『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より
前期第七講 有論・質 Ⅴ理念と当為 今日は九四節補遺の途中からです。ここでは有限と無限、悪無限と真無限ということを議論しています。ヘーゲルは無限進行は本当の無限ではないとして、真無限というのを論じるのですが、真無限とは何かというと、一つの或るものが、或るものとしての質をもちながら質的に無限に高まっていく形態と考えています。質的に無限に高まっていけば、そのものの本来あるべき姿に無限に接近していくことになり、それをヘーゲルは観念性と呼んでいます。真無限を述べた後で、こんどは「無限とは有限でないものである」ということを問題としており、これも一定の正しいものがあるといっています。
カントが最高の理念をゾレンだとみていることを、ヘーゲルは思想の怠慢だといっています。なぜ思想の怠慢かというと、最高の理念(=究極目的)が「現実に実現されることを認めず、あくまで概念と実在との分離を主張している」からです。理想は理想にとどまり、到達できない目的だといっているが、これは思想の怠慢にすぎないと批判しているのです。理想とは、現実化する必然性をもつものでなければだめなんだ、それが私のいっている理念なんだ、ということをヘーゲルはいいたいのです。
カント、フィヒテは、理想を追求することではいいところまでいったが、理想を現実化するものとしてとらえる点までは展開することができなかった。結局、それは無限なものを正しくとらえなかったことから来ているんだ、というわけです。 真無限は、有限と無限の統一
ここは少しヘーゲル流のへ理屈なのです。特に真無限と向自有の関係をいいたいのですが、それを何とか理屈で引っぱり出そうとして無理をしているのです。或るものがその限界を超えたら他のものになっていく。しかし他のものといっても、数あるものの一つにすぎないのだから、或るものといってもよいのです。だから或るものが他のものになるというけれども、それは結局、或るものが或るものになるのと同じことである。したがって、或るものは他のものになったようにみえるけれども、実際は自分自身にとどまっている。それが真の無限であるというのです。真の無限をいいたいために、このようなことをいったのです。
無限というものを有限との対立においてとらえる二元論、つまり有限と無限の二つのものが併存するというとらえ方はまちがっているし、くだらないといっています。なぜかというと、それは無限のものを有限のものと同じレベルでとらえているからです。
二元論は、一方では、有限なものは一時的であって絶対の存在ではないことを認めながら、他方では、有限なものを無限なものと同じレベルでとらえ、有限なものを無限なもの、つまり絶対的存在にまで高めたと錯覚している。しかし実際には、むしろ無限なものを有限なものに引き下げたにすぎないとヘーゲルは批判しているのです。
「哲学の根本概念である真の無限」については先ほど述べました。哲学の目的は真なるものの探求にあり、真なるものを絶対者ととらえて、その絶対者は何なのかを探求していったのが、ドイツ観念論哲学なのです。ヘーゲルは自分の哲学を「観念論」哲学だといっています。彼がいう観念性という言葉は、唯物論に対立する意味の観念論とは違った意味で使われています。そこを誤解がないようにしなければなりません。
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九六節 (イ)向自有は、自分自身への関係としては直接性であり、否定的なものの自分自身への関係としては向自有するもの、すなわち一者(das Eins)である。一者は自分自身のうちに区別を含まないもの、したがって他者を自己から排除するものである。 |
向自有は二つの側面をもっています。一つはいわば定有の完成された姿、質の完成された姿です。したがって向自有が質の一番最後に位置づけられます。二つは向自有は質から量に移行するカテゴリーですから、量の最初だという側面がでてきます。この二つのことを向自有のところで議論しており、少しわかりにくいのです。
「向自有は、自分自身への関係としては直接性」とありますが、向自有というのは他のものとの関係なしに、それ自体で存在するものです。他のものに媒介されない点では直接性です「否定的なものの自分自身への関係としては向自有するもの、すなわち一者である」。向自有は無限に発展していく質ですから、絶えざる自己の否定となり、それが「否定的なもの」です「自己自身への関係」とは、絶えざる自己否定をして発展していくもの、という意味であり、それが「向自有するもの」です。
先ほど「定有するもの」は「或るもの」だといいましたが、それと同じように「向自有するもの」は一者だというのです。なぜ突然「一者」が出てくるのかと思われるでしょうが、これはプラトンのイデア論の影響です。イデアは鋳型の原型ですから、一つしかありません。一つの原型から多数の個別が誕生するのです「一者は自分自身のうちに区別を含まないもの、したがって他者を自己から排除するものである」。一者というのは鋳型ですから、一つの鋳型から他者なる鋳造の製品を次々と生み出していき、それを「他者を自己から排除する」といっているのです。
要するに、向自有から「一」というカテゴリーを導き出し「一」から「多」というカテゴリーを導き出し「一」と「多」という関係から量に移行するという論理の展開になっています。最初、どうして向自有が一者なのか私にも理解できなかったのですが、イデア論によるものだと知って、納得しました。
向自有は完成された質
九六節補遺 向自有は完成された質であり、そのようなものとして有および定有を観念的モメントとして自己のうちに含んでいる。向自有は、有としては単純な自己関係であるが、定有としては規定されている。しかしこの規定性はもはや、他のものから区別されている或るものにみられたような有限な規定性ではなく、区別を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる無限な規定性である。 |
向自有は、無限に発展していって真にあるべき姿に近づいていく定有です。ですから向自有は「完成された質」なんです。向自有は定有なのですが、定有のもつ相対的固定性をのりこえ、たえず自己否定を繰り返し、古い自己を新しい自己から区別し、自己の質を完成にむけて無限に発展させるような定有なのです。その意味で、向自有は、成と定有の統一であり、無(成)と有(定有)との統一です。
向自有の最も手近な例は自我である。われわれは、定有するものとして、自分がまず他の定有するものから区別され、そしてそれに関係していることを知っている。しかしわれわれは更に、定有のこの拡がりが、言わば尖らされて向自有という単純な形式となることを知っている。我と言うとき、それは無限であると同時に否定的な自己関係の表現である。人間は自己を我として知ることによって動物から、したがって、また自然一般から区別される、と言うことができる。自然の事物は自由な向自有に達せず、定有に限局されたものとして常に「他のものへ向っている有(Sein fur Anderes)」にすぎないのである。 |
「向自有の最も手近な例は自我である。自我とは、一個の人格をもつ一人ひとりの人間、実在する人間のことです」。人間は、真理に接近する意識の持ち主として向自有なのです。定有は他のものでないという限りにおいて横の拡がり(幅)をもっていることをお話ししました。これに対し、向自有というのは縦に拡がりをもっているのです。それをつまり「尖らされて」と表現しています。縦に拡がりをもっているとは、質的に無限に高まっていくことです。定有の段階では横に拡がっているのに対し、向自有は「尖らされて」いるのです。真にあるべき姿に向かってだんだんぜい肉が削りとられていく、そういうイメージです。
「我と言うとき、それは無限であると同時に否定的な自己関係の表現である」。自我というものは、自己否定を繰りかえしていくことによって無限に発展していくものです「人間は自己を我として知ることによって動物から、したがって自然一般から区別される「人間は考える葦である」といわれていますが、葦というのは非常に弱い無力な存在です。自然のなかで人間ぐらい弱い存在はない。自分の力で生まれてくることさえできないし生まれてから一年間は立つことさえできない。人間以外にそんな動物はおりません。しかし、考えるというところに人間の人間たるゆえんがある。つまり「人間は自己を我として知る」ということは、常に自分というものを考え続ける、そのことによって人間は他の「動物から、したがって、また自然一般から区別される」のです。
「自然の事物は自由な向自有に達せず、定有に限局されたもの」とは、自然の事物というのは、自己意識をもっていない存在ですから、自らを質的に高めることができないのです。ところが人間は自己意識をもった存在として自分自身を客観的にみつめ、自分自身を高めることができる。だから、自然の他の事物とは違うんだといっています。自然の事物は定有にとどまっていて、向自有までいかない。人間だけが向自有する。これがヘーゲルのとらえ方です。しかし、質的に無限に発展するのは人間だけではないと思います。人間は目的意識的に発展するのだけれども、生物一般もやはり自然の流れのなかで内的目的をもち無限に発展するので、そういう意味では向自有するものでしょう。ですが、典型的な例としては人間がふさわしいということでしょう。
向自有とは、観念性
更に、定有は実在性であるが、向自有は観念性と考えられなければならない。人々はしばしば、実在性と観念性とを同等の独立をもって対峙している一対の規定と考え、実在性のほかに観念性もまた存在すると言う。しかし観念性は実在性の外部に実在性と並んで存在する或るものでなく、観念性の概念は実在性の真理であることにあり、実在性が即自的にあるところのものとして定立されるとき、それは観念性として自己を示すのである。 |
定有は実在性(現実性)であり、定有するものは現に存在する個々のものです。それに対し、向自有は観念性、真にあるべき姿に向かって無限に前進するという意味の観念性です。実在性と観念性を横に並べて考えるのはまちがいであり、縦につながっているんだというのです。実在性の真理が観念性である。つまり現に存在するものの本当の姿、本当のあるべき姿を追求していくと観念性になってくる。二つが横に並ぶのでなく、縦につながっていて、観念性が上にあり、実在性が下にあり、実在性が観念性に向かって前進する。そういうものが向自有です。定有として実在するものが、本来そのもののあるべき姿として定立されるとき「観念性として自己を示す」のです。この場合の「即自的」は「本来的」というような意味です。
したがって人は、実在性がすべてではなく、そのほかになお観念性をも認めなければならないことを承認しただけで、観念性を正当に評価したのだと考えてはならない。実在性と並んで存在するような観念性、あるいは、たとい実在性を越えた観念性でも、実際は空虚な名前にすぎない。観念性は、或るものの観念性であるときのみ、一つの内容を持つのである。もっとも、或るものと言っても、この場合それは単に無規定のあれこれをさすのではなく、それだけ切りはなして固定すればなんらの真理をも持たないところの、実在性として規定された定有を言うのである。 |
実在性のほかに観念性を認めただけでは、観念性を正当に評価したことにはなりません。というのは「実在性」と「観念性」とを並列でとらえるのではだめなんだということをいって、横に並べるのではなく縦につながらせなくてはいけない、ということをいいたいのです。
「観念性は、或るものの観念性であるときのみ、一つの内容をもつのである」とは、あるべき姿一般というものはないという意味です。例えば、人間のあるべき姿、馬のあるべき姿というものはあるが、単に一般的な、個々の物と無関係なあるべき姿というものは存在しないのです。だから「観念性は、或るものの観念性であるときのみ、一つの内容をもつ」のです。これもプラトンが、個々のもの一つひとつにイデアがあるというのを、念頭に置いているのです。「この場合それは単に無規定のあれこれをさすのではなく、それだけ切りはなして固定すればなんらの真理をも持たないところの、実在性として規定された定有をいうのである」。人とか犬とか馬とか机とか椅子とか、そういう個物として存在する定有の観念性を議論してはじめて観念性が意味をもつのです。
自然と精神との相違は、両者がそれぞれの根本規定である実在性および観念性に還元されるところにある、と人々が考えたのは一応正しい。しかし自然は自然だけで完結したもの、したがって精神がなくても存立しうるものではなく、自然は精神のうちではじめてその目標および真理に到達するのである。同様に精神もまた自然の単なる彼岸ではなく、それは自然を揚棄されたものとして自己のうちに含むかぎりにおいてのみ本当に存在し、本当に精神なのである。 |
ここに書いてある「自然と精神」は「物質(または存在)と意識」と読みかえることができます。物質と意識との相違は、実在性と観念性に還元される、といっているのです。ヘーゲルは、意識の創造性、能動性を高く評価します。人間というのは意識をもっているからこそ自然や動物と違っているというのです。客観的世界において存在しているものは、単に存在しているにすぎない。しかし、人間の意識はそうではなくてあるべき姿を追求するのです。
「しかし自然は自然だけで完結したもの、したがって精神がなくても存立しうるものではなく、自然は精神のうちではじめてその目標および真理に到達するのである」。つまり、客観世界は有限な世界として不断に移りゆく存在にすぎないのであって、人間の意識的な働きかけによって、客観世界もその本来のあるべき姿をあらわにするのです。ここでヘーゲルは人間の労働による労働生産物のことを念頭においていると思います。例えば、人間の労働によって鉄鉱石から鉄を取り出す。鉄鉱石の本当のあるべき姿は鉄であり、それは人間の意識的な働きかけによってはじめて取り出すことができるということです。
「同様に精神もまた自然の単なる彼岸ではなく、それは自然を揚棄されたものとして自己のうちに含む限りにおいてのみ本当に存在し、本当に精神なのである」。ここは、ヘーゲルが単なる観念論者ではないことの、一つの大事な証拠です。つまり人間の意識というのは物質と無関係に存在するものではなくて、物質を反映しながら物質を揚棄したものとして自己のうちに含む限りにおいて、本当に精神なのである、というのです。
精神というのはあるべき姿を探求するのですが、あるべき姿をどこから導き出すのかといえば、頭のなかから導き出すのではないのです。物質の世界、客観世界、自然のなかから、自然を乗り越えるものとしてあるべき姿を見出す、それが人間の意識の働きだというのです。だからヘーゲルのいうあるべき姿は単に頭のなかで考えられたイデアではなくて、客観世界から導かれるイデアなんです。そこにヘーゲル弁証法の特徴があると私は思います。だからこの文章は大変大事なところです。
ついでながらここでドイツ語のaufheben (揚棄する)という言葉が二重の意味を持つことに注意すべきである。aufhebenという言葉は一方では「除去する」「否定する」という意味をもっており、したがってわれわれは例えば、或る法律、制度、等々がaufheben(廃棄)されるという。しかしaufhebenという言葉はまた「保存する」という意味をも持っており、この意味でわれわれは或るものがよくaufheben(保存)されていると言う。このように同じ言葉が否定的な意味と肯定的な意味とに用いられる二義性を偶然とみてはならない。ましてそれを混乱の原因であるとして、ドイツ語を非難する種にしてはならない。われわれはむしろそのうちに、単に悟性的な「あれかこれか」を越えているドイツ語の思弁的精神を認識しなければならない。 |
思弁的というのは、弁証法的と同じ意味です。ヘーゲルは自分の哲学を思弁哲学といっていますが、これは弁証法哲学といってもいいのです。ドイツ語のaufhebenという言葉は「揚棄」と訳されていますが、ドイツ語にも日本語訳にも二つの意味が含まれています。一つは「否定する」であり、一つは「保存する」です。つまり「否定しつつ保存する、そういう概念としてヘーゲルはaufhebenを使っています。われわれの用語でいえば弁証法的否定です。全否定、清算主義的否定ではないのです。だから、われわれの真にあるべき姿というのも、客観世界を否定しながら保存しているんです。つまり客観世界のなかからしか導き出せないという点では客観世界を保存するものだけれども、客観世界をそのまま反映するのではなく、客観世界を否定し、それを乗りこえて導き出すという点では否定している。ですから、このaufhebenという「言葉が否定的な意味と肯定的な意味とに用いられる」ことを「混乱の原因」だと考えてはいけないのであって、むしろそこにドイツ語のもつ用法自身の弁証法があると、ドイツ語の優秀さをヘーゲルは自慢しているのです。
《質問と回答》
最初の質問は、向自有に関するものです。向自有は日本語としては使われない言葉ですから非常にイメージしにくいのですが、もともとのドイツ語の意味は他のものとの関係なしに自分だけで存在するものという意味です。有論のなかの「質」のところの目次をみていただきたいのですが、有論のなかの質というのは、有・定有・向自有となっています。「有」というのは単にあるという無規定な存在「定有」というのは何か質をもったものとして存在するもの「向自有」というのは質をもったものだけれども、それが自らの質を無限に高めるようなそういう定有です。
ヘーゲルは「向自有の最も手近な例は自我であるということをいっています。どういうこ」(㊤二九三ページ)とかといえば、人間というのは生まれてから死ぬまで自分自身は変らないのですけれども、変らないなかでさまざまな経験をつみ、勉強もしながら自分の質を無限に高めていくのです。そういう無限に発展する存在を向自有ということでイメージしているのです。
質問は「向自有の最も手近な例は自我である」の次の文章「われわれは、定有するものとして、自分がまず、他の定有するものから区別され、そしてそれに関係していることを知っている」のなかで「他の定有するものから区別」とあるが「友人とか妻子や親などと考えてよいのか」というものです。つまり向自有を自我と考えた場合「他の定有するもの」とは、友人、妻子、親などをさすということでよいのかという質問です。それはまちがっているとはいえないのですが、哲学ですから、もう少し理論的に考える必要があります。
自我という「定有するもの」は、その人をとりまくすべての人から区別されて存在するのです。ですから、最も自分の身近な家族や友人に限定する必要は全くありません。その人は家族のなかでは親や妻子に囲まれて生活することもあるでしょうし、学校では他の先生や生徒とのかかわりあいのなかで存在するでしょう。職場のなかでは仲間とのかかわり、あるいは使用者とのかかわりで存在するでしょう。つまり或るものは他のものではないということで、自我をとりまくすべての他のものとのかかわりのなかで、或るものとして存在するのです。そういう意味で、友人、妻子、親といってもまちがいではないが、もう少し、より広くとらえなくてはいけません。自我以外のすべてのものとのかかわりとしてとらえる必要があります。
もう一つ指摘しておきますと、ここの文脈は、自我という定有を、他のものと関係するという横の広がりにおいてとらえるのではなくて、むしろ「尖らされて向自有」となるという、後段のところに意味があるのです。つまり定有一般は或るものと他のものとの関係で存在するのですけども、向自有はそうではない。向自有は他のものとの関係ではなく、もっぱら自己との関係においてのみ存在する。自分自身が他のものとの係わりなしに無限に質的に発展する姿を、向自有としてとらえているのです。
定有するものというのは他のものではないということで、他のものとのかかわりで存在するのですから、他のものとの関係という広がりをもっています。紐という定有は、糸ほど細くはないし、綱ほど太くもない。糸でもないし綱でもない、そのような太さの「広がり」をもった存在が紐なのです。だから定有は横に広がりをもつのです。だけども向自有は、他のものとの関係をもたないから横に広がらないのです。ではどちらの方向に行くのかといえば、縦にいく、それをヘーゲルは「尖らされて」といっています。広がりをもっているのではなく、尖っている。尖るとはどういうことかというと、或るものが他のものとの関係なしに、どんどん自分自身の余計なものを捨てて、質的に無限に前進していくところを表現しています。
二つ目の質問です。定有のところで或るものと他のものとの関係で述べた時、例として親も子も同じ年齢だということを話しました。子供が生まれた時に子供は〇歳だけれども、子供を生んだ母親もそれまでは妻だったのが、子供を生むと同時に母親になる。だから生んだばかりの子供も〇歳だし、母親としても〇歳で、そのような意味で親と子は同じ年齢だという話しをしました。もう一つの例として、先生と生徒の関係も話しました。生徒がいてはじめて先生になるのであって、生徒のいない先生というのはいないのです。これに関連して「先生も生徒も個人的にはそういう関係をもつスタートは同じであるということか」という質問がありました。
回答としては「そういう関係をもつスタートは同じである」といってよいのですが、いいたかったことは、こうした例は、連関の普遍性を述べたものだということです。すべてのものはバラバラでは存在しないこと、すべてのものは他のものとの関連においてのみ存在してバラバラには存在しないことを親と子、先生と生徒の関係のなかで述べたつもりです。
それから三つ目の質問です。九五節の「しかし真に無限なものは、単に一面的な酸のような態度をとるのではなく、それは自己を保持する」がよく理解できない、どういう意味なのかというものです。
無限というカテゴリーを議論するとき、ヘーゲルは真無限と悪無限という二つの無限を区別しているということを講義で述べました。悪無限とは無限進行です。真無限とは何かといえば、有限と無限の統一だとヘーゲルはいうのです。イメージとしては、有限のなかに無限があるといいましょうか、無限に質的に発展する有限者・有限なものです。先ほどの自我の例でいいますと、自我は有限な存在、有限者です。有限だけれどもそれが無限に質的に発展していく、そういう有限者のなかにある無限、これを有限と無限の統一と呼んでおり、それが真無限だといっているのです。
真に無限なものは有限と無限の統一としてあるのですが、両者の統一というと酸とアルカリを一緒にした中和のような感じがします。しかし、有限と無限をたして中和したものが真無限かといえば、そうではないというのです。無限は有限と統一しても「自己を保持する」のです。無限は有限との関係においても変貌することなく自己を貫いているということです。有限と無限の統一といっても、無限は有限のなかで自己を貫き通しているという意味で「自己を保持する」といっているのです。
真無限では、有限者は有限者でありながら質的に無限に発展する無限者なのです。その意味で、有限者は揚棄されるのです。それで真無限においては「無限者は肯定的なものであり、有限者だけが揚棄される」(二九二ページ)とあるのです。真無限においては、無限は有限なもののなかの無限として自己を保持していくのに対して、有限なものはその有限性を揚棄されて、質的に無限に発展していくのです。
四つ目の質問です。第九六節の冒頭の説明で「向自有は自分自身で自己発展するものといわれたけれども、それだけで存在するということと自分自身で発展するということは同じことでしょうか」というものです。
定有は他のものとの関係においてのみ有をとらえるのですけれども、向自有は定有と違って他のものとは関係なしに定有それ自体において有をとらえるのです。そういう意味で向自有は、自分自身だけで存在するということになるのですが、自分自身だけで存在して、ではじっとしているのかというと、そうではありません。じっとしているのであれば、定有と変わらないことになってしまいます。向自有というのは他のものと関係なしに自分自身で存在するのだけれども、同時に有を質的に無限に発展させるカテゴリーとしてヘーゲルはとらえているのです。ですから質問への回答は「同じではない」ということになります。こういうカテゴリーが客観世界の法則性をとらえるうえでは必要だということをいっているのです。
つまり、世界のいろいろな現象を法則的にとらえようとしたときには、向自有というカテゴリーが必要なのです。自分だけで存在しながら、同時に質的に無限に発展していくような或るものをとらえる必要がある。とりわけ生物をとらえる場合、絶対このカテゴリーがいるのです。有機体は自分自身で自己運動します。自己運動するということは、自分だけで存在するということですから、これはやはり向自有なのです。自己運動をするものをとらえるためには向自有というカテゴリーがいるのです。
続いて質問のなかに「自分自身で発展するだけでなく、外からの力で発展することも必要ではないのか」というのがありました。もちろん自己発展することもあるし、外からの影響で発展することもあるでしょう。しかし今ここで問題にしているのは、自分自身の力で発展する、そういうカテゴリーを議論しているのです。そのような問題として理解しておけばよいのではないかと思います。
最後です「科学的社会主義の哲学でいわれていることの原型がヘーゲルにあることがよくわかりました。例えば、真理とは何かというような問題についてそう思いました」という意見がありました。
今ここで真理論を述べるのはまだ少し早いのですが、科学的社会主義の哲学とヘーゲルとの関連を述べておきますと、科学的社会主義の哲学は、人類がつくり出したすべての価値あるものの集大成として誕生しています。三つの源泉の一つにドイツ古典哲学があげられますが、ドイツ古典哲学をやっておけばそれでよいのかというと、そうではないのです。ドイツ古典哲学はヘーゲルを頂点としているのですが、ヘーゲルは、哲学史の講義を一〇回もやっていて『哲学史』という本になっているように、ギリシャ哲学にさかのぼって古今東西の哲学を勉強し、そのなかで自分の哲学をつくりだしているのです。だからヘーゲル哲学というのは、人類の価値ある知識を学んで、そのうえに自らの新しい哲学をつくろうとしている点では、科学的社会主義の立場と共通のものがあります。われわれも科学的社会主義の哲学を人類の知識の総和として学ぶために、今ヘーゲルを学んでいるのです。本当に哲学を深く学ぼうと思えば、哲学史を全体として学ぶ必要があるのです。そういう意味でもヘーゲル哲学を学ぶ意義があります。ところでヘーゲルの真理観と科学的社会主義の真理観とは重なっているところもあるけれども、くい違っているところもあります。これは後の「概念論」のなかで詳しくやります。
簡単にいうと科学的社会主義の真理観というのは、真理を認識の問題だとします。つまり客観的事実を正しく反映したものが真理だという認識の問題としてとらえる。ヘーゲルの真理観はそれとは違い、いわゆる認識論と同時に存在論としての真理です。客観世界にあるものが真にあるべき姿として客観化される、認識の問題だけではなくて客観世界が実現される、そういう存在論の問題としても真理をとらえる点で、違いがあります。これは追々に話していかなければならない問題だと思っています。
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