『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第三講 有論・質 Ⅰ

論理学全体の概要

 さて、いよいよ「有論」に入ります。テキストを読んだ人もいるでしょうが、私の理解している根本を最初に全部お話しするのがよいかと思います。ちょっとテキストの目次をみていただきたいのですが『小論理学』上巻の八ページと下巻の三ページの、各目次をみながら聞いて下さい。
 「論理学」というのは、第一部が「有論」、第二部が「本質論」、第三部が「概念論」であることがわかります。全体として認識が深まり、より深い真理の認識へ次第に前進する過程をみています。
 では有論とは一体何なのか「有」とはドイツ語でいえば「ザイン」(Sein) 、英語でいえばBe動詞です。もっと分かりやすいことばでいうと、有論というのは「…がある」「…である」という話です。前回、哲学の始まりの話で、世界のなかで一番根本的なものは何なのかということをギリシアの哲学者たちはいろいろ考えて、水だとか空気だとかいろいろあったけれども、そのなかで「有」というのが根本なんだと考えるに至ったといいました。
 ヘーゲルは彼自身、哲学史の講義を何回もやっていまして、古今東西の哲学がよく頭のなかに入っていて、そのなかから自分流に哲学を作り変えたのです。ヘーゲルはギリシャ哲学を学ぶなかで、有論を哲学史の出発点にすえようと思ったのですが、それは一体どういう考え方から来ているのかというのが大事なところです。つまり、ヘーゲルの哲学の出発点は、唯物論的認識論なのです。客観世界をわれわれが感覚的に認識するところを哲学的にとらえようとするのです。客観世界をわれわれが最初にとらえるときには、まず感覚的に認識します「あの山はきれいだなあ」とか「ここはきたない町だな」とか「たくさん人がいるな」とかそういう感覚でとらえます。
 感覚的な認識によって、物事を表面的に、現象的にとらえるというレベルの認識が有論なのです。そういう表面的認識から、より深い真理の認識になっていく。感覚的な認識から、本質の認識というように認識は前進するのです。本質をつかむということは、言いかえれば、物事を二重にみるということです。つまり、外にあらわれた姿と内側にある姿とを別なものとしてつかむのです。内側にある本質が外側にあらわれたものが現象です。だから本質論という第二部では、そういう本質と現象との関係、ものごとをより深く二重にみる見方となります。
 そういう唯物論的な見地から、第一部・有論、第二部・本質論が出てくるのです。
 そうなると第三部の概念論とは何なのかということになります。結論的にいえば、概念論というのは、客観世界をこえた真理の認識とその実現だと私は理解しています。ヘーゲルは、第一部・有論と第二部・本質論を客観的論理学、第三部・概念論を主観的論理学と呼んでいます。つまり論理学の第一部と第二部は客観世界における真理の認識、それをカテゴリー化してとらえるという分野ですけれども、概念論を主観的論理学と銘打っているのは、人間の意識のもつ能動性あるいは創造性をふまえた真理、という意味でヘーゲルは概念論を主観的論理学と呼んだのだと思います。
 ですから、第一部と第二部を貫いているのは、極めて唯物論的な客観世界における真理となるカテゴリーとそれらの相互関連をみていくわけで、そのなかに観念論的要素はほとんどありません。ヘーゲルは一つのカテゴリーの限界を示して、必然的にそれが次のカテゴリーに発展するという、必然的なカテゴリーの移行を重視していますが、そのカテゴリーの移行の過程では観念論的な思考がちょこちょこ出てきます。しかし、それを除けばきわめて唯物論的なものです。概念論もまたそうだと私は思います。
 有論とは、物事を表面的にみ、感覚的にとらえる認識の話だといいましたが、ヘーゲルがいう有というのはいろんなレベルで使われるのです。広い意味の有、狭い意味の有といろいろあるのです。目次をみていただきますと、第一部・有論となっていて「A質」「B量」「C限度」がでてきます。有論の有は広義の有であり、質と量をもったものという意味です。ものごとを表面的にみた場合には、すべてのものは何らかの質と一定の量をもっています。それが感覚的認識の到達の限界なんです。ものごとはすべて質と量の統一としての限度としてあるとの認識が有論の有です。
 さらに、この「A質」のところをみると「a有」と「b定有」と「c向自有」とあります「a有」の有は山か海か人間かはともかくとして、何かがあるというレベルの認識です。ヘーゲルの言葉を使えば「直接的、無、規定の有」です。これに対し「定有」とは、何かがあるのではなく、ある質をもったものがあるということです。
 この有は単に抽象的に「あるということ」だけを問題にしているのに対し、定有は限定された具体的なものとして存在する有です「向自有」とは完成された定有です。すべてのものは限定されたある質をもち有限的存在ですが、同時にその質は運動・変化・発展しています。或るものは、有限なものでありながら、自己の姿をそのあるべき姿に向かって無限に高めて行くことができます。その意味で向自有とは有限と無限の統一した定有なのです。向自有の世界とは、同じ一つの質でありながら、その質が本来あるべき質として無限に発展していくような定有をみています。これをヘーゲルは「完成された質」といっています。
 さらに「a有」のところをみると、ヘーゲルはそれを有・無・成つまり有と無との統一としての成を議論しているので、この有というのは「a有」の有と同じ意味です。その有るということと無いということ、それから成、この三者の関係を議論して、そこで何をみているかというと、成という運動をみています。だから、ヘーゲルが有論で有の言葉をいろいろの意味で使っているんで、そのへんを混同しないようにとらえていく必要があるだろうと思います。

 

第一部 有論

有は即自的概念

 八四節 有(Sein)は即自的(an sich)にすぎぬ概念(Begriff)である。その諸規定(Bestimmungen) は有的であって、それらが区別されている場合には互に他のもの(Andere)であり、それらの本性のより進んだあらわれ(弁証的形式)は他のものへの移行(Übergehen in Anderes)である。

 ヘーゲルは感覚的な認識でとらえた最も単純なカテゴリーである有から出発し、次第に高度のカテゴリーに移行して、最後にたどり着くものが、第三部・概念論の絶対的理念であるというように構成していますが、その全体を「概念」の自己展開、つまり、真理が次第に顕在化していく過程としてとらえています。有論は、概念の潜在的な姿であり、本質論は、概念の対立するモメントが展開した姿であり、概念論は、対立物の統一としての概念の本来の姿が顕在化したものです。だから真理を認識していけば、いずれ概念まで到達するということを、「有は即自的に過ぎぬ概念である」といっているのです。日本語らしからぬ日本語ですが、ヘーゲルがよく使う言葉ですから「即自」「対自」「即自かつ対自」、略して「即対自」の三つの語について説明しておきます。「即自」とは一般的には「潜在的なもの」「未展開のもの」として考えてよいと思います。「対自」とは「即自」が展開して、区別・対立のモメントをもつに至ったものです。「即対自」は、「対自」における区別・対立が再び統一したものです。要するに弁証法の三つの段階に即して考えればよいのです。最初の「悟性的側面」が即自、それが展開する「否定的理性」が対自、「肯定的理性」が即対自にあたります。
 「有は即自的に過ぎぬ概念である」とあります。有はいまだはっきりした真理の姿をとっていませんが、これがいずれ、展開していけば真理としての概念になるという意味です「その諸規定は有的であって、それらが区別されている場合は互いに他のもの」とあります。つまり最初は「何かがある」というところからはじまって次に「或るものがある」ということになる。これを定有といいます。有が「規定される」とは、限界づける、特徴づけるという意味です。例えば、人間を規定すれば、直立二足歩行の動物である、道具を使う動物である、人間は言語を使う動物である、などとなります。有は最初は単に存在することだけを問題にしているのですが、これがだんだんに規定されていくと定有となり、それは「或るもの」となり、或るものは他のものとの関係で議論されるものとなってきます。あるいは運動の面からみると、或るものから他のものへの移行ということになってきます。そこで「それらの本性のより進んだあらわれ(弁証的形式)は他のものへの移行である」となるのです。
 有はどんどん展開しながら最後には概念に到達します。さしあたって、有論の段階で問題になってくるのは、或るものから他のものへの移行ということ、つまり「移行の弁証法」あるいは「或るものと他のものとの弁証法」が、中心的な課題となることをここで予告しているのです。その移行するとは一体どういうことなのかというと限界を超えることです。限界とは一体何なのかを論ずる「限界の弁証法」もヘーゲルならではのものです。ちなみに本質における中心的な弁証法は「反省」の弁証法です。これは要するに対立物の相互の関係の弁証法です。概念論では「発展」の弁証法となります。

論理学のカテゴリーは世界の真理

 八五節 有そのもの、および以下に述べられる有の諸規定、のみならず一般に論理的諸規定全般は、絶対者(das Absolute)の諸定義、神の形而上学的諸定義とみることができる。しかし厳密に言えば、どの領域においても、最初の単純な規定と、差別から単純な自己関係(Beziehung auf sich)へ復帰したものとしての第三の規定とのみがそうである。というのは、神を形而上学的に定義するとは、神の本性を思想そのものにおいて表現することを意味するのに、論理学は、思想という形式のうちにあるかぎりあらゆる思想を包括するからである、これに反して第二の規定は、差別のうちにある領域であるから、有限なものの定義である。

 「論理学的諸規定全般は、絶対者の諸規定」とありますが、この「絶対者」は、絶対的真理と考えればよいでしょう。論理学のこれから述べる様々なカテゴリーは、世界全体における真理を次第に深くとらえるカテゴリーなのです。ヘーゲルのカテゴリーの展開はすべて、即自、対自、即対自、別の言葉でいえば、統一、対立、再統一という形で展開します。ヘーゲルは対立物の統一に真理があると考えていますので、厳密にいうと、第一と第三の規定のみが真理というべきであって、第二の対立(差別)の規定は、まだ統一が実現されていないから、「有限なもの」のカテゴリーにすぎないというのです。

有論の概観

 八五節補遺 論理的理念のどの領域も、さまざまの規定から成る一つの体系的な全体(Totalität)であり、絶対的なものの一表現である。有もまたそうであって、それはそのうちに(Qualität) 、(Quantität)および限度(Mass)という三つの段階を含んでいる。とはまず有と同一の規定性(Bestimmtheit)であり、 或るものがその質を失えば、或るものは現にそれがあるところのものでなくなる。量はこれに反して有にとって外的な、無関係な規定性である。例えば、家は大きくても小さくてもやはり家であり、赤は淡くても濃くてもやはり赤である。有の第三の段階である限度は、最初の二つの段階の統一、質的な量である。すべての物はそれに固有の限度を持っている。詳しく言えば、すべての物は量的に規定されており、それがどれだけの大きさを持つかは、それにとって無関係であるが、と同時にしかしこの無関係にも限界があって、それ以上の増減によってこの限界が踏み越えられると、物はそれがあったところのものでなくなる。限度から理念の第二の主要領域である本質(Wesen)への進展が生じる。

 ここでは、有論の全体を概観しています。最初の「論理的理念のどの領域も、さまざまな規定から成る一つの体系的な全体であり」といっているのは、どの領域でも即自、対自、即対自という関係で一つの全体をなしているということです。ヘーゲルのいう三分法です。真理を認識しようと思ったら、三分法において、即自、対自、即対自においてとらえなくてはならないから、これから論理学のいろんなカテゴリーを述べることは、すべてその三分法で述べることになるということです。
 「有もまたそうであって、それはそのうちに質、量及び限度という三つの段階を含んでいる」。この有というのは、規定された有、定有のことをいっています。定有とはつまり「或るもの」です。規定された有、或るものというのは、それが質と量と限度の三つに分けられる。或るものは質と量の統一としての限度としてあるということです。逆にいえば限度を分析してみると、質と量とに分かれるということです。
 「或るもの」は一定の質をもった存在です「或るもの」は必ず質をもっています。リンゴはリンゴという質をもっている、ミカンはミカンという質をもっている。質とは何かといえば「或るものがその質を失えば、或るものは現にそれがあるところのものでなくなる」ようなものです。つまり、或るものを或るものとして規定するものが、そのものの質といわれるものです。この質から始めるところがヘーゲルのねらいなのです。カントは量から始めて次に質をもってきますが、ヘーゲルはそれは間違いだといっています。なぜかというと、質は「現にそれがあるところのもの」として規定できる。ところが量は質でないものとしてしか規定できない。つまり量は質を前提としてはじめて議論することができるカテゴリーであるという点で、ヘーゲルは量を質の次にもってきています。これはなかなか卓見だと思います。
 質を捨象したものが量ですから「量はこれに反して有にとって外的な、無関係な規定である」となります。この「有にとって」とは、定有である或るものにとって、あるいは質をもった或るものにとってと、言いかえればよいでしょう。つまり量というものは、或る質をもつもののなかにあって、それが増えても減っても質に影響しないようなものなのです「例えば、家は大きくても小さくても家であり、赤は淡くても濃くてもやはり赤である」。質を捨象したものが量ですから、量の増減は質に影響しないということになります。量と質とは相反するもの、相いれないもの、つまり対立物なんです。量でないものが質です。だから量が動いても質には関係ないのです。
 では、対立物は対立物のままなのかとヘーゲルは問いかけます。量と質とは相対立するだけなのかといえば、そうではありません。すべてのものは量と質との統一として存在するので、量は一定の限界内で動く限り質を変えないけれども、その限界を超えたときには量の変化が質の変化につながるのです。これが有名な度量の結節点です。エンゲルスが量から質への転化を有論における中心的な法則だと述べたのは、この点をいっているのです。
 家は小さくても大きくても家ですが、限界を超えて小さくなると犬小屋になってしまいます。逆にいくら大きくてもよいかといえば、これまた家にならない。東京ドームは家になるかといえば、ならない。やはり人間が住む快適な空間としての家は大きさに限度がある。まず質を論じ、次いで量を論じ、そして質と量の統一としての限度を論じるのです。だから「すべての物は、それに固有の限度を持っている」ということになるのです。
 そういうことを議論して、それで感覚的な認識はそこまででおしまい、これ以上はより深い真理である本質の議論ということで、第二部の本質論への移行を予告しています。

 ここに述べた有の三つの形態は、まさにそれが最初の形態であるという理由から、同時に最も貧しい、すなわち最も抽象的な形態である。直接的な、感覚的な意識は、それが同時に思惟的な態度をとるかぎり、主として質および量という抽象的な規定にかぎられている。感覚的な意識は、普通最も具体的な、したがってまた最も豊かな意識と考えられているが、それは素材から言ってのみそうであるにすぎず、思想内容から言えば、実際最も貧しく抽象的な意識である。

 有の三つの形態というのは、質と量と限度です。これは最も貧しい真理であって、直接的・感覚的な意識を哲学的にとらえたものといっています。直接的・感覚的意識というのは、量と質の関係でしか物事をとらえないような認識と言いかえてもよいと思います。ヘーゲルはきれいな景色をみても少しも感動しなかったという話がのこっています。景色というものは自然の多様さをみるので、多様さは感覚的な認識なんです。
 だから素材の面からいえばたしかに豊かということはいえるけれども、哲学的にみれば最も貧困な意識だというのです。多様さのなかに法則を見出す、多様さのなかに本質を見出す、そこに人間の意識の働きがあるというのです。これは現在の非科学主義・非合理主義に対する批判にもなっています。感覚のみ認めて、それ以上の真理を探求することを拒否するニセ哲学に対する厳しい批判となっています。
 今度は物事を感覚的につかんだ場合に、或るものが或るものとして存在するのをとらえるのが、いわゆる質の問題ということになります。これが八六節以降の問題です。

 

A 質(Qualität)

a 有(Sein)

純粋有・あるということ

 八六節 純粋な有〔あるということ〕がはじめをなす。なぜなら、それは純粋な思想であるとともに、無規定で単純な直接態であるからであり、第一のはじめというものは媒介されたものでも、それ以上規定されたものでもありえないからである。

 「純粋な有」というのは、単にある、何ものかがあるという抽象的な「ある」ということだけを問題にしてこれを哲学の出発点にしよう、というのです。
 「これは純粋な思想」だといっています。ギリシャ哲学の時代に万物の根元が水であるとか空気であるとか、現実に存在するあれこれの個体、個別の存在をもって、万物の根源と考えたのです。これに対し「ある」というのは、個別から切り離された抽象ですから「純粋な思想」といっているのです「無規定」とは規定に対立する用語です「或るもの」というのは規定された有なんですが、純粋な有はまだそこまでいっていないのです。或るものが存在するということを議論するのではなくて、抽象的なあるということだけを扱っているのです。

 抽象的で空虚なから学問をはじめることにたいしてなされるかもしれない、あらゆる疑惑と非難は、はじめというものの本性が本来含んでいるものを単に意識することによって片づいてしまう。有は自我=自我、絶対の無差別あるいは同一、等々と規定されることができる。絶対に確実なもの、すなわちそれ自身の確実なものからはじめようとする場合、あるいは絶対に真なるものの定義や直観からはじめようとする場合には、右に述べたような形式やその他それに類する形式が最初のものでなければならないと考えることができる。しかしこれらの形態は、いずれもそのうちにすでに媒介を含んでいるから、それらは本当に最初のものではない。けだし、媒介とは第一のものから出て第二のものへ移っていることであり、区別されたものからの出現だからである。

 「媒介」とは「直接」に対立する言葉であり、或るものが他のものによって規定されることを意味します。有は最初のカテゴリーですから直接的なものであり、他のものに媒介されない無規定なものなのです。規定するためには、もう一つ別なものをもってこないと規定できません。例えば、人間を規定しようと思えば、直立して二本足で歩く動物だという、直立・二本足・動物という別の概念をもってこなければ、規定できない。だから規定するということは、他のものによって媒介されるということです。この見地からフィヒテやシェリングを批判しているのです。
 フィヒテの哲学は「自我=自我」から出発しています。デカルトは、有名な「われ思う、ゆえにわれあり」という命題をたてました。すべてのものが存在するかどうかは疑わしいけれども、いま考えている自分が存在することだけはまちがいない、だからここから出発しようといったのがデカルトです。そのデカルトの考え方を継いで、自我は自我であるというところから出発したのがフィヒテです。また「絶対の無差別」とか「絶対の同一」から出発したのがシェリングです。だからシェリングの哲学は同一の哲学といわれています。しかし、こういうところから哲学をはじめるのはおかしいとヘーゲルは批判しているのです。
 「自我は自我である」というところからはじめようとすると、そもそも自我とは何かということが問題になってきて、自我を規定せざるを得ないことになってくる。だから、その自我は結局、媒介されたものとしてしか存在しえない。何ものにも媒介されない、一番最初の、直接的な存在とは一体何なのかといえば、それは存在するということ自体から出発するしかないのであり、だから「有」からはじめるというのです。「自我は自我である」とか「絶対の無差別」とかいう形態は、いずれもそのうちにすでに媒介を含んでいるから、それは本当に最初のものではないのです「けだし、媒介とは第一のものから出て第二のものへ移っていること」だからです。

有と本質の同一と区別

 八六節補遺一 思惟しはじめるとき、われわれは全く無規定の思想しか持っていない。というのは、規定にはすでに一つのものと他のものとが必要であるが、はじめにおいてはわれわれはまだ他のものを持っていないからである。はじめにおいてわれわれが持っている無規定的なものは、直接的なものであって、それは媒介をへた無規定、あらゆる規定の揚棄ではなく、直接的な無規定、あらゆる規定に先立つ無規定、最も最初のものとしての無規定である。これをわれわれは有と呼ぶ。

 「媒介をへた無規定」とは、本質のことです。純粋な有も、本質も無規定という点では共通していますが、純粋な有は、媒介をへない無規定であるのに対し、本質は媒介をへた無規定として区別されるというのです。最初に思惟するものは、直接的なものから出発するしかないのであって、媒介されたものから出発することは、それ自体まちがっています。
 続いて「われわれはそれを感覚することも、直感することも、表象することもできない」とありますが、要するに単に存在するだけのものはこの世のなかに存在しません。例えば、リンゴとかミカンとかの「或るもの」としてのみ存在しているのであって、単にあるだけのものはないのですから、その意味では有を考えることは感覚ではなくて、純粋な思惟の産物なのです。

哲学の歴史は、真理の弁証法的発展の歴史

 八六節補遺二 論理的理念の諸段階は、継起的にあらわれてくる諸哲学体系という形で哲学の歴史のうちに見出され、そしてこれらの体系はそれぞれ絶対者にかんする一つの特殊な定義をその根柢に持っている。
 ところで、論理的理念の展開が抽象的なものから具体的なものへの進展をなしているように、哲学の歴史においても、最も初期の体系が最も抽象的であり、したがってまた最も貧しい。そして一般に、より先の体系とより後の体系との関係は、論理的理念のより先の段階とより後の段階との関係と同じであって、より後のものがより先のものを揚棄されたものとして自己のうちに含むという関係をなしている。

 これが、論理的なものと歴史的なものといわれるカテゴリーです。つまり論理の発展というものは、歴史的な認識の発展に対応しているということなのです。哲学の歴史上最初のものが、最も貧しい論理であり、論理が次第に発展していく過程は、歴史の進行の過程に対応するというのです。ある程度はそういえるかも知れませんが、人間の認識は一直線に進むわけではありませんから、論理的なものと歴史的なものとの対応が必然的な関係にあるとは思えません。
 面白いのは右の文に続く、哲学の歴史を一体どうみたらよいのかということです。つまり哲学の歴史というのは先人の哲学者を否定していく歴史です。そうなると、批判された哲学の意味はなくなってしまうのか、これまでの哲学の歴史とは「阿呆の陳列場」なのかといえばそうではありません。これが大事なところです。弁証法的な発展とは、常に先の哲学者のもっている認識の限界を打ち破って、より高い認識に到達していくことです。そうした弁証法的否定をつうじて人間の認識は真理に向かって発展していくのですから、認識論上での新しい仕事をしようと思ったら、先人のものを学ばなければなりません。先人のものを学び尽くして、さらにその批判の上に立って新しいものが生まれてくるのです。
 われわれが批判しようとするときは、必ずそういう態度を身につけなければならないのです。

 哲学の歴史を見ると、或る体系が他の体系によって、もっと厳密に言えば、より先の体系がより後の体系によって反駁されており、そしてこのことは非常にしばしば誤解されているが、こうした反駁の本当の意味は、右に述べたような関係にあるのである。或る哲学が反駁されたと言うと、人々は普通それを抽象的に否定的な意味にのみ理解し、反駁された哲学はもはや全く成立せず、それは片づけられてしまったと考える。
 もしそうであったら、哲学史の研究というものは全く憐むべき仕事と言わなければならないであろう。というのは、哲学史を研究すると、歴史上あらわれた哲学体系で反駁されなかったものは一つもないことがわかるからである。しかし、あらゆる哲学が反駁されたことを承認しなければならないと同じ程度に、一つの哲学も反駁されなかったし、また反駁されえないと主張しなければならない。このことは二つの意味においてそうであって、一つには、哲学の名に値するあらゆる哲学は、理念一般をその内容として持っているという意味でそうであり、もう一つには、どの哲学体系も理念の一つの特殊な契機あるいは段階の表現であるという意味でそうである。だから或る哲学を反駁するとは、その哲学の制限を踏み越えて、その哲学の特殊の原理を観念的な(ideell)契機へひきさげることを意味するにすぎない。したがって哲学の歴史は、その本質的な内容からみれば、過ぎ去ったものをではなく、永遠で絶対に現存的なものを取扱うのであり、その成果は人間の精神が犯したさまざまの過ちの陳列場ではなく、神々の姿のまつられてあるパンテオンに比すべきものである。そしてこれらの神々の姿は、弁証法的発展をなして次々とあらわれる理念の諸段階である。

 哲学の歴史というのは「過ちの陳列場ではなく、神々のまつられてあるパンテオン」なのです。一つひとつの哲学がそれぞれの意味をもっており、その成果のうえに今日の哲学があるのです。だからわれわれは今ヘーゲルを乗り超えたところにいるのですが、だからといってヘーゲルの意味がなくなったのでは決してないのです。ある人の哲学の意味を理解しようと思ったら、それまでの哲学のどういう限界を乗り越えてその人の哲学が存在するに至ったのかという点をみないと、本当の意味は分からない。ただそれを現にあるものとして受けとめるだけでは、その真の意味は分からないのです。『ヘーゲル論理学入門』一九二ページに「発生史をたどって定在(=定有)の必然性をしめすこと」とあります。或るものが何であるかを知ろうと思ったら、或るものがどのような経過をたどって今日にいたっているのか、ということを理解しないと本当に理解したことにならないのです。
 科学的社会主義の本当の意味をつかもうと思ったら、科学的社会主義の発生史をたどって、その科学的社会主義の理論の必然性を示す必要があります。そのためにはやはりヘーゲルを学ばなくてはなりません「その見解。というのは、われわれが事物を正しく認識するためには、あたえられたものをバラバラにみるのではなく、事物の発生史をその萌芽からたどらなければならないということです。そうすることによって、個々の事物が秩序だった体系的一体のうちに正しく位置づけられ、個々の事物がそれぞれのところを得て意味を持つことになるのです」( 『ヘーゲル論理学入門』一九三ページ)。
 これが発生史をたどって定有の必然性を示すということです。そのものが何者かを知ろうと思ったら、そのものがいかに発生してきて今日こういう姿としてあるのか、その必然性を明らかにしないとだめなのです。
 テキスト㊤二六六ページにもどります。

 人々はしばしば次のような批判をつけ加えている。すなわちエレア学派は有にのみ真理を認め、そのほかになおわれわれの意識の対象をなしているすべてのものの真理を否定することによって、あまりにいきすぎていると言うのである。ところで、単なる有に立ちどまっていてはならないと言うのは全く正しいが、しかし、われわれの意識のその他の内容を言わば有と並んでまた有の外に存在するもの、すなわちそうしたものもまたあるというにすぎぬものとみるのは、無思想と言わなければならない。本当の関係はこれに反して次のようでなければならない。すなわち、有は不変で究極のものではなく、弁証法的にその対立物に転化するのであり、そしてこの対立物は、同様に直接的にとれば、である。したがって要点はあくまでもこうである。有は最初の純粋な思想であり、他のどんなものからはじめられようと(例えば、自我=自我、絶対的無差別、あるいは神そのものからはじめられようと)有以外のこれらのものは、最初は単に表象されたものであって、思惟されたものではなく、その思想内容からみれば単に有にすぎないのである。

 パルニメデスは「有のみが存在し、無は存在しない」(㊤二六五ページ)と言いました。そのパルメデスへの批判として、有だけを真理として認めているが、真理は有の他にもあるから、ゆきすぎだとの批判があるけれども、有の他にも有と並ぶ真理があるというのは、無思想であるとヘーゲルは批判しています。出発点は、あくまで無規定で直接的な有、つまり何ものにも媒介されない有しかないのであり、ただ有はいつまでも有にとどまっているのではなく、自己展開していくのだというのです。
 有以外の出発点とされているものは、よく内容をみてみると結局、有のことなんだというのです。

純粋無、ないということ

 八七節 ところでこの純粋な有は純粋な抽象、したがって絶対に否定的なものであり、これは同様に直接的にとれば(Nichts)である。

 純粋な有は無である、とヘーゲルは訳の分からないことをいっています。要するに有は直接的・無規定のものだから、無規定のものは無いと同じことだという論理ですが、これはヘーゲルの屁理屈です。有と無は違うのです。違うからこそ有と無の統一という対立物の統一が運動のもとになっているのです。有と無が同じものであれば、そこから運動は生まれてきません。ヘーゲルは有から無が自動的に論理的に導き出されるといっていますが、これはヘーゲルの観念論だとみなさなければなりません。
 しかし、すべてのものを有と無の統一としてみたことが、ヘーゲルの偉大なところです。有と無の統一をヘーゲルは「成」といって、すべてのものは運動・変化・発展するんだとみている。有だけだったらありっぱなしでなくならない。無だけでも、何も生じない。対立物の統一の最も普遍的な形態を、こういう形で述べたところがヘーゲルのすごいところです。
 ちょうどマルクスは『資本論』のなかで資本主義の分析を「商品」というカテゴリーから始めました。商品というカテゴリーに資本主義の矛盾が萌芽として存在し、商品の展開を通じて、資本主義の矛盾がだんだん顕在化してくるのですが、同様にヘーゲルの弁証法のなかにおいても、最も単純な最初の弁証法である、有と無の統一という対立物の統一から出発して、さまざまな対立物の統一の展開を示しているのです。われわれが学ぶべきことは、すべてのものは有と無の統一として存在しており、そこに運動・変化・発展の原動力があるということです。この点をおさえておいて下さい。

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