『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第一二講 有論・量 Ⅳ

度の意味

 「度」ということが内包量の問題に出てきますが、ヘーゲルが一貫していっているのは量の中における対立物の統一ということです。純量における連続量と非連続量、数における単位と集合、定量における内包量と外延量のいずれをとってもそうなっています。
 テキスト一〇三節からは「度」です。一〇三節の冒頭に「内包量すなわち度」とありますので、この「度」では内包量のことだけをいっているのかというと、そうではありません。後になって「度」から「比」の問題に移っていきます。この点が分かりにくいところです。
 ではヘーゲルは一〇三節以下の「度」において、一体何をいいたいのかということです。内包量だけではなく無限進行、真無限、比、大きくいってこの四つの問題が展開されています。この四つの問題を一体どういう関係においてとらえたらよいのか。この点を考えるうえでは『大論理学』との構成の違いをみるとよいでしょう。
 『大論理学』では、量は、a量、b定量、c量的比例となっていて外延量、内包量、量的無限性は、b定量の中に含まれています。これに対し『小論理学』では、a純量、b定量、c度となっていて、外延量、内包量、量的無限はc度のなかに含まれます。なぜ『大論理学』と『小論理学』とで、違いが生じたのかについて考えなくてはなりません。
 では『大論理学』はどのようにして量的比例までたどり着こうとしているのでしょうか。純量は規定されて定量になる。しかし定量は自分を乗り越えるという性質をもっているから、量的無限性に進行する。量的無限性は定量の枠を越えるものだから、それはすでに量の中に質をもちこむものだということです。質をもった量としての量的比例に至って量は完成するという論理の展開になっています。
 『小論理学』の場合は、どういう考えにたって量の構成がされているのかというと、量が生まれたばかりの姿から向自有の量となることにより完成された姿になるという考え方なんです。ヘーゲルは質のところでも、質がだんだん完成されていく過程をみていきます。最初の質は無規定の有、それから定有になって、さらに完成された有として向自有になると考えています。向自有は一者であり真無限です。同様に、度は完成された量であり、量の向自有とみています。量の向自有という観点から考えたときに、そこには一者の量、自立した量としての内包量も含まれるし、量の真無限としての比も含まれるという論理上の帰結になるわけです。こうした考え方の違いが量の構成の違いとなっているのです。
 『小論理学』では、度を真無限の量、完成された量、自立した量という三つの側面において展開したわけです。ですから真無限の量を論じている「無限進行、完成された量を論じている「比」、自立した量を論じている「内包量」を「度」の項目のなかで論じているのです。「比」というのは完成された量であると同時に真無限の量でもあります。
 『小論理学』において「内包量」と「比」という相互に一見無関係な問題を一つの「度」のカテゴリーでくくっているのは「度」というカテゴリーをつうじて向自有としての量をみようとしたからです。、
 一〇一節の補遺の冒頭に「定量は量の定有であり、これに反して純量は純有に(次に述べる)度は向自有に対応する」とあります。ヘーゲルは『小論理学』おいては「質」の構成と「量」の構成を完全に対応させようと、したのです。「度は向自有に対応する量」なのです。ですから論理学の構成が変わったのだと思います。このように理解することによって「度」のカテゴリーのなかで「内包量」とあわせて量の「無限進行」、真無限の量、比などを正確にとらえることができるのです。
 この点で『ヘーゲル論理学入門』の「事物の程度や強度をあらわすものが度である」(四九ページ)という定義は、ヘーゲルのいいたいことをふまえた定義ではないと思うのです。度とは何かといえば、向自有の量であるというべきでしょう。

内包量と外延量

 一〇三節補遺(つづき) ところで(すでに九八節の補遺で述べたように)、向自有の概念のうちに含まれている多のモメントをアトムという形で固定し、そしてそれを究極のものとして固執するのは、抽象的な悟性である。そしてその同じ抽象的な悟性が今の場合、とらわれぬ直観にも具体的な思惟にも反して、外延量を量の唯一の形態とみ、そして内包量があると、それをその固有の規定性において認めず、支持されがたい仮説にもとづいて、強いてそれを外延量に還元しようとするのである。

 悟性的な考えは、外延量だけを主張し内包量を外延量に還元してしまうが、これは正しくない。外延量と内包量とはともに定量の二つのモメントとして存在するのであって、どちらかだけとはいかないのです。

 なお、単なる連続量および単なる非連続量がないと同じように、単なる外延量も単なる内包量も存在しないということ、したがって量の二つの規定は、独立の二種類として対峙するものではないということは、全く正しい。あらゆる内包量はまた外延量であり、その逆の場合も全く同じである。例えば或る温度は一つの内包的大きさであって、全く単純な感覚がこれに対応している。しかし寒暖計をみれば、この温度には水銀柱の一定の高さが対応しており、そしてこの外延的大きさは、内包的大きさとしての温度とともに変化する。精神の世界でも同じであって、強い性格は弱い性格よりも広い影響を及ぼすのである。

 定量は内包量と外延量という二つの側面からなっていますが「あらゆる内包量はまた外延量であり、その逆も全く同じである」といっています。それは対立物の同一、あるいは対立物の相互移行とかいわれるものです。その例として寒暖計をあげています。寒暖計では気温という内包量が、水銀柱の高さという外延量で示されます。だから温度というのは内包量であると同時に外延量であるという言い方をしています。内包量イコール外延量であるから結果として温度が寒暖計の度数として示されるのです。それはあくまで結果であって、その結果がなぜ生じるのかということを論理的に証明しなくてはなりません。ヘーゲルはここでそれを試みているのです。例えば、気温二〇度という内包量を考えましょう。〇度の気温が突然二〇度になることは絶対にありえません。内包量というのはすべて連続しているのです。つまり〇度から一度、二度とあがっていって一八度が一九度になり、そして二〇度に達するのです。連続しているということは、連続した集合数(外延量)として存在しているのです。一八度、一九度という外延量のうえにたってはじめて二〇度という外延量としての温度があるという意味では、内包量は外延量だ、とヘーゲルはいっているのです。なかなか面白い説明ではないでしょうか。
 逆になぜ外延量は内包量になるのかといいますと、一〇メートルの紐というのはこれは外延量です。しかし一〇メートルの長さをもった紐は、一本の連続した紐であり、一本の連続した分割しえない紐という点では内包量です。だから外延量は内包量ということになるのです。このような論理で、内包量は外延量である、外延量は内包量である、というのです。
 「精神の世界でも同じであって、強い性格は弱い性格よりも広い影響を及ぼすのである」とありますが「強い性格」は内包量であり「広い影響」は外延量です。だから内包量は外延量であるのは、精神の世界でも同様であるといっています。

量の無限進行

 一〇四節 度において定量の概念が定立されている。それはそれ自身としては無差別的で単純な大きさであるが、しかしそれを定量とするところの限定性を、全く自己の外部にある他の諸量のうちに持っている。向自有的な無差別的な限界が絶対的な外面性であるというこの矛盾のうちに、量の無限進行が定立されている。すなわち、一つの直接態は直接にその反対物、媒介態(定立されたばかりの定量を越えること)へ転化し、媒介態はまた直接に直接態へ転化するのである。

 先ほどいったことに関連しているのですけれども「度において定量の概念が定立されている」とは、定量のあるべき姿が度において示されているということ、つまり定量の完成された姿が度であるというのです。ここでは、無限進行の量を定量の完成された姿とみています。
 度、つまり向自有としての量は、自立していてそれ以上分けることができないものです。また二〇度という温度は温度それ自身の力によって作り出されたものではなく、外部の力によって規定されているのであり、それが度(内包量)のもつ矛盾だというのです。
 度というのは向自有の量であり、二〇度なら二〇度として自立しています。しかし、一九度という温度がなければ二〇度はないし、二一度いう温度がなければ二〇度はありえないのです。そういう意味では二〇度の温度は一九度とか二一度とかの他の量によって媒介されています。つまり度というものは、向自有の量として単純な自己関係的な、無差別的な、自立した存在としてあるのですが、同時に他のものによって媒介されているという矛盾をもつのです。
 「この矛盾の内に、量の無限進行が定立されている」とありますが、定有の完成されたものとしての度は、自立した量でありながら、その量が他の量によって規定されているという矛盾から、その定量を規定する他の量へ移行せざるをえません。
 こうして定量は、不断に自己の限界を乗り越えて無限進行におちいるというのです。「すなわち、一つの直接態は直接にその反対物、媒介態(定立されたばかりの定量を乗り越えること)へ転化し、媒介態はまた直接に直接態へ転化するのである」という、この「直接態」とは自立した定量のことです。二〇度の温度は二〇度として自立していますが、同時に一九度に媒介されているのです。したがって二〇度として存在することは、二一度に移行せざるをえないことをも意味している、というのです。度というのは連続してしか変化を生じないわけですから、連続して変化を生じるというのは自分のもう一つ前の定量があって初めて自分は存在しています。こうして無限に進行するのです。

 は思想ではあるが、しかし全く自己に外的な存在としての思想である。それは、思想であるから、直観には属さないが、しかし直観に固有な外面性の性格を持っている。── したがって定量は、単に無限に増減しうるにとどまらず、むしろ、不断に自己を越え出るということが、定量そのものの概念に含まれているのである。

 数とありますが定量といってよいと思います。定量は抽象から生まれた思想の産物ですが、数それ自身としてなり立つ意味内容をもった思想ではなくて、他の数に媒介される性格をもっています。今の例でいうと二〇度の温度も一九度に媒介されているわけですから、やがては二一度に移行せざるをえない。そういうことで外的に規定されているところから結局「定量は単に無限に増減しうるにとどまらず、むしろ、不断に自己を越え出るということが、定量そのものの概念に含まれているのである」。つまり定量というものは、自立した存在でありな」がら外的に規定されているという矛盾によって、不断に自己を乗り越えていくものであり、数は無限に大きくあるいは無限に小さくと、進行せざるをえないのです。

 量の無限進行も、或るもの他のものとのそれと同じく、同一の矛盾の無思想な繰り返しであって、この矛盾が一般に定量であり、そしてこの矛盾が明確に定立されたものが、度である。

 質の無限進行は、或るものと他のものとが交代していくことでした。或るものは他のものへ移行していく、その他のものもまた一つの或るものとして更に他のものへ移行していくのです。定量の無限進行も同じことです。一九度という温度が定立されて二〇度という温度が存在する、二〇度の温度が定立されて二一度が存在する、というようにある定量が定立されるとさらにそれを乗り越える定量が定立されるのです。「この矛盾が明確に定立されたのが、度である」とありますが、度のように連続した変化、切れ目のない変化というのは、定量一般がもっているものではありません。外延量としての変化というのは、一九メートルの紐が二〇メートルの紐に連続しているわけではありません。一九メートルの紐は一九メートルの紐、二〇メートルの紐は二〇メートルの紐としてそれぞれ別の長さのものとしてしか存在しえないのです。
 定量のうちでも、外延量は非連続的に変化していくのに対し、内包量の場合には連続した変化なのです。ですから、度においては、自己超出する定量という側面が非常に顕在化して、矛盾が明確に定立されているのです。

量の増減の必然性

 一〇四節補遺一 先に(九九節)述べたような、数学で普通行われている定義にしたがって、量を増減しうるものと呼ぶとすれば、その場合根柢におかれている直観は、全く正しいにはちがいないが、しかしまず、われわれがどうしてこうした増減しうるものを想定するようになるかという問題が残る。この問題に答えるために、単に経験を引合に出すのでは不充分である。なぜかと言えば、その際われわれの持つものが単に量の表象にすぎず、その思想ではないということは別としても、それでは、量が単に増減の可能性であることがわかるだけで、その必然性は認識できないからである。これに反して、私が行ったような論理的展開の方法によれば、量は自分自身を規定する思惟の一段階として示されたのみならず、自己を越え出るということが量の概念そのもののうちに含まれているということ、したがって増減は単なる可能ではなく、必然であることが明かになったのである。

 アリストテレスが「大きさとは増減しうるものである」と定義し、この定義は二千年来使われてきました。ヘーゲルは、増減しうるものといってもまちがいではないけれども、なぜ増減しうるものなのかその必然性が示されていないから、哲学的な定義としては不十分だというのです。しかし、ヘーゲルは定量のもつ矛盾を明らかにし、定量は無限進行せざるをえないという増減の必然性を示した、といって自慢しているわけです。

悪無限と真無限

 一〇四節補遺二 反省的悟性が一般に無限を問題とするとき、主として拠りどころとするのは量的無限進行である。しかし無限進行のこの形態については、先に質的無限進行について述べたと同じことが言える。それは真の無限の表現ではなくて、単なるゾレンを脱せず、したがって実際は有限のうちに立ちどまっている悪しき無限の表現にすぎない。

 量の無限進行は量が無限大になったり無限小になったりするということですけれども、それは「有限のうちに立ちどまっている悪しき無限」だといっています。つまり定量は無限大になっても無限小になっても、依然として有限な定量なのです。その限りでは、無限の量はいつまでたっても到達できない彼岸の目標、悪無限にすぎないのです。悪しき無限は「単なるゾレンを脱せず」とありますが、単なる当為であっていつまでも到達できないものであり「実際は有限のうちに立ちどまっている」ものなのです。無限自身が矛盾であり、有限なものから無限のものができあがっています。有限なものの積み重ねが無限ですから、無限はいつまでたっても有限のうちに立ちどまっていて、目標には到達できません。量は定量のもつ自己矛盾から無限進行に行くけれども、こんな悪無限にいつまでも立ちどまっていてはいけないわけで、真無限だけ
が「議論に値する」ということがいいたいわけです。
 スピノザは、こうした無限進行、悪無限を「想像上の無限」と名づけておりまして、ハラーの詩が紹介されていますが、そこは省略してつぎにいきましょう。

 ここにわれわれが見出すものは、量の、より正確に言えば、数の自己超出である。カントは、これを「戦慄すべきもの」と呼んでいるが、しかしそのうちに見出される本当に戦慄すべき点は、絶えず限界が立てられてはまた除かれ、何時までたっても一歩も前進しない退屈さであろう。ハラーは、しかし、上述の悪無限の描写を適切にも次の一行をもって結んでいる。

 無限進行としての悪しき無限は、何時までたっても到達できないものだから、そんなものは想像上の無限にすぎません。ゾレン(当為)にとどまって、現実化しえない無限なんか扱っても退屈なだけです。ハラーの詩は悪無限のことをいっているのですが、ハラーの詩で大事なのは、その次の一行なんだ、ということです。

 私はこれらを取除く、するとなんじの全部が私の前にある── これはまさに、真無限が有限の単なる彼岸と見られるべきものではないこと、そしてわれわれはそれを意識するためには、上述の無限進行を棄てなければならないことを言いあらわしている。

 無限進行を否定したところに真無限があります。真無限は、有限の彼岸にあるのではなく此岸にあり、世界の有限なもののなかに存在する無限なのです。ですからヘーゲルは、真無限の有として向自有というカテゴリーを生みだしたのです。同様に量においても、真無限の量を考えついたのであり、それが度であり、とりわけ度のなかの比なのです。

数の位置づけ

 一〇四節補遺三 ピュタゴラスは、周知のごとく、数をもって哲学し、事物の根本規定は数であると考えた。この考えは普通の意識には一見全く逆説と見え、狂気とさえ見えるにちがいない。したがって、こうした思想をどう考えたらいいかという問題がおきてくる。この問題に答えるには、われわれはまず、哲学の任務は一般に、事物を思想に、しかも規定された思想に還元することにあるということを思い出さなければならない。ところで、数はもちろん一つの思想ではあるが、感覚的なものに最も近い思想である。もっとはっきり言えば、われわれが感覚的なものという言葉のもとに個々別々なものおよび多を理解するかぎり、数は感覚的なもの自身の思想である。宇宙を数と解する試みは、したがって形而上学への第一歩である。ピュタゴラスは、周知のごとく、哲学の歴史においてイオニア学派とエレア学派との間に立っている。

 ピュタゴラスは「ピュタゴラスの定理」で有名な人です。彼は数をもって事物の根本と考えました。なぜ根本と考えたかといえば、後にも出てきますが一・二・三という数字に特別な意味をもたせたのです。この一・二・三という数字からヘーゲルが学んだのが即自・対自・即対自の三分法です。一が即自、二が対自、三は即対自です。ヴァイオリンやギターの弦の音は、弦の長さを二倍・三倍・四倍という整数倍にすると協和音になりますが、一・二倍とか二・七倍などの長さにすると不協和音になります。そういうことも数が根本だと考えるようになった理由だといわれています。
 それでヘーゲルがピュタゴラスを哲学史上どのように位置づけるかといいますと、ピュタゴラスはイオニア学派とエレア学派の間に立っている、という見方をしています。イオニア派は、水とか空気だとかの感覚的な事物が世界の事物の根本だと考えたのです。これに対しエレア学派の代表はパルニメデスです。テキスト上・二六五ページで「真の哲学史のはじめはエレア哲学、もっと厳密にいえばパルメニデスに見出される。かれは、有のみがあり無は存在しないということによって、絶対者を有として把握している。これが哲学の真のはじめである」と述べられています。イオニア派に対して、パルメニデスは有という超感覚的なものを世界の事物の根本だととらえたわけです。ヘーゲルは、ピュタゴラスはその間に位置しているとみています。つまり感覚的なものと超感覚的なものとの間に、数を位置づけたのです。だからピュタゴラスは哲学者として一定の思想家だけれども、哲学史上からいえば低い段階の思想家にすぎないとヘーゲルはいっています。
 ピュタゴラスをヘーゲルがこのように位置づけることには、プラトンの影響があると思います。プラトンは、感覚でとらえられるものは、不断に運動・変化・発展・消滅しており、そういうものには真理はないと考えてました。超感覚的なイデアこそが絶対不変の真理なのであり「プラトンのイデア論」と呼ばれています。プラトンのこの考えにもとづいて「ピュタゴラスは、周知のごとく、哲学の歴史においてイオニア学派とエレア学派、との間に立っている」とヘーゲルは位置づけたのです。

 前者は、すでにアリストテレスが指摘しているように、事物の本質を物質的なもの(ヒュレー)とみる以上に出なかったが、後者特にパルメニデスは、有という形における純粋な思惟にまで進んだのであって、ピュタゴラスの哲学の原理は、言わば、感覚的なものから、超感覚的なものへの橋をなしているのである。

 ピュタゴラスの哲学の原理は、世界の根元が感覚的なものからなっているという考えと、超感覚的なものからなっているという考えとのちょうど中間として、数が世界の根本規定だと考えたというわけです。

 すなわち、もし事物が単なる数以上のものであることを認めなければならないとすれば、それは、単に数という思想をもっては事物の規定された本質あるいは概念を言いあらわすに足りないという意味に解されなければならない。したがって、ピュタゴラスの数の哲学を行きすぎであると主張するかわりに、むしろ逆にそれは行くべきところまで行かなかったと言うべきであろう。

 ピュタゴラスが数を世界の根本だと考えることは「行きすぎだ」という人がいるけれども、そうではなく「行くべきところまで行かなかった」というのです。つまり、ものごとの根本というのは、有論の中の量にとどまっているべきものでないといっているわけです。少なくとも本質論までは行かなくてはならないし、本質論でもまだ不充分で概念論まで行かなくてはならないのに、有論の「量」のまわりをウロウロしているのでは真理の到達にははど遠いというのです。
 「単に数という思想をもっては事物の規定された本質あるいは概念を言いあらわすのに足りない」とは、まだ本質論にも概念論にもはいらない有論の量の問題、数の問題は、まだまだ低い次元の話にすぎないということで
す。

 また実際エレア学派がすでに純粋思惟へ進む次の一歩をふみ出しているのである。――しかしまた、かりにその規定性が本質的に一定の数および数の比に依存しているような事物は存在しないとしても、事物のそうした状態、および一般的に言ってそうした自然現象は存在している。音の相違や調和はその著しい場合であって、周知のごとく、ピュタゴラスはこの現象をみて最初に事物の本質を数と考えるようになったと言われている。

 「また実際エレア学派がすでに純粋思惟へ進む次の一歩をふみ出しているのである」といっているのは、エレア学派がピュタゴラスを乗り越え、より哲学的な思惟を深めて有こそが世界の根本だ、といったことを指しています。だからヘーゲルは「真の哲学史のはじめはエレア学派、もっと厳密にいえばパルメニデスに見出される」、「これが哲学の真のはじめである。というのは、哲学は常に思惟による認識であるが、ここではじめて純粋な思想がとらえられ、それ自身にたいして対象となっているからである」(㊤二六五―二六六ページ)というのです。つまり客観的に存在する感覚的なものから離れたものを、思惟によりとらえた点で、エレア学派は哲学のはじめだというのです。ピュタゴラスのいう数というのは、たしかに感覚的なものから一歩離れているけれど、まるっきりそこから離れているわけではないので、エレア学派にバトンタッチされるべき学説なのです。しかし、ピュタゴラスがいうように、たしかに数が事物の自然現象の根本にかかわるような例もあるとして、先ほど紹介した音の相違や調和をあげています。

 特定の数にもとづいている諸現象をこの特定の数に還元するということは、学問上明かに重要なことにはちがいないが、と言って思想の規定性を一般に単なる数的規定性と解するのは、全く許しがたいことである。確かにわれわれは、最も普遍的な思想の諸規定を最初の諸数に結合し、は単純で直接的なもの、は区別と媒介、は両者の統一であると言いたくならないでもない。しかしこうした結合は、全く外的な結合であって、上の諸数がまさに上述の特定の思想の表現であるということは、上の諸数そのもののうちには含まれていない。こういう風にして進んで行けば、先になればなるほど、特定の数と特定の思想との結合が勝手なものであることが明かになってくる。例えばわれわれは四を一と三との、およびそれらと結びつけられた二つの思想の統一とみることもできるが、しかし四はまた二の二倍でもある。同様に九は三の自乗であるだけでなく、八と一との和でもあれば、七と二との和でもある、等々。

 最初の方に出てきた「一は単純で直接的なもの、二は区別と媒介、三は両者の統一」というのは、ピュタゴラスが最初にいったのであり、ヘーゲルはこの考えを継承しているのです。これだけみれば、確かにこれはこれで意味があるかのようにみえるけれども、それでは数をドンドン増やしていけばどうなるかというと、後はもう滅茶苦茶になってくるのです。もともと数の中に、何か特定の意味あいを求めたり、思想を求めたりするのはナンセンスです。しかし世の中には数に意味をもたせることが結構あります。ラッキーセブンとか、ホテルや病院の部屋番号に四がないとか、一三日の金曜日とか、いろいろあります。もちろんこれらには哲学的な意味は全くありません。


 一〇五節 このように、向自有的な規定性を持ちながらも、自分自身に外的であるということが定量の質をなしている。定量はこの外在性のうちで自分自身であり、自分自身に関係している。定量のうちには、外在性すなわち量的なものと、向自有すなわち質的なものとが合一されている。――それ自身に即してかく定立された定量が(Das quantitative Verhältins)である。こうした規定性は、直接的な定量すなわち比の値であるとともに、また媒介すなわち或る定量の他の定量への関係である。比の両項は、その直接的な数値において妥当するのではなく、それらの値はこの関係のうちにのみあるのである。

 今まで量は質の捨象だといってきましたが、定量はある意味での質をもつものであり、その定量の質がはっきりした形で出るのが比なのだ、ということです。定量が「向自有的な規定性」をもつというのは、定量が自立性、一つのまとまりをもったものとして存在し、それが定量の質的側面というべきものだ、というのです。定量が「自分自身に外的」であるというのは、定量のもつ量的な側面です。定量は向自有の量という点では質的ですが、それが外的な規定性という点では、外から規定される量ですから量的なのです。このように、定量における量と質を区別してみています。「定量は外在性のうちで自分自身であり、自分自身に関係している」、つまり定量というのは一方で外的に規定されながら、他方で向自有的に存在するのです。したがって「定量のうちには、外在性すなわち量的なものと向自有すなわち質的なものとが合一されている」ということになります。
 「それ自身に即して定立された定量が比である」とは、こういう定量のもつ質と量の側面の統一した形としてあらわれたものが比なんだというのです。比とは何かといいますと、後でも出てきますが、1対2とか½とかいうものです。y=1/2xという方程式は、 ½という質をもっているのです。だから比というのは、質と量の合一における定量として、完成された量です。完成された量とは、定量のもつ量と質の側面が比というかたちで合一されているという点で完成された量といえます。比というものは、比の値が質をなし、比の両項が量をなしているのです。そのことを「こうした規定性は、直接的な定量すなわち比の値であるとともに、また媒介すなわち或る定量の他の定量への関係である」といっています。今日はここまでにしておきます。

《質問と回答》

 まず「比が真無限であること、彼岸のものではなく此岸の無限であること、これはどういうことか」という質問です。
 ヘーゲルにとって真無限というのは、真なるものあるいは完成された姿とみているわけです。有論における有も量も限度も常に移り変わっていくものですから、それらは無限進行する過程をへて、いずれも真無限という完成された姿に到達するとみています。質の場合は、質の無限進行を通じて真無限としての向自有へ至り、質は完成された姿を示すと考えています。量も、量の無限進行をつうじて真無限としての比へ至り、量はその完成された姿を示します。限度も同様に、無限進行をつうじて真無限へ至り、本質において完成された姿を示し、ここが有論の一番最後ですから、ここから本質に至るという構成になっているわけです。
 「比が真無限であることはどういうことか」という質問ですが、そもそもヘーゲルが真無限をどのように理解しているのかみてみましょう。テキストに「真の無限は他者のうちにあって自分自身のもとにある」、「これを過程として言いあらわせば、他者のうちで自分自身へくることにある」(㊤二八七ページ)とあります。真無限が他者のうちにあって自分自身のものである、ということは、自己同一性の中における無限の変化をいっているのです。「他者のうちにあって」変化するとは、他者になることですから無限に変化するその姿をみています。無限に変化をするなかで「自分自身のもとにある」、すなわち自己同一なるもの、そういうものを真無限といっているのです。それは質において向自有なのです。向自有とは、無限に発展してそのあるべき姿に接近していく質をいっているわけで、真無限の質が向自有になるわけです。つまり真無限は有限な客観世界の向こう岸にではなく、こっちの岸に、つまり有限なこの客観世界のなかに存在する、というのです。
 一般に無限というと、有限をこえたところにあるもののように思われています。有限のこえたところにあるということは有限の彼岸にある、有限の届かない向こう側にあるということになります。しかし、それは悪無限にすぎないのです。真無限というのは有限の向こう岸にあるのではなく、まさに有限そのもののなかにある無限なのです。ですから、真無限というのは現実に存在している無限です。
 それで「比が真無限であるとはどういうことか」というと、比というのは一対二、一対三とか二分の一、三分の一とかで示されますが、比の両項は無限に変化するわけです。二分の一は四分の二、六分の三、八分の四などと分母も分子も無限に変化します。無限に変化しても常に比の値(この場合は〇・五)は同一を保っています。比の値そのものは変わらないのです。だから比というのは、自己同一性の中における無限の変化としての真無限であると、ヘーゲルはいっているわけです。それで真無限としての比というのは、何も有限世界の彼方にあるものではなくて、この有限世界のなかに現に存在するものです。そういう意味で彼岸のものではなくて此岸のものなのです。
 次の質問は、外延量と内包量とは対立物の相互移行の関係についてです。温度は内包量だけれども水銀柱の高さである外延量に還元しうるという例があげられ「精神の世界でも同じであって、強い性格は弱い性格よりも、広い影響を及ぼす」(㊤三一四ページ)とあります。このことが内包量、外延量とどう関連するのかというものです。
 性格というのは一つのまとまったものです。一人の人間には一つの性格が対応しています。そういうまとまったもの、分割できないものという意味では、性格は内包量なのです。強い性格とは大きい内包量であり、弱い性格というのは小さい内包量です。ヘーゲルがいっている「強い性格は弱い性格よりも広い影響を及ぼす」とは、大きい内包量をもっている性格は「広い影響を及ぼす」、つまり、大きい外延量をもつのです。要するに性格は内包量であるけれども、その影響する範囲という点でみると、それは同時に外延量でもある。温度の場合と同様に内包量イコール外延量、そういう対立物の相互移行の一つの例としてみることができる、というのです。
「二〇度の温度の水は二〇度の温度の水として自立している」という話をしましたが「温度が自立しているとはどういうことか」という質問がありました。
 温度は分割できません。一五度の水と五度の水を足したら二〇度の水になることはないわけで、二〇度の水は二〇度の水として独立しているわけです。それ自体独立したもの、自立したもの、あるいは自己のうちで単純なもの、一つのまとまったものです。分けられないものとしては、内包量は量の向自有なのです。一〇四節に「向自有的な無差別的な限界」とありますが、内包量の面をこのように表現しているわけです。内包量というのはそれ自身一つのまとまりをもったものとしては他のものに影響されないのです。外延量というのは、例えば一〇メートルの紐は一メートルの紐を十本もってくれば一〇メートルの紐になるわけです。そういう点では一メートルの紐という他のものに影響されます。二〇度の温度というのは、それはそれで一つのまとまったもの、向自有の量という意味で「二〇度の温度の水として自立している」という言い方をしたのです。つまり二〇度という温度はいくつかの温度の寄せ集めとして存在しているのではなくて、それ自体として自立して存在している。という意味で内包量というものは向自有的なものだ、ということです。
 それから、一〇三節補遺(㊤三一三ページ)に、内包量を外延量に帰着させて説明するようなやり方が物理学者に間にある。彼らはそうした方が便利だからとか計算しやすいという意味で使っているけれども、便利だから計算しやすいからで使うのはおかしいとヘーゲルが批判しています。「計算しやすいとか便利だということは科学史上有力な武器になってきたのに、ヘーゲルはなぜ反対しているのでしょうか」という質問がありました。
 ヘーゲルは便利なものとか計算しやすいものに決して反対しているわけではありません。それはまだ必然性を示すには至っていないから不十分だと批判を加えているのです。定義の批判に関連して「およそ哲学において、求められるものは、単に正しい定義ではなく」「それは確証された定義」「自分自身のうちに基礎づけられているものとして認識されているような定義でなければならない」(㊤三〇三ページ)とあります。定義は正しいというだけではなく、その定義の正しさの必然性が証明されないと、哲学上の定義とはいえないという言い方をしているのです。ヘーゲルは、よくそういう言い方をしています。例えば、落下の法則がありますが、落下の速度は距離の二乗に比例するという法則ですけども、確かにこういう法則は存在するのです。客観的にそれはそれとして正しいのです。けれどもヘーゲルはこの法則は正しいが不十分だ、といっています。どうして不十分なのかといえば、結果として経験的にそういう法則は成り立っているけれども、その法則が成り立つ必然性が示されていないから、法則としてはまだまだ不十分な法則なんだ、という批判の仕方をしています。エンゲルスは、経験的法則をポスト・ホック(それのあとに)と呼び、必然性の説明された法則をプロプテル・ホック(それのゆえに)と呼んで区別しています(全集⑳五三七ページ)。それと同じような意味で、この物理学者が内包量を外延量に還元して説明するようなやり方は便利だし計算しやすいかもしれないが、まだそれだけでは不十分だ、と批判しているのです。

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