『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より
前期第五講 有論・質 Ⅲ
有論の構成
有論の構成をみてみますと、
第一部有論
A 質
a 有
b 定有
c 向自有
となっています。a有では、有と無の統一としての成をみています。成はこれまでも話してきたように、対立物の統一としての運動を考察しているのです。では、b定有とは何かといえば、これは運動に対して、物質の相対的な固定性をみています。つまりすべての物は運動・変化・発展するといっても、目の前のある物が毎日変わるわけではないのであって、相対的に固定しているのです。その相対的に固定している面をみるのが定有なのです。
c向自有とは何かといえば、これは相対的固定性のなかの運動をみるのです。或るものが、自己同一性を保ちながら、無限にあるべき姿に向かって質的に発展していく面をみるということです。ヘーゲルの三分法は、必ず最後の三つ目が対立物の統一となります。ですから向自有は成と定有の統一だということです。
成は有と無の統一ですが、定有、向自有もまた有と無の統一です。しかし、そのあらわれ方がそれぞれ違います。ヘーゲルは有論の全体において有と無の統一のいろいろな形態をみているのです。成における有と無の統一というのは「自己のうちにおける動揺である」(㊤二七四ページ)といっており「絶えざる動揺」なのです。どういうことかといいますと、有は無に移行し無が有に移行することを絶えずくりかえしているということ、つまり運動するということです。物事が発生するということは、無から有に移行するということです。消滅するとは、有が無に移行することです。このように不断に有が無に、無が有に移行している動揺、これが成・運動なんです。では定有とは何かといえば「定有はこれに反し自己のうちに動揺をもたぬ統一」とあるように、相対的、固定性を意味します。では定有における有と無の統一はどんな形で出てくるのか、あるいはまた向自有における有と無の統一はどんな形で出てくるのか、これがこれからのお話となります。同じ有と無の統一だけれども、定有と向自有におけるあらわれ方は違うのだということだけとりあえずいっておきます。
八八節 ⑸ 有は無への移行であり、無は有への移行であるという命題、すなわち成の命題には、無からは何も生ぜず、或るものは或るものからのみ生ずるという命題、すなわち質料の永遠性の命題、汎神論の命題が対立している。古代人は簡単に、或るものは或るものから生じ、無から生じるものは無であるという命題は、事実成を不可能にしている、と考えた。というのは、この命題によれば、或るものがそこから生じてくるものと、生じてくる或るものとは全く同じものだからである。ここに見出されるものは抽象的な悟性的同一の命題にすぎない。 |
有から無への移行、無から有への移行は成であり、それは絶えざる動揺だといいました。それに関連して、「質料の永遠性の命題、汎神論の命題」は、成に対立しているといっています。汎神論というのは、唯物論に近い観念論なんです。汎神論によると、世界のすべての物を神の創造だと考えます。しかしすべてを神が創ったのだけれども、その神が今どこにいるのかというと、存在している客観的世界の物質の一つ一つのなかに存在しているのだと考えるのです。ということになると、ある意味では神はいてもいなくても同じようなものだということになる。すべては神の創造だけれども神はすべての物のなかに存在するという意味で唯物論に近い観念論といえます。
それでヘーゲルは、種の永遠性をとなえる汎神論は成の概念に反するというのです。なぜかというと、汎神論も神が造った種は永遠であるという、進化論を否定する立場だからです。ダーウィンの進化論が出て一三〇年経ちますが、ローマ法王もようやく進化論を認めました。もっとも神が世界を造ったことも、進化論も、ともに認めるということであって、進化論だけを認めるということではありません。そういう意味でこの汎神論は「質料の永遠性」につながるといっているのです。
有が無に移行する・無が有に移行するという考え方は、質料の永遠性の命題や汎神論の命題と対立するものであり、質料の永遠性の命題とか汎神論の命題も「抽象的な悟性的同一の命題にすぎない」といっています。抽象的な悟性的同一の命題ということはA=Aということです。それに対して成というものは、AはAであると同時にAでない、Aは非Aと同じだということ、有は有であって無である、無は無であって有であるというのです。したがって、成と汎神論とは、相対立する考えだといっているのです。
成は最初の真理
八八節補遺 成は最初の具体的な思想、したがって最初の概念であり、これに反して有と無とは空虚な抽象物である。もしわれわれが有の概念について語るとすれば、有の概念とはすなわち成であることにほかならない。というのは、有は有としては空虚な無であり、無としては空虚な有であるからである。したがってわれわれは有のうちに無を持ち、無のうちに有を持っている。そして無のうちにあって自己を維持している有が成である。われわれは成という統一のうちで区別を棄ててはならない。でないと、われわれは再び抽象的な有へ後戻りするからである。成とは、有の真の姿が定立されたものにすぎないのである。 |
「成は最初の概念」とありますが、この場合の「概念」は真理と同じ意味です。論理学における最初の真理が「成」、最後の真理が「絶対的理念」となります「有と無とは空虚な抽象物である」というのを正しいといってよいのかどうか疑問があります。成というのは運動ですから、物質が運動するのは客観的な事実です。だから運動が最初の真なる思想だというのは、それはそれでよいのだけれども、では運動をもたらす力である有と無が空虚な抽象物である、ということには少し疑問があるのです。先ほどの例でいうと、量子物理学ですべてのミクロの世界は波動と粒子の統一であるといった場合に、統一したものがやはり運動として出てくるんだけれども、波動や粒子も具体的に存在する形態です。
ヘーゲルの考え方からいえば、有は直接的な無規定性である、無も直接的な無規定性である。これに対して成は有と無が相互に移行しあうなかで生まれた具体的な運動なんだということがいいたいんだと思いま す。
次のことの方が大事なので、続いて読んでみましょう。
人々はしばしば、有(存在)に対立するのは思惟である、と主張している。この場合われわれがまず問題にしなければならないのは、人々が有という言葉のもとに何を理解しているかということである。反省が規定するような意味に有を理解すれば、われわれが有について言いうることは、それは端的に同一で肯定的なものであるということににすぎない。ところで思惟について考えてみると、思惟もまた少なくとも全く自己同一なものであることがわかる。したがって二つのもの、有と思惟とは同じ規定を持っているのである。しかしわれわれは有と思惟とのこうした同一を具体的にとって、石は存在するものであるから思惟する人間と同じであるというようなことを言ってはならない。具体的なものは抽象的規定そのものである以外に、なお全く別のものである。有は全く抽象的なものにすぎないのであるから、有と言われる場合、具体的なものは問題とならない。 |
『フォイエルバッハ論』のなかに「すべての哲学の、とくに近代の哲学の、大きな根本問題は、思考と存在との関係にかんする問題である「この問題に答える立場にしたがって、哲学者たちは二つの大きな陣営(唯物論と観念論)に分かれた」という有名な文言があります。思考と存在の関係とは、どちらがより根源的かということです。別な言葉でいえば、意識と物質はどちらがより根元的なのか、これによって観念論か唯物論かに分かれます。唯物論というのは物質、ここでいえば存在を根元的なものと考え、観念論の立場にたつと思考あるいは意識が根元的なものとなります。ヘーゲルも、有に対するのは思惟である、つまり存在に対するのは思惟である、と一般的には考えられているといっています。
それに対し、なぜ有と思惟との対立ではなく有と無との対立なのかを問題にしてるのです。エンゲルスがいっている思考と存在という場合の存在は、抽象的な有ではなくて規定された有を問題にしています。規定された有は、具体的に客観世界に存在する物質ですから、それに対立するのは思惟・意識だといってよいけれども、自分が問題にしているのは無規定の直接的な有であって、これに対立するのは意識ではなくて、無規定の直接的な無だというのです。だから規定的な有を問題にしているのと、無規定の有を問題にしているのとの違いなんだ、ということをヘーゲルはいいたいのです。
成は最初の具体的な思惟規定であるから、同時に最初の真実な思惟規定である。哲学の歴史において論理的理念のこの段階に対応するものは、ヘラクレイトスの体系である。ヘラクレイトスが「すべては流れる」と言うとき、これによって成があらゆる存在の根本規定であることが言いあらわされている。これに反して、上述のごとく、エレア学派は、有、過程のない不動の有を唯一の真実なものと考えた。エレア学派の原理に連関してヘラクレイトスはさらに「有は非有以上に存在しない」と言っているが、この言葉は抽象的な有の否定性を言いあらわしているとともに、抽象的な有と、抽象的であるために有と同様に不安定な無との同一を言いあらわしている。――われわれはここに、一つの哲学体系が他の哲学体系によって、本当に反駁される例をみるのであって、この反駁の本質は、反駁される哲学がその弁証法において示され、そして理念のより高い具体的な形態の観念的モメントにひきさげられることにあるのである。 |
エレア学派からヘラクレイトスに発展する有と無との統一の問題は、前にもお話しました。まずエレア学派、特にパルメニデスは、有のみがあり非有は存在しないといいました。どうしてかというと、非有とは無ですから、無いものは認識できないし、言いあらわすこともできないではないかというのです。この有のみが存在するという立場から運動を否定したのが、エレア派のゼノンです。それに対してヘラクレイトスは有と非有は同一のものだ、すべてのものは有ると同時に無いといって、ヘーゲルの有と無の統一に近いことをいうのです。そして「万物は流転する(パンタ・レイ)」といって、運動を肯定したのです。
ヘーゲルが、論理的に反駁することの意味を解明してみせているのは面白いところです。単にそれは間違っているというだけでは反駁になりません「理念のより高い具体的な形態の観念的モメントにひきさげること」によってはじめて本質的な反駁になります。エレア学派が有のみがあり非有は存在しないといったのに対し、それはまちがっている、非有も存在するというだけではまだ本当の反駁にはならないのです。より高い立場、言いかえれば有と非有(無)の統一という、対立物の統一の立場から、あるのは運動だけだという、より高いレベルに立ってエレア学派を批判する。こういう批判の仕方が正しいのだ、といっているのです。
次に、b定有に入ります。
b 定有(Dasein)
定有は、有と無をモメントとして持つ
八九節 成のうちにある、無と同一のものとしての有、および有と同一のものとしての無は、消滅するものにすぎない。成は自己内の矛盾によってくずれ、有と無が揚棄されている統一となる。かくしてその成果は定有(Dasein)である。
私は先に第八二節および同節の註釈において、知識の進歩および発展を可能にする唯一のものは、真実の成果をしっかりと保持することであるということを述べておいたが、このことをこの最初の実例においても
う一度だけ注意しておかなければならない。一般に、矛盾、すなわち対立する二つの規定が指摘されえないような、また指摘されずにすませるようなものは一つもないのであって、悟性の抽象的態度は、一つの規定だけを無理に固執し、その規定のうちに含まれているもう一つの規定の意識を曇らせ遠ざけようとする努力であるが、人々は普通、対象や概念のうちにこのような矛盾を発見し認識すると、そこから「ゆえにこの対象は無である」という結論をくだす。かくして運動が矛盾であることを最初に指摘したゼノンは「ゆえに運動は存在しない」と言っており、また、成の二種類である発生と消滅(Entstehen und Vergehen)とが真実の規定でないことを認識した古代の人々は、そのことを、一者すなわち絶対者は発生もせず消滅もしないという言葉で言いあらわしている。 |
最初の成の成果が定有だといっているところは、あまりこだわらなくてよいと思います。つまりヘーゲルの成というのは、有が無となり無が有になるという矛盾を抱えているから、結局、成はその矛盾によって自らを消滅させ次のものに発展していく、それが定有だという言い方をしているんです。しかし、これはカテゴリーの移行時における無理なつくり物だと思います。
ただ大事なことは「矛盾、すなわち対立する二つの規定が指摘されないような、また指摘されずにすませるようなものは一つもない」として、すべてのものに矛盾が存在している、と指摘している点です。これがどうして大きな意味をもつのかといいますと、それまでの形式論理学は矛盾を否定してきたからです。形式論理学の矛盾律は、言葉は矛盾律であっても実際には無矛盾律、つまり矛盾の否定なんです。
矛盾律の内容は、Aであると同時に非Aであるということはないということをいっているので、常識の範囲内では基本的に正しいものです。その意味でやはり形式論理学というのは必要なのです。どんな場合でもAであると同時に非Aであるといってしまうと、少しおかしくなってしまいます。物を盗んだのか盗んでいないのかが問われているときに、盗んだと同時に盗んでないなどというと、お前さん何をいっているんだということになります。賄賂をもらったのかもらわないのかというのに、もらったと同時にもらっていないというと、ごまかすなということになります。その意味で形式論理学の矛盾律は一般的には正しいのです。
それでヘーゲルも述べておりますように、人々はこのような矛盾を発見すると「ゆえにこの対象は無である、という結論をくだし」てきたのです。矛盾をもつものは存在しない、そういうものは無であるというようにきめつけた。その例がゼノンです。ゼノンは、運動というのは矛盾している、矢を的に向かって射てば的に当たるようにみえるけれども、論理的にいえば、無限に接近しているだけで当たらないではないか。だから運動なんかそもそも存在しないというのです。ヘーゲル以前においては、矛盾というものが否定的にしかとらえられなかったのに対して、ヘーゲルは矛盾のもつ肯定的な側面に光を当てたということ、そこにヘーゲルの功績があるのです。
「成の二種類である発生と消滅とが真実の規定でないことを認識した古代の人々は、そのことを、一者すなわち絶対者は発生もせず消滅もしないという言葉で言いあらわしている」とありますが、前にもいいましたように、発生とは無であって有であるという矛盾なんです。無であると同時に有であるという矛盾がなかったならば発生は生まれてこない。それから消滅が、有であって無であるという矛盾なんです。だから古代の人々は、そういう矛盾をもつ発生とか消滅というのは真実の規定ではない、真実の存在である絶対者は発生も消滅もしないんだという言い方をしていると述べております。ですから矛盾のもつ否定的な側面は確かにあるけれども、同時に矛盾は運動の源泉として、ヘーゲルにいわせれば特定の成果をもつ肯定的な意義をもっているんだ、ということです。そこをしっかりつかまえておくことが大事だろうと思います。
このようにこの弁証法は成果の否定的な側面にのみ立ちどまって、同時にその現存しているもの、特定の成果を見落すのである。ここで言えば、それは、無そのものではあるが、有を自己のうちに含んでいる無であり、同様に無を自己のうちに含んでいる有である。 |
ここが大事なところなんです「この弁証法は成果の否定的な側面にのみ立ちどまって」(太字は引用者)に意味があります。矛盾は否定的側面をもっているんです。だけど、そこだけに立ち止まっていてはいけないのであって「同時にその現存しているもの、特定の成果を見落と」してはいけない、矛盾のもつ運動の源泉という成果を見落としてはならないといっています。ヘーゲルは矛盾を単純に無だとして否定する形式論理学をまちがいだといっているのではなく、そういう面もあるがそこにたちどまらないで、弁証法的論理学まで前進しなければならないといっているのです。
続いてその次を読みましょう。
かくして ⑴ 定有はそのうちで有および無の直接性が消滅し、関係によって両者の矛盾が消滅しているような、有と無の統一、そのうちで両者がモメントであるにすぎないような統一である。 ⑵ この成果は揚棄された矛盾であるから、それは自己との単純な統一という形式のうちにあり、言いかえれば、それ自身一つの有、と言っても否定性あるいは限定性を持つ有である。それは、成のモメントの一つである有の形式のうちに定立されている成である。 |
⑴ で定有とは何なのかを説明しています。定有もやはり有と無の統一です。ただし、これまでの成における有でと無の統一のように、有が無に移行し無が有に移行するというようなことではなくて「両者がモメントであるにすぎないような統一」だという言い方をしております。モメントとは要素のことです。一つのもののなかに含まれる要素です。つまり定有のなかには、有の側面と無の側面の二つがあり、この二つの側面をもっているものが定有だ、というのです。定有というのは、有と無の二つの要素をもって固定しているから、相対的な固定性をもっているのです。それからつぎの ⑵ ですが、定有は「それ自身一つの有」だというのは、定有というからにはやはり全体としては有の側面をみているのです。一つの有だけれども同時にそれは「否定性あるいは限定性を持つ有」なのです。だから定有というのは、有の側面を強調しているんだけれども、同時にそのなかに無を持つような有なんだ、と。それが「否定性あるいは限定性を持つ有」ということなんです。
定有というのは本来の日本語にはない言葉ですけれども、定有の原語はDasein です。 Da=そこに、Sein=ある、「そこにある」という意味なんです。言いかえれば、ある質をもって存在するもの、別の言葉でいえば、われわれが五感で感知することができる「そこにある」ものです。机とか黒板とかチョークとかミカンとかリンゴなどは、みんな定有です。そこにあるもの、現にあるもの、ある質をもって存在するもの、つまり客観世界に存在する個別の存在は、すべて定有なのです。
どうして定有は有の側面と無の側面をもっているといえるのかというと、定有はある質をもって存在しています。質をもっているというのは有の側面です。だけど質をもっているというのは、逆にいえば、その質によって限界が決められているということです。その限りでは、限界によって、他のものと接しているのです。或るものは、他のものによって限界づけられることによって、或るものが存在しているのです。だから或るものは、他のものでは「ない」という点での否定性を持った有なんだという意味で、有と無の統一なんだということになるのですが、詳しいことはこれから先に学習することになります。
八九節補遺 成にかんする普通の表象のうちにさえ、成があれば或るものがそれから生じるということ、したがって成は或る成果を持つということが含まれている。しかしここで、いかにして成が単なる成にとどまらず、成果を持つにいたるかという問題が起きる。この問に対する答は、先に成について明らかにされたところから得られる。すなわち、成は自己のうちに有と無とを含んでおり、しかもこの二つのものは成のうちで端的に転化しあい、相互に揚棄しあっている。したがって成は全く休止を知らぬものである。しかしそれはこのような抽象的な無休止のうちに自己を維持することはできない。なぜなら、有と無とは成のうちで消失し、そしてこのことがまさに成の概念なのであるから、成は、材料を焼きつくすことによってそれ自身も消える火のように、それ自身消失するものであるからである。しかしこの過程の結果は空虚な無ではなく、否定と同一の有である。このような有をわれわれは定有と呼ぶ。そしてそのまず明かにされた意味はそれが成ったものだということである。 |
要するに、成がその内部の矛盾によってその材料を焼きつくして定有というものを生みだすのだ、といっているのですが、これも先ほどいいましたように無理なこしらえ物だと思います。実際には成のもつ矛盾によって、成という運動から定有という「何者かであるもの」「或るもの」が生まれるのではありません。だから、成が定有を生みだすというところは問題があるんだけれども、これまでは物質から切り離された運動だけをみてきたのに対し、この定有の段階で今度は運動の側面ではなく、物質そのものの側面をみていこうということです。そのようにして物事を全面的にみていこうということであって、成がその成果として定有を生みだす、ということではないと思います。
定有とは、質を持つ有
九〇節 (イ)定有とは、直接的な、あるいは有的な規定性――すなわち質(Qualität)── としてあるような規定性を持つ有である。このような自己の規定性のうちで自己のうちへ反省したもの(in sich reflektiert)としての定有が、定有するもの(Daseiendes) 、或るもの(Etwas)である。── 定有に即して自己を展開する諸カテゴリーについては簡単にのみ述べておく。 |
「定有」とは、規定された有です。これまでは無規定の有を論じてきたのですが、定有は規定された有であり、「有的な規定性」と同じ意味です「直接的な規定性」の「直接的」とは「最初の」という意味で、有の規定された最初の姿が、定有、すなわちある質をもった有なのです。では、直接的な規定性である質に対し、媒介された規定性とは何でしょうか。ヘーゲルにいわせると、それは量です。直接的な規定性は、質であり、この質によって媒介されて規定されるのが量です。量は、或るものにおける質を取り除いたものですから、質に媒介された規定性なのです「定有とは、質としてあるような規定性を持つ有である」とありますが、規定性を持つとは、。前にも述べたように、特徴づけるとか限界づけるとかいうことを意味しています。有が規定される、つまり何かがあるということが規定されるということは、何ものかとしてあるということです。それは一定の質をもったものとして存在することを意味するのです。だから定有は質である、質をもった有であるということになります。
そのつぎに「自己のうちへ反省したものとしての定有」とありますが、普遍としての定有が特殊化することを「自己のうちへ反省する」といっています「何ものかである」という普遍が自己のうちで特殊化したら「或るもの」となる、という程度の意味でよいかと思います。だから、先ほどいいましたように、机とか黒板とかリンゴとかミカンとか、それらはすべて或るものなのです。
九〇節補遺 質は有と同一な、直接的な規定性であって、この点で、質の次に考察される量(Quantität )とはちがう。量も同じく有の規定性であるが、しかしそれはもはや有と直接に同一な規定性ではなく、有にたいして無関心な、有に外的な規定性である。――或るものが現にあるところのものであるのは、その質によってであり、或るものがその質を失うとき、それは現にあるものでなくなる。 |
定有は質をもった有だといいましたが、質というのは何なのかを明らかにしていきます。質は量と対比されるカテゴリーです「質は有と同一な直接的な規定性である」とは、有の最初に規定された姿、それが質だ、といいます「この点で、質の次に考察される量とは違う」といっていますが、質から出発してはじめて量を規定することができるのです。なぜなら、量は質でないもの、質を捨象したものだからです。
したがって量は、質をもってこないと規定できないのです。そのことをヘーゲルは「量も同じく有の規定性であるが、しかしそれはもはや有と直接に同一な規定性ではなく、有に対して無関心な、有に外的な規定性である」といっています。量というものは質を捨象したものですから、ある意味では、いわば、外からつけ加えられたものなんだ、というのです。
つまりリンゴは一つあっても二つあっても三つでもリンゴです。何個つけ加えられるかは、お金をいくら出して買ってくるかということですから、リンゴにとっては、外的な事情にすぎません「外的な規定性」とはこう。いうことです。そのもの自身の持つ特徴ではないのです。だから量は有の規定性だけれども、直接的な規定性ではなくて、質によって媒介されるような、そのような規定性であり、しかも「有に外的な規定性」、つまり有に外側からつけ加えられるような規定性です。
では質とは何かといえば「或るものが現にあるところのもの」です「そのものをそのものたらしめる」ものが質であるといってもいいでしょう。
したがって「或るものがその質を失うとき、それは現にあるものではなくなる」のです「腐っても鯛」といいますが、腐ったぐらいではまだ鯛の質はなくなっていないかもしれないけれども、腐り果てて骨も肉もなくなってしまえば鯛の質を失って、鯛ではなくなってしまいます「腐っても鯛」というのは、その鯛の質が変化しつつあるけども、なお鯛の質を保っているということなんでしょう。
更に質は本質的にただ有限なもののカテゴリーであり、それゆえにまた精神の世界ではなくて自然のうちにのみ、その本来の場所を持っている。かくして例えば自然において、酸素、窒素、等々、いわゆる単純物質は現存する質と考えられる。これに反して精神の領域においては、質は単に従属的な仕方においてのみあらわれ、精神のどんな特定の形態でも、それが質によって尽くされるということはない。例えば、心理学の対象をなす主観的精神を考えてみれば、性格と呼ばれるものは、論理学でいえば質であると言うことができる。しかしこのことは性格が、自然における上述の単純物質の場合と同じ程度に、魂に滲透し、魂と直接に同一の規定性であるという意味ではない。質が精神においても一層はっきり質としてあらわれるのは、精神が不自由な、病的な状態にある場合にかぎられている。 |
ここにヘーゲル哲学の一つの根本的な考え方がでています。それはどういうことかというと「質は本質的にただ有限なカテゴリー」ということです。或るものが或るものとしての質をもつということは、自己の限界をもつということなのです。その限界を超えてしまうとそのものの質が変わってそのものでなくなってしまうのだから、質をもつということは限界をもつということです。限界をもつという意味で、質は「有限のもののカテゴリー」だといっているのです。
そこから先がヘーゲルらしいところで「それゆえにまた精神の世界ではなくて自然のうちにのみ、その本来の場所を持っている」とあります。つまり客観的な物質の世界はすべて質をもったものとして存在し、その限りでは有限な存在なんだけれども、人間の精神というのは無限なんだ、といっているんです。
これはまちがっていると同時に正しい側面があります。つまり唯物論的にいうと、物質の世界はその階層性において無限だといってよいでしょう。ミクロの世界においても無限でありマクロの世界においても無限であるといってよいと思います。物質の世界は無限であるのですから、それを反映する人間の認識もまた無限に発展するのです。つまり精神の世界も物質の世界も無限といってよいのですが、ヘーゲルは精神の世界のみ無限であって、物質の世界は有限だと考えています。これはヘーゲルの概念論にも関係してくるのですが、ヘーゲルは人間の意識が客観世界を反映するだけでなく、無限に創造もするという点を非常に重視し、精神の世界の無限性をみたのです。
人間の意識の創造性のなかに、創造的実践としての生産労働も含まれます。マルクスもヘーゲルのその部分に学んで『資本論』のなかで引用しています。生産労働については、また後でお話しする機会がありますが、マルクスはヘーゲルからずいぶん学んでいます。ヘーゲルは、精神は無限だという立場から、精神が質をもっているというのは、不自由な病気の状態である場合、つまり精神が完全に機能しない場合に限られるといっていて、これはこれでなかなか面白いと思います。
質は、即自有と向他有からなる
九一節 質は、有るところの規定性としては――これは、質のうちに含まれてはいるが質から区別されている否定性(Negation)に対峙するものであるが── 実在性(Realität)である。否定性はもはや抽象的な無ではなく、一つの定有および或るものとして、或るものの形式にすぎない。すなわち、それは他在(Anderssein)としてある。この他在は質そのものの規定であるけれども、最初は質から区別されているから、質は向他有(Sein-für-anderes)であり、これが定有、或るものの幅をなしている。このような他者への関係に対して、質の有そのものは即自有(An-sich-sein )である。 |
少し分かりにくいところですが、ここで定有のなかにおけるモメントとしての有と無とはどういう意味なのかということを述べています。定有における有が即自有、定有における無が向他有です。つまり或るものが或るものとして「ある」側面が即自有であり、或るものが、他のものから区別され、他のものでは「ない」という側面が向他有です。つまり或るものは、或るものとして「ある」と同時に、他のものでは「ない」という側面をもつ、有と無の統一なのです。或るものは、或るものとして自立して存在しているだけはなく、他のものとの関連においてはじめて存在するのです。このようにとらえることによって、へーゲルは客観世界の一般的連関性を述べているのです。連関の一般性とか連関の普遍性とか呼ばれているものです。
弁証法とは、連関と発展に関する一般的な運動法則です。その連関という言葉が最初に出てくるのは、この或るものと他のものとの関係です。或るものは他のものとの関係においてはじめて存在する、他のものではないという関係においてはじめて或るものは存在するのです。
「質は向他有であり、これが定有、或るものの幅をなしている」とあります。糸は糸としての質をもっており、紐は紐としての質をもち、綱は綱としての質をもっています。だから紐という定有は、糸ではなく、綱でもないという向他有によって、紐と呼ぶ範囲、すなわち幅がつくられているのです。紐というものは細くなっても糸ではない、太くなっても綱ではないという上下の限界によって、紐という質の幅がつくられているのです。紐の限界をつくるのが向他有です。これに対し紐というものは、一定の長さをもった一定の繊維質で作られたものであり、ものを縛る、荷造りなどに使うものというのが、紐の即自有となるのです。
このように定有のなかにおける有と無は、即自有と向他有とに展開するのです。この有と無は、成と違って移行し合いません。有から無になったり無から有になったりするのではありません。この有と無は定有のなかで二つのモメントとして落ち着いているのです。モメントが落ち着いているから定有そのものも相対的固定性を保っているということになります。
定有における有と無の統一は、即自有と向他有の統一という形に展開したのです。こういう形で、有と無の統一は姿を変えながら展開していきます。
それでは補遺にいきましょう。
あらゆる規定は否定である
九一節補遺 あらゆる規定性の基礎は否定である(スピノザが言っているように、あらゆる規定は否定であるOmnis determinatio est negatio)。無思想な観察者は、規定された事物を単に肯定的なものとのみ見、そしてそれを有の形式のもとに固持する。しかし単なる有で万事が終るのではない。というのは、有は、先に述べたように、全く空虚であると同時に不安性なものだからである。なお、右に述べたような、規定された有としての定有と抽象的な有との混同には正しい点もある。すなわち、定有のうちには否定のモメントが含まれているにはちがいないが、それは最初は言わばおおわれたものとして含まれているにすぎず、それが自由にあらわれ出て正当な権利に達するのは向自有(Für-sich-sein)においてである。 |
スピノザがいっている「あらゆる規定は否定である」との命題を、ヘーゲルは非常に高く評価しています。或るものを規定するとは「或るものは他のものではない」ということであり、その限りにおいて否定することなのです。ところが「無思想な観察者は、規定された事物を単に肯定的なもの」としかみないのですが、しかし、肯定的にしかみないのも、それはそれなりに一理あります。なぜかというと、向自有と違って定有は、物質の相対的固定性をみており、定有も有の一種ですから、そのなかにおける否定的なモメントというのは表面に出てこないのです。他のものでないという側面は表面に現れ出ていないからです。これに対し向自有になってくると、否定的な側面が表面に現れ出てくるのです。だから定有というのをみるとき、無思想な人は単に肯定的なものしかみない、といっているのです。
《質問と回答》
まず一つは、九〇節補遺のなかで「質が精神においても一層はっきりあらわれるのは、精神が不自由な、病的な状態にある場合にかぎられている」とあるのは、どういうことでしょうか、というものです。
これは「質は、本質的にただ有限なもののカテゴリーであり、それゆえにまた精神の世界ではなくて自然のうちにのみ、その本来の場所を持っている」(㊤二八〇ページ)に関連した質問です。ヘーゲルは、自然と社会の両方を含む客観世界を、有限な世界、すべてのものが変化する世界だとしながら、他方精神の世界は無限の世界だと考えているのです。なぜならヘーゲルは、人間の認識は無限の創造性をもつことを頭においているからなのです。無限の世界である精神の世界は、無限であるがゆえに質をもっていません。質というものは、限界をもつ、
有限のもののカテゴリーだからです。本来、精神は無限のものなのだから質をもたないのだけれども、精神に障害があるときには、それは限界をもつから質をもつようになるというのです。
したがって精神は、不自由な、病的な状態にある場合に、質をもつということもいえるだろうと、いっているのです。本来精神というのは無限の世界だ、ということをいいたいのだと思います。
それから、今回はなかなか面白い質問が多いのですが、定有のなかに有と無があるということで、定有のなかにおける有が即自有で、無が向他有だということを話しました。定有は或るものといってもよいのです。或るものは、或るものとしての質をもっているという意味では即自有なのですが、他のものではないという意味では向他有なのです。ミカンの即自有は、厚い皮となかに小さな小袋をもったそういう果実、これがミカンの即自有だということです。これに対し向他有というのは、ミカンはリンゴではないということであると話しましたら、「ではパイナップルではない、バナナではない、というミカン以外のすべてのものが、この向他有に入っているのか」という質問がありました。これはなかなかよい質問です。どうしてかというと、有論が述べている向他有はミカン以外のすべてのものをこの段階では意味しています。だからミカンというのは、リンゴではない、パイナップルではない、バナナではないという、その全てのものが向他有に入っているのだけれども、これがだんだん発展してくると、或るものは特定の他者をもつようになります。これをヘーゲルは「或るものは自己に固有の他者を持つにいたる」といっています。つまり或るものは、他のものではないという他者一般の否定から始まって、或るものは或るものに固有の他のものをもつにいたるのです。これがいわゆる対立ということです。対立とは、或るものとその固有の他者との関係をいうのです。
こうやってものごとをとらえるときに、そのものをよりくっきりととらえることができるということで、これはいわば本質論の中心的な課題になってくるのです(㊦二八ページ)。だけど今はまだ定有の段階ですから、或るものは他のものではないという、この「他のもの」は、ここでは或るもの以外のすべてのものを意味するにとどまるのです。
それから矛盾を認めない形式論理学と、矛盾を肯定する弁証法的論理学とはどのように使い分けられるのでしょうか、という質問がありました。これはなかなか難しい。私自身もまだ考えを整理しつつあるところなのですが、一般的にはエンゲルスが『反デューリング論』のなかで次のように述べております「形而上学的な考え方も、対象の性質におうじて範囲の大小はあるが、きわめて広い領域で正当性をもっており、必要でさえあるとはいえ、遅かれ早かれ必ず限界に突きあたるのであって、その限界から先では一面的な、狭い、抽象的なものとなって、解決できない矛盾に迷いこんでしまうものである」(全集⑳二一ページ)。
形式論理学が限界に突き当たったときに弁証法が必要なんだということでしょう。一般的には形式論理学で間にあうのです。われわれが普段この客観世界をみているときには、相対的固定性だけをみています。相対的固定性においてものをみているときには、形式論理学で十分間にあうのですが、しかし、それはやはり限界をもっている。その限界は何かというと、運動、変化、発展においてとらえようとすると、形式論理学では間にあわない。
一般的にはこれでよいと思います。もう少しいうと、では相対的固定性のなかにおいては矛盾はないのかと言えば、少なくとも対立物の統一はあるというべきだと思います。対立と矛盾とは、はっきり区別すべきだというのが見田石介氏の考えです。つまり対立というのは調和的な対立であり、矛盾というのは排他的な対立であって、矛盾こそ運動の原動力であり、調和的な対立というのはそれとは区別されるべき問題なのだといっておられます。だから対立物の統一というのは、調和的な統一を意味することもあれば、いわば矛盾としての対立物の統一を意味することもあるのです。そういう意味でわれわれは対立物の統一というカテゴリーを、弁証法の最も基本的なカテゴリーとしてとらえているんだろうと思います。
それに関連して少し専門的な意見が出されていたのですが、素粒子の二重性の問題、つまり素粒子は波動であると同時に粒子である、と話しました。これが有と無の統一の今日的な到達点にたった、物質の根本的な対立物の統一としてとらえられるのではないかという説明をしたと思います。それに関連して「素粒子における二重性というのは、厳密な意味の矛盾ではなくて相互補完的な対立的な側面と見るべきではないか、岩崎充胤・宮原将平両氏もそういっている( 『現代自然科学と唯物弁証法』大月書店) が、自分もそう思うという質問がありました。
結局、ヘーゲルがいっている有と無の統一というのは、対立物の統一なんです。対立物の統一のなかには、調和的な統一もあれば矛盾もあり、相互補完的な統一あるいは相互移行的な統一もあるのです。例えば、成というカテゴリーは、有が無に移行し、無が有に移行するという相互移行的な対立物の統一ですが、そういうものも含めて対立物の統一をいう場合は、運動する場合も運動しない場合も両方を含んだ広い意味で対立物の統一といわれているんだろうと思います。
最初の成のところでは、有と無の統一は不断の動揺であるというのですが、今度は定有の段階における有と無の統一は不断の動揺ではないのであって、定有における有と無の対立は即自有と向他有の統一としていわば安定した状態での対立物の統一としてあるのです。だから、ヘーゲルが有と無の統一という場合は、そういう調和的な対立物の統一と、運動の源泉となる矛盾としての対立物の統一の両方を含んでいます。そういう点からいえば、仮に素粒子における二重性が相互補完的であったとしても、これを物質における対立物の統一の最も普遍的な形態だとみることは一向に差しつかえないのではないかと私は思います。
もう一つの質問にお答えしておきましょう。古典物理学においては、物質の連続性をとらえていて、それをニュートンやマクスウェルが微分方程式で示しているという話をしました。微分方程式で示すというのは、つまり物質の連続性という前提に立って示しているのだといいました。それに対して物質を非連続性の質をもつものとしてとらえたところに量子力学の新しい分野がある、そしてすべての物質は連続性と非連続性の統一なのだと話したと思います。それに関連して「量子力学の基本方程式のなかに、シュレディンガーの方程式があってこれは微分方程式で示されている。ということは、量子物理学は物質の非連続性をとらえたと説明されたけれども、微分方程式で示されるのであれば連続性にしかならないのではないか」と、こういう趣旨の質問です。
私も詳しくはわかりませんが、ミクロの世界の現象というのは連続的に起きないのであり、因果の法則というのが通用しないのです。因果の法則というのは、原因から結果に向かって連続してまっすぐに伝わっていきます。これが因果の法則なのであって、古典物理学の考え方は全部そういう考えです。投げたボールはまっすぐに飛んでいくのです。けれどもミクロの世界はそういう連続性、因果の法則性ではなくて、確率の法則によって示されるので、その確率を示す方程式がシュレディンガーの方程式なんです。だからシュレディンガーの方程式が微分方程式で示されるといっても、それは確率を示す方程式、波動関数を示す方程式として微分方程式の形式をもっているというだけであって、やはりシュレディンガーの方程式の本質はミクロの世界における確率を示す方程式という点では、非連続性を示す方程式なのです。
それから、やはり数学の微分方程式に関連して「物理ではその瞬間の速度は微分方程式で示されるのだけれども、瞬間的にはゼロになるのだから、瞬間の速度がゼロだということになると微分方程式からすると運動もゼロということになって、瞬間においては非連続性だけがあるのではないか」という質問がありました。その質問を出した上で、微分方程式のなかには数学者たちの連続についての深い洞察があるような気がしますというようなことも書いておられます。
実は微積分方程式には「連続」についての深い洞察があるというよりも「連続性と非連続性の統一」という対立物の統一があるのです。これはどういうことかといいますと、微分方程式というのは限りなくゼロに近い連続した値を示すのですが、いったん微分方程式で示したらそれをゼロという非連続とみなして計算して、それで計算が終わった段階で、さらにそれを実はゼロではなくて非常に小さい単位の連続した数値なのだということで積分で元に戻してしまう。微積分することによって運動をとらえることができるのは、微積分は連続性と非連続性の統一としてとらえられているからなのです。ある意味で微分方程式というのはゼロであってゼロでないという矛盾を表現しているものです。
そのことは『反デューリング論』や『自然の弁証法』のなかで述べられています(全集⑳一四三ページ、五七七ページ、六三〇ページ)。微分方程式によって、自然科学では、状態だけではなくて、過程をも数学的に示すことができるようになった、運動を表示することができるようになった、といっているのです。運動を表示するということは、要するに連続と非連続の統一として示すということです。だから微分と積分方程式は、まさに両者あいまって、連続と非連続の統一が示されているのではないかと思います。
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