『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

発刊によせて

関西大学名誉教授  鰺坂 真

 

 高村是懿さんの『ヘーゲル「小論理学」を読む』が出版のはこびとなり、私たちとしてもまことに喜ばしいところです。高村さんは弁護士として、また総選挙や広島県知事選挙の候補者として、永年ご活躍してこられました。さらに広島県労働者学習協議会の会長として労働者の学習活動に参加し重要な貢献をしておられます。特に哲学の分野に関心をもち、唯物弁証法の研究と普及に力を尽くして来られました。
 一九八九年度に関西勤労者教育協会の主催する哲学ゼミナールでヘーゲル論理学をとりあげて、小生がこれの講師を担当したおりに、高村さんはこれに毎回熱心に参加され、ヘーゲル弁証法の研究を深めていかれました。
 その後、広島においてヘーゲル論理学の講義を自ら担当されることになったと聞き及んでおりましたが、その講義内容が今回本書となって上梓されることになったのは喜びにたえません。
 マルクスやエンゲルスが科学的社会主義の理論をつくりあげるときに、ヘーゲル哲学とくにその論理学を学んだことはよく知られたことです。そしてその観念論的性格の側面を取り除いて、唯物弁証法の書物を書く計画をもっていたこともよく知られたことですが、マルクスはこれをなしとげる時間をもっていませんでした。レーニンも同様の計画をもっていましたが、彼もこれを仕上げることは出来ませんでした。そのような事情から私たちは唯物弁証法を詳細・精密に研究するためには、まずヘーゲルの論理学を検討し理解する必要があるという事情のもとにおかれています。特にソ連などの哲学界がレーニンの没後、とりわけ今世紀の三〇年代以降、右のような努力をないがしろにして、通俗的教条化でことたれりとするような傾向をもっていただけに、現代においてもなおヘーゲル哲学の研究は重要性を失っていないと考えられます。多くの研究者が多様な角度からヘーゲル研究を行うことが求められています。
 このような事態のもとで、高村さんを中心として広島県学習協の皆さんの努力によって本書が世に出ることは、まことに時宜をえたことであると喜ぶものであります。私も今回校正刷を読ませて頂いて、幾多の創見が見出され、特に高村さんの法律家としての見識が根拠となって興味ある論述がなされていて、それがヘーゲル論理学を理解し易いものとしている点に感服する次第です。ヘーゲルやマルクスの研究者だけでなく、労働者の学習運動、教育運動にかかわっておられる広範な方々に参考にして頂くことをおすすめしたい書物であると考えます。
 ところで本書の中で、見田石介先生や鈴木茂先生、あるいは私たちの『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)にふれて、批判を述べておられる部分がありますので、当事者の一人としてここに感想を述べさせて頂きたいと思います。それは主にヘーゲル論理学の中の「概念論」に関して、見田先生や私たちがその観念論的側面を批判しているのに対して、高村さんが反対して、そのような理解には賛成できないと書いておられる点です。
 見田先生や私たちがヘーゲル論理学は彼の『精神現象学』の「絶対知」を前提にして「主観と客観の一致」を前提に説き起こしており、したがって「思考の歩み」と「存在の歩み」を混同することになっており、ここにヘーゲルの「観念論」があると論じているが、これは正しい理解ではないと高村さんは主張しておられます。高村さんによればへーゲル論理学はそういうものではなく、主観と客観とはちゃんと区別されており、ヘーゲル論理学は「認識論としてしか理解すべきではないのではないか」というわけです。つまり高村さんはヘーゲル論理学を唯物論的にも正当な認識論として理解できると主張して、ヘーゲル論理学の観念論的側面などない、あったとしても問題にするほどのものではないと言っておられることになります。
 私たちもヘーゲル論理学の中にすぐれた唯物論的側面が含まれており、特に認識論として唯物論の要素を備えていることは、十分に認めるところです。カントの認識論に対するヘーゲルの批評などはまさに唯物論的です。これは見田先生も強調しているところです。見田先生の『資本論の方法』(弘文堂)や最晩年の「ヘーゲル論理学と『「資本論」』」などは、このヘーゲルのすぐれたところをマルクスがいかに吸収したかを解明したものです。
 しかし同時にヘーゲル哲学の体系としての観念論的性格を軽視してはならないというのが見田先生と私たちの主張です。ヘーゲルの観念論的性格の批判が不十分なまま『資本論』をヘーゲル的に受け入れると、たとえば「宇野理論」などの「論理=歴史一致説」などの歪みで出てくる点でもあります。
 ヘーゲルが概念論で主観と客観とを分離して、唯物論と異ならない認識論を展開しているという高村さんの主張についても、概念論におけるヘーゲルの所説がそのような積極的要素を多く含んでいることを私たちは高村さんとともに認めるものです。しかしそれにもかかわらずヘーゲルが論理学の体系化に固執するあまり、論理学体系が全体としては観念論的性格の強いものになってしまっている。そこのところを無視するわけにはいかないと私たちは考えています。
 高村さんがヘーゲル論理学の認識論としてのすぐれた側面を高く評価される点は私なども何ら異論はなく同感するところですが、ヘーゲルの観念論的側面をどこに見るか、それをどう克服するかの点で意見が食い違っていると思われます。
 この点は今後さまざまな角度からお互いに検討を加える必要のある課題として残っているとしても、本書のような研究書が出版され、多くの読者を得て、ヘーゲル弁証法とマルクスの唯物弁証法との理解のための援助となるであろうことはまことに喜ばしいことです。多くの学習運動の関係者、ことに若い方々が本書を読んで下さるようおすすめする次第です。

一九九九年 八月 八日

 

 

 


は じ め に

 科学的社会主義の理論に関心をもつものにとって、その源泉の一つであるヘーゲル哲学を学んでみたいという要求は、不可避的であるといってよいでしょう。
 しかし、そこには大きな壁があります。ヘーゲル哲学の中心をなす「論理学」は、難解をもって鳴る古典であって、独習によって消化しようとしても、少々のことでは歯がたたないのです。またヘーゲルの観念論を批判しながら、ヘーゲル哲学の合理的核心をつかみ出すには、単にヘーゲル哲学を消化する以上の、さらに高度の読解力が求められます。『見田石介ヘーゲル論理学研究』(大月書店)や「『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣)などすぐれた解説書がありますが、こうしたものに導かれても、なお合理的核心をつかみ出すことは簡単ではありません。
 私自身、最初の一〇年余り独学でヘーゲル哲学と格闘してきましたが、哲学には門外漢なため困難の割に実りの少ないものでした。
 ところが、一九八九年関西勤労者教育協会が、鯵坂真先生の「ヘーゲル小論理学ゼミ」を開催することを知り、欣喜雀躍して参加しました。広島から大阪まで、二年間通うことは、それなりの負担となりましたが、真理を学ぶ喜びは比較にならないものでした。鯵坂先生が、講義前の一時間を私との一問一答のために特別に割いてくださったことは、この喜びを倍加させるものとなりました。このことを通じて、鯵坂先生の学習教育運動へのひたむきさと真理にたいする敬虔さを教えられました。
 ここから私のヘーゲル哲学への理解も「量から質へ」の転化をとげたように思えます。そのなかで、ヘーゲル哲学を学ぶために、原文にそった良き手引書の必要なことを痛感したのです。こうしたこともあって、求められるまま、広島県労働者学習協議会として最初の「ヘーゲル小論理学ゼミ」を一九九四年に、一九九六年には二度目のゼミを開催しました。
 本書は、その二度目のゼミの講義に加筆・訂正したものです。私なりに、ヘーゲル哲学の合理的核心が変革の立場にあるとつかめましたので、再度のゼミとなったものです。その内容は、はからずも見田・鯵坂両氏の見解と多少異なるものとなりましたが、「真理の前にのみ頭を垂れる」との精神で講義したものですから、鯵坂先生にもご理解いただけるのではないかと思うと同時に、その学恩への多少の恩返しになったのではないかと思います。
 当初は、まったく出版を予定していなかったのですが、ヘーゲル哲学の手引書を求める受講生の熱心なすすめとテープ起こしの協力により、今回、広島県労働者学習協議会再建一〇周年記念事業の一環として、出版の運びとなりました。
 二十一世紀の早い時期に民主連合政府を樹立するためにも、いま、変革の立場からヘーゲル哲学を見直すことが求められているのではないかと思います。内容の未熟さ、個々の不十分さは、私自身十分承知していますが、ヘーゲル哲学全体を大きくとらえる一試論として、本書が科学的社会主義に関心をよせる人びとに受け入れられ、ヘーゲル哲学独習の手引書としてお役にたてれば、幸いです。また本書に対するご批判、ご意見を積極的にお寄せいただき、真理を探求する討論を通じて、科学的社会主義の理論を豊かにすることに多少なりとも貢献できるとしたら、これに勝る喜びはありません。
 最後に、本書出版にあたって、長期間にわたって日夜労苦をともにして頂いた、広島県労働者学習協議会編集員会の皆さんのご協力に、心から敬意と感謝の念を表明するものです。なお、装丁は、イラストレーターの長男、高村是州が担当しました。

一九九九年 八月 六日(第五四回目の原爆記念日に)
                   高村 是懿

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