『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第一一講 有論・量 Ⅲ

 今日は四八節のカントのアンチノミー批判の続きからです。本文は省略して補遺から始め(㊤一八六ページ)
ましょう。

 四八節補遺 古い形而上学の立場では、認識が矛盾におちいるのは偶然の過ちにすぎず、それは推理や論証における主観的誤謬にもとづくと考えられていた。カントによれば、これに反して、無限なものを認識しようとすれば矛盾(アンチノミー)におちいるということは、思惟そのものの本性なのである。本節への注釈において述べたように、アンチノミーの指摘は、それが悟性的形而上学の硬直したドグマティズム(一面観)を除き、思惟の弁証法的運動に注意を向けさせた限りでは、哲学的認識の非常に重要な促進であったと言わなければならないけれども、しかしそれと同時に注意すべきことは、カントが物の自体は認識できないという単に消極的な結論に立ちどまって、アンチノミーの真実で積極的な意味へまではつき進まなかったということである。ところでアンチノミーの真実で積極的な意味は、あらゆる現実的なものは対立した規定を自分のうちに含んでおり、したがって、或る対象を認識、もっとはっきり言えば、概念的に把握するとは、対象を対立した規定の具体的統一として意識することを意味する、ということにある。

 アンチノミーはここでは「矛盾」と訳されていますが、一般には「二律背反」と呼ばれています。カントは、その「宇宙論」の中で、時間・空間や物質などの無限なものに関連して相反する二つの命題を立てて、どちらも成り立つことを証明します。どのようなアンチノミーをたてたかというと、時間・空間・物質は無限に分裂しうるものである(連続性の問題)という命題と、分割されつくしてもうこれ以上分割されないものから成っている(非連続性の問題)という二つの命題です。
 そこからどんな結論を導き出したのかといえば、真に無限なるものは認識しようがないという不可知論だったのです。すなわち「カントが物自体は認識できないという単に消極的な結論に立ちどまって、アンチノミーの真実で積極的な意味へまではつき進まなかった」のです。では「アンチノミーの真実で積極的な意味」とは何かというと「あらゆる現実的なものは対立した規定を自分のうちに含んでおり、したがって或る対象を認識、もっとはっきり言えば、概念的に把握するとは、対象を対立した規定の具体的統一として意識することを意味する」のです。時間・空間・物質は連続性と非連続性の統一という対立物の統一としてとらえないと、真の認識には達しえないのだと、ヘーゲルは批判をしているのです。
 ヘーゲルはカントから出発してカントを乗り越えるわけですが、矛盾を提起した点にカントの意義があるといいます。それとともに、カントは真理の認識は不可能だといったけれども、そうではなくて、この世界の中に存在するすべてものを対立物の統一として、つまり矛盾をかかえるものとして理解することこそ正しい認識に到達する道だというのがヘーゲルの見地なのです。

 さて、古い形而上学は、先にも述べたように、対象を形而上学的に認識しようとする場合、対立的な規定を含まない抽象的な悟性規定の適用によってこれを行おうとしたのであるが、カントはこれに反して、このような仕方によって生じる主張には常に、それと反対の内容を持つ他の主張が、同等の権利と必然性とをもって、対置されうるということを証明しようとしたのである。カントがこのようなアンチノミーを指摘しているのは、古い形而上学の宇宙論に限られており、しかも宇宙論の反駁にあたっては、カテゴリーの図式にもとづいて四つのアンチノミーを取出しているにすぎない。

 古い形而上学は「あれか、これか」の立場で硬直した一面的認識にたっていますが、これに対しカントのアンチノミーは、相反する命題を出してその両方が同等の権利を持つことを証明しようとするものです。しかしカントのアンチノミーは、宇宙論に限って四つのアンチノミーを出すにとどまっています。

 第一のアンチノミーは、世界は空間的および時間的に限れたものと考えるべきか否か、という問題にかんするものである。第二のアンチノミーにおいては、物質は無限に分割しうるものと考えられるべきか、それともアトムから成るものと考えられるべきかというディレンマが問題となっている。第三のアンチノミーは、世界においてはすべてが因果の連鎖によって制約されているとみるべきか、それとも自由な存在、すなわち行為の絶対的な出発点を想定すべきか、という問題が呈出されているかぎり、自由と必然との対立にかんするものである。最後に、第四のアンチノミーは、全体としての世界は原因を持つかどうかというディレンマである。――カントがこれらのアンチノミーの究明に際して従っている手続きはこうである。かれは、アンチノミーのうちに含まれている対立した二つの規定を定立および反定立として対置し、そして両者を証明しようとする。言いかえれば、両者が当の問題にかんする思惟の必然的な帰結であることを示そうとするのである。その際かれは、かれが行っているのは弁護士の論証のような瞞着ではないことをはっきり断っているが、しかし実際を言えば、カントがその定立と反定立とのために持出している証明は偽の証明にすぎない。なぜなら、それは常に証明すべきものを、出発点である前提のうちに含んでいるのであって、それが本当の証明のようにみえるのは、長たらしい、間接論証的な手続によるにすぎないからである。

 第三のアンチノミーに関し、エンゲルスは『反デューリング論』で「自由と必然性をその真理においてとらえた最初の人がヘーゲルである」といっています。カントは自由か必然性かという相対立する命題のいずれもなり立つということを証明することによって、こんな矛盾するものは認識しえないというところへ逃げこんだのですが、ヘーゲルは自由と必然性を統一としてとらえた最初の人だったのです。ヘーゲルはこの四つのアンチノミーの証明そのものが偽物だということを言っているわけです。それがいかに偽物であるかということについては、『大理論学』で詳しく展開しています。簡単に言えば、結論をすでに前提の中に含んでいるという論理のごまかしなんだということです。しかし、今問題としているのは、カントがアンチノミーを提起した意味はどこにあるのかという点なのです。

 にもかかわらず、こうしたアンチノミーを提示したということは、あくまで批判哲学の非常に重要な、称讃すべき成果である。というのは、それは(主観的で直接的にではあるけれども、悟性があくまで分離してい)る二つの規定が、事実上統一のうちにあることを言いあらわしているからである。

 要するに対立物の統一、矛盾を提起したことに決定的意義を認めたのです。これに対し古い形而上学は「あれか、これか」の立場から、本来矛盾しているものを矛盾ととらえようとしなかったのです。ゼノンの場合も、この古い形而上学にあたるというわけです。

 あらゆる限定された空間およびあらゆる限定された時間がそこで終るものではないということは全く正しいが、しかし空間と時間がおよびこことして限定されることによってのみ現実的であるということ、そしてこの限定がそれらの概念に含まれているということも、それにおとらず正しいのである。同じことが、その他の上述のアンチノミー、例えば自由必然のアンチノミーについても言える。このアンチノミーを立入って考えてみれば、悟性が自由および必然のもとに理解しているものは、実は真の自由および真の必然の観念的なモメントにすぎず、両者が分離される場合、それらは真理を持たないことがわかる。

 これがヘーゲルがとらえる理性的立場です。悟性の立場は「あれか、これか」の立場であり、例えば、時間は連続的なのか非連続的なのか、そのいずれかであるという立場です。ヘーゲルは、そうではなく、真理は対立物の統一のなかにあるといいます。ヘーゲルは「ゼノンの逆説」に対するアリストテレスの反論の方が、カントよりもより深く考えているといっています。アリストテレスは「ゼノンの逆説」は連続性と非連続性の統一としてとらえなければならない運動を別々に切り離したことがまちがいだといったのです。
 カントは四つのアンチノミーをあげただけですが、矛盾はこの四つに限られるわけではありません。森羅万象、世界の中にあるすべてのものは対立物の統一としてとらえなくてはならない、というところが大事です。それではもう一度テキストに戻りましょう。純量というのは連続量と非連続量の統一としてあることを第一〇〇節で述べて、カントの時間・空間・物質に関するアンチノミーは、一方ではそれが連続量、他方では非連続量として主張するものだけれども、どちらか一方だけをとらえたのでは正しくなく、統一してとらえなければならないというのです。

連続性と非連続性

 一〇〇節補遺 量は、向自有の最初の結果として、その過程の二つの側面である反発と牽引とを観念的モメントとして自己のうちに含み、したがって連続的でもあれば非連続的でもある。この二つのモメントの各々はそれぞれ他のモメントをそのうちに含んでいるから、単なる連続量というものもなければ、また単なる非連続量というものもない。

 質の最後のところで向自有というのがありました。向自有は、一と多であって、それは反発と牽引の統一ということでした。同様に、量における反発が非連続性であり、牽引が連続性だから、量は向自有の「最初の結果」だというのです。
 その次の「この二つのモメントの各々はそれぞれ他のモメントをそのうちに含んでいる」というところが大事です。連続量の中に非連続量があり、非連続量の中に連続量があるといっています。純量は定量に対する言葉です。質でいえば純有と定有の関係が、量に置きかえると純量と定量の関係になるわけです。純量は規定されない量ですから連続量です。連続量ではあるけれども、そのなかに非連続量を含んでいます。例えば時間や空間は連続したものですが、その中に今何時何分だとか、この場所とかの限定を加えることができるわけです。だから純量は連続性だけれども、そのなかに非連続性を含むのです。逆に、定量とは限定された量ですから非連続量です。例えば五メートルの紐は、五メートルで切ってしまうのだから、これは非連続量です。しかし定量は非連続量だけども、また連続量なんです。なぜかというと五メートルの紐は一本の連続した紐だからです。さらにその五メートルの紐は一メートルの紐五本に切ることができるという点では、連続量としての定量の中にさらに非連続量を含んでいます。だから定量というのは、純量と対比すると限定された量として非連続量ですが、一体として統一性をもっているという点では連続量であり、それをさらに細かく分けうるという点では、また非連続量でもあるという関係なのです。だから連続量と非連続量とは、あざなう縄のごとく二つの側面をもって交互にあらわれてくるものとして、連続量は非連続量のモメントを、非連続量は連続量のモメントを相互にもっているのです。

 にもかかわらず、われわれがこの二つのものを互に対峙している量の特殊な二種類と言うとすれば、それはわれわれの抽象をこととする悟性的思惟の結果であって、それは一定の量を考察する場合、量の概念のうちに不可分の統一をなして含まれている二つのモメントのうち、或るときは一方を看過し、或るときは他方を看過するのである。かくして人は、例えばこの部屋が占めている空間は連続量であり、ここに集っている百人の人間は非連続量であるという。しかし空間は連続的であると同時に非連続的である。だからわれわれは空間上の点について語り、また空間を分割して、例えば一定の長さを何尺、何寸、等々に分つのである。このことはただ空間が即自的には非連続的でもあるということを前提してのみ可能である。
 他方また百人の人間から成る非連続量は、同時に連続的でもある。そしてこの場合この量の連続性を基礎づけているものは、百人の人間に共通なもの、すなわちすべての個人を貫きそしてすべての個人を結びつけている人間という類である。

 「量の概念のうちに不可分の統一をなしている」の「統一」は、連続的であると同時に非連続的であるという意味で理解したらよいと思います。そこで例として「この部屋が占めている空間」とは、この部屋に限っているわけですから非連続量です。非連続量なんだけれども、この空間は部屋としての一体性をもっている点からみれば連続量です。しかしこの空間の中のAさんが座っている空間は、切り離されたものとしてあるわけで、百人の人間の占める空間は、百の非連続量になります。
 しかしヘーゲルは「百人の人間からなる非連続量は、同時に連続的でもある」と言っています。そこに共通性がなければ、連続量をとらえることはできません。ものを数えることは、連続量のもとにおいてはじめてできることです。同じ人間という連続量があるから百人という非連続量をとらえることができるのであって、犬や猫などがたくさんいたら連続量ではないわけですから数えようにも数えようがありません。せいぜい人間五人、犬二匹、猫三匹、豚十匹にしかなりません。全体をまとめて数えることはできません。ものを数えるというのは、連続性と非連続性の統一としてしかできません。このあたりはいわれてみると、なるほどそうかという感じがいたします。


b 定量(Das Quantum)

定量とは規定された量

 一〇一節 量のうちには、他を排除する限定性が含まれているが、本質的にこのような限定性をもって定立されている量が定量(Quantum)である。すなわち、定量とは限られた量である。

 純量が規定されない量、連続量であるのに対して、定量は限定された量、規定された量、非連続量ということになります。「他を排除する限定性」とは、例えば三という限定された量は、四ではなく二でもないという意味で「他を排除する」「限定性」です。そういう「限定性を持って定立されている量が定量」です。だからそれは「限られた量」となります。

定量は量の定有

 一〇一節補遺 定量は量の定有であり、これに反して純量は純有に(次に述べる)度は向自有に対応する。

 質を論じるときには、有・定有・向自有の三つをみてきました。有は無規定な直接的な存在、定有は規定された有、つまり質をもった有、それから向自有は真無限の有です。一つの質をもちながらもその中であるべき姿に向かって無限に発展していくものが真無限の有、つまり向自有なのです。
 同様に量においても、規定されない量が純量であり、規定された量が定量であり、そして真無限の量が度となります。度では向自有の量(完成された量)としての度の問題と、真無限の量としての比(比率の比)の問題の二つ出ているのですが、両方をとらえようと思えば、やはり量における向自有ととらえてよいと思います。そうしないとこの二つを統一的にとらえることはできません。

 ――純量から定量への進み行きをもっと詳しく述べれば、それは次のような事態にもとづいている。すなわち、純量においては、区別が連続性と非連続性との区別として、即自的に存在しているにすぎないが、定量においては、これに反して、区別が定立され、量は今や区別されたもの、限界を持つものとしてあらわれている。しかしこれによって同時に定量もまた、多くの定量すなわち多くの限定された量に分れる。これらの定量の各々は、他の定量から区別されたものとしては、一つの統一をなしているが、他方それだけを考えてみれば、一つの多である。そしてこの場合定量は数として規定されているのである。

 「純量においては、区別が連続性と非連続性との区別において、即自的に存在しているにすぎない」とありますが、純量は大きくみれば連続性です。それとともに非連続性の要素をもっているのですが、連続性と非連続性との区別がまだはっきりあらわれていません。それが定量ともなれば、はっきり区別があらわれてきます。定量自体が限界を持つものとして非連続性ですから、はっきりした区別があらわれるわけです。
 「しかしこれによって同時に定量もまた、多くの定量すなわち多くの限定された量に分かれ」ます。定量はいくつもあるわけで、二もあれば三もあり四もある。「これらの定量の各々は、他の定量から区別されたものとしては、一つの統一をなしている。だから定量は、純量に比べれば非連続性ですけれども、一つのまとまった量」として存在するということは、一つの連続量をなしています。しかし、その連続量をよくみてみると「一つの多」だと。二メートルの紐は一〇センチの紐二〇本分という非連続量からなっているからです。そういう点では定量は、非連続性のなかに連続性があり、連続性のなかに非連続性があるといってもよいものです。

数―単位と集合数の統一

 一〇二節 定量は、(Zahl)においてその発展と完全な規定性とに達する。数は、そのエレメントとして一を持ち、非連続性のモメントからすれば集合数(Anzahl)を、連続性のモメントからすれば単位(Einheit)をその質的モメントとして自己のうちに含んでいる。

 ある定量を正確にとらえようとすると、数で表示するしかありません。限定された量を数でない何かで示そうとすると、より大きいとかより小さい、より短いより長い、より重いより軽い、というような形でしかあらわすことができないわけです。一定の大きさを持つ定量は数として表現されることにより、数量計算や数的比較が可能となり、より厳密な限定された量を取り扱うことができるようになるのです。そういう意味で「定量は、数においてその発展と完全な規定性とに達する」ということがいえるわけです。
 量は連続性と非連続性の統一ですが、定量における連続性と非連続性の統一は、単位と集合数の形でとらえられるといっています。単位というのはドイツ語のアインハイト(Einheit)で、一つのものという意味ですが、一つのまとまったものということで連続性を意味します。集合数とは、いくつかのものが集まってできているという意味で非連続性です。数というのは単位と集合数との関係においてなり立っているのです。

 算術においては算法は、数を取扱う偶然的な仕方として述べられているのが普通である。もし算法のうちに必然性が、したがって合理的な意味があるとすれば、それは原理のうちになければならない。そしてこの原理は、数の概念そのもののうちに含まれている諸規定のうち以外にはありえない。この原理をここに簡単に示しておこう。── 数の概念の規定は集合数単位であり、数そのものは両者の統一である。しかしこの統一はそれが経験的な諸数に適用されるとき、これらの数の相等性(Gleichheit)にすぎない。したがって算法の原理は、諸数を単位と集合数との関係におき、二つの規定の相等性を作り出すことでなければならない。

 算数に足し算・引き算・かけ算・わり算の四つがあり、四則計算と言われています。ヘーゲルに言わせれば、四つでなく六つなのですが、算数、算数というけれども算数に六つしかない必然性が示されていないではないかというので、ヘーゲルはこれを試みようとします。
 六つの計算式でしか成り立ち得ない必然性を示すためには、まず数が集合数と単位からなっており、その集合数と単位との関係において六則計算(四則計算にべき乗とべき乗根とを加えたもの)の必然性を示す必要があるといっているわけです。「したがって算法の原理は、諸数を単位と集合数との関係におき、二つの規定の相等性を作り出すことでなければならない。「二つの規定の相等性」と言っていますが、この二つの単位と集合数とのすべての関係を考えたとき、それは六則計算になるとヘーゲルはいっています。

 諸々の一および諸々の数そのものは、互に無関係であるから、それらを統一のうちへおくことは外的な総括としてあらわれる。だから計算とは一般に数えあわすこと(Zählen)であり、算法の相違は、数えあわされる諸数の質的性状のうちにのみある。そしてこの性状にたいしては、単位と集合数という規定が原理をなしている。

 量は質に無関係なものですから、量そのものは自己規定されるものではありません。つまり外的に規定されます「外的な総括としてあらわれる」とはそういう意味であり、人間が外側から演算するだけなのです。「数えあわす」とは、単位と集合数との関係において外側から人間が考えあわすものであり、それが算数だというのです。

 数えること(Numerieren)が最初である。これは一般に数を作ることであり、任意に多くのを総括することである。――しかし、算法とは、単なる一を数えあわすことではなくて、すでに数であるものを数えあわすことである。
 諸々の数は、直接的かつ最初には、全く無規定的に数一般であり、したがって一般に不等である。こうした数の総括あるいは計算が足し算(Addieren)である。
 第二の規定は、諸数が一般に相等しいということである。したがってそれらは一つの単位をなしており、こうした単位の集合数が存在している。こうした数を計算するのが掛け算(Multiplizieren)である。――この場合、集合数および単位という規定が、二つの数、二つの因数にどう分配されようと、すなわちどちらが集合数ととられ、どちらが単位ととられようと、少しもかまわない。
最後に第三の規定は、集合数と単位との相等である。このように規定された数を数えあわすのが冪乗(Potenzieren)であり、その最初のものが平方である。それ以上の冪乗は、再び不定の集合数だけ数をそれ自身に掛けることの形式的な継続である。── この第三の規定において、集合数と単位という、存在する唯一の区別は完全な相等に達するから、算法はこの三つ以上にはあり得ない。── 算えあわせることには、同じ諸規定にしたがって、数の分解が対応している。したがって積極的と呼ぶことができる以上三つの算法と並んで、また三つの消極的算法がある。

 六則計算のその必然性をここで説明し、算法とは、集合数と単位との関係について全関係を洗い出したもの、集合数と単位との考えられるすべての関係を考えてみるものだ、というのです。
 まず第一に、集合数と集合数とを数えあわす。これは足し算と引き算です。二という集合数と三という集合数をあわせると五という量になる。では逆に、単位と単位とを数えあわすことができるかといえば、これはできない。例えば一メートルと一グラムとを数えあわせることはできません。単位はそれだけで一つのまとまりを持っているものだから、それを数えあわすことなどできないのです。だから集合数と集合数しか数えあわすことはできません。
 第二に、集合数と単位とを数えあわす。これはかけ算とわり算です。例えば3×5という場合、三という単位と五という集合数を数えあわせたものです。三つのリンゴが五山ある例を考えてみて下さい。だからかけ算は集合数と単位との数えあわせであり、わり算も同様です。
 第三に、集合数と単位とを等しいものとして数えわわす。これにはべき乗とべき乗根とがあります。例えば、べき乗とは3の2乗であり、べき乗根は3の½乗です。いずれの場合も、単位も集合数も同じく三です。数えあわす算法は、この三つ以外にはないとして、合計六つの算法(六則計算)となるのです。

幾何学にも数の助け

 一〇二節補遺 数は一般に完全な規定性における定量であるから、われわれはそれをいわゆる非連続量の規定にだけでなく、いわゆる連続量の規定にも使用する。だから幾何学でも、空間の規定された諸形態やそれらの比を取り扱うことが必要な場合には、数の助けを借りなければならない。

 いわゆる算数というのは限定された量、つまり非連続量を扱うわけです。これに対し幾何学というのは、点と線と面と立体という連続量を扱います。線は無限に伸びる連続量、面は無限の広がりをもつ連続量、立体は無限の広がりをもつ空間であり、いずれも連続量です。その連続量においてもやはり量を扱うわけだから、定量の完全な規定性である数の助けを借りなければなりません。


c 度(Der Grad)

度は内包量

 一〇三節 限界(Grenze)は定量そのものの全体と同一である。それは、自己のうちに多を含むものとして は、外延量(extensive Grösse)であるが、自己のうちで単純なものとしては、内包量(intensive Grösse)すなわち(Grad )である。
 連続量および非連続量と、外延量および内包量との相違は、前者は量一般に関係するが、後者は量そのものの限界あるいは規定性にのみ関係するという点にある。――しかし外延量および内包量も、その各々が他方は持たない規定性を含んでいるというような、二つの種類ではない。外延量のあるところのものは、同様に内包量でもあり、またその逆も成立する。

 外延量とは何かというと、足したり引いたりすることのできる量です。例えば一〇メートルという長さは外延量であって、二メートルと三メートルと五メートルとを足すと一〇メートルになるというものです。「自己のうちに多を含むもの」というのは、そういう意味です。内包量とは足したり引いたりできないもの、つまり温度、湿度、密度のように度で呼ばれるものです。例えば、気温の場合、三度の気温と一二度の気温とを足しても一五度になりません。内包量は、単純な自己同一性なんです。「自己のうちで単純なもの」、それが内包量です。「自己のうちで単純なもの」というのは、自分自身だけで存在するものという意味で、向自有の概念に相当するものです。だから内包量は一者です。
 「後者は量そのものの限界あるいは規定性にのみに関係する」の「後者」とは、外延量と内包量です。外延量はそこまでしか量がいかないということですから、一〇メートルは一〇メートル、それ以上にいかない限界という意味です。度というものも、一五度は一度、二度、三度と上昇して最後に一五度に到達するという意味で量の限界に関係しています。外延量と内包量は相互に転換し合うような関係だ、といっています。一五度という気温は内包量です。内包量だけれども、寒暖計の中に表示される水銀柱の長さという外延量で表示されるのです。つまり内包量を外延量として表示しているのが寒暖計なのです。

 一〇三節補遺 内包量あるいはは、概念上外延量あるいは定量とは異ったものである。だから、しばしば行われているように、この区別を認めないで、大きさのこの二つの形態を直ちに同一視するのは、許されがたいことと言わなければならない。こうした同一視は、特に物理学において甚しい。例えば、そこで比重の相違がどう説明されているかと言うと、他の物体の二倍の比重を持つ物体は、同じ空間内に他の物体の二倍だけ多くの物質部分(アトム)を含んでいるのだという風にして説明されている。

 内包量と外延量とは相互に転換しあうものだが同一視してはならない、この二つは区別しなければならない、といっているのです。例えば、物理学において比重の相違が「他の物体の二倍の比重を持つ物体は、同じ空間内に他の物体の二倍だけ多くの物質部分(アトム)を含んでいる」と説明されていますが、比重は内包量、二倍のアトムは外延量です。結局これは、内包量の比重の違いを外延量の違いで説明することになるわけで両者を同一視しており、まちがいだといっているのです。

 同じことは、温度や光度の差が、熱や、光の粒子(あるいは分子)の多少によって説明される場合、熱や光についても言える。このような説明を用いている物理学者たちが、そうした説明の支持されがたいことを非難されると、かれらは普通次のように言って弁解する。すなわち、かれらはそうした説明によって諸現象の自体── これは周知のごとく認識できないものである── について決定しようとするのではない、ただそうした表現をする方が便利だからにすぎない、と。

 当時、温度や光度などについても同様に光や熱の粒子の数(外延量)によって説明されたようです。物理学者は外延量と内包量を同一視しているのではないかと非難されると「それで説明できるのだからそれでよいではないか」というような言い方をするというのです。これは内包量の本質に根ざした説明にはなっていないのですが、かといって間違っているわけではないし、それでうまく説明できるからいいではないか、と学者はいっているというのです。

 さらに上述の弁解に対して注意すべきことは、かれらはそうした説明に従うことによって、何といっても知覚と経験の領域を越え、形而上学および(他の場合にはかれらが無用と言い有害とまで言っている)思弁の世界へおもむくのだ、ということである。一ターレル銀貨の入っている財布が二つあって、一つがもう一つの二倍の重さをもっているとすれば、それは一方には二百ターレルはいっており、他方には百ターレルしかはいっていないためである、というようなことは、確かに経験においては見出されることである。われわれはこれらの銀貨をみることができ、一般に感官をもって知覚することができる。これに反して、アトムや分子などは感覚の世界の外にあり、それらが許容されうるものであり、意味を持つかどうかを決定しうるのは思惟のみである。

 同じ銀貨の入った財布の重さが二倍であれば銀貨が二倍入っているといえるでしょう。そこまではよいだろうけれども、では分子とかアトムなどについても同様にそれが二倍含まれているから比重が二倍だと言えるかどうかは別問題であって、そこまでいうと、それは形而上学の世界に入ってしまう。検証のしようがない世界に迷い込んでしまうものだというわけです。

《質問と回答》

 一〇三節補遺で、内包量と外延量とを区別する必要があるということを述べたうえで、この区別を認めないで内包量と外延量を同一視しようとする見解の批判がありました。比重の問題に関して「他の物体の二倍の比重を持つ物体は、同じ空間内に他の物体の二倍だけ多くの物質部分(アトム)を含んでいるのだ」(㊤三一二ページ)、つまり比重という内包量をアトムという外延量によって説明しようとする見解をヘーゲルは批判しているわけです。それに対し「それは果たしてそんなことが言えるのか、むしろ『二倍の比重を持つ物体は、二倍の物質部分から成っている』といえるのではないか」という質問がありました。これはなかなか面白い質問です。
 まずはっきりさせるべきことは、ヘーゲルが内包量と外延量を同一と区別の統一としてとらえていることです。すなわち、内包量と外延量とを区別しつつ内包量が外延量に移行する、またその逆もあるとみています。一〇三節補遺の冒頭は、外延量のみ認め内包量の存在を否定してしまう考え、言い換えれば、内包量も結局は外延量に還元してしまう考えを否定しているにとどまるのであり、内包量が外延量に移行することまで否定しているのではありません。
 さて問題の比重とは、四度の水一立方センチは一グラムとなりますが、それと比較したある物体の同容量の重さの比です。ですから比重という場合、単体の分子の場合もありますし、多分子の物体の場合も含まれます。例えば、金の比重、銀の比重などは単一の原子から成っている比重と言えますし、牛乳の比重、硫酸の比重などは複数の分子から成る物体の比重です。金の比重が一九・三、銀の比重が一〇・五、牛乳の比重は一・〇三、硫酸の比重は一・八三です。硫酸のように複数の分子からなる物質について、その分子のもつ重さがそのまま比重になっているのではないだろうと思います。牛乳などはいろんな成分を含んでいると思います。その分子の成分の重さを寄せ集めたらその牛乳の比重が出てくる問題ではないと思いますので、質問の「二倍の比重をもった物体は、二倍の物質部分から成っている」とはいえないと私は思います。やはり内包量は内包量として認めるべきなのです。
 全体としてヘーゲルが言うように、内包量と外延量とは区別すべきものであり、両者を同一視するには無理があります。ヘーゲルの偉大なところは、内包量と外延量の区別を定立するだけではなくて、その対立物の相互移行において、あるいは対立物の同一においてとらえたことにあるのではなかろうかと思います。ただ私の知識はきわめて不十分ですから、誤っていれば批判をしていただければと思います。
 次に一〇二節に関連して「一体ヘーゲルはここで何を言いたいのか」という質問がありました。テキスト㊤三一〇ページに、四則計算というのは数えあわせるものだということで、集合数と単位を数え合わすことが四則計算なんだということが出ていまして、第一の規定が「諸々の数は」「一般に不等である。こうした数の総括あるいは計算が足し算である」「第二の規定は、諸数が相等しいということである」「最後に第三の規定は、集合数と単位との相等である」とあるが、この辺のところがよく分からないという質問もありました。関連しているので一緒に答えたいと思います。
 まず一〇二節でヘーゲルが何を言いたいのかということです。数というものが定量の完全な規定性であって、連続数が単位であり非連続数が集合数であるといっています。数のモメントである単位と集合数をその相互の関係においてとらえて、算数には六つの計算しか基本的にはあり得ないのだという六則計算(一般には四則計算)の必然性を明らかにしようとしたものです。つまり算数とは数をかぞえあわすことですが、その算数には足し算・引き算・掛け算・割り算に、べき乗・べき乗根を含め六つしかない必然性を誰も説明していないが、私はこれを説明しきったではないかとヘーゲルはいいたいのだと思います。
 次に㊤三一〇ページの第一、第二、第三の各規定の意味なんですけれども、もう一度おさらいしてみましょう。まず第一は足し算、第二は掛け算、第三がべき乗ですが、この裏側に引き算、割り算、べき乗根が相対するものとしてあるわけです。ここではその表側の足し算・掛け算・べき乗だけをみることにします。
 まず足し算とは、集合数同士を数え合わせることです。掛け算とは、集合数と単位を数え合わせることです。例えば、三個ずつのリンゴの山が五つあるということは、三という単位と五という集合数とが数えあわされるのです。それを言いかえれば、単位と集合数との関係において数えあわすということになるわけです。べき乗というのは、三の二乗というものです。この場合、同じ三という数を掛け合わせるのですから、最初の三は単位であり後の三が集合数であるといってもよいし、最初の三が集合数であり後の三が単位であるといってもよいのです。そういう意味で、べき乗根は「集合数と単位との相等である」とあります。この単位と集合数との区別に意味のなくなった三という数字を数え合わせる、それがべき乗だということをいっているわけです。
 それから四則計算に関連して、F=ma(Fは力、mは質量、aは加速度)が運動の方程式といわれていますが「掛け算は集合数と単位との関係ということですが、F=maという運動の方程式は、単位と単位との関係が新しい質を表現しているように思うのですが、どうでしょうか」という質問です。
 ヘーゲルは単位と集合数との関係は規定しているものの、単位と単位の関係を規定していないが、単位と単位を数えあわすこともあるのではないかという趣旨だと思いますが、なるほどそれは質問のとおりです。問題は、四則計算における掛け算とは何かということを論議しているのであって、質問者の示した方程式は凾数です。凾数というのはやはり四則計算を乗り越えるものですから、これを例にとって考えるのはどうだろうかと思います。
 実はこの凾数については、ヘーゲルが定量の最後のところで述べている比、あるいは比例凾数があります。よい質問だと思ったのは、は、単位(m)と単位(a)という量の関係から、運動する新しい質(F)をF=ma生み出しているというとらえ方をしておりますが、ヘーゲルはまさにそういうことをいっているのです。つまり最初は量を質に無関係なものだといいながら、最後は量のなかに質をみる、そして量と質の統一としての限度に移行していくという論理の展開になります。だからこういう比例関係という量のなかに質を見出したのは、質問者の発見だと思います。
 それから「純量が連続量であることは理解できるが、分割できるということで非連続量としてもとらえてよいか」という質問がありました。
 一般的には、純量は無規定の量、まだ限界をもたない量ですから連続量です。これに対し定量は一定の限界をもっているわけですから、非連続量です。連続している純量の中の一部を切ってしまうと、それは定量になってしまいます。ですから純量は分割できるのですが、分割してしまうと定量になってしまうので、単に分割される可能性をもった純量を非連続量とすることはできないと思われます。

→ 続きを読む