『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第八講 有論・質 Ⅵ

観念性とイデア

 向自有はわかりにくい概念ですから、もう一度復習しておきたいと思います。テキスト㊤二九二ページに「向自有において観念性という規定がはいってくる」とあります。観念性と実在性の問題は、前回、学習しました。われわれはヘーゲル哲学を観念論哲学というのですけれども、その観念論哲学という場合の観念論と、ここにいう観念性と実在性における観念性とは、重なり合っている部分もありますが、かなりくい違っているところがあります。ですから、観念性ということの意味をもう少し説明しておきたいと思います。
 観念性はドイツ語でIdealitätで、もともとイデアに由来する言葉です。以前に、観念性とは、理念性とか理想性と訳すべきだとお話ししたことがありますが、イデア性と訳す方が、観念性や理念性よりも原語の意味が鮮明になるのではないかという気もします。イデアとは何かと申しますと、ソクラテスの弟子であるプラトンの哲学の中心概念をなすものです。プラトンは、このイデア論によって観念論哲学の創始者といわれています。
 イデアとは何かといいますと、前回は鋳型といいましたが、これはわかりにくいので、真なるものでよいかと思います。例えば、馬なら馬のイデアを考えるのです。本当の馬、真なる馬は、個々の馬から切り離されて存在すると彼は考える。個々の馬から切り離された普遍として、真なるものとしての馬のイデアがあって、個々の馬というのは馬のイデアの似た姿として生まれてくるというように考えるのです。
 つまり真なるものという普遍は、個から切り離されて存在する。普遍こそが真なる存在であって、個別の存在はそこから生み出されたものと考えるのです。その限りにおいては、やはり観念論なのです。真なるものがどこかに存在していて、それが特殊化して個別のものが存在するに至ると考えるのです。
 ヘーゲルがイデア性、観念性を実在性の真理といったのは、このプラトンのイデア論を踏まえているのです。これは同時に彼の変革の立場を示すものです。ヘーゲルは「出来あがった完成されたものはこの世のなかに存在しないのであって、この世のものは常に不完全な変革の対象としてしか存在しない」とみるのです。イデア性すなわち観念性とは何かというと「変革さるべき姿」です。それは理想の姿であり理念の姿ということになるのです。「変革さるべき姿」ということを彼は観念性という言葉で呼んでいるのです。イデア性とは真にあるべき姿といってもいいでしょう。
 「実在性の真理は観念性である」と彼はいっています。だから客観世界に存在するものは、本当のあるべき姿として存在していない、それは変革さるべき対象にすぎない、有限な姿にしかすぎないのであって、イデア性が実現されることが実在性の真理だ、ヘーゲルはこういっているのです。現にあるものが真にあるべき姿に変革されることによって、真理が実現されると考えるのです。だからこの観念性を、唯物論との対比における観念論、観念論的という意味にとったのでは、正しく理解することができないのです。ヘーゲルのいう観念性は、理想の追求、理想の探求です。理想をかかげるということは、人間の実践にとって一番大事なことです。われわれは日々いろいろな実践をします。例えば、生産労働自体が、ある意味では理想をかかげての実践だといえます。自動車をつくる労働は、自動車という一つのイデアをかかげて、それを実現しようと努力する。社会変革の面においても、理想を追求して真にあるべき社会に変えていこうと実践する。こういう意味での観念性というのは、われわれ唯物論の立場からいっても否定されるべきではないのです。
 理想は単にあるべき姿として、この地上からかけ離れた彼岸に存在するものではなく、この世のなかに存在しなければならないし、この世のなかで実現しうるものだとヘーゲルはいうのです。そういう点から彼は自分の哲学を観念論哲学といっているのです。
 向自有にもどります「向自有において観念性という規定がはいってくる」(㊤二九二ページ)。向自有というのは、イデアに向かって無限に接近する有を意味しています。しかし、向自有においてイデアが実現されるということではありません。向自有は質的に無限に発展する姿です。どちらの方向を向いて発展するかを問題にしているのです。つまり、そのものの本来の質、人間なら人間の真にあるべき姿に向かって無限に前進していく姿、それを向自有というカテゴリーでとらえているのです。だから向自有において観念性という規定が入ってくることになります。向自有というのは観念(イデア)に向かって無限に接近する定有なんだという意味で「観念性」という規定がはいってくるわけです。
 最後に彼はイデアに到達する定有を考えます。それが絶対理念であり、ヘーゲルは、最後にそこに落ち着くのです。観念性と実在性という用語は、これ以降あまり出てこないのですが、ヘーゲル哲学を理解する上では非常に重要なカテゴリーだと思います。同様に向自有のカテゴリーも重要です。
 第九六節の冒頭にもう一度戻ります。
 向自有は一者であると書いてあります。ここから「一と多」「反発と牽引」のカテゴリーに入って、いよいよ量論にいきますが、多との対比における「一」は哲学では「いつ」と読みます「いち」と読むと一、二、三、四という順序数みたいに聞こえるからです。向自有は一者であり、一者とはイデアのことです。イデアはもともと一つです。馬のイデアといえば一つしかないので、そこから個々の馬が出てくるのです。ヘーゲルは『大論理学』で面白いドイツ語の例をあげています。「Was für ein Ding etwas sei?」 (ヘーゲル全集6a、岩波書店、一九三ページ) これは「一体それは何ですか」という意味ですが、それを逐語的に解釈すると「そのものは、一つの物に対して何であるか」となります。この「一つの物」が一者であり、イデアなのです。
 つまり「それは一体何ですか」という質問をすることは「イデアに比べてそれは一体何なんですか」ということであり「そのもののイデアに比べてみて、それは一体いかなるものであるのか」という意味になります。ここでは一者をイデアと同じ意味で使っているのです。だから向自有は一者であり、イデアでもある。このようにドイツ語の用法にかこつけて説明しているのです。
 「それは一体何ですか」という質問のなかに「そもそもそれ自体としてはどんなものなのか」「そのもののイデアは何なのか」ということが問われているのです。向自有はイデアに無限に接近する定有ですから、無限に接近したら最後はイデアになってしまうということで一者になるというのです。
 以上のことを念頭において、イデアが一者だとすると「多」とは何なのかといえば、多は個体なんです。つまり馬のイデアからいろいろな馬が生まれてくる、そういうようなことから「一と多」の展開につなげていくのです。

一と多

 九七節 (ロ) 否定的なものが自己へ関係するということは、否定的に関係するということであり、したがってこれは一者が自己を自己自らから区別すること、一者の反発(Repulsion) 、すなわち多くの一者の定立である。

 「否定的なものが自己へ関係する」とは、自分自身をたえず否定して自分の質を高めることであり、これは自己を否定することを通じて自己と関係することです「したがってこれは一者が自己を自己自らから区別すること、一者の反発、すなわち多くの一者の定立である」。つまり向自有するものは、不断に自己否定を重ねていくのです。現在ある自分をたえず否定しながらより高めていくので、それは多くの自分を打ち立てながら次々それを否定していくことです。そういうのを「一者の反発」といっています。一者を反発し「多くの一者」を定立するというのは、自分の成育史を振りかえってみてもわかると思います。小学校時代の自分、中学校時代の自分、高等学校時代の自分、社会へ出てからの自分という多くの一者を定立しながら、それを次々に否定して今日の一者としての自分がある。そういうのを「一者の反発」「多くの一者の定立」というのです。そういう例と、先にあげた馬のイデアから個体としての多くの馬が生まれる例とを重ね合わせて「一者の反発」をイメージして下さい。

 向自有するものが直接的であるという面からみれば、これら多くの一は有的なものであり、そして有的な多くの一の反発は、そのかぎりにおいて、存在するものとしてのそれらの相互的反発、あるいは相互的排除である。

 「向自有するものが直接的である」というのは、向自有するものは他のものに媒介されないで存在する、自分だけで存在するという意味で「直接的」なのです「これら多くの一は有的なものであり」、向自有自身が自ら成長する過程として多くの一が定立されるという意味では、多くの一は有的なものです。「有的な多くの一の反発」とは、たえず自己否定を重ねながら自分が質的に発展していくという意味でとらえればよいと思います。

反発と牽引

 九七節補遺 一と言えば、まずを思いつくのが常である。するとここで、多はどこから由来するかという問題が生じる。表象のうちにはこの問題への解答は見出されない。なぜなら、表象は多を直接的に現存するものと見、一を多のうちの一としか考えないからである。

 一に対するカテゴリーは多です。普通われわれが常識的に考えれば、この世のなかには多くのいろんなものが存在するので、一よりも多の方が先にあるのだと考えがちです。数多くの人間がいる、自分というのはそのなかの一人という意味で、多のなかに一があると考えがちなのです。しかし、そうではないとヘーゲルはいいます。一から多が生まれる、一の反発として多が生ずるのだということがいいたいのです。

 概念から言えば、これに反して、一は多の前提であり、一という思想のうちには、自己を多として定立するということが含まれている。

 常識からみればそのようにみえるかもしれないが、理論的にいうならば、まず一者というものがあって、一者というものの反発として多というものが生まれてくるととらえなくてはならないというのです。これはヘーゲル流の一者をイデアとする解釈だと理解しておけばよいのではないでしょうか。

 向自有する一は、かかるものとして、有のように無関係的なものではなく、定有と同じく関係である。もっとも、それは、或るものとして他のものに関係するのではなく、或るものと他のものとの統一として自分自身へ関係するのであり、しかもこの関係は否定的な関係である。

 向自有する一というのは、自我というものを考えればよいのですが、定有と同じく関係をもっているのです。定有の関係とは或るものと他のものとの関係です。向自有も関係をもっていますが、それは他のものと関係をもっているのではなく、自分自身と関係をもっている。自分自身をたえず否定していくという形で、多くの自分とのかかわりのなかで現在の自分が存在しているのです。その意味で、自分自身へ否定的に関係するのです。

 これによって一は全く自分自身と両立しがたいもの、自己を自己から突きはなすものであることがわかる。そして一がこのようなものとして自己を定立したものが多なのである。われわれは、向自有の過程におけるこの側面を、比喩的な表現をもって、反発と名づけることができる。

 「自己を自己から突きはなす」とは、自己否定を重ねていくことです。過去の多くの自分を否定することによって今日の自分が存在するという意味で、一が多を生み出すのです。「向自有の過程におけるこの側面」の、この「過程」というところが大事です。質的に無限に発展していくということは、自己否定を重ねていくのですから、そういう過程を「比喩的な表現をもって、反発」といったのです。多くの一者を反発する。ここで「一と多」の概念が「反発と牽引」の概念につながります。現在の物質の階層性を考えるうえでは、この「反発と牽引」のカテゴリー抜きには考えられません。とても大事なカテゴリーです。 

 反発とはもともと物質を考察する場合に用いられる言葉であって、物質が、多として、多くの一の各々のうちでその他すべての一にたいして排他的に振舞うことを意味する。なおわれわれは反発の過程を、一者は反発するもの、多は反発されるもの、という風に考えてはならない。先にも言ったように、一は自己を自分自身から反発して、多を定立するものにほかならない。しかし多の各々は、それ自身一である。各々がこのようなものとして振舞うことによって、この全面的な反発は、それと反対のもの、牽引(Attraktion)に転化する。

 向自有の過程における反発というのは、たえず自己否定していく過程だといいました。「反発」すなわち、たえず自己否定していくということは、同時に自分自身をつくり上げていく過程として「牽引」だというのです。なかなか面白いとらえ方だと思います。
 要するに「反発と牽引」の相互前提関係について述べているのです。相互前提関係とは、反発があるから牽引があり、牽引があるから反発があるという関係をいいます。この相互関係は『本質論』の中心的なカテゴリーであり、これを「反省」と呼んでいます。われわれの言葉で言いかえれば、対立物の統一です。
 「一と多」については八一節補遺に記述があります。プラトンは「一から多を導き出しながら、しかも多が一として自己を規定せざるをえないことを示している」として、これを「偉大な仕方で弁証法を取扱った」ものといっています(㊤二四八ページ)。「一と多」もやはりヘーゲルはギリシャ哲学から学んでいるので、自分の頭のなかで勝手に作り出したカテゴリーではありません。
 有と無の統一を学習しましたが、一と多の統一もこれと同じようなものです。先に現在の物理学の到達点の量子力学においても有と無の統一ということがいえるとお話しました。その量子力学の関係から有と無の統一が、一と多の統一になるということをここでもう少し説明しておきます。
 光の粒子、これを光子といいます。これは粒子であって粒子でなく、光子は粒子と波動の統一であると先にいいました、これはどういうことかというと、粒子というのは粒ですから空間の狭いところに局所的に存在します。光の粒と考えればよいのです。これに対して波というのは、空間の広い領域に連続的に広がっていて、山と谷をもっています。海の波を想像してください。波はぶつかり合うことによって相互に強めあったり消し合ったりしています。こういうのを干渉現象といいます。波というのは、この干渉現象を起こすという特徴があります。海でも大きい波が通って小さい波と重なったりすると、もっと大きな波になることもあれば、消しあって逆に小さな波になることもあります。これが波の干渉現象です。トーマス・ヤング(一七七三―一八二九年)がこの光の干渉の実験をして、この干渉現象を確認したのです。
 これに対しマックス・プランクは、電磁波のスペクトルは、粒子からなっていることを発見し、ここに量子力学が出発したのです。粒子の場合は二つが衝突しても巨大化したり、消滅したりという干渉現象は生じません。そこから次のような問題が生じたのです。光が粒子だということになると、なぜ光に干渉現象が生じるのか、それをどう説明するのかという問題です。それに答えるには、光の一個の粒子が、ある時間にAという場所にあると同時にBという場所にもあると考えるしかないのです。つまり、光の粒子はAという場所に「ある」と同時に「無い」、という有と無の統一であるということになります。またAに「ある」と同時にBに「ある」、つまり一個の粒子が同時に二箇所にある、という一と多の統一ということにもなるのです。これはある意味で、光の粒子が波でもあるということであり、現在は粒子であると同時に波でもあると考えられているのです。
 ですからこの場合「有と無の統一」も「一と多の統一」も同じことを意味しているのです。われわれが「対立物の統一」を最も普遍的な形で表現する場合「有と無の統一」で表現することも出来るし「一と多の統一」という形で表現することもできると思います。「一と多の統一」というのは、ギリシャ時代からずっと議論されてきた問題ですが、今日的にもなお意義をもつものです。

アトム論

 九八節 (ハ)しかし多くのものは互いに同じものである。各々は一であり、あるいはまた多のうちの一である。したがってそれらは一にして同じものである。あるいは、反発そのものをみれば、それは、多くの一が互いに否定的な態度をとるのであるから、同時にそれらが本質的に関係することでもある。そして一が反発において関係するものは、諸々の一であるから、一は、それらのうちで自分自身に関係するのである。したがって、反発は同時に本質的に牽引(Attraktion)である。

 要するに、反発は同時に牽引だということがいいたいのです。反発は反発として存在するのではなくて、反発すると同時に牽引するのです。反発と牽引は相互前提関係にあり、相互前提関係という意味で対立物の統一としてあるということです。

 かくして排他的な一あるいは向自有は揚棄される。一のうちでその即自かつ対自的な規定態に達した質的規定性は、これによって揚棄された規定性としての規定性へ移ったのである。言いかえれば、量としての有へ移ったのである。

 この辺はヘーゲルのカテゴリーの移行に伴う無理な論理展開だといってもよいと思います。ヘーゲルの理屈からいうと、向自有は一者として定立されたのです。しかしここまで来てみると、一者は多者であること、一は多であり、多は一であることが明らかになった。ということは、そこで向自有は自ら最初の姿を捨て去ったことになるから、それを「一のうちでその即自かつ対自的な規定態に達した質的規定性」といっているのです。
 今まで質の問題をいろいろ議論してきました。有から定有へ、そして向自有にいたり、向自有で完成された質になりました(第九六節補遺)。質が無限にイデアに近づくのですから、これはもう完成された質なのです。だから、その完成された質が自己内に矛盾を抱えることによって、それが揚棄された場合には、質のなかにはもはや行き場がなく、質から量へ移行せざるをえないのです。質の一番高い段階にまできて矛盾を抱えているのだから、もう質から抜け出して量に移行せざるをえない、という論理の運びです。向自有の概念を媒介にしながら、定有は質から量へ移行していくのです。

 アトム論は、絶対者を向自有、一、および多くの一とみる立場である。そしてそれらの根本力としては、やはり一という概念においてあらわれる反発が想定されている。しかしそれらを一緒にするものは牽引ではなくて偶然、すなわち無思想なものである。ここでは一があくまで一として固定されているのであるから、一と他のものとの合一が、全く外的なものと考えられるのは当然である。

 アトム論というのもギリシャ哲学の時代からあるのです。その頃、現在の素粒子だとか原子だとか分子だとかの存在がわかっていたのではありませんけれども、論理的にこれ以上分割できない最小の単位から物質は成り立っている(アトムとは、これ以上分割できないという意味でのギリシャ語)と考えたのです。そういう分割のできない最小の単位から物質は成っているという意味で、アトム論は「絶対者を向自有、一、および多くの一とみる立場」です。
 例えば、人間には人間のアトムがある。人間を構成する最小限の単位のものが存在する。それが幾つか集まって人間ができている。だから、その組み合わせでいろんな人間が存在するという考えですから「一、および多くの一」から成っているという見方です。「それらの根本力としては、やはり一という概念においてあらわれる反発が想定されている。しかしそれらを一緒にするものは牽引ではなくて偶然、すなわち無思想なものである」。アトムはそれ以上分割できない物質の単位であり、それが寄せ集まって一つの物体ができあがるのです。その寄せ集める力をどこに求めているかといえば、ギリシャ時代のアトム論ではヘーゲルのように反発と牽引の関係で求めているのではなくて、全く偶然の寄せ集めによってアトムが一緒になると考えている。そこがアトム論の不十分なところだとヘーゲルはいっているのです。

 ── アトムに属するもう一つの原理と考えられている空虚は、アトムとアトムとの間に存在する無と考えられた反発にほかならない。──

 アトム論はギリシャ哲学のレウキッポスが創始者といわれていますが、アリストテレスは次のようにいっています。
 「レウキッポスとその同僚デモクリトスとは、充実と空虚を元素とし、一方を存在者、他方を非存在者と呼んだ。即ち充実したもの、濃厚なものを存在者といい、空虚なもの、稀薄なものを非有者と呼んだのである。従って彼らは、空虚もまた物体と同じく存在するものであるから、有は非有以上のものではない」(ヘーゲル『哲学史』上巻、ヘーゲル全集、岩波書店、三八九ページ)。
 アトム論は、すべてのものをアトム(充実)と空虚の統一として考えます。空虚なものとは単なる空虚ではないので、有らぬものは有るものに劣らず有るといっています。空虚だから何もないというのではなく、要するに薄いだけのことです。薄いもの(空虚)と濃いもの(アトム)が一緒になってすべてのものが存在すると考えています。空虚なものは、アトムの運動の原理と考えられ、空虚なものがあってそのなかでアトムが運動して、結合して物体をつくるという考えです。
 現代においてもこのような考えが成り立つのではないかと思います。量子力学においても、現代物理学の到達点はこのような考えに立っています。つまり「場の量子論」です。電気の場とか、磁気の場というものがあります。場というのは、先ほどの粒子と対立するものです。場は連続したものであり、粒子は非連続です。場は相互に浸透し合います。例えば、電気の場と磁気の場とは重なりあっています。これに対し粒子の方は「物質の不可浸入性」をもっていると考えます。粒子が占める場所には物質がつまっているので他の粒子は入れない。このように原子論的な考えと場の理論とは相対立するものです。
 しかし現在の物理学(量子力学)の考え方によると、物質とはすべて場が基本であって、場の振動が量子をつくり出す。つまり場が振動してそのなかから濃厚になったものが量子になるという考えです。ギリシャ哲学のアトム論における濃厚なものと希薄なものの対立から物質は成っているとする考えと、現在の場の量子論とは、物質の根本を濃厚なものと希薄なものとの対立物の統一とみている点で共通しているのではないかと思います。ただ私は物理学はよく分かりませんから、物理学の本を読んでそう感じただけなので、もしまちがっていたら教えていただきたいと思います。

《質問と回答》
 
 第一の質問。講義で量子力学の最も基本的なカテゴリーのなかに、弁証法の普遍的形態を見出しうるという話をしました。弁証法の最も普遍的な形態は、有と無の統一ですが、粒子と波との統一は有と無の統一という形でも説明できるし、そして有と無の統一と並ぶ弁証法の普遍的な形態としての一と多の統一としても説明できる、ということです。「どうもその辺がよく分からない」ということなので、もう少し説明しておきます。
 「光の干渉の実験」を例にとってお話ししたので、そのところをもう一度説明いたします。
 要するに、二つのスリットAとBがあって、一個の光源から出た光がこの二つのスリットを通るとします。一個の光子はAスリットを通るとします。粒子は粒ですから一定の場所を占めるのです。一個の光子がAスリットをとおるということは、Bスリットを通らないというのが、これまでの古典物理学の物質の常識でした。ところが実験の結果は、一個の光子が同時にA・B二つのスリットを通ってしまう。そういう不思議な性格をもっているのです。これを哲学的にみるとどういうことになるのかを問題にしているのです。
 一つの量子は粒ですから、Aスリットにあれば、Bスリットにはないはずだけれど、しかし実際にはAスリットにあると同時にAスリットにない、言いかえれば、Aスリットにあると同時にBスリットにある。前者をとらえれば、Aスリットに「有る」と同時に「無い」のですから有と無の統一とみることができます。また、後者をとらえれば、Aに一としてあると同時にAとBに多としてありますから一と多の統一とみることができます。だから量子力学は完全に弁証法の妥当領域だと話したのです。量子力学に入ると弁証法を使わなかったら、一歩も前へ進めないのです。量子力学のもっとも基本的なカテゴリーである量子をとってみただけでも、それは有と無の統一あるいは一と多の統一という弁証法的とらえ方をしないと正しく認識することができない、ということです。
 第二の質問。先に「弁証法と形式論理学をどこで区別すればよいのか、使い分けをどうしたらよいのか」という質問が出まして、私がそのときに『空想から科学へ』を引用しながら「常識的な範囲では形式論理学は当てはまるけれども、この限界を超えていざ運動の問題になると弁証法だ」といいましたが、もう少し物質の世界に入ってみると、量子力学の世界には一般的に弁証法が妥当し、そして個体の世界というのは、一般的に形式論理学に当てはまる、こういう区別としてとらえることもできるだろうと思います。
 第三の質問。観念性と実在性の問題について「観念性を中心に講義を受けましたが、実在性をどういう意味に考えたらよいのでしょうか」という質問がありました。
 ヘーゲルは自分で自分の哲学は観念論であり、哲学は観念論哲学でなければだめなんだ、と盛んにいいます。観念性の問題はもっともっと光をあてる必要があるのではないか、と私としては思っております(『大論理学』では、向自有を論ずるなかで「観念論」という項目を一つ立てて論じています(ヘーゲル全集6a、岩波書店、一八六ページから)。そこでいっているのは「哲学上の観念論は、有限者を真なる存在と認めないところに成り立つ」、それで自分は観念論者だといっております。これはどういうことかといいますと、有限者というのはこれ」は客観世界です。「有限者を真なる存在と認めない」とは、客観世界の現在ある姿が、真なるものであるとは認めないという立場です。言いかえれば、ヘーゲルの変革の立場です。つまり客観世界は変革の対象にしかすぎない。それをそのまま正しいものと認めてはならない。ヘーゲルの定義では、有限者を否定して、無限者を探求する、これが哲学上の観念論だということになるのです。ですから、客観世界を合法則的に変革して無限に真理に接近していく、それを追求するのが哲学上の観念論なのだという立場にヘーゲルは立っています。
 この立場から彼は、一般にいわれる観念論を批判しています。観念的なものというと、一般に想像のなかにあるのであって実在しているものではないと考えられているが、そんな主観的観念論はまちがいだと切って捨ているのです。つまり、頭のなかだけで真なるものを追求しようとする主観的な観念論というのは、有限な客観を変革することなくそのままに放置し、客観から何も学ぼうとしないまちがった観念論だと批判しています。ヘーゲルの考えている観念論というのは、有限な客観世界のなかから法則的なものをつかみ出して、客観世界を真なるものに変革する哲学を追求したいという趣旨のことを『大論理学』の「観念論」のところで述べております。
 私自身、この観念性のカテゴリーが非常に分かりにくかったのです。しかし、理念性や理想性、つまりプラトンのイデアを念頭に置き、そういう観点から『大論理学』を読み直してみると、ヘーゲルのいっている観念性の意味するところが分かってきました。ヘーゲルが追求している観念論哲学の到達点が、概念論であることに気づいたのです。そういう意味で観念性というのは、ヘーゲル哲学にとって非常に大事な意義をもっているし、今までそこにあまり光があてられてこなかったけれども、もっともっと光があてられなくてはならないと、私は思うのです。
 「対立概念としての実在性をどうとらえたらよいのか」という質問があったのですが、九一節補遺のなかでかなり詳しく述べられています。九一節の冒頭に「質は、あるところの規定性としては実在性である」とあります。定有というのは有る質をもった有、規定された有ですが、即自有と向他有という二つの側面をもっています。即自有とは或るものの質の側面であり、向他有は他のものではないという側面です。そして即自有としての側面は実在性という言葉で呼ばれているものだとヘーゲルはいっています。だから実在性は一般的にいえば、定有そのものといってもまちがいではないと思います。質問は「実在性というのは客観的実在という意味に理解してもよいか」といわれましたが、そう理解しても大きなまちがいではありません。
 ただ、九一節補遺でヘーゲルは実在性には二つの意味があるということをいっております。一つの意味は、主観的なものが定有のうちへあらわれ出てくるものだといっています。例えば、ある計画や意図の実在性という場合、計画や意図が現実のものとなり客観化される、こういうのを実在性というのです。この意味の実在性は、九一節本文でいっている実在性です。これに対しもう一つは、定有するものとその概念との一致だといっています。そしてこの意味での実在性は観念性と同じ意味だといっています。つまり、或るものが真に有るべき姿と一致し
たときに、実在性をもつとよぶことができるのです。この意味の実在性は、ヘーゲル独自の用語であり、概念と一致する客観的実在を意味しているのです。

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