『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第六講 有論・質 Ⅳ

実在性と観念性

 九一節補遺 更に、定有を有るところの規定性と見れば、われわれは定有において、人々が実在性(Realität)という言葉のもとに理解しているものを持つ。人々は例えば、或る計画や意図の実在性という言葉を用い、それによって、それらがもはや単に内的なもの、主観的なものではなく、定有のうちへあらわれ出ていることを意味させている。同じ意味でまた、肉体を魂の実在性、法律を自由の実在性と呼ぶことができるし、全く一般的には、世界を神的概念の実在性と呼ぶことができる。しかし実在性という言葉はよくまたもう一つの意味、すなわち、或るものがその本質的な規定すなわち概念にかなっているという意味に用いられている。例えば、Dies ist eine reelle Beschäftigung (これは堅実な職業だ)とか、Dies ist ein reeller Mensch(彼は信頼できる人間だ)とかいう場合がそうである。この場合問題になっているのは、直接的な、外的な定有ではなくて、むしろ定有するものとその概念との一致である。しかし、実在性という言葉がこのように解される場合には、それはもはや、その最初の姿が向自有においてみられるところの観念性(Idealität)と区別されない。

 ここで「実在性」と「観念性」という言葉が出てきます。一度目の講義のときには、この実在性と観念性という言葉の意味が私自身よくわからなくて、説明に苦労した記憶があります。今にして思うと、これは日本語訳に問題があるんではなかろうかと思います。実在性というのは、ドイツ語でです。これはほとんど「現実性Realität」と同じ意味で理解した方がよいと思います。ただし「本質論」は大きく「本質」「現象」「現実性」と三つに分かれていて、ここで現実性(Wirklichkeit)という訳語が使われています。ですから、それと区別しなくてはいけません。
 では、観念性とは何なのか。この観念性の原語は、Idealitätです。Idealitätの語源はプラトンのいうイデアです。ヘーゲルはこれを「概念論」のところでは理念といっています。だから観念性というよりも、むしろ理念性とか理想性と訳した方が分かりよいでしょう。要するに、実在性と観念性というのは、現実と理想と理解すべきものなのです。
 観念性というのは理想であり、実在性というのは現実という意味です「定有」とは、或る質を持った肯定的。なものとして存在するというイメージですから、=現実という言葉のもとに理解しているのです。例えRealitätば、或る計画や意図の「現実性」とは、主観的な人間の意識にあったものが具体的な形をとって外に現れ出ていることを意味します。内にある主観的なものが現実のものになるということです「肉体を魂の実在性」というのは、魂が外に現れ出て現実化したものが肉体だというのです。「法律を自由の実在性」というのも、── ヘーゲルは、法の一番中心的なカテゴリーを自由だと考えています── 自由な意志というのが根底にあり、その顕在化したものが法律だというのです。このような意味で「実在性」という言葉を使っています。
 「実在性という言葉はよくまたもう一つの意味」をもつといっています。これまでは、実在性を内にあるものが外に現れ出る、現実化するという意味で使ったのだけれども、もう一つの意味は「或るものがその本質的な規定すなわち概念にかなっている」という意味です。この場合の概念は「概念論」でいう概念であり「真にあるべき姿」ということです。例えば、われわれはソ連や東欧というのは偽りの社会主義だったということをいいます。何を基準にして偽りの社会主義だといっているのかというと、社会主義の概念なのです。社会主義の概念とソ連や東欧の社会の定有が一致していないということをもって偽りといっているのです。だから、概念というのは真にあるべき姿であり、概念と定有とが一致することが「実在性」のもう一つの意味だというのです。
 例文の訳はまずいと思います。実在性はRealität、ですから、その形容詞のreelleを「堅実」と訳したのでは何のことか分かりません「本当の」Realitätと訳すべきです。「これは本当の職業だ」というのは、その職業が職業の概念と一致する職業だという意味なのです。その次も「彼は『本当の』人間だ」と訳さなければ意味をなしません。だから実在性という言葉は「本当の」という意味あいがあります。「本当の」というのは「概念にかなっている」ことです「この場合問題になっているのは、直接的な、外的な定有ではなくて、むしろ定有するものとその概念との一致である、つまり定有するもの、現に存在するものが、その真にあるべき姿(概念)と一致しているときに「本当の」という言葉を使うのです。実在性(Realität)という言葉は、その意味にも使うのだというのです。
 「しかし、実在性という言葉がこのように解される場合には、それはもはや、その最初の姿が向自有においてみられるところの観念性と区別されない。先ほど、観念性というのは、理想性とか理念性という意味だといい」ました。観念性の最初の姿は「有論」の向自有であり、最後の姿は、ヘーゲルが「概念論」で扱っている理念なのです。定有するものと概念との一致を実在性というとき、その実在性は、観念性、理念性と区別することができません。つまり、その実在性は理想の姿なのです。そういう意味でも、観念性と実在性は、理想と現実ということでとらえればよいと思います。

有限性と可変性

 九二節 (ロ)あくまで規定性とは異るものと考えられた有、すなわち即自有は、有の空虚な抽象にすぎない。定有においては規定性は有と一体をなしており、この規定性が同時に否定として定立される場合、それが限界(Grenze) 、制限(Schranke)である。したがって他在は定有の外にあって定有と無関係なものでなく、定有そのもののモメントである。或るものはその質によって第一に有限(endlich)であり、第二に可変的(veränderlich)であって、或るものの有には有限性と可変性とが属する。

 「あくまで規定性とは異なるものと考えられた有、すなわち即自有」となっていますが、この「即自有」というのは「純有」のまちがいだろうと思います。純有というのは一番最初の有・無・成の有であり、無規定の有、直接的な有です。そういう規定されない有というのは、空虚な抽象にすぎません。定有というのは有が規定されるのです。規定されることによって、定有は一つの質を持つにいたるので、定有は規定された有です「この規定性が同時に否定として定立される場合、それが限界、制限である」とありますが「この規定性が同時に否定として定立される場合」というのは、要するに向他有のことをいっているのです。定有の即自有は定有の質をなすものであり、定有の向他有は定有の限界をなすものだといっているのです。つまり向他有とは「或るものは他のものではないと規定される側面」をみているのです。或るものは他のものではないということにより、他のものから限界づけられ、区別されているのです。
 「他在」は定有の外にあって定有と無関係のものではなく、定有そのもののモメントである「他在」とは、他のもののことです。他のものというのは、或るものの外にあるのですが、或るものと無関係にあるのではありません。他のものと或るものとはいわば限界において接しているのです。或るものは、他のものとの関係においてしかとらえることができません。ですから、それはつまり連関の普遍性を述べているのです。
 弁証法とは、連関と発展に関する一般的な法則です。連関の一般的法則の最初の姿は、或るものと他のものとの関係において出てくるのです。或るものは、他のものとの関係においてはじめて或るものとして存在する。そういう意味で、他のものというのは「定有そのもののモメント」なのです。
 限界は、他のもののなかにあると同時に或るもののなかにあるのです。限界において、或るものと他のものとは、相接していると同時に区別されているのです「制限」というのは、或るものが自分自身の限界を認識することです。すべてのものは自らの限界をもっていますが、その限界を自ら認識したときにその限界を制限と感じて、それを乗り越える力が出てくるのです。だから制限を認識しないものは前進する契機を持たないのです。或るものが自分自身の限界を認識し、それを制限として認識することが、その限界を破って前進していく契機になるのです。
 『大論理学』でヘーゲルは「制限」と「当為」(Sollen)というカテゴリーを使っています。制限とは自分自身の限界を認識することであり「当為」とは制限を認識することによってそれを乗り越えようとすることです。だからすべてのものは限界をもっているのですが、その限界を限界として認識をすることによってはじめて、それが制限されたものだということが分かり、同時にその制限を乗り越えようとして当為に向かって前進していくことになるのです。
 学問などもそうではないでしょうか。勉強する人こそ自分はまだまだ勉強が足りないと反省するのです。勉強が足りないと思うことは、制限の認識に達していることです。それによってもっと勉強して自分の足りなさを補おうという当為が生まれてくるのです。何も勉強しない人ほど、自分の限界を認識していません「俺は何でも知っているぞ」と思っている人は、自分の限界を認識していないから当為は生まれてこないのです。
 質をもっているということは、或るものが「有限であり、同時に「可変的」であることを意味します。「有限」であるということは限界をもち、限界をもつということは、いずれ限界を超えて他のものに変わってゆくということですから、質をもった或るものは、有限であるばかりでなく可変的だ、ということになります。
 したがって「或るものの有には有限性と可変性とが属する」のです。すべてのものが運動・変化・発展するというのは、何か外からの力で変わるように思えるけれども、そうではなくて、或るもの自身が質をもっているというところから、或るものは他のものへ移行していくという可変性をもっているのです。或るものが他のものとの限界や制限を認識してどうなるのかというと、他のものに移行します。だから或るものは、有限なものとして他のものへ移行せざるをえない、限界をもつがゆえに他のものに移行せざるをえない、という意味で可変的なものなのです。或るものと他のものとの関係を論ずるなかで、ヘーゲルは連関の普遍性と同時に、変化・移行の普遍性も議論します。すべてのものは有限であるがゆえに運動・変化・発展せざるをえないのです。

限界の弁証法

 九二節補遺 定有においては否定性はまだ有と直接的に同一であり、そしてこのような否定性こそ、われわれが限界と呼ぶものである。或るものは、その限界内においてのみ、また限界によってのみ、現にそれがあるようなものである。したがって限界は、定有に単に外的なものと考えらるべきではなく、それは定有全体を貫いているのである。

 定有における否定性とは、向他有のことですが、向他有が限界になるということもすでにお話ししました。その「否定性はまだ有と直接的に同一」だというのは、定有のなかに即自有と向他有があって、その向他有という否定性が、有と一体になっているということです「そしてこのような否定性こそ、われわれが限界と呼ぶものである。或るものは、その限界内においてのみ、また限界によってのみ、現にそれがあるようなものである」。これは解説不要でしょう「したがって限界は、定有に単に外的なものと考えらるべきではなく、それは定有全体を貫いているのである」「外的なもの」とは外からつけ加えられたものという意味ですが、限界はそういうものではない。定有、或るものは、常に他のものとの間に限界をもち、限界をもつことによってはじめて定有は定有としてあるのです。他のものによって限界づけられることによって、定有ははじめて定有として存在する、という意味で、限界は外からつけ加えられたものではなくて「定有全体を貫いている」のです。

 限界を定有の単なる外的規定と考えるのは、量的限界と質的限界との混同にもとづいている。ここでわれわれが問題としているのはまず質的限界である。例えば三モルゲンの土地を考えれば、これは土地の量的限界である。しかしさらにこの土地は牧場であって森あるいは池ではない。これが土地の質的限界である。

 限界というものを定有の外からつけ加えられたように思うのは、量的限界と質的限界とを混同しているというのです。たしかに量的限界は外からつけ加えるものなのです。まあ、三モルゲンは、三〇平方メートルでもよいでしょう。土地が三〇平方メートルになるか四〇平方メートルになるかはお金次第ということで、その限界というのはまさにお金という外からの要因によって限界が決まります。土地自体に最初から何平方米という限界があるのではないのです。しかし質的限界はそうではありません。自分自身においてその限界をもっているのであって外からつけ加えられるのではない。牧場という質をもった土地を考えてみると、それは土地ではあっても、森ではない池でもないという向他有によって質的限界をもっているのであって、質的限界と量的限界は区別しなければならないのです。質的限界は或るものそのものに固有のものとして存在するのです。だからこそ或るものは可変的であり有限なのです。

 人間は、現実的に存在しようとするかぎり、定有しなければならない。そしてこの目的のために自己を制限しなければならない。有限なものをあまりに嫌悪する人は、少しも現実に到達することなく、抽象的なもののうちにとどまって、自分自身のうちで消えてしまう。


  これはなかなか面白いところです。生まれたばかりの人間は、純粋有であり、無規定の人間です。ただ人間であるというだけで人間としての質をもっていないのです。しかしそれがだんだん成長し、専門的な知識を身につけることによって、その人間の質が出来あがってくるのです。だから「現実的に存在しようとする限り「自己」を制限しなければならない」のです。エンゲルスは『自然の弁証法』のなかで「生物進化におけるどんな進歩もすべて同時に退歩でもある」という文章を書いています(全集⑳六〇八ページ)。
 人間が成長する過程も前進であると同時に後退なのです。教育というのは人間形成の全面的な発達をめざすといわれます。全面的な発達を目指すというのはどういうことかというと、その人の成長すべき可能性を全方向において追求することをつうじて、その人が自ら特殊化すべき方向を見定めるということではないでしょうか。だから人間が成長する過程というのは、だんだんに自己を定有として確立し、自己の限界を確立していくことなのです。それは専門性という一面では前進なのですが、全面的な発達という点からみると、他の面を切り捨てていくのですから、後退なのです。
 「有限なものをあまりに嫌悪する人は、少しも現実に到達することなく、抽象的なもののうちにとどまって、自分自身のうちで消えてしまう。やはり、自己を特殊化することは必要なのです。ただ、オウム真理教の医者」や科学者をみていると、医者や科学者としては優秀なのかもしれませんが、社会全体の見方は幼なすぎます。専門化は同時に、後退であることのいい例です。
 ではわれわれはどうすべきなのかということになりますが、なかなか難しい問題です。専門分野をもって自己を確立することは絶対に必要なことなのですが、同時に自然や社会の普遍的な法則を学んで自分自身を普遍化する努力もしなくてはなりません。専門だけやっていればよいということにはならないのです。世の中をみる目をしっかりもっていないと、生きる道を誤ってしまう。特殊(専門性)と普遍(全面性)の統一ということが必要なのです。

 さらに限界というものを立ちいって考察してみると、限界はそのうちに矛盾を含み、したがって弁証法的であることがわかる。限界は一方では定有の実在性をなし、他方ではその否定性である。しかし更に、或るものの否定性としての限界は、抽象的な無一般ではなく、存在している無、言いかえれば、われわれが他のものと呼んでいるものである。

 限界の持つ矛盾、限界の弁証法を述べています「限界は一方では定有の存在をなし」とありますが、一方では限界によって或るものは或るものとして存在するのです。他方で限界において或るものは或るものでなくなります。或るものは限界づけられているからこそ或るものとしてあると同時に、或るものは限界においてすでに他のものになっているのです。そういう意味で限界において或るものは或るものと同時に他のものなのです。
 「しかし更に、或るものの否定性としての限界は、抽象的な無一般ではなく、存在している無、言いかえれば、われわれが他のものと呼んでいるものである。限界を越えたら無くなってしまうのかといえばそうではない」。或るものが他のものに移行するだけのことです。

 或るものと言えば、われわれはすぐに他のものを思いつく。そしてわれわれは、或るものだけでなく、他のものもまた存在することを知っている。しかし他のものとは単にそうしたものではない。或るものは、他のも のなしにも考えられるというようなものではなく、或るものは即自的にそれ自身の他者(das Andere seiner selbst)であり、或るものの限界は他のものにおいて客観的となるのである。


 或るものと他のものとは限界を媒介として結びついていますから、或るものと他のものとは、単に並んで存在しているというものではなく、或るものは限界をつうじて他のものに移行するのであり、或るものは潜在的に他のものなのです。第二講で話した或るものと他のものとの間に「固定した不動の対立」や「むりに固定された境界線」を認めることはできないという弁証法の特徴は、この限界の弁証法にもとづているのです。

 或るものと他のものとの区別を問題としてみると、両者は同じものであることがわかる。こうした同一は、実際ラテン語において両者が‐ と呼ばれることによって言いあらわされている。或るものに対立するaliud aliud他のものは、それ自身或るものであり、したがって、われわれは他の或るもの(Etwas Anderes)と言う。同様に他方では、同じく或るものとして規定されている他のものに対立する最初の或るものは、それ自身一つの他のものである。他の或るものと言う場合、われわれはまず、或るものは、それだけをとれば、単に或るものにすぎず、それが他のものであるという規定は、単に外的な考察によってのみそれに属するようになるのだと考える。

 つまり、或るものが他のものに移行するといっても、その「他のもの」も、またそれ自身或るものであって、それがまた次の「他のもの」に移行するのです。だから、或るものと他のものといっても、要するに、二つのものの関係をみているのです。結局、どれも或るものであると同時に他のものなのです。この「或るもの」とか「他のもの」という規定は「単に外的な考察」、外から勝手に関係づけているだけと思われるけれども、実はそうではない、ということになるのです。

 かくしてわれわれは、例えば、太陽とは別な或るものである月は、太陽がなくても有りうると考える。しかし実際(或るものとしての)月は、それの他者をそれ自身に即して持っているのであり、そしてこのことが月の有限性をなしているのである。プラトンは言っている。神は世界を一者と他者の性質から作った。神は両者を統合して両者から一者と他者の性質を持つ第三者を作ったと。

 太陽と月の関係が例として出されていますが、今の天文学の常識からいうと、地球と月の関係の方が適切でしょう。つまり、地球があるから月がある。月があるから地球がある。そういう関係を「固有の他者」と呼んでいます「それの他者をそれ自身に即して持っている」というのは、固有の他者のことです。だから或るものと他のものとの関係では、他のものがいくらでもあるようにみえるけれども、しかしそのなかにあって、或るものに固有の他者があるので、その関係をとらえることが物事を本質的なものとしてとらえることになるのです。プラトンがいっているのは、神の作った世界は、一者と他者という対立物の統一だということです。一者と他者とは対立するものですが、それが第三者において一つに統一されているとみているのです。対立物の統一ということは、要するに、或るものをその固有の他者との関係においてとらえるのだということをプラトンは賢明にもいっているというのです。

 この言葉は一般に有限なものの本性を言いあらわしている。有限なものは、或るものとして他のものに無関係に対峙しているのではなく、即自的に自分自身の他者であり、従って変化するものである。変化において、即自的に定有に属し、そして定有を自己を超えて追いやるところの内的矛盾があらわれる。表象にたいしては定有はまず単に肯定的なもの、そして同時にあくまで自己の限界内にとどまっているものとしてあらわれる。

 「この言葉は一般に有限なものの本性を言いあらわしている」とありますが、プラトンがいっているように、有限なものは対立物の統一としてあるというのです「有限なものは、或るものとして他のものに無関係に対峙しているのではなく、即自的に自分自身の他者」をもっているというのは、つまり或るものは、他者一般と対峙しているのではなくて、固有の他者との対立関係にあるのです。この固有の他者との関係において、或るものは変化します。何に変化するのかといえば、何にでも変化するのではなくて、その固有の他者に変化するのです。
その変化する方向が「即自的に自分自身の他者」なのです。したがって或るものはその固有の他者に移行することによって、変化し、この変化において即自有と向他有との「内的矛盾」が顕在化します。こうして、或るものは他のものに移行するというわけです。
 「表象にたいして」とあるのは、常識的なものの見方からするとという意味です。常識的なものの見方からすると、或るものというのは「単に肯定的なもの」として存在しているようにみえます。たとえば、或るものは、机という肯定的なものとしてあり「そして同時にあくまで自己の限界内にとどまっているものとしてあらわれる、つまり机は机としての限界内で固定しているようにみえます。しかし、そうではなくて或ものはそのなか」に自分自身を否定し、限界をこえて変化せざるをえない必然性をもっているのです。だから、定有は「可変的」なのです。

 われわれは更に、有限なもの(定有はそうしたものである)はすべて変化をまぬかれないことを知ってはいるが、しかしこの定有の可変性は、表象には、その実現が定有そのものにもとづいていない単なる可能性と思われている。実際はしかし、変化するということは、定有の概念のうちに含まれているのであって、変化は定有が即自的にそうであるものの顕示にすぎない。生あるものは死ぬ。しかもそれは、生あるものが生あるものとして自分自身のうちに死の萌芽を担っているからにほかならない。

 変化することは、外的要因によって変化するとか、あるいは変化する可能性もあれば変化しない可能性もあるとかいう問題ではなくて、定有の概念のうちに含まれているのです。言いかえれば、定有は有限であり、他のものによって規定されていることを通じて、他のものに変化せざるを得ない必然性を伴っているのです。「変化は定有が即自的にそうであるものの顕示にすぎない」とありますが、変化の要因というのはすでに定有そのもののなかに含まれている、それが顕在化して変化するにすぎないということです。
 「生あるものは死ぬ」。しかもそれは、生あるものが生あるものとして自分自身のうちに死の萌芽を担っているからにほかならない。つまり、生というのは同時に死なのです。三ヵ月間で身体の細胞の半分は死んでしまいます。それと同数の細胞が再生して維持はしているのですが、だんだん死んでしまう細胞の方が多くなって最後には死んでしまいます。だから生きるということは、同時に死ぬことなのです。
 これが或るものと他のものの弁証法といわれるものです。変化の普遍性と連関の普遍性がここで述べられています。これは弁証法の真髄をとらえたものであるといってよいでしょう。

 九三節 或るものは他のものになる。しかし他のものは、それ自身一つの或るものである。したがってこれも同じく一つの他のものになる。かくして限りなく続いていく。


 こうして、定有するものとしての或るものは、他のものに、その他のものもまた別の他のものに移行し、この移行は無限に続く無限進行となります。

悪無限と真無限

 九四節 この無限は悪しきあるいは否定的な無限(die schlechte oder negaive Unendlichkeit )である。というのは、それは有限なものの否定にほかならないのに、有限なものは相変わらず再び生じ、したがって相変わらず揚棄されていないからである。別な言葉で言えば、その無限は有限なものの揚棄さるべき(Sollen)ことを言いあらわしているにすぎない。この果しない進行は、有限なものが含んでいる矛盾、すなわち有限なものは或るものであるとともに、またその他者であるという矛盾を言いあらわすにとどまる。それは、相互に誘致しあう二つの規定の果しない交替である。

 ヘーゲルは無限を二つに区分して、悪無限と真無限と呼んでいます。悪無限というのは果てしなく続く無限進行のことです。悪無限は哲学で取り上げても退屈なばかりであって、大事なことは真無限を論ずることだといっています。自己同一のもとでの無限の変化を真無限と呼んでいるのです。
 「この無限は悪しきあるいは否定的な無限である」。限りなく続いていく無限進行というのは、悪無限、悪しき無限、否定的な無限です。というのは、それは「有限なものの否定」にほかならないのに「有限なものは相変わらず再び生じ、したがって相変わらず揚棄されていない」からです。この悪無限というのは、有限のものからなる無限なのです。悪無限では、有限なものが次々否定されていくのですが、相変わらずそこから生まれてくるものは有限なものにすぎません。たとえば、最高の数を数えようとして、一から始めて次々に新しい数を数えていっても、いくら数えても最高の数には到達しえない「別な言葉で言えば、その無限は有限なものの揚棄さるべきことを言いあらわしているにすぎない」のです。
 悪無限というのは、有限なものを否定して、無限なものに到達しようとするのですが、結局到達することができず、有限の世界にとどまり続けるのです。その意味で悪無限は、有限なものの揚棄さるべきことをいいつつ、揚棄しえないことを示すにすぎません「この果てしない進行は、有限なものが含んでいる矛盾、すなわち有限なものは或るものであるとともに、またその他者であるという矛盾を言いあらわすにとどまる。或るものと他」のものとの終わりなき繰りかえし「相互に誘致しあう二つの規定の果てしない交替」です。ですから、こんな悪無限は退屈の限りなのです。

 九四節補遺 定有の二つのモメント、或るものと他のものとを別々に考えてみると、そこには次のようなことが見出される。すなわち、或るものは他のものになり、この他のものはそれ自身一つの或るものであって、それは或るものであるから同じく他のものになり、かくして同じことが限りなく繰返される。反省(Reflexion)はここで非常に高いもの、否、最高のものに達したと思う。しかしこうした限りない進行は真の無限ではない。

 こういう悪無限と真の無限とは区別されなければなりません。悪無限というのを何か非常に高い値打ちがあるかのような考えをする人がいますが、しかしこんなものには大した意義はありません。哲学上考察するに値しないカテゴリーだということです。

 真の無限は、他者のうちにあって自分自身のもとにあることにあり、あるいはこれを過程として言いあらわせば、他者のうちで自分自身へくることにある。真無限の概念を正しくとらえ、そして果てしない進行というような悪無限に立ちどまらないということは、非常に重要なことである。

 真無限というのは「他者のうちにあって自分自身のもとにある」こと「これを過程として言いあらわせば他者のうちで自分自身へくること」です。つまり、自分自身が質的に無限に変化するけれども、他者には移行することなく、自分自身にとどまっていることです。無限の変化のなかの自己同一性です。これはどういうことを考えているかというと、有機体すなわち生命体のことを念頭においているのです。生命体は、誕生以来質的変化をし続けながら、生命体としての一体性を保ち続けています。また認識についても同じようなことがいえると思います。例えば、二五〇〇年の哲学の歴史は、真理の自己同一性を保ちつつ、無限に認識を発展させてきた過程です。そういうものを真無限といっているのです。
 「他者のうちにあって自分自身のもとにある」の「他者のうちにあって」というのは、自分自身を否定することです。自分自身を否定するのだけれども、他のものへいってしまうのかといえば、そうではなく、自分自身において自己否定を繰りかえし無限に発展するのです。それが「自分自身のもとにある」ということです。否定を繰りかえすことによって自分を高めていく。そういうイメージでとらえればよいと思います。どうしてヘーゲルが真無限のことをこのようにいっているのかといえば、これはやはり「概念論」と関係してくるのですが、ヘーゲルは人間の認識能力を無限に発展するものだと思っています。創造性をもつ人間の認識は無限に前進することができる、という人間の認識に対する無限の信頼があるのです。彼はそういう意味で合理主義の立場に立ち、理性と科学を信頼しています。九〇節補遺のなかで、精神は無限なものだということを述べていますが、そういう無限な精神を念頭においてヘーゲルは真無限といっているのです。
 「これを過程として言いあらわせば、他者のうちで自分自身へくることにある」の「自分自身へくる」の部分は、ドイツ語もそうなっているのかも知れませんが、意味合いとすれば「自分自身に戻る」といった方が正確だろうと思います。つまり自分を否定して他者になるのですが、その他者になることをつうじて、或るものが他のものへ移行してしまうのではなくて、自分自身に戻ってきており、常に自分自身にとどまっている。自分を否定することを繰りかえしながら常に自分を保っているのです。

 空間および時間の無限について語る場合、人々が常に拠りどころとしているのは無限進行である。例えば人々はこの時間、と言い、そしてこの制限を越えて絶えず前後へ進む。空間の場合も同じことであって、教訓を事とする天文学者たちは、空間の無限について多くの壮大な空文句を並べて立てている。また、こうした無限を考えようとすると、思惟は疲れ果ててたおれてしまうというようなことも常に主張されている。ところで、われわれがこのような果しない考察を結局やめてしまうというのは正しいが、しかし、それはこうした仕事が崇高だからではなく、退屈だからである。

 無限進行は退屈なだけだ、だからこのようなものとこれ以上かかわっていてもしょうがない、というのです。ここでは「一つの限界を立て、それを越え、次にまたしても限界を立てる」ということは、そういう同じことが繰りかえされるだけだということです。

 このような無限のうちに歩み出ることによって有限なものから解放されると思うのは、その実逃げることによって解放されると思うにすぎない。逃げるものはまだ自由でない。逃げるものは逃げながらなお、かれがそこから逃げるものによって制約されているからである。

 こういう悪無限へ入ることによって、有限なものから解放されたいと思っても、そういうわけにはいかないのです。悪無限に入って有限なものから逃れようとしても、どこまでいっても有限なもののなかにとどまっているのです。いうなれば悪無限というのは、無限が有限のものからなっているという矛盾なのです。エンゲルスが『反デューリング論』(全集⑳五二ページ)。のなかでこの点について述べ、無限というのはそもそも矛盾なのだといっています。「逃げるものはまだ自由でない」というのは、ヘーゲルの自由という概念を理解するうえでもポイントになるところです。逃げることによっては自由になれません。例えば、今の学校の管理教育から自由になりたいといって不登校になる。不登校になったら管理教育から自由になるのかというと、そうはいかない。やはり管理教育そのものを変えない限りは本当に自由になれないのです。だから自由という概念をヘーゲルが議論するときは、こういう形式的な自由では駄目なのだということを盛んにいっています。

 人々が更に、無限なものは到達できないものであると言う場合、それは全く正しいが、しかしそれが正しいのは、人々が無限を単に否定的なものと考えるからにすぎない。哲学はそのような空虚で単に彼岸的なものは問題としない。哲学が取扱うのは常に具体的なもの、絶対に現存的なものである。

 悪無限における無限は、到達しえない彼岸としての無限であって、哲学はこんな空虚なものを相手にしないのです。宇宙の広がりの問題についても、ミクロの世界でも、自然や社会においてそういう無限進行的な無限ということは客観的にみて、存在してはいます。しかし、そういう無限は哲学的な考察の対象にはならないと、ヘーゲルはいっているのです。

 ── 人はまた哲学の任務を、無限なものがいかにして自分自身の外へ出る決心をするかという問題に答えることにあるとしている。この問は、無限と有限との動かしがたい対立という前提にもとづいているから、それに答えるには、このような対立は真実でなく、無限なものは実際永遠に自分の外に出ているとともに、また永遠に自分の外に出ていないのだ、と言えばたりる。── 更に、われわれが無限とは有限でないものであると言う時、われわれはすでに実際において真理を言いあらわしているのである。というのは、有限なものはそれ自身第一の否定であるから、有限でないものは否定の否定、自己と同一な否定であり、したがって同時に真の肯定であるからである。

 まず、ヘーゲルは「有限と無限との動かしがたい対立」、つまり有限と無限との間に線を引いてしまって、有限はこっち側、無限はあっち側というものとしてとらえるのはまちがいだといっています。存在するすべてのものを媒介においてとらえる、対立物の統一としてとらえることが必要なのです。有限と無限の統一されたものが真無限だということです。
 真無限というのは、有限な一つの質のなかに無限があるということです。人体は小宇宙だといわれることがありますが、体内の個々の細胞の働きは無限であり、脳細胞に到っては未解明の部分が圧倒的です。こういう「此岸の無限」が真無限であり、これこそ哲学上の考察に値するものだということを押さえておけばよいと思います。
 その次に「無限なものは実際永遠に自分の外に出ているとともに、また永遠に自分の外に出ていないのだと言えばたりる」といっていますが、真無限というのは定有の外に出ているとともに定有の外に出ていないのです。定有の外に出るとは、定有を否定することであり、自分の質を否定することです。真無限というのは自分を否定するにもかかわらず自分の外に出ていないのです。
 それから「無限とは有限でないもの」という表現は、それなりの真理をあらわしています。というのも、無限とは有限でないものというとらえ方は、有限と無限とを媒介のない対立としてとらえるのですから、根本的には正しくはないのです。しかし、それが否定の否定(有の否定としての有限なもの、またその否定としての無限)としての真の肯定という意味で理解するならば、真無限は悪無限と違って、意味のある肯定的なものだから、真無限を意味するものとして正しいということもできるのではないか、という意味だと思います。真無限というのは或るものが或るものとして存在し続けるなかでの無限ですから、肯定となるのです。無限とは有限でないものであるという言い方は、根本的には正しくないけれども、しかしそれが真の肯定を意味しており、真無限というのは真の肯定を意味しているという点からいえば正しい面もある、ということです。

 ここに述べられた反省の無限は、真の無限に到達しようとする単なる試み、不幸な中間物にすぎない。これは、一般的に言って、近代のドイツにおいて勢力を得た立場である。それは有限なものは揚棄さるべきこと無限なものは単に否定的なものにとどまらず、また肯定的なものであるべきことを説く。このべしのうちには常に、或るものが正しいと認められながらも自己を実現しえない無力がある。カントおよびフィヒテの哲学は倫理にかんしてこのようなべしの立場に立ちどまっていた。理性的法則への果てしない接近が、このような方法で達せられる極限であった。そしてこうした要請の上に魂の不滅が基礎づけられたのである。

 カントやフィヒテのことを少し話さなくてはなりませんので長くなりそうですから、それは次回にして、最初のところだけやっておきます。
 「ここに述べられた反省の無限は」というのは、無限は有限でないものである、というとらえ方のことです。そして、それは「真の無限に到達しようとする単なる試み、不幸な中間物にすぎない」といいます。無限とは有限でないものであるというとらえ方は、否定の否定としての真の肯定という面をもっているから、真無限に接近しているとはいえても、まだ有限と無限とを媒介のない対立においてとらえているという意味では、真無限を正面からとらえきっていません。そういう意味で「中間物にすぎない」のだといっているのです。
 今回の講義はここまでにして「近代のドイツ…」以降は次回に学習したいと思います。、

《質問と回答》

 九一節補遺の「これは『堅実』な職業だ」「かれは『信頼できる』人間だ」という訳文は「これは『本当』の職業」だ「かれは『本当の』人間だ」というように訳すべきだといったと思います。それについて「翻訳の不手際」の指摘は理解を容易にしてくれた、鮮明なものにすることができました」という感想がありました。
 現在みなさんがお持ちの松村一人訳の『小論理学』というのは一九五一年の訳です。実は松村さんには、それ以前の翻訳もあるのです。一九四六年版の訳をみると、ここのところは「本当の職業」「本当の人間」という訳になっています。それがドイツ語の素直な読み方なんです。これを「堅実な職業」とか「信頼できる人間」と訳すというのは意訳に属すると思います。それで問題はなぜ最初はドイツ語のを「本当の」と訳していたのに、reell 一九五一年版では変えてしまったのかということなんです。そこに、実は松村さんが「観念性」という言葉をよく理解できなかったということのあらわれがあるのではないか、と思うのです。
 「観念性」というものを、理念性とか理想性とかということでとらえていけば、こんな訳にはならなかったと思います。松村さん自身が「観念性」あるいは「概念」ということの意味がよくわからなかったために「本当の」という訳では意味がつかめないと思って、こんな訳に変えてしまったのだと思います。その点でもこれまでのヘーゲル解釈において「概念」とか「観念性」というものが、正確に理解されていなかったのではないかと思います。
 前回もお話ししましたが、われわれがいっている「本当の」社会主義とか「偽物」の社会主義だという場合の、「本当の」とか「偽物の」ということを、哲学的にいえばいったいどういうことなのかといえば、概念に一致する定有なのかどうかの問題なのです。概念と定有が一致する場合を「本当の」といっているのです。「本当の」人間というのは、つまり概念としての人間と定有としての人間が一致する場合のことです。だから偽物の社会主義とか本当の社会主義という場合は、やはりわれわれはそこでは社会主義の概念を問題にし、概念と定有との一致か不一致かを問題にしているのです。そういうことでやはり一九五一年の松村訳は誤訳だといわざるをえないのです。
 ちなみに二四節補遺二(㊤一二四ページ)をみてみましょう。「しかし哲学的な意味では、真理とは……或る内容のそれ自身との一致を意味する」とあります。「それ自身」とは概念「或る内容」とは定有のことです「或る内容」と「それ自身」との一致というのを、九一節補遺の言葉でいえば「定有するものとその概念との一致」となり、それが真理だというのです。一二四ページには概念と定有の一致の例として「真の友」「真の芸術品」という例が示されています。松村さんはここでは概念と定有との一致の問題を「真の」と訳しながら、他方二八二ページではそういう訳になっていないというところに、松村さん自身の「概念」に対する理解の不十分さがあるのではないか。ヘーゲルは同じ内容を議論しているのに、松村訳は違ってきているのです。
 それから、限界と制限と当為の問題が印象に残ったという感想が出ていたのですが、これについて私自身、反省させられたことが二つほどありました。一つは限界と制限の問題に関連して、限界を認識すると制限になるんだという説明をしたと思います。つまり自己の限界を認識したときに、自分自身を、まだ制限をもった存在だととらえ、それによってその制限を乗り越えていく力が生まれてくるんだという言い方をしました。しかし、この説明は不十分であったと思います。なぜなら、そういってしまうと、制限というのは認識能力を持っているものにしか存在しないのかということになってくるのです。ですから、有限なものが運動・変化して、自分自身を越えようとするに至るときに、その限界が制限となるといった方がより正確だろうと思います。認識する、しないには関係なく、有限なものが自分自身を越えようとするとき、そのときに限界が制限となるということです。
 それから、制限と当為の問題です。ここでもまた反省させられたんですけれども、限界を制限として認めることによって、それを乗り越えようとする当為が生まれるといいました。当為はドイツ語でゾレン(Sollen)といいますが、日本語では「まさにあるべし」という意味です。制限を乗り越えて「あるべき」姿に進んでいくと、いうか、そうあるべきだというのが当為です。
 この当為とは一体何なのかをよく考えてみる必要があるように思います。何をいいたいのかというと「当為」と「概念」との同一と区別を正確にとらえる必要があるということなんです。概念というのは、真にあるべき姿だとお話したと思います。当為もある意味ではあるべき姿なんです。そうすると、当為は概念とどう違うのか、その関係が論じられなくてはなりません。当為というのは、現状を否定してあるべき姿を求めるのだけれども、いわばそのあるべき姿はどんなあるべき姿であってもよいのです。例えば、橋本内閣は六つの改革をやるといっています。六つの改革をやるというのは六つの当為を現実化しよう、そういう意思のあらわれです。現状を変えて、改革をやるというのですから、それはそれでやはりあるべき姿を問題にしているのです。
 では、あるべき姿というのは、現状の変革をめざすものであれば何でもよいのかといえば、そうではありません。やはり、真のあるべき姿というものがある。例えば、政治改革がついこの間までずいぶん論議になって、政治は変えなくてはいかん、そういう論議がされました。では、どう変えるのかといえば「政治腐敗の原因は中選挙区制にある」ということで、小選挙区制を強行してしまったのです。だけども政治改革の真のあるべき姿は、企業や団体の献金を禁止して、財界・大企業と政治との癒着を断ち切ること、それこそが政治改革の「概念」、本当のあるべき姿なんです。
 一般的に当為を議論するだけでは駄目なんです。やはり概念をこそ議論しなくてはならないんだ、とヘーゲルはいいたいんだと思います。つまり当為は、単に有るべき姿なのに対して、概念は真にあるべき姿なのです。
 ヘーゲルは、当為の問題を有論で論じているのですが、こんな当為はまだあるべき姿だといっても、理念・理想にはほど遠いということで、ここでは軽く流しています。それで概念論のなかで、こんな当為では駄目なんで、「概念」を論じなくてはならないという議論をするのです。概念を「真にあるべき姿」ととらえ、当為を単に「あるべき姿」として両者を区別することが大切です。そして、われわれが社会的実践を考える場合には、当為ではなく概念をこそ問題とすべきなのです。
 それに関連して少し申し上げておくと「哲学はただ理念をのみ取り扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではない」とあります。この「ゾレン」(㊤七一ページ)というのは当為のことです。哲学は理念のみを取り扱うとありますが、理念というのは概念の最高の段階です。 したがってこの文章は「哲学というものは、概念を取り扱うものであって、この概念は単に当為にとどまって、現実的ではないほど無力なものではない」という意味になります。ヘーゲル自身、当為と理念・概念を明確に区別しています。ここがいわばカントとヘーゲルの哲学の違いなんだろうと思うのです。ヘーゲルは、カントが取りあげた当為というカテゴリーを乗り超え、概念とか理念というものを導き出したところに、ヘーゲルの功績があるのです。今日は、そのことを問題提起的にお話しておいて、またこれからも追々たち戻りながら話していきたいと思います。
 それから「限界はそのうちに矛盾を含み、したがって弁証法的である」というのはどういう意味だろうかという質問がありました。これは直接的にはその後の文章に関わる問題です「限界は定有の実在性をなし、他方ではその否定性である」とあります。だから限界は定有の実在性であると同時に、否定性であるという矛盾です。「限界は一方では定有の実在性をなし」というのは、限界があることによって定有は定有として存在するということです。限界によってあるものははじめてあるものとして存在するという意味では、限界は定有の実在性をなすのです。しかし同時に他方で限界は定有の否定性であるということは、限界を超えたら、もう定有は定有でなくなってしまうのですから、そういう意味では、限界は定有の否定性でもあります。こういうことを「限界はそのうちに矛盾を含む」といってるのです。或るものは限界において存在すると同時に限界において存在しない、と言いかえてもよいと思います。限界というものは、或るものと他のものとを結合すると同時に区別するいってもよいでしょう。限界においては、或るものでもあると同時に、他のものでもあるといってもよいし、限界においては、或るものでないと同時に他のものでないということもできます。このように限界は様々な矛盾においてとらえることができます。限界は、或るものから他のものへの運動をもたらすカテゴリーだから、このような矛盾をはらんでいるのです。
 「即自・対自という意味が今ひとつよくわかりません」という質問がありました。まず原理的なもので説明しますと、㊤九〇ページ「訳者注」をみてください。即自、対自、即自かつ対自(即対自)は「対立の未分化の状態、対立の発展した段階、対立の同一、統一によって対立が解決された状態」をさす、とあるように、ヘーゲルの弁証法の基本的な概念です。即自は未発達の状態ですから「潜在的」と訳し「即対自」というのはいわば、弁証法的に矛盾の揚棄された姿を示すのですから、これを「絶対的」と訳したらぴったりすることもよくあります。あとはもう個々の使い分けのなかで、これを基本にしながら、適宜解釈していくことになります。
 それから「太陽とは別な或るものである月は、太陽がなくても有りうると考えるという『』(㊤二八五ページ)のはどういうことでしょうか」という質問がありました。この場合、或るものはあるものだけで存在するように思いがちだけれども、そうではなくて、或るものは他のものとの関係において、はじめて存在するものだということをいっているのです。月は地球(太陽はまちがい)との関係において初めて存在するのです。地球の干満も月との関係ではじめて存在します。
 親子の関係においてもそうです。子があるから親であるし、親があるから子といえる。子のない親はいないし、親のない子もいない。親というのは子との関わり合いのなかではじめて存在します。だから子の年齢と親の年齢は同じなんです。つまり、その人が子をもったときに、〇歳の親と〇歳の子が同時に生まれるのです。それを同じ年齢ではないと誤解して、つい親が子に対し、あれこれ命令するから親子関係がうまくいかないということになってしまうのです。だから子に教えられて親は親になり、親に教えられて子は子になるのです。先生と生徒の関係もそうです。先生は生徒がいてはじめて先生なのです。或るものは他のものではないという限りにおいて、他のものとの関係において存在する。そういういわば連関の普遍性をここでは述べているんだと思います。

→ 続きを読む