『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第四講 有論・質 Ⅱ

有と無の統一の発生史

 ヘーゲルが、自らの哲学の出発点を「純粋な有」からはじめた理由について、これまでお話しいたしましたが、やはりエレア学派の影響を強く受けているのです。ヘーゲルは古今東西の哲学を研究して、それを自分なりに再編して、新しくヘーゲル哲学を作り上げたのですが、ギリシア哲学から多くのことを学んでいます。前回の復習になりますが「真の哲学史のはじめはエレア哲学、もっと厳密に言えばパルメニデスに見出される。かれは、有のみがあり無は存在しないと言うことによって、絶対者を有として把握している。これが哲学の真のはじめであるといっています」( ㊤二六五ページ)。
 パルメニデスのことを紹介しておきましょう。パルメニデスは「絶対者を有として把握している」とヘーゲルは書いています「絶対者」という言葉は何回も出てきますが、われわれが理解するときには、絶対的な真理と考えるか、世界の根本的な法則と考えれば、大きな間違いはないだろうと思います。エレア学派が「絶対者を有として把握している」とは、世界の根本法則、世界の根本的真理を「有」だと理解したのです。パルメニデスという人は「有のみが有り、非有は存在しない」といっています。非有は無と同じです。
 どうしてこういったのかといえば「何故なら非有は認識することも、これに到達することもそれについていい表すこともできない」とパルメニデスはいっています。この考え方は同時に運動の否定につながるのです。
「すべてのものは不変である。なぜなら変化においては、有なるものの非有が提示されるからである」。変化するとは、存在するものが無くなってしまうことです「有なるものの非有が提示される」とはそういう意味です運動するとはある意味で、有なるものが非有となるということですが、非有というものは存在しないのだから、すべてのものは変化しない、運動しないということで、エレア学派は運動を論理的に否定したのです。
 エレア学派のなかで活躍したゼノンという人がおります「ゼノンの逆説」といって哲学上の難題を提起しました。ゼノンはどういう形で運動を否定したかといいますと、いろいろありますが、一番有名なのに「弓矢は的に到達しない」があります。矢を的に向けて放つと、的までには空間の半分があり、放った矢はその空間の半分に到達することができる、さらに空間の半分の半分に到達することができる。こうして次々に残された空間の半分に到達することはできても、この間には無限の中間点が存在しているのだから、的に無限に近づくことはできても、結局、的に到達することはできない。彼の言葉でいうと「運動は何らの真理をも持たない。なぜなら運動するものは目標に到達する前に半分のところに達せねばならないからである」となります。つまり、パルメニデスが運動を否定したことを論理で説明して、どうだこれを論破してみよといったのです。
 エレア学派が有というものを世界の根本法則であるととらえたのは、それなりに正しい見方です。しかし「有のみがあり、非有は存在しない」というところには真理はないのです。エレア学派に対して、絶対者は無であるという見解が論理的になりたちえます。非有の方にこそ真理がある、と考えるのです。どうしてそういうことがいえるかというと、すべてのものは消滅する、すべてのものの落ち着く先は消滅して無になるからです。ヘーゲルは、仏教は無のみが存在するという見方だといっています。『平家物語』の「諸行無常」というのは「おごれる人も久しからず」とあるように、すべては滅びるところに歴史の真理をみています。「諸行無常」の精神は全ては無であるという考え方に立っているのでしょう。
 こういう見解は、いずれも正しくないとヘーゲルはいうのです。絶対者は有であるというのも、正しくないし、絶対者が無であるというのも正しくない。有にも無にもそれだけでは運動がないのだから、そこからは何も生まれてこない。だから、いずれも正しくなく、正しいのは有と無の統一としての成(運動)であるというのです。彼は、絶対者は成であり、これが真理だというのです。
 これはギリシャ哲学でいえば、ヘラクレイトスの見解に相当するわけで、ヘラクレイトスの有名な言葉に「パンタ・レイ(万物は流転する)」というのがあります。ヘーゲルは「ヘラクレイトスの命題で、私の論理学に取り入れなかったものは一つもない」といって高く評価しています。つまり、ヘーゲル弁証法の源流はヘラクレイトスにあります。そのヘラクレイトスが、有と非有の関係を論じており、それが「万物は流転する」に関係するのですが「有と非有は同一のものである。すべてのものは有るとともに無い」といっています。この考えをヘ、ーゲルはそっくりいただいているのです。
 ヘラクレイトスは「われわれは同じ川に二度と入ることはできない」という例をあげています。川自体は延々と一つの川として流れていますが、その川の水の流れに同じものは一つもない。だから、すべてものは有るとともに無いということを考えているのです。水が流れている限りは川の流れは有る、しかし、同じ流れは二度とないという意味では無いのです。
 何だかヘーゲルが突拍子もないことをいっているように思いがちなんですが、それはこれまでの二五〇〇年におよぶ哲学の歴史のなかでいろいろ議論されてきたことを踏まえながら、ヘーゲルが自分なりにつくり直してきている点を学び取ってほしいと思います。そういう意味で、今から学習する有と無の統一としての成というものも、運動というものが何なのかということを、長年にわたって人類が真理を探求してきた一つの到達点としてつかんでいただいたらいいのではないかと思います。

有と無の統一は、弁証法の普遍的形態

 テキストに入る前に、この点をさらに詳しく説明してみたいと思います。
 この世のなかに存在するもので、有と無の統一でないものは何も存在しないとヘーゲルはいっています。これは弁証法の中心的なカテゴリーである対立物の統一の、最も普遍的な形態です。対立物の統一の原点は何かといえば、それは有と無の統一であり、それが運動なのです。もう少し詳しくみてみると、運動するというのは生成・発展あるいは変化・消滅のことです。生成とは無から有が発生することです。つまり生成とは無であって無でないものです。生成は何も無いところから何かが生まれるのですが、何も無いというのは無です。だけど何もない無のままでとどまるのではなくて、同時に無でない、すなわち有であるというのが生成なのです。だから生成とは有と無の統一です。
 それから消滅は、この逆であって、有であって有でないのです。有でないとは無です。有るものがなくなってしまう。有だけであれば、いつまでも有であり続けることになるのですが、無のモメントをもっているからこそなくなってしまうのです。それで消滅も有と無の統一です「発展あるいは変化」は、AであってAでないととらえることができます。物事がどんどん変わっていく、AがいつまでもAであり続けない。この場合、Aが有、Aでないが無。したがって発展も有と無の統一ということになります。
 成は運動ですから、次に運動の諸形態を考えてみましょう『社会科学総合辞典』(新日本出版社)を引きますと、運動には、力学的運動、物理学的運動、化学的運動、生物学的運動、社会的運動の形態があると出ています。いろんな運動を有と無の統一という弁証法的な見地からとらえるとどうなるかということを、いくつかの例で話しておこうと思います。
 力学的運動の場合は、位置の移動という例がよく出されます。A地点からB地点に移動する。こういう位置の運動はどのようにとらえることができるかといいますと「ここにあって、ここにない」という有と無の統一に、なります。先ほどゼノンの逆説を紹介しまして、目的地に到達しようと思えば必ずその半分のところを通らなくてはいけないということから、ついには目標に達しえないといいました。運動することには矛盾があるから、矛盾があるものは存在しないということで、ゼノンは運動を否定しました。言いかえれば、運動を説明しようと思えば、それは矛盾をもつものとしてしか説明しえないのです。
 力学的な位置の運動で「ここにあって、ここにない」というのは、言いかえれば、運動というのは連続性と非連続性の統一としてしかとらえられないことを意味します。それをゼノンは、点性(非連続性)と無限性(連続性)の矛盾としてとらえたのです。しかし実際には運動するということは、ある瞬間にはここにあると同時にここにないのです。連続して運動しているからここに「ない」と同時に、非連続として現時点ではこの場所に「ある」ということです。この場所にないというのは連続性、この場所にあるというのは非連続性です。ちなみに、エンゲルスは「ここにあって、ここにない」という言い方を『反デューリング論』のなかでとりあげて説明しています。
 次に物理学的運動については、マクロの世界の問題、量子力学の問題などでこの運動のもつ矛盾が明らかになっています。光は粒子なのか波動なのか、いろいろ議論されてきました。粒子は、粒ですから非連続性です。波動は、波だから連続性です。最近では光は粒子であるとともに波動である。つまり非連続性と連続性の統一、有と無の統一だと理解されてきています。このことが量子力学全体について妥当すると考えられてきています。
 化学的運動は、例えば、水は酸素と水素とが結合して生じます。酸素には、化合する前の酸素と水になったときの酸素とがありますが、水における酸素はもはや当初の酸素ではありません。化合するという変化は、AであってAでないということ、つまり有と無の統一なのです。
 生物学的運動は、個体の発生をみればよいでしょう。植物の場合は種から出発するのですが、これも『反デューリング論』のなかで大麦の例が否定の否定として出ています。種は種であるけれども、やがて芽が出てきて根がはえ、茎が出て葉が出て、種でなくなってしまう。その意味で有と無の統一です。
 社会的運動は、いろいろあると思いますが、例えば、社会的運動のなかで一番基本をなすのは生産労働です。生産労働のカギになるのは剰余価値の生産です(剰余価値の生産について『資本論』のなかに出てくる「ここがロドス島だ、さあ跳んでみろ!」は、ヘーゲル『法の哲学』の序文で使われている言葉です)剰余価値の源泉を考えるとき、価値どおりに販売されるけれども価値以上のものを生み出す商品をみつけ出さねばならないのですが、そういう矛盾を解決する商品が労働力であることを、マルクスは発見したのです。労働力の売買は、等価交換であって、等価交換でないという有と無の統一なのです。だから剰余価値の生産ができるのです。
 社会的な運動を考える場合、いま一つ考えられる政党のことを論議してみましょう。唯一の野党である日本共産党の場合には、どういう対立物の統一としてあるかといいますと、私なりに考えてみたのですが、労働者階級の政党であって労働者階級の政党ではない。労働者階級の政党であって同時に国民の党なのです。
 どんな運動でも、それを運動としてとらえようとするときには、対立物の統一としてとらえることが必要です。もっと普遍的にいえば、有と無の統一としてとらえることです。それは肯定と否定の統一といってもよいのです。われわれがものごとを運動・変化・発展においてとらえようとすると、有と無の統一としてとらえざるをえない。そうしないと運動がみえてこないのであって、結局、エレア学派の学説になってしまうのです。エレア学派の学説は有のみがあって非有は存在しないとするのですが、非有が存在しないならば運動は否定されざるをえない。そういう点で、ヘーゲルが有と無の統一としての成を議論しているのは、哲学の二五〇〇年の歴史の総括のうえに立って述べているんだということをつかんでいただきたいと思います。

 八七節 ところでこの純粋な有は純粋な抽象、したがって絶対的に否定的なものであり、これは同様に直接的にとれば(Nichts)である。

 ヘーゲルの論理の展開を追ってみると、直接的な無規定のものであり、これを純粋有と呼んでいます。単にあるだけで、何がどのようにあるかは問題にしていないのですから、純粋な有です。そのような無規定な有は、中味が何もない空虚な抽象物だから、空虚な抽象物という点では無と一緒ではないか、したがって純粋な有は無である、という論理の展開をしております。論理の展開としては、それはそれとして成り立つかもしれないけれども、これはヘーゲルの観念論です。やはり有は無ではないのです。有と無は区別されて、はじめてその統一が問題になります。論理の展開として分からないではないが、やはり無理なこじつけであるとみた方が正しいと思います。しかしヘーゲルは、有と無が等しいというのはおかしいではないかという批判の再批判をしています。

 ⑵ 対立がこのような直接態のうちにあって、およびとして言いあらわされている場合には、このような対立が空無なものだということは余りにも奇異に思われるので、人々は有を固定して、それが無へ移っていくのを防ごうと試みるであろう。そしてそのために人々は、反省によって有を無からは区別するような確固とした規定を有のためにさがし出すことを思いつくにちがいない。例えば人々は有を、あらゆる変化のうちで恒存するもの、どんなにでも規定されうる質料、等々と考えたり、あるいはまた無反省に、手当たり次第の個別的存在── それが感覚的なものであろうと精神的なものであろうと── と考えたりする。しかしこのようなより進んだ、一層具体的な規定を有に与えれば、有はもはや論理学のはじめにおいて、全く媒介なしに存在しているような純粋な有ではなくなってしまう。有がこうした全くの無規定性のうちにあり、全く無規定であるからこそ、それは無なのであり、言いあらわしえないものなのであり、それと無との区別は単なる意向にすぎないのである。――大切なことはただ、これら二つの始原が右に述べたような空虚な抽象物以外の何ものでもないということ、そして両者のいずれも同じように空虚であることを意識することである。

 有と無が同一だということは納得がいかないと考えて、有をいろいろ規定する人がいます。有はあらゆる変化のうちで恒存するものだとか、どんなにでも規定される質料だとか、手当たり次第の個別的存在、例えば、有は水である、有は空気であると考える人がいます。しかし、それはまちがっているというのです。なぜ、まちがっているかというと、すでにそれはもう純粋な有を離れて、規定された有を論じているからであり、同じレベルの議論になっていないというのです。
 「大切なことはただ、これら二つの始原が右に述べたような空虚な抽象物以外の何ものでもないということ、そして両者のいずれも同じように空虚であるということを意識することである」といっています。二つの始原とは有と無のことです。運動こそがわれわれの考えなくてはならない最初の具体的なものであって、有と無は運動を構成する二つの要素にすぎないから空虚な抽象物なんだ、というようにヘーゲルの論理は展開するのです。

形式論理学と弁証法的論理学

 形式論理学と弁証法的論理学の関係をみておきましょう。形式論理学は、きわめて常識的な見解です。しかしその限界を越えてまさに運動を論じなければならないところに形式論理学をあてはめようとすると、それはまちがいになってしまう。本来弁証法を適用すべきところに形式論理学を適用するところからくるまちがいが、形而上学なのです。よく形式論理学そのものがまちがっているのではないかといわれますが、そうではありません。相対的に固定したものの側面を論理で追うときに必要なのは、やはり形式論理学です。それはそれで正しいのです。「AはAである」という命題は多くの場合、正しいのです。しかし問題は、その限界を越えて運動の側面をとらえようとするときに、それはもう形式論理学ではとらえられない。
 『空想から科学へ』に胎児の例が出ています。つまり胎児はいつから人になるのかの問題です。
 刑法でいえば、人を殺せば殺人罪、胎児を殺せば堕胎罪です。いつからが堕胎罪で、いつからが殺人罪なのか線を引こうとして、刑法学者がいろんな見解を述べているけれども、どれもそう解釈すべき必然性がないのです。生まれる瞬間は、人であって人でない、あるいは胎児であって胎児でないとしかいえない。エンゲルスは「ここからさきは胎児の致死が殺人になるという合理的な境目をみつけようとして、さんざんな無駄骨折りをしたことのある法律家たちがよく知っていることである」といっています。
 私がよく例としてあげるのは、脳死の問題です。これは要するに生と死の問題、脳死は人の死か、いつから人は死んだといえるのかという問題です。一般には、生きている人間と死んでいる人間とは、はっきり区別されます。脳波が動き、心臓の鼓動があり、そして肺で呼吸している、この三つが生の条件です。これに対し脳死というのは脳だけが死んでしまう状態です。本当は脳が死んだら、心臓も呼吸も停止するのです。だけども、人工呼吸をすると、脳だけ死んで、肺の呼吸と心臓は動いているのを脳死というのです。
 結局、何が問題かというと、一番のポイントは死んだ人間から生きている臓器を取り出さなくてはならないという矛盾なんです。生きている人の臓器を取り出して移植すれば、その臓器はまだ生きているのだから、そういう移植は可能です。完全に死んだ人の臓器を取り出して移植しようとしても死んだ臓器は移植できません。ですから、臓器移植というのは、脳死を人の死とみなして、死んだとみなした人から、生きた臓器を取り出すという矛盾なのです。もともと矛盾した命題を解決しようとして、そのどこかに線を引いて、脳死は人の死か、死ではないのか、議論していること自体に無理があるのです。
 やはり生と死はゆっくりした時間の経過にしたがって、生と死の統一のなかで次第に生の比率が低くなり、死の比重が高まっていき、最後は死だけになってしまうという過程なんです。その過程は死んでいると同時に生きているとしかいいようがないのです。普段は、生きている者は生きている、死んでいる者は死んでいるといえるけれども、生から死に移行する過程では、生きていると同時に死んでいるという矛盾としてしか説明できないのです。
 ですからエンゲルスは、形式論理学は常識的な考えで多くの場合妥当するんだけれども、限界を超えると解決できない矛盾に迷い込んでしまうといっています。今の場合でいうと、死につつある人間に対して形式論理学を適用して、脳死の人は生きているのか、死んでいるのか、どちらかに決めようとしても、それは絶対に無理なのです。
 位置の運動にしても、ここにあると同時にここにないという言い方しかできないということです。運動をとらえようとすれば弁証法が必要になるのです。すべてのものは運動、変化、発展しているのですから、形式論理学とあわせて弁証法的な考え方を身につけないと、客観世界を正しく認識することはできない、ということだと思います。

 有あるいは有無の両者のうちに確かな意味を見出そうとする衝動こそ、有と無とを進展させて、それらに真の、すなわち具体的な意味を与える必然性にほかならない。

 ヘーゲルは、有と無が同一だという矛盾によって成が生まれるというような言い方をしているけれども、唯物論的な存在論からすれば話は逆なんであって、運動という成を分析してみたら、それは有と無の統一としてあるとして理解すべきものです。それを有は無に等しい、有と無は同一であり、対立物が同一であるという矛盾から成が生まれるんだという認識の前進過程として論理の展開をしているから、分かりにくいのです。

有と無の同一と区別

 八七節補遺 との区別は、区別があるはずだという区別にすぎない。言いかえれば、両者の区別は即自的にすぎず、まだ定立されていない。区別と言うからには、そこには二つのものがあって、各々は他方にはない一つの規定を持たなければならない。ところが有は全く無規定のものにすぎず、無も同じである。したがって両者の区別は、あるはずだと考えられているにすぎないもの、全く抽象的な区別であって、同時になんら区別でないものである。その他すべての区別の場合には常に、区別されたものを自己の下に包括する一つの共通のものがある。例えば二つの異った類と言う場合には、類が両者に共通のものである。同様に、自然的存在と精神的存在があると言う場合には、存在が両者に共通のものである。これに反して有と無の場合には、これら二つの規定はいずれ sも同じように土台を持たないのであるから、その区別には土台がなく、したがってそれはなんら区別ではない。

 有と無の区別は区別であって区別ではないといっています。なぜ区別ではないかというと、そこではまだ有も無も規定されたものではないからです。区別するとはそのものが規定されるということです。そのものをAと規定する、例えば、これはリンゴであると規定することによって、ナシではないとかミカンではないとかいう区別が生まれてくる。要するに規定することによってはじめてAはBやCと区別できます。
 ヘーゲルがよく引用する「規定とは否定である」というスピノザの有名な言葉があります。規定するとは他のものではないという形でそのものを特徴づけるのですから、その否定によってはじめてそのものの特徴が生じます。無規定の有や無の間には、規定がないのだから区別がない。有と無は区別であって区別ではないんだといっています。それからもう一つ、区別することは、共通の土台の上、つまり同一性の下にあってはじめて存在するといっています。これを区別と同一の統一といっています。つまり、これはリンゴであってナシやミカンではないということは、同じ果物という同一の基盤、同一の土台の上にあって、はじめてリンゴやナシやミカンの区別を論ずる意味があるのです。だから区別は同一と切り離しては考えられないというのです。
 同一と区別の統一は、本質論の冒頭に出てきますが「ペンと駱駝の間に区別を論ずる意味はない、つまりそこには同一の基盤はないから」(㊦二七ページ)といっています。これに対し「寺院と教会」、日本流にいえば、お寺と神社の間には区別を論ずる意味がある。なぜなら、宗教的建築物という共通の土台の上にあるから、お寺と神社とは区別して議論される。つまり区別においては同一を論じ、同一を論じるときには逆に区別を論じなければならないのです。

有と無の統一=成

 八八節 はこのように直接的なもの、自分自身に等しいものであるから、逆にまた有と同じものである。したがって有ならびに無の真理は両者の統一であり、この統一が( Werden)である。

 有は抽象的な空虚なものであり、したがってそれは無であるから、有は無である。有と無が同じだということは、有と無は相互に移行しあい相互に転化しあい、この有と無の統一されたものが成である、といっているのです。ここでは統一といっていますが、この場合は、内容からして有と無の統一よりも同一の方が正しいように思います。ヘーゲルは『大論理学』において統一といっても同一といっても、どちらも正しくないといっています。どういってもそもそも命題自身が矛盾をもっているのだから正しくいいようがないんだといっています。
 有と無とはそもそも区別されたものとして提示されていながら、統一されているという矛盾をもっているのです。矛盾なしにいおうとすればどうなるのかといえば「有は有である」とか「無は無である」としかいえません。それが何か積極的な意味をもつ命題になるかといえば全く意味がない、無意味な同語反復にすぎないのです。つまり、何らかの命題を意味あるものとして提示しようと思ったら、矛盾をもつものとして提示するしかないのです。そこでヘーゲルは、何らかの命題を立てようと思えば、例えば「有は無であると同時に有は無ではない」と相矛盾した命題を二つ立ててはじめて真理をとらえることができるといっていますが、これはこれでものごとを全面的にみるうえで必要な考え方であると思います。また後でテキストにでてきますのでお話しいたします。
 統一と同一のどちらの表現にも問題がある、という問題に戻ります。同一といっても、同時に有と無は区別されているわけですから、同一の表現には有と無の区別があらわされていないという点では、同一も正しくない、とヘーゲルはいうのです。では統一にすればどうか。統一は、区別がありながらそれが一つのものにまとまっているという点では、同一よりもましなものにみえるかもしれないけれども、統一というとそのもの自身の働きによって統一しているのではなくて、外からの力で一緒にくっつけられているようなイメージがあるから、統一というのも今一つ気に入らない。どちらかというと不可分性とか不可分離性といったほうがよいかもしれない、というような言い方をしています。要は「対立物の統一」といってみても、その命題ですべてをいいあらわすことはできない、それは土台無理なんだということをいいたいのだと思います。統一とか同一とかいう言葉を使っても、対立物の統一は完全に説明しきれない面があると理解しておけばよいのではないでしょうか。

 ⑴ 有と無とは同じものであるという命題は、表象や悟性には、真面目に言われたものとは受取れないほど逆説的な命題と思われるであろう。事実この命題は、思惟が自己に要求する最も困難な要求の一つである。
というのは、有と無とは全く直接的な対立だからである。言いかえれば、対立の一つの項のうちには、他の項との関係を含むような規定がまだ定立されていないからである。しかし有と無は、前節に示したように、こうした規定を、すなわちまさに両者のうちで同一であるような規定を含んでいる。このかぎりでは、両者の統一の演繹は全く分析的である。哲学的思惟の全進行は方法的、すなわち必然的であるから、それは常に、或る概念のうちにすでに含まれているものを単に定立することにほかならないのである。

 要するに有と無の同一が分析から生まれてくることをいってるんです「或る概念のうちにすでに含まれているものを単に定立すること」、これが分析の役割なんだといっています。つまり分析とは、概念のなかにある要」素を取り出すことなんだというのです。この場合は、成という概念から有と無が取り出されてきたという意味で分析的な産物なんだ、といっているのです。成を分析してみると有と無の統一になるということであり、これまで有が無に移行し、有と無の真理が成であるという言い方と逆の言い方になっていますが、存在論としてみるとこの方が正しいのです。

 ⑵ 無と有とは同じものであるという命題を嘲笑したり、あるいは、さまざまの背理を持出して、これがその命題の帰結であり適用であるというような誤った主張をしたりするには、大した機智はいらない。例えば人々は、右の命題にしたがえば、私の家、私の財産、呼吸する空気、この町、太陽、法律、神、精神などというものも、あるないも同じことになってしまうと言う。これらの実例の前半においては、当面の問題が特殊な目的、すなわち或るものが私にたいして持っている効用とすりかえられ、そして有用な物があってもなくても、私にはどうでもいいのかという質問がなされている。事実哲学とは、人間を無数の有限な目的や意図から解放して、人間をそれらにたいして無関心にし、そうした物があってもなくても同じことだと思わせるようにする教えではある。しかしなんらかの内容が問題になっている以上、それとともに、価値あるものとして前提されている他の存在、目的、等々との連関が定立されているのであって、特定の内容があってもなくても同じことかどうかということは、そうした前提に依存させられているのである。つまり、内容を持った区別が、有および無という空虚な区別とすりかえられるのである。

 有と無とが同じだというと、そんな馬鹿なことはないといわれるかもしれない。しかし、それは規定された有を頭においているからであり、ここで論じているのは無規定の有だから、区別すべきだ、というのです。つまり、私の家の有ると無いが同じだといっているわけではなくて、無規定の有と無が同一だといってるのです。規定された有というのは、次に出てくる「定有」です。規定された有となってはじめて「或るもの」、つまり質をもった或るものが出てくるのです。
 「哲学とは、人間の無数の有限な目的や意図から解放して、人間をそれらに対して無関心にし」とありますが、哲学は何に関心をもつのかといえば、真理にのみ関心をもつのです。だからお金があるとかないとか、知恵があるとかないとか、そんなことはどうでもよいことであり、いわば真理に接近する喜びを味わうのが哲学なのです。哲学する以上の喜びはないとヘーゲルはいいたいのだと思います。

 このような具体的な物は、単に有るものとか無いものとかであるにとどまらず、また全く別なものである。有および無は最初の規定にすぎないから、存在するもののうちで最も貧しい規定であって、このような貧しい抽象物は、右に述べたような具体的な対象の本性を示すには、全く不十分である。真実な内容というものは、このような抽象物そのもの、およびそれらの対立をとっくに越えているのである。

 ここまでの議論は、抽象的な有と無にかんする議論であって、具体的なものが有るか無いかという問題ではないということをいっています。そして、私の家が有るか無いか、どちらが真実かというのは具体的な定有において問題になるのであって、抽象的な有や無では、真実かどうかを議論することはできないというのです「真実な内容というものは、このような抽象物そのもの、およびそれらの対立物をとっくに越えているのである」というところがありますが「真理は常に具体的である」という命題に関連させて読むことが必要です。具体的でないものには真実がないということ、抽象的なものには真実がないということです。
 金権腐敗の金丸信の金の延べ棒が問題になっていた頃(一九九二年)に、金権腐敗の政治は一掃しなければならないという世論が沸き起こりました。それに対して政府が何をいったかといえば、政治改革をやらねばならないといったのです「政治を変えなくてはならない」とは、抽象的な言い方であって、問題は「どのように変えるのか」なのです。あのときに議論されるべきは、企業献金、団体献金を禁止するのか禁止しないのかという問題でした。だけど自民党はそういう具体的な問題として扱わず、政治改革という抽象物にすり替えてもちだしてきたのが、あの小選挙区制というまやかしだったのです。これが今の政治の常套(じょうとう)手段です。国民の政治に対する不満を取り上げて、改革、改革という。しかしその改革の内容というのは、具体的には国民に対して更なる大きな負担を押しつけようとするまやかしなのです。
 今度の国会で橋本首相は「六つの改革」といいました。結局、六つの改革の中味は何かといえば、減税をなくして消費税を五%にアップし、実質九兆円もの負担を新しく国民に押しつけるものだということなのです。だから「真理は常に具体的である」という命題は、やはり肝に銘じて覚えておかなければならないことであって、政治に対する批判の問題も、この命題を活用すべき分野がきわめて大きいといえます。今の自民党政治が、国民の目をごまかすために用いる政治スローガンは、その具体的な中味を批判的にみなければなりません。

 ⑶ 有と無との統一は概念(begreifen)できないと言う人がある。しかしその概念はこれまでの諸節に示されているし、それはそこで示された以上の何ものでもない。そしてそれを概念するとは、そこに示されたものを理解することにほかならないのである。しかし人々は、概念するという言葉のもとに、概念そのもの以上のものを理解し、一層多様で豊富な意識、すなわち表象を要求する。すなわち、こうした概念が、日常用いられている普通の思惟により親しい具体的な一例として呈示されることを要求する。概念できないということが、少しも感覚をまじえずに抽象的な思想を把握し、思弁的な命題を理解することに慣れていないことを意味するにすぎない場合には、われわれはそれにたいして、哲学の認識方法は、日常生活で人々が慣れている認識方法とも、また他の学問に用いられるそれともちがっているのだ、と言うよりほかはない。

 「哲学する」ということは何かというと、一つはものごとを抽象化して考えることにあります。つまり、具体的なものをより普遍的なものに還元していき、そして最も普遍的なものがいわゆる哲学上のカテゴリーだということはお話ししたと思います。哲学というのは抽象能力を必要とします。具体的な事象から離れて、そのなかの普遍的なものを思惟によって探求するということだからです。哲学の講義をしていると「具体的な例で示してください」とよくいわれるけれども(それはここでいう「表象」のことです)具体的な例と結びつけられなければ物事を考えられないというのは、まだ哲学の訓練が足りないのだ、とヘーゲルはいっています。それはそれとして正しい面があります。
 学問をするということは、客観世界の個別的存在を抽象化して、より抽象的なものとして把握し、普遍的な法則を見出すことです。法則は具体的なもののなかに潜んではいるんだけれども、具体的なものをみているだけでは法則をつかめない。有および無の統一は表象できない、イメージできないという人がいるかも知れないが、運動するものをイメージしようと思えば、すべて有と無の統一として誰にでも説明できる、ということではないでしょうか。

 その最も手近な例はである。誰でも成の表象を持っており、また成が単一の表象であることを認めるであろう。更に、その表象を分析してみれば、それがという規定のみならず、その正反対のという規定をも含んでいることを認めるであろう。そして更に、この二つの規定が成という単一の表象のうちにあって不可分であること、したがって成は有と無との統一であることを認めるであろう。――同様に手近な例ははじめ(Anfang)である。はじめにおいては事柄はまだ存在していない。しかし、はじめは単に事柄のにすぎないものではなく、そのうちにはもまた存在している。はじめもそれ自身また成であるが、ただ、はじめと言えば、すでに一層の進展が顧慮されている。――もしわれわれが、諸科学が採用しているようなもっと普通の方法に従ってもよいのなら、純粋に思惟されたはじめの表象、すなわちはじめそのものの表象をもって論理学をはじめ、そしてこの表象を分析することもできよう。すれば人々はもっと容易に、有および無が 一つのもののうちに不可分のものとしてあらわれていることを、この分析の結果として認めるであろう。

 「はじめ」というのは、無であって無ではないもの、無であって有であるものです。哲学というものは、はじめとは何か、というところから出発してもよいのだけれども、そこから出発するとなるとまた問題がある。はじめとは何かということになると、それは有と無の統一だということをいわざるをえない。そうすると次に有とは何か、無とは何か、ということになってくるので、やはり有から出発せざるをえないということになってきます。要するに成から出発してもいいのだけれども、成自体が有と無の統一としてあるのだから、やはり哲学をはじめるときは、有から出発することになるのではないか、ということがいいたいのでしょう。

 ⑷ しかしなお注意すべきことは、有と無とは同じものであるとか、あるいは有と無との統一というような表現は、主観と客観との統一、等々、その他これに類するあらゆる統一と同じく、不都合と思われても仕方のないところを持っている、ということである。なぜなら、このような表現には、統一だけが強調されて相違がそこにあるにはあるが(というのは、そこには例えば有と無とがあり、そしてその統一が定立されているのであるから)この相違は統一と同時に言いあらわされ認められていず、不当にも捨象され看過されているようにみえる、という片手おちで正しくないところがあるからである。事実あらゆる思弁的な規定は、このような命題の形式では正しく表現できないものである。というのは、思弁的規定を理解するためには、統一は、同時に現存し定立されている差別のうちで把握されなければならないからである。

 だから有と無の統一は成であるというのですが「統一」というのもこの表現でよいのかという問題を出しているのです。この命題では、有と無の統一だけが強調されていて、有と無の区別が「不当に捨象」されているようにみえるというのです「思弁的規定」とは、弁証法的規定というようにいってもよいと思いますし、あるいはヘーゲル哲学的といってもよいと思います。ヘーゲル哲学の規定を理解しようと思えば、統一(同一)は差別(区別)のうちに把握されなければならないのです。先ほど一つの命題は、それに相反する命題で補わなくては正しいものにならないといいましたが、有と無の同一という命題は、有と無は同一ではないという命題によって補われるべきなのです。つまり、統一と差別の統一として、統一をとらえるということでしょうか「命題の形式では正しく表現できない」というのは先ほどいったような意味です。一つの命題というのは、必ずそれに相反する命題によって補われないと十分ではないのです。

 は有および無の成果の真の表現であり、両者の統一である。しかしそれは有および無の単なる統一ではなく、自己のうちにおける動揺である。言いかえれば、単なる自己関係として運動を持たぬ統一ではなく、自己のうちにある有および無という差別によって、自己のうちで自分自身に対立しているような統一である。――定有(Dasein)はこれに反して自己のうちに動揺を持たぬ統一、あるいはそうした統一形式、、のうちにある成である。定有はそれゆえに一面的であり有限である。対立は消滅したように見え、それは統一のうちに即自的にのみ含まれていて、統一のうちに定立されていない。

 有と無の統一とか有と無の同一とかいった場合、その差別(区別)が解消されてじっとおとなしくしているようにみえるけれども、そうではない。有と無の統一というのは、有と無がお互いに交代しあい動揺しているのであって、有と無の統一は運動だということがいいたいのです。有と無が合体しておとなしく静止しているのではありません。これに対して、物事の相対的固定性をみるのが、定有の分野です。だから「定有はこれに反して自己のうちに動揺を持たぬ統一」だということになるのです「あるいはそうした統一形式のうちにある成である」といっています。
 その次に「定有はそれゆえに一面的であり有限である」という点が面白いところで、いかにもヘーゲルらしいのですが、つまりものごとは運動・変化・発展しているということです。定有は、運動・変化・発展をさておいて、固定している側面をみるのですが、本来固定しているものは何もありません。ですから、固定したものとしてとらえるのは一面的であり、いずれは崩壊せざるをえない有限な存在なんだというのです「定有はそれゆえ一面的であり有限である」とは、そのような意味だと思います。

《質問と回答》

 まず第一の質問です。有と無の統一としての成、成は運動であることについて話しまして、有と無の統一の例を運動のいろいろの形態に即して述べました。それに関連して、すべての物事のなかに対立物の統一があるのであろうか、という質問がありました。
 結論からいえば、そのとおりだと思います。というのは、すべての物がそれぞれ運動・変化・発展し、不変のものは何一つ存在しないからです。運動する以上すべての物はそのなかに対立物の統一をもっているのであり、その一番普遍的な形態が有と無の統一としてあるのです。だからヘーゲルは有と無の統一から出発して、客観世界の諸法則のなかにおける対立物の統一を具体的に有と無の統一の展開として述べてゆくのです。このような普遍的な対立物の統一としての有と無の統一について、もう少し正確にしておいた方がよいと思うので、その話をしておきます。
 有と無の統一という場合、ここにいう有はドイツ語ではザイン(Sein)という言葉を使っておりますが、英語ではBe動詞にあたります。Be動詞の意味は大きくいって「…がある」と「…である」の二つがありますがある。「である」という意味をもつのが有ですから、無もそれに対立した概念としてとらえられているので、具体的にいうと無とは「…でない」「…がない」ということです。こういう有と無との統一が成だということです。
 しかし、ヘーゲルは統一という言葉をあまり使いたくないんだといいます。どういうことかというと、有と無が移行しあうという関係を統一という言葉で述べているのであって「統一とは有は無であり無は有である」ということだといっています。統一という言葉だけにとらわれると、その内容が曖昧になってしまうので、もともとは「有は無である」ということを便宜上、統一と呼んでいるのです。それ以外に適当な言い方がないのでとりあえず統一と呼んでいるにすぎません。Be動詞の関係で表現しますと「Aがあると同時にAがない」「Aであると同時にAでない」となりますが、こういう内容をとらえて有と無の統一といっているのです。有と無の統一という言葉だけが一人歩きすると問題があるように思います。
 有と無の統一というのが全世界の運動の諸法則の根本的なものだ、とヘーゲルはいってそこからスタートしているのですけれども、今われわれが到達している科学的認識のうえに立って、果たしてそういえるのかという問題があるのです。結論からいえば、そうといってよいと思います。
 二〇世紀にはいり、物質の世界の解釈がだんだん進んでまいりまして、二〇世紀は、古典物理学から量子物理学への時代だといわれております。古典物理学というのは、すべての運動を連続性においてとらえてきました。例えば、ニュートンの運動方程式も、光も電磁気の波動であることを示したマクスウェルの方程式も、いずれも数学的には微分方程式です。微分方程式とは何かというと、物理現象を無限に小さい変化の積み重ねととらえるのです。つまり、あらゆる現象の変化は連続的に進むという考えに立って微分方程式は成り立っているのです。それに対して異論を唱えたのが量子物理学です。
 量子物理学の出発点になったマックス・プランクは、これまでの古典物理学が、電磁気を連続する波だと考えたのに対し、電磁気のエネルギーは不連続の粒である量子だということを発見しました。波は連続性ですが、粒は非連続性です。今では、ミクロの世界を「粒子であって粒子でない」「波動であって波動でない」「粒子である」と同時に「波動である」ととらえないと、自然を正確にとらえることができないという認識にまで到達しています。別な言葉でいうと、粒子であると同時に波動であるというのは、AであってAでないという有と無の統一です。物質の世界は、現代物理学の到達点に立ってみたときに、有と無の統一から成り立っているといってまちがいはないのです。あらためて有と無の統一ということが、解明されてきているのです。つまり、物質世界の諸法則の根本は有と無の統一であるということは、現在の量子物理学の到達点に立ってみても正しいといえるのではないでしょうか。
 粒子であると同時に波動であるというのは、結局、粒子は非連続性で波動は連続性ですから、非連続性と連続性の統一といってよいでしょう。有と無の統一というと、有ると無いの統一だと思いがちですが、そう単純に思ってはいけません。非連続性と連続性の統一というのも、有と無の統一に還元されるのです。非連続性と連続性の統一を言いかえれば、連続していると同時に連続していない、又は、非連続と同時に非連続でないということですから、結局は「…である」とともに「…でない」として有と無の統一に帰ってくるのです。
 この問題をなぜ提起するかといえば、これはゼノンの逆説にかかわるからです。ゼノンの逆説への質問も多く出ました。どうもいっていることがよく分からない。経験的には矢が的に届かないのは間違いと分かるが、論理的には一体どこが間違っているのか分からないというものです。ゼノンは、矢から的までの距離の間には無限の粒があると考えたのです。無限の粒だからいつまで粒を追いかけて行っても最後の一粒には到達しない。それで的に届かないと考えたのです。無限性というのは連続性の問題です。言いかえれば、連続性とは、無限分割可能性にとどまるものであって、実際には無限分割は不可能なのです。
 アリストテレスは、ゼノンに反駁して「空間と時間は、無限に分割されうる。しかし無限に分割されているのではない」(太字は引用者)といいました。この「無限に分割されているのではない」ということが重要なのです。これに対し、点というのは、非連続性の問題です。ゼノンは「無限分割が完了した点性」をみて「点は的に届かない」といったのです、これはいわば、点性という非連続性を論じながら、そのなかに無限性という連続性を持ち込むという、論理的まちがいをおかしているのです「無限分割した点性」というものは、いわば論理的矛盾であり、かかる矛盾をおかさざるをえないところに、運動のもつ矛盾があらわれているのです。結局、ゼノンのまちがいはどこにあるかというと、運動を非連続性と連続性の統一としてとらえなかったところにある。そのことに注目したのがヘーゲルであり、レーニンは『哲学ノート』のなかで非常に高く評価しています。
 レーニンは「運動は連続性(時間と空間との)と非連続性(時間と空間との)との統一である。運動は矛盾であり、矛盾したものの統一である」(全集㊳二二五ページ)といっています。また、ヘーゲルの「運動するとは、この場所にあって、同時にこの場所にはあらぬということである、これが空間及び時間の連続性であり、そしてこの連続性がはじめて運動を可能にするのである」という文章に、レーニンは「注意せよ正しい!」(同二二六ページ)と注記しています。運動が連続性と非連続性の統一としてあることは、物質の存在形態が粒子であると同時に波動であるということでも、今日的意味で明らかにされているのですが、そういう運動の本質に二五〇〇年前に哲学者たちが自然に対する疑問をいだくなかで、接近していることが重要なんだろうと思うのです。
 そういう点で、ヘーゲルが有と無の統一を運動の根底にすえたことの意義は、やはり今日あらためて明確になっていると思います。
 それからもう一つ、質問ということでもないのですが、ちょっと補足しておきます。ヘーゲルは論理の展開として、有から無へ行き、それから有と無の統一としての成にいくという論理の運びをしております。これに対して、弁証法的唯物論の存在論の立場からすると、成を分解してみるとそれは有と無の統一としてあるということであって、それをヘーゲルは有から無にいき無から成へいくという、逆立ちした、分かりにくい説明をしているとお話ししました。たしかに成を分解してみると有と無の統一だというのは正しいのですが、マルクスがいっているように研究の方法と叙述の方法とはおのずから異なるものです。だから研究の方法としてみると、成を分解すれば有と無の統一だということになるんだけれども、それを叙述の方法としてみたときに有から出発するのはまちがいかといえば、認識論としてはそれで正しいと思います。ただヘーゲルの誤りは有は直接的な無規定であって、無規定というのは何も無いことだから無なんだ、有=無なんだという言い方をしており、そこに論理の運びの無理があります。叙述の仕方として有からはじめるというのは認識論としての論理学からするとまちがっていないと思います。
 ちょうどマルクスが資本主義の諸法則を研究するために分析していって、最後に商品にたどりついた。しかし、叙述するときには『資本論』は逆に商品から出発しているのです。資本主義社会における最も普遍的なかつ根本的な現象として商品をとらえて、叙述するときにはその商品から展開したのです。それと同じような意味で、やはり哲学の叙述の仕方としてみると、有論からはじめるというのはまちがっていないのではないかと思います。だから、存在論としては成を分解してみると有と無の統一といいましたが、それとあわせて認識論としては、有―無―成の叙述はまちがっていないということもいっておかないと正しくないだろうということです。
 ヘーゲルは常に一つの命題は、その反対の命題で補わないと十分にはならないといっているのですが、そういう形で常に問題を反すうしてみることは大事なことであると思います。

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