『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第七講 有論・質 Ⅴ

理念と当為

 今日は九四節補遺の途中からです。ここでは有限と無限、悪無限と真無限ということを議論しています。ヘーゲルは無限進行は本当の無限ではないとして、真無限というのを論じるのですが、真無限とは何かというと、一つの或るものが、或るものとしての質をもちながら質的に無限に高まっていく形態と考えています。質的に無限に高まっていけば、そのものの本来あるべき姿に無限に接近していくことになり、それをヘーゲルは観念性と呼んでいます。真無限を述べた後で、こんどは「無限とは有限でないものである」ということを問題としており、これも一定の正しいものがあるといっています。
 「ここに述べられた反省の無限は、真の無限に到達しようとする単なる試み、不幸な中間物にすぎない」「反省の無限」とは「無限とは有限でないもの」だというとらえ方のことです。これは本当の無限のとらえ方ではないのであって、こういうのは「不幸な中間物にすぎない」「これは、一般的にいって、近代のドイツにおいて、勢力を得た立場である」といっています。続いて「それは、有限なものは揚棄さるべきこと、無限なものは単に否定的なものにとどまらず、また肯定的なものであるべきことを説く」とあります。
 「真に無限なもの」というとき、ドイツ観念論ではこれは「絶対者」という言葉に置きかえて考えたらよいのです。その絶対者を別な言葉でいえば「絶対に真なるもの」あるいは「絶対的真理」です。つまりドイツ観念論では、有限なもの、客観世界に存在する全てのものは、それ自体として正しい姿で存在するものではない、という考えがあるのです。
 例えば「有限な事物は、そのうちに真実でないものを含んでいる」(㊤一二五ページ)とあります。だから有限な事物は滅びるものであり、したがって、有限なものそのままのものとしては、真実なものではないと考えるのです。真実なものは無限のものとしてあるので、その無限のものを探求するのが哲学の仕事だとします。つづいて「論理学の課題は、以上述べたような意味における真理、すなわち自分自身との一致という意味における真理を研究することである「したがって論理学が問題とするのは、どのような形式が無限なものの形式であり、どのような形式が有限なものの形式であるか、ということである」。つまり無限なものを探求する、真なるものを探求する、それが哲学の仕事なんだといっています。だから「無限なものは単に否定的なものにとどまらず、また肯定的なものであるべきことを説く」(㊤二八八ページ)とあるなかの「無限なもの」は「真なるもの」と、 読みかえないとなかなか理解しえないのです。
 「近代のドイツにおいて勢力を得た立場」とはカントやフィヒテのことをさしているのですが、カントやフィヒテは真なるものは肯定的なものである「べき」ことを説いたのです。言いかえれば「当為」を説いたのです。あるべき姿が当為なのです。つまりカントの考え方というのは、真なるものというのは善を実現すべしという当為にあるというものです。
 それに対してヘーゲルは、カントやフィヒテが無限なもの真なるものを肯定的なものとしてとらえている点では評価できるが、無限なもの、真なるものを、単に当為として、あるべき姿としてとらえることにより、それが現実の力に転化することまでは示していないという点では、カントやフィヒテの哲学は無力なんだ、と批判しています「このべしのうちには常に、或るものが正しいと認められながらも自己を実現しえない無力がある」(㊤二八九ページ)。カント、フィヒテの真なるものは、当為であるとして、無限の彼方におき、到達しえない彼岸だとしてしまうから、いくらその当為が正しいとしても、現実には何の影響も及ぼさない無力なものにすぎないのです。そういう実現もしないような理想は、おかしいではないかとヘーゲルはいうのです。
 エンゲルスはヘーゲルをよく読み込んでいます。『フォイエルバッハ論』のなかで「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という文章をとらえて、ここにヘーゲルの革命的真髄が表れているとエンゲルスはいうのですが、これはすごく鋭い指摘です。つまりエンゲルスは理念と当為(ゾレン)の違いを見抜いているのです。当為にとどまったのがカントやフィヒテであり、理念に到達したのがヘーゲルです。
 ヘーゲルは「理念は単にゾレン(当為)にとどまって現実的ではないほど無力なものではない」(㊤七一ページ)といいます。カントやフィヒテはあるべき姿はどこまでも目標であって、決して到達できないものだとみたのですが、ヘーゲルは真にあるべき姿は現実になる力をもっているといっているのです。そういう点で、現実に転化する力をもたない、単なる目標にすぎない「当為」にとどまるカントやフィヒテの立場を、無力な思想なんだといってヘーゲルは批判しているのです。そのような点でも、当為の問題と概念(この最高の段階が理念)をしっかり区別する必要性を、ここでも私は感じた次第です。その部分を五五節で少しみてみましょう。

 ところがカントは、このような最高の理念を考察するにあたって、思想の怠慢とも呼ぶべきもののために、ゾレンというようなあまりにも安易な逃道を求め、究極目的が現実に実現されることをみとめず、あくまで概念と実在との分離を主張している。しかし生命ある有機体や、芸術美が現に存在しているということは、感覚や直感にたいしてさえ、理想(Ideal)〔理念と実在との統一〕の現実性を示している。だからここで取り扱われているような対象にかんするカントの考察は、人々を具体的な理念の把握及び思索に導き入れるに特に適しているものであろう。

 カントが最高の理念をゾレンだとみていることを、ヘーゲルは思想の怠慢だといっています。なぜ思想の怠慢かというと、最高の理念(=究極目的)が「現実に実現されることを認めず、あくまで概念と実在との分離を主張している」からです。理想は理想にとどまり、到達できない目的だといっているが、これは思想の怠慢にすぎないと批判しているのです。理想とは、現実化する必然性をもつものでなければだめなんだ、それが私のいっている理念なんだ、ということをヘーゲルはいいたいのです。

 カントおよびフィヒテの哲学は倫理にかんしてこのようなべしの立場に立ちどまっていた。理性的法則への果てしない接近が、このような方法で達せられる極限であった。そしてこうした要請の上に魂の不滅が基礎づけられたのである。

 カント、フィヒテは、理想を追求することではいいところまでいったが、理想を現実化するものとしてとらえる点までは展開することができなかった。結局、それは無限なものを正しくとらえなかったことから来ているんだ、というわけです。

真無限は、有限と無限の統一

 九五節 (ハ)ここに実際見出されることは、或るものが他のものになり、そしてこの他のものが一般にまた他のものになるということである。或るものは、他のものとの関係のうちで、それ自身すでにこの他のものにたいして一つの他のものである。したがって両者は他のものであるという同一の規定をもつにすぎず、或るものが移っていくところのものは、移っていく或るものと全く同じものであるから、或るものは他のものへ移っていくことによって、ただ自分自身と合するのである。このように移行および他者のうちで自分自身と関係することが真の無限である。あるいは、否定的にみれば、変化させられるものは他のものであり、それは他のものの他のものになる。このようにして有が否定の否定として復活させられる。この有が向自有(Fürsich-sein)である。

 ここは少しヘーゲル流のへ理屈なのです。特に真無限と向自有の関係をいいたいのですが、それを何とか理屈で引っぱり出そうとして無理をしているのです。或るものがその限界を超えたら他のものになっていく。しかし他のものといっても、数あるものの一つにすぎないのだから、或るものといってもよいのです。だから或るものが他のものになるというけれども、それは結局、或るものが或るものになるのと同じことである。したがって、或るものは他のものになったようにみえるけれども、実際は自分自身にとどまっている。それが真の無限であるというのです。真の無限をいいたいために、このようなことをいったのです。
 ヘーゲルがいっている真無限というのは、質的に無限に高まって真にあるべき姿に接近していく姿をいっているのです。認識論からいえば、絶対的真理への無限の接近のことです。存在論としては、自己の人格を無限に磨き上げて真の人間に近づいていくことを考えています「このようにして有が否定の否定として復活させられるこの有が向自有である。真無限の有が向自有だ、というのです。向自有というのは、また後ほど学習します。
 有論というのは、有―定有―向自有と展開していきますが、これを成―定有―向自有と読み替えれば、即自―対自―即対自の関係であることがわかります。つまり成では、すべてのものは運動・変化することをみている。定有では、すべてのものは相対的な固定性においてとらえられている。向自有というのは、成と定有の統一です。つまり向自有とは、定有が定有としての質を保ちつつ、成として無限に変化していくことを意味しており、それは質的無限性であり、質の完成された姿ということができる。質が無限に高まって、そのあるべき姿に接近していくことをイメージしているのです。

 有限と無限との対立を克服しがたいものとする二元論は、次のような簡単なことをみのがしているのである。すなわち、このようにすれば、無限は二つのもののうちの一つにすぎなくなり、したがって無限なものは一つの特殊なものとされ、それに対して有限なものがもう一つの特殊をなしている、ということである。一つの特殊なものにすぎないような無限、有限とならんで存在し、したがって有限なものにその制限、限界をもっているような無限は、本物でない。それは無限ではなくて、有限にすぎない。

 無限というものを有限との対立においてとらえる二元論、つまり有限と無限の二つのものが併存するというとらえ方はまちがっているし、くだらないといっています。なぜかというと、それは無限のものを有限のものと同じレベルでとらえているからです。
 「有限なものにその制限、限界をもっているような無限は、本物でない。それは無限ではなくて、有限にすぎない。つまり有限との対立においてとらえられる無限は、有限によって限界づけられているのですから、それは本物の無限ではない」。有限なものはここに、無限なものはあそこにと、川の両岸に有限と無限が立っているような二元論は、ありふれた形式論理学にすぎません。有限と無限が統一としてあるのが本当の無限なんだ、ということです。つまり、無限が川の向岸にあって手の届かない存在なのではなくて、有限な世界、われわれの住んでいる世界のなかにおける無限としてとらえるべきであり、それが真無限だということがいいたいのです。

 ここには、無限進行が表現しているのと同じことが行われているのであって、一方では有限なものは即自対自的には存在しないこと、それは独立の現実性、絶対の存在を持たないこと、それは一時的なものにすぎないこと、を承認しながら、他方ではこのことをすぐに忘れて、有限なものは無限なものにあくまで対峙し、無限なものから全く切りはなされ、滅亡を免れて独立に恒存すると考えているのである。――思惟はこのようにして無限なものまで自己を高めるのだと思っているが、事実はその反対であって、このようにしては思惟は、単に有限者にすぎない無限者に到達するにすぎず、自分では乗りこえたと思っている有限者を常に手許にとどめ、それを絶対的なものとしているのである。

 二元論は、一方では、有限なものは一時的であって絶対の存在ではないことを認めながら、他方では、有限なものを無限なものと同じレベルでとらえ、有限なものを無限なもの、つまり絶対的存在にまで高めたと錯覚している。しかし実際には、むしろ無限なものを有限なものに引き下げたにすぎないとヘーゲルは批判しているのです。
 有限と無限の関係もそうですが、ヘーゲルは一般的に対立するものを媒介のない対立においてとらえることを絶対にしません。どんな対立も常に媒介においてとらえるのです『空想から科学へ』のなかに「形而上学者はものごとをもっぱら媒介のない対立のなかでのみ考える。しかりしかり、いないな、これにすぐるは悪より出ずるなりである」(古典選書版五〇ページ/全集⑲二〇〇ページ)という文章が出てきます。弁証法においては、対立するものを媒介されたものとしてみるのであって、対立物を切り離されたものとしてみないのです。これが対立物の統一のもつ、意味の一つです。対立物の統一ということの意味はいろいろあり、統一といってもよいし、同一といってもよいし、相互浸透といってもよい。いろんな意味あいを含んで統一といっています。
 この有限と無限という対立物の関係も、川の両岸に分かれていて行き来することのない、切り離された、媒介のない対立としてとらえてはなりません。有限と無限とは相互に浸透し合い、つまり有限のなかに無限があり、無限のなかに有限があるとみなくてはならない、ということをいっているのです。その無限というのは質的無限性という意味です。だから、量的無限である無限進行は議論する必要がないものだという言い方になるのです。

 以上、悟性による有限と無限との対立の空無であることを考察してきたが(プラトンフィレボスを参照すると役に立つ)、するとわれわれはここでもまた「だから無限者と有限者とは一つである」とか「真実なもの、真の無限は無限者と有限者との統一として規定され、言いあらわされる」というような表現を思いつきやすい。このような表現には正しいところもあるが、しかしそれは、先に有と無との統一について注意したと同様に、一面的であり誤っている。更にそれは、無限を有限化し、有限な無限を説くものだという、もっともな非難を招くであろう。というのは、このような表現においては、有限なものがそのままにしておかれるようにみえ、有限者は揚棄されたものであることが明白に表現されていないからである。――あるいはまた人々はこう考えるであろう。有限なものが無限なものと同一とされるならば、有限なものは、この統一の外においてあったままにはとどまりえず、少くともその規定は或る程度の変化を受けるであろう(丁度、加里が酸と結合するとその性質のうちの或るものを失うように)、したがってまた丁度同じことが無限者にも起り、それは否定的なものとして同じくその他者によって鈍らされるであろう、と。


 有限と無限とを媒介のない対立においてとらえるのはまちがいだといいました。では、有限と無限は統一されているといったらそれでよいのかというと、それも十分ではないのです。統一という表現では、有限者が有限な存在でありながら、無限に発展し、有限を揚棄する意味が表現されていません。したがって統一という言葉は、一面では正しいが一面では誤っています。統一という言い方をすると、有限と無限とは同じものとも受け取られやすいし、また有限と無限とが一緒になって中和されたもののようにも取られやすい。統一という言い方は、それはそれとしてよいのだけれども、統一ということの中味は何なのかということをよく考えておく必要があるだろう、ということです。では、どう考えればよいのでしょうか。

 実際、悟性が考える抽象的で一面的な無限者には、こうしたことが起るのである。しかし真に無限なものは、単に一面的な酸のような態度をとるのではなく、それは自己を保持する。否定の否定は中和ではない。無限者は肯定的なものであり、有限者だけが揚棄されるものなのである。これが真無限の結論なんです。無限者は肯定的なものなのです。無限者は悪無限のように常に否定を重ねていくものではありません。有限なものは、有限なものでありながら無限に質的に発展する無限者として、有限者たる自己を揚棄しているのです。


有限者の真理は観念性

 向自有(Fürsichsein)において観念性(Idealität)という規定がはいってくる。定有は、まずその有あるいは肯定の方面からのみとらえられた場合、実在性(Realität)を持っているから(九一節)、したがって有限性もまた最初は実在性の規定のうちにある。しかし有限者の真理はむしろその観念性にあるのである。有限なものと並存させられ、それ自身二つの有限なもののうちの一つにすぎない悟性の無限もまた、同様に真実でないものであり、考えられただけのもの(ein ideelles)である。有限者の観念性は哲学の主要命題であり、したがってあらゆる真の哲学は観念論である。しかし重要なことは、定義すればすぐに一つの特殊なもの、有限なものとなってしまうようなものを無限なものと考えないことである。── ここで私がこうした区別にかなり長い注意をしたのはそのためであって、哲学の根本概念である真の無限は、この区別にかかわっているのである。この区別は本節でなされた省察、全く単純であるために目立たないかもしれないが、しかし反駁しがたい省察によって明かにされている。

 「哲学の根本概念である真の無限」については先ほど述べました。哲学の目的は真なるものの探求にあり、真なるものを絶対者ととらえて、その絶対者は何なのかを探求していったのが、ドイツ観念論哲学なのです。ヘーゲルは自分の哲学を「観念論」哲学だといっています。彼がいう観念性という言葉は、唯物論に対立する意味の観念論とは違った意味で使われています。そこを誤解がないようにしなければなりません。
 「向自有(Fürsichsein )において観念性(Idealität )という規定がはいってくる」。向自有というのは質的無限性です。質的無限性というのは、質が単に無限に変わるといういうことでなく、質がその本来のあるべき姿に向かって変わっていくことです。質的無限性でもいろんな方向への発展があると思いますけれども、そのものの真にあるべき姿に無限に接近する発展が向自有なのです。真無限としての向自有において、観念性という規定が入ってきます。この観念性というのは、理念性とか理想性と言いかえることができます。九一節の実在性に続いて、向自有というカテゴリーのなかで理念性の問題を扱っています。真にあるべき姿に向かって無限に質的に発展していく定有が、向自有なのです。向自有というのは、日本語訳ではわかりにくいのですが、ドイツ語の意味は「それ自体で存在する」ということです。つまり、定有は他のものとの関係で存在するのですが、向自有というのは、自分だけで存在する、他のものとは関係なしに存在し、自己発展するものをみているのです。
 もう一ついうと、ヘーゲル哲学はプラトン哲学のイデア論の影響をものすごく受けています。イデアとは本来あるべき理想の姿のことです。プラトンは、本来のあるべき姿はちょうど鋳型の原型みたいなものであって、鋳型の原型に合わせて個々のものは作られていると考えます。つまり個々のものとは別にそれ自体で存在するもの、それがイデアだというのです。この場合の「それ自体」がドイツ語でいえば、なんです。向自有の「向自 Für sich」と同じ意味です。つまり向自有の「向自」という言葉自体に「イデア」に接近している意味が含まれているのです。それで向自有というのは観念性なんだ、というのです。
 だからヘーゲル哲学は非常に独自な用語を使っているようにみえるけども、哲学史のなかの用語をヘーゲルなりに利用しているということなんです。プラトンのイデアというのは、向自的に存在するものですから、向自有とイデアは非常に近い関係があるのであって、そういう点で向自有において、イデアのもつ観念性という契機が入っているんだ、といっているのだと思います。
 「定有は、まずその有あるいは肯定の方面からのみとらえられた場合、実在性をもっている」とありますが、この実在性は、九一節の実在性、つまり現実性という意味です「したがって有限性もまた最初は実在性の規定のうちにある。定有するものの真理は、一見すると現実性、現に存在していることにあるようにみえます「しかし有限者の真理はむしろその観念性のうちにあるのである」。つまり定有するものは、無限に、イデアに近づくことによって、本当のあるべき姿になって行くのです。そのことを「有限者の真理はむしろその観念性にある」といっているのです。
 「有限なものと並存させられ、それ自身二つの有限なもののうちの一つにすぎない悟性の無限もまた、同様に真実でないものであり、考えられただけのものである」。先ほど悪無限は有限と対立する無限といいましたが、定有するものの真理は、悪無限ではないのです「有限者の観念性は哲学の主要命題」とありますが、定有するものの本来のあるべき姿はいったい何なのかを探求することが、哲学の主要命題なのです。「したがってあらゆる真の哲学は観念論である」。真の哲学は、絶対に真なるものは何なのかを探求することにあり、それは理念、理想を追求するという意味で、観念論(理想論)だというのです。ヘーゲルが真無限をいってきたのは、このような観念性とか、イデアとか、概念あるいは理念とかを議論したいがためなのです。


c 向自有(Fürsichsein)

向自有は一者

 九六節 (イ)向自有は、自分自身への関係としては直接性であり、否定的なものの自分自身への関係としては向自有するもの、すなわち一者(das Eins)である。一者は自分自身のうちに区別を含まないもの、したがって他者を自己から排除するものである。

 向自有は二つの側面をもっています。一つはいわば定有の完成された姿、質の完成された姿です。したがって向自有が質の一番最後に位置づけられます。二つは向自有は質から量に移行するカテゴリーですから、量の最初だという側面がでてきます。この二つのことを向自有のところで議論しており、少しわかりにくいのです。
 「向自有は、自分自身への関係としては直接性」とありますが、向自有というのは他のものとの関係なしに、それ自体で存在するものです。他のものに媒介されない点では直接性です「否定的なものの自分自身への関係としては向自有するもの、すなわち一者である」。向自有は無限に発展していく質ですから、絶えざる自己の否定となり、それが「否定的なもの」です「自己自身への関係」とは、絶えざる自己否定をして発展していくもの、という意味であり、それが「向自有するもの」です。
 先ほど「定有するもの」は「或るもの」だといいましたが、それと同じように「向自有するもの」は一者だというのです。なぜ突然「一者」が出てくるのかと思われるでしょうが、これはプラトンのイデア論の影響です。イデアは鋳型の原型ですから、一つしかありません。一つの原型から多数の個別が誕生するのです「一者は自分自身のうちに区別を含まないもの、したがって他者を自己から排除するものである」。一者というのは鋳型ですから、一つの鋳型から他者なる鋳造の製品を次々と生み出していき、それを「他者を自己から排除する」といっているのです。
 要するに、向自有から「一」というカテゴリーを導き出し「一」から「多」というカテゴリーを導き出し「一」と「多」という関係から量に移行するという論理の展開になっています。最初、どうして向自有が一者なのか私にも理解できなかったのですが、イデア論によるものだと知って、納得しました。

向自有は完成された質

 九六節補遺 向自有は完成された質であり、そのようなものとして有および定有を観念的モメントとして自己のうちに含んでいる。向自有は、としては単純な自己関係であるが、定有としては規定されている。しかしこの規定性はもはや、他のものから区別されている或るものにみられたような有限な規定性ではなく、区別を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる無限な規定性である。

 向自有は、無限に発展していって真にあるべき姿に近づいていく定有です。ですから向自有は「完成された質」なんです。向自有は定有なのですが、定有のもつ相対的固定性をのりこえ、たえず自己否定を繰り返し、古い自己を新しい自己から区別し、自己の質を完成にむけて無限に発展させるような定有なのです。その意味で、向自有は、成と定有の統一であり、無(成)と有(定有)との統一です。

 向自有の最も手近な例は自我である。われわれは、定有するものとして、自分がまず他の定有するものから区別され、そしてそれに関係していることを知っている。しかしわれわれは更に、定有のこの拡がりが、言わば尖らされて向自有という単純な形式となることを知っている。我と言うとき、それは無限であると同時に否定的な自己関係の表現である。人間は自己を我として知ることによって動物から、したがって、また自然一般から区別される、と言うことができる。自然の事物は自由な向自有に達せず、定有に限局されたものとして常に「他のものへ向っている有(Sein fur Anderes)」にすぎないのである。

 「向自有の最も手近な例は自我である。自我とは、一個の人格をもつ一人ひとりの人間、実在する人間のことです」。人間は、真理に接近する意識の持ち主として向自有なのです。定有は他のものでないという限りにおいて横の拡がり(幅)をもっていることをお話ししました。これに対し、向自有というのは縦に拡がりをもっているのです。それをつまり「尖らされて」と表現しています。縦に拡がりをもっているとは、質的に無限に高まっていくことです。定有の段階では横に拡がっているのに対し、向自有は「尖らされて」いるのです。真にあるべき姿に向かってだんだんぜい肉が削りとられていく、そういうイメージです。
 「我と言うとき、それは無限であると同時に否定的な自己関係の表現である」。自我というものは、自己否定を繰りかえしていくことによって無限に発展していくものです「人間は自己を我として知ることによって動物から、したがって自然一般から区別される「人間は考える葦である」といわれていますが、葦というのは非常に弱い無力な存在です。自然のなかで人間ぐらい弱い存在はない。自分の力で生まれてくることさえできないし生まれてから一年間は立つことさえできない。人間以外にそんな動物はおりません。しかし、考えるというところに人間の人間たるゆえんがある。つまり「人間は自己を我として知る」ということは、常に自分というものを考え続ける、そのことによって人間は他の「動物から、したがって、また自然一般から区別される」のです。
 「自然の事物は自由な向自有に達せず、定有に限局されたもの」とは、自然の事物というのは、自己意識をもっていない存在ですから、自らを質的に高めることができないのです。ところが人間は自己意識をもった存在として自分自身を客観的にみつめ、自分自身を高めることができる。だから、自然の他の事物とは違うんだといっています。自然の事物は定有にとどまっていて、向自有までいかない。人間だけが向自有する。これがヘーゲルのとらえ方です。しかし、質的に無限に発展するのは人間だけではないと思います。人間は目的意識的に発展するのだけれども、生物一般もやはり自然の流れのなかで内的目的をもち無限に発展するので、そういう意味では向自有するものでしょう。ですが、典型的な例としては人間がふさわしいということでしょう。

向自有とは、観念性

 更に、定有は実在性であるが、向自有は観念性と考えられなければならない。人々はしばしば、実在性観念性とを同等の独立をもって対峙している一対の規定と考え、実在性のほかに観念性もまた存在すると言う。しかし観念性は実在性の外部に実在性と並んで存在する或るものでなく、観念性の概念は実在性の真理であることにあり、実在性が即自的にあるところのものとして定立されるとき、それは観念性として自己を示すのである。

 定有は実在性(現実性)であり、定有するものは現に存在する個々のものです。それに対し、向自有は観念性、真にあるべき姿に向かって無限に前進するという意味の観念性です。実在性と観念性を横に並べて考えるのはまちがいであり、縦につながっているんだというのです。実在性の真理が観念性である。つまり現に存在するものの本当の姿、本当のあるべき姿を追求していくと観念性になってくる。二つが横に並ぶのでなく、縦につながっていて、観念性が上にあり、実在性が下にあり、実在性が観念性に向かって前進する。そういうものが向自有です。定有として実在するものが、本来そのもののあるべき姿として定立されるとき「観念性として自己を示す」のです。この場合の「即自的」は「本来的」というような意味です。

 したがって人は、実在性がすべてではなく、そのほかになお観念性をも認めなければならないことを承認しただけで、観念性を正当に評価したのだと考えてはならない。実在性と並んで存在するような観念性、あるいは、たとい実在性を越えた観念性でも、実際は空虚な名前にすぎない。観念性は、或るものの観念性であるときのみ、一つの内容を持つのである。もっとも、或るものと言っても、この場合それは単に無規定のあれこれをさすのではなく、それだけ切りはなして固定すればなんらの真理をも持たないところの、実在性として規定された定有を言うのである。

 実在性のほかに観念性を認めただけでは、観念性を正当に評価したことにはなりません。というのは「実在性」と「観念性」とを並列でとらえるのではだめなんだということをいって、横に並べるのではなく縦につながらせなくてはいけない、ということをいいたいのです。
 「観念性は、或るものの観念性であるときのみ、一つの内容をもつのである」とは、あるべき姿一般というものはないという意味です。例えば、人間のあるべき姿、馬のあるべき姿というものはあるが、単に一般的な、個々の物と無関係なあるべき姿というものは存在しないのです。だから「観念性は、或るものの観念性であるときのみ、一つの内容をもつ」のです。これもプラトンが、個々のもの一つひとつにイデアがあるというのを、念頭に置いているのです。「この場合それは単に無規定のあれこれをさすのではなく、それだけ切りはなして固定すればなんらの真理をも持たないところの、実在性として規定された定有をいうのである」。人とか犬とか馬とか机とか椅子とか、そういう個物として存在する定有の観念性を議論してはじめて観念性が意味をもつのです。

 自然と精神との相違は、両者がそれぞれの根本規定である実在性および観念性に還元されるところにある、と人々が考えたのは一応正しい。しかし自然は自然だけで完結したもの、したがって精神がなくても存立しうるものではなく、自然は精神のうちではじめてその目標および真理に到達するのである。同様に精神もまた自然の単なる彼岸ではなく、それは自然を揚棄されたものとして自己のうちに含むかぎりにおいてのみ本当に存在し、本当に精神なのである。

 ここに書いてある「自然と精神」は「物質(または存在)と意識」と読みかえることができます。物質と意識との相違は、実在性と観念性に還元される、といっているのです。ヘーゲルは、意識の創造性、能動性を高く評価します。人間というのは意識をもっているからこそ自然や動物と違っているというのです。客観的世界において存在しているものは、単に存在しているにすぎない。しかし、人間の意識はそうではなくてあるべき姿を追求するのです。
 「しかし自然は自然だけで完結したもの、したがって精神がなくても存立しうるものではなく、自然は精神のうちではじめてその目標および真理に到達するのである」。つまり、客観世界は有限な世界として不断に移りゆく存在にすぎないのであって、人間の意識的な働きかけによって、客観世界もその本来のあるべき姿をあらわにするのです。ここでヘーゲルは人間の労働による労働生産物のことを念頭においていると思います。例えば、人間の労働によって鉄鉱石から鉄を取り出す。鉄鉱石の本当のあるべき姿は鉄であり、それは人間の意識的な働きかけによってはじめて取り出すことができるということです。
 「同様に精神もまた自然の単なる彼岸ではなく、それは自然を揚棄されたものとして自己のうちに含む限りにおいてのみ本当に存在し、本当に精神なのである」。ここは、ヘーゲルが単なる観念論者ではないことの、一つの大事な証拠です。つまり人間の意識というのは物質と無関係に存在するものではなくて、物質を反映しながら物質を揚棄したものとして自己のうちに含む限りにおいて、本当に精神なのである、というのです。
 精神というのはあるべき姿を探求するのですが、あるべき姿をどこから導き出すのかといえば、頭のなかから導き出すのではないのです。物質の世界、客観世界、自然のなかから、自然を乗り越えるものとしてあるべき姿を見出す、それが人間の意識の働きだというのです。だからヘーゲルのいうあるべき姿は単に頭のなかで考えられたイデアではなくて、客観世界から導かれるイデアなんです。そこにヘーゲル弁証法の特徴があると私は思います。だからこの文章は大変大事なところです。
 

 ついでながらここでドイツ語のaufheben (揚棄する)という言葉が二重の意味を持つことに注意すべきである。aufhebenという言葉は一方では「除去する」「否定する」という意味をもっており、したがってわれわれは例えば、或る法律、制度、等々がaufheben(廃棄)されるという。しかしaufhebenという言葉はまた「保存する」という意味をも持っており、この意味でわれわれは或るものがよくaufheben(保存)されていると言う。このように同じ言葉が否定的な意味と肯定的な意味とに用いられる二義性を偶然とみてはならない。ましてそれを混乱の原因であるとして、ドイツ語を非難する種にしてはならない。われわれはむしろそのうちに、単に悟性的な「あれかこれか」を越えているドイツ語の思弁的精神を認識しなければならない。

 思弁的というのは、弁証法的と同じ意味です。ヘーゲルは自分の哲学を思弁哲学といっていますが、これは弁証法哲学といってもいいのです。ドイツ語のaufhebenという言葉は「揚棄」と訳されていますが、ドイツ語にも日本語訳にも二つの意味が含まれています。一つは「否定する」であり、一つは「保存する」です。つまり「否定しつつ保存する、そういう概念としてヘーゲルはaufhebenを使っています。われわれの用語でいえば弁証法的否定です。全否定、清算主義的否定ではないのです。だから、われわれの真にあるべき姿というのも、客観世界を否定しながら保存しているんです。つまり客観世界のなかからしか導き出せないという点では客観世界を保存するものだけれども、客観世界をそのまま反映するのではなく、客観世界を否定し、それを乗りこえて導き出すという点では否定している。ですから、このaufhebenという「言葉が否定的な意味と肯定的な意味とに用いられる」ことを「混乱の原因」だと考えてはいけないのであって、むしろそこにドイツ語のもつ用法自身の弁証法があると、ドイツ語の優秀さをヘーゲルは自慢しているのです。

《質問と回答》

 最初の質問は、向自有に関するものです。向自有は日本語としては使われない言葉ですから非常にイメージしにくいのですが、もともとのドイツ語の意味は他のものとの関係なしに自分だけで存在するものという意味です。有論のなかの「質」のところの目次をみていただきたいのですが、有論のなかの質というのは、有・定有・向自有となっています。「有」というのは単にあるという無規定な存在「定有」というのは何か質をもったものとして存在するもの「向自有」というのは質をもったものだけれども、それが自らの質を無限に高めるようなそういう定有です。
 ヘーゲルは「向自有の最も手近な例は自我であるということをいっています。どういうこ」(㊤二九三ページ)とかといえば、人間というのは生まれてから死ぬまで自分自身は変らないのですけれども、変らないなかでさまざまな経験をつみ、勉強もしながら自分の質を無限に高めていくのです。そういう無限に発展する存在を向自有ということでイメージしているのです。
 質問は「向自有の最も手近な例は自我である」の次の文章「われわれは、定有するものとして、自分がまず、他の定有するものから区別され、そしてそれに関係していることを知っている」のなかで「他の定有するものから区別」とあるが「友人とか妻子や親などと考えてよいのか」というものです。つまり向自有を自我と考えた場合「他の定有するもの」とは、友人、妻子、親などをさすということでよいのかという質問です。それはまちがっているとはいえないのですが、哲学ですから、もう少し理論的に考える必要があります。
 自我という「定有するもの」は、その人をとりまくすべての人から区別されて存在するのです。ですから、最も自分の身近な家族や友人に限定する必要は全くありません。その人は家族のなかでは親や妻子に囲まれて生活することもあるでしょうし、学校では他の先生や生徒とのかかわりあいのなかで存在するでしょう。職場のなかでは仲間とのかかわり、あるいは使用者とのかかわりで存在するでしょう。つまり或るものは他のものではないということで、自我をとりまくすべての他のものとのかかわりのなかで、或るものとして存在するのです。そういう意味で、友人、妻子、親といってもまちがいではないが、もう少し、より広くとらえなくてはいけません。自我以外のすべてのものとのかかわりとしてとらえる必要があります。
 もう一つ指摘しておきますと、ここの文脈は、自我という定有を、他のものと関係するという横の広がりにおいてとらえるのではなくて、むしろ「尖らされて向自有」となるという、後段のところに意味があるのです。つまり定有一般は或るものと他のものとの関係で存在するのですけども、向自有はそうではない。向自有は他のものとの関係ではなく、もっぱら自己との関係においてのみ存在する。自分自身が他のものとの係わりなしに無限に質的に発展する姿を、向自有としてとらえているのです。
 定有するものというのは他のものではないということで、他のものとのかかわりで存在するのですから、他のものとの関係という広がりをもっています。紐という定有は、糸ほど細くはないし、綱ほど太くもない。糸でもないし綱でもない、そのような太さの「広がり」をもった存在が紐なのです。だから定有は横に広がりをもつのです。だけども向自有は、他のものとの関係をもたないから横に広がらないのです。ではどちらの方向に行くのかといえば、縦にいく、それをヘーゲルは「尖らされて」といっています。広がりをもっているのではなく、尖っている。尖るとはどういうことかというと、或るものが他のものとの関係なしに、どんどん自分自身の余計なものを捨てて、質的に無限に前進していくところを表現しています。
 二つ目の質問です。定有のところで或るものと他のものとの関係で述べた時、例として親も子も同じ年齢だということを話しました。子供が生まれた時に子供は〇歳だけれども、子供を生んだ母親もそれまでは妻だったのが、子供を生むと同時に母親になる。だから生んだばかりの子供も〇歳だし、母親としても〇歳で、そのような意味で親と子は同じ年齢だという話しをしました。もう一つの例として、先生と生徒の関係も話しました。生徒がいてはじめて先生になるのであって、生徒のいない先生というのはいないのです。これに関連して「先生も生徒も個人的にはそういう関係をもつスタートは同じであるということか」という質問がありました。
 回答としては「そういう関係をもつスタートは同じである」といってよいのですが、いいたかったことは、こうした例は、連関の普遍性を述べたものだということです。すべてのものはバラバラでは存在しないこと、すべてのものは他のものとの関連においてのみ存在してバラバラには存在しないことを親と子、先生と生徒の関係のなかで述べたつもりです。
 それから三つ目の質問です。九五節の「しかし真に無限なものは、単に一面的な酸のような態度をとるのではなく、それは自己を保持する」がよく理解できない、どういう意味なのかというものです。
 無限というカテゴリーを議論するとき、ヘーゲルは真無限と悪無限という二つの無限を区別しているということを講義で述べました。悪無限とは無限進行です。真無限とは何かといえば、有限と無限の統一だとヘーゲルはいうのです。イメージとしては、有限のなかに無限があるといいましょうか、無限に質的に発展する有限者・有限なものです。先ほどの自我の例でいいますと、自我は有限な存在、有限者です。有限だけれどもそれが無限に質的に発展していく、そういう有限者のなかにある無限、これを有限と無限の統一と呼んでおり、それが真無限だといっているのです。
 真に無限なものは有限と無限の統一としてあるのですが、両者の統一というと酸とアルカリを一緒にした中和のような感じがします。しかし、有限と無限をたして中和したものが真無限かといえば、そうではないというのです。無限は有限と統一しても「自己を保持する」のです。無限は有限との関係においても変貌することなく自己を貫いているということです。有限と無限の統一といっても、無限は有限のなかで自己を貫き通しているという意味で「自己を保持する」といっているのです。
 真無限では、有限者は有限者でありながら質的に無限に発展する無限者なのです。その意味で、有限者は揚棄されるのです。それで真無限においては「無限者は肯定的なものであり、有限者だけが揚棄される」(二九二ページ)とあるのです。真無限においては、無限は有限なもののなかの無限として自己を保持していくのに対して、有限なものはその有限性を揚棄されて、質的に無限に発展していくのです。
 四つ目の質問です。第九六節の冒頭の説明で「向自有は自分自身で自己発展するものといわれたけれども、それだけで存在するということと自分自身で発展するということは同じことでしょうか」というものです。
 定有は他のものとの関係においてのみ有をとらえるのですけれども、向自有は定有と違って他のものとは関係なしに定有それ自体において有をとらえるのです。そういう意味で向自有は、自分自身だけで存在するということになるのですが、自分自身だけで存在して、ではじっとしているのかというと、そうではありません。じっとしているのであれば、定有と変わらないことになってしまいます。向自有というのは他のものと関係なしに自分自身で存在するのだけれども、同時に有を質的に無限に発展させるカテゴリーとしてヘーゲルはとらえているのです。ですから質問への回答は「同じではない」ということになります。こういうカテゴリーが客観世界の法則性をとらえるうえでは必要だということをいっているのです。
 つまり、世界のいろいろな現象を法則的にとらえようとしたときには、向自有というカテゴリーが必要なのです。自分だけで存在しながら、同時に質的に無限に発展していくような或るものをとらえる必要がある。とりわけ生物をとらえる場合、絶対このカテゴリーがいるのです。有機体は自分自身で自己運動します。自己運動するということは、自分だけで存在するということですから、これはやはり向自有なのです。自己運動をするものをとらえるためには向自有というカテゴリーがいるのです。
 続いて質問のなかに「自分自身で発展するだけでなく、外からの力で発展することも必要ではないのか」というのがありました。もちろん自己発展することもあるし、外からの影響で発展することもあるでしょう。しかし今ここで問題にしているのは、自分自身の力で発展する、そういうカテゴリーを議論しているのです。そのような問題として理解しておけばよいのではないかと思います。
 最後です「科学的社会主義の哲学でいわれていることの原型がヘーゲルにあることがよくわかりました。例えば、真理とは何かというような問題についてそう思いました」という意見がありました。
 今ここで真理論を述べるのはまだ少し早いのですが、科学的社会主義の哲学とヘーゲルとの関連を述べておきますと、科学的社会主義の哲学は、人類がつくり出したすべての価値あるものの集大成として誕生しています。三つの源泉の一つにドイツ古典哲学があげられますが、ドイツ古典哲学をやっておけばそれでよいのかというと、そうではないのです。ドイツ古典哲学はヘーゲルを頂点としているのですが、ヘーゲルは、哲学史の講義を一〇回もやっていて『哲学史』という本になっているように、ギリシャ哲学にさかのぼって古今東西の哲学を勉強し、そのなかで自分の哲学をつくりだしているのです。だからヘーゲル哲学というのは、人類の価値ある知識を学んで、そのうえに自らの新しい哲学をつくろうとしている点では、科学的社会主義の立場と共通のものがあります。われわれも科学的社会主義の哲学を人類の知識の総和として学ぶために、今ヘーゲルを学んでいるのです。本当に哲学を深く学ぼうと思えば、哲学史を全体として学ぶ必要があるのです。そういう意味でもヘーゲル哲学を学ぶ意義があります。ところでヘーゲルの真理観と科学的社会主義の真理観とは重なっているところもあるけれども、くい違っているところもあります。これは後の「概念論」のなかで詳しくやります。
 簡単にいうと科学的社会主義の真理観というのは、真理を認識の問題だとします。つまり客観的事実を正しく反映したものが真理だという認識の問題としてとらえる。ヘーゲルの真理観はそれとは違い、いわゆる認識論と同時に存在論としての真理です。客観世界にあるものが真にあるべき姿として客観化される、認識の問題だけではなくて客観世界が実現される、そういう存在論の問題としても真理をとらえる点で、違いがあります。これは追々に話していかなければならない問題だと思っています。

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