあれば、そうでないこともありうる。哲学は、単なる可能性、偶然性を取り扱うものではなく、必然性を扱う学問であるから、かかる可能性、偶然性の領域にとどまる「当為」にとどまるべきものではなく、現実となりうる力をもつ理念をのみ取り扱うものである、というのであろう。ここにいう理念とは「概念と客観性の絶対的な統一」(同㊦二一三節)であり、ヘーゲルのいう真理である。当為から理念にむかうこと、すなわち、「あるべき姿」一般から、「真にあるべき姿」に向かうことが、唯物論の認識論としても求められているのである。
 ヘーゲルは、事実と価値、現実と理想という対立物の統一を、「概念」、「理念」に見出したのであり、事実と価値、現実と理想とは、真理を媒介して統一されることを明らかにしたのである。
 政治とは、「当為」をめぐる思想闘争である。全て政党・政派は、現代日本の政治・経済・社会の「あるべき姿」を問題とし、自らの「当為」を国民の前に提示する。橋本内閣の六大改革なるものも、かかる「あるべき姿」の一つである。階級闘争の集中的表現としての政党間の闘争は、民主政治のもとにあっては各政党・政派の提示する「あるべき姿」の正当性をめぐる思想闘争となってあらわれるのであり、その優劣を国民の判断にゆだねるのである。資本主義は、少数のものが多数を支配する階級社会である。支配政党であるブルジョア政党は、実際には、少数のものの利益を代表する「あるべき姿」をあたかも多数のものの利益に合致するかのような装いをこらして登場させる。プロレタリア政党は、これに対し、労働者、国民の大多数の利益に合致する「真にあるべき姿」を対置してたたかう。小ブルジョア政党は、あれこれの恣意的、偶然的「あるべき姿」を提示し、国民の前の提示された対決点が、ブルジョア政党の「あるべき姿」とプロレタリア政党の「真にあるべき姿」のいずれを選択するべきかにあることを曖昧にし、かつ覆い隠そうとするのである。
 しかし、階級闘争をつうじて、「真にあるべき姿」は、真理の持つ力により、次第に国民の多数派の共通した認識となり、やがて民主的統一戦線の目標として浮かびあがってくることになるのである。
 牧野氏の価値論における以上の疑問は、価値論と連動する自由論への疑問となってもあらわれざるをえない。 自由論に関し、エンゲルスがヘーゲルから学んだものは、自由と必然性を媒介のない対立においてとらえる従来の見地を止揚し、自由と必然とを対立物の統一としてとらえるところにあった。
 ヘーゲルは、「必然の真理は自由」であるとし、「もちろん必然そのものはまだ自由ではない。しかし自由は必然を前提とし、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる」とした(同一五八節)。ヘーゲルにとって、「自分が全く絶対的な理念に規定されているのだということを知るのが、人間の最高の自立性」(同)であり、自由な精神である。
 「絶対的理念」とは、「主観的理念と客観的理念との統一」であり、「絶対的な且つあらゆる真理」(同二三六節)であるから、ヘーゲルのいう自由とは、絶対的真理の認識と実践の統一である。
 牧野氏もエンゲルスの『反デューリング論』における自由論を引用されているが、なぜか牧野氏が引用されていない部分に、次の文章がある。
「意志の自由とは、事柄についての知識をもって決定をおこなう能力をさすものの他ならない。だから、ある特定の問題点についてのある人の判断がより自由であればあるほど、この判断の内容はそれだけ大きな必然性をもって規定されているわけである。……だから自由とは、自然的必然性の認識にもとづいて、われわれ自身ならびに外的自然を支配することである」(マルクス・エンゲルス全集㉑一一八ページ)。つまり自由とは、自然や社会の合法則的発展をめざす認識と実践であり、その認識と実践とが、絶対的真理に接近すればするほど、人間はより自由になっていくというのである。
 自由論は、「真にあるべき姿」の認識と実現(実践)という、唯物論的真理観のうえに展開さるべきものである。
 ところが牧野氏、前述の如く、「自然と社会の法則性の認識にもとづいて、ここに示される実在的な可能性のうちから人間にとってもっとも価値あるものを選択する仕方で意志決定を行い、こうして人間が自然と社会を合理的に支配」することをもって、自由の内容としておられる。
 牧野氏にとって、法則性の認識と、意志決定とは、別個のものとされる。法則性の認識は、実践的意識にとっていくつかの可能な選択肢を提供するにすぎないのであって、その「実在的な可能性のうちから」一定の価値判断にもとづく意志決定が行われることをもって自由とされるのであるから、その意志決定は、絶対的に規定された内容をもたないことになる。
 これは、自由論の発展というより、後退ではないだろうか。ここでは自由と必然の関係がヘーゲル以前の状態に逆戻りしてしまっており、自由と必然が統一してとらえられていない。エンゲルスが「ある人の判断がより自由であればあるほど、この判断の内容はそれだけ大きな必然性をもって規定されている」といっているのは、自由を真理との関連においてとらえ、認識の内容が真理に接近すればするほど、真理の単一性、一義性からして、より絶対的に規定された一義的内容をもつことになるのであり、これをもってより自由であるとしているのである。いわば、より自由になるほど、選択の幅は小さくなり、真理を認識して、自由が最高度に到達したときには、選択すべきものはただ一つになっているべきものである。
 牧野氏の価値論は、真理と切り離されることにより、相対主義的認識論への傾向と同時に自由論を変質させることになるのではないかとの疑問を禁じえない。真理論、価値論、自由論をその相互媒介と統一においてとらえることが重要ではないかと思うものである。

 

四、人類の知的遺産の継承・発展

 人類の進歩的思想の集大成として誕生した科学的社会主義の理論は、閉鎖的で、硬化した学説ではなく、不断の進歩と発展の過程にある学説である。かかる不断に発展する学説として、エンゲルスが「そこには、今日でもなお完全に値うちのある無数の宝がある」と指摘したヘーゲル哲学から、引き続き継承すべきものを学びとる努力を惜しんではならない。
 ヘーゲル自身は、哲学の歴史を、後の哲学がより先の哲学を批判しつつ、人類として絶対的真理に無限に接近していく歴史ととらえている。
 では、ヘーゲルは、それまでの哲学の歴史から、何をその神髄として学びとって自らの「論理学」を構築したのであろうか。
 エンチュクロペディー「第二版への序文」のなかで、ヘーゲルは、自己の哲学の目的が、「真理の学的認識」にあり、そのためには、哲学史をつうじて、真理の「諸形態のうちに理念を発見し、哲学的真理が孤独でなかったこと、その働きがこれらのうちに少なくとも発酵状態として存在していたことをみる」(『小論理学』㊤四七ページ以下)ことの必要性を指摘したうえで次のように言う。
 「古いもの ── と言っても、内容そのものは永遠に新しいのであるから、古い形態を言うのであるが ── が復活されねばならないとすれば、例えばプラトンが、そしてはるかに深い形でアリストテレスが与えているような理念の形態は、以上述べたようなものとは比較にならないほど想い起す価値をもっている。というのは、それをわれわれの思想のうちに取り入れて明らかにするという仕事は、単にそれを理解することを意味するにとどまらず、哲学そのものの進歩をも意味するからである」(同四九ページ)。
 プラトンから、アリストテレスに継承され、ヘーゲルが学びとった「理念の形態」と「哲学そのものの進歩」とは一体何であったろうか。
 ヘーゲルは、その死の直前まで推敲を重ねたエンチュクロペディーの最後尾に、何の説明もなく突然アリストテレスの「形而上学」第一二卷第七章から、次の文章を引用している。
 「思惟そのものはそれ自身最善のものに向い、最高の思惟は最高の最善のものに向かう。理性は思惟されるものの性質を分有することによってそれ自身を思惟する。というのは、理性は思惟されるものにふれ、それを思惟することによって、思惟されるものとなり、理性と思惟されるものとは同一のものとなるからである」(樫山欽四郎他訳『ヘーゲル エンチュクロペディー』四四六ページ、河出書房新社)。 右文章の位置からして、おそらくここにヘーゲルはアリストテレスから継承すべき最善のものをみたのであろう。
 ヘーゲルは、その「哲学史」において、アリストテレスの「形而上学」の紹介の大半を、プラトンの理念との対比におけるアリストテレス的理念の叙述にあてている。エンチュクロペディー「第二版への序文」にいう、「プラトンが、そしてはるかに深い形でアリストテレスが与えているような理念の形態」を論じているわけである。
 ヘーゲルは、プラトン的理念には、「現実性の契機としての生きた主体性の原理」が欠けているのに対し、アリストテレス的理念にあっては、「この活動的な働きがはっきりエネルゲイアとして規定されている」としている。したがって、「プラトンにあっては肯定的原理、単に抽象的に自己同一的な理念が根本的だとすれば、アリストテレスにあっては否定性 ── 但し変化としてではなく又無としてでもなく却って区別する働き、規定する働きとしてのそれ ── の契機が附加えられており、彼によって強調されている。偶然的な単に特殊的たるに過ぎない主体性ではなく却って純粋な主体性の意味に於けるこの個別化の原理こそはアリストテレス特有のものなのである」(ヘーゲル『哲学史』中の二、三一ページ、岩波書店)。
 理念は、主体性として、現実化する力を持たねばならないのであり、自分自身を規定して個別化する普遍、すなわち具体的普遍でなければならないのである。
 こうして、「形而上学」の紹介においてプラトン的理念とアリストテレス的理念の比較検討をしたうえで、ヘーゲルは、問題となる第一二卷第七章の文章を引用しつつ、「アリストテレスによれば、概念(認識の原理)は又、動かすもの(存在の原理)でもある」ことを確認する(同四〇ページ)。
 それにつづけて、エンチュクロペディー末尾の「理性は思惟されるのもの性質を分有することによってそれ自身を思惟する。というのは、理性は思惟されるものにふれ、それを思惟することによって、思惟されるものとなり、理性と思惟されるものとは同一のものとなるからである」との文章を引用し、「かくてアリストテレス哲学における根本契機は、思惟のエネルゲイアと客観的な考えられたものとが一つのものであるということである」としている(同四九ページ)。
 ヘーゲルは、理性とは「思惟されるもの」(客観)の「性質を分有する」思惟(主観)であり、そのことによって、理性を思惟されるもの(客観)に現実化し客観と同一化する、主・客の同一を実現するエネルゲイアとして、とらえたのである。
 ヘーゲルのいう「絶対的観念論」とは、単なる「当為」ではなく「真にあるべき姿」としての概念、理念をつうじて、主体的に主観と客観の統一を実現していく、自由な精神の立場を表明したものととらえたい。
 「精神はわれわれにとっては自然をその前提としている、自然の真実態、その絶対に第一のものが精神である。この真実態のなかでは自然は消えており、精神は自然の向自有に達した理念として現れている。そしてこの理念の客観ならびに主観が概念なのである。この主・客観の同一性は絶対的否定性である」(前掲『ヘーゲル エンチュクロペディー』三八一節)。
 ヘーゲルにとって、客観世界(自然)は有限な存在であり、それゆえに滅亡の運命を担っている。つまり客観世界は変革の対象でしかないのであって、それを「真にあるべき姿」(真実態)に変革するのが精神の役割である。客観世界の真にあるべき姿(自然の向自有)が理念であり、理念は、主観的概念と客観的概念との統一である。主観的概念とは、客観のなかに即自的に含まれている「真にあるべき姿」を観念化してとりだしたものであり、客観的概念とは、この主観的な「真にあるべき姿」(概念)を客観のなかに実現したものであるから、「理念の客観ならびに主観が概念」なのである。この「真にあるべき姿」は、まず客観を否定し、客観のなかからとりだしたものとして「客観の絶対的否定性」であり、次に主観的な「真にあるべき姿」を客観のなかに実現することによりその主観性を否定し、「真にあるべき姿」に客観化するから「主観の絶対的否定性」であり、かかる二重の否定性をつうじて、「真にあるべき姿」は、主観であると同時に客観であるという「主・客観の同一性」に実現される。しかもこの同一性は主・客の対立物の統一として、精神の働きにより主体的に実現されるものである。客観を支配しているのは、必然性であるのにたいし、「真にあるべき姿」を実現する精神は、本質的に自由である。
 変革の立場にたつ現代唯物論は、ヘーゲル哲学の合理的な姿を以上のようなものとして理解し、ヘーゲルのいう「概念(真にあるべき姿)」をそのうちにとりこむべきものと考えるものであるが、それにより、次のような理論的豊かさを生みだしうるのではないだろうか。
 第一は、変革の立場に立つということの意味である。マルクスのフォイエルバッハに関する第一一テーゼ「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。しかし肝心なのはそれを変えることである」を根拠に、変革の立場を強調することにはそれなりの意味があるが、ある意味ではすべての政党・政派が「変革」「改革」を唱えているような現代日本の哲学としては、一般的に「変革の立場」を主張するにとどまっているのでは十分ではない。
それは、ヘーゲルのいう「単なる当為」の立場にすぎないからであり、今日われわれの前に提起されている課題は、あれこれの恣意的「当為」から、「真のあるべき姿」としての「概念」を区別することにあるからである。
 したがって、現代唯物論の課題を単に「変革の立場」というだけでは不十分かつ不正確であり、「合法則的変革の立場」とか「真にあるべき姿への変革の立場」とかに限定して主張さるべきものと思われる。
 第二に、自由論の領域の問題である。
 秋間実氏の「自由Ⅰと自由Ⅱとを統一的に ── あるいは、すくなくとも連関させて ── つかむことを可能にする哲学的自由論をうちたてることが課題になっている」との問題提起以来、この両者を統一的に理解しようとする様々の試みがなされている。
 エンゲルスが、『反デューリング論』でのべた「自由論Ⅰ(必然性とのかかわりでつかまれた自由)」がヘーゲルの自由論に由来していることはいうまでもない。
 ヘーゲルの自由論は、真理性と結びついた自由論、換言すれば、概念、理念と結びついた自由論であり、「真にあるべき姿」の認識と実現という、意識(精神)の創造性に関わるカテゴリーである。
 「精神の実体は自由である。すなわち他者に依存していないことであり、自己を自己自身へ関係させることである。精神と現勢的自覚的な概念であり、自己自身を対象としてもっている概念であり、実現された概念である。精神においては概念と客観態との統一が現存しているのであるが、精神の真理性と自由とは同時にこの統一の中に成立しているのである。すでにキリストがいったように、真理は精神を自由にし、自由は精神を真理にする。しかし精神の自由とは、他者からの独立が単に他者の外部で獲得されたものではなくて、他者のなかで獲得されたものなのである。精神の自由は他者からの逃避によって実現されるのではなくて、他者の克服によって実現されるのである」(ヘーゲル『精神哲学』㊤三六ページ、岩波文庫)。
 ヘーゲルにとって、自然(客観世界)においては必然性が支配しているのに対し、精神(意識)においては自由が支配している。だから、必然の真理は自由であり、現実の真理は、概念、理念である。客観世界の必然性を揚棄し自己のうちに含む「真にあるべき姿」を認識すること、及び現実を「真にあるべき姿」に変革することが、自由な精神の働きなのである。エンゲルスが、「自由とは、自然必然性の認識の基づいて、われわれ自身ならびに外的自然を支配することである」といっているのも、かかる意味として理解される。
 これに対し、いわゆる「自由Ⅱ」は、「自由と平等」「自由権と社会権」など基本的人権に位置づけられる、人類の価値ある遺産である。
 人類の価値ある遺産とは、前述の如く、歴史的に獲得された相対的真理である。
 こうしてみてくると、自由とは、自然と社会の真理(真にあるべき姿)をめざす認識と実践であり、その歴史的獲得物としての相対的真理の一粒が基本的人格としての自由の内容をなすものである。人類の歴史は、次々と相対的真理をうちたて、かつのりこえていくことにより、絶対的真理に無限に接近し、自由を拡大していく歴史である、ととらえることができる。またこうした自由論の構築により、自由Ⅰと自由Ⅱとを統一的に理解しうるのではないかと思われる。
 第三に、真理論の発展の問題である。
 現代唯物論は、客観的真理の存在を肯定し、真理が単なる主観に過ぎないことを否定する。
 客観的真理という場合、ヘーゲルがいうように「正しさ」と「真理」を区別することが必要なのではないだろうかと考える。「正しさとは、一般にわれわれの表象とその内容との形式的な一致をさすにすぎず、その内容がどんなものであるかは問題でない」(ヘーゲル『小論理学』㊦一七二節補遺)。これに対して、真理とは、対象と概念との一致である、というのである。思うに、定有の判断は、定有するものと表象との一致に正しさを見出す事実判断であり、本質の判断は、定有するものと本質との一致に真理を見出す価値判断であるのに対し、概念の判断は、定有するものとその「真にあるべき姿」(概念)との一致に真理を見出す真理判断である。広義の真理には、定有の判断の「正しさ」、本質の判断の「真理」、概念の判断の「真理」の三つのレベルが存在し、後になるほど、より高い真理となる。変革の立場からすれば、概念の判断としての真理がもっとも重要となることは言うまでもない。定有の判断には事実認識が、本質の判断には価値認識が、概念の判断には真理認識がそれぞれ対応しており、価値認識をこえて真理認識にまで到達するところに、哲学の目的があるといえるのではなかろうかと思われる。
 また、あわせて真理には、現実となる力があることが指摘さるべきである。真理は、概念の判断における真理からすると、認識論の問題であると同時に実践論の課題としての意義をもつ。科学的社会主義の運動論は、社会における現実の矛盾を明らかにし、その矛盾を人民にとってよりよい方向に打開する「真にあるべき姿」を示し、人民の様々のたたかいをその唯一の真理の方向に束ね、そのときどきの実践の課題として提起されると同時に、真理であることによって現実となる力を持っていることが明らかにされねばならないのである。

一九九八年 一月 二日