『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第一〇講 有論・量 Ⅱ

「増減しうるもの」批判

 九九節補遺 数学において普通行われているところの、増減しうるものという大きさの定義は、一見本節に含まれている概念規定よりも明白で尤もらしいようにみえる。しかしよく考えてみると、この定義は、論理的展開の道によって明かになった量の概念を、前提および表象の形で含んでいるのである。すなわち、大きさの概念は増減されうることにあると言われるとすれば、それはまさに大きさ(あるいは、より正しく言えば量)が、質とはちがって、その変化によって特定の事柄そのものに影響を与えないような規定であることを言いあらわしているのである。

 数学において普通行われている「量は増減しうるもの」という大きさの定義は、アリストテレスの定義です。アリストテレスは量という言葉を使わないで、大きさという言葉を使っています。「大きさとは増減しうるものだ」という定義は「明白で尤もらしいようにみえる」けれども、量の概念を「前提」として「表象の形」で含んでいるといっています。表象というのはここでは常識的な考えというような意味です。なぜこの定義が前提を含んでいるのかというと、大きさは増減するものであるというときに、何が増減するかといえば、それは大きさが増減するからです。
 だから「大きさとは増減するものである」という定義は、もっと正確にいえば「大きさとは大きさの増減するものである」とならざるをえない。したがってそれは証明すべきものを結論のなかに含んでいると批判をしているのです。けれどもこの考えは常識に沿った考えで、必ずしも間違っているとはいえません。なぜかというと「大きさ(あるいは、より正しく言えば量)が、質とはちがって、その変化によって特定の事柄そのものに影響を与えないような規定であることを言いあらわしているのである」からです。
 質というものは質が変化すると、或るものが他のものになりますが、量はそうではありません。「事柄」というカテゴリーは、本質論のなかで出てくるのですが、ここでは「実質的内容」といってもよいと思います。大きさは質と違って、量が変わってもそのものの実質的内容には何も変化が生じないという意味です。第九九節の本文のところで「家はあくまで家であり、赤はあくまで赤である」というのがありました。家はたしかに大きくても小さくても家だというお話をしたと思います。大きい家も小さい家もいろいろあるけれども、それはみんな家だ、そういう意味で、大きさとは増減しうるものという定義をしても事柄自体には影響を及ぼさないという消極的な意味合いを含んでいる点では、正しい意味をもっているというのです。

 では上に指摘した普通の量の定義の欠陥がどこにあるかと言えば、それは、増減するとはまさに大きさの規定を変えることを意味するにすぎないという点にある。もし量がこれにつきるとすれば、量とはまず可変的なもの一般にすぎないであろう。ところが質もまた変化しうるものであるから、上に述べたような量と質との相違は増加あるいは減少ということによって言いあらわされている。

 大きさとは増減しうるものであるという定義の欠陥は、この定義によれば、量とは可変的なものであるというのと同じように思われかねないところにあります。可変的なものということになれば、質も可変的だから、質との区別はなくなってしまうようにもみえます。ただし、量も質も可変的といっても、増減という形での変化をとるのは、量だけです。質もたしかに変化はするけれども、その変わり方は増減ではありません。質が増えるとか質が減るといったようなことは、ないのです。例えば、砂糖水のなかに砂糖をどんどん入れていけば、甘味は増しますが、砂糖水の質が増減するのではありません。だから増減しうるものという言葉のなかに、そういう形態をとる変化の仕方をするのは量だけであるという意味では、この量と質との変化の違いが「量とは増減しうるもの」という定義のなかにも、言いあらわされているともいえるのです。

 そしてこのことは、一定の量がどの方向に変化させられようと、事柄そのものはもとのままであるということを含んでいるのである。── ここで注意しておくが、およそ哲学において求められるものは、単に正しい定義ではなく、まして単にもっともだと思われるような定義、すなわちその正しさが表象的な意識にとって直接に明白であるような定義ではない。それは確証された定義でなければならない。すなわち、その内容が単に目前に見出されたものとして取上げられているような定義ではなく、その内容が自由な思惟のうちに基礎づけられているもの、したがって同時に自分自身のうちに基礎づけられているものとして認識されているような定義でなければならない。このことを今取扱っている場合にあてはめてみればこうなる。すなわち、数学で普通行われている量の定義がどんなに正しく、また直接に明白であろうとも、量という特殊の思想が普遍的思惟のうちにどの程度基礎づけられており、また必然的であるかを知ろうとする要求は、それによって満足されないのである。

 哲学上の定義は、単に正しいとかもっともだというような定義では足りないのであって「確証された定義」でなければならない。「確証された」とは「その必然性が明らかにされた」ということであり「なぜそうであり、かつそれ以外のものでありえないのか」という形で定義をすることです。結論が正しそうにみえるだけではだめなので、媒介されたものとしてその定義を明らかにすること、その根拠を明らかにしてその必然性を証明することが求められているのです。
 われわれが議論するとき、結論だけポンということがよくあります。それがどんなに正しい結論でもそれだけでは人は納得しない。やはりなぜそうなのかということをいわなくてはなりません。それは、根拠や本質を明らかにするということなのです。だから本質論で一番最初に出てくるのは「根拠」というカテゴリーなのです。
 「その内容が自由な思惟のうちに基礎づけられているもの」とは、論理的に正しさが根拠づけられているものという意味です。「したがって同時に自分自身のうちに基礎づけられているものとして認識されている」とはその根拠を自分自身のうちにもっていることです。あの人がこういったからこうなんだというのは自分自身がもっている根拠にはなりません。自分自身がもっている根拠とは、そのものがなぜそのものとして存在しているのか、そのもの自身によって明らかにすることが必要なんです。
 数学で普通行われている「大きさとは増減するものである」という定義は、常識からみてまちがってはいないが「どんなに正しく、また直接に明白であろうとも、量という特殊の思想が普遍的思惟のうちにどの程度基礎、づけられており、また必然的であるかを知ろうとする要求は、それによって満足されないのである」というのです。「大きさとは増減するものである」という定義は間違ってはいないけれども、なぜそのように定義され、それ以外の定義をなしえないのかという根拠なり、必然性は、明らかになっていないのです。だからこの定義は不十分であり「量とは質の捨象されたものである。だから量が変化しても質には影響を起こさない」と定義されるべきであると、ヘーゲルは主張しているのです。

量の絶対化批判

 それのみではない。もし量が、思惟によって媒介されないで直接表象から取られるならば、量の妥当範囲は過大に評価され、量は絶対的なカテゴリーにまで高められるおそれが非常にある。こうしたことは、その対象を数学的に計算しうるような科学だけが精密科学として承認される場合、実際に行われている。ここにもまた、前に(九八節の補遺)述べたような悪しき形而上学、一面的で抽象的な悟性規定を具体的な理念に代える形而上学がみられるのである。

 ヘーゲルは量というカテゴリーは、質より一歩前進したカテゴリーと考えていますが、それは認識論としても正しいでしょう。
 数を数えることは、高度な抽象能力がいるのです。だから未開と文明を分ける一つの基準は、数をどこまで数えることができるかということにおかれたりします。未開の場合、片手の指で一から五までは数えられるが、それ以上は「たくさん」としか言えない。量の認識というのは物事を抽象化する能力を必要とするので、認識の問題としては質よりも発展したより高い認識なのです。ただ、質よりは高い認識なんだけれども、ヘーゲル論理学の体系からいうと、量は有論の一構成部分にすぎず、認識は有論から本質論、さらに概念論に至る壮大な発展段階を成しているのですから、量を認識の最高段階としてとらえるピュタゴラスの見地とか、また後ほど説明する機械的唯物論の見地などの、量を絶対化する考えは問題外だといっているのです。
 量を絶対化する考えは現在も残っています。コンピューターを使って計算すればそれで万能だとする考えです。アメリカがベトナム侵略戦争を始めたときに、五〇万の兵隊がいたら一ヵ月もあれば勝てるとコンピューターで計算しました。それなのになぜアメリカは負けてしまったのか。戦争を数と数の対決とみて、質と質の対決でもあるという点をみなかったからです。アメリカの国民にとっては不正義な他国への侵略であり、他方ベトナムの人民にとっては許すことのできない他国からの侵略であり、人民一人ひとりの戦争に対する認識の質的違いが勝敗を決めたのです。コンピューターは、量のみを取り扱って質をみないから、決して万能ではないのです。
 量と質の両方をみたら、それで万能かというとそうでもないのです。そんなことはまだまだ認識としては不十分であり、本質もみなくてはならない。本質をみればそれで終わりかといえば、とんでもない。概念もみなければならない。まだまだ認識の進むべき先は長いということになるのです。量を哲学的に正確にとらえないと、数学の妥当範囲が広いだけに、量を絶対的なカテゴリーにまで高めるおそれがあります。数学だけを精密科学として承認する数学至上主義がそうです。しかしこれは悪しき形而上学、言いかえれば、一面的な悟性的な考え方にすぎないのです。

 われわれが自由とか、法とか、道徳とか、更に進んでは神そのものというような対象を取扱う場合、それらが測定できないとか、数式で表現できないとかいう理由によって、われわれがそれらの精密な認識を断念し、漠然とした一般的な表象で満足しなければならないとすれば、そしてそれらの細部は、どんなものを作り上げようと各個人の勝手に委せなければならないとすれば、われわれの認識能力は実際情ないものと言わなければならない。こうした思想から実践の上にどんな悪い結論が生じるかは、あまりにも明白である。

 この例がよいかどうかは少し問題がないとはいえませんが、自由とか法とか道徳とか神とかいうものを数字で示せといっても、こういう高度な認識の対象となるものを、数のような低位のカテゴリーで表現することはできないというのです。生命体のようなものは、単純に数字では言いあらわせないのです。ヘーゲルもこの後でいっているんですが、数学で言いあらわすことができるのは、サイエンスのなかでもやはり比較的単純な科学でしょう。複雑系を取り扱うような対象になってくると、もうこれは量や質だけではどうすることもできないということになってくるのではないでしょうか。

 なお、論理的理念の特定の段階である量を、論理的理念そのものと同一視する、この単なる数学的な立場は、学問の歴史、特に前世紀(十八世紀)中葉以来のフランスを見ても明かなように、唯物論の立場にほかならない。物質なるものの抽象性は、物質には形式が見出されはするが、それは物質にとってどうでもいい外面的な規定として存在するにすぎない、という点にある。

 ここは一八世紀のフランス唯物論を批判しています。一八世紀のフランス唯物論というのは、マルクスやエンゲルスが機械的唯物論として批判した唯物論です。一番典型的なものとしてラ・メトリの『人間機械論」(岩波文庫)があります。人間を自動機械と考える一つの機械的唯物論の典型です。人間がものを考えるというのは、ちょうど肝臓が胆汁を分泌するように、脳が意識を絞りだすのだと、こんな言い方をしているのです。そのほか腹が減ったら勇気がなくなるから戦争をするなとか、今日では非常に滑稽な考えです。
 ラ・メトリの『人間機械論』を含む十八世紀のフランス唯物論を、ヘーゲルがどうとらえているかが問題なんです。ヘーゲルはこのようにいっています。唯物論のいう物質そのものは抽象的な存在であって、具体的な物質でないから、個々の物質を質的に区別することはできない。質的に区別ができないとなるとせいぜい量的な区分しかできないことになる、という批判をしているのです。「この単なる数学的立場は、量のみしかみないという」点で「唯物論の立場にほかならない」というのです。この展開は三八節補遺(㊤一六二ページ)にありますから、ここをみてみましょう。

 経験論は一般に外的なものを真実なものとし、超感覚的なものを認める場合でも、その認識は不可能であって、われわれはひたすら感覚に属するものに頼らねばならないと考える。この原則が徹底させられるとき、それは後に人々が唯物論と呼んだものを生んだ。唯物論にとっては物質そのものが真に客観的なものである。しかし物質とはそれ自身すでに一つの抽象物であって、われわれは物質そのものを知覚することはできない。だからわれわれは、現存する物質は常に規定されたもの、具体的なものであるかぎり、物質というものは存在しないと言うことができる。にもかかわらず唯物論は、物質というような抽象物があらゆる感性的なものの基礎であり、感性的なもの一般、絶対的な個別化、したがって相互の外にあるものと考えている。

 唯物論では物質が真に客観的なものだといっているけれども、物質そのものは規定されたものでない抽象的なものだから、そんなものは存在しない、という批判をヘーゲルはしていますが、これは正しくありません。われわれが物質と意識という場合は、物質を抽象化しているのです。例えば、人間という人類から出発して、人類は哺乳類である、哺乳類は動物である、動物は生物である、生物は物質である。これから先は抽象化できない、最高に抽象化した概念が物質ですから、この物質が規定されていない形で存在するのは当たり前のことです。
 われわれが使う物質というカテゴリーは、ちょうどヘーゲル自身が純有とか純量とかいうのと同じような意味で、いわば純物質なのです。意識の方も意識のなかには感覚的な意識、悟性的な意識、理性的な意識などいろいろあるけれども、それを抽象化していくと意識一般になる。その意識一般と物質一般との対比において、どちらがより根元的なものなのかという問いの立て方をするのが、唯物論か観念論かの対立であり、ヘーゲルの唯物論批判は正しくないと思います。しかしこんな形で十八世紀のフランス唯物論の批判をしたというのは、当時の唯物論が機械的唯物論であって、ヘーゲルにとっては、人間を機械と同様に扱うなんてもってのほかだ、人間の意識をなんと心得ているのかという怒り心頭に発しているわけです。そういう見地からの唯物論批判であることをみておかなければならないと思います。
 テキスト㊤三〇四ページに戻ります。物質というのは、アリストテレス以来、質料と形式から成っていると考えられてきました。例えば、ミロのビーナスは、大理石という質料に、彫刻という形式を伴って誕生するのです。だから物質そのものということになると、形式がなくなってしまい、残るのは質料だけになります。その質料というのはもう量で測ることしかできないから、この唯物論は、量を絶対化する数学的な立場だという批判をしているのです。
 これは一八世紀の唯物論の批判として受けとめればよいでしょう。つまり一八世紀の唯物論は、絶対に無差別な質料が客観的な真の存在だという立場だとヘーゲルは理解します。質料というのは無差別ですから、区別するとすれば量的にしか区別されえない。それで「量が絶対者の根本規定をなす」と唯物論はいっているが、しかしこれは正しくないと批判しているのです。

量は理念の一段階

 ── しかし、こう言ったからといって、それを数学の価値を軽くみるものと解する人があれば、それは大きな誤解である。われわれが量的規定を事柄と無関係な、単に外的な規定と呼ぶからといって、それは決して怠惰や皮相に口実を与えるものでもなく、また量的規定は放置しておいたらいいとか、少くともそう厳密にとらなくてもいいとかいうような主張を認めるものでもない。量は、何と言っても、理念の一段階であり、したがってそれにはまず論理的カテゴリーとして、次には対象的な世界において、すなわち自然および精神の世界において、正当な位置が与えられなければならない。

 量というカテゴリーは、それを絶対化してはいけないが、認識の一段階として必要なカテゴリーであり、それに正当な位置が与えられなければならない、というのです。
 「自然および精神の世界において正当な位置が与えられなければならない」とありますが、ヘーゲルは精神の方が自然よりもうえに位置すると考えています。意識の能動的作用は、自然を合法則的につくり変える力をもっています。そういう意味で人間は自然より上にいるのだという考えです。それでは、どういう位置づけを与えられなければならないかということを、次に学びましょう。

 もっとも、自然の世界の諸事物と精神の世界の諸事物とでは、量的規定の重要さが等しくないという相違はある。自然は、本来の自己とは異った形を持ち同時に自己の外にある理念であるから、自然においては、自由な内面性の世界である精神の世界においてよりも、量はより大きな重要さを持っている。

 これはヘーゲルの観念論的な考えといってもよいと思います。自然は精神よりも低い位置にあり、低い位置にあるものほど、低いカテゴリーである量が重い役割をしめる、というのです。精神と自然を比較すると、量にしめる役割は自然の方がずっと大きく、精神の方ではあまり大きな役割をもたないというので、ヘーゲルの論理学にも、あまり数学は出てきません。われわれは精神を学ぶのだから、数学ばかりやってもしかたがないということなのでしょう。

 もちろんわれわれは、精神的内容をも量の見地のもとに考察しはする。しかし、われわれが神を三位一体とみるときの三いう数は、例えばわれわれが空間の三次元や、三角形の三つの辺(三角形では三つの辺によって限られた面ということが、まさにその根本規定をなしている)を考える場合にくらべると、はるかに従属的な意義しか持っていないのは、一見して明かである。

 この例も少しどうかなという気がします。精神的な内容として、神を三位一体としてとらえる例をあげています。キリスト教においては父と子と聖霊が三位一体としてとらえられています。ヘーゲルは、論理学=父、自然哲学=子、精神哲学=聖霊と考え、自己の哲学を三位一体の弁証法的関係とみるのです。神は精神だから、そこにおける三という数字はあまり意味をもたないのに対し、自然における三はより重要な意味をもつのだといっていますが、私たちにとってあまり重要なことではありません。

 更に自然の範囲内においても、量的規定の重要さに相違があって、無機的自然においては、量が有機的自然におけるよりもより重要な役割を演じている。また無機的自然の範囲内でも、力学的領域と狭い意味での物理学的および化学的領域とを区別すれば、ここにもまた同じ相違が見出される。力学は、一般に認められているように、最も数学の助けを欠くことのできない科学、否、数学なしには一歩も進めない科学である。そのためにまたそれは、数学そのものに次いで、高度の精密科学であると普通考えられているが、こうした考えにたいしては、唯物論的立場とひたすら数学的な立場との一致にかんして上に述べたことに、もう一度注意を促さなければならない。

 ヘーゲルは、精神の世界、人間の意識の世界を一番上に置いて、それからこんどは自然をみるのですが、自然のなかでも人間に近い有機的な自然を上に、その下に無機的な自然をおきます。無機的な世界もさらに段階を分けて、一番上には物理学、その下に化学、またその下に力学をもってくる。下にいけばいくほど量の比重が高まって、上にいけばいくほど量はあまり関係がなくなっていくといっています。結局、すべての物質を一まとめにしたうえで、量でしか区別できないととらえるのは、低い認識だということがいいたいのです。

 ── ここに述べたすべてのことからわかるように、もし、しばしばなされているように、人々が対象のあらゆる区別と規定性とを単に量のうちにのみ求めるならば、それは精密で根本的な認識をこの上もなく妨げる偏見の一つと言わなければならない。もちろん、例えば精神は自然以上のものであり、動物は植物以上のものではある。しかし、もし人がこうした多少にのみ立ちどまっていて、これらの対象の固有の規定性、ここではまず質的規定性を理解するにいたらないならば、人はこれらの対象およびその区別についてきわめて少ししか知らないのである。

 精神は自然以上、動物は植物以上ということは、結局、量のもつ意味あいの違いで区別するのですが、量だけをみて満足していたのではだめで、精神、自然、動物、植物などの質をも問題とし、さらには本質や法則的なものを見つけ出して認識しなければならない。それがこれからの課題だというのです。

量は、連続性と非連続性の統一

 一〇〇節 量は、まずその直接的な自己関係、あるいは牽引によって定立された自分自身との相等という点からみれば、連続量(kontinuierliche Grösse)であり、そのうちに含まれている一というもう一つの規定から みれば、非連続量(diskrete Grösse)である。しかし連続量は、多くのものの連続にすぎないから、また非連続的でもあり、非連続量は同時に連続的であって、その連続性は多くの一の同一としての一、単位(Einheit)である。

 ここは非常に大事なことをいっています。ここでは純量、規定されない量をみているのですが、規定されない量そのものは、実は切れ目のない状態として連続量のようにみえたけれども、よくみるとそれは同時に非連続量なんだと、いうのです。量そのものは、連続量と非連続量の統一から成っている、そのことをヘーゲルはいいたいのです。
 少し詳しくみましょう。「量は、まずその直接的な自己関係、あるいは牽引によって定立された自分自身との相等という点からみれば」とあります。「量は、まずその直接的な自己関係」とは、純量が規定されていない量であることをいっているのです。量は或るものの外側から規定されるものであって自ら規定するものではありません。例えば、二つのリンゴが三つになるのは、リンゴ自身にはできません。人間がもう一つもってくるしかないのです。量が規定されるときには、必ず外から規定されるのだけれども、外から規定される状況にまだ至っていないという段階が「直接的な自己関係」の意味です。量が直接的に自分だけで存在している段階です。
 「あるいは、牽引によって定立された自分自身との相等という点からみれば、連続量であり、そのうちに含まれている一というもう一つの規定からみれば非連続量である」とあります。向自有のところで反発と牽引をみたときに、反発は多、牽引は一だといいました。だから牽引と反発の二つのカテゴリーで量をみたときに、牽引(一)に相当するのが連続量、反発(多)に相当するのが非連続量だ、というのです。
 なぜ連続量は非連続量なのかといえば、連続量はたしかに切れ目なくつながっているのだけれども、それは一という単位(非連続)からなっているからです。時間も空間も無限の長さ、広がりをもっている。では無限だから測ることができないかといえば、そうではない。ではどうやって測るのかといえば、一という単位を基準にするのです。単位をもつことができるということは、それが非連続だからなのです。「そのうちに含まれている一というもう一つの規定からみれば非連続量である」それが単位としての一という非連続量が積み連なって連続量というのが生まれてくる。大事なことは、量そのものが、連続量であると同時に非連続量の統一としてあることです。一つの量が二つの側面をもっているのです。

 ⑴ このかぎりにおいて、連続量と非連続量とは、一方の規定が他方には属さないような、量の二種類とみるべきではなく、両方の相違はただ、同一の全体が或るときはその二つの規定の一方のもとに定立されており他の場合にはもう一つの規定のもとに定立されているという点にあるにすぎない。

 量に二種類あるのではなく、一つの量のなかにそういう二つの側面がある。量とは連続量と非連続量の統一であるととらえないと、運動を理解することができない。ここでは述べていませんが「ゼノンの逆説」を批判するときに、この見地から批判しなければならないとヘーゲルはいうのです。

カントのアンチノミー批判

 ⑵ 空間や時間や物質にかんするアンチノミーとは、一方ではそれらが無限に分割されうることを主張し、他方ではそれらが分割できないものから成っていることを主張するものであるが、それは量を一方では連続的なものとして、他方では非連続的なものとして主張することにほかならない。もし空間、時間、等々が単に連続量の規定をもって定立されるならば、それらは無限に分割しうるものである。しかし非連続量の規定をもって定立されるならば、それらはそれ自身分割されているものであって、分割されない諸々の一から成っているどちらの見地も同じく一面的である。

 連続量とは何なのか。ここでは無限に分割され「うる」ものと書いてありますが、これは無限に分割しうる可能性をもっているけれども、結局、分割しつくすことができないもの、それが連続量です。
 では非連続とは何なのか。それ自身がそれ以上分割されないものとして、絶対的に分割されたものとして存在するものです。アトムというのはこれ以上分割できないものという意味です。だからアトムはこれ以上分割できない非連続です。けれども、連続するものは分割される可能性をもっているが分割されつくされないのだから、どこまでいっても分割が進んでいく、そういうものが連続性です。
 「ゼノンの逆説」として「的に射た矢はとどかない」という命題があることを以前にお話ししました。的に届こうとして行程のまず半分を進む、つぎに残りの半分を進む、さらにその残りの半分を進む、どこまで行っても矢は的に届かない、というものです。なぜこれが論理的にまちがいかといえば、ゼノンは非連続の「点」を問題にしながら、そのなかに連続性を持ち込んでいるからです。運動するということは、連続性と非連続性の統一ですから、分割しつくされないと同時に分割される。そういうものの統一としてとらえることによってはじめて「ゼノンの逆説」を論破することができるのです。
 カントの「アンチノミー」は日本語では「二律背反」とか「矛盾」とか訳されています。カントは、世界に始まりがあるのかないのか、物質は無限の分割が可能かどうか、時間は無限なのか有限なのか、人間の意識は自由なのか必然なのか、この四つの命題について、定立と反定立という相反する命題を提起して、そのいずれも成り立つことを証明しました。そこから、理性的な認識というのは無限なものを認識しようと思うと、矛盾に陥らざるをえないのだといい、認識論として不可知論の立場に立ったのです。カントは本当に真なるものを認識しようと思えば、人間の認識能力は矛盾に陥らざるをえなくなって、結局、それは認識しえないという結論を導き出しました。
 これに対しヘーゲルは定立と反定立の命題をバラバラなものとして切りはなして認識したところにカントの混乱があるといいます。もともと連続性と非連続性とは対立物の統一としてあり、そこをカントは見逃しているということなのです。ヘーゲルはカントと違って、矛盾を運動の原動力として積極的に評価し、矛盾と弁証法の関係をみたのです。

《質問と回答》

 第一の質問は「ヘーゲルは精神の優位性をいっているが、そうなるとすべての存在するものが人間にとって、意義あることになるのか」というものです。
 質問の真意が今一つ分からないのですが、ヘーゲルが精神を自然よりも優位においた意味を、唯物論的にどう理解すればよいのか、ひとこと述べておこうと思います。この点がいわゆるヘーゲルの観念論にも関連するところです。客観的観念論の創始者といわれるプラトンは、われわれが日常的に感覚的にとらえる事物はすべて移り変わっていく、だからこれらの流転する事物には真理はありえないと考えました。では真理はどこにあるのかというと、こういう感覚的事物とは別の世界にある存在こそ永遠の変わらない真理だととらえ、それをプラトンはイデアと呼んだわけです。
 ヘーゲルもこのプラトンのイデア論を引き継いでいるわけで、有限なものに真理はないと彼は考えます。つまり有限なものというのは客観的な世界、物質の世界であり、ここには真理はない。では真理はどこにあるのかというと、真理は無限の精神の内にあるという意味で、彼は精神を自然よりも優位においているわけで、ヘーゲルの観念論もそこに根ざしているといってもよいと思います。
 しかしわれわれがヘーゲルの合理的なものをとらえようとするとき、この精神を自然よりも優位におくことの唯物論的な意義はどこにあるのかをとらえておかなければなりません。それは大きくいって三つあると思います。
 第一は、ヘーゲルの真意は、自然や社会を変革する人間の意志の力に優位性を認め、変革の立場を強調したかったのだと思うのです。つまり、客観的世界という有限の世界に真理はない、真理は精神の中にあるいうことは、社会を変革する人間の意志こそ自然に対する優位性をもっているのだということをあらわしていると思います。
 二つめは、人間の認識は無限に客観的真理に接近しうる真無限であり、そういう意味で精神は真無限だとヘーゲルはいっているのだと理解すべきではないかと思います。そして三つめに、自然や社会の変革とは、客観世界を合法則的に発展させること、それによって真理に向かって前進していくことを意味している。この三つの意味で、私はヘーゲルが精神の自然に対する優位性をいっているのだと思います。つまり自然や社会の法則的なものを認識して、それを合法則的に変革する人間の意志、あるいは認識および実践、その優位性、その役割をヘーゲルは重視したのです。われわれはそのような変革の立場をヘーゲルから学ぶべきだろうと思います。
 一〇〇節で、時間や空間、物質の連続性と非連続性の統一ということを学習しました。第二の質問は、それに関連して「時間と空間を連続性と非連続性の統一としてとらえることはよく分かりました。だから運動がこの連続性と非連続性の統一した形であることの証明となるのでしょうか」というものです。時間や空間が連続性と非連続性の統一としてあるということは、運動が連続性と非連続性の統一であるということと、同じ意味なのかという質問だろうと思います。運動と時間・空間の関係をどうみたらよいのかという問いではないかと思います。
 実は、そのことをゼノンが問題提起したのです。ゼノンはエレア派の有名な哲学者です。エレア派とはどんな学派なのかといいますと「有のみがあり、無は存在しない」として運動を論理的に否定したのです。ゼノンは運動することは変化することであり、真実の有は決して運動には属さない、運動には真実がないということを証明してみせました。運動を否定する例として「ゼノンの逆説」といわれている四つの例をあげたわけです。その四つの例の一つが「的に向かって射た矢は的には届かない」というものです。これは運動を否定する論理として持ち出されたものなのです。ゼノンは、運動することと時間・空間の連続性・非連続性の関係をどうとらえるかという問題として、鋭く提起しました。
 純量としては、時間・空間は抽象的なものでしかないわけで、それが運動をとおして現実になるわけです。運動の本質は、時間・空間を限定することによって、その時間・空間を現実のものにするのです。物質の運動を考えることによって時間・空間は、はじめて現実的に意味をもってくる。したがって「運動における連続性と非連続性の統一」ということを詳しくいうならば「運動とは時間と空間の連続性と時間と空間の非連続性の統一である」ということになります。レーニンは『哲学ノート』のなかで「運動とは連続性(時間と空間との)と非連続性(時間と空間との)との統一であるという言い方をしています」(レーニン全集㊳二二五ページ)。 第三の質問もそれと関連したものです。「ゼノンの逆説は、運動は連続性と非連続性の統一だととらえないという説明がありましたが、非連続性と連続性の統一とはどういうことか」という質問です。大変に大事な質問であって、やっぱり「ゼノンの逆説」には、たえず立ち戻って考えるべき哲学的な深い問題が含まれていると思います。
 運動は連続性と非連続性の統一だといいました。言いかえるならば、今この場所にあってこの場所にないというのが運動なんです。位置の運動としてはそういうことがいえます。「ここにある」というのは、点として存在するということですから非連続性の問題なんです。「ここにない」というのは連続性の問題です。それで「ゼノンの逆説」は結局どこに問題があるのかということになるわけですが、最初の第一歩に問題があることははっきりしています。つまり「運動する物は目標に達する前に空間の半分に達せねばならない」、後はこれの無限の繰返しですから、これが正しいのか正しくないのかということになってきます。だからこれが正しくないことをいわなかったら、先に進めないわけです。
 運動の連続性とは一体どういうことかといいますと、一〇〇節 ⑵ に出てきますが、連続量とは「無限に分割しうる」ものであるのに対し、非連続量は「それ自体分割されているものであって分割されない諸々の一からなっている」ものです。つまり非連続量は、もうこれ以上分割されないところまで分割されてしまっているものです。
 それで「飛んでいる矢」を問題にしているかぎり、それは連続量を問題にしていることになります。だからその「飛んでいる矢」を問題にしているというのは、無限分割の可能性は論じることができるわけです。連続量とは「無限に分割しうる」ものであり「しうる」ものとは単なる可能性です。AからBという点、これは一定の限定された空間になりますけど、この間を運動して飛んでいる矢をみるわけですが、これを運動している姿として見ることは連続性としてみること、無限の分割可能性としてみることにほかなりません。この間が無限に分割できる可能性をもっているんだ、ということは一体何を意味するのかといえば、この間に無限の距離があることとほとんど同じ意味なのです。
 ですからゼノンの逆説は、無限に分割しうる可能性があるところの無限の空間について、無限の二分の一なる点が果たしてとりうるのかどうかという問題に帰着するのです。無限の二分の一とは、一体なんでしょうか。無限は、その二分の一であろうが、四分の一であろうが、百分の一であろうがやはり無限なのです。そういうものを無限というのです。だからゼノンが連続性を問題にしている中で、無限に分割しうるものの半分に達するという、無限を二分しうる点が具体的に存在しうると考えたところに、最大の問題があるのです。「無限数の半分」というのは、現実のものではなくて単なる可能性にすぎないものです。
 AからBへ行こうと思えば、無限の半分の点を通過しなければならないといっているのは、単なる可能性にしかすぎないのです。そうはいっても現実には中間点を通過するではないか、との反論が出てくるでしょう。なるほど現実には中間点を通過します。中間点に達するということは単なる可能性ではなく現実のことですが、大事なことは、今度は運動の非連続の側面をとらえているということなのです。結局ゼノンのいっていることは、連続量を問題としながらそこに非連続量を持ち込むというまちがいを犯しているということです。現実の空間の半分は、非連続性の見地からはじめてとらえることができる。連続性の見地からとらえるときには、無限の分割の可能性ですから、その半分というのは単なる可能性にすぎない。現実的にはありえないのです。
 こういう反論を誰がしたかといえば、実はアリストテレスなのです。ヘーゲルはこのアリストテレスの批判をすごいと評価しています。ヘーゲルは「アリストテレスがゼノンの逆説に与えた回答は、時間と空間とは無限に分割されたものではなくて、ただ分割しうるものにすぎないという批判を加えた。これは正しいだろう」といっています。だから連続性は切れ目がないことですから、一点を論ずる限りそれはもう非連続性の問題になってしまう。だから運動というのは「ここにあって、ここにない」でしかない。それ以上にいいようがないのです。
「ここにあって、ここにない」というのは、言いかえれば、連続性と非連続性の統一だということです。その「統一」とはどういう意味なのかが、ここで論じられなければなりませんが、それは連続性である「と同時に」非連続性であるという意味であり、それを連続性と非連続性の「統一」という言葉で呼んでいるわけです。
 「ゼノンの逆説」にかんして、ヘーゲルがアリストテレスを引いて反論したのに続いて「しかし運動するとは、この場所にあって、同時にこの場所にあらぬということである、これが空間および時間の統一であり、そしてこの連続性がはじめて運動を可能にするのである」と書いてあるところを、レーニンは『哲学ノート』で「注意、正しい!」と線を引いております。
 つづいてレーニンは、ロシアの哲学者であるチェルノフの「運動とは、物体が一定の瞬間には一定の場所にあり、次の瞬間には他の場所にあるということである」と定義しているのを批判しています。われわれは運動を「一定の瞬間にこの場所にあると同時にこの場所にない」ととらえるのですが、チェルノフはそれとは違うとらえ方をしたわけです。どう正しくないか。第一に「それは運動の結果を記述しているが、運動そのものを記述していない。「一定の時間に一定の場所」にあったものが、なぜ「次の瞬間には他の場所」にいっているかが問題」なのに、チェルノフは運動の「結果」を示すだけで「運動そのもの」を説明していないのです。
 第二に「それは運動の可能性を示さず、それは運動を静止状態の総和として描き出している」だから、この点その点、次の点という無数の点の総和が運動だとしているものであって、これはやはり正しくない。ですから、運動を連続性と非連続性の統一として理解する、その連続性と非連続性(レーニン全集㊳二二六~二二七ページ)は、言いかえれば、時間・空間の連続性と非連続性の統一であり、それが運動の連続性と非連続性の統一になる。そういう矛盾したものが運動なんだということです。それなのにゼノンは、運動の連続性を論じながらそれを非連続性で説明しようとしたわけです。運動の連続性を運動の非連続性で証明することによって、運動というものを否定する根拠をゼノンは見出したわけです。

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