『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第九講 有論・質 Ⅶ、量 Ⅰ

自然の三つの階層における引力と斥力

 今日はアトム論の途中からです。アトム論のところをもう一度復習しましょう。
 ヘーゲルは向自有というカテゴリーを完成された質であり、真無限の質であり、つまり理想に向かって自己発展していく姿としてとらえているのですが、向自有は一と多の統一としてあります。つまり向自有するものは同じ一つの質なのですが、その質が無限に変化していくその姿を多ととらえているわけです。例えば、小麦なら小麦の種をまいたらそこから芽が出て、茎が出て、葉が出てくるというのはすべて多なんです。小麦という一は、完成された質となるなかで、そういう多様な変化をもつにいたるのです。
 すべてのものを一と多においてとらえるのがアトム論です。アトム論というと、つい現代の原子論と錯覚しがちですが、ギリシア哲学におけるアトム論というのは、すべての物質を充実と空虚の統一としてとらえるのです。充実とはアトムであって、物質はアトムだけから成っているのではなくて、同時にそれは自己のなかに空虚を含んでいるという考え方です。これは現在の量子力学における場の理論に相当するものではないかということも前回話しました。そういう意味ではなかなか先見的なとらえ方だと思うのです。

 九八節 ── 物理学は今なおその原理を保持しているけれども、近代のアトム論は、あくまで分子に信頼をおいているかぎり、アトムを放棄している。そのためにそれは、感覚的表象には一層近づきやすいものにはなったが、しかし思惟による規定は棄てられたのである。

 近代のアトム論は、すべての物質は原子あるいは分子からなるという考えなのですが、ギリシア哲学にいう充実と空虚の統一としてのアトム論を放棄している、つまり対立物の統一として物質をとらえるという観点が近代の原子論には欠けていると批判しています。その結果、常識的には分かりやすい話になったけれども、弁証法を捨て去ってしまっていると、批判しているのです。

 ── 更に、近代においては斥力に引力が並置されており、それによって確かに対立が完全にされはした。そして人々はこのいわゆる自然力の発見を非常に誇りとしている。しかしこの二つのものの相互関係は── これのみが二つのものの具体性と真理をなしているのであるが── 混乱のうちから取り出されねばならないような状態になり、カントの「自然科学の形而上学的基礎」さえ、それをまぬかれていない。

 カント・ラプラス論をご存じだと思いますが、神が宇宙を創ったわけではなくて、宇宙の塵がぐるぐる廻っているうちにだんだん核ができて、それで宇宙ができあがってきたのだという合理的な宇宙生成論を唱えたのです。なぜ宇宙の塵が集まって天体ができるのかといえば、引力と斥力という二つの力のバランスによって、だんだん星雲から天体が生まれてくるのだということを述べたわけで、たいへん偉大な学説であり真理です。しかし、そのカントでさえ混乱をまぬかれていないといっています。なぜなら、すべての物質が斥力と引力の統一だという結論は、ヘーゲルのいう反発と牽引をとらえたものとして正しいが、結論にいたる論理の運びがまちがっている、というのです。
 カントの考えを整理してみますと、まず物質というのは最小単位の原子から成り立っており、こういう最小単位の物質というのは不可侵入性という特徴がある。不可侵入性というのは、最小単位の物質を構成する原子が占めている場所には他の物質が入りえないということであり、これはいうなれば反発です。しかし反発するだけだったら、原子が固まって一つの物質をつくることはできない。そこですべての物質は反発と牽引の統一と考えることができる、というものです。
 カントはすべての物質を反発と牽引としてとらえていますが、牽引という力を物質の概念のなかに当然のものとして位置づけていません。これがなくては論理的におかしいということで後からつけ加えられたものにすぎないから、カントは混乱しているとヘーゲルはいっているのです。これに対して自分は、反発と牽引を最初から相互の前提として、相互に移行し合う二つの力としてとらえている、カントのようにまず反発だといって反発だけでは物質はできないから、よそから牽引をもって来るというような考えとは違う、といって、ヘーゲルは自慢をしているわけです。
 池内了さんの『宇宙進化の構図』(大月書店)のなかに、自然の階層制の問題がとりあげられています。大きくいって自然には三つの階層があるわけで、ミクロの世界からマクロの世界まで物質の世界というのはすべて連続してつながっているようにみえますが、実際には連続してつながっていないのです。
 物質の世界は大きく三つの階層に分けることができます。第一の構造系列はミクロの世界です。素粒子とか原子核の系列で、桁数でいうと一〇のマイナス一三乗センチ前後の大きさの構造系列です。第二の構造系列はわれわれがいっている原子、分子から人間、惑星に至るまでの系列で、大きさでいうと一〇のマイナス八乗センチから一〇の九乗センチの大きさのものです。原子、高分子、塵、アメーバー、地球上の生物、人、水星、地球、木星、恒星がここに含まれます。第三の系列はそれよりもっと大きい世界で、第二系列とは密度も全然違います。白色矮星からはじまって、恒星、太陽系、星団、銀河、銀河集団、宇宙にいたります。こういう大きくいって三つの階層に分かれるわけで、三つの階層に分かれるのはどういうことかというと、三つの階層を構成する基本的な最小限物質が違うのです。
 第一の構造系列をつくっている最小単位の物質というのは素粒子、第二の構造系列をつくっているのは、原子、第三の構造系列は巨視的天体です。なぜ構成する基本的な物質的単位が違うのかというと、各構造系列を構成する力が違うのです。まず第一の構造系列をつくっている基本単位は核子です。核子(陽子と中性子)の間にはたらく力を核力といいます。原水爆はこの核力を利用するからあんなすごい力が出るわけです。強い力の引力と斥力から核力というのは成り立っています。次に原子は原子核と電子とから成っていますが、それを結び付けているのが電磁力です。電磁力の斥力と引力によって電子と原子核とがバランスをよく保ち、電子が原子核のまわりを廻っているわけです。力のバランスが崩れてしまうと、電子は原子核のなかに吸収されてしまうし、反発力が強くなりすぎると電子は飛び出してしまいます。第三の構造系列を構成する力は重力です。
 現在は自然を構成する三つの階層における三つの力の牽引と反発の統一として、自然は三つの階層を構成する基本物質から成り立っていると考えられています。ですからカントが考えたすべての物質は引力と斥力の統一であるという考え方は、今日もっと発展させられた形でそれは正しいということが証明されてきております。
 テキストに戻ります。

複雑系の科学とアトム論

 ── 近代においては、アトム論的見地は、自然科学においてよりも、政治学において一層重要になっている。それによれば、個人の意志そのものが国家の原理であって、牽引的なものは、さまざまな要求とか傾向のような特殊性であり、普遍である国家そのものは、契約という外的な関係である、とされている。

 社会契約論を念頭に置いて述べております。社会契約論というのは、ジャン・ジャック・ルソーとかジョン・ロックの考えですが、この社会契約論の出発点となるのは個人です。日本国憲法も基本的にはこの考え方に立っており、個人の尊重ということが憲法一三条に明記されています。また、個人の尊厳を守るために基本的人権の尊重や国民主権原理が、派生してきます。社会契約論における社会の基本単位となるのは、あくまで個人です。個人とは何かというと、アトムであり一です。一が出発点だと考えるわけで、多にあたるのが国家であり、あるいは社会です。だから結局、われわれが社会科学をするときに、一の立場で考えるのか、多の立場で考えるのか、が常に問われることになります。
 社会契約論の立場は、一から出発するのだけれども、果たしてそれでよいのかとヘーゲルは問い直しています。ヘーゲルにとって社会科学とは何かといえば、社会という多を一個の有機体とみてそこにおける法則を探求するものです。一個人は、その有機体を構成する一分子にすぎません。だからある意味では国家や社会の方が、より根本的な存在なんだとヘーゲルは考えているのです。
 現在のアトム論は、まさにそういう点の批判を受けつつあるわけで、今日の「しんぶん赤旗」(九七年四月二二日)にこの問題に関する記事が出ていました「複雑系」という今流行の物理学の考え方について、物理学者の米沢富美子さんに聞いているのです。
 「これまでのサイエンス、とくに物理学では、要素還元的な、分析的な解析的方法、アプローチが方法論としてとらえられてきました。例えば、マクロにみている現象も、ミクロのアトムとか素粒子とかに分解していて、要素同士がどのように相互作用しているか、どのようにふるまっているかが分かれば、全体のマクロな性質が分かるという見地で研究されてきました」。
 つまりアトム論です。従来の物理学はすべてアトム論でやってきたのです。一の立場から出発してきたのです。しかしそれに対する反省として複雑系が出てきたのだと米沢さんはいいます。要素還元的な「分析をしただけでは、生き物の本来の働きとか、生命のしくみとかがみえてくるとは限らない。やっぱり総合的に、全体的にとらえなければいけないんじゃないかということが指摘」されて「総合的に扱わねばならないような系(システム)を『複雑系』というふうに呼んでいるわけです」とあります。今まさに物理学はこれまでの要素還元的手法から、複雑系といういわば有機体を有機体としてとらえる新しい手法を模索しているということだろうと思います。
 ヘーゲルはこの「複雑系」の考え方をいたるところに入れているわけですけれども、その出発点になるのはまず向自有です。向自有というのはそれ自体が他に依存しないで自己発展するものです。だから複雑系のカテゴリーで一番大事なのは何かといえば、自己組織化、これがキーワードです。他のものに依存しないで、自分で自分を組織する、それの一番基礎的なカテゴリーをヘーゲルは向自有と呼んだのですが、それの最も発展したカテゴリーが概念となります。目的的関係も「自己組織化」の重要なカテゴリーです。
 目的的関係のところに「もって自己を自分自身とのみ連結し、自己を保存しているのである」(㊦一九七ページ)とあります。目的的関係というのは外的目的ではなく、内的目的のことをいっています。存在しているもののなかに潜んでいる目的、つまり生命が一定の合理的な方向へ進化していくのは生命のなかにおける内的な目的によるものですが、ヘーゲルはそういうものとして目的をとらえています。これは米沢さんがいうところの自己組織化そのものです。
 もう一つは概念論の二一八節「自分自身を生産しながら自己を保持する」、「言いかえれば、主体はただ自己をのみ再生産するものである」(㊦二一九ページ)とあります。米沢さんがいっておられるように、自己組織化するものが生命体だといっているわけです。つまり生命体を生命体としてとらえようと思えば、アトム論ではだめなのです。ですから今「複雑系」という物理学上の新しいカテゴリーが模索されているのであって、そのこと、をヘーゲルは哲学上のカテゴリーの問題として既に約二〇〇年前に論議しているということをつかんでいただきたいと思います。

アトム論批判

 九八節補遺 アトム論は、理念の歴史的発展の本質的な一段階をなしている。そしてこの哲学の原理は、多という形態における向自有である。形而上学について何も知ろうとしない自然科学者は、今日でもなおアトム論に好意を持っているが、しかしアトム論に頼っても、人は形而上学から、詳しく言えば、自然を思想へ還元することから、のがれることはできないのである。というのは、アトムはその実それ自身思想であり、したがって物質がアトムから成るという解釈は一つの形而上学的解釈であるからである。

 「アトム論は、理念の歴史的発展の本質的な一段階をなしている」とありますが、アトム論は客観世界における根源的なものは何かという哲学的な探求のなかにおける、一到達点なんです。これまでギリシア哲学のなかで、「世界の絶対者は有である、世界は有から成るというパルメニデスの考え方もありましたし、ヘラクレイトス」の「万物は流転する」、成こそは世界の根本原理だという考えもありました。これに対して、アトム論は、世界というものは充実と空虚の統一としての原理によって成り立つといったのです。つまり、世界のすべてをアトムによって説明しようとしたことは哲学史上、ひとつの画期をなすものです。そういう意味でアトム論を「理念の歴史的発展の本質的な一段階」といっています。「そしてこの哲学の原理は、多という形態における向自有である」とは、向自有としての一者、つまり根本的な存在である一としてのアトムが、多つまり物質の多様な形態を作り出していることをいっています。一から多が生まれるということです。
 つぎに「形而上学」という言葉を使っています。われわれが形而上学というと、形式論理学をその限界を超えて使う誤った立場をさします。しかし、ヘーゲルのいう形而上学は少し意味が違います。
 形而上学は、ギリシア語でメタ・フュシカ(meta phusika)というのです。「フュシカ」は自然「メタ」は超えるという意味です。たとえば自然科学のことを英語ではフィジカル・サイエンス(physical science)といいますが、これもこのギリシア語に由来しています。メタ・フュシカはアリストテレスの書物の一つです。『アリストテレス全集』が岩波書店から出ていますが、この形而上学というのは全集の一二巻にあります。アリストテレス自身は形而上学を第一哲学(哲学のなかの根本的なもの)と呼んでいました。なぜ『形而上学』という題名がついたのかというと、後に『アリストテレス全集』を編集した者が、自然哲学に関する一巻から一一巻の後にある本だからというのでメタ・フュシカ(自然を超える)という言葉を使ったのを、形而上学と訳したのです。ヘーゲルがいう形而上学は、この形而上学を意味し、ほとんど哲学と同義に理解すればよいと思います。
 アトム論は、哲学的に思惟の産物なのに、自然科学はあたかもアトム論を科学的理論として扱い、好意をよせている。しかしアトム論を哲学上のカテゴリーとしたうえで、哲学的に正しいかどうかが問題なのだ、とヘーゲルは考えているのです。

 ニュートンは、はっきりと、形而上学に用心するように物理学に警告した。しかしかれの名誉のために、かれ自身この警告に従っていないことを注意しておかなければならない。じっさい純粋な物理学者であるのは、動物だけである。動物だけが思惟しないからである。これに反して人間は、思惟する存在として、生れながらに形而上学者である。問題となるのはただ、われわれが適用する形而上学が正しい形而上学であるかどうかということである。言いかえれば、われわれが頼りとし、われわれの理論的および実践的態度の基礎をなしているものが、具体的な論理的理念でなく、悟性によって固定された一面的な思惟規定ではないかということである。

 人間が人間である以上考えないわけにはいかないわけで、考えるということは、要するに生まれながらに哲学者だということです。哲学することは考えることだから、生まれながらに人間は形而上学者だ、というのです。問題はわれわれが行う哲学が正しいかどうかということです。人間が考える存在である以上、哲学者にならざるをえないけれども、正しい哲学を身につけることが問題なのであり、アトム論は、結局正しい哲学ではないということがいいたいわけです。

 アトム論について言えば、それは正しい形而上学でないと言える。古代のアトム論者は(今日でもなおしばしばそうであるが)世界を多と考え、したがって空虚にただよっている諸アトムを集合するものは偶然と考えた。しかし多の相互の関係はけっして単なる偶然ではない。それは先に述べたように、多そのもののうちに基礎づけられているのである。

 アトム論は一から多が生まれるという考え方なのですが、多がどのように生まれるかといえば、その集まり方は偶然なんだと考えています。しかし「多の相互の関係はけっして単なる偶然ではない」とヘーゲルは批判しているのです。ヘーゲルは反発即牽引であり牽引即反発である、そういう関係としてとらえなければならないというのです。アトム論はそういう点で一と多、牽引と反発とを偶然のものとし、不可分のものとしてとらえていないとヘーゲルは批判しています。

 物質を斥力と引力との統一とみることによって、完全な物質観を与えたのは、カントの功績である。この説は、引力というものは向自有の概念のうちに含まれているもう一つのモメントであり、したがってそれは斥力におとらず物質の本質をなしているかぎり、確かに正しいところを持っている。しかし物質の力学的構成と呼ばれているこの説は、斥力と引力とを無雑作に現存するものとして要請し、それらを論理的に導き出していない欠陥を持っている。

 「物質を斥力と引力の統一とみることによって完全な物質観を与えたのはカントの功績である」とありますが、現在の科学では物質は三つの構造系列をもっていて、その構造系列ごとに核力、電磁力、重力の引力と斥力の関係でとらえているという点で、カントの功績は大なわけです。カントが引力と斥力とを統一的にとらえて、物質はこの二つの力の統一からなると考えたのは正しい。しかしカントの場合は、物質を成り立たせるものが引力と斥力との統一であることの必然性を論理的に導き出していないと批判しているのです。ヘーゲルは、自分は向自有から反発と牽引、一と多を論理的に導き出し、かつ相互の関係を的確に表現しているといいたいわけです。

 こうした演繹がなされていたら、単に主張されている統一が、いかにしてまたなぜ存在するのかも明かにされたであろう。とにかくカントは、物質がそれだけで存在するものではなく、また言わば附随的に上述の二力を具えているのでもなく、それはひたすらこの二力の統一において成立すると考えられなければならないことを強調しているし、ドイツの物理学者たちはしばらくこの純粋力学を承認していたのである。

 論理的に物質が引力と斥力の統一からなるということを導き出していない点では、たしかにカントも批判されるべきである。しかし、物質はこの二つの力を附随的にもっているのではなく、物質は即二つの力のバランスであるととらえていることは、カントの功績として評価しなければならないだろう、というのです。

 しかし近頃ではまた、多くの物理学者が、アトム論の立場に帰る方が便利であると考えるようになり、その同僚である故ケストナーの警告にそむいて、物質はアトムと呼ばれる無限に小さい粒子から成っており、そしてこのアトムはそれに附随する引力や斥力、その他任意の諸力の働きによって相互に関係させられると考えている。これもまた形而上学ではある。しかしこのような無思想な形而上学にこそ用心する理由が十分にあると思われる。

 近代アトム論においては物質はアトムから成り立っている、と考えている。そこまではよいのだが、アトムのもつ引力や斥力は、単にアトムに付随的なものとしか考えられていない。カントは二つの力というのが附随的なものではなく、この二つの力によってこそ物質が存立しうると考えたけれども、近代アトム論が二つの力を附随的なものだと考えているのは無思想だ、と批判しています。

質から量への移行

 九八節補遺二 本節に述べた質から量への移りゆきは、われわれの普通の意識には見出されない。普通の意識にとっては、質と量とは、相並んで独立に存立している二つの規定にすぎない。したがってわれわれは、事物は質的にだけでなく、また量的にも規定されていると言い、それらがどこから由来し、また相互にどんな関係を持つかを進んで問題にすることはしない。しかし、量は揚棄された質以外の何ものでもなく、本節で考察した質の弁証法がこの揚棄をもたらすのである。

 この補遺二は、有論の「質」のまとめです。ここを読めば今まで述べてきたことが整理されて述べられており、よく分かると思います。この補遺二は質から量への移行を論じています。
 前半の部分ですが、常識的にいえば、すべてのものは質をもたないものもないし、量をもたないものもなく、一定の量をもった特定の質として存在しています。質と量の統一としてあるわけですから、常識的にいえば、質と量は相並ぶ二つの規定のようにも思えますが、本当はそうではないのであって、質がまず最初の規定なんです。なぜかというと、量を定義しようと思ったら、質から定義するしかないからです。まず量から定義しようとすると、後にアリストテレスの定義でみるように、おかしな定義になってしまう。そういう意味で論理の運びからいえば、まず質を論議しそして量を論じなければならないのです。後半の部分ですが、常識的な考えでは量とは一体何か、質とは何か、量と質とはどういう関係にあるのか、そういうことを論じないで、二つの規定を単に並列的に考えています。しかし量は質を揚棄したものであって、質の弁証法により、質は量に移行するというのです。
 質というものは、或るものを或るものたらしめるものです。量というのは質を捨象したものです。つまりすべてのものは質と量の統一としてあるわけですが、そのなかから質を取り除いたら残るのが量なんだということです。
 「本節で考察した質の弁証法がこの揚棄をもたらすのである」。これまで質をずっと論じてきました。まず有を、ついで定有を、そして向自有を扱いました。向自有は結局一と多の統一である。一と多は、すでに質を乗りこえた量である、よって量というのは質の弁証法によって質を乗りこえて生まれてくることが明らかになった、ということがいいたいのです。

 われわれは最初にを持ち、その真理として成が生じた。成は定有への過渡をなし、定有の真理は変化であった。変化の成果としてあらわれたものは、他者への関係および移行を免れた向自有であった。最後に、この向自有は、その過程の二つの側面をなす反発および牽引のうちで、それがそれ自身の揚棄であること、したがって質一般、質の諸モメント全体の揚棄であることを示した。

 この部分は有論における質全体の総括となっています。最初に有をもち、有は無であり、有と無の統一が成である。成は運動・変化をみているわけです。しかし運動の面ばかりをみていてはいけないのであって、相対的固定性の面もみなくてはいけない、それが定有です。定有は或るものから他のものへ変化する。その変化を悪無限ではなく真無限の変化としてとらえたときに、それは向自有になる。向自有というのは「他者への関係および移行を免れた」定有です。他のものに依存しないで自分自身が発展する質、それが向自有です。向自有というのは反発と牽引から成っている。反発と牽引というのは、一と多であって、そこではもう質が揚棄される。これによって質を終えて、次に量にいくのです。

 この揚棄された質はしかし、抽象的な無でもなければ、同様に抽象的で無規定な有でもなく、規定性に無関心な有にすぎない。われわれは普通の意識のうちに量としてあらわれるものも、こうした有の姿である。したがってわれわれはまず事物を質の見地から考察し、そして質を事物の有と同一な規定性とみる。次に量を考察するにいたると、われわれはすぐに、事物はその量が変化して、より大きくなろうとまたより小さくなろうと、あくまでもとのままであるという無関心で外的な規定性の表象を持つようになる。

 量は揚棄された質ですから「規定性に無関心な有」です「無関心」というのは主観的な意味あいを含んでいません。無関係と同じような意味です。「規定性に無関心」とは、量の増減は、質そのものに影響を与えないということです。量は質ではないものですから、少々変化しても質には影響しないのです。量は変化して大きくなろうと小さくなろうと、あくまでも質はもとのままです。また量の変化は質に対して、その外側から加えられた変化にすぎません。質の変化は質自身の力によるわけですが、量の変化は自分の力によらないのです。


B 量(Quantität)

 量の概括的なことを、まずお話ししておきます。
 個々のカテゴリーを学んでいるときに、それが全体のなかでどう位置づけられていて、前後のカテゴリーとどのように関連しているのかをたえず振りかえっておかないと「木をみて森をみず」になってしまって、何を議論しているのかサッパリ分からないということになってしまいます。もう一度、目次をみてみましょう。質と量の対応に注目しておきましょう。『小論理学』では『大論理学』とちがって、質の構成と量の構成とを意識的に対応させています。

第一部有論
 A 質
  a 有  ── (直接的な)無規定の有
  b 定有 ── 規定された有
  c 向自有── (完成された)真無限の有

 B 量
  a 純量 ── 無規定の量
  b 定量 ── 規定された量
  c 度  ── 真無限の量

 C 限度(度量)── 質と量の統一
 「B 量」も「A 質」と同じく三つに分かれます。一番目の「a 純量」からはじめましょう。


a 純量(Die reine Quantität)

量は質の揚棄

 九九節 量は、規定性がもはや有そのものと同一なものとしてでなく、揚棄されたものあるいは無関心なものとして定有されている純有である。

 純量は量そのものです、規定されていない純有に相当するのが純量です。純量は純有と同じく無規定なものですが、純有と違ってそれが規定されるにいたっても、何ら質に影響を及ぼさないもの、つまり揚棄された質です。量というものもやがて規定されるに至りますが、規定されると定量になります。しかし規定されても何ら質には影響を及ぼさない。そういう意味で純量は質を「揚棄された」ものであり、あるいは質に「無関心な」ものとして定立されています。純有は規定されると質をもつのですが、純量は規定されても質に影響を及ぼさないのです。

 ⑴ 大きさ(Grösse)という言葉は、主として一定の量をさすから、量をあらわすには不適当である。⑵ 数学は普通大きさを増減しうるものと定義している。この定義は、定義さるべきもの自身を再び含んでいるからきわめて不十分ではある。しかしこの定義のうちにも、量的規定とは、可変的でありかつ無差別的なものとして定立されているような規定であり、したがって量的規定の変化、すなわち外延量あるいは内包量の増大にもかかわらず、事物、例えば家はあくまで家であり、赤はあくまで赤であるという思想を含んではいる。

 純量を示すのに、量とは大きさであるというふうにいってもよいのかといえば、大きさとは一定の量を示すわけだから、純量を示すには不適当だ、というのです。例えば、リンゴの大きさといった場合は、直径一〇センチであるとか重さ一〇〇グラムであるとか、やっぱりそこでは一定の量の問題になってしまいます。だから「量とは大きさである」というと、純量と定量の区別をあいまいにすることになるから不適当だというのです。
 次に、量という言葉を使わないで、量のかわりに大きさを使って「大きさは増減しうるものである」と定義した場合はどうなのか、という問い方をしています。これはアリストテレスが『形而上学』のなかで定義しているものです。それで「この定義は、定義されるべきもの自身を再び含んでいるから、きわめて不十分ではある」、つまり同語反復だというのです。増減するものというと、何が増減するのかが問題になり、それは大きさだということになります。だから「大きさは増減しうるものだ」ということは、言いかえれば「大きさとは大きさが増減しうるものだ」ということになって「定義されるべきもの自身を再び含んでいるから」、同語反復にすぎないのだと批判しているわけです。
 しかし「大きさとは増減しうるものだ」という定義は、たしかに同語反復であり不十分なものではあるけれども、増減しても質には影響しないという意味あいを含んでいるかぎりでは、不十分ではあるが間違ってはいないのです。少々小さくても「家はあくまで家」であり、多くても少なくても「赤はあくまで赤」なのです。なお「外延量「内包量」は一〇三節で詳しく学習しましょう。」

 ⑶ 絶対者は純粋な量であるとする立場は、大体において、絶対者に質料(Materie)の規定を与え、質料には形式が見出されはするが、形式は質料に無関係な規定であると考えるのと同じである。

 これは分かりにくいのですが、おそらくピュタゴラスのことをいっているのだと思います。ピュタゴラスは「ピュタゴラスの定理」で知られているギリシア時代の哲学者ですが「数がすべての事物の本質である。したがって全宇宙の組織は、数とその諸関係との調和の体系である」といいました。なぜ数が世界の本質だといったかというと、数字のもつ特徴に目をつけたのです。
 宇宙は恒常的な存在としてあるわけで、毎日東から太陽が昇り、西に沈む、天にある星は「星辰は常に位置を変えず」ということがあるわけです。宇宙は調和的に動いているようにみえますが、調和を保っているのは一体なんだろうかと考えて、それは数のバランスだろうとみるわけです。このように量(数)を絶対化するピュタゴラスの立場は、質料と形式をきりはなし、質料のみを絶対化する立場と同様に一面的だというのです。

 また絶対者は絶対に無差別なものであって、あらゆる区別は量的にすぎないと考えられている場合にも、量が絶対者の根本規定をなしているのである。── その他純粋な空間、時間、等々も、それを充たしている実在的なものが空間および時間に無関係なものとされているかぎり、量の実例を考えることができる。

 「絶対者は絶対に無差別なもの」とする考えも、純量という「無差別なもの」を念頭において、量を絶対化するものとして批判しているのです。また「純粋な時間、空間」というのも、限定された時間や空間ではありませんから、純量の一例としてあげることができるのです。

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