『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第一三講 有論・量、限度 Ⅴ

比は質を持つ定量

 一〇六節 比の両項はまだ直接的な定量であって、質的規定と量的規定とはまだ互に外的である。しかし量的なものがそれ自身外在性のうちにありながらも自己関係であるという、あるいは、向自有と規定性への無関心とが合一されているという、それらの真理からすれば、比は限度(Mass)である。

 前回、比は真無限だといいましたが、それは同時に量と質の統一なのです。量と質の統一とはどういうことかというと、比の値がいわば質的規定に相当し、比の両項は量的規定に値します。そういう意味で比というのは量と質の統一です。しかし量と質の統一はまだ「外的」だといっているのです。外的とはどういうことかというと、比は比、両項は両項として、質と量とは相互に区別されるものとしてあるわけです。それぞれが相対的に自立したものとして存在していることを外的といっています。量と質との統一が真に実現されるのは限度においてなのです。量と質との統一の真理とは、量と質のそれぞれが一つのものの中に存在しているだけではなくて、量と質がいわば同一の関係として定立されていることであり、それが限度です。「量的なものがそれ自身外在性のうちにありながらも自己関係である」とは、量が量として外から規定される性格をもちながらも同時に自らを規定すること、すなわち量と質の統一ということです。限度においては「向自有と規定性への無関心とが合一されている」のです。比においては量と質との統一はまだ直接的なものにすぎないのですが、限度において量と質の統一は文字通り量と質の同一にまで至るのです。
 限度という言葉はわかりにくい言葉ですが「質的な意味を持つ定量」「一定の限界を超えると質的変化が必然、」となるようなものとして理解された定量」を意味します。言いかえれば、限度とは、量と質とが一体、同一となった質と量の統一といえましょう。

比から限度へ

 一〇六節補遺 量は、これまでみてきたような諸モメントを通過する弁証法的運動によって、質への復帰であることを証示した。われわれは、最初、量の概念として揚棄された質を、すなわち有と同一でなく、有に無関係な、単に外的な規定性を持っていた。すでに述べたように、数学で普通行われる量の定義、すなわち増減しうるものという定義の根柢にあるのも、やはりこの概念である。この定義によるとまず、量とは、可変性一般にすぎないかのようにみえる(なぜなら、増減とはまさに大きさの規定を変えることにほかならないから)。しかしそれでは定量は、同じく概念上変化すべきものである定有と異るところがないから、この定義の内容は、量とは変化にもかかわらずあくまで同一であるような可変的なものである、という風にしてはじめて完全になる。これによって量の概念は自己のうちに矛盾を含んでいることがわかる。この矛盾が量の弁証法をなしているのである。

 もともと量は質の捨象されたものとして出発しましたが、だんだん量が展開されてくるなかで、量のなかにおける質がでてくるわけで、それが比です。比の両項は変化するけれども比の値(質)は変わらないわけですから、比という「質を回復した量」においては「量とは変化にもかかわらずあくまで同一であるような可変的なものである」ということになります。したがって展開されてくると変化の中でも自己に同一であるような可変的なもの、そういう矛盾を含んでいるのが量なんだといって、量の真なるものというのは量と質を統一した限度に移行していくのです。自己同一性のなかにおける変化とは、変化は量、自己同一性は質をもったものですから、量と質の統一です。比とはそういうものであり、真無限であり、比の値という質をもった無限に変化する量なのです。またその真理は限度だということを次で述べています。

 ところでこの弁証法の結果は、質は真なるものであるが、量はそうでないというような、単なる質への復帰ではなくて、これら両者の真理および統一であるもの、すなわち限度である。── ここで注意しておくが、われわれが対象の世界の考察に際して、量的規定を問題としている場合、われわれが実際にその目標として念頭においているのは、常に限度である。このことはドイツ語においても、量的規定および比を確定することをMessen(測定)と言うことによって暗示されている。例えばわれわれが振動状態におかれている様々の絃の長さを測る場合、それは、長さの相違と、振動によってひき起された音の質的相違との対応という見地のもとになされるのである。

 われわれが量を問題にしているときには、常に限度を問題にしているんだということをいっています。変化をしても質に影響を与えないような量を問題にすることはないわけであって、質に影響を与えるような量とは一体何なのかといえば、それが限度というものなんだということです。
 ここで例が出ているのは、振動状態におかれている弦の長さを測る場合ですが、ギターの弦をみればわかるように、弦を左手で押さえるところ(勘所)をどこにおくかが問題なのです。弦のどの長さにおいて音の質が変わるかということが問題なのです。つまり、ギターの弦の長さ(量)を問題にするときは常に限度(音の質)が問題になっているのです。同様に化合する場合でも、ある物質とある物質を混ぜ合わせて一つの物質を作る場合に、その割合を何対何で混ぜ合わせればよいのかが問題となります。テレビの料理教室でも、味つけという質を問題にするとき、醤油小さじ一杯、砂糖小さじ三杯とかの量を問題にしています。われわれが量をいっているときには、単に量一般でなく、まさに質に影響をするような量、限度を問題にしているのです。

C 限度(Das Mass)

 すべてのものには限度があります、つまり一定の質には一定の量が対応しています。すべてのものは一定の量をもつ質としてあるわけです。だから、客観世界に存在するものはすべて限度をもっています。その限度を分析すると、質と量とに分かれるわけで、その分析した結果を逆にたどって有論の有から出発して、質、量をへて限度にきたわけです。存在論としては逆になっていますが、認識論としてはこの順序で正しいのです。実際に存在するもの、物質の存在形態からすれば、すべては限度を持ったものとして存在しているのです。

限度は質的定量

 一〇七節 限度(Mass)とは質的な定量である。それはまず直接的なものとしては、定有あるいは質がそれに結びつけられているような定量である。

 定有するいっさいのものは、一定の量をもつということです。限度とは、質的な定量、ある質がもっている一定の量です。しかし、限度もまず「直接的なもの」、つまり最初の形態としては、質と結びついた定量であり、これが展開していくと単なる結びつきからやがて質と量の同一にまで至るのです。それがいわゆる度量の結節点といわれるところで、そこで漸次性が中断して飛躍が始まるのです。

限度は完成された有

 一〇七節補遺 限度は質と量との統一であるから、同時に完成された有である。有は最初全く抽象的で没規定なものとしてあらわれる。しかし有はその本質のうちに、自分自身を規定するということを含んでおり、限度においてその完全な規定性に達するのである。限度は絶対者の定義の一つとみることができ、したがって神は万物の限度であると言われている。多くの古代ヘブライの讃美歌の基調をなしているのもこうした観念である。そこにみられる神の讃美は、神はあらゆるものに、すなわち海と陸、山と川、その他さまざまの植物や動物に、その限界を定めたものであるということを主として述べたものである。── ギリシャ人の宗教的意識においては、限度の神格化は、特に倫理に関して、ネメシス(nemesis = 本来適当な分配の意)と考えられている。こうした考えのうちには、一般的に言って、富、名誉、権力、喜び、苦しみ、等々、すべて人間的なものには一定の限度があって、それを越えると破滅するということが含まれている。

 限度は質と量の統一であり、完成された有です。なぜ完成された有かというと、有というのは、客観世界に存在する個物を考えているわけですから、本来、すべて質と量の統一として存在しています。すべてのものは限度をもち、量だけ、質だけというものはありません。質と量を統一したものとしてすべてのものはあるから、質と量の統一としての限度が有の完成された姿なのです。富、名誉、権力、喜び、苦しみなどすべて人間的なものにも一定の限度があって、その限度をこえると、人間は破滅するというのは、なかなかおもしろいところです。
 もっとも資本の蓄積には限度はありません。蓄積された資本はまた前の資本と同一化してしまうわけで、そこに資本のあくなき利潤追求性があるわけです。しかし、一個人としてみると、少なすぎる財産は人間の尊厳を奪い、多すぎる財産も人間性を喪失させます「野つぼと金はたまるほど汚い」といわれるゆえんです。

  ── さらに客観的な世界に見出される限度について言えば、まず自然には、限度がその本質的な内容をなしているような存在が見出される。太陽系はその著しい場合であって、われわれはこれを一般的に自由な限度の世界と見なければならない。次に無機的自然の考察へ進むと、そこでは限度は言わば背後へしりぞいている。というのは、ここでは現存している質的な諸規定と量的な諸規定とが、多くの場合互に無関係であるからである。例えば岩や川の質は一定の大きさに結びついてはいない。しかし立入って考えてみると、右に述べたような事物も、全く限度を持たないものではない。というのは、川の水や岩石の個々の成分は、化学的に検査してみると、それらが含んでいる諸素材の量的関係によって制約されている質であることがわかるからである。有機的自然においては、限度は再びもっと直接に目につくようにあらわれてくる。動植物の様々な種類は、全体においても、個々の部分においても、一定の限度を持っている。その場合注意すべきことは、より不完全な、したがって無機的自然により近い有機体は、高級の有機体ほどその限度が規定されていないという事情である。

 客観世界ではすべて限度が本質的な内容をなしていますが、そのなかにあって無機的自然では限度はあまり重要でないけれども、有機的自然、さらにはより高度な有機体になるほど限度というものがより重要な意味をもってくる、とあります。太陽系でも限度はその本質的な内容となりますが、ついこの間、太陽系は二倍の大きさであることが発見されました。太陽系にも限度はあるのでしょうが、まだ認識が完全に限度にまで至っていなかったのでしょう。さらに高精度の天体観測ができるようになれば、新たな展開があるかもしれません。
 無機的自然から有機的自然へ、有機的自然でもより高級な有機体へいくほど、限界が前面に出てくるといってよいのかどうか、よくわかりません。

量から質への移行

 一〇八節 限度において質と量とが直接的な統一のうちにのみあるかぎり、それらの相違は同じく直接的な仕方であらわれる。このかぎりにおいて特殊的定量(das spezificshe Quantum)は一方単なる定量であり、したがって限度(これらはこのかぎりにおいて尺度 Regel である)を廃棄することなしに定有は増減されうる。しかし他方定量の変化はまた質の変化でもある。

 もともと量とは質でないものですから、量と質とは違うものです。一般的には質と量とはそもそも関係ない存在としてあるわけです。だから、少々量が変わってもその質には何の影響もないのであり、それが量の漸次的変化です。紐の太さ(量)が少々変化しても、紐という質には影響しないのです。
 「しかし他方定量の変化は質の変化でもある」、これがいわゆる漸次性の中断といわれるものであり、飛躍です。定量の変化が一定の段階までくると、質の変化と直接に結びつき、量の変化イコール質の変化という、量と質の同一という状態になるわけです。これが量から質への飛躍です。

漸次性の中断・飛躍

 一〇八節補遺 限度のうちに存在する質と量との同一は、最初は単に即自的であって、まだ定立されていない。そのためにその統一が限度をなす二つの規定は、それぞれ独立性をも持っている。すなわち、一方では定有の量的諸規定は、その質へ影響を与えることなしに変化されうるとともに、他方ではこうした無関係な増減にはその限界があって、それを越えると質が変化される。例えば水の温度はまずその液体的流動性に対して無関係であるが、しかしこの液状の水の温度の増減が或る点に達すると、この凝集状態は質的に変化し、水は一方では水蒸気に、他方では氷に変る。一般に量的変化が起る場合、それは最初それ以上の意味を少しも持たないようにみえる。しかしその背後には別なものがひそんでいるのであって、一見何でもなく見える量の変化は、質的なものを捕らえる言わば狡智である。

 「狡智」とは悪賢い知恵のことで、イソップ物語にでてくるキツネの知恵のようなものです。「量の変化は質的なものを捕らえる狡智である」というのは、なかなかうまい表現です。
 弁証法に三つの基本法則があるといわれていまして、そのうちの一つが量から質への転化、またその逆の転化の法則です。この法則は、ここの文章を取り上げて定式化したものです。エンゲルスは『自然の弁証法』のなかの「弁証法」で次のようにまとめています。
 「量から質への転化とその逆の転化の法則。上述のわれわれの目的からすれば、この法則は次のように表現することができる。すなわち、自然の中では、各個の場合ごとにそれぞれ厳密に確定しているある仕方で、質的な変化はただ物質または運動(いわゆるエネルギー)の量的な加減によってのみ起こりうる、と。」(全集⑳三八〇ページ)。
 エンゲルスはこのなかで「質的な変化はただ物質または運動の量的な加減によってのみ起こりうる」と書いています。しかし、質的な変化は、量的な変化によってしか起こりえないのでしょうか。そうではなくて、質的な変化をもたらすような「他の」質との相互作用によって起こるというのが、本来の質的変化の姿だと思います。質は本来、量とは全然別のものであり、質は質であり、量は量なのです。だから一般的には質は他の質によって変わるのですが、しかし「限度」においては質は量によっても変わるんだというのが正しい表現ではないかと思うのです。だから、量とともに質を追及する必要があるのです。
 補遺の最初に「その統一が限度をなす二つの規定はそれぞれ独立性をも持っている」とありますが、質は質として変化する、量は量として変化するということだと思います。今まで有論のなかで質の変化、例えば、或るものから他のものへの変化をみてきました。第九二節ではこう述べています。「或るものはその質によって第一に有限であり、第二に可変的であって、或るものの有には有限性と可変性とが属する」。つまり或るもの、或る質をもったものは有限な存在なのです。有限な存在とは何かといえば、或るもの(或る質を持つもの)が他のもの(他の質を持つもの)に変わりうる可能性をもったものです。すべてのものは運動・変化・発展します。一体何が変わるのかといえば、まず第一に質が変わります。一つの質をもったものは、他の質をもったものとの関わりにおいて存在しているがゆえに、必ず他の質をもったものに変わっていくのです。こうして或るものは、他のものに移行するのです。質をもったものは、有限な質として、必ず別の質に変化する、ということを、この有論で述べているわけで、それは正しいと思うのです。
 だからヘーゲルは「或るものの有には有限性と可変性とが属する」といいます。質をもっているものは、量と無関係に、質それ自身の有限性によって他のものに変化する、そういう側面をもっているのです。だからエンゲルスのいう「質的な変化は量的変化によってのみ起こりうる」というのは、言いすぎではなかろうかと思います。

限度の無限進行

 一〇九節 限度のないもの(das Masslose)とはまず、限度がその量的本性によってその質的規定性を越えたものである。しかし最初のものの限度こそ欠いていても、第二の量的関係はやはり質的であるから、限度のないものも同じく一つの限度である。こうした二つの移行、すなわち質から定量への、および再び定量から質への移行は、無限進行、すなわち限度のないもののうちでの限度の否定および回復として表象することができる。

 限度を超えたらどうなるのかというと、別の質になるだけの話であって、或るものと他のものとの関係と同じです。或るものと他のものとの関係を、今度は限度から限度へとどこまでも進む無限進行としてみているのです。だから一定の限度を超えると、特定の質が否定されるわけであって、特定の質が否定されるとまたすぐ他の質があらわれるのです。一〇九節補遺で「交点を結ぶ線」と「交点を結ぶ点」という言葉ができてきますが、「交点を結ぶ点」とは「度量の結節点」のことです。、

有論から本質論へ

 一一〇節 ここで実際に起こっていることは、限度そのものがなお持っている直接性が揚棄されるということである。限度においては最初質と量とが直性的なものとして存在し、限度は両者の相関的同一性にすぎない。限度は自己を揚棄して限度のないものとなる。しかし、限度のないものは限度の否定ではあるけれども、それ自身やはり質と量との統一であるから、限度のないもののうちで限度は同時にただ自分自身に出あうのである。

 限度が限度を超えて限度のないものに移行するとは、真無限の限度に移行するということです。質はその無限進行をつうじて真無限である向自有に到達し、量はその無限進行をつうじて真無限である比に達する、限度はその無限進行をつうじて真無限である「本質」へ到達するといっているのです。限度は完成された有として有論の最後に位置するものですから、その限度を超えたら真無限としての本質という一段高いカテゴリーに移行せざるを得ないといっているのです。
「直接性が揚棄される」とありますが、ここまでは有論として、存在する或るものをみてきたのですが、限度が揚棄されると、有論のように或るものを直接的な存在としてみるのではなくて、媒介された関係としてみるようになってきます。いわば本質と現象という媒介された関係においてみる、それを「直接性の揚棄」という言葉で言いあらわしているのです。「限度のないもの」、言いかえれば、限度の真無限としての、真にあるべき姿としての本質が、有論の有のあるべき真の姿である、ということです。

有論の総括

 一一一節 今や無限なもの、否定の否定としての肯定は、その二つの側面として、有と無、或るものと他のもの、等々のような抽象的な側面ではなく、質と量とを持つにいたった。この二つの側面は(イ)まず質が、量へ(九八節)、次に量が質へ(一〇五節)移行することによって相互に移行しあい、かくして否定的なものであることを示した。(ロ)しかし両者の統一、すなわち限度のうちで、両者はまず異ったものであり、各々は互を介してのみ存在している。しかし(ハ)この統一の直接性が自己を揚棄するものであることが明かになったからには、この統一は今や、それが即自的にあるところのものとして定立されている。すなわち、有一般および有の諸形態を自己のうちに揚棄されたものとして含んでいる。単純な自己関係として定立されている。── 自分自身を否定することによって自分自身へ媒介され、自分自身へ関係する有、あるいは直接性、したがって自己を揚棄して自己関係、直接性となる媒介── これが本質(Wesen)である。

 いよいよ有論から本質論になるわけです。限度を越えてしまうと、もう有を越えるわけですから、どこに行くのかというと、或るものをそのまま表面的に、直接的にとらえる認識を乗り越えなければならないのであって、より深い認識が本質論である、大まかにいうとそういうことです。
 詳しくみてみましょう。最初の「無限なもの」とは限度を止揚したもの、つまり本質のことです。本質というものも有論とは違った形で質と量をもっているのであり、それをさかのぼって考えてみようというのです。
 (イ)「まず質が量へ」移行する。これは九八節の向自有のことです。向自有において「一と多」がでてきて質から量へ移行します。「つぎに量が質へ移行する」。これは第一〇五節の比のことです。これまで量は質を捨象したものといってきたが、比においては、量のなかに質があらわれる。だからこれは量の質への移行だといって、量と質を対立物の相互浸透ととらえるのです。
 (ロ)しかし、限度において質と量とは「お互いを介してのみ存在し」ている。つまり限度において質と量とは対立物の相互浸透の結果、対立物が一体となってしまう。量の変化が質の変化に、質の変化が量の変化になってしまう。
 (ハ)「その統一の直接性が自己を揚棄する」。量と質の同一である限度は、真無限として限度のないものになります。つまり限度のもつ直接性を揚棄するのです。「この統一は今や、それが即自的にあるところのものとして定立されている」。量と質の統一は本来的にあるものとして定立されている。この場合の「即自的」とは本来的という意味です。この量と質を統一したものが限度を越えることによって、有が本来あるべき姿として、限度(有)の内部に定立される。「即自的にあるところのもの」とは何かといえば、本質なのです。「有一般および有の諸形態を自己のうちに揚棄されたものとして含んでいる」というのは、有そのものを乗りこえると、その内部にというかその奥に、変わらないものがあり、それが本質である。「単純な自己関係として定立されている」というのは、本質は変わらない自己同一性を保つものとして定立されているということです。有は揚棄されることによって、本質として定立されます。「自分自身を否定することによって自分自身へ媒介され、自分自身へ関係する有」とは、自分自身の表面的な姿を否定して、自分自身との関係における自分の本当の姿にたどりつくのであり、それが本質なのです。
 ヘーゲルは質と量という対立物の相互浸透、対立物の同一をつうじて有の変化をみてきました。その変化における真無限は何なのか、変化における自己同一性を貫くものは何なのか、変化のなかにおいても変わらないものは何なのか。それが本質だというのです。

本質は、関係である

 一一一節補遺 限度の過程は、質から量および量から質への反復的な転化という形を持った、果しない進行の悪無限であるにとどまらず、同時にその他者のうちで自己に出あうという真の無限である。質と量は限度のうちでまず或るものと他のものとして対峠している。しかしながら質は即自的に量であり、同じく逆に量は即自的に質である。したがってこの両者が限度の過程のうちで互に移行しあうとき、これら二つの規定の各々は、それが、即自的にすでにそうであるところのものへ移行するにすぎない。かくしてわれわれは、その諸規定を否定された有、一般的に言って揚棄された有をうる。これが本質である。限度は即自的にはすでに本質であったのであって、限度の過程はただ、限度が即自的にあるところのものとして自己を定立することにあるのである。

 有論の「限度」において、有はたえざる変化をしていくなかで、変化しない自己同一を貫く真の無限(本質)にであいます。当初は限度において質と量とが統一したものとしてあります。しかしこれは相互に移行する無限進行となります。量と質との相互移行の無限進行のなかで真無限としての本来あるべき姿に到達するのです。それは「その諸規定を否定された有、一般的に言って揚棄された有」であり、これが本質です。量と質が相互に移行しあうなかで、有は有自身を揚棄して本質に至る、簡単に言えばそういうことです。この辺は多少いつものカテゴリーの移行に伴う無理なこじつけもあることですから、この程度に理解しておけばよいと思います。次が非常に大事なところです。

  ── 普通の意識は事物を有と考え、それを質、量、および限度の点から考察する。しかしこれら直接的な諸規定は、その実不変なものではなくて、移行するものであり、そして本質がそれらの弁証法の成果である。本質においてはもはや移行は起らず、ただ関係があるにすぎない。関係という形式は、有においてはわれわれの反省にすぎなかった。本質においては、これに反して、関係は本質そのものの規定である。有の領域においては、或るものが他のものとなれば、或るものは消失してしまう。本質の領域においてはそうでない。ここには真の他者はなく、差別、すなわち、或るもののその他者への関係があるにすぎない。

 いかにして有から本質へ移行するのかということを述べています。有というものは、有為転変の世界であり、不断に移り変わっていくものです。しかし不断に移り変わるもののなかに変わらないものがある、それが本質だというのです。
 「本質においてはもはや移行は起らず、ただ関係があるにすぎない」とは、有においては、或るものから他のものへ、量から質へ、あるいは質から量へという移行があったのですが、本質においてはもう移行はないのです。或るものは或るものとしてとどまっているのです。本質論というのは、有の内部における有と本質の関係をみています。だから「本質においては」「ただ関係があるにすぎない」のですが、しかし「関係という形式は、有においてはわれわれの反省にすぎなかった」のです。われわれは有のなかにおいても或るものと他のものの関係、即自有と向他有の関係、量と質の関係、それらの相互移行の関係などをみてきました。しかし有論における関係は、哲学する「われわれ」だからこそ見抜くことができたのですが、本質論においては、まさに誰がみても関係そのもの、有と本質との関係そのものがあるのです。
 本質においては「真の他者はなく、差別、すなわち或るもののその他者への関係があるにすぎない」。本質の領域においては、有論における或るものと他のものとして論じた「他のもの」は出てこないのです。或るものの内部における有と本質の関係が問題となるだけです。この「差別」とあるのは、区別と訳すべきでしょう。有と本質との関係は、まず同一と区別との関係ですから「本質論」にはいると冒頭から同一と区別の問題が出てきます。つまり、本質というものは、有から区別されると同時に有と同一という関係なのです。したがって、有の変化の中における自己同一性を貫くものが本質だということになるわけです。だから、この「差別」は「区別」と訳さないと、何のことかわからなくなると思います。

 したがって本質の移行は、同時になんら移行ではない。というのは、異ったものが異ったものへ移行しても、異ったものは消失するのではなく、異った二つのものはあくまで関係しているからである。

 「異ったものが異ったものへ移行」とは、本質が有へ移行する、あるいは有が本質へ移行するということです。「異ったものは消失するのではなく」とは、本質が有へ移行しても本質はなくなるのではありません。有のなかに移行して本質は生きているのです。あるいは有が本質へ移行しても、有はなくなるわけではなくて、仮象に引き下げられるだけなのです「異った二つのものはあくまで関係しているからである」とは、有と本質の関係は。有論のように「移行」ではなく、同一と区別の「関係」としてあるということです。

  例えばわれわれがおよびと言えば、有はそれだけで存在し、同じく無もそれだけで存在してる。肯定的なもの否定的なものとの場合は全くちがう。この二つも有および無という規定を持ってはいる。しかし肯定的なものはそれだけでは何の意味も持たず、それはあくまで否定的なものに関係している。否定的なものも同じである。有の領域においては関係は即自的であるにすぎない。本質においてはこれに反して関係は定立されている。これが、一般的に言って、有の諸形態と本質の諸形態との区別である。有においてはすべてが直接的であり、本質においてはすべてが相関的である。

  有論において、有と無をみたときには、有は有だけで存在し無は無だけで存在しました。しかし本質論における「関係」するふたつのものをとりあえず、肯定的なものと否定的なものとよんでいるのですが、この両者は切りはなしては存在しえません。肯定的なものは否定的なものとの関係において初めて存在します。本質論においてはそういう相互前提関係、お互いに他のものを前提としあってはじめて自己が存在するという関係を議論するのです。本質を論ずるとは、そういう関係を論ずることです。この場合「肯定的なもの」とは同一性または本質「否定的なもの」とは区別または有のことを指しています。
 有論においても関係を論じはしますが、関係を抜きにして有論のカテゴリーを論じられないという問題ではありません。有論では、まだまだ関係というものは付随的、従属的なものとしてしか存在していません。ところが本質論においては関係がすべてなのです。そういう意味で「有においてはすべてが直接的であり、本質においてはすべてが相関的である」。或るものを或るものとして表面的にとらえるのが有論ですが、本質論においてはすべてのものをそのもの自身のなかで二重化してとらえるのです。二重化して物事をみることは「関係においてとらえる」ことであり、それによってそのものの本当の姿をみることができるのです。
 有論の後半は、少し急ぎすぎたかもしれませんが、以上をもって有論を終わります。

《質問と回答》

 まず一つは、度量の結節線と結節点との関係をどう考えるかという質問です。㊤三二九ページに出ています。
 訳者は「結節線」という言葉を、ヘーゲルは天文学から借りてきたと書いています。クーノ・フィッシャーの『ヘーゲルの論理学・自然哲学』(玉井茂ほか訳・勁草書房、六七ページ)にもそう書いていますが、どうでしょうか。
 というのもヘーゲルは度量の結節線でどういう例をあげているかというと、弦楽器の弦と化学的結合です。おそらく楽器の弦を念頭において結節線という言葉を使ったのだと思います。整数比に張った弦によって、協和音が得られる事実が、ピュタゴラスの発見とされることは、㊤三一九~三二〇ページに書いてあります。このように弦楽器の弦においては、協和音を構成する一連の整数比の系列によって、弦の長さ(量)と協和音(質)とが同一となるので、弦楽器の弦をイメージしつつ、ヘーゲルは結節線という用語を用いたのではないかと思われます。
 また化学的結合の場合ですが、ヘーゲルは『大論理学』で窒素と酸素の例をあげています。マルクスも『資本論』で、エンゲルスも『反デューリング論』で述べておりますが、化学の組成は量的な変化が質的変化をもたらします。例えばパラフィン系の一般式CnH2n+2において、n=1はメタン、n=2はエタン、n=3はプロパン、n=4はブタンです。このようにnがだんだんと増えていくと、整然とした同族列が生まれてくる。整数倍して重ねていくとその中で質の違った物質が次々と生まれてくる。こういうことを念頭においているのであって「結節線」を天文学から借りてきたというのは違うと思います。
 次に結節点とは何かというと、弦の場合でいうと協和音の出る点のことです。結節線上の結節点において、まさに質と量が同一になるのです。結節点で量的変化が質的変化をもたらすということになるわけです。われわれが度量というカテゴリーの中で、量から質への転化を論じるにあたって大事なことは、結節線ではなく結節点なのです。この点が大事なのです。点において量的変化は質的変化に転化することになるわけです。クーノ・フィッシャーのいう例は、量と質の同一が実現される例ではないように思えるので、結節点の例としては疑問です。
 それから量と質の弁証法に関連して「E=m c2(E=エネルギー、m=質量、c=光の速度)は、エネルギーと質量の関係を法則化したものですが、Eとmの相互転換をあらわしている。これは量から質への転化および質から量への転化ではないのか」という質問が出ました。
 質問者の問いは、左辺が量であり右辺が質だから、この法則は量から質への転化を示す例ではないかというものです。しかし左辺のエネルギーは、運動の量として「量」であり、右辺の質量は重さですからやはり「量」であるといえます。その意味では、左辺も右辺も量ですから、これをもって量から質への転化とはいえないと思います。しかしE=m c2という法則そのものは、一つの質を示すものといえます。したがってこの法則は量的関係を一つの質に置き換えたものであり、その意味において量を質に移行させた例ということはできるだろうと思います。
 それに関連して思いつくのは「エネルギー転化の法則」(またはエネルギー保存の法則)です。例えば、蒸気機関車は水蒸気というエネルギーをピストンの往復運動、力学的な位置の移動というエネルギーに転化するわけです。
 「だがそれならば運動あるいはいわゆるエネルギーなるものの形態変化はどうなのだろうか?われわれが熱を力学的運動に変化させ、またその逆のことをおこなうとき、そこでは質は変化をうけるが量は同じままなのではなかろうか?まったくそのとおりである。しかし運動の形態変化はハイネのいう罪悪のようなものだ、一人きりならだれでも道徳的でいられよう、罪悪にはいつでも二人が必要だ、と。運動の形態変化はいつでもすくなくとも二つの物体の間に起こる過程であって、二つの物体の一方がある質の運動(たとえば熱)の一定量を失い、他方が他の質の運動(力学的運動、電気、化学的分解)の相当量を受け取る。だからこの場合には量と質とは双方の側でたがいに対応しあっている」(『自然の弁証法』全集⑳三八〇ページ)。
 エネルギー転化の法則というものを、エンゲルスはどう考えているのかというと、質は変化を受けるが量は同じままであるとしています。エネルギーという量は変わらないが、熱という質から力学的運動という質に変わるという意味で、質から質への変化とみていますので、参考にしてください。量と質の関係は、もっと研究してみる必要があると思います。
 三つめの質問は「本質というものは、表面的なものと、そのもの自身という二重のものとして理解してよいのでしょうか。また、すべてのものは変化していきますが本質というのは変化しないのでしょうか」というものです。
 詳しくは次回からはじめる「本質論」で順次述べていくわけですが、本質というのは表面的なものとその背景に隠されているものと二重の関係でみるのです。もうひとつの質問も、その通りだと思います。本質と現象という言葉を使いますが、現象が移り変わっても本質は変わらないのです。しかし絶対に変わらないというのではなく、現象との対比において相対的に変わらないということにとどまるわけです。
 それから四つめの質問です。ゼノンにこだわる人がいまして、なかなかよい質問なので紹介しておきます。的に射た矢は届かないという命題にかんして「ゼノンは運動を否定したのでしょうか。しかし運動を否定したのではなく、運動は真理ではないということをいっているのではないでしょうか」というものです。
 それは全くその通りで、ゼノンは決して運動そのものを否定したのではありません。運動に真理性があるのかどうかを問題にしたのです。結論的には、運動は矛盾を含むから真なるものではない、と彼は言おうとしたのです。運動が実際に存在しないなどと考えたわけではもちろんありません。
 五番めの質問は「関係という形式は、有においてはわれわれの反省にすぎなかった。本質においては、これに反して、関係は本質そのものの規定である」(㊤三三一ページ)とあるが「われわれの反省にすぎなかった」、とはどういう意味かというものです。
 これもなかなかよいところに目をつけた質問です。ヘーゲル哲学のなかで「われわれにとって」という用語がありまして、ドイツ語でfür unsといいます。これをヘーゲルは「哲学者の目から物事を先取りしてみると」という独特の意味で使っています。有論における、或るものと他のものとの関係とか、量と質の関係とかは哲学者の目から分析的にみればなるほど関係としてとらえることができますが、しかし有論における「関係」は一見したのでは分からないような未発展の関係にすぎません。しかし本質においては、関係そのものが問題とされるのであり、誰にとっても明らかなものとして、関係という形式が本質論ではあらわれるということです。
本質論では、原因と結果、可能性と現実性、偶然性と必然性、部分と全体、内と外、等々の対になった関係のカテゴリーを議論します。そこでは、いやがおうでも関係というのは明確になってきます。だけれども有論においては必ずしもそうではなく、哲学者の目からみれば関係はみえても、俗人の目からみればその関係はみえてこないという意味で「われわれにとって」といっているのです。
 最後の質問です。「量的変化を起こすためには質的な契機、例えばある物質とある物質をかけて化学反応を起こさせるというのは、質から量への変化にならないのか」つまり化学的な変化、二つの物質を混ぜ合わせて新しい物質を作る。これは質から量への変化にならないのかというものです。
 例えば、水と亜硫酸ガスを混ぜたら亜硫酸となります(H2O+SO2 =H2SO3) 。これは質を変化させるために他の質的な要素を与えて質の変化をもたらすものであり、質から質への変化、一つの水という質から、亜硫酸という質への変化であって、しかもその質的変化をもたらすものが量ではなくて、他の質による働きかけによって生ずる変化です。質的変化をもたらすのは、量の変化によって質が変化する場合と、質独自の変化をもたらすような要因によって質が変化する場合とがあるといいましたが、この例は後者による場合の新しい質の誕生だと思うのです。これを量から質への変化というのは、あたらないのではないかと思います。

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